2014年8月13日水曜日

"100年ごはん"を観た (1)


日本には大変な事がたくさんあったんだなあ、という想いが、映画を観ている最中にふと心によぎった。

戦争で焼け野原になって、食べる物が無くなったこともあった。

映画の内容とは関係の無い、突然心によぎったこの慈しむような想いは、認可されている食品添加物の数がアメリカの3倍、イギリスの20倍という日本の国の現状にいつも私が抱く、蔑みや苛立ちや怒りや悲しみの入り交じったような感情とは、全く相反するものだった。

日本は食べる物さえ十分に得られないような過酷な時代を生き抜いてきて、そして食品に化学薬品や添加物を使ったり、農作物に農薬や人工的な作為を施すことによって、早く安く確実に、食べ物を普及することに成功したのだ。

安全で自然な作物を100年後の子供達に残せる様にと、大分県臼杵市が始めた土作りからの自然農業について描かれているこのドキュメンタリー映画が、私の心にまず芽吹かせてくれたのは、農薬や食品添加物だって、当初はこの臼杵の人々の貴い取り組みと同じ動機から生まれたのかもしれない、子供達を飢えさせないようにと、創意工夫した結果だったのかもしれないんだ、という、頭を垂れる様な感謝と崇敬の想いだった。

私は一体どうしてしまったのか。
オーガニック志向の私にとって、食品添加物や農薬を多用して私が気持ちよく食べられない物を増やす人々は、ただ忌々しい存在でしかなかったのに。

この映画で描かれている人々は、自分の信じる崇高な意思に、ただひたむきに従う人々だ。その姿が私に、いつの世でも、方向は違えど、人間という物は、良い物を作ろうとする生き物なのだというシンプルな、けれど美しい現実を、思い出させてくれたのである。

私は"100年ごはん"の中で、従来の、産業廃棄物を使った物ではない、安全で健康な熟成堆肥を黙々と作っているひとりの農夫の姿に胸を打たれながら、飢えた子供達の為に安定した食物の供給を行えるようにと、添加物や農薬や遺伝子組み換えを黙々と研究する人々の姿を重ねて見ていた。

そこにあるのは愛だけであり、もしかしたら人間は大抵の場合、そうした想いで様々な物を開発してきたのかもしれない。飢えさせない、凍えさせない、乾きさせない、苦しめない、という、他者への限りない愛とシンパシーを動機として。


映画"100年ごはん"は、自然農法への方向転換を静かに、そして力強く描き出しながら、そうでない物たちのことを、決して裁かない。
ただ、もう日本には、食べ物を廃棄する国世界一になってしまったくらい豊富に食べ物があるんだから、今度はそろそろ、その質を高める方向に舵を切ろうよ、と言っているだけなのだ。

成長は、子供たちの仕事。大人がやるのは、成熟へ向かうことだよ。という言い方で。

高度成長期に、飢えない日本を作ってきたその叡智を、今度は成熟へ、本当に質の高い、本質的な物を生み出す方向へと、舵を切る時期が来たんだよ、と。

やりきれないような事の続いた時代に、ただただみんなが生き残れる様に必死に頑張ってきた日本だけど、今度はゆっくりと周りを見回して、自然の恵みを、見直してみようよと。
コントロールではなく調和することで、もしかしたらより多くの恵みを、自然界は提供してくれるのかもしれないという可能性を、もう一度信頼してみようよ、と。


日本は戦争という、大きな傷を抱えて生きて来た国です。

食べ物が無い、という事を一度でも経験すれば、恐ろしくてがむしゃらになるのは自然の事だ。
自分が、自分の子供が、友達が、親が、兄弟が、他人が、飢えて死ぬのなんてもう見たくない。

だから自然界を信頼し、身を預け、ゆったりとそれと調和して生きることなんて、とても怖くて出来なかったかもしれない。
今までは。

だけど今、ようやく私たちは、固く握っていた舵の手を緩め、風と波の導きに身を委ねる強さを取り戻し始めたのではないだろうか。

雑草や害虫が、実は私たちを脅かす敵なのではなく、役目を持ってこの地球に生まれ、糧を得ようとする私たちの支えになってくれる存在なのかもしれないという可能性に、心を開く強さを。


この映画の中で、その繁殖力の強さから、雑草として駆除される対象となっているナズナが、実は豊富なカリウムを含有し、土壌にカリウムを提供してくれている、というくだりと共に紹介される、ナズナの花言葉を聞いた時、私は泣いてしまいました。

「すべてを捧げます」


いつも何も語らずに、地球に住む生物たちに、滋養や薬効や美しさを提供してくれている植物の声を、聞いた様な気がしたからです。

私たちはそろそろ本当に、自分を取り巻く世界が、いつも無条件の愛と献身を提供し続けてくれているのだという事に、気が付く時期に来ているのかもしれません。

この映画を作られた大林千茱萸監督ご自身が、その事に優しく深く気付いているからこそ、この映画はこんなにも、まるで熟成堆肥にように、観る者の心に愛を呼び覚まし、栄養と勇気をくれるのかもしれません。


この映画にまつわる想いと上映会などへの感想は、しばらくこのブログで続けて書かせていただきます。
何故なら、この映画と今日千茱萸さんが語られていたお話は、殆ど15年くらい前に、私が某誌で連載していた、ネオ・マクロビオティックのレシピを紹介する為の創作童話の内容と、大変共通しているところがあるからです。

その童話も、こちらに全文掲載する予定です。

2014年8月7日木曜日

夢の食卓


先月フジテレビBSで放映された"夢の食卓〜大林宣彦編"。

大林宣彦監督に一週間密着して撮影されたというこの番組ですが、監督の愛娘千茱萸さんの手料理がふんだんにふるまわれた大林家でのディナー会の席での撮影に、光栄にもご招待いただき、行って来ました。

当日は6時間以上もカメラが回っていたし、それ以外に一週間も密着したフィルムがあるし、それを30分番組にまとめるわけですから、このディナー会の模様がどれだけオンエアされるかわからなかったのですけれど、大事なお料理が二品しか紹介されなかったと聞いたので(うちにはテレビが無いので観られんかった涙)、このブログでアップしますぞ。

撮影の直後にアップしたブログでも書きましたが、千茱萸さんのお料理は天下一品、このディナー会の後しばらく体が軽くて元気いっぱい!を体験したというお土産付きでしたからね。どうぞ皆様、ちぐみさんの手料理と、監督の故郷尾道から届いた練り物などの写真をご堪能下さい。

変わり種ちらし寿司

ところでこのディナー会、お食事も最高だったのですが、このテーブルでおしゃべりしたことが、もう本当に、ずうっと心に残っているくらい、素敵だったのです。

一番心に残っているのが、ガウディのサグラダ・ファミリアの話。

やはりディナーの席にご一緒していた女優の常盤貴子さんが、最近のサグラダ・ファミリアについての、ちょっと寂しい現実を話し始めたのがきっかけでした。日本人の建築監督が引き継いでから、工事のスピードが速まり、完成のメドが立ってしまったということ。

完成のメドが立つのはいいことじゃないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし私は、そうは思わない派でしたので、この時の会話は大変感慨深く、心に残っているのです。

完成してゆくサグラダ・ファミリアについて違和感と寂しさを拭えない常磐さんと、それについてちぐみさんのパートナーで漫画家の森泉さんが、あれは神様の建築だから、完成するべきではないのだ、と仰ったのです。

尾道の蒲鉾各種
私もまさに同感でした。

ガウディのサグラダ・ファミリア、あれはもはや、樹木や岩に相当する創造物だと私は思います。自然界の物が未来永劫形を納めない様に、あの教会もそうであるべきだ、いや、そういうものなのだと、思っていました。

そしてだからこそ、聖なる家なのです。



テレビの収録という現場で、度々会ったことはあるけれど、今まであんまり深く話し込んだ事の無いメンバーが(テレビ・クルーの方達も含めて!)そんなことを思い切り、心から語り合える場所、それがあの、ディナーの席でした。

お互いが静かに自分の本当の思いの丈を心から語り、誰もがそれに深く耳を傾ける、そんな時間だったんです。
美味しいお食事をいただけたのもとてもラッキーだったけれど、あんな時間をしみじみ持てた事は本当に幸運で、人生の宝と言ってもいい、そんな体験でした。


香草のたっぷり効いた羊のロースト
含蓄の深い話に感動しながら耳を傾けている時に、突然ふいをついて襲いかかる、大林監督による必殺駄洒落乱れ打ちも、スリル満点でアミューズメント感いっぱいでしたしね。。。


とは言うものの、大林監督の深く大きな優しさを心底感じる場でもあり、色々な意味で心に残る、美しい時間、まさに夢の食卓だったなあと感じています。



ところでこうしてお料理の写真を列挙してみて気付いたのですが、あたしったら、全部撮ってないじゃない!!!!! 

アボカドのコールスローや、キウイとブルーチーズのホットサンドの写真が無いじゃない!!

がーん。。。。


というわけで、お料理の写真はここで終わりです。

お料理好きのちぐみさん、変わったおもしろい食器を沢山お持ちで、それもとても楽しかったです。言葉で説明するのは難しいのでしませんが、な、なんというか、こんな物が世の中にあったの的な、珍妙な、またはおしゃれな、そして素晴らしく実用的な、そんな食器でした。

た、例えば、見えるかなー、このテーブルの上のワイングラス。。。



シンクの周りにあったこれらも楽しかったですけどね。


ちぐみさん、大林監督、本当に素晴らしい時間を、ありがとうございました!!!