2014年11月28日金曜日

感謝祭の思い出


昨日は感謝祭だった。

私は七面鳥好きなので、このイベントは特に好きだが、今年は残念ながら日本にいたので、アメリカの感謝祭ランチには参加出来ず、友人らが送って来るディナーやランチの写真を楽しむだけだった。
そういう参加の仕方が楽しいかどうかは、今一疑問だったのですが。

勿論、食べる為だけの祭りじゃない、とか色々ありますが、感謝祭はやはり、最も料理に焦点が当たるイベントだと思います。なんたって、収穫に感謝する祭りなのですから!

私自身は感謝祭の料理をメインでホストしたことは無いのですが、色んな友人宅で色んなターキーを味わいました。

レシピの基本は決まっているのに、実に様々なタイプに別れるのは、日本で言えば味噌汁のような物なのかもしれません。
オレのおふくろのターキーの味、なんてのが、アメリカにはあるかもしれません。

ターキーには様々な詰め物を入れます。
まずこれに、バラエティーがあるのです。
これが美味しいかどうかが、命綱とも言えます。
過去の私の経験では、五勝五敗といったところでしょうか。

パンに味付けしてぐずぐずにしてみたり、クスクスを入れてみたり、米や野菜料理を詰めたりします。
アメリカ人は総じて香辛料の使い方が上手なので、うまく仕上がるととても豊かな味わいの、今風の美味しい物が出来上がりますが、以前、私の親エイジの方がホストされるパーティーで出された物は、全く香辛料を使っていない塩味だけのオーソドックスな優しい味で、もしかしたらアメリカにも保守的派と革新派の調理というものがあって、世代や育った環境で違いが出るものなのかなと興味深かった記憶があります。

これは結婚などに割と大きく影響を及ぼす部分だと私などは感じます。
そんなことを言っているからまだ独身なんだろうとも思いますが、むむむ、まさしくそうかも、とも思います。
私個人はやはり、ハーブや香辛料をバランス良くふんだんに使った物が好きなので、夫にはそういう物を創って欲しいわけです。(お前が作るんじゃないのかよ!と自分で突っ込む)

ターキー自体も様々な焼き上がりがあります。
私が好きなのは、ローストする前にたっぷりとガーリックを塗っておくやり方。
ローズマリーまで散らしてしまうと、なんとなーく、なんとなくではありますが、ちょっと感謝祭の七面鳥じゃなくなってしまうような、お前それ、ぶっ飛び過ぎだよ、と言いたくなる様な気がします。先の記述とは矛盾しますが。。

普段のお肉料理にハーブを用いるのは大好きなのですが、なんとなく、感謝祭の七面鳥にハーブで風味をつけるのは違うような気がします。
初めて食べた感謝祭のターキーがガーリック塗りタイプだったので、最早ソウルフードになっているのかもしれません。

ガーリックを塗らずにただ焼いてグレービーで食べる、という調理法をやる人がいるんですが、私はあまりグレービーが好きではないので、これも違うんだよね。
ガーリックと程よい塩味、それにフルーツ系ソースと詰め物の味がミックス、が理想的です。

また、一度野生のターキーを狩って来た友人のターキー・パーティーに招かれたことがあるのですが、私に切り分けられた部分は大変柔らかくてジューシーで美味しかったのですが、狩った本人の皿に乗ったお肉は、固くて歯が立たないくらいだったそうです。
これはある種の鳥的リベンジかもしれません。

それにしても、でかいターキーのロースト、詰め物とソース、カボチャのパイ、コーンブレッド、マッシュポテトなどが揃うとそれだけでワクワクします。


ところで昨日、ひとりの友人がこの写真を送ってくれました。


彼女はターキーではなく、コーニッシュ・ゲーム・ヘンという、小さな鶏の一種を感謝祭に用意したんだそうです。これはよくお肉屋さんで、ピッチピチのタイツ履いてるみたいな姿で売られています。タイツじゃなくて、真空パックのパッケージなんですが、どうも見る度に感じるのが、ピッチピチだなという。。

ところで感謝祭に七面鳥を食べ終わった後は、ウィッシュ・ボーンで遊ぶ、ということをやります。
七面鳥の中にはV字型の小さな骨があるんですが、これを二人の人が一個ずつ持って交差させて引っぱり、どちらの骨が壊れてしまうかで、どちらの願いが叶うかを占うような遊びで、シンプルだけど結構盛り上がります。


時々、アメリカの料理はワンディッシュが巨大でみんな大食いだ、と言うのを聞くことがあるのですが、私の長いアメリカ経験から言えば、出される料理はたっぷりだけど、殆どの人は完食はしないということです。

殆どの人は出された料理の半分ほど、あるいはほんのちょこっとを食べるだけで、残りは持ち帰ったり暖め直して何日も食べたりします。

この感謝祭の七面鳥も、私は今まで食べ尽くされた状態を見たことが無く、大体次の日以降三日間くらいの間に、ポット・ローストやシチューやスープなどに変化して出て来たりするのです。

私がアメリカで学んだ食への姿勢は、自分の食生活をかなりヘルシーなものに変えてくれました。これは単に、最新栄養学やそれに基づく新しい食事法が、食品系大企業とのしがらみ無く次々に進化し維新されるアメリカのヘルシー志向ばかりが原因なのではなく、食べ物を、賞味期限の数字や冷蔵庫に保存することだけに頼るんじゃなくて、体感で捉えて食べられるかどうかを決めるなど、自分の五感を信じるつき合い方が浸透していることに影響される部分が大きいのです。

有機物である食べ物を、同じ有機体である自分の体が捉え、どう感じるか、というつき合い方は、とても地に足がついていて、なんとなく食材とのハーモニックな繫がりを感じたりする体験です。

おばあちゃんが実際に手で触って食材を調べ、腐っていて食べられないのか熟成しているだけでとても美味しくなっているのかを判断するみたいな、多分昔の日本にもあったんじゃないかなと思えるような、有機的な食べ物との付き合いを、典型的な核家族の近代ジャパンで育った私は、アメリカで学びました。

単に、食べ物には実はそんなに冷蔵庫が必要じゃない事を知った、それひとつだけでも私にとっては大きくて、機械や防腐剤などの無かった大昔の人たちのやっていた食べ物とのつき合い方を、現在でもちゃんと行えるのだと知ったことが、とても大きかったのです。

トラウマ的ぬいぐるみ



今日は感謝祭なので、アメリカの友達からお祝いのメールが沢山届く。

秋に卒業したコロラドの学校のクラスメイトからも。
その中に、感謝祭の買い物に行ったスーパーで売っていたという、ぬいぐるみの写真が添付されているものがありました。

まああれですよ、大体何かを専門的に学んでる人間達というものは、仲間内でそれを笑いの種にするもんですよ。
コロラドの学校も、例外ではありませんでした。

そんで、このぬいぐるみですが。
クラスメイトが言うには、偶然にも"キャラクター・パターン”の姿で並んでいると(笑)。

キャラクター・パターンというのは、いわば人間が抱えている心理的外傷のパターンとも言えるものなんですが、それには五つの異なる基本パターンがあるんですね。

何故五つに異なるのかと言うと、うちの学校で主に扱っている心理的外傷は、大人になってからのものではなく、生後三年の間に起こる、脳の成長期にまつわるものなんです。

人間の脳は、その80%が生後三年の間に形成されると言われているのですが、その成長の過程は、脳幹と呼ばれる、生存する為の基本のあれこれを司る原始的な脳の部分から始まり、きちんと段階を追って、徐々にmoreヒト的機能の領域へと成長してゆきます。
その成長こそが、幼児の精神的肉体的発育とも言えるわけです。なんたって脳ですから、全体の発育をリードしているわけです。

こうした三歳までの脳の発育の段階が、生後0才〜1ヶ月、4ヶ月〜18ヶ月、といった具合に、三年の間に大きく五段階のタイム・ピリオドに別れるわけなんですね。

そして人間というものは、その脳の成長の段階レベルに応じて、質の異なる情緒的ニーズを必要としており、そのニーズを養育者などからきちんと満たしてもらえないと、脳の深いレベルに、深いトラウマを追ってしまう、というわけなんです。

この5種類に分かれるトラウマのパターンを、心理学ではキャラクター・パターンと呼びます。トラウマなのにあたかも生まれもっての性格みたいなふりをしてわたしらの脳に思考パターンや信念として存在しているので、"キャラクター"と呼ぶのかもしれませんが、おもしろいのは、人間というものは、実に正直に、自分の持つトラウマのパターンを体現する、姿勢や体形をしているものなのです。(そしてそれにはそれぞれ名前もついていたりするんです。)

これは単に太っているとか痩せているとかそういういうことではないんです。
また、大きなトラウマを持っている人ほど極端に体型に現れているというわけでもありません。
非の打ち所の無い様な美しい、バランスの取れた真っすぐなボディの人でも、酷いパターンを持っている人はいます。
まあそんなわけで、そうシンプルに一筋縄で語れるようなものではないのですが。

それでもクラスではデフォルメしたイラストなども使いつつ、如何なる形で脂肪や筋肉がついているか、如何なる形でどこが痩せているか、真っすぐ立った時にどんな姿勢になるか、等等、人によって大なり小なり体に出ている心理的パターンを学ぶわけなんです。

で、このぬいぐるみの写真がっ。

全くもって本当に、そのパターンを体現しているわけなのですっ)爆!


友人が言うには、

カエル→ホールド・トゥギャザー
(生後0〜1ヶ月/凍りついた様な動きの無い姿ー存在する事自体、生きる事自体への恐怖を持つ人)

豚→ホールド・ショート
(生後2〜4ヶ月/猫背。前屈みで崩れ落ちる様な姿勢ー挫折と虚脱のパターンを強く持つ)

猿→ホールド・アウト
(生後4〜18ヶ月/別名「私は大丈夫」。心の痛みを感じないよう意識をハートから体の表層にそらしている為、胸を張ったような堂々たる姿になる)

牛→ホールド・イン
(生後18〜24ヶ月/エネルギーが深く内側にホールドされている為、全体がギュッとした感じにー自由に振る舞おうとする度に叱られる事で培われる、もう何もやってやるもんか、という頑固な憤怒と反抗の体現)

アヒル→ホールド・アップ&ホールド・バック
(生後24〜36ヶ月/辛い感情や現実から逃げる為にエネルギーが体の上方に集中し、また後ろに退いている。)


すいません。。
これを書いているだけで笑っちゃってまともに文章が書けない。。。

こんな世界に馴染みの無い方には、きっとおもろくもなんともないかもとも思いますが、何と言ってもトラウマを扱う学びは、中々シリアスな空気になりがちです。
でもそれがこういう形で目の前に並んでいると、もうなんとも言えず可笑しい。。。。。

しかも、偶然これを見つけてしまう友人の可笑しさよ。

というわけで、一部の限られた人間の心にだけ深く響く、マニアックな”奇跡の一枚"のお話でした。





2014年11月1日土曜日

天国に行って来た少年の話


アメリカにいる時は、よく映画館へ行く。

映画好きの人が傍らにいる、ということもあるし、夕ご飯を食べた後に眠りにつくにはまだちょっと力が余っていて、そしてなんとなく暗くなり始めた夜の街の雰囲気にも触れたくて、なんていう時に、近所のモールの中にある映画館へ行くのは、中々楽しい経験です。

今回観た数本の映画はどれも印象深くて、夕ご飯の後のちょっとした娯楽にしては大変贅沢だなあと感じた物ばかりでした。
考えてみれば、巨額の制作費とすごい数の人々の長い時間の労働と創造力の産物を、10ドルかそこらで簡単に楽しめるんですから、映画という娯楽は、実際非常に贅沢な物なんですよね。あまりに身近なので忘れがちですが。。

今回、新旧入り交じって色々観た作品の中に、実話を基にした映画が一本ありました。

小さな男の子が生死の境を彷徨った時に天国を訪れたという、その不思議な体験を描いたものです。

この少年はキリスト教の牧師さんの息子さんなので、やや特定宗教的色彩が胡散臭くなりそうな気配も無くは無いのですが、映画の中で少年の天国訪問体験に疑念と疎ましさを持ち続けるのが、他でもない牧師をしている父を含む少年の両親と教会関係者だというところが面白いし、これが偏った啓蒙カルト映画に、なんとかならずに済んでいるひとつの要素だと思いました。

特に教会関係者の女性が口にしていた、少年が天国での体験を広く口外することでこの教会が有名になってしまうと、自分で物を考えない輩が救いを求めて集って来ちゃうからイヤだ、という言葉は、この教会と映画自体の健全さを物語る上で、大切なスパイスだなと感じました。

宗教や信仰というものはそれ自体に問題があるのではなく、それを扱う人間の意識が問題を作り上げるケースが多いですもんね。道徳的なコミュニティの場として生活に溶け込み健全に機能している教会に、奇跡を求める他力本願な狂信者がいっぱい集ってきちゃったら、確かにヤバいし脅威です。

しかしながら少年の口にする体験は実に信憑性があり、鮮明で感動的なので、教会関係者の 懸念もよそに、だんだん有名になってきてしまいます。

実は私は映画の途中まではこの少年の天国体験談について、使い古された逸話だなあ、なんて思ってあんまり新鮮に楽しめない部分も多かったのですが、終わりの方にそんなニヒルな私を打ちのめす、すごい仕掛けがありました。
それは前にこのブログにも書いた、アメリカの天才絵描き少女にも関係するエピソードでした。ネタバレになってしまうのでここには書きませんが、とにかく私にとっては、あっと驚く内容だったんです。


私は基本的に、奇跡体験のような物に偶像的な表現が絡んでくる物が苦手です。

例えば、太陽の光が緑色に見えて突然すごく神懸かった気分になり、叡智に満ちた言葉が心の中に浮かんだ、くらいまでは個人の主観的な至高体験なので素晴らしいな、と思うのですが、その緑色の光の中にマリア様が見えた、となれば話は別です。

見えたような気がした、と言うのなら、経験の主観的な解釈なので理解できるのですが、明らかにマリア様だった、となり、それはマリア様ですね、と認定されちゃうとですね、私の頭の中は全くの圏外になってしまうのですよね。

そしてこの映画の中には、明らかにキリストでした、が出て来てしまうのよね。
無垢な少年が生死の間を彷徨っている内に天国へ行って、天国で暮らす既に亡くなった家族に会っただけでなく、キリストにも会うんです。

で、実は途中まで私はこの苦手系エピソードに引きまくっていて、しかしながらまあこの少年は、小さな頃から教会でキリスト教的絵画やエピソードに触れまくっていたわけだから、生死を彷徨っている間に違うディメンションを訪れ、その世界の体験を、既に心の中に知識として存在しているキリスト教をベースにした情報として翻訳してしまうのは無理の無いことかもしれない子供だしね、なんて思いながら観ていました。

それにこの映画の中には、先に書いたしっかりした教会関係者の様な動機でではなく、やったらムキになって少年の話を頭から否定しようとする、非常に大人げない大人達も出て来て、いやそのかたくなな態度はむしろ、あんたらが馬鹿にしている狂信的に宗教を信じる人たちと全く同じ思考停止の産物だってことに、なんで気がつかないんだろうね、なんて忌々しい気持ちも感じつつ、それにしてもこの世の中は、ひとりの少年が生死の間を彷徨っている最中に美しい神秘体験をしたっていう、たったそれだけの事実を、口に出すのさえ難しいなんてのはおかしいんじゃないか、というところにも行き当たり、今更ながらに人の思考の無駄な複雑さに、私の心がうんざりするに至ったあたりでこの映画は、周囲の評価なんて物ともしない、実体験者であるという無敵の強さと清々しさを持つこの少年が、自分の経験を賢明で愛情深い形で役に立ててゆくという、美しくて凛々しい姿を見せてくれるのです。

それだよね。

少年の神秘体験が紛れも無い事実でも、あるいは単なる脳内物質の作用で起こった幻覚に過ぎなかったにしても、どっちでもいいんだよ。

少年はインパクトの強い神秘体験をして、その体験が少年を、すごく大きな心の持ち主にした。そこに私は奇跡を感じたしとても感動しました。

そして私が抵抗を感じ続けた偶像エピソード、つまりキリストとの出会いについては、さきほども書いた映画の最後にあった仕掛けによって、いくらか私自身の持つ抵抗感も、謙虚に脇に置く必要があるのかもしれないな、と思わせるものがありました。

この世界は、宇宙は、人間の心も脳も、他のあらゆる生命体の在り方も、そして時間の流れや成り立ちなどについて、まだ殆どはっきりとは解明されていないのです。

アインシュタインやダ・ヴィンチの見ていた世界を、実感として見て生きている人も、まだ殆どいないのです。

そんな今の現状で、頭ごなしに「無い」と否定できることなんて、一体どのくらいあるのだろう。

この映画の、ほぼ新鮮さの無いナイーブなストーリー展開は、こんなに繰り返し同じようなエピソードを、大昔から色んな人が語っているのに、人間の頭は未だにそれを、単なる戯れ言のように扱うんだということに、ふと思い当たらせてくれました。

人間ていつになったら、「キリストに会ったよ。」「どっひゃーーーーー!!!!!それってすっげえっっっっ!!!」てな具合に、素直に反応するようになるんでしょうね。いやもちろん、健康的なやり方で笑。