2016年7月16日土曜日

心に闇の無い女の子の出てくるドラマ
















"心の闇"と一言に言っても、言われる状況によって様々なコンテンツを持つと思う。

犯罪を伝えるニュース番組などで言われれば、それは殺人を犯してしまう程に鬱屈したストレスや痛みや怒りなどを示す深刻な心の病理だし、乙女な人が言えば退廃やアンニュイに繋がるような、ナルシシズムや文学な響きを持つものかもしれない。

後者は多分に"心の闇"の解釈に薔薇の花びらを散りばめて深刻さを還元している印象があるので、現実離れした美化である事は明らかなんだけど、いずれにしても私は、前者であれ後者であれ、誰かが"心の闇"と何かを表現する時そこに、その闇自体と真っ向から対峙し切り込む勇敢さの欠如を、いつも感じるのです。

"心の闇"という十把一絡げ的で抽象的な表現は、具体的にそこに切り込んで真っ当に解釈する事への怖れをうまく誤摩化してくれる役割を持っているなと感じるのです。
言わば、臭い物に蓋、を、ちょっとばかり文学的な、深みのありそうな言葉を選んで使ってみました、みたいな感じです。

これは、欧米ほど心理学や分析学に日常的な親和性を持たない日本という国の、独特なやり方だなと私は思います。
これは、多くの日本人がフラジルな幼い繊細さを抱えて生きている証だと私は思います。そのことの善し悪しを語る気はありませんが、ただそう感じるわけです。


で、そういう幼い繊細さと真っ向から対決するドラマがアメリカにあって、それが、"GIRLS"だと私は思うのです。

"GIRLS"は、ニューヨークに生きる若い四人の女の子の日常や生き様を追っているドラマです。でも出て来る4人の女の子は、SEX AND THE CITYみたいに洗練されていません。
社会的に全然成功していないし、いつもお金に困っていて、狭くてあんまりかっこ良く無いアパートにルームシェアして住んでいて、性格も容姿も生々しく未完成で、迷っていて傷ついていて間違っていてかなり哀れな状態で、普通に生きている子達です。


最初あまりの生々しさに観るのに抵抗を感じたのだけど、やがてすぐに虜に。
何故なら、主人公のハンナと、その恋人アダムを、とても大好きになってしまったからです。



ハンナは作家を志す22歳の女の子。
肥満気味でいつもノーメイク、いざという時にはちゃんと可愛くオシャレに、時に実にハイセンスに装える独自のセンスや美的感覚があるんだけど、そこに気負いが無いせいか、普段はあまり発揮されません。安いスーパーにいるおばちゃんみたいな格好でいつも暮らしています。

始め私は彼女の事がよくわかりませんでした。
でもドラマを観ているうちに、友達を知って行くみたいに、ハンナの事がわかるようになって来て、ある日決定的に私を魅了する行動を、彼女はとったのです。


その頃の彼女は、作家を志しているとは言え誇大な自信があるだけで具体的な行動は何も起さず、出版社で無給のインターンとして働きながら、出版社にいるんだからいつか作家として扱ってもらえるはず、という類いの楽観的な勘違いをしている状態でした
夢見る夢子さん状態です。
だから当然稼ぎも無く、大学を卒業後しばらくは親からの仕送りに頼って生きていたんだけど、大学教授である両親が彼女への教育的目的として、いきなりその仕送りを全額ストップしてしまうんですね。

あわてたハンナはインターンとして働いていた出版社で、そろそろ給料を貰えないか、自分は重要な人材なのだから、と上司に訴えるのですが、上司は、無給だから重要なのであり、金を払うならもっと才能のある人を雇うよ、と言ってにべもなく彼女を首にしてしまいます。

これは良くある価値観ですね。
素晴らしい才能ですね、という言葉の裏に、その才能にお金を払えるか払えないかがある。
これは非常に正直で大事なポイントです。
払われない場合、それはそこまでの価値しか見いだされていないという事です。
お金をくれるのかくれないのか。こんなに正直に人の心を現す定規が他にあるでしょうか。現金をくれないのは、金を払う価値無しと思われている事必至です。
雇う側にそこまでの自覚は無いかもしれませんが、実は行動に、全てが現れるのです💣。

で、それを充分にわかった上で、お金をもらわなくても、あるいはすっごく安くても、その仕事をやりたいかどうかを、自分の価値観で決めるのです。
それが大人という物です。
もう一度言いますが、お金を払われない場合、その人はあなたの才能を、お金を払うほどではない程度に、買っているのです。
どんなに褒められても錯覚してはいけません。
ここ大事よ笑。

私はつい最近ある企業からスカウトを受けたのですが、話を聞けば私には、私が自分の時間を費やして得た収入の何パーセントしか来ず、会社自体からは私に何も支払われない、という事でした。
この企業は社会貢献としてとても優れた条件を揃えており、システムも一見フェアでよく出来ているように見えますが、会社側は全く懐を痛めずに人材だけ集めるという発想は、経営者側としてはよく出来たシステムなのかもしれませんが、どこかその人材への敬意と良心が不足しているように感じられます。
経営側やサービスを受ける側にとって素晴らしくても、働く者への敬意と良心が不足している場合、結局はプロジェクト全体に敬意と良心が不足しているという事です。他者への敬意と良心が不足しているプロジェクトは、いずれ先細りになると私は信じているんです。
だから、長い面接の末に数日じっくり考えて、お断りしました。

賃金と労力のバランスという物は、そこに雇う側の良心が明確に現れるので、注意深く観察する価値のあるものだと思います。
これはがめついというのとは違います。
小さな割合でも、こちらは損せずに外から搾取する、という心根が雇う側にあると、雇われている側は意外な程疲弊するし、無意識下のストレスで心身がおかしくなったりするもんですよ。

ですので安い現場で働く事を決めた場合は、自分で選んだ、という意識が大切なのです。
そしてすぐに見切りをつける事の出来る強さも。


で、ハンナに戻りますとですね。

そんなわけで彼女は、しばらくあんまりお金の無い日々を送りました。
そんなある日、飛行機に乗って故郷に戻らねばならない出来事が起こるのですが、長期旅行の経験のあんまり無い彼女はスーツケースを持っていなくて、買うお金も無いので、それでなななんと、家庭用4L入りゴミ袋に、衣類なんかを詰めてガムテープで封印し、それを抱えてJFK空港に向かったのですよ!!!

着いた先の空港のカルーセルでそのゴミ袋を引き取り、そのままバスに乗って目的地へ。
いやーーーーー、ホレボレしました!!
これでいいんだな、と思って。
人生、こんなんでいいんだなって!!!!!


ハンナは、実に無防備で、あっけらかんとした女の子です。
ボーイフレンドのアダムが、ちょっと危険で変態っぽいセックスを要求して来ても、すぐに偏見による嫌悪感からリアクションを取らず、ふーん、と考えて場合によってはカジュアルに受け入れたりします。

私は最初、その部分がよくわからなかったのですが、ゴミ袋をスーツケース替わりにしたあたりから、ハンナの事が見えて来ました。

ハンナは、自分や世界を、心底信頼しているのです。

私が遠出をする場合、しっかりしたスーツケースや様々な場合に応じた衣類や持ち物等つまりそういう、ある意味充分で完璧で周到な準備をしようと努める心の裏には、防衛心があります。
見知らぬ旅先を何パーセントか信頼していない不安が原動力になって、余分な物まで持参するという事が割とあるんです。

それは当たり前だし持ってて悪く無い習慣だというのもわかるのですが、私はハンナみたいな人に、すごくホレボレするんですね。

ハンナがアダムみたいな、一見変人で危なそうな彼氏に、非常に無防備に自分をさらけ出せるのも、ゴミ袋に荷物詰めて旅行に行けるのも、無給だから雇ってくれてたあからさまな上司に給料を払えと堂々と言えるのも、全て彼女が、自分の対峙している世界が安全な場であると、信頼しているから出来る事なんですね。

これは鈍感さとは違います。
彼女は本当に、健全なのです。

GIRLSでは、出て来る様々な人たちの会話の中に、この健全さがすごく強く流れています。

"心の闇"を、絵の中の餅みたいに扱わず、掴んで観察して分析して味わい尽くす健全さが、そこにはあるんです。

特に、一見危なそうなキャラとして独特な存在感を見せるハンナの恋人アダム。
この人は、非常に素敵です。

言動にアウトローで反社会的な印象があるので、一見破壊的で危険なタイプに見えるのですが、徐々に彼が、社会のルールではなく、彼自身の良心に準じて生きているのだと言う事がわかって来ます。
その良心は、社会のルールなんて遥かに超えた良識と愛とシンパシーに満ちていて、そのピュアさにまたホレボレするんですよ。


ハンナが、自分を認めてくれた編集者と発展的な仕事を始めた矢先に、その編集者が河で水死体で見つかるというエピがあるんですが、自分のキャリアの先行きを正直に不安がるハンナに、思いっきり引いて、たまげて、ダメージ受けて驚愕してたのがアダムだったってのも、すっごく面白かったです。

それでもアダムは、そんなハンナのヒトデナシぶりに思いっきり引きつつも、ハンナの事情を思いやりある想像力で理解しようと勤め、優しく寄り添うんですね。

あー、ハンナはほんと、あんな彼氏に愛されて幸せ者だよ。

色んなドラマや映画でカップルを観ていて、私が心底羨ましいと思った、テレビ版"大草原の小さな家"のチャールズ以来の逸材アダム。

まさか半世紀後にまたこんな思いになれるなんて、非常に意外です。笑。

人の心の闇を手づかみで取り出してあっけらかんと解きほぐし、太陽の下で日干ししてしまうようなドラマGIRLSを観ていると、"心の闇"への、腰の引けた臆病さや腫れ物を扱うみたいな慎重さや深刻さ、しいては畏怖、などという態度が、実に古くさくバカバカしく思えます。

こんな人たちとのこんな日常が自分にもあったら、本当に生きやすいなと感じるんです。


アダム

2016年7月6日水曜日

2016年上半期を終えて

2016年も上半期が終了して、もう7月だ。

今年は、新年早々大切な友達の訃報が、同時期に続けて2件もあって、前半はそれで持って行かれた感じだ。

私にはアメリカに、二重の色濃い人間関係がある。

ひとつは、古くから続くポーの一族みたいなやつで)爆、もうひとつは、学校関連で培ったクラスメイトを中心とした友達の輪である。

両方共中心地がコロラドなので、この二重螺旋が交わらないのが不思議な感じなのだが、そこにはくっきりとした境界線があり、何故か絶対に交わらないのである。
奇妙なもんだね。

今年早々に亡くなったのは、二人共いにしえからあるポーの一族の方の友人で、それはやはり私とはポーなので、非常に悲しく無念であった。

ひとりひとりとの関係も深く大切であるが、集い、という形で与えられる滋養がある。
全員が同じ空間を分かち合う事で生まれる、暖かい空気感。
ひとりも欠けていない、その部屋の中にいる、という事だけで生まれる、なんとも言えない充足された気持ち。

実のところ誰かが死んだところでーこれは決して、喪失感を紛らわす為の幻想では無いのだがー死によってむしろ近しく感じられる人の存在というものがあることを何回か経験しているから、そんなに深刻な喪失感を覚えているわけではないのだけれど、更新されない情報というもの、例えばその人との会話で交わされる新しいジョークだとか、そんな物が無い事で、いやおうもなく不在を感じる事が、あるものだなあと思う。


今年亡くなった友人のひとりは、何度か私のエッセイ漫画にも登場していただいた、アリゾナのお爺さん、である。

86歳でまだピンピンしていたのだけれど、突然倒れ、回復と危機を繰り返した後、遂に天国に行ってしまった。


爺さんとは、ポーのパーティーで知り合った。
本当に、本当にもう大昔の事である。

ハンサムで背が高く、非常に仕立ての良い服を着ていて、一目でセレブリティだとわかる感じだった。(今思えばあの頃爺さんはまだ、60代だったのだな。)

友達とガヤガヤ喋っている時に視線を感じたから振り返ったら、暖炉の前に座ってくつろいでいた爺さんがこちらを見ていたのだった。

爺さんは、微笑んだ眼差しで私を見ながら、おいでおいでをした。

初対面の私に対して自分から寄って来ず、私を招いた時点で、爺さんの印象は決して良くはなかった。つうかはっきり言って悪かった。

でもその時私と喋っていた、私がポーの中でも最も大切に思っている夫妻が爺さんに手を振ったから、そ、そうか、その夫妻と友達なのか、じゃ、じゃあ、まあ、行ってやるか、と思って私は爺さんの前まで行って、促されるままに隣のソファに座ったのだ。

しかし偶然にも私はその時 現役の漫画家で、爺さんは漫画家デビューしたい出版界の大物だった。出版界の大物ならさっさとデビューすればいいのだが、厳しいまなざしで人の著作物を扱っている手前、自分の才能不満足を甘やかすわけに行かないと言うジレンマに、爺さんは悩んでいたのである。

爺さんは私が現役漫画家だと知って手招きしたわけではないのだが、私が漫画家だと知ると目がキラキラしちゃって、その場で私にイラストを描かせ、自分が持っているアイディアを得々と語り始めた。

そして私ははっきり言って憂鬱だった。
だってそのアイディアは、決して「クール!」って思えるような物じゃなかったから。
自分が出版界の大物で、自分でも本を何冊も出していて、その内のひとつがディスカバリー・チャンネルで映像化される等の実績もあるのに、漫画家のひとりも動かせないその事情は、そのアイディアを見れば明らかってものだったのである。

色々あって私たちは仲良くなったけれど、その漫画のアイディアはいつの間にか消えた。
私にはそれを形に出来る創造力は無かった。
爺さんが亡くなった時、その事が、とても私を悲しませた。
なんとか形にして、なんとか商品にしようとしてふたりでコケたりした方が、何もしないよりずっと良かったし楽しかった。

だけど私はほんの昨年始めまで、実際のところ蚕の中にいる幼虫期みたいな時代にいて、創作するモードにはいなかったんだよ。これは本当にそうなのだ。自分にはそれがわかっているから、だから後悔は無い。
それ以前に何かをやったとしても、たいした物は作れなかったと思う。

もちろん人生という物は、特に人間を取り巻く人生の形は、そういった個別の生物学的な成長の時期を無視した形で全て営まれる。営まないとお金が入って来なくてご飯が食べられなくなったりするから、無理矢理にでも何か生み出して生きてゆくのだ。そんな中で漫画の〆切に追われる私に、爺さんの漫画を具現化する筋力は無かった。

幸いな事に、爺さんは偉大な経歴の持ち主だから、私が爺さん原作の漫画を描かなかった事は、爺さんにとってそんなに大きな悲しみではない。

ケネディ大統領のスピーチ・ライターだった爺さんは、ケネディの死後もホワイトハウスで研鑽を重ね、色んな大物のスピーチに携わったり、PRの仕事で無名の人を歴史に残る大物に仕立て上げたり、その内の何人かは黒歴史だと悪態をついてみたり、小説を書いてドラマ化したり、シンガーソングライターになってちょっと恥をかいてみたりと、まさに輝かしくて楽しい人生を送った人なのだ。
だから爺さんにとって、私が漫画を描かなかったことくらいなんてことは無い。


だけどね。
今年の私には、筋力がある。
爺さんや、爺さんの友達や、あとその他、私と色々創作話をして沢山色んな約束をした、色んなある事を、具現化する筋力が。

15年間ばかり入っていたコクーンから出て、ようやく羽根が乾いて来た今の私なら、爺さんの元ネタが面白くなくたってなんだって、それを面白く仕立てる底力がある。

そして今年は、豊富に時間もあるのだ。


私はこの夏から、そういう約束を全て具現化する事に時間を使おうと思う。

もう悲しい思いをしないように、手遅れにならないように、全てを具現化するのだ。

爺さん、ビル、マルコム、○○さん、○○さん、そして○○さん、遂に私は、具現化するよ。

長い間待っていてくれて、ありがとう!!

今の私なら、ろくでもなくない物を、仕上げられるよ。
今の私じゃない時に仕上げても、ろくでもなかったと思うから、待たせたのは許してね。

じゃあそういう事で。

爺さんへの追悼ブログは、いつか改めて、写真満載で書こう。

今日は私の、決意表明でした。