2016年11月27日日曜日

クッキー売りを巡る誤解

先ほど、さほど親しくも無い老若男女の多数同席する席で、まあはっきり言ってしまえば陶芸のクラスで、同じ駅を利用しているらしい世代の異なる男女が、クッキー売りの話をし始めた。

それはふたりの最寄り駅の駅前で、クッキーを売る女性がいる、という話で、二人ともその席で初めてお互いがそのクッキー売りに、随分前から多大なる関心を寄せているという事を確認し合ったらしく、大いに盛り上がっていた。

つまり二人の利用する駅の脇の道で、ひとりで手作りクッキーを売っている割と若い女性がいるそうなのだ。

私はその話を聞いた時すぐに、ひとりでジャムを作って売っている私の友達であるエバジャムのエバを筆頭に、自分の工房で質のいいこだわりの菓子やパンや色んな美味しい物を作っては自分の足で売り歩いている頼もしい知人たちの事を思い出して、わあ、いいなあ、私も買いに行きたい♬と思った。

しかしふたりの話し振りはそういうハッピーなノリとは全く異なっていた。

あんな所でたったひとりでクッキーを売っているなんて、大丈夫なのか。
子供を抱えたシングルマザーかなんかで、余程の事情があるんじゃないのか。
売り場に許可が必要なんじゃないのか、無断でやっていて大丈夫なのか。
偶然出くわしたけど、どこどこの路地からとぼとぼ出て来て、なんだかミジメで悲しかった。
包装なんかも素人っぽいから、クッキーも自分のみすぼらしい台所で作ってるんじゃない?

という具合に非常にペシミスティックで、という事はそのクッキー売りは私の思い描いているような、エバジャムのエバみたいな、明るくて馬鹿っぽいけど作る物には徹底的にこだわるアーティスト系行商人とはちょっと違うタイプなのかもしれない、と思い始めた。

その後もふたりの悲観的な噂話を聞く内に、私の中には明確な、そのクッキー売りのイメージが出来上がった。

みすぼらしい服装と容姿ー何故か水色の薄汚れたカーディガンに痩せた肩と腕。
化粧っ気の無い、くすんだ不健康そうな顔色。
生活に困窮している感満載の暗い不幸オーラ。
もしかしたら頭が少しおかしくて、クッキーって言ったって自分がそう思っているだけで、何を材料にしているのかわかったものではない何か恐ろしい物を売っている。
うわごとみたいな物を呟きながら髪を振り乱してあちこち徘徊し、気の向いた場所でクッキーの形をしたそうでない物を売る怪女。
そのクッキーは多分危険だ。

まあざっとこんな感じで、平成の口避け女みたいな妖女の売る恐ろしいクッキー、というイメージが、あっという間に出来上がってしまったのである。

というわけで好奇心を押さえ切れなくなった私は、已然として不気味で悲しくみじめなクッキー売りの話で盛り上がる二人を尻目に、I Phone で検索してみた。

最寄り駅の名前、駅前、クッキー売り、

このみっつだけで、すぐにその女性は検索に上がって来た。
写真があったから、この人ですか?と二人に聞いてみたら、「あっ!!!!そうそうこの人!!!」どうやって見つけたの!?すごーーーーい!!!!!!」
と、更にものすごく興奮する二人。
私はその二人に、そこに書かれているクッキー売りの正体について、読み上げてあげた。

その人は菓子職人。
自宅を改造した工房で、こだわりの材料でお菓子を作っている30代女性。
始めは夫の作る手作りパンをふたりで売っていたが、夫のやっているパン屋が忙しくなったから、今はひとりで、時間と曜日を決めて自作の菓子を売っている。

かいつまめば以上の様な情報が、可愛らしい明るい色の縞縞パラソルの元、ワゴンに広げた様々な種類の菓子を売る、白いコックさん帽とコックさん服に身をつつんだ、可憐な若い女性のほのぼのとした写真と一緒に載っていた。

つまりそのクッキー売りは、最初に私が思い描いたエバジャムみたいなアーティスト系菓子職人に他ならず、頭がおかしいわけでもウワゴトを言いながら徘徊しているわけでも、無いって事です。
この現実を知って二人は大変驚いていましたが、二人の驚きは、彼らが何ヶ月も心に持ち続けていた謎を、私が目の前であっという間に解いてしまった事への感動へとすぐに移行してしまい、如何に自分らが無責任なイメージを、可愛いクッキー屋さんに貼付けていたかなんて事を反省するつもりは、毛頭無い様子でした。

それにしても何が恐ろしいって、噂していた二人の中にクッキー売りにまつわる共通の悲しいストーリーがあったせいで、それを聞いた私が、現実とはかけ離れたイメージを持ってしまったと言う事だ。

こういう、自分の中にある確固たるストーリーのフィルターを通して現実を認識して解釈する事を、心理学では"転移と投影"と呼ぶ。


投影というのは主にこの話の様に、自分の中にある、ある種の信念や概念を、現実の出来事や人物に投影してしまう事によってありのままが全然見えてないケース。
転移は主に、自分の中にある、ある種の感情や思い込みを、あたかも他者が持っているかの様に感じる錯覚の事なんかを言う。

転移で良くあるのが、自分がAさんとの間で起こった特定の出来事に関して何らかの後ろめたさや罪悪感を持っている時に、Aさんが"その一件で"自分を怒っている、と思い込んでいたりする事。
もっと巧妙なレベルでは例えば自分がBさんの事を敬遠しているのにそれには気付かず、Bさんの方が自分を敬遠している、と思い込んでいたりするケースだ。

いずれにしてもこの転移と投影は、人間関係における殆ど全ての悪循環の源だと私は思っているので、普段からなるべく意識的でいたいと個人的には思っているだけに、今回の様なクッキー屋の件は非常に心に引っかかる出来事であった。

私とて二人の話を聞いた当初の時点で、すぐに友達のバカ明るいエバの顔を思い出したのなんかは、典型的な投影の始まりの瞬間で、その後、もしどんなに二人の悲しく淋しい話を聞いてもそのバカ明るい印象を頑固に変えない場合などは、自分に要注意である。

そういう態度は、自己の投影(ストーリー)との一体化と呼ばれ、そういう態度をする人は、現実を、自分の許容する概念のレベルでしか捕らえようとしない自動制御システムが脳に付いているので、どんなに何かを説明しても、絶対に正しく解釈してくれなかったりする。そしてその歪んだ情報を他者に伝授したりして、おかしな出来事に発展したりするのだ。


今回は私の印象の方が現実のクッキー売りに近かったのだけれど、でも実はその影に、この二人が感じていたような陰惨な現実が、あるかもしれない。
だとしたらしょっぱなにエバの脳天気な顔をそのクッキー売りに投影した私が、間違っていたという事になるんだから、自分の印象にすがりつき続けるのは、非常に無駄な事だ。

もしも噂話を聞くんなら、その話がどんな場合でも話し手のストーリーのフィルターを通過している、という事を心のアンカーとして持っているべきだし、噂話をするんなら、自分がどの程度ストーリーのフィルターを通して出来事を認識し話しているかを、出来る限り自覚しているべきだと私は思う。

そうでないとこの可愛いクッキー売りについて、いつの日か駅前の気のフれた妖怪女としての噂が轟き、誰も彼女からクッキーを買わなくなってしまう、なんて事にも、なりかねないのですから。

2016年11月18日金曜日

発達心理学によるプロファイルonニーガン

最近、ハーバード大学児童発達研究所から、幼児期の体験と脳のニューロン結合の密接な関係に関するレポートが発表されました。

既にこれをコロラドの学校でずうっと学び、また臨床的な解消実績も数え切れない程体験している私にとっては耳新しい情報ではなかったのですが、ハーバード大学のような権威がそれを言い出せば信頼性が高まり、今後様々な一般的な心理療法にも応用出来るようになるかもしれず、ようやくの一歩前進だなと感じました。

この、脳の80%の成長が完成される生後三歳までの幼児脳の発達をベースにした心理学と心理療法は、非常に実用性が高く正確だと私は思います。
ニューロンの結合、という実質的な結果によって生じる学習認識という物は、つまりほぼバイオロジカルな現実であり、外見が太っているか痩せているか、等に等しい正確さで、その人の心の癖を、情報として与えてくれるのです。

何度かブログにも書きましたが、このニューロンの結合による深いレベルでの学習認識は、体形や姿勢にもあからさまに反映されているため、プロファイリングにも有益です。

アメリカの犯罪ドラマなどを観ていると、俳優さんなり作り手の方が実によく心理学を学んでいるのがわかります。
ニューロン結合のような進んだ分野かどうかは別にしても、犯人の表情や犯行の手口に心理プロファイル的なズレが無く、リアリティを感じさせるなと感じる物が多いのです。
表面的な言動等の辻褄合わせにとどまらず、よりディープなレベルで、例えば眼差しやふとした仕草なども合わせてそれを演じられている俳優さんを見る事も多く、そういう時には鳥肌物の感動を感じます。

例え心理学の知識の無い人でも、人間という物は現実の人間関係の中で様々な情報をキャッチしているのですから、そういったディープで詳細な演技を見れば、視聴している誰もが心の底にある、"真に迫る"、をキャッチする事が出来ると思うのです。


というわけで。
テレビ・ドラマの話になりますが笑。

沢山の方が夢中になっていらっしゃる"ウォーキング・デッド"を最近私も見始め、そしてあのドラマの中には危機状態の中でおかしくなっちゃってる人間が沢山出て来ますよね。

今まで大抵のドラマ内悪人は、上記のプロファイル的見解からいろんな分析が可能だったのですが、あのドラマに出て来るニーガンだけは、どうしても理解出来ないのです。
故に私は、初めて犯罪者に、純然たる憎しみを感じる事が出来ているという、希有な体験を今現在しています。

発達心理学やニューロン結合の様な物を臨床的に知っていると、自分に直接迷惑がかからない限りは、悪人が全部幼児の姿や顔に見えてしまって中々怒りや憎しみに埋没出来ない物なんですが、あのニーガンだけにはまったくもって、幼児期のトラウマが原因であんなに憎たらしくなっている、という系譜が見えないのです。

行動そのものを見る限りにおいて、私の知るレベルでの現実世界の有名人でニーガンに最も近いのは、北のパタリロ将軍だと思うのですが、北のパタリロ将軍とニーガンには根本的な違いがあります。

北のパタリロ将軍には明確に、"自閉期の傷"と私たちが呼んでいるトラウマを現す外観があります。
自閉期というのは生後三ヶ月までの、まだ生まれたての非常に繊細な時期で、この期間にうまく保育者の保護を得られないと、他者や環境への不信と恐怖から、非常に閉鎖的で冷酷な心を持つ可能性があるのです。

お腹が空いているのにすぐにミルクが来ないとか、抱いてほしくて泣いているのに放置された程度の体験が繰り返されるだけでも、他者への共感性の欠如した人間不信人生不信的学習認識を獲得してしまう可能性があります。

現在のパタリロ将軍の持つ痛ましい、また他者への冷たい眼差しや赤ん坊の様な体形に、その育ち切っていない生後三ヶ月の心が非常によく反映されているのです。
恐らく彼は、充分な愛情と安心感を乳幼児期に体験出来ないまま成長したのでしょう。


しかーーーし!!!!

ニーガンはどうでしょう。
ニーガンの容姿は、非常によく育っていますよね。

もちろんこれには、ニーガンを演じている俳優さんの要素が多分に影響はしてしまいます。あの俳優さんは恐らく、おおらかで愛情深い保育者の元、ニューロンの結合が健康的に成される程度に十分な安全性の中で、育った方なのでしょう。

年齢に相応しい成熟した容姿と貫禄、萎縮や緊張を感じさせないおおらかな四肢、実際のところ、別のドラマなどで彼を拝見すると、愛情深い表情を無理無く演じられていて、バランスのとれた心の健全さを、とても感じさせてくれます。

その彼があのニーガンを演じているわけですから、実際のプロファイリングに合わないのも当然と言えば当然なのですが、私の臨床経験上、現実にああいう、見た目は立派で発達心理学的にも問題無さそうに見えるのに、なんだかおかしい、という人が、いない事も無いのです。

そういう前提の元で私は、一生懸命ニーガンを観察しているのですが、今のところまったくもって、"トラウマによるニューロンの結合不備が原因で悪くなっている"という印象を、持てないでいます。
ガバナーは簡単でした。だからガバナーを憎む気持ちには、私はなれませんでした。
でもニーガンは。


ニーガンには、人に暴力を振るう時、眼差しの中に、冷酷な喜びや微かな恐怖や静かな興奮や怒りなどが、無いのです。
非常に静かな、穏やかな眼差しで、人を酷い目に合わせています。

これには、無意識下のニューロン結合不備つまりトラウマが全然活性化されていない、つまり、トラウマを原動力にはしていないな、という印象があります。

ニーガン役の俳優さんが大根なのでしょうか。
そうは思いません。
何故なら、ニーガンには安っぽい表面的な悪魔的表現も、無いからです。

少なくとも言えるのは、ニーガンは確信をもって、安定した心からあの悪事を働いているという事。

子供時代に得られなかった何かの代償を求めてとか、何かへの憎しみや復讐とかの、代替行為ではないということ。
それを非常にうまく、彼は演じていると思うのです。

もちろん今後、ドラマの中でニーガンの背景が描かれる事もあるかもしれません。
もしもその中で、過酷な幼少期を経て、のような話があった場合、彼の場合はそのトラウマがあまりに深く、脳自体に損傷あるいは変質を負っているレベルの、重傷なケースだという事は確かです。


ところでウォーキング・デッドには、リックというリーダーがいますが、ニーガンはリックのナルシシズムを、執拗に攻撃していますよね。
あれを見ていると、ニーガン本人にも自己愛性のトラウマがあり、同族嫌悪みたいなもんがあるんじゃないか、とも思わせるのですが、しかしここにも私は、ニーガンがトラウマから、リックをやっつけているわけではない、という印象があるのです。

単に、まるで神の鉄拳のように、リックの肥大したナルシシズムに対して、自覚しろ、反省しろ、屈しろ、とやっているように見えてなりません。

一体ニーガンて、なんなんでしょ。


原作の印象は、テレビのニーガンとはまるで違うし、色々な理由から辻褄の合わない事もあるのかもしれませんが、例えそれがフィクションであっても、創作物には時に、何かおおいなるものの意図が、降りている場合があります。

だからそれがドラマの中で暴走するフィクションな存在だからと言って、作り事では済ませない事もあると私は思うのです。

特にドラマ版ウォーキング・デッドのニーガンの様に、心理学的な面から見ても謎めいた存在の場合、何か注目に値する存在の意味が、あるように感じてならないのです。

ですので今のところものすっごく憎たらしいニーガンですが、まあ興味深く見てゆきたいなと、思うのであります。


2016年11月10日木曜日

大統領選後

アメリカ大統領選が終わってからずっと、うっすらと泣きたい様な感覚が続いている。

結果に失望しているわけではなく、いやもしかしたら気付かない様な深いレベルで失望しているのかもしれないけれど、ずっと感じているのは失望や怒りではなく、どちらかと言えば厳粛な、深い静けさを伴う胸の痛み、とでも言う様な物だ。

どういう人たちが何を思ってトランプに投票したのかは、実際のところよくわからないのだけど、昨日からずっとある知人の事が、頭から離れない。


趣味でヘリコプターやセスナを操縦するアメリカの知人のおかげで、私は最近よくアメリカで自由な空の旅を楽しんでいるのだけど、ある時その知人が紹介してくれた若いパイロットの青年と、ランチを食べに行った事がある。

Kというその青年は、青い瞳が静かで優しそうな白人の眼鏡男子で、空を飛ぶのが大好きでがんばってヘリの免許を取り、人に操縦を教えて生計を立てていると言った。

その時にその彼が、自分はヒルビリーなんだ、と笑いながら言ったのだ。
幸い森が近かったから、子供の頃から兄とふたりで森に入って、色んな動物を狩って食べた、と楽しそうに話し始めた。
狩った動物は蛇や鳥や蛙や魚など、普通に食用に出来る物から、オポッサムなどの変わった動物まで食べたと言った。オポッサムは死んだふりが上手で、始めの頃はそれに騙されて僕たちはよく失望したり笑い転げたりもしたもんだ、と。

私は大好きな北米の森を思い浮かべ、オポッサムの話を心から楽しみ、他にどんな動物を食べたのかと、大喜びで話をねだった。
彼はその時本当に楽しそうに自慢気に話していたから、私はそれが楽しい話だと、思い込んでいたのだ。


その事が唐突に、胸に突き上げる様に、昇って来た。
トランプが大統領になった時に。
小さな兄弟がふたりで森に入って、毎日の様に動物を狩って食べ、飢えをしのいでいたのだという、新しい現実として。


ヒラリーの、敗者演説は胸を打つ美しい物だった。
彼女が大統領になっていたら、どんなに素晴らしかったかしらと思わせるような、爽やかで、真剣で、静かな情熱を湛えた、力強いメッセージの込められた、品格を感じる素敵な物だった。

だけど毎日の生活にあえぐ人たちは、堂々と差別発言や痴漢行為を自慢する下衆野郎が見せてくれた、明日の食べ物を買える希望を、選んだのだ。
実際にトランプが役に立ってくれるかどうかは別として、とにかく彼を選んだ。
彼の言葉の方が、胸に響いたから。


森にオポッサムを獲りに行かなくてもいい、そんなに貧乏じゃない人たちもトランプを選んだ。なんでかっていうと、トランプの言ってる事が飾らない本音で、自分たちの気持ちを代弁していると感じたからだ。


私は、外側に敵を作る人たちというのは、結局は深く疲弊しているだけなのだと思っている。
人種差別はつまるところ八つ当たりであって、なんらかの強いフラストレーションや不満や怒りや恐怖や痛みを誰かにぶつけたいだけなのだ。
まあ、私怨から特定の人種なんかを憎む人もいるかもしれないけれど、それだって結局は心の痛みから発生している。

だからと言って同情出来るものでもないんだけれど、とにかく今回のトランプ勝利の現実は、如何に多くのアメリカ人が、実のところ非常に不幸なのだという事を現していると感じて、私は非常に、ガーーンとなってそしてその現実が、厳粛な悲しみとして心に広がりまくっているのだ。

アメリカには、自分のオポッサムを誰かが奪いに来ない様に、高い塀を作りたい人たちが、沢山いる。

そういう人たちにとっては、世界平和や差別の無い社会や自然界との調和や、エコやオーガニックやGMOやスピリチュアルや、高い精神性やウィットのあるユーモアや芸術や、多様性や平等や品格やそんな物なんかより、攻撃的で閉鎖的で、差別や憤怒に溢れ、恐怖と不信に満ちた心を代弁し、堂々と市民権を与えてくれる下衆なオヤジの方が、遥かに現実味があったのだ。

貧乏であれ金持ちであれ、トランプの言葉に説得力を感じる、不安で不幸で脅かされている人たちが、アメリカには沢山いるのだ。


その現実に、改めて光が当たった。

人類が進化して、中世の時代よりはずっとフェアで人道的な法律や価値観が行き渡っている文明社会において、より高潔な高い意識をもって生きてゆく理想的な流れがある一方で、様々な理由によって社会的に虐げられたり働けなかったり思う様に生きられなかったり稼げなかったりして、傷ついた痛ましい心を抱え、怒りと憎しみに燃え、怖れと不安で身動きがとれず、毎日が生き延びる事だけで精一杯な人たちが、この世にはいるのだということ。

もちろんKの様に、過酷な生活から自分の力でいっぱしの生活を勝ち取れる人もいるけれど、病気とは認定されない程度の精神疾患や、身体や心の弱さを抱えた人たちは、どんなにひとりでがんばっても、立ち上がれない事もある。


それがなんだと言うわけではない。
単に私は、Kの話してくれたオポッサムの話を、おもしろ可笑しく楽しんで、それ以上何も、気付こうともしなかった自分の目を、トランプの勝利が覚ましてくれたなと、思っているだけだ。

そしてそれがとても悲しくて、ただごめんなさいと、天に向かって謝りたいだけなのである。