2017年3月9日木曜日

Twitterのバウンダリー

ブログやTwitterをやっている人には、それぞれ異なる目的や動機やルールがあると思います。

この領域においてはまだ、何が普遍的に正しくて誤りなのか、というマナーやルールという物は、明確には言えない、若い文化なのだと思います。

しかし私が思うにここには人付き合いにおける距離感やバウンダリーのセンスに起因する暗黙の良識的了解があり、多くの人はそれをなんとか、守っている様に思うのです。


私の場合個人的に、どういう想いでTwitterやブログをやっているかと言うと、一般公開しておいてなんなのですが、これは完全に、プライベートな物だと思ってやっています。

プライベートな生活の中で感じたり思ったり体験したプライベートな事を、プライベートな友達に語る感覚でtweetしたりブログに書いたりしているのです。

自分がそうなので、通常私は、人のtweetやブログに対しても、同様の対応を心がけています。
つまり、「自分はプライバシーを見せてもらっている。だからもし、リプなんかをする場合でも、その人のプライベートな事情に踏み込み過ぎたり、台無しにしたりしては絶対にいけない。それをやる権利は、誰にも無い。」
と言った感じです。


相互フォローしている友人や知人やお仕事関係の皆さんのtweetの中には、私の大切にしている信条や美学や政治的立ち位置とは真っ向から対立する様な価値観や世界観をお持ちの方も沢山いらして、日頃からそういった主張や思想をよくtweetされてもいますが、私個人に向けて語られているので無い限り、そういった事に反論しに行ったりはしません。

それはその方々なりの想いや考えであり、私が個人的に、それは間違っているとか違うとか思っても、その人には全然関係無い事だと思うからです。
勿論、私個人に向かって語って来られた場合は正直に誠実に対応しますが、その人が勝手にtweetしている事というのは、その背景にどんな事情があっての行いなのかがまずわからないという事もあるので、そっとしておきたいと思うのです。


これには私がTwitterやブログについて、深刻に捕らえるほどではない「たかが」だと思っているから、という前提もあります。
勿論、影響力のある方のtweetやブログでの意見、あるいは誰かが切羽詰まって助けを求めていたりするケースや、誰かへの積極的な攻撃や嫌がらせに使っている場合等は「たかが」とは言えません。しかし一般的な人間関係という点においては、やはり「たかが」だと思うのです。

例えどんな非常識な罵詈雑言を吐いていたとしても、それが自分を含む特定可能な個人に向けられているのでない限りは、そのままそっとしておいてあげて全然オッケーな「たかが」だと思うのです。


私は先日、私のtweetに対してちょっと気の障るリプをしてきた知人を、ブロックしました。

その時の私のtweetの内容は、私がとても大切に想っているある少女が、私の事を綺麗だと言ってくれた、という物でした。
私はそれを照れ隠しに、美少女に美少女って言われた、という表現でtweetしたんです。
するとある男性の知人が、顔文字でゲッというような反応をリプして来ました。

この人物のリプには、兼ねてからやや逸脱した不躾さがあると感じていて、ちょっと気になってはいたのですが、親しみの表現として快く受け取り、今までは特に腹を立てる事もありませんでした。

しかし今回は見過ごせる物ではありませんでした。
私が件の少女と過ごしていたその時間は、本当に貴くてキラキラした、宝石みたいな時間だったのです。
眩しい様な輝きを持つこの7歳の少女は、いつも真っすぐに人の目を見て、感じた事をすっくと言葉に出来るとても勇敢な少女で、その言葉にはいつも清潔な輝きと、澄み切った鋭利な透明感があり、いつも私の胸を、清らかに深く貫きます。

その少女が私の事を、「You are beautiful.」と言ったのです。


私は、リアリストで健康的な自己批判精神に満ちている人間ですから、私がビューティホーかどうかというリアルな判定については、百も承知しています。
だけど私には、彼女が抱いた私へのその感覚が本当に貴く、まるで世界一大好きな人から差し伸べられた、一輪の花の様に感じられたのです。
私が自分の容姿をどう蔑んでいようが関係無い。
少女が美しいと感じた私の美しさを受け止めて、認めて、大切にしたい、と思ったのです。
だから文字に書き留めて、その聖なる瞬間を留めておきたいとtweetした。

そこに飛び込んで来た、否定的な顔文字。

もちろんその男性は、意地悪な嫌がらせをしようとしてそんなリプをして来たわけではありません。軽いジョークのつもりだったのでしょう。
しかしこの場合、意地悪な嫌がらせが動機にあった方が、なんぼかマシ、というシチュエーションではないでしょうか。

悪意がある、と断定出来る様な人間なら、いくら私の輝く時間を台無しにしてもしょうがない、相手にしなきゃいいんです。しかし、それが相互フォローしている知人から飛ばされたからかいとなると、問題は、より不快な物に、なりはしないでしょうか。


この辺りの私の感覚を、理解しない人がいるのは承知です。
しかし、瞬間的に深く理解してくださった方々から、慰めのメッセージをいただいたのも、事実です。
私は、ここでこの感覚を、まさに直感的にわかってくれる人とでないと、深い付き合いは出来ないな、と感じました。

この顔文字リプはまるで、大好きな人が私にくれたケーキを、関係無い誰かが突然やって来て、土足で踏みにじった様な印象を、私の心に落としました。
この行為は私にとって、絶交ーつまりブロックを決定するに充分なインパクトだったのです。


しかしながら。

これはたかが、Twitter上での出来事だ、という感覚も、同時に私の中にはありました。

Twitterで起こった出来事を、三次元の現実の人間関係に適用するつもりは、私には無いのです。

もしどこかでこの男性と偶然会ったら、なんにも無かった様に、挨拶するでしょう。
もしこの男性が、自分の行いを心から反省して謝ってくれたら、そこから新しい良好な関係性が生まれるかもしれない。
逆に、私が何で怒ったのか理解も共感もせず、ブロックした私を逆に怒っていたとしても、直接会えばそこではちゃんとした、有機的なコミュニケーションが生まれるのです。相手の出方によっては、そこで本当の絶交になるかもしれませんが笑。


メールやTwitterや様々なソーシャル・ネットワークにより文字文化が一般化して、今は本当に、書く力とリテラシーを求められる時代です。
本来さほど読解力が無く、読む事や書く事が苦手な人にも、当たり前の様に読む力、書く力が求められている時代ですが、そうそうはままならない事もあるでしょう。

だからこそ私は、Twitterやブログを通じてのコミュニケーションは、よりクリアに、しっかりとしたバウンダリー意識の元に行われるべきだと思うのです。


私は、特に私に向かって放たれた言葉で無い限りは、強い違和感や反感を感じても、相手にはしません。

しかし私に向かって行われた事に対して私自身が「失礼だ、不愉快だ」と感じた事に対しては、相手の事情〜例えば、悪気は無いのだろう、とか、うっかりしちゃったんだな、みたいな〜を汲む必要は無いと、私は思います。
だからはっきりと、態度に表すのです。


これは私が、プライベートな事を一般公開している時点で発生するリスクを承知しているからこそ、特に貫いてゆこうと思う信条です。
一般に公開しているんだから、何をされてもしょうがないだろう、という甘えた風潮への、はっきりとしたNOです。

これは私は人間を、人の良識や距離感やバウンダリーのセンスを、信頼しているからこそTwitterやブログを一般公開しているんです、という意思表示だし、上記の様な、人はどうせどうしようもないんだから、という甘ったれた感覚へのアンチテーゼでもあります。

そして誰かが求めているセンスのハードルの高さを、きちんと掌握出来る感性を磨こうよ、と、他者に求める気持ち&それが出来ないならすいませんが去らせていただくというはっきりとした線引きでもあります。


曖昧なツールだからこそ、自分の中に明確なルールを持っていないと、あまり良い事に、ならないと思うのです。