2014年7月20日日曜日

モリーとのフライト


友人が沢山出演する、どうしても見逃すわけにはいかない音楽フェスがコロラドであったので、学校が終わってから飛行機に乗って、開催地に向かった。

デンバー空港からとても小さなプロペラ機に乗って、高地にある小さなヴィレッジへ行く、その小さなプロペラ機の中でのこと。

私は通路側の席に座っていた。通路を挟んで隣は空席、そして窓際の席に座っている女性を見た時、あれ?と私は思ったのよね。

友達で、そのフェスの出演者である、モリーじゃないのかな、と。

サングラスをかけているのだけれど、人間てやっぱり、外観だけじゃないね、なんとも言えない、その人の醸し出す何かがあるね。特にモリーは、いつも全身から、なんともスイートな、優しい、甘やかな、可愛い空気を醸し出している女性なのである。

典型的なブロンド美人ではあるけれど、もっと、もうひと味、見逃せない何かを持っている、素敵な女性なのである。ちなみに歌手である彼女の声はそれはもう、とろけるような深くて甘やかな歌声で、ずうっと、ずうっと、ずうーーーーーーーっと、聞いていたくなるのです。

そんな、紛れも無く"主役"の特性を持った彼女、サングラスをして、ヘンテコなモンペを履いて、その上にフード付きのトレンチ・コートを着て、そのフードを深々と被って飛行機の席で行儀悪く爆睡してても、なんだかすっごくきれいな存在がそこにいる、そんな感じがして、惹き付けられたわけです。

ほぼ間違いないな、と思った。

しかし、大きなサングラスのせいで、声をかけるにはもう一歩確信が掴めない。

そんな時、彼女も私を見た。

あろうことか、数秒感、見つめ合ったのです。

そして、うううっ、となった時、彼女の隣、つまり、私と彼女を隔てる通路側の席に、女性が座ってしまった。だから、そこで一瞬遮られたのです。

するとその女性が、またすぐ立ってどこかへ行ってしまった。

飛行機は30分くらい中々飛ばず、隔てる席の女性も何故か全く戻らず、狭いプロペラ機の中で、私とモリーらしき人物との間に隔たりは無い。

ああいうのって、なんなんでしょうね。
声をかけなさいよ、とかいう、人生からのお助けなんですかね。
それでもなんだかお互いに、声をかけずにいたんですよね。

痺れを切らした飛行機は(?)ようやく離陸することをアナウンスし、私とモリーを隔てる女性も席に戻り、私は実はすごくホッとした。

だってもう、葛藤しなくていいじゃん?

飛行時間は50分。
降りる時に、また葛藤が来るよな、などと恐れたりもしましたが。
席を立って、体がぶつかったり目が合ったりしたらどうしよう、なんて。

なんであんなに躊躇したのか、自分でもわけわかりません。
でもその時は、どうもそんなモードに陥ってしまったんですよね。

さて、飛行機は着陸し、私が足下の荷物を取り出そうともがいている間に、モリーらしき人物は先に通路を、出口へと歩いてゆきました。
私と前を歩く彼女の間には、ひとりしか人がいません。

だから、飛行機を降りる時にモリーらしき人物が機長に向かって、

「なんて美しいランディング!素敵だった!!」

と声をかけるのが聞こえました。

そのさえずるような声と、好感度の大変高いその言動に、私は初めて確信したのです。
やっぱモリーだね。

フェスが始まっても中々モリーに会う機会が無かったのですが、彼女の出番のあった二日目の終わりに、楽屋でばったり出会いました。
すると私の顔を見るなり彼女は、キャー!!、というモードになって、

「ねえっっ!私たちって、来る時同じ飛行機に乗ってなかったっっっ!?」

と。(爆

ここからは多いに盛り上がりました。

お互いに怪訝な気持ちを抱えながら、しかも時々見つめ合いもしながら、一言声をかける勇気が無かった可笑しさ。

ほんの少し何かが噛み合えば、きっと屈託無く声をかけられたんでしょうが、なんだかそれが起こらなかったんですよね。

だけどそんなだったからこそ、その後楽屋での私たちの盛り上がりは常軌を逸した程になり、興奮して周りの人に語りまくったりして、すっげえ笑ったし楽しかったから、良かったのである。

メデタシメデタシ。

2014年7月18日金曜日

デイル・チフーリatデンバー植物園


デンバーが好きで植物が好きなのに、デンバー植物園に行った事が無かったワタクシ。

でも今回、ガラス・アートの先駆者デイル・チフーリの展覧会を開催中ということで、友人に誘われて行ってきました。

私は今まであまり、チフーリの作品に興味を持った事がありませんでした。彼の作品を、好きか、と問われれば、個人的には、諸手を上げて好き、とは言いきれない部分があるのです。

しかし今回はあまりの素晴らしさに、目から鱗が落ちまくりでした!
彼の作品は、植物や湖の中にあって、全く環境の空間を汚さず、しかも、自然物を凌駕するような圧倒的に肯定的な、すさまじいエネルギーがありました。

自然の空間の中にあって、あんなに互いを引き立て合う関係を結べるなんて、本当に羨ましい!!
彼の作品は全く自然物に迎合していず、しかしちゃんと自然と、調和しているのです。
あんなに美しい世界を造り上げる人だなんて知らなかったよ。容姿もあれだしさ。。。



←この人な。。。







と、とにかくこの展覧会、エンターテイメントとしてもアートとしても庭石としても、実に最高に狂っていて、最高にすごかったっす!!チフーリ偉い!!!





ところで、デンバー植物園は、植物園の規模としては、そんなにたいしたことありませんでした。

もちろん、とても素敵な所なのですが、アメリカは色々と、どこもかしこもスケールがあれなので、それに比べると比較的こじんまりとしていて、特質のある印象はありません。

ですがカフェのメニューがですね。さすがだったんでございます。

アメリカの好きなところのひとつに、ミュージアムや植物園や動物園なんかの公共施設のレストランやカフェのメニューのグレードを、落とさない、という所です。


デンバー植物園でもそれは例外ではなく、チフーリの作品を見渡せる大きな池を囲むウッドデッキのカフェでは、オーガニックでナチュラル素材の、質の高い食材で作った様々なメニューがあって、とても美味しかった〜。。

私がオーダーしたのはハンバーガーでしたが、このハンバーガーだけで10種類以上も選択肢があって、しかも一流レストラン並のオリジナリティー。
バンズもグルテン・フリーの物をちゃんと用意してありました。

私が注文したのは、獅子唐のたっぷり乗っかったプラムソースのハンバーガー サツマイモのフレンチフライ添え。日替わりのハーブ・コーディアルも、たっぷりの量でとても美味しかったです。いつもは食事の写真を撮る私ですが、今日はさすがにチフーリに圧倒されてそんな気にはならなかったな。


とはいえ、チフーリを褒めるのも早々にスカッと話題が団子の方にシフトしちゃいましたけどね。。

まあとにかく、大興奮のチフーリ展@デンバー植物園でした。実に幸運にもこの展覧会の開催時にコロラドにいられたことを、本当に感謝しています。

ちなみに、チフーリ展は今後も同じ作品でアメリカを数カ所巡業するみたいなので、どちらかで遭遇されたら、是非ご覧になってください。

今まで日本のホテルのエントランスやら床の間なんかにあってもピンと来なかったチフーリですが、植物園、これですよ奥さん。

やはりオブジェは、環境と持ちつもたれるじゃないとなと、私は個人的に、思うんですね。




2014年7月14日月曜日

海路図


私は漠然と、人間というものは元々大きな自分の海路図を持って生まれてくると考えています。

運命と言ってもいいのかもしれませんが、その人の持つ才能や特性が最適に生かされる設計図があらかじめ用意されており、しかしながら人生を歩む上でのひとつひとつの選択の仕方によって、その最適化された回路図の、最短ーお得コースを行くか最長ー遠回りコースを行くのかが、決まってくるのだと感じています。

だから、運命は漠然とあるんだけど、選択の自由もある、というような設計に、人生というものはなっているんじゃないかな、と思うわけです。

なんでこんな事を朝っぱらから考えているのかというと、昨日の私の、なんとも言えない幸福感の原因はなんだったのかなと探っていたところから始まりました。

昨日私は、特にいい気分で目が覚めたわけでもなく、一日を実にニュートラルな気分で過ごしていました。

でも午後になって、クラスの授業の方向性が混沌とする事態が起こりました。

私が今参加している学校では、大まかなカリキュラムや授業の方向性は決まっているのですが、クラスが進行する中で、重要度の大きな事が現れてきた場合にはいつでも変更可能というか、その時その時のニーズに合った内容が展開されてゆくようになっています。
おもしろい事に、これは私が人間の運命の流れについて感じている事と共通しているなあと今ふと思いましたが。。

とにかくそんな状況の中で、強く提案されたのが、プランAでした。

私は、プランAでも一向に構わなかったのですが、なんとなく感じた違和感を無視出来ず、自分はそれでもいいのだけれど、出来ればプランBを優先して欲しいと思う、と手を挙げて意見を述べてみました。

すると、他のクラスメイトの数人がそれに同調し、ではもう一度考え直しましょう、という事になり、結局は私の推したプランBを先に行い、それが終わって時間があったら、プランAをやることにしましょう、という結論になりました。

私は、自分が提案した、やりたいと思った事が通った、という事もまあ嬉しかったのですが、そんなことを遥かに超えたある部分で、その結論に達した時に、なんとも言えない深い安堵感の様な物に包まれ、その安堵感がどんどん大きな幸福感へと変わってゆくのを感じました。

こんな大きな幸福感を感じる原因はどこにも無いなあ、と思いながらその日の授業を終え、そしたらディナーを食べている時にショッピングにつき合ってと誘われ、期せずして私の大好きな、夕闇が迫り来る直前の逢魔が刻(by大島弓子♡)のドライブに行けることになり、おまけにその人が行こうとしていた店がもう閉まっていた為、オイラの大好きなスプラウト・ファマーズ・マーケットに行ける事になっちゃって浮かれまくっていたところに虹まで出たりして、もうヤッホー!な気分は留まるところを知らないって感じになったのでございます。

それでも一連のこの出来事は、私の内に突然沸き起こっている大きな幸福感と満足感を説明する材料にはなりません。
まあ普段から、状況の善し悪しに関わらず基本的に脳天気なので、理由は無いけどハッピーだわって感じには慣れているのですが、昨日感じていた幸福感には明らかに裏付けがある、と思っていたわけなのです。

で、今朝、はたと閃いたのです。

恐らく私を含め人類全般というものは実は、普段から漠然と、運命の最適化された設計図、っていう物を見ているんじゃないのかなと。

で、昨日クラスの方向性がプランAに行こうとした時に私が感じた違和感は、それは間違いでは無いけれど、元の海路図はプランBなのにな、っていう違和感だったんじゃないかと。

それで思い切って自分の意見を述べて、それが通ったわけですが、それはそういう表面的な事だけなのではなく、恐らく元の海路図に沿ったコースに乗ったということで、そのことで私の人としての本能が、すっごく幸福になった、つまりあの幸福感は、より生物学的な、より人間という生き物としての本能の領域の中で起こった、イエス!それこそがそれよ!!っていう、そういう幸福感だったんだなと。

今はそう実感しているわけなのです。

というわけでコースに乗りまくった私は、その後ディナー後から就寝までの、普段だったら歯磨きしてお風呂に入っておしゃべりして寝るだけの日常の中に、ドライブして虹を見てスプラウト・ファーマーズ・マーケットに行ける、なんていうちょっとした褒美まで手に入れてしまったのではないのかなと。

私は、遠回りが悪いとか、海路のコースの選択を誤るべきではないとか、全然思ってないんですが、海路図通りに進んだと思われた昨日の物事の流れのスムーズさとスカッと嬉しい感じは、本当に気分がよかった。

これは、仕事で成功を納めたとか素敵な彼氏が出来たとかいう類いの、なんらかの夢が叶ったというような一般的に言われているいい事とは、全く関係が無いんだなと思います。

もし何か、具体的な良い事が起こっても、それがもし海路図からズレている出来事だとしたら、きっと私はあんなに大きく広漠とした、心の底から安堵するような幸福感は、抱かないんじゃないかなとも思うのです。
もちろん、ちょっと嬉しい♩はあるでしょうが。

世間では、人間だって所詮動物だ、とかいう言い方で正当化されたがる、色んな下世話な性癖があるけれど、本来動物というのはこういった、非情に大きな最適化された海路図と結びついて生きているのであり、そこからズレた所で行うどんな行為も、動物だから、という理屈で正当化されるというのは通らないのではないかと感じます。

むしろ人間だけが様々な理由で、グラッと、海路に無いコースを選ぶことがあるんじゃないかな。

これは世間の目を気にするとか、単に臆病とか、そういう事だけではなく、こうした方がよりサービスになるんじゃないかな、とか、相手への余剰な思いやりが動機になる場合もあると思う。

昨日クラスで起こりかかったのは後者で、プランAを選んだ方がより親切なのでは、という動機があったのだと思います。
だから私は、遠回りのコースを選ぶ人を残念とかは思いません。
間違ってる、というんでもないと思う。
なんたってこの海路図のアイディアそのものが、私の私的な感覚ですからね。

でも結果現実として、今は全員がプランBで良かったと感じていて、全員が満足してるんだから、やっぱりあの時一歩踏み出して、手を挙げて提案してみて良かったなー、と思う訳なのです。

きっとあの時口を開かなければ、すっと違和感と共に今日を迎えていたのかもね。

これは、昨日スプラウト・ファーマーズ・マーケットの駐車場から撮った空。↓


2014年7月9日水曜日

コロラドに来ている


コロラドに来ている。

相変わらず広大だ。

この写真はキャッスル・ロックと言って、お城じゃないのにお城にしか見えない、自然に出来た山頂の岩だ。

移動中の車の中から撮ったので曲がっちゃったけど、実物はこんな風には斜めじゃなくて、もっとちゃんと、威風堂々とそびえ立っているのよ。

どう思います?
白い、お城にしか見えないでしょ?まるで絵画みたいでしょ?どうして時に自然は、こんな事をするんでしょうね。

前にも書いたけれど、コロラドと私の縁は深い。
そして縁が深いだけあって、コロラド絡みでは色んな幸運がたくさん起こる。
言ってみれば、色んな幸運がたくさん起こる場所や環境って、ここがあなたの本当の居場所だよ、と語りかけてくれるサインの様な気もする。

私は最近、このサインをくれるエリアが俄然広がってきたのだけれど、コロラドのレベルには到底及ばない。
だからコロラドは私の、本当の居場所なんだろう。

一昨日、知人の家の引っ越しパーティーに招かれて伺った。
パイクス・ピークという、標高4000mを超える観光地としても有名な高山を臨む素敵な丘の上に建っている、素晴らしい家だった。

お料理ももてなしも素晴らしかったのだけど、最近の私は社交の為の会話、というものがからきしダメになっていて、とか書くと、付き合いの長い人から今に始まった事じゃねえだろとお叱りを受けるかもしれないのだが、いやもう本当に、全くもって忍耐がなくなってしまったのよ。

それで、パーティーという席はそういう事になりがちですし案の定そういう感じだったので、ちょっくら抜け出して家の周りの大自然の散策をし、木陰で寝転がっていたんですね。

そうしたら、もんのすごく大きな、ブーンという蜂の羽音が、耳のすぐそばでするじゃあありませんか!
恐れおののいてドバッと目を見開くと、なんとそこに居たのは、ハミングバードだったんですよ奥さん!!

まあ、コロラドでハミングバードはたいして珍しく無いんですが、やっぱり地元の人にとっても気分が上がる鳥だそうだし、その日はアメリカに着いた次の日だったんで私の常識はまだ日本でしたから、なんだかすっごくラッキー♩と感じてしまったのでした。

しかも帰路、何故か私は連れに、パーティーでの態度を褒められたしね。
自分の気の向くことしかやらなかっただけなんだけど。
無理をしてでも社交的に、毒にも薬にもならないような会話をすることが良き社交術だと思われるのかと思いきや、浅い会話に混じらないで好き勝手に楽しくやってたのがよかったらしいですよ奥さん。
時代はもうそんな風な、ありのままにーな感じになっているんですね。


まあそれはともかくこのハミングバードが、どうも今回の旅のテーマのようで、家に帰ると家人がハミングバード招集作戦をするって言うし、友達が大量のハミングバードが家に集まっちゃったビデオをタイムリーに公開したりして、まるで前回のパスカルズ・ツアーが、鰻に始まり鰻に終わったように(一例:ツアー前夜バンマスから、ツアー先の名物 鰻弁当の購入計画メールが届き、ツアー最終日のライブ・ハウスが、鰻通りという所にあった等。)
どうやら私の今回のコロラド・ツアーは、ハミング・バードに始まりハミング・バードに終わるのかもな気配が濃厚なのである。

ハミング・バードは愛や復活、幸運の象徴と言われていますから、来る時成田で両替したら、666ドルという獣の数字になっちゃった事なんてスカッと忘れさせてくれるような、なんかいい事でもあるに違いない。

なんたってここはコロラド。
ただでさえ私の味方な上に、ハミング・バードまでついてきちゃうっつうんだから、鬼に金棒よ!

てか今のところ、ハミングバード寄せの効果は無いです。。




←これがハミング・バード呼び込みセット。
赤い液体は甘いネクターで、それをハミング・バードにとって飲みやすい型になっている瓶やグラスボールに入れて軒先に吊るす、人間の考えた涙ぐましい作戦である。
ネクターが赤いのは、ハミング・バードって赤い色に惹き付けられるからだそうですよ。私みたい。



          


 成功例↓


2014年6月11日水曜日

お花畑クッキー


あるパーティーの為に、先日ハーブのブーケを送ってもらった炭素循環農法で肥料も農薬も使わずにハーブを育てておられる、兵庫のまるふく農園さんから、エディブル・フラワーやハーブをたっぷりあしらったクッキーを取り寄せた。

材料は国産小麦粉、ざらめ、卵、ハーブだけ。素朴だけど味わい深いざっくりとしたクッキーでとても美味しい。

見た目もご覧のように、ワクワクするような素敵さです♡


ところで私はオーガニックや無添加の物を好む人間ですが、そういう物を食べなければ人間はどうにかなっちゃう、と信じているわけではありません。
何故なら私は素材以上に、人間が何かを創り上げる時に生じる、錬金術的な魔法の力を信じているからです。

だから逆に、どんなに厳選された安心安全な素材を使って創られた物でも、作り手がリジットで排他的な心、例えば、マクロビオティックをやらない人間はアホだとか、ビーガンじゃない人間は野蛮だ、というような心を持っていると、そこに素敵な錬金術は作用しないんじゃないかな、と思うわけです。
同様に、おざなりな気分で創られた物にも。

だから素材に関わらず、丁寧に創られた物が好きだし、宝石みたいなデザインを施された美しいスイーツなんかも大好きです。


以前エッセイ漫画に描いたことがあるので覚えてくださっている方もいらっしゃるかもしれませんが、アメリカでローフード・シェフをやっている知人がいて、彼の主張は、とにかく色彩なのです)笑。

野菜や果物の色彩にこそエネルギーが宿ると信じる彼の料理は、まさにサイケな色彩の魔術。

人間は、四季の彩りを目と口から接種する事で、その滋養を完全に取り入れる事が出来ると主張する彼の存在感はいささかエキセントリックで極端な印象ではあったけれど、どんなに強烈な言葉を使っていても、彼が食材を触り愛でる姿には、胸を打たれる真摯さがあり、出て来る料理も、その美しさは言うに及ばず、とにかく優しくて美味しくて、私はその時患っていた、高山病による頭痛があっという間に消えてしまったりしたのです。

そう伝えると彼は、ほらね、食材の"色"は、すごいんだよ、と目を輝かせていましたが、私は心の中で、いやいや、あなたの料理と客への愛情が、こんな魔法を生んだんだよ、思ったものです。

真相は定かではありませんが、とにかく私は人が、丁寧な心でじっくりと生み出す物が大好き。

私もまたそんな作り手になりたいと思って、最近ではややせっかち気味だった心を抑え、ひとうひとつの作品や計画に、自分の納得出来る時間を、じっくりとかけることにしてみています。

2014年6月2日月曜日

ソプラノズ


昔からファンなんである。

私はストーリーを創る仕事をしているので、特に私の個性では書けないようなタイプの話で、そして脚本が素晴らしいとなると、本当にのめり込んでしまう。

このソプラノズは観るたびに、一体誰がこんな脚本書いてるの、と思ってしまうのです。

私がもう何年も前にこのドラマを観始めたのは、3シーズン目くらいからで、始めの頃の話を知らなかったのだけど、最近ネットの配信で初期の頃のシーズンを観る事が出来る様になったので、美味しいお菓子を一個ずつ楽しむように、少しずつ大切に観ている。

昨日は一日の予定が大変すみやかに済んだ上に、成功報酬をあげてもよいような出来事があったので、夜遅くに帰宅してから、ソプラノズに手を伸ばした。


昨日観た話も、めっちゃおもしろかったです!!

とにかくこのドラマは、マフィアのドラマだから、出て来る人たちが全員ろくでもない。

主人公のトニー・ソプラノは幹部クラスのマフィアで、ふたりのティーンエイジャーの子供と奥さんと共に、プール付きの、結構な屋敷に住んでいる。

話は主に、家族関係やマフィアの人間関係や事件を中心に描かれるのだけど、何が面白いって、ひとりひとりの性格が、大変詳細に設定されていることが面白いのだ。

基本的にトニーの率いているマフィア・ファミリーの人たちは、その家族に及ぶまで、みんな情に厚くて善人である。
しかしここで、何を持って善人と呼ぶか、という点においては、多分一般社会におけるモラルを基準にした価値観とは著しく異なる。

何故なら彼らはマフィアなので、ごく日常的に犯罪的な裏家業で金儲けをし、都合の悪い奴はケすからだ。

そう、このドラマでは、普通の、家族を愛し近所付き合いに気を使う一家の大黒柱が、いとも簡単に人を殺したり殺されかかったりする。

もちろんドラマの背景ではFBIが必死になって、トニーの尻尾を捕まえようと色んな策を講じる様子も頻繁に描かれている。
彼らはアメリカの法治国家の中にいて、巧みに犯罪を繰り返して生き伸びていて、しかしそれがあんまり大きな問題としては、このドラマでは描かれない。

このドラマで問題になるのは、あくまでもトニーの個人的苦悩、ファミリーのメンバーの個人的苦悩、家族の個人的苦悩で、大変重苦しい苦悩の中で、みんな生きているのです。
その苦悩の有様が、実に丁寧な性格描写で描かれているのである。


昨日私が観た回では、トニーの愛甥クリストファーが銃で撃たれ、ICUで一時心停止となる。クリストファーはその臨死体験中に地獄へ行って(笑、既に他界していたファミリー数人が、緑色の悪魔とギャンブルに興じているのを目撃するのです。

その、亡きファミリーから、トニーとその相棒ポーリーへの伝言を受け取って、回復します。その伝言は、ひとこと、「3時。」

当然、「おい、3時ってなんなんだ。」って話になりますよね。
強面のトニー(写真真ん中)とポーリー(写真右)は、そう見えて実はとっても繊細。

特にポーリーは、このドラマ・シリーズの後半で大変興味深い神秘体験をするというエピがあるほど、たいへん信心深い性格です。
まあ、信心深いんですけれど、特に臆病で、ですので、ファミリーの中では比較的衝動的に人を殺したりしてしまいます。

恐れの強い人というのは、防衛心も強いので、過剰な防衛意識によってやったら攻撃的になる、という、セオリー通りの男なのです笑。

クリストファーから聞いた話によって密かに動揺したふたりは、それぞれの解決策を取ります。


トニーはセラピーへ。
ポーリーは、愛人から薦められた霊能者の元へ行き、「3時」の意味をクリアにしようと画策するのです。


いやー、面白かった。

このドラマは、決してコメディではありません。

キリスト教など、伝統宗教に縛られない日本という国で生きていると、地獄とか神様とかいう存在が、こんなにも影響力があるという事が、実感としてはわからないのだけれども、基本的にソプラノズで描かれる彼らマフィアは、大変保守的な価値観を持っていて、この感じは多分、キリスト教原理主義に近いのではと感じます。

だから、と言ってはなんですが、割と平気で、人種差別やゲイ差別の発言が出て来ます。
でも基本的に彼らは、どうしようもない人間、として描かれているので、そういう事もあまり気になりません。

とにかくこのドラマに出てくる人たちは大変泥臭くて、自分なりの正義を貫くことで、家族や友人にとっての善良で愛情深く思いやりのある良いパートナーであろうと懸命に努力しているんだけれども、時に衝動や感情に振り回されて、非情にとんでもない事をしでかしてしまう、というケースが多々あるので、発言に問題がある程度では、観ている側もさほどギョッとしないわけです。


とにかく昨日の話では。

愛人に、死者と会話できる霊能者の所に行って、「3時」の意味を明らかにすれば、もう悪夢も見ないわよ、と言われたポーリーは、まずは罵詈雑言でその霊能者を馬鹿にするのですが、結局は助けを求めに行き、グループ・セッションの席でその霊能者がどんどん色んな事を当ててゆくことに、徐々に感嘆を感じ始めます。

そんな矢先におもむろにポーリーの前に立った霊能者が、ポーリーの背後に立つ幽霊と会話し始め、そしてその複数の霊の名前を告げ出すのですが、それが全て、ポーリーが過去に消した人々の霊だったからさあ大変だっっ!!

幽霊の怒りをポーリーに告げる霊能者、恐怖で暴れるポーリー。それを見て爆笑する私(笑)。。

結局のところポーリーの恐れは、癒されるどころか更なる凄みを増す結果となり、這々の体で霊能者のところを逃げ出します。そしてホッとする私。いや、いつもの流れだと、ポーリー、この霊能者を、その場で殺しかねないっすから。


まあ、そんな素敵なエピソードがいくつもちりばめられながら、それぞれを重要なファクターとしつつ、物語はより深刻な方向へと、どんどんどんどん流れてゆく。

それが、ソプラノズです。

まだまだ観ていない回が残っているので、また一日がうまく行った時、ホクホクしながら見続けようと思うのである。

2014年5月31日土曜日

天才画家の教え(笑


先日、今アメリカで話題になっている天才少女画家のインタビューを観ました。

彼女は物心ついた時から絵を描き始め、全くトレーニングを受けていないにも関わらず、幼少期からレンブラントやドラクロア並のデッサン力を持ち、かなり高度な写実画を描きます。

分類すればラファエル前派的な、綿密な写実+幻想的な味付け、っていう感じの画風で、好き嫌いは分かれるとは思うものの、画力がすごい、ということだけは決定的に確かな作風です。

彼女は対象をスケッチするのではなく、全く何も見ないで、ただ自分の中にあるイメージをキャンバスに写すだけなのですが、特に人物画のリアリティに関しては、瞳の中の光に至るまで真に迫るようなリアリティで、ただ感嘆してしまいます。

この写真はネット上で勝手に持ってきちゃったんですぐに削除しなきゃならないかもですが、彼女が12才の時に描いた"宇宙の仕組み"だかなんだかの世界で、実際の宇宙物理学者が、何故これを知ってるんだ、と驚いたくらい、正確に描写しているんだそうです。

彼女は絵の才能があるばかりでなく大変高潔な価値観を持ち、まだほんの子供なのにも関わらず、素晴らしいことを沢山しゃべります。既に高額な値段のついている自分の絵画の売り上げは、殆ど困窮している世界の子供達の為に使い、なんでかっていうと、その為に描いているから、としゃらっと語ったりします。
時代が時代ならセイントという類として、ヴァチカンが認定してもいいくらいです。もしかしたら、今後そういうこともあるかもしれません。

こんないい大人の私でさえ彼女のドキュメンタリーを観て、様々なレベルでリラックスすることが出来ました。なんでかって言うと彼女がすごく自由で、その自由さが、私の自由さを完全肯定してくれたからです。

画力という点では感嘆に値するに申し分無く文句のつけようも無いのですが、私が最も感心したのは、実は彼女の両親の態度でした。

インタビューではまだ年若い彼女の両親も登場するのですが、彼女がごく幼少の頃から、4日間くらいは全く物を食べないということが、頻繁にあった、というのです。

それをこの両親は、そのままにしておくことを、許していたのです。

4日間くらい何も食べず、それから時々果物や野菜を少量食べ、それだけで彼女は健康な少女に成長しているわけですが、それを彼女に許していた両親がすげえ!!と私は思ったのです。

彼女は今でも殆ど物を食べず、食べても野菜と果物だけ。動物性の物は一切口にしないと言いますが、彼女の両親は、インタビューでも言っていますが、ごくごく普通の、大変平凡なふつう〜の人間なのだそうです。
彼女は、天国や天使の絵等も多く描くのですが、そういったキリスト教的世界観の話を彼女にしたことも、一切無い、と言います。

つまりこの両親は、特に宗教や精神世界に心酔するようなタイプではない、ごく一般的な、お肉にもジャンクなスナックにも抵抗を示さない、普通の健康的な、平均的アメリカ人だ、ということです。

今では娘の影響を受けてベジタリアンとなったり彼女のチャリティーに協力したりと、色々と清々しいサポートをしているのですが、彼女がまだ幼少の時、つまりまだ野の物とも山の物ともつかない時代から、彼女の特異性に気付きそれをずっと尊重していたなんて、本当に素晴らしいなと思います。

物を食べない、という感覚が、私にもよくわかるのです。

私も物を食べない子供だったからです。

しかし私の親は、ごく一般的な親同様、食べない子供を心配し心を痛めるタイプでしたから、私はある時から、親に心配をかけまいとして食べ始めたのです。
今では食べる事をすっごく楽しんでいるのでまあそれはいいんですが、私が彼女のインタビューを観て真っ先に思い出したのは、そのことでした。

私は今行っているアメリカの学校で、後天的な脳への刷り込みが如何に人間の、生来の自由さや能力を奪っているか、という勉強を沢山しているので、この少女の両親が、彼女の「食べない」を尊重した結果に、改めて感嘆してしまったのです。

様々な思い込みさえ無ければ、もしかしたら人間て、今とは全く違う生き物なのかも。
と改めて感じさせてくれるインタビューで、とても面白かったです。

人間社会には、後天的に作られた掟が、多数存在します。

例えばある宗教は同性愛を認めていませんが、それって、何が根拠になっているのか。

同性愛を指示する友人が、「同性愛を許すと出生率が減って人類が滅亡するじゃないか」的抵抗を受けて、それってまるで、鳥にウサギを見せるとウサギになっちゃうから大変、みたいな突拍子もない発想だよね、と語っていましたが、このようにある種の人間が、同じ種の中における単なる違いを、そんなパラノイドな脅威として受け取ってしまう傾向があることにも、実際驚かされます。

このような、既に限界意識を後天的に刷り込まれた人間による、限界意識に満ちた価値観によって"異端"とみなされた存在が実は、より自然な生命体としての人間なのかもしれないという可能性だってあると思うのです。

私は、学校でそういう事を勉強しているからと言って、人類全体が後天的な刷り込みなるものから自由になればいいのに、とか思っているわけではありません。

ただ、人間が、人間の多様性に、もっと自然に心を開けばいいのに、とは思います。

まあ、多様性に心を開いている人間は、他の人の価値観なんてあまり気にならないのでいいんですが、ただこの少女みたいな自由を、誰もがすんなりと赤ん坊の頃から手に出来るわけではない、という点が、ちょっとひっかかるんですよね。

自分の経験上、子供という物は親が思う以上に早熟で、親を思いやるあまり自分を曲げるっていうことを、結構してしまうものだからです。