今朝のABCニュースで、牧場に迷い込んだ一匹のビーバーに興味を惹かれた150頭の牛達が、ぞろぞろとビーバーについてゆく映像をやっていました。
以前にも私は、玩具だかボールだかを追う牛の群れの映像を観た事があり、牛という動物の個性みたいな物を感じてとても嬉しくなりました。
牛には大変お世話になっています。
私はベジタリアンじゃないし乳製品が好きだから、特に。
親しみのある、と思っていたこの動物の意外な一面を知り、食べ物以外の牛を実はまるで知らなかった事に改めて気付かされたりもしました。
このニュースを楽しく観た後に私はふと、なんでこんなに心が嬉しい感じがするのか、という点に意識が行き、ああ私の心は、牛の個性を観る事が出来るこういう生育環境、つまり、牛が牛らしく生きられている環境で牛が飼育されている事と、牛が牛らしさを失っていないという事に、喜んでいるんだ、という事に気付きました。
これは、映像を観て愉快だな、と感じる表層の反応の、背後にある感覚です。
私の心は、ユーモラスな牛の様子を楽しむ奥で、もっと普遍的な感覚から生物学的な"快"を感じ、このニュースに心地の良さを感じたのです。
人間は結構この、表層の感覚の背後にあるより深い普遍的なセンスに左右される物なんだなと思いました。
表現の表面がなんであれ関係無い、という部分がこれにはあります。
美しい森の映像であれ醜悪なゴミの写真であれ、その表現の深部の背後にある意図や動機や真実に、人間の快不快の感性は動かされるのです。
そういう事を実感させられる出来事に最近よく遭遇もしています。
例えば日常的には、優しい、親しみのある言葉を話す人の背後に、真逆の動機がある事に気付いている人と、そのストレスについて話し合う機会がやけに増えているし笑。
生物学的普遍的感覚に完全に鈍感な選択や感想を目にする事も多い世の中で、最近、行動の背後にある動機に反応して、快不快を直感的に感じ取っている人に会う事が多くなっているのは、とても頼もしい恵まれた事だと感じています。
この普遍的な感覚がOKと言う事で、ある物が長く安定した揺るぎないマイブーム等へと繋がってゆく事もあるのかもしれません。
ただ、個人の人生や生活が常に危機感に脅かされていると、この普遍的な生物学的感覚とは切り離されてしまうと私は思います。
疲弊した肝臓が活動を活発化するために毒や刺激物を求めてやがて破壊される様に、心にもそれが起こるように思えるのです。
私の経験上、強烈な危機に見舞われた人は逆に普遍性に回帰する事が多いのですが、問題なのは、弛緩し習慣化した、誤摩化せる程度と感じられる心の危機感です。
生物学的普遍的感性に響かないような物が一時的に人気を博したり好ましいと受け取られる事って、実は人間の心や世の中の危機の象徴的現象なのかもしれません。
これは勿論さっき書いた様に、何がそこに描かれているのか、という事には関係ありません。
モチーフは、関係無いのです。
よくない動機を持つ人が、自分の言語や行動の表現を妙に優しく親しみやすくして、ステレオタイプの善人を装う事がよくあるのとおんなじで。
2017年4月20日木曜日
2017年4月10日月曜日
差別
アジア人の女性が、予約していたAirBNBのホストから、アジア人だから、という理由で宿泊を断られたというニュースを読みました。
このAirBNBのホストが外国人に英語を教える言語教師だったらしいという事で、ただでさえかんかんに怒っている普通に良識のある人々の怒りに油を注ぎ、結構炎上している模様です。
トランプが大統領になって以来、彼やバノンがおおっぴらに差別発言を繰り返す事で、潜在的人種差別主義者たちが今、大変おおらかに自分の主義を表明している傾向があるように思えます。
私個人は、こんなに何年にも亘ってアメリカに入り浸っているにも関わらず、今まで一度も人種差別に遭ったことはありません。ですのでそれをされたらどんな気持ちになるのかが、実際のところあまりよくわかりません。想像がつかないのです。
こういう無知な状態の人間は、机上の理論で傍若無人な感覚を持ちがちであるという例に違わず私も人種差別に関しては、こんな風に軽く思う程度でした。
「人種差別は、持つ側の問題で、差別される側の問題ではない。差別される側は気にする必要無し。」
勿論、宿泊先を確保出来なかった上記のアジア人の様に、差別に伴う実害を経験している人は大勢いるので、差別される側に問題が及ぶケースは多々あると思います。ただ私のこの感覚は、差別されている側に非があるわけではないという、シンプルな事実に根を降ろしているだけの感覚で、差別にそれ以上の深刻な想いを持つ事はありませんでした。
そしてそんな私にある日、友人が差別されるのを目の当たりにするという出来事が起こりました。
ダークスキンのこの友人Aをあからさまに差別したのは、私の尊敬する友人で才能ある音楽家の男性Bでした。
私自身はこのBから差別的な待遇を受けた事が無かったので、兼ねてから友人らの口から出る、Bは差別的である、という噂を信じる事が出来ませんでした。
また、例の机上の持論で、別に政治家でもなんでもない、言わばはっきり言ってエキセントリックでも全然問題にならないアウトローなアーティストである彼が、どんな嗜好を持っててもいいんじゃないんですか、作品さえ素晴らしければ、てな感じで、たいして問題にも思っていなかったのです。
以前フランスから老齢のシャンソン歌手が来日された時に世話役だった友人が、その老齢の歌手がアジア人や日本食を全く受け付けられず、ホテルの部屋に籠ってしまってリハーサルと本番以外出て来ない、と言って笑っていたのを思い出します。
日本にだって外国人に慣れていない老齢の方で、白人だろうがなんだろうがモンスター扱いする人はいると思うし、そんなのを深刻に受け止めてたってしょうがないじゃん、てな感じで、軽く受け流していたのです。
しかし奥さん!!
実体験という物は、時に机上の理論とは、真逆の結論を導き出すものなのですね!!!
この音楽家Bは、友人Aの存在を、初対面からあからさまに無視しました。
まるでいないものの様に扱ったのです。
Aがパーティーで打ち解けて周りから一目置かれ始めると、今度はA以外の人を著名人に紹介したりし始め、Aをのけ者にしました。
パーティーにいる間中、私は一部始終それを見ていました。
何故私が、Aを連れてその場から去らなかったかと言うと、私自身がBの態度の動機に確証が欲しかったために観察を続けたかったのと、Aが去らねばならない理由が無かったからです。
というわけで。
この経験の終焉に私は、生まれて初めて、後にも先にもこれが初めてだよ、というくらいに強烈な、非常に純度の高い、『軽蔑』という感情が、腹の底から沸き上がって来るのを押さえる事が出来ませんでした。勿論、Bに対してです。
この軽蔑という感情には、怒りとか悲しみという感情が一切入っていなくて、なんていうんですか非常に冴え冴えとした、非常に明晰な、軽蔑、という感覚以外のなにものでもない、非常に大きな感覚でした。
この"軽蔑"という感覚は、今まで100%素晴らしいと思っていた人物を、強マイナスに貶める威力があり、我ながら驚きました。
かくしてこの日以来、私の中ではBの創る音楽にさえ、以前の様な感動を感じる事が出来なくなりました。
あんなけつの穴のちいせえ男が、生意気な歌うたってんじゃねえみたいな冷めた感覚が付きまとい、全然楽しめなくなりました。
彼の唄う言葉そのものが、非常に空虚に感じられたのです。
怒りとは全く別の次元の感覚です。
"性格なんかどうでもいいよ作品が素晴らしければ魔法"は、Bの人格のくだらなさに直に接した途端、非常にあっさりと消え去ってしまったのです。
これは我ながら意外な反応でした。
と同時に。
差別意識を恥も外聞も無く露呈している人間というものは、普通に良識のある人たちから、こんなにも強烈な軽蔑を受けてしまうんだな、という学習にもなりました。
才能あるアーティストのエキセントリックさに甘いこの私でさえ、しかもBは私の事はいつも大切に姫の様に扱ってくれる私怨無き関係性であるにも関わらず、私の軽蔑感覚の凄まじさたるや。
私には人間関係において、ある種の区別意識があります。
例えばAが、Bとはまるで住む世界の違う種類の人物だというのなら、Bの態度はわかるのです。
住む世界が違うというのは誤解を生む表現かもしれませんが、これは単に、人間関係にはやはり、羊の群れと牛の群れがあると思う、という意味での違いです。
違うからと言って喧嘩したり差別し合う必要は勿論ありませんが、お互いが違うという事を正確に健康的に理解していないと、侵略的になったり支配的になったり嫉妬したり搾取したりと、心理的な領域で不健康な事になると思うので、”違うのだ”、という認識には敏感な方が嬉しいと、私は思うのです。
違うという前提で付き合い始めれば、共通点が見つかったり共通の価値観での成長が起こってきたりすると、新鮮で嬉しいと思いませんか?
というわけで、こういう事が動機で全然違うと感じ、BがAを直感的に嫌ってしまって遠ざけたというのなら、私はBの態度を尊重出来るのです。
だけどそういうんじゃないのが、明らかだったのです。
なんかもっと、くだらない感じでした。
私の持っている、人間関係上の区別意識には、「今のところはお友達にはなれない相手とそのワールド」への、尊敬と信頼が土台にあります。
羊の身であり羊ワールドに満足しながらも馬の事はそれなりに尊敬していて、尊敬しながらでも今のところは餌場を共有しませんよ、という感じとでも言うんでしょうか。
あるいは、今は馬が恐くてわからなくてダメだから勘弁、でも、決して馬鹿にしたり一生NGとか思っているわけではありませんよ、とか。
これは上記の、老齢のシャンソン歌手が、日本食を食べられない感じに近い様に思います。ダメな理由が自分にあると、知っている態度です。
しかしBの態度は明らかに、Aの存在を貶める物でした。
Aの側に劣っている物があるから無視しますよ、でした。
お前はオレより劣った存在なんだから馴れ馴れしく入って来るな、という態度でした。
残酷に、冷たく、Bは初対面で何も知らない相手Aの存在価値を、利己的に踏みにじる行為を、堂々と行ったのです。
これははっきりと、軽蔑に値する行為だと私は感じました。
日本であまりトランプへの軽蔑が見受けられないのは、単一民族の歴史が長く、あまり差別という物を経験していない事が、一因にあるのかもしれません。
頭だけで考えていると、差別意識ってそんなたいした物では無いように感じられるかもしれない。誰でもなんらかの差別意識はあるんじゃない?と思ったりして。
確かに、誰だって何かはあるかもしれません。
だけどそれについて、自分の側に問題があると認識しているのと、あたかもそれが普遍的で正当な判定みたいな錯覚に陥って、堂々と態度や口に出すのとでは、大きな違いがあると私は思います。
トランプやBは、後者なのです。
後者である事が問題なんだと、私は思います。
トランプに懸念を持つ多く人が見ているのは、トランプの行いの背後にある、動機なのです。
自分の中にある欠損を、他者の欠損だと思い込んで蔑み憎み無視するという行為。
これは、害を及ぼして来たり今は友達になれないと感じる人物に対して毅然とした境界線を引く行為とは、全く異なると私は思います。
意外な事に私は、人素差別という事について、ちゃんと考え始めたのはトランプ当選以降です。
これは、こんな年になるまで差別の犠牲にならなかったという事なので、今の世の中を見るともしかしたらラッキーだったのかもしれません。
自分の中の欠損や恐怖の原因を象徴的に他者に投影する人は、その欠損や恐怖を持ち続ける事に絶え切れず、替わりに象徴となる投影の対象を、とことん嫌い消滅させようとします。
しかし働きかけるべきは自分の内面なのであり、外界をどんなに変えても根は消えません。
そうやって外界にあると思い込んでいる原因を根絶やしにし、それでも自分の心にある欠損感覚や恐怖感は消えないから、今度は次の原因を探すわけです。また外側に。
熟慮無く海外への実力行使を始めたトランプのムスリムbanが、いつかアジア人対象に変らないと、誰が保証出来るのでしょうか。
このAirBNBのホストが外国人に英語を教える言語教師だったらしいという事で、ただでさえかんかんに怒っている普通に良識のある人々の怒りに油を注ぎ、結構炎上している模様です。
トランプが大統領になって以来、彼やバノンがおおっぴらに差別発言を繰り返す事で、潜在的人種差別主義者たちが今、大変おおらかに自分の主義を表明している傾向があるように思えます。
私個人は、こんなに何年にも亘ってアメリカに入り浸っているにも関わらず、今まで一度も人種差別に遭ったことはありません。ですのでそれをされたらどんな気持ちになるのかが、実際のところあまりよくわかりません。想像がつかないのです。
こういう無知な状態の人間は、机上の理論で傍若無人な感覚を持ちがちであるという例に違わず私も人種差別に関しては、こんな風に軽く思う程度でした。
「人種差別は、持つ側の問題で、差別される側の問題ではない。差別される側は気にする必要無し。」
勿論、宿泊先を確保出来なかった上記のアジア人の様に、差別に伴う実害を経験している人は大勢いるので、差別される側に問題が及ぶケースは多々あると思います。ただ私のこの感覚は、差別されている側に非があるわけではないという、シンプルな事実に根を降ろしているだけの感覚で、差別にそれ以上の深刻な想いを持つ事はありませんでした。
そしてそんな私にある日、友人が差別されるのを目の当たりにするという出来事が起こりました。
ダークスキンのこの友人Aをあからさまに差別したのは、私の尊敬する友人で才能ある音楽家の男性Bでした。
私自身はこのBから差別的な待遇を受けた事が無かったので、兼ねてから友人らの口から出る、Bは差別的である、という噂を信じる事が出来ませんでした。
また、例の机上の持論で、別に政治家でもなんでもない、言わばはっきり言ってエキセントリックでも全然問題にならないアウトローなアーティストである彼が、どんな嗜好を持っててもいいんじゃないんですか、作品さえ素晴らしければ、てな感じで、たいして問題にも思っていなかったのです。
以前フランスから老齢のシャンソン歌手が来日された時に世話役だった友人が、その老齢の歌手がアジア人や日本食を全く受け付けられず、ホテルの部屋に籠ってしまってリハーサルと本番以外出て来ない、と言って笑っていたのを思い出します。
日本にだって外国人に慣れていない老齢の方で、白人だろうがなんだろうがモンスター扱いする人はいると思うし、そんなのを深刻に受け止めてたってしょうがないじゃん、てな感じで、軽く受け流していたのです。
しかし奥さん!!
実体験という物は、時に机上の理論とは、真逆の結論を導き出すものなのですね!!!
この音楽家Bは、友人Aの存在を、初対面からあからさまに無視しました。
まるでいないものの様に扱ったのです。
Aがパーティーで打ち解けて周りから一目置かれ始めると、今度はA以外の人を著名人に紹介したりし始め、Aをのけ者にしました。
パーティーにいる間中、私は一部始終それを見ていました。
何故私が、Aを連れてその場から去らなかったかと言うと、私自身がBの態度の動機に確証が欲しかったために観察を続けたかったのと、Aが去らねばならない理由が無かったからです。
というわけで。
この経験の終焉に私は、生まれて初めて、後にも先にもこれが初めてだよ、というくらいに強烈な、非常に純度の高い、『軽蔑』という感情が、腹の底から沸き上がって来るのを押さえる事が出来ませんでした。勿論、Bに対してです。
この軽蔑という感情には、怒りとか悲しみという感情が一切入っていなくて、なんていうんですか非常に冴え冴えとした、非常に明晰な、軽蔑、という感覚以外のなにものでもない、非常に大きな感覚でした。
この"軽蔑"という感覚は、今まで100%素晴らしいと思っていた人物を、強マイナスに貶める威力があり、我ながら驚きました。
かくしてこの日以来、私の中ではBの創る音楽にさえ、以前の様な感動を感じる事が出来なくなりました。
あんなけつの穴のちいせえ男が、生意気な歌うたってんじゃねえみたいな冷めた感覚が付きまとい、全然楽しめなくなりました。
彼の唄う言葉そのものが、非常に空虚に感じられたのです。
怒りとは全く別の次元の感覚です。
"性格なんかどうでもいいよ作品が素晴らしければ魔法"は、Bの人格のくだらなさに直に接した途端、非常にあっさりと消え去ってしまったのです。
これは我ながら意外な反応でした。
と同時に。
差別意識を恥も外聞も無く露呈している人間というものは、普通に良識のある人たちから、こんなにも強烈な軽蔑を受けてしまうんだな、という学習にもなりました。
才能あるアーティストのエキセントリックさに甘いこの私でさえ、しかもBは私の事はいつも大切に姫の様に扱ってくれる私怨無き関係性であるにも関わらず、私の軽蔑感覚の凄まじさたるや。
私には人間関係において、ある種の区別意識があります。
例えばAが、Bとはまるで住む世界の違う種類の人物だというのなら、Bの態度はわかるのです。
住む世界が違うというのは誤解を生む表現かもしれませんが、これは単に、人間関係にはやはり、羊の群れと牛の群れがあると思う、という意味での違いです。
違うからと言って喧嘩したり差別し合う必要は勿論ありませんが、お互いが違うという事を正確に健康的に理解していないと、侵略的になったり支配的になったり嫉妬したり搾取したりと、心理的な領域で不健康な事になると思うので、”違うのだ”、という認識には敏感な方が嬉しいと、私は思うのです。
違うという前提で付き合い始めれば、共通点が見つかったり共通の価値観での成長が起こってきたりすると、新鮮で嬉しいと思いませんか?
というわけで、こういう事が動機で全然違うと感じ、BがAを直感的に嫌ってしまって遠ざけたというのなら、私はBの態度を尊重出来るのです。
だけどそういうんじゃないのが、明らかだったのです。
なんかもっと、くだらない感じでした。
私の持っている、人間関係上の区別意識には、「今のところはお友達にはなれない相手とそのワールド」への、尊敬と信頼が土台にあります。
羊の身であり羊ワールドに満足しながらも馬の事はそれなりに尊敬していて、尊敬しながらでも今のところは餌場を共有しませんよ、という感じとでも言うんでしょうか。
あるいは、今は馬が恐くてわからなくてダメだから勘弁、でも、決して馬鹿にしたり一生NGとか思っているわけではありませんよ、とか。
これは上記の、老齢のシャンソン歌手が、日本食を食べられない感じに近い様に思います。ダメな理由が自分にあると、知っている態度です。
しかしBの態度は明らかに、Aの存在を貶める物でした。
Aの側に劣っている物があるから無視しますよ、でした。
お前はオレより劣った存在なんだから馴れ馴れしく入って来るな、という態度でした。
残酷に、冷たく、Bは初対面で何も知らない相手Aの存在価値を、利己的に踏みにじる行為を、堂々と行ったのです。
これははっきりと、軽蔑に値する行為だと私は感じました。
日本であまりトランプへの軽蔑が見受けられないのは、単一民族の歴史が長く、あまり差別という物を経験していない事が、一因にあるのかもしれません。
頭だけで考えていると、差別意識ってそんなたいした物では無いように感じられるかもしれない。誰でもなんらかの差別意識はあるんじゃない?と思ったりして。
確かに、誰だって何かはあるかもしれません。
だけどそれについて、自分の側に問題があると認識しているのと、あたかもそれが普遍的で正当な判定みたいな錯覚に陥って、堂々と態度や口に出すのとでは、大きな違いがあると私は思います。
トランプやBは、後者なのです。
後者である事が問題なんだと、私は思います。
トランプに懸念を持つ多く人が見ているのは、トランプの行いの背後にある、動機なのです。
自分の中にある欠損を、他者の欠損だと思い込んで蔑み憎み無視するという行為。
これは、害を及ぼして来たり今は友達になれないと感じる人物に対して毅然とした境界線を引く行為とは、全く異なると私は思います。
意外な事に私は、人素差別という事について、ちゃんと考え始めたのはトランプ当選以降です。
これは、こんな年になるまで差別の犠牲にならなかったという事なので、今の世の中を見るともしかしたらラッキーだったのかもしれません。
自分の中の欠損や恐怖の原因を象徴的に他者に投影する人は、その欠損や恐怖を持ち続ける事に絶え切れず、替わりに象徴となる投影の対象を、とことん嫌い消滅させようとします。
しかし働きかけるべきは自分の内面なのであり、外界をどんなに変えても根は消えません。
そうやって外界にあると思い込んでいる原因を根絶やしにし、それでも自分の心にある欠損感覚や恐怖感は消えないから、今度は次の原因を探すわけです。また外側に。
熟慮無く海外への実力行使を始めたトランプのムスリムbanが、いつかアジア人対象に変らないと、誰が保証出来るのでしょうか。
2017年3月9日木曜日
Twitterのバウンダリー
ブログやTwitterをやっている人には、それぞれ異なる目的や動機やルールがあると思います。
この領域においてはまだ、何が普遍的に正しくて誤りなのか、というマナーやルールという物は、明確には言えない、若い文化なのだと思います。
しかし私が思うにここには人付き合いにおける距離感やバウンダリーのセンスに起因する暗黙の良識的了解があり、多くの人はそれをなんとか、守っている様に思うのです。
私の場合個人的に、どういう想いでTwitterやブログをやっているかと言うと、一般公開しておいてなんなのですが、これは完全に、プライベートな物だと思ってやっています。
プライベートな生活の中で感じたり思ったり体験したプライベートな事を、プライベートな友達に語る感覚でtweetしたりブログに書いたりしているのです。
自分がそうなので、通常私は、人のtweetやブログに対しても、同様の対応を心がけています。
つまり、「自分はプライバシーを見せてもらっている。だからもし、リプなんかをする場合でも、その人のプライベートな事情に踏み込み過ぎたり、台無しにしたりしては絶対にいけない。それをやる権利は、誰にも無い。」
と言った感じです。
相互フォローしている友人や知人やお仕事関係の皆さんのtweetの中には、私の大切にしている信条や美学や政治的立ち位置とは真っ向から対立する様な価値観や世界観をお持ちの方も沢山いらして、日頃からそういった主張や思想をよくtweetされてもいますが、私個人に向けて語られているので無い限り、そういった事に反論しに行ったりはしません。
それはその方々なりの想いや考えであり、私が個人的に、それは間違っているとか違うとか思っても、その人には全然関係無い事だと思うからです。
勿論、私個人に向かって語って来られた場合は正直に誠実に対応しますが、その人が勝手にtweetしている事というのは、その背景にどんな事情があっての行いなのかがまずわからないという事もあるので、そっとしておきたいと思うのです。
これには私がTwitterやブログについて、深刻に捕らえるほどではない「たかが」だと思っているから、という前提もあります。
勿論、影響力のある方のtweetやブログでの意見、あるいは誰かが切羽詰まって助けを求めていたりするケースや、誰かへの積極的な攻撃や嫌がらせに使っている場合等は「たかが」とは言えません。しかし一般的な人間関係という点においては、やはり「たかが」だと思うのです。
例えどんな非常識な罵詈雑言を吐いていたとしても、それが自分を含む特定可能な個人に向けられているのでない限りは、そのままそっとしておいてあげて全然オッケーな「たかが」だと思うのです。
私は先日、私のtweetに対してちょっと気の障るリプをしてきた知人を、ブロックしました。
その時の私のtweetの内容は、私がとても大切に想っているある少女が、私の事を綺麗だと言ってくれた、という物でした。
私はそれを照れ隠しに、美少女に美少女って言われた、という表現でtweetしたんです。
するとある男性の知人が、顔文字でゲッというような反応をリプして来ました。
この人物のリプには、兼ねてからやや逸脱した不躾さがあると感じていて、ちょっと気になってはいたのですが、親しみの表現として快く受け取り、今までは特に腹を立てる事もありませんでした。
しかし今回は見過ごせる物ではありませんでした。
私が件の少女と過ごしていたその時間は、本当に貴くてキラキラした、宝石みたいな時間だったのです。
眩しい様な輝きを持つこの7歳の少女は、いつも真っすぐに人の目を見て、感じた事をすっくと言葉に出来るとても勇敢な少女で、その言葉にはいつも清潔な輝きと、澄み切った鋭利な透明感があり、いつも私の胸を、清らかに深く貫きます。
その少女が私の事を、「You are beautiful.」と言ったのです。
私は、リアリストで健康的な自己批判精神に満ちている人間ですから、私がビューティホーかどうかというリアルな判定については、百も承知しています。
だけど私には、彼女が抱いた私へのその感覚が本当に貴く、まるで世界一大好きな人から差し伸べられた、一輪の花の様に感じられたのです。
私が自分の容姿をどう蔑んでいようが関係無い。
少女が美しいと感じた私の美しさを受け止めて、認めて、大切にしたい、と思ったのです。
だから文字に書き留めて、その聖なる瞬間を留めておきたいとtweetした。
そこに飛び込んで来た、否定的な顔文字。
もちろんその男性は、意地悪な嫌がらせをしようとしてそんなリプをして来たわけではありません。軽いジョークのつもりだったのでしょう。
しかしこの場合、意地悪な嫌がらせが動機にあった方が、なんぼかマシ、というシチュエーションではないでしょうか。
悪意がある、と断定出来る様な人間なら、いくら私の輝く時間を台無しにしてもしょうがない、相手にしなきゃいいんです。しかし、それが相互フォローしている知人から飛ばされたからかいとなると、問題は、より不快な物に、なりはしないでしょうか。
この辺りの私の感覚を、理解しない人がいるのは承知です。
しかし、瞬間的に深く理解してくださった方々から、慰めのメッセージをいただいたのも、事実です。
私は、ここでこの感覚を、まさに直感的にわかってくれる人とでないと、深い付き合いは出来ないな、と感じました。
この顔文字リプはまるで、大好きな人が私にくれたケーキを、関係無い誰かが突然やって来て、土足で踏みにじった様な印象を、私の心に落としました。
この行為は私にとって、絶交ーつまりブロックを決定するに充分なインパクトだったのです。
しかしながら。
これはたかが、Twitter上での出来事だ、という感覚も、同時に私の中にはありました。
Twitterで起こった出来事を、三次元の現実の人間関係に適用するつもりは、私には無いのです。
もしどこかでこの男性と偶然会ったら、なんにも無かった様に、挨拶するでしょう。
もしこの男性が、自分の行いを心から反省して謝ってくれたら、そこから新しい良好な関係性が生まれるかもしれない。
逆に、私が何で怒ったのか理解も共感もせず、ブロックした私を逆に怒っていたとしても、直接会えばそこではちゃんとした、有機的なコミュニケーションが生まれるのです。相手の出方によっては、そこで本当の絶交になるかもしれませんが笑。
メールやTwitterや様々なソーシャル・ネットワークにより文字文化が一般化して、今は本当に、書く力とリテラシーを求められる時代です。
本来さほど読解力が無く、読む事や書く事が苦手な人にも、当たり前の様に読む力、書く力が求められている時代ですが、そうそうはままならない事もあるでしょう。
だからこそ私は、Twitterやブログを通じてのコミュニケーションは、よりクリアに、しっかりとしたバウンダリー意識の元に行われるべきだと思うのです。
私は、特に私に向かって放たれた言葉で無い限りは、強い違和感や反感を感じても、相手にはしません。
しかし私に向かって行われた事に対して私自身が「失礼だ、不愉快だ」と感じた事に対しては、相手の事情〜例えば、悪気は無いのだろう、とか、うっかりしちゃったんだな、みたいな〜を汲む必要は無いと、私は思います。
だからはっきりと、態度に表すのです。
これは私が、プライベートな事を一般公開している時点で発生するリスクを承知しているからこそ、特に貫いてゆこうと思う信条です。
一般に公開しているんだから、何をされてもしょうがないだろう、という甘えた風潮への、はっきりとしたNOです。
これは私は人間を、人の良識や距離感やバウンダリーのセンスを、信頼しているからこそTwitterやブログを一般公開しているんです、という意思表示だし、上記の様な、人はどうせどうしようもないんだから、という甘ったれた感覚へのアンチテーゼでもあります。
そして誰かが求めているセンスのハードルの高さを、きちんと掌握出来る感性を磨こうよ、と、他者に求める気持ち&それが出来ないならすいませんが去らせていただくというはっきりとした線引きでもあります。
曖昧なツールだからこそ、自分の中に明確なルールを持っていないと、あまり良い事に、ならないと思うのです。
この領域においてはまだ、何が普遍的に正しくて誤りなのか、というマナーやルールという物は、明確には言えない、若い文化なのだと思います。
しかし私が思うにここには人付き合いにおける距離感やバウンダリーのセンスに起因する暗黙の良識的了解があり、多くの人はそれをなんとか、守っている様に思うのです。
私の場合個人的に、どういう想いでTwitterやブログをやっているかと言うと、一般公開しておいてなんなのですが、これは完全に、プライベートな物だと思ってやっています。
プライベートな生活の中で感じたり思ったり体験したプライベートな事を、プライベートな友達に語る感覚でtweetしたりブログに書いたりしているのです。
自分がそうなので、通常私は、人のtweetやブログに対しても、同様の対応を心がけています。
つまり、「自分はプライバシーを見せてもらっている。だからもし、リプなんかをする場合でも、その人のプライベートな事情に踏み込み過ぎたり、台無しにしたりしては絶対にいけない。それをやる権利は、誰にも無い。」
と言った感じです。
相互フォローしている友人や知人やお仕事関係の皆さんのtweetの中には、私の大切にしている信条や美学や政治的立ち位置とは真っ向から対立する様な価値観や世界観をお持ちの方も沢山いらして、日頃からそういった主張や思想をよくtweetされてもいますが、私個人に向けて語られているので無い限り、そういった事に反論しに行ったりはしません。
それはその方々なりの想いや考えであり、私が個人的に、それは間違っているとか違うとか思っても、その人には全然関係無い事だと思うからです。
勿論、私個人に向かって語って来られた場合は正直に誠実に対応しますが、その人が勝手にtweetしている事というのは、その背景にどんな事情があっての行いなのかがまずわからないという事もあるので、そっとしておきたいと思うのです。
これには私がTwitterやブログについて、深刻に捕らえるほどではない「たかが」だと思っているから、という前提もあります。
勿論、影響力のある方のtweetやブログでの意見、あるいは誰かが切羽詰まって助けを求めていたりするケースや、誰かへの積極的な攻撃や嫌がらせに使っている場合等は「たかが」とは言えません。しかし一般的な人間関係という点においては、やはり「たかが」だと思うのです。
例えどんな非常識な罵詈雑言を吐いていたとしても、それが自分を含む特定可能な個人に向けられているのでない限りは、そのままそっとしておいてあげて全然オッケーな「たかが」だと思うのです。
私は先日、私のtweetに対してちょっと気の障るリプをしてきた知人を、ブロックしました。
その時の私のtweetの内容は、私がとても大切に想っているある少女が、私の事を綺麗だと言ってくれた、という物でした。
私はそれを照れ隠しに、美少女に美少女って言われた、という表現でtweetしたんです。
するとある男性の知人が、顔文字でゲッというような反応をリプして来ました。
この人物のリプには、兼ねてからやや逸脱した不躾さがあると感じていて、ちょっと気になってはいたのですが、親しみの表現として快く受け取り、今までは特に腹を立てる事もありませんでした。
しかし今回は見過ごせる物ではありませんでした。
私が件の少女と過ごしていたその時間は、本当に貴くてキラキラした、宝石みたいな時間だったのです。
眩しい様な輝きを持つこの7歳の少女は、いつも真っすぐに人の目を見て、感じた事をすっくと言葉に出来るとても勇敢な少女で、その言葉にはいつも清潔な輝きと、澄み切った鋭利な透明感があり、いつも私の胸を、清らかに深く貫きます。
その少女が私の事を、「You are beautiful.」と言ったのです。
私は、リアリストで健康的な自己批判精神に満ちている人間ですから、私がビューティホーかどうかというリアルな判定については、百も承知しています。
だけど私には、彼女が抱いた私へのその感覚が本当に貴く、まるで世界一大好きな人から差し伸べられた、一輪の花の様に感じられたのです。
私が自分の容姿をどう蔑んでいようが関係無い。
少女が美しいと感じた私の美しさを受け止めて、認めて、大切にしたい、と思ったのです。
だから文字に書き留めて、その聖なる瞬間を留めておきたいとtweetした。
そこに飛び込んで来た、否定的な顔文字。
もちろんその男性は、意地悪な嫌がらせをしようとしてそんなリプをして来たわけではありません。軽いジョークのつもりだったのでしょう。
しかしこの場合、意地悪な嫌がらせが動機にあった方が、なんぼかマシ、というシチュエーションではないでしょうか。
悪意がある、と断定出来る様な人間なら、いくら私の輝く時間を台無しにしてもしょうがない、相手にしなきゃいいんです。しかし、それが相互フォローしている知人から飛ばされたからかいとなると、問題は、より不快な物に、なりはしないでしょうか。
この辺りの私の感覚を、理解しない人がいるのは承知です。
しかし、瞬間的に深く理解してくださった方々から、慰めのメッセージをいただいたのも、事実です。
私は、ここでこの感覚を、まさに直感的にわかってくれる人とでないと、深い付き合いは出来ないな、と感じました。
この顔文字リプはまるで、大好きな人が私にくれたケーキを、関係無い誰かが突然やって来て、土足で踏みにじった様な印象を、私の心に落としました。
この行為は私にとって、絶交ーつまりブロックを決定するに充分なインパクトだったのです。
しかしながら。
これはたかが、Twitter上での出来事だ、という感覚も、同時に私の中にはありました。
Twitterで起こった出来事を、三次元の現実の人間関係に適用するつもりは、私には無いのです。
もしどこかでこの男性と偶然会ったら、なんにも無かった様に、挨拶するでしょう。
もしこの男性が、自分の行いを心から反省して謝ってくれたら、そこから新しい良好な関係性が生まれるかもしれない。
逆に、私が何で怒ったのか理解も共感もせず、ブロックした私を逆に怒っていたとしても、直接会えばそこではちゃんとした、有機的なコミュニケーションが生まれるのです。相手の出方によっては、そこで本当の絶交になるかもしれませんが笑。
メールやTwitterや様々なソーシャル・ネットワークにより文字文化が一般化して、今は本当に、書く力とリテラシーを求められる時代です。
本来さほど読解力が無く、読む事や書く事が苦手な人にも、当たり前の様に読む力、書く力が求められている時代ですが、そうそうはままならない事もあるでしょう。
だからこそ私は、Twitterやブログを通じてのコミュニケーションは、よりクリアに、しっかりとしたバウンダリー意識の元に行われるべきだと思うのです。
私は、特に私に向かって放たれた言葉で無い限りは、強い違和感や反感を感じても、相手にはしません。
しかし私に向かって行われた事に対して私自身が「失礼だ、不愉快だ」と感じた事に対しては、相手の事情〜例えば、悪気は無いのだろう、とか、うっかりしちゃったんだな、みたいな〜を汲む必要は無いと、私は思います。
だからはっきりと、態度に表すのです。
これは私が、プライベートな事を一般公開している時点で発生するリスクを承知しているからこそ、特に貫いてゆこうと思う信条です。
一般に公開しているんだから、何をされてもしょうがないだろう、という甘えた風潮への、はっきりとしたNOです。
これは私は人間を、人の良識や距離感やバウンダリーのセンスを、信頼しているからこそTwitterやブログを一般公開しているんです、という意思表示だし、上記の様な、人はどうせどうしようもないんだから、という甘ったれた感覚へのアンチテーゼでもあります。
そして誰かが求めているセンスのハードルの高さを、きちんと掌握出来る感性を磨こうよ、と、他者に求める気持ち&それが出来ないならすいませんが去らせていただくというはっきりとした線引きでもあります。
曖昧なツールだからこそ、自分の中に明確なルールを持っていないと、あまり良い事に、ならないと思うのです。
2017年2月20日月曜日
映画"SPLIT(スプリット)"を観た
この映画が日本でも上映されると知った今この瞬間、どうかどうか、日本のいつものやり方で、キワモノみたいに扱わないで欲しい、この映画だけは、と心底思った。
この映画は、本当に悲しく、そして胸を打つ美しい物語です。
幼児期の生育環境が、如何に個人の脳や心身の発達に影響を及ぼすかを、アメリカで何年も、臨床的に学んだ身としては、本当に、身の斬られる様な想いで観る、非常に真摯な物語でした。
24通りもの人格を持つ多重人格者の青年の引き起こす犯罪から始まるこの物語は、幼児期の虐待によるトラウマが、ひとりの青年の中に真の悪魔を生み出す可能性を、克明に描いています。タイトルのSPLITとは、分裂という意味です。
丁寧で控えめなやり方で描く青年の背景と、被害者である少女の持つ背景。
映画の後半で一瞬だけ現れる、青年のオリジナルの人格"ケヴィン"の美しさ。
深い領域で少女の魂に触れる悪魔の中のケヴィンが、最後に少女にもたらす大きなギフト。
映画の後半はもう、映画で語られる全ての現実に胸を打たれて泣きっぱなし。
一緒に行った連れ(屈強な男)も泣きっぱなし。
映画館を出た道路でも一緒に泣きっぱなし。
映画の後に入ったレストランでは、二人してメニューも決められないくらい胸がいっぱいで、しばらく涙が止まりませんでした。
たったひとりの、子供を虐待する母親によって、こんなにまで分裂してしまう青年の心。
それが本当に悲しくて、胸を揺さぶります。
ケヴィンの分裂する人格と、オリジナルのケヴィンの違いを、この俳優さんは素晴らしく演じてくれています。
アメリカで学んだ臨床心理学で、如何に多くの一般の人たちが、心理的防衛のための仮面をつけて生きているか、そしてその仮面が如何に、他者との本質的な関わりを遠去けるかを、この映画を観ると如実によくわかります。
分裂した人格がどんなに真に迫っていても、その人格のどれもが空虚で、他者との真の交流を全く受け付けていないのがよくわかります。
表面的にはうまくコミュニケートしているように見えますが、その顔つきと様子から、全くオーセンティックでない事が、よく伺えるのです。
優しさや正直さや誠実さや善人さを装いながら、他者を操り、騙し、印象操作し、虚勢を張り、しかし移ろいやすく壊れやすい、無機的なニセモノのアイデンティティ。
しかし映画の後半に出て来た、オリジナルのケヴィンは、その23個の人格とは全くかけ離れた物でした。
その真摯なナチュラルさと清らかな誠実さと有機的な暖かさは、一瞬の顔つきの変化で、あからさまに感じ取れるのです、ああ、この人とは、人として、ちゃんと話が出来る、本質的な交流を持てる、と。
しかし一体今の世の中、どれだけの人がオリジナルのケヴィンで、生きているのでしょうか。
他者の顔色を伺い、他者からの評価を気にして、気に入られたい人が好むと思われる言動を演じてみたり、強い憧れを感じる自分以外の他者の皮を被って、それらしい言動を真似てみたりする内に、オリジナルの自分がどんななのかを、忘れちゃってる人って、結構いるんじゃないんでしょうか。
物真似や誰かからの影響に反応して身につけた言動を、人格的成長だと勘違いしている人たちが、少なからずいるんじゃないでしょうか。
皆さん、それは、ニセモノのアイデンティティですよ。
全部、心理的防衛が創り出した人格のデコイ、生け贄にしてもいい捨てキャラ、怪物の姿を模した鎧、ニコニコ顔の着ぐるみに、過ぎないんです。
この物語には、沢山の滋養が隠されています。
そしてその滋養の恩恵を一番に受けたのは、まずは被害者の少女であり、次に私と連れ・笑。
この映画を観てどれだけの人が、自分の仮面に気付き、自分のスプリットに気付き、ケヴィンの本質的な美しさに、人間の真の姿の、素の尊さを見るかはわかりませんが、少なくとも私と連れは、本日大変深淵な時間を共有し、美味しい食事を楽しみながら、人の心の複雑さと美しさを、涙ながらに静かに語り合う機会を持てました。
素晴らしい映画をありがとう、と、心から。
この映画は、本当に悲しく、そして胸を打つ美しい物語です。
幼児期の生育環境が、如何に個人の脳や心身の発達に影響を及ぼすかを、アメリカで何年も、臨床的に学んだ身としては、本当に、身の斬られる様な想いで観る、非常に真摯な物語でした。
24通りもの人格を持つ多重人格者の青年の引き起こす犯罪から始まるこの物語は、幼児期の虐待によるトラウマが、ひとりの青年の中に真の悪魔を生み出す可能性を、克明に描いています。タイトルのSPLITとは、分裂という意味です。
丁寧で控えめなやり方で描く青年の背景と、被害者である少女の持つ背景。
映画の後半で一瞬だけ現れる、青年のオリジナルの人格"ケヴィン"の美しさ。
深い領域で少女の魂に触れる悪魔の中のケヴィンが、最後に少女にもたらす大きなギフト。
映画の後半はもう、映画で語られる全ての現実に胸を打たれて泣きっぱなし。
一緒に行った連れ(屈強な男)も泣きっぱなし。
映画館を出た道路でも一緒に泣きっぱなし。
映画の後に入ったレストランでは、二人してメニューも決められないくらい胸がいっぱいで、しばらく涙が止まりませんでした。
たったひとりの、子供を虐待する母親によって、こんなにまで分裂してしまう青年の心。
それが本当に悲しくて、胸を揺さぶります。
ケヴィンの分裂する人格と、オリジナルのケヴィンの違いを、この俳優さんは素晴らしく演じてくれています。
アメリカで学んだ臨床心理学で、如何に多くの一般の人たちが、心理的防衛のための仮面をつけて生きているか、そしてその仮面が如何に、他者との本質的な関わりを遠去けるかを、この映画を観ると如実によくわかります。
分裂した人格がどんなに真に迫っていても、その人格のどれもが空虚で、他者との真の交流を全く受け付けていないのがよくわかります。
表面的にはうまくコミュニケートしているように見えますが、その顔つきと様子から、全くオーセンティックでない事が、よく伺えるのです。
優しさや正直さや誠実さや善人さを装いながら、他者を操り、騙し、印象操作し、虚勢を張り、しかし移ろいやすく壊れやすい、無機的なニセモノのアイデンティティ。
しかし映画の後半に出て来た、オリジナルのケヴィンは、その23個の人格とは全くかけ離れた物でした。
その真摯なナチュラルさと清らかな誠実さと有機的な暖かさは、一瞬の顔つきの変化で、あからさまに感じ取れるのです、ああ、この人とは、人として、ちゃんと話が出来る、本質的な交流を持てる、と。
しかし一体今の世の中、どれだけの人がオリジナルのケヴィンで、生きているのでしょうか。
他者の顔色を伺い、他者からの評価を気にして、気に入られたい人が好むと思われる言動を演じてみたり、強い憧れを感じる自分以外の他者の皮を被って、それらしい言動を真似てみたりする内に、オリジナルの自分がどんななのかを、忘れちゃってる人って、結構いるんじゃないんでしょうか。
物真似や誰かからの影響に反応して身につけた言動を、人格的成長だと勘違いしている人たちが、少なからずいるんじゃないでしょうか。
皆さん、それは、ニセモノのアイデンティティですよ。
全部、心理的防衛が創り出した人格のデコイ、生け贄にしてもいい捨てキャラ、怪物の姿を模した鎧、ニコニコ顔の着ぐるみに、過ぎないんです。
この物語には、沢山の滋養が隠されています。
そしてその滋養の恩恵を一番に受けたのは、まずは被害者の少女であり、次に私と連れ・笑。
この映画を観てどれだけの人が、自分の仮面に気付き、自分のスプリットに気付き、ケヴィンの本質的な美しさに、人間の真の姿の、素の尊さを見るかはわかりませんが、少なくとも私と連れは、本日大変深淵な時間を共有し、美味しい食事を楽しみながら、人の心の複雑さと美しさを、涙ながらに静かに語り合う機会を持てました。
素晴らしい映画をありがとう、と、心から。
2017年2月8日水曜日
666 フィフス・アヴェニュー
このブログの内容は大変不謹慎かつバカバカしい内容なので、ここだけの話にしといてください)笑。
私は陰謀説みたいな物は全然好きではないのですが、現在、毎日とっても頭脳を使う仕事をしているため、箸休めに私もちゅうにびょうみたいになってみるかと思ったのです。
というわけで本題ですが。
クリスマスの時期のマンハッタンに行って、惨然と輝く"666"の文字に仰天した事のある人はいませんか?
私はしました。
なんたって私は生粋のオーメン・ファン。
1シーズンで打ち切りになっちゃったどうしよーうもないダミアンのスピン・オフ・ドラマまで観尽くし、そして結構楽しめたくらいの大ファンです。
お若い方はご存知無いかもしれませんが、"オーメン"というのはグレゴリー・ペックという渋い俳優さんが主演したオカルト映画の名作です。
養子に迎えた息子が実は反キリスト、つまり悪魔だったというこの物語は、無垢な少年だったダミアンが、自分の頭に刻まれた獣の数字666に気付くまで、そして気付いてからの成長を追って映画では三話まで作られ、その後は色んなスピン・オフが映画やテレビ・ドラマまで作られている人気者です。
映画第三話では成長したダミアンが政治の世界に入り、世界を破滅に導くという興味深い話ではあるものの、ダミアンを演じた俳優さんの印象がどうも私のイメージとは異なる為にずっと飢餓感を抱え、色んなスピン・オフを観てしまうんですよね。
テレビ・ドラマの方のダミアンは割とイメージに合っているんですが、ダミアンそのもののキャラクターがぶれまくっていて、中々思い入れしにくいままに、結局打ち切りとなってしまいました。
そうです。
私の中には、くっきりとした青年ダミアンのイメージがあるのです。
もしも私が成長したダミアンを描くなら、痩せ形長身のハンサムで、柔和で賢そうな、見るからに育ちの良さそうな、初々しさの残る青年にするでしょう。
一見どこにも邪悪な影などなく、むしろその笑顔にほっとさせられるような、けれども抜け目の無い、深い賢さがまなざしと態度に滲み出ている様な魅力的な好青年。
勤勉で、誠実で、クリーン。
優雅で、いつも仕立ての良いスーツに身を包み、エコな姿勢で企業を牛耳る人望の熱い青年実業家です。
打ち切られたとはいえ、ドラマのダミアンの設定は素敵でした。
戦場カメラマンという仕事柄、沢山の理不尽な悲劇を目撃していて、罪も無い一般市民の犠牲に苦悩と悲しみを抱えながら正義感溢れる態度で戦地での仕事に励み、その経験から、神なんか!という強い信念が芽生えるのだけれど、実はそれは彼自身がアンチ・キリストだからだった、というものでした。
これは実に良く出来た仕立てだと私は思います。
善良な人間の青年から悪魔へと覚醒する時期の近づいたある日、それまでに様々な悲劇に見舞われている彼は、親しい人の葬式という大衆の面前で、神父に対して神への不信を爆発させるのですが、その弁舌には思わず納得させられるような迫力がありました。
そもそも悪魔という物は堕天使なので元々は天使です。
彼の弁舌を聞いていると、脳天気に神様を信頼し切っている人たちよりも、彼の方がずっと深淵な精神を持っている様に感じられて来て、思わず肩入れしたくなるくらいなのです。
この巧妙な仕掛けは、とてもうまいと思いました。
私個人は、"善と悪"などの二元論を全く否定している人間なので、ダミアンもまた摂理の一部と感じるのですが、しかしそれではエンタテインメント的に面白くないので、オーメンに接する時には意識的に善なるものVS邪悪な物、という方向に浸る様にしています。
そしてそういう意識で、悪魔を完全に邪悪な存在と位置づけると、テレビ・ドラマのダミアンには、なんらかの臨場感を感じるのです。
ひっそりと、共感出来るクオリティを使って、人々の心に、世界に、政治に、いつの間にか入り込んで来る邪悪。
始めは静かに、そしてその存在感は徐々に大きく顕著になってゆくのだけれど、そうなった時にはもう遅過ぎる。という顛末です。
こういう歴史を、人は既に何度も経験して来ました。
正義感の裏にある排他性、黒と見なした物を徹底的に排除する事で白を守ろうとする神経症的な潔癖さ。
私は、個人の人生や人間関係の中では、自分の美学に準じたきっぱりとした正義感や境界線が必要だと思っていますが、その意識を集団の指導者の様な人が持った時、その正義の剣は、崇高で思慮深い意識の集結の元、慎重に見極めた方法と選択でふるわなければならない物だと思っています。
でも世の中って大抵は、そんな風に思慮深くは行っていないよね、今のところ。
というわけでこのブログが何故不謹慎かと言いますと。
マンハッタンの街に君臨する666フィフス・アヴェニュー・ビル。
頭に獣の数字666の痣を持つダミアンを思う時、かねてから私は、この、666ビルの青年オーナーの事を第一に思い浮かべていたという事なのです。
ていうか、それって自然じゃない?
だって、クリスマスのマンハッタンに行くと、華やかなイルミネーションの中に、このビルの赤い666の文字が、かなり目立って光ってるんだからさ。
そしてその、私の中のダミアンである若き青年実業家が、今やアメリカ大統領の義理の息子であると同時に、大統領上級顧問になっちゃったんだから、オカルトファンタジー脳全開でちょっとはエキサイトしちゃってもいいんじゃないかしら。
トラの寵愛を一心に受けているという噂のこの娘婿。
これからどんな事を張り子のトラの耳に囁き続けるのかが、目の放せない状況だなと思うのであります。
ほんとバカバカしくてすいません。
まあでも、世界中に出回っているトラ絡みの様々なブラック・ジョークに比べたら、乙女チックでソフトな妄想だと思うんですよね。テヘ😝。
私は陰謀説みたいな物は全然好きではないのですが、現在、毎日とっても頭脳を使う仕事をしているため、箸休めに私もちゅうにびょうみたいになってみるかと思ったのです。
というわけで本題ですが。
クリスマスの時期のマンハッタンに行って、惨然と輝く"666"の文字に仰天した事のある人はいませんか?
私はしました。
なんたって私は生粋のオーメン・ファン。
1シーズンで打ち切りになっちゃったどうしよーうもないダミアンのスピン・オフ・ドラマまで観尽くし、そして結構楽しめたくらいの大ファンです。
お若い方はご存知無いかもしれませんが、"オーメン"というのはグレゴリー・ペックという渋い俳優さんが主演したオカルト映画の名作です。
養子に迎えた息子が実は反キリスト、つまり悪魔だったというこの物語は、無垢な少年だったダミアンが、自分の頭に刻まれた獣の数字666に気付くまで、そして気付いてからの成長を追って映画では三話まで作られ、その後は色んなスピン・オフが映画やテレビ・ドラマまで作られている人気者です。
映画第三話では成長したダミアンが政治の世界に入り、世界を破滅に導くという興味深い話ではあるものの、ダミアンを演じた俳優さんの印象がどうも私のイメージとは異なる為にずっと飢餓感を抱え、色んなスピン・オフを観てしまうんですよね。
テレビ・ドラマの方のダミアンは割とイメージに合っているんですが、ダミアンそのもののキャラクターがぶれまくっていて、中々思い入れしにくいままに、結局打ち切りとなってしまいました。
そうです。
私の中には、くっきりとした青年ダミアンのイメージがあるのです。
もしも私が成長したダミアンを描くなら、痩せ形長身のハンサムで、柔和で賢そうな、見るからに育ちの良さそうな、初々しさの残る青年にするでしょう。
一見どこにも邪悪な影などなく、むしろその笑顔にほっとさせられるような、けれども抜け目の無い、深い賢さがまなざしと態度に滲み出ている様な魅力的な好青年。
勤勉で、誠実で、クリーン。
優雅で、いつも仕立ての良いスーツに身を包み、エコな姿勢で企業を牛耳る人望の熱い青年実業家です。
打ち切られたとはいえ、ドラマのダミアンの設定は素敵でした。
戦場カメラマンという仕事柄、沢山の理不尽な悲劇を目撃していて、罪も無い一般市民の犠牲に苦悩と悲しみを抱えながら正義感溢れる態度で戦地での仕事に励み、その経験から、神なんか!という強い信念が芽生えるのだけれど、実はそれは彼自身がアンチ・キリストだからだった、というものでした。
これは実に良く出来た仕立てだと私は思います。
善良な人間の青年から悪魔へと覚醒する時期の近づいたある日、それまでに様々な悲劇に見舞われている彼は、親しい人の葬式という大衆の面前で、神父に対して神への不信を爆発させるのですが、その弁舌には思わず納得させられるような迫力がありました。
そもそも悪魔という物は堕天使なので元々は天使です。
彼の弁舌を聞いていると、脳天気に神様を信頼し切っている人たちよりも、彼の方がずっと深淵な精神を持っている様に感じられて来て、思わず肩入れしたくなるくらいなのです。
この巧妙な仕掛けは、とてもうまいと思いました。
私個人は、"善と悪"などの二元論を全く否定している人間なので、ダミアンもまた摂理の一部と感じるのですが、しかしそれではエンタテインメント的に面白くないので、オーメンに接する時には意識的に善なるものVS邪悪な物、という方向に浸る様にしています。
そしてそういう意識で、悪魔を完全に邪悪な存在と位置づけると、テレビ・ドラマのダミアンには、なんらかの臨場感を感じるのです。
ひっそりと、共感出来るクオリティを使って、人々の心に、世界に、政治に、いつの間にか入り込んで来る邪悪。
始めは静かに、そしてその存在感は徐々に大きく顕著になってゆくのだけれど、そうなった時にはもう遅過ぎる。という顛末です。
こういう歴史を、人は既に何度も経験して来ました。
正義感の裏にある排他性、黒と見なした物を徹底的に排除する事で白を守ろうとする神経症的な潔癖さ。
私は、個人の人生や人間関係の中では、自分の美学に準じたきっぱりとした正義感や境界線が必要だと思っていますが、その意識を集団の指導者の様な人が持った時、その正義の剣は、崇高で思慮深い意識の集結の元、慎重に見極めた方法と選択でふるわなければならない物だと思っています。
でも世の中って大抵は、そんな風に思慮深くは行っていないよね、今のところ。
というわけでこのブログが何故不謹慎かと言いますと。
マンハッタンの街に君臨する666フィフス・アヴェニュー・ビル。
頭に獣の数字666の痣を持つダミアンを思う時、かねてから私は、この、666ビルの青年オーナーの事を第一に思い浮かべていたという事なのです。
ていうか、それって自然じゃない?
だって、クリスマスのマンハッタンに行くと、華やかなイルミネーションの中に、このビルの赤い666の文字が、かなり目立って光ってるんだからさ。
そしてその、私の中のダミアンである若き青年実業家が、今やアメリカ大統領の義理の息子であると同時に、大統領上級顧問になっちゃったんだから、オカルトファンタジー脳全開でちょっとはエキサイトしちゃってもいいんじゃないかしら。
トラの寵愛を一心に受けているという噂のこの娘婿。
これからどんな事を張り子のトラの耳に囁き続けるのかが、目の放せない状況だなと思うのであります。
ほんとバカバカしくてすいません。
まあでも、世界中に出回っているトラ絡みの様々なブラック・ジョークに比べたら、乙女チックでソフトな妄想だと思うんですよね。テヘ😝。
2017年1月29日日曜日
人には向き不向きがある
以前このブログで、トラが当選した場合、唯一彼がよい大統領になる可能性があるとすればそれは、ヒーローになる事への憧れから、民衆の動きを見極めて学び、不本意ながらもその意向に従う事から始まるのではないかと書きました。しかし当選してからの彼の様子を見てみると、まず彼は自分の言動について、うしろめたさや罪悪感が全く無いんだねという印象で、これは、民衆が彼に反対したところで、一体何が悪いのかがわかっていないレベルで、人気取りの為に方針を変える術も無い、つまり自分の何が悪いのかそして何をどう変えれば尊敬の対象になれるのかが、まずはわからないのではという感じです。
あっという間に共和党からはかなりの人数が、トラとは一緒にやりたくないという理由で議席を去り、空いた人員をかき集めねばならないと知った時、トラはさすがに傷心な顔をしていたという噂を聞きました。
そもそも彼は自己愛性境界例ですので、心の底に潜む強い劣等意識から自分を乖離するために壮大な自己理想像を持ち、それを承認するために、崇められたり慕われたりすごいと思われたり神と思われたり褒められたり尊敬されたりかっこいいと言われたりするのが大好きなはずですから、思いがけずあまりに多くの人からの嫌悪を全身で浴びている今、平気でいられるとは思えません。
彼が当選した当時から、あまり長く持たない感じ〜、と思ったのは、暗殺されるとかそういうんじゃなくて、なんとなく上記の理由から、早い段階でトラ自身が、サイコティック・ブレイクダウン(心理的破綻)をしてしまうのではないかと思ったからです。
彼がやり手のビジネス・マンだった頃には、好きなだけ自分の理想の幻影を生きていられたのだと思います。
彼をよく知る友人によると、ビジネス・マンだった頃から自分の資産の数字をかなり大袈裟に"盛って"語っていたとは言いますが、仕事上の付き合いならば相手がいくらか自意識過剰のうぬぼれやの見栄っ張りでも、そこは見て見ぬふりをして取引を行うなんて事はよくあっただろうし、ましてや褒めそやして仕事を進めるという事だってあるでしょう。
そういう狭い世界にいれば、(いや勿論、一般的に見れば決して狭い世界ではありませんが、つまり彼の畑である世界に居続けさえすれば)、さほど大きなバッシングに遭う事も無かったでしょう。
ところが大統領になってしまった今、メディアや国民は、その攻撃の手を緩めません。
今や彼の決定や言葉が大きな力を持つ様になってしまったんですから。
そして友人によれば、自己愛性境界例故に彼は、とにかく評判が気になりますから、いくら側近に、悪口を言ってるだけのテレビなんか見るなと言われても、やめられないのだそうです。
そしてそんな批判を聞いて、学んで成長するような強さは、彼には無いだろうと友人は言いました。
彼が呼び寄せてしまった、この災難。
実業家のままでいさえすれば、美人の妻と美しい子供達に囲まれて、みんなにチヤホヤされたまま、誰にも理想の自己像を傷つけられず、「誰もあんたが思ってるような素晴らしい自己像と同じ様に、あんたを見てやしないんだよ。」という厳しい現実を突きつけられないまま生きられたかもしれません。
このままではトラは気付いてしまいます。
オレはもしや嫌われているのか?と。
ましてや、軽蔑されているのか?と。
オレが当選したのは単にカウボーイの連中が、女に政権握られてたまっかと思っただけだからなのか?と。
オレは190cmの2歳児で、大統領になんか到底なれる器ではない人間だったのか?と。
そんな時、周りの大人は優しく、こう言ってあげればいいのです。
「あなたが大統領になったおかげで、アメリカは再びグレートになりましたよ。」
と。
そうです。
今やアメリカは、今まで言葉を濁し続けていた人たちでさえ、人種差別や女性蔑視に大いなる異論を唱え、異教の隣人に言葉と行動で愛を伝え、軟禁されている難民を解放する為に空港に押し寄せ、街は"全人類ー全宗派、全人種、全性別の為の保護区になります"と掲げるサンクチュアリ・レストランだらけ。
アメリカは、再び良き、グレートなアメリカを取り戻したのです!
ありがとうトラよ。
そしてさようなら。
もう、不向きな仕事からは遠ざかり、元の実業家に戻って、壮大な自己像を信じさせてくれる人たちと共に、平和な老後を送って下さい。
2017年1月23日月曜日
3歳児激オコから学んだ
これは初めて動物園に連れて行ってもらった三歳の男の子オーリーが、(私は女の子と思ったのですがHeという記載がありまして)一目見てその現状に激怒する映像です。
大変感心したので、ここにザックリと翻訳しました。
オーリー「この人たちはいい人たちじゃない。」
お母さん「誰のこと?」
オーリー「彼らの持ち主。」
お母さん「誰が何を持っているの、オーリー?」
オーリー「動物たち。いや、いい人たちだ、ただわかってないだけなんだ。」
お父さん「ただわかってないだけ?」
オーリー「彼らは動物を見る為に閉じ込めている。それは正しくない。それは牢屋と同じだよ。」
お父さん「牢獄みたい、その通りだね、オーリー。」
オーリー「彼らは(動物達は)悪さなんかしないよ。」
お父さん「うん、彼らは悪さなんかしない、ただ動物でいるだけだよね。君は本当にもっともな事を言ってるよ。」
(*動物園という場所についての賛否両論はまた別の話としたいと思います。)
3歳。
自分を振り返ってみると、オーリーの考えを決して早熟だとは思いません。
私も小さい時、本当に沢山の想いを抱えていた。でもそれを、こんなにためらい無くそっちょくには言わなかったなと思います。
そこがオーリーはすごいと思うのです。
子供というものは、大人が自分に何を求めているのかを、敏感に感じ取る生き物です。
何故ならそれは、生存本能の一部だから。
無力な人間の子供は、複雑に機能している文明社会の中で、庇護してくれる大人の助け無しでは生き残れません。だからこそ子供は、自分を養い保護している大人の顔色を、敏感に感じ取るように出来ているのです。
そういう意味で、もしも親が、私を喜ばせる為に動物園に連れて来てくれたのだったら、閉じ込められている動物たちの姿をどんなに悲しく思っても、それを言葉には出せなかったかもしれない。親が期待しているであろう、無邪気に喜ぶ自分を演じるなど、親の想いを汲み取る方を選んだかもしれません。
勿論実際にはこのオーリーの親の様に私の両親も、正直に言えば言ったで感銘を受けるだけでがっかりなんかしなかったかもしれませんが、そこは子供なんですから、そこまでは頭は回りません。
ましてや、もしも過去に素直な言動を貫いて叱られたりした経験でもあれば、そんな危険な事はもう出来ないと、子供ながらに学習しているはず。
そんな風にして、素直に心に宿ったそっちょくな想いをどんどん閉じ込めていくうちに、自分が本当は何をどう感じているのかが、よくわからなくなっている部分が、誰にでもあるのではないでしょうか。
トランプの大統領就任の際に、不安や不満を語る声に混じって、抵抗を示しながらもポジティブに現状を解釈する声を耳にする事が度々ありました。
ポジティブ意見の内容は様々で、運命論的だったり、出来事には必ず意味がある的な哲学系だったり、膿出しになるとか、反面教師になるとか、破壊と再生のプロセスだ、というような深淵な物だったりと、実に様々です。
その殆どが論理的で冷静で知的な、大人の論法に見える内容です。
私はそもそも、どんなに望まない結果でも、何かが一旦起こってしまったら、起こってしまった事に敬意をはらうタイプの人間です。
だから前述の様に私も通常は、望んでいない結果だとしても起こってしまった現実には意味と役割があるのだと自動的に反応し、通常はさほど葛藤は感じません。
まずは現実を、抵抗は感じながらも受け入れて、その後に解決したり順応したり質問したり理解したり変更する為に行動します。
だから通常ならば私は、トランプの件についても大きくポジティブな視点で解釈して現実を受け入れる事を、いつもならするはずだったんですが、でもどうも今回は出来なかった。
そして今回は、直ちにそれを行っている人たちの言葉に、強い違和感を感じたのです。
どうしたもんかと思っていた時に起こったのが、トランプに半旗を翻すWOMEN'S MARCHでした。
アメリカの友達が男女問わずこれに参加し、どんどんfacebookに写真や中継を上げてゆくので何が起こっているのかを知り、やがてたったの半日で全世界に広まっている事を知り、トランプの就任式に集った人数を大幅に超える歴史的なイベントになった事を知りました。
世界80カ国、670カ所で、480万人が参加したと、今朝の新聞にはありました。
トランプ就任で一様にどんよりとしていたアメリカの友人達が意気揚々と盛り上がり、どんどん力を取り戻してゆく様子が、SNSから伝わって来ました。
このイベントの溌剌としたうねりを見た時に感じたのは、ああ、知的に大局的に出来事を解釈して、まあトランプも時代の流れだよ、なんて優等生な事を言ってる限りは、こんなに生き生きとした動きには、踏み出せないな、という事です。
確かに、意外にも人々を争いで分断する替わりに、人種や宗教や性別を超えたユニティを呼び起こしてしまったという意味でトランプの大統領就任は、ポジティブな役割をしたかもしれません。
でもそれが現実に起こったという事と、この素晴らしいムーブメントが実際に起こる前に、ポジティブな可能性を頭で想像して自分や人に言い聞かせてしまう行為とは、全く意味が異なると私は思います。
私は、今回この一件を通して、トランプの様な人物を、なんとか平和に容認してポジティブな解釈を語ろうとする人たちにあるのは、ある種のストックホルム症候群なのではないかと思ったのです。
ストックホルム症候群とは、誘拐に遭ったり、ドメスティック・バイオレンスやドメスティック・バーバル(言葉による)・バイオレンスに日常的にさらされている人が、その環境やそれをもたらす相手に自分を適応させてゆく為に取る、心の鈍麻と防衛反応です。
極端なケースでは、自分を誘拐した犯人に恋をしたり味方についたりするアレ。
人間は、無力な幼児期に、誰もが隷属関係に似た心理体験をしています。
親と自分との関係性において、どんなに愛情深い親に育てられていても、子供時代は何かと自由が制限されるものですし、ましてや親が過保護だったり過干渉だったり、子供の尊厳を軽視するタイプだったりするならば、なおさらにその印象は強まります。
自然な親子関係の中に存在する、子供にとっては理不尽だと感じられる躾や教育や価値観の押しつけ。
しかしそれに異論を唱えたり逆らったりすれば、叱責され罰を与えられたりします。
そういう体験を繰り返すうちに子供は、自分の中にある、親の理念とは相容れない鮮烈な思想や憧憬を感じない様にする事を学び、やがて親の価値観に準じる術を身につけます。
これがある意味、ストックホルム症候群の根ではないかと思うのです。殆どの人の心に潜む、ストックホルム症候群の根「感じないぞ。」
これがポジティブ・シンキングの根底にあるとすればそれは、むしろ不健康な、感覚の鈍麻です。
トランプは、権威的な容貌と横暴さの権化です。
多くの人にとっては子供時代の自分が、親に感じていた脅威を象徴するような人物ではないでしょうか。
だとすれば人は、たとえ彼に対する抵抗を強く感じていたとしても同時に、幼児期に親との関係の中で培って来たある種の諦めを、そこに重ねます。横暴な親の元に育った子供ほど、強い諦めと感覚の麻痺によって心の平安を獲得するのですから、大人になった今やその諦めや無力感が、何かポジティブな、心の平安の様な物でもあるかの様な錯覚すら起こります。
すると自動的に、トランプはしょうもないけど抵抗してもしょうがない、としょぼんとなるやいなやポジティブになっちゃって、無意識下で頭を働かせ、実は幼児の悲しい心的反応なのにあたかも成熟した冷静な自分から出た知的見解の様なコーティングをかぶせて、ポジティブを語り始めるというわけです。
なんだか今回私は、トランプ就任についてポジティブな見解を語る多くの人の言葉の裏にこの気配を感じてしまい、どうしても同調する事が出来ませんでした。
またある記事に、日本人の反応が最もトランプに優しく肯定的、とあるのも読みました。
もしそうだとすればそれはやはりそこには文化的背景があるのかもしれません。
日本には古くから、男尊女卑や貞淑で従順な妻、という美学があります。
横暴な父親や旦那の元で生きる経験を余儀無くされた経験があるなら、ストックホルム症候群の傾向を強く持っているのは当たり前です。
また一方で、日本人には自然に禅的な心の動きを持つ人が多いと私は思っており、この要素は素晴らしい物だと私は思っていて、この禅の心によってジタバタしない部分も、何割かはあるとも思います。
この場合はより自覚的であり、物事の正しくなさとそれに伴う不快感を充分に自覚した上でジタバタしないという態度を取るでしょう。
この禅的な態度は深淵な明け渡しであって、ストックホルム症候群から来る「イヤな事やイヤな感情は見ないぞ感じないぞポジティブ・シンキング」病とは、一線を画す物です。
この禅的な人々は、動物園に激オコするオーリーと、基本的には同じです。
抵抗や怒りと真っすぐに繫がり、明確に自覚しているからこそ、不条理な現実に対して自覚的な明け渡しと同時に、その現実を覆す底力を、保っていられるのです。
私は人間はいつでも、このオーリーの様な生き生きとした怒りを手放すべきではないと思っています。
そうでないと、トランプの様な横暴な人物が、ますます世界を牛耳ってしまうからです。
WOMEN'S MARCHがたとえトランプ政権を倒せなくても、それにはたいして意味がありません。あの行動によってあんなにも沢山の人が、同じ想いを持っていた事がわかったという事が、大事なんだと私は思います。
未だに差別や偏見や暴力が横行する世の中ではあるけれど、あんなにも沢山の良識ある人々がいるという現実を知り、あのムーブメントが一切起こらなかった日本にいる私でも、心が温かくなりました。
ストックホルム症候群的ポジティブ・シンキングに陥らずに、自分の不快感にちゃんと繋がって行動した人々に、本当に感謝を感じています。
ところで余談ですが、銃規制に抵抗する勢力側のトランプ氏。
あんなに沢山の、自分に反感を持つアメリカ人たちを見て、ヤバい、銃、規制しなきゃ、とは思わなかったんでしょうかね笑。
2016年12月17日土曜日
ニーガンが教えてくれる事
もしもAさんという人に突出した能力があって。
その突出した能力が例えば未来を知る力や、この一手を打てばこういう返事が世界から来るとか、この場所へ行けばこういう物が手に入るとか言う事が手に取る様にわかる力だったり、誰かの偽善的な言動の影に隠れる本音や本当の動機が、レントゲンの様に見透かせる力だったりしたら、そのAさんは、周りの人達と対等な関係を保つ事が出来るだろうか。
そういう能力の無い人たちの愚かな言動や決定によって、自分の命やミッションや人生が危険や、不利な状況に晒される様な事があったとしたら、その人は周囲から自分を隔離して自分を守り抜くか、あるいはもし誰かと共に生きるとしたら、自分の作ったルールに絶対服従を強いる、独裁者となるしかないのではないのか。
ウォーキング・デッドのニーガンが、単なるアホなナルシストが、称賛と敬意と権力を欲しがって軽薄に威張ってるだけじゃない事が透けて見えるだけに、非常に複雑な気持ちになる。
ドラマの中では徐々にニーガンへの刺客が迫っている気配なので今の内に書いちゃうけどさ、私、結構ニーガン、好きかも。
ニーガンが先に書いた様な、天才的な洞察力の持ち主かどうかはわからないけれど、さっきニーガンが、自分の元に酒を抱えてやって来て、友好的な絆を結ぼうとしたスペンサーをバッサリ殺っちゃった時に私のハートがとても喜ぶのを感じて、私も随分、怒ってるんだなあ、と思ったのだ。
人間界は、あのスペンサーみたいな人を肯定する事が、いや肯定とまでは行かなくても、なんとなく違和感を感じながらも受け入れている、と言った方が近いのかもしれないけれど、アヤフヤな違和感だから事を荒立てるよりは、放置して仲良くやっておこうじゃないか、みたいな事が、多いように思うのだ。
ドラマ全体を通してみると、スペンサーの想いは理解に足る。
私はあのドラマの主人公でありヒーローである好戦的なリックがそもそも嫌いで、彼の決断によって平和に暮らしていた街の人々がニーガン率いる"救世主"軍団に宣戦布告し、結果負けて植民地みたいにされてしまったわけだから、その平和に暮らしていた街の指導者の息子だったスペンサーが、リックに反感を抱くのは当然だ。
だけど今回スペンサーは、自分がその恨みを背負う替わりに、ニーガンに擦り寄って、ニーガンに自分の怒りを、肩代わりしてもらおうとしちゃいました。
ニーガンと酒を酌み交わし、仲良くビリヤードをやりながらスペンサーは、自分が如何にリックを憎んでいるかを告げ、リックの所行を告げ如何にリーダーにふさわしくないかを告げ、自分がリーダーなら如何にすみやかに、街と"救世主"が共生関係になれるかを、ニーガンに訴える。
結局私に何をして欲しいのだ、とニーガンは問い、スペンサーはそれにははっきりとは答えず、だからニーガンはスペンサーの、言葉にははっきりとは出さなかった本音を、ズバリ言い当てる。
要するに、ニーガンの力で、自分をリーダーにしてくれって事ですよ。
こういう事って、たまにではあるが、実生活でも目にする。
自分の中にある、誰かへの理不尽かもしれない不満や怒りを、自分の持っている感情的な問題として語らず、何かに転嫁して正当化あるいは美化しつつ、語ったり、誰かを納得させようとする。
スペンサーのケースでは、リックへの恨みは妥当だと思うので理不尽な怒りではないんだけど、それでも彼は、それを自分で解決しようとせず、ニーガンを使おうとしたのが、人として美しくないんだよね。
で、世の中にはスペンサーみたいな事情は無く、単にジェラシーや我が身可愛さから、誰かに否定的な感情を持って、で、誰かに否定的な感情を持つまでは仕方無いと思うんだけど、その、理不尽かもしれない自分の誰かへの不満を、自分自身に対して正当化あるいは美化する為に、別の誰かを説得して味方にするっていう事を、する人っているよね。
そして私がそういう時に怒りを感じるのは、それを行う人、つまりスペンサー的人物に対してではなくて、そういう人に、巻き込まれる側の人に対してなんです。
スペンサー的な人に対しては私はそもそも友達として認識しないから怒ったりはしないんです。そういう人たちは、言わばキリストの言う、「彼らは何をやっているのかわからないのです。」な人々ですので、早急に正しい行いを求めても無駄だと私は思うので、怒りも感じません。ただお友達にならないだけ。
だから問題は、巻き込まれたり黙認したりする方だと、私は思うんですよ。
見て見ぬふりをしたり、その行為をなんとなく汚いかもとは思っても、汚いと指摘する人間を積量だとか言い過ぎだとか、言っちゃったりする方。
そんな小さな事に目くじら立てなくても、とか言って、寛大な、我慢強い人のふりをしちゃう方。
大人しい悪人を庇い、毅然とした善人の方を、糾弾しちゃう方。
ウォーキング・デッドの優れた所は、敵味方のいずれにも、主人公サイド脇役サイドの両方に必ず、良い点と悪い点が混在し、白黒の判定がつきにくい事だと私は思います。
これによって人は、上記の様なあやふやな悪、もっと言えば巧妙で狡猾な、隠れた悪の姿を、心の中であぶり出す訓練が出来ると、私は思うのです。
さっき悪役のニーガンがスペンサーを殺っちゃった時に正しかったのは、あの悪名高いニーガンの方だったと、私は思いました。
スペンサーがリックの事を語った時にニーガンは、リックは自分の尊厳を抹消して今、ニーガンの命令に従っている、でも、スペンサーは自分が泥を被らずに、ニーガンに自分の代役をやらそうとした、みたいな事を言ってスペンサーを殺っちゃいました。
(だからと言って殺しちゃいかんのですが)
これはニーガンが、リックのがむしゃらな犠牲に、ちゃんと敬意を払ってるって事です。
ズルい人や卑怯な人じゃなくて、ちゃんと自分で背負う体当たりな人を、尊敬しますよって事ですよね。
ニーガンは登場当時から、リックのナルシシズムを始め、その場にいる人たちの深い心理を見抜くような事を、しばしば発言します。
自分は徹底した悪でいながら、周囲の人間の詰めの甘い偽善をすぐに見抜き、絶対に許さないのです。
そしてあり得ない程の統率力と組織力で、あのゾンビだらけの絶望的な世界で、最も強大なグループを率い、文明を復興させようとしています。
あの恐怖政治的なやり方には共感は出来ないと思いつつも、先に書いたように、もしも周囲の人間が全員自分よりも激しくぼんくらで、さっきのスペンサーがやったみたいな無自覚で清潔ではない言動ばかりが横行していたとしたら、ルールによって強制するしかないのではないかと、今回(シーズン7・8話)は思ってしまいまいした。
現リアル世界での独裁者は我が身可愛さの愚か者ばかりかもしれませんが、ニーガンの動機にはなんとなく、これらとは違う興味深い心理がある様に感じます。
ドラマの中ではまだ全く触れられない彼の過去や背景が、今後描かれる事もあるのでしょうから、とても楽しみだなと感じます。
ゾンビだらけになる前の、まだ世界が社会という形を呈していた中で、彼は一体どんな職業で、どんな人物として、どんな人生を生きていたのか。
ドラマ初期に出て来ていた、わかりやすい心傷を負った独裁者ガバナーとは厚みも深みも悪さも格の違うニーガンの物語が、楽しみでなりません。
その突出した能力が例えば未来を知る力や、この一手を打てばこういう返事が世界から来るとか、この場所へ行けばこういう物が手に入るとか言う事が手に取る様にわかる力だったり、誰かの偽善的な言動の影に隠れる本音や本当の動機が、レントゲンの様に見透かせる力だったりしたら、そのAさんは、周りの人達と対等な関係を保つ事が出来るだろうか。
そういう能力の無い人たちの愚かな言動や決定によって、自分の命やミッションや人生が危険や、不利な状況に晒される様な事があったとしたら、その人は周囲から自分を隔離して自分を守り抜くか、あるいはもし誰かと共に生きるとしたら、自分の作ったルールに絶対服従を強いる、独裁者となるしかないのではないのか。
ウォーキング・デッドのニーガンが、単なるアホなナルシストが、称賛と敬意と権力を欲しがって軽薄に威張ってるだけじゃない事が透けて見えるだけに、非常に複雑な気持ちになる。
ドラマの中では徐々にニーガンへの刺客が迫っている気配なので今の内に書いちゃうけどさ、私、結構ニーガン、好きかも。
ニーガンが先に書いた様な、天才的な洞察力の持ち主かどうかはわからないけれど、さっきニーガンが、自分の元に酒を抱えてやって来て、友好的な絆を結ぼうとしたスペンサーをバッサリ殺っちゃった時に私のハートがとても喜ぶのを感じて、私も随分、怒ってるんだなあ、と思ったのだ。
人間界は、あのスペンサーみたいな人を肯定する事が、いや肯定とまでは行かなくても、なんとなく違和感を感じながらも受け入れている、と言った方が近いのかもしれないけれど、アヤフヤな違和感だから事を荒立てるよりは、放置して仲良くやっておこうじゃないか、みたいな事が、多いように思うのだ。
ドラマ全体を通してみると、スペンサーの想いは理解に足る。
私はあのドラマの主人公でありヒーローである好戦的なリックがそもそも嫌いで、彼の決断によって平和に暮らしていた街の人々がニーガン率いる"救世主"軍団に宣戦布告し、結果負けて植民地みたいにされてしまったわけだから、その平和に暮らしていた街の指導者の息子だったスペンサーが、リックに反感を抱くのは当然だ。
だけど今回スペンサーは、自分がその恨みを背負う替わりに、ニーガンに擦り寄って、ニーガンに自分の怒りを、肩代わりしてもらおうとしちゃいました。
ニーガンと酒を酌み交わし、仲良くビリヤードをやりながらスペンサーは、自分が如何にリックを憎んでいるかを告げ、リックの所行を告げ如何にリーダーにふさわしくないかを告げ、自分がリーダーなら如何にすみやかに、街と"救世主"が共生関係になれるかを、ニーガンに訴える。
結局私に何をして欲しいのだ、とニーガンは問い、スペンサーはそれにははっきりとは答えず、だからニーガンはスペンサーの、言葉にははっきりとは出さなかった本音を、ズバリ言い当てる。
要するに、ニーガンの力で、自分をリーダーにしてくれって事ですよ。
こういう事って、たまにではあるが、実生活でも目にする。
自分の中にある、誰かへの理不尽かもしれない不満や怒りを、自分の持っている感情的な問題として語らず、何かに転嫁して正当化あるいは美化しつつ、語ったり、誰かを納得させようとする。
スペンサーのケースでは、リックへの恨みは妥当だと思うので理不尽な怒りではないんだけど、それでも彼は、それを自分で解決しようとせず、ニーガンを使おうとしたのが、人として美しくないんだよね。
で、世の中にはスペンサーみたいな事情は無く、単にジェラシーや我が身可愛さから、誰かに否定的な感情を持って、で、誰かに否定的な感情を持つまでは仕方無いと思うんだけど、その、理不尽かもしれない自分の誰かへの不満を、自分自身に対して正当化あるいは美化する為に、別の誰かを説得して味方にするっていう事を、する人っているよね。
そして私がそういう時に怒りを感じるのは、それを行う人、つまりスペンサー的人物に対してではなくて、そういう人に、巻き込まれる側の人に対してなんです。
スペンサー的な人に対しては私はそもそも友達として認識しないから怒ったりはしないんです。そういう人たちは、言わばキリストの言う、「彼らは何をやっているのかわからないのです。」な人々ですので、早急に正しい行いを求めても無駄だと私は思うので、怒りも感じません。ただお友達にならないだけ。
だから問題は、巻き込まれたり黙認したりする方だと、私は思うんですよ。
見て見ぬふりをしたり、その行為をなんとなく汚いかもとは思っても、汚いと指摘する人間を積量だとか言い過ぎだとか、言っちゃったりする方。
そんな小さな事に目くじら立てなくても、とか言って、寛大な、我慢強い人のふりをしちゃう方。
大人しい悪人を庇い、毅然とした善人の方を、糾弾しちゃう方。
ウォーキング・デッドの優れた所は、敵味方のいずれにも、主人公サイド脇役サイドの両方に必ず、良い点と悪い点が混在し、白黒の判定がつきにくい事だと私は思います。
これによって人は、上記の様なあやふやな悪、もっと言えば巧妙で狡猾な、隠れた悪の姿を、心の中であぶり出す訓練が出来ると、私は思うのです。
さっき悪役のニーガンがスペンサーを殺っちゃった時に正しかったのは、あの悪名高いニーガンの方だったと、私は思いました。
スペンサーがリックの事を語った時にニーガンは、リックは自分の尊厳を抹消して今、ニーガンの命令に従っている、でも、スペンサーは自分が泥を被らずに、ニーガンに自分の代役をやらそうとした、みたいな事を言ってスペンサーを殺っちゃいました。
(だからと言って殺しちゃいかんのですが)
これはニーガンが、リックのがむしゃらな犠牲に、ちゃんと敬意を払ってるって事です。
ズルい人や卑怯な人じゃなくて、ちゃんと自分で背負う体当たりな人を、尊敬しますよって事ですよね。
ニーガンは登場当時から、リックのナルシシズムを始め、その場にいる人たちの深い心理を見抜くような事を、しばしば発言します。
自分は徹底した悪でいながら、周囲の人間の詰めの甘い偽善をすぐに見抜き、絶対に許さないのです。
そしてあり得ない程の統率力と組織力で、あのゾンビだらけの絶望的な世界で、最も強大なグループを率い、文明を復興させようとしています。
あの恐怖政治的なやり方には共感は出来ないと思いつつも、先に書いたように、もしも周囲の人間が全員自分よりも激しくぼんくらで、さっきのスペンサーがやったみたいな無自覚で清潔ではない言動ばかりが横行していたとしたら、ルールによって強制するしかないのではないかと、今回(シーズン7・8話)は思ってしまいまいした。
現リアル世界での独裁者は我が身可愛さの愚か者ばかりかもしれませんが、ニーガンの動機にはなんとなく、これらとは違う興味深い心理がある様に感じます。
ドラマの中ではまだ全く触れられない彼の過去や背景が、今後描かれる事もあるのでしょうから、とても楽しみだなと感じます。
ゾンビだらけになる前の、まだ世界が社会という形を呈していた中で、彼は一体どんな職業で、どんな人物として、どんな人生を生きていたのか。
ドラマ初期に出て来ていた、わかりやすい心傷を負った独裁者ガバナーとは厚みも深みも悪さも格の違うニーガンの物語が、楽しみでなりません。
2016年12月10日土曜日
ジョバンニかサイモンか
昨日はモーツァルトの有名過ぎる一作、"ドンジョバンニ"を観て来ました。この作品についてはもう、昨日の感想会で思いっきり、言いたい放題、掘り下げるだけ掘り下げ切って大満足していますので、このブログでは書きません。私が書きたいのは、ジョバンニを演じたサイモン・キンリーサイドの事です。
とにかく、メトロポリタン歌劇場の舞台に乗れるんですから、このオペラ歌手たちは一流中の一流です。こういう人たちの芸に触れると、「歌は下手でも心が籠っていればいい」とか、「音痴でもいい、魂からの声ならば。」等という、よくちまたで耳にする定番の暖かい言葉たちの事が、ちゃんちゃらおかしくなります笑。
そういう事は一流になってから、体感を通じて発見する崇高な真実なのであって、素人のうちからそんな事に甘んじていちゃいけないのです。
まずは心や個性を失うくらい研鑽を積んだ後に、その研鑽と共にいつの間にか背後で発達していた澄んだ成熟した魂と、研磨されて輝く深いところに眠っていた真の個性が、ようやく歌と深く繋がる、それが、一流、という事なんだと、私は思います。
あ、もちろん一流を目指してないならば、上記のような心理的クッションも、ある意味では真実なので、それでいいと思いますよ。私も、心しか籠ってないバイオリン弾いてるし。MET目指してないから。
で、このジョバンニを演じたサイモンなんですが、とにかくこの舞台、幕が開いた瞬間から、すっごい引力で舞台から目が離せない。熱狂的な集中力で観切った末に、あっという間に一幕目が終わります。
そして恒例の、舞台裏でのインタビュー。
このドンジョバンニは、希代のプレイボーイを描いた舞台です。今まで私は、このアンチヒーローを正当化する人を見た事が無いし、そういう評価を聞いた事もありません。
実に2000人もの女を口説き落とし、彼女らの名前をノートに連ね、寝る為ならどんな嘘もいとわず、彼に思いを寄せる女たちを裏切り、とにかく情交した女の数を増やす事だけに一生を費やす、言わばろくでなし貴族男の話なんですから。
だから、インタビューでの出演者たちの言葉も様々ですが、納得のできる行儀の良い物が続きました。
しかーーーーーーーーし!!!!!
インタビューの相手がこの主人公、ドンジョバンニを演じているサイモンに及んだときに、私が今まで持っていたこの物語への漠然とした解釈が、音を立ててガーーラガラと崩れ去って行ったのですよ。
サイモンは、高揚した様子でインタビュアーの前に現れ、今さっきまで演じていたジョバンニの衣装の乱れを気にする事も無く、爆発的に語り始めました。
1幕最後の歌を歌った時にはもう、感動でからだが震えたよ! ジョバンニは素晴らしい、自由だ、この物語は、自由を描いているんだよ!!!!
彼が言うには、この時代、フランス革命以前のこの時代は、身分制度は厳しく、モラルも厳しく、非常に鬱屈した時代だった。けれどジョバンニは、貴族でありながら平民を家に招き(村娘をモノにする為ですが)カトリック的規律をことごとく侵してゆく、モーツアルトはこの舞台に、ひとりの人間が、神をも恐れずに追求し選び取ってゆく自由という物を、描き切っているんだ。というのです。
なーーーーーるーーーーーーほーーーーーーーどーーーーーーーーー。
というわけで、サイモンのインタビューでは一切、女性への礼儀的配慮的な発言は発せられず、インタビュアーの女性は早いうちからムッとしており、しかし熱狂的に語り続けるサイモンは止められず、あー、そういう発言によってあなたはみんなから愛されているのね、なんていう、わけのわからない錯乱した間の手を唐突に打ってなんとかインタビューを終わらせるという、なんだかとっても見応えのあるモノとなっていました。
冷静に見れば、ジョバンニのやっていた事は自由というよりは病であり、恐らくセックス依存症か、あるいは下僕の男への愛を封じ込めているがためのリビドーの異常な爆発あたりなんじゃね?くらいに私は思うのですが、あり得ない程人間の自由や尊厳が無視され制約されている時代ならば、これだけ極端で破天荒な方法で自由を描くくらいが、ちょうどいいんじゃないのかな、とも思いました。
根深い慣習を打ち破る為には荒療治みたいな物が必要なのと、同じです。
そう思うと、なんだかジョバンニの味方をしたくなります。
責められても悪びれないジョバンニが言う様に、ロマンスの最中は女性は幸福なのですから、執着さえ捨てれば、その関係が終わったとしても素晴らしい経験をした、というだけの事なんです。
貞操、なんていうものに重きを置く時代の掟に縛られていなければ、恐らくとっても床上手であろうジョバンニと、素敵なセックスを楽しんだわよ、ってだけの話です。
最後にジョバンニが地獄に堕ちるのは、上演当時の世評への配慮だろうと私は思いますが、それを考えるとジョバンニの姿が、どこから発生したのかわからない横暴な規律なんていう物に縛られてがんじがらめにされている、人間の自由と尊厳の解放への警鐘であり、同じ様に魂の解放を叫んで最後は磔刑に処せられた、キリストにすら重なって感じられます。
この舞台を観て私は、このサイモンに強くインスパイアされ、生きる、という事への非常に強いコミットが、あっという間に生まれてしまいました。
私がさっき、一流という事の素晴らしさを書いたのは、それが理由です。
サイモンは、自分自身がジョバンニ同様に、地上で出来る事は全てやる、ってな勢いで、オペラの研鑽を積んで来たんじゃないでしょうか。
そしてそういう人物だからこそ、技術不足や力不足やらに足を引っ張られずに、自由に、最高に、全身全霊でジョバンニを演じる事が出来た、そしてだからこそ彼はジョバンニの魂に、深く触れたんだと思います。
こういう一流の人物の芸は、圧倒的に人に、生きる力をもたらしてくれます。
眠っていた自分の尊厳という存在に、燃える様に立ち戻らせてくれるのです。
感想会の後、冷たいシェイクを飲みながらみんなとの話に昇ったのは、何故ケア施設や子供やお年寄りを相手にする人たちが、彼らへの慰労に、安く雇えるアマチュアの芸人やミュージシャンを呼んでしまうのか、という事でした。
ケア施設で最近、上手なジョークの言えない無名の芸人のショーに呼ばれ、うんざりしているお年寄り達を目撃したばかりの友人からの言葉は、やり切れない程その現実のもたらす害を、伝えてくれました。
もしもケア施設に入っている皆さんが、過去に一流のオペラを観ていた人だったら、ケア施設の中でそういう研鑽されていない芸を見せられる事がもしかしたら、自分がどんなに落ちぶれてしまったかという実感に繋がってしまうという可能性は、無いでしょうか。
私はそれは、拷問だと思います。
あとどのくらい生きられるかわからない人こそ、最高の物を観るべきだ、ともうひとりの友人が言いましたが、私もそう思います。
また私はそばに、何もわからない未熟な時にこそ最高の体験をするべきだ、最高の材料で絵を描き、最高の料理を食べるのは、大人ではなく子供の仕事だ、と言ってくれる人が居た事に、心から感謝しています。
何故なら、早いうちに頂点を知る事で、自分の許容量の上限が、広がるからです。
その広がった領域から、様々な多様性を見て行けます。選択肢が広がるのです。
だから、お年寄りだけでなく子供達だって、最高の経験をするべきだと私は思います。
まだそんなに実力の伴っていないアーティストや芸人さんは、どちらかというとケアされる側であって、誰かをケアする為に芸を提供出来る側では無いと私は思います。
私は施設で希望を失ったり元気を失ったりしている人は、サイモンみたいな人の歌を聞くといいと思うのです。
世界最高峰の、真に自信を持って芸を披露出来る人たち、本当に自分の才能と人生を生き切っている人たちのもたらす一流の技は、それだけで、今まで発揮出来ていなかった自分のスタミナを呼び覚ます様な力が、本当にありますよ。
2016年12月2日金曜日
本当の薔薇のお菓子
![]() |
| サウスアベニューさんのtweetから勝手に拝借 |
それは、西荻窪にあるサウスアベニューさんというお店が販売を始めた、白バラ、黒バラ、というお菓子の事。
このお菓子をTwitterで見た瞬間から、私はこれは本物だ、と感じて、販売初日の今日、いても立ってもいられずに、買いに行ってしまったのです。写真がそれ。
私にとって本物というのは、真にオリジナルでしかも生まれるべくして生まれた物、という感覚で、つまりそのまま歴史に刻まれ、何世紀にも渡って残ってゆき、やがて伝統、と呼ばれる物に育ってゆく様な、底力を持つ物の事です。
今の時代に伝統菓子とか呼ばれている物だって、始まりがあったわけですからね。
生まれた当時は新しいお菓子だったり習慣だったり文学だったり宗教だったりパフォーマンスだったり音楽だったり絵画だったりした物の中から、真に強い力を放つ物〜つまり花や樹木や湖の様に、根源的創造物、と言える様な物が、その輝きが絶えないままに、何世紀にも渡って残ってゆくわけです。
宇宙の創造物である自然界の持つ普遍性を持つ物を、人間もまた生み出す事が出来る。
そしてそういった物が何百年も、自然な形で残ってゆくのだと、私は感じているのです。
私は実は、100円ショップの様な文化の蔓延する日本が苦手でした。でも最近、それこそ今年になってから少しずつ、そこから抜け出した、これは本物だな、と感じられる様な物が生まれ始めている様に思えるのです。多分ちょっと前までの大量生産的で手の届きやすい物に人気の集る時代は、カンブリア爆発みたいな物で、淘汰と洗練の起こる前の、大量放出の時代だったのかもしれません。
私の本物志向は、絵画や音楽以外では、今現在既に伝統と認められているような物にはあまり食指は動かず、新しく生まれた物で今後伝統になりそうな本物でオリジナルな物、と私が感じる物へと限定して集中している為に、近年しばらく好きな物に出会えずお寒い時代を過ごしていたのですが、今年に入ってから特別な出会いの様な形でしばしば、いいな、と思える物を得る事が出来始めていました。
そんな密かな居心地の良さを感じ始めていた今年、この2016年の終わりに、このお菓子に出会えたのは、私にとってとても象徴的な出来事です。
このお菓子、黒バラ白バラは、苦水バラと砂糖を半年間熟成させて作る苦水地方の珍しい特産品、苦水バラ醤という物を使って作られた、黒バラは焼き菓子、白バラはチョコレート菓子です。
口に入れた瞬間に、驚くほど鮮烈なバラの香りが広がります。
このバラの香りの確かさに、今後伝統になってゆく強さを、私は特に感じたのです。
私が素晴らしいと感じる作品やお菓子には、確信、と言える様な、根拠のある強さが備わっているといつも感じます。
強さというのは、例えば絵画なんかでは線が太くて強いとか、色がはっきりしてるとか、そういう事を言うわけではありませんよね。
淡い色彩や繊細な線がそこに描かれていても、そこに地に足の付いた、確信的な何かがある事は可能です。
これは作り手が、常に多大なる自信を持って作っている、というのともまた違います。
人はいつでもいくらでも、どうしようもない物に、自信を持つ事が出来ます。
今の世では商業的な成功や、感覚の鈍さや、社交辞令や、観客からの感動バイアスのかかった感想なんかが、自信を裏付けてくれる事がいくらでもあるからです。
だからそういう、自信を持って、というのともまた違う。
もっと深いレベルでの、充足、とでも言う様な確信を、それを作る人は持っていると、私は信じているのです。
人からの評価や認識を全く必要としないような、自己の内に宿る、充足です。
白バラ黒バラを作った方がそれを感じていたかどうかはわからないけれど、これを販売する事にされたサウスアベニューさんはTwitterで、どこにも無いとびきりのおやつ、と言っています。これは本当に自然に出て来た、喜びからの言葉って感じがするんです。
私は予言しますぜ。
このお菓子は、伝統になると。
600年先にはこのお菓子が、年忘れに欠かせないハレのお菓子として、人々の間にすっかり浸透している事を。
シュトーレンやガレットデロワや月餅みたいに。
そして大切なのは、これが本当に伝統になるかどうかじゃあ、ないんです。
伝統になる、と確信出来るほどの本物の、真にオリジナルの、新しい強い光を放つお菓子を、今、食べる事が出来るという、喜び。
そんな贅沢で豊かな体験って、あるでしょうか。
年末に、思いもかけない贈り物を貰った気分です。
ありがとう!サウスアベニューさん!!
2016年11月27日日曜日
クッキー売りを巡る誤解
先ほど、さほど親しくも無い老若男女の多数同席する席で、まあはっきり言ってしまえば陶芸のクラスで、同じ駅を利用しているらしい世代の異なる男女が、クッキー売りの話をし始めた。
それはふたりの最寄り駅の駅前で、クッキーを売る女性がいる、という話で、二人ともその席で初めてお互いがそのクッキー売りに、随分前から多大なる関心を寄せているという事を確認し合ったらしく、大いに盛り上がっていた。
つまり二人の利用する駅の脇の道で、ひとりで手作りクッキーを売っている割と若い女性がいるそうなのだ。
私はその話を聞いた時すぐに、ひとりでジャムを作って売っている私の友達であるエバジャムのエバを筆頭に、自分の工房で質のいいこだわりの菓子やパンや色んな美味しい物を作っては自分の足で売り歩いている頼もしい知人たちの事を思い出して、わあ、いいなあ、私も買いに行きたい♬と思った。
しかしふたりの話し振りはそういうハッピーなノリとは全く異なっていた。
あんな所でたったひとりでクッキーを売っているなんて、大丈夫なのか。
子供を抱えたシングルマザーかなんかで、余程の事情があるんじゃないのか。
売り場に許可が必要なんじゃないのか、無断でやっていて大丈夫なのか。
偶然出くわしたけど、どこどこの路地からとぼとぼ出て来て、なんだかミジメで悲しかった。
包装なんかも素人っぽいから、クッキーも自分のみすぼらしい台所で作ってるんじゃない?
という具合に非常にペシミスティックで、という事はそのクッキー売りは私の思い描いているような、エバジャムのエバみたいな、明るくて馬鹿っぽいけど作る物には徹底的にこだわるアーティスト系行商人とはちょっと違うタイプなのかもしれない、と思い始めた。
その後もふたりの悲観的な噂話を聞く内に、私の中には明確な、そのクッキー売りのイメージが出来上がった。
みすぼらしい服装と容姿ー何故か水色の薄汚れたカーディガンに痩せた肩と腕。
化粧っ気の無い、くすんだ不健康そうな顔色。
生活に困窮している感満載の暗い不幸オーラ。
もしかしたら頭が少しおかしくて、クッキーって言ったって自分がそう思っているだけで、何を材料にしているのかわかったものではない何か恐ろしい物を売っている。
うわごとみたいな物を呟きながら髪を振り乱してあちこち徘徊し、気の向いた場所でクッキーの形をしたそうでない物を売る怪女。
そのクッキーは多分危険だ。
まあざっとこんな感じで、平成の口避け女みたいな妖女の売る恐ろしいクッキー、というイメージが、あっという間に出来上がってしまったのである。
というわけで好奇心を押さえ切れなくなった私は、已然として不気味で悲しくみじめなクッキー売りの話で盛り上がる二人を尻目に、I Phone で検索してみた。
最寄り駅の名前、駅前、クッキー売り、
このみっつだけで、すぐにその女性は検索に上がって来た。
写真があったから、この人ですか?と二人に聞いてみたら、「あっ!!!!そうそうこの人!!!」どうやって見つけたの!?すごーーーーい!!!!!!」
と、更にものすごく興奮する二人。
私はその二人に、そこに書かれているクッキー売りの正体について、読み上げてあげた。
その人は菓子職人。
自宅を改造した工房で、こだわりの材料でお菓子を作っている30代女性。
始めは夫の作る手作りパンをふたりで売っていたが、夫のやっているパン屋が忙しくなったから、今はひとりで、時間と曜日を決めて自作の菓子を売っている。
かいつまめば以上の様な情報が、可愛らしい明るい色の縞縞パラソルの元、ワゴンに広げた様々な種類の菓子を売る、白いコックさん帽とコックさん服に身をつつんだ、可憐な若い女性のほのぼのとした写真と一緒に載っていた。
つまりそのクッキー売りは、最初に私が思い描いたエバジャムみたいなアーティスト系菓子職人に他ならず、頭がおかしいわけでもウワゴトを言いながら徘徊しているわけでも、無いって事です。
この現実を知って二人は大変驚いていましたが、二人の驚きは、彼らが何ヶ月も心に持ち続けていた謎を、私が目の前であっという間に解いてしまった事への感動へとすぐに移行してしまい、如何に自分らが無責任なイメージを、可愛いクッキー屋さんに貼付けていたかなんて事を反省するつもりは、毛頭無い様子でした。
それにしても何が恐ろしいって、噂していた二人の中にクッキー売りにまつわる共通の悲しいストーリーがあったせいで、それを聞いた私が、現実とはかけ離れたイメージを持ってしまったと言う事だ。
こういう、自分の中にある確固たるストーリーのフィルターを通して現実を認識して解釈する事を、心理学では"転移と投影"と呼ぶ。
投影というのは主にこの話の様に、自分の中にある、ある種の信念や概念を、現実の出来事や人物に投影してしまう事によってありのままが全然見えてないケース。
転移は主に、自分の中にある、ある種の感情や思い込みを、あたかも他者が持っているかの様に感じる錯覚の事なんかを言う。
転移で良くあるのが、自分がAさんとの間で起こった特定の出来事に関して何らかの後ろめたさや罪悪感を持っている時に、Aさんが"その一件で"自分を怒っている、と思い込んでいたりする事。
もっと巧妙なレベルでは例えば自分がBさんの事を敬遠しているのにそれには気付かず、Bさんの方が自分を敬遠している、と思い込んでいたりするケースだ。
いずれにしてもこの転移と投影は、人間関係における殆ど全ての悪循環の源だと私は思っているので、普段からなるべく意識的でいたいと個人的には思っているだけに、今回の様なクッキー屋の件は非常に心に引っかかる出来事であった。
私とて二人の話を聞いた当初の時点で、すぐに友達のバカ明るいエバの顔を思い出したのなんかは、典型的な投影の始まりの瞬間で、その後、もしどんなに二人の悲しく淋しい話を聞いてもそのバカ明るい印象を頑固に変えない場合などは、自分に要注意である。
そういう態度は、自己の投影(ストーリー)との一体化と呼ばれ、そういう態度をする人は、現実を、自分の許容する概念のレベルでしか捕らえようとしない自動制御システムが脳に付いているので、どんなに何かを説明しても、絶対に正しく解釈してくれなかったりする。そしてその歪んだ情報を他者に伝授したりして、おかしな出来事に発展したりするのだ。
今回は私の印象の方が現実のクッキー売りに近かったのだけれど、でも実はその影に、この二人が感じていたような陰惨な現実が、あるかもしれない。
だとしたらしょっぱなにエバの脳天気な顔をそのクッキー売りに投影した私が、間違っていたという事になるんだから、自分の印象にすがりつき続けるのは、非常に無駄な事だ。
もしも噂話を聞くんなら、その話がどんな場合でも話し手のストーリーのフィルターを通過している、という事を心のアンカーとして持っているべきだし、噂話をするんなら、自分がどの程度ストーリーのフィルターを通して出来事を認識し話しているかを、出来る限り自覚しているべきだと私は思う。
そうでないとこの可愛いクッキー売りについて、いつの日か駅前の気のフれた妖怪女としての噂が轟き、誰も彼女からクッキーを買わなくなってしまう、なんて事にも、なりかねないのですから。
それはふたりの最寄り駅の駅前で、クッキーを売る女性がいる、という話で、二人ともその席で初めてお互いがそのクッキー売りに、随分前から多大なる関心を寄せているという事を確認し合ったらしく、大いに盛り上がっていた。
つまり二人の利用する駅の脇の道で、ひとりで手作りクッキーを売っている割と若い女性がいるそうなのだ。
私はその話を聞いた時すぐに、ひとりでジャムを作って売っている私の友達であるエバジャムのエバを筆頭に、自分の工房で質のいいこだわりの菓子やパンや色んな美味しい物を作っては自分の足で売り歩いている頼もしい知人たちの事を思い出して、わあ、いいなあ、私も買いに行きたい♬と思った。
しかしふたりの話し振りはそういうハッピーなノリとは全く異なっていた。
あんな所でたったひとりでクッキーを売っているなんて、大丈夫なのか。
子供を抱えたシングルマザーかなんかで、余程の事情があるんじゃないのか。
売り場に許可が必要なんじゃないのか、無断でやっていて大丈夫なのか。
偶然出くわしたけど、どこどこの路地からとぼとぼ出て来て、なんだかミジメで悲しかった。
包装なんかも素人っぽいから、クッキーも自分のみすぼらしい台所で作ってるんじゃない?
という具合に非常にペシミスティックで、という事はそのクッキー売りは私の思い描いているような、エバジャムのエバみたいな、明るくて馬鹿っぽいけど作る物には徹底的にこだわるアーティスト系行商人とはちょっと違うタイプなのかもしれない、と思い始めた。
その後もふたりの悲観的な噂話を聞く内に、私の中には明確な、そのクッキー売りのイメージが出来上がった。
みすぼらしい服装と容姿ー何故か水色の薄汚れたカーディガンに痩せた肩と腕。
化粧っ気の無い、くすんだ不健康そうな顔色。
生活に困窮している感満載の暗い不幸オーラ。
もしかしたら頭が少しおかしくて、クッキーって言ったって自分がそう思っているだけで、何を材料にしているのかわかったものではない何か恐ろしい物を売っている。
うわごとみたいな物を呟きながら髪を振り乱してあちこち徘徊し、気の向いた場所でクッキーの形をしたそうでない物を売る怪女。
そのクッキーは多分危険だ。
まあざっとこんな感じで、平成の口避け女みたいな妖女の売る恐ろしいクッキー、というイメージが、あっという間に出来上がってしまったのである。
というわけで好奇心を押さえ切れなくなった私は、已然として不気味で悲しくみじめなクッキー売りの話で盛り上がる二人を尻目に、I Phone で検索してみた。
最寄り駅の名前、駅前、クッキー売り、
このみっつだけで、すぐにその女性は検索に上がって来た。
写真があったから、この人ですか?と二人に聞いてみたら、「あっ!!!!そうそうこの人!!!」どうやって見つけたの!?すごーーーーい!!!!!!」
と、更にものすごく興奮する二人。
私はその二人に、そこに書かれているクッキー売りの正体について、読み上げてあげた。
その人は菓子職人。
自宅を改造した工房で、こだわりの材料でお菓子を作っている30代女性。
始めは夫の作る手作りパンをふたりで売っていたが、夫のやっているパン屋が忙しくなったから、今はひとりで、時間と曜日を決めて自作の菓子を売っている。
かいつまめば以上の様な情報が、可愛らしい明るい色の縞縞パラソルの元、ワゴンに広げた様々な種類の菓子を売る、白いコックさん帽とコックさん服に身をつつんだ、可憐な若い女性のほのぼのとした写真と一緒に載っていた。
つまりそのクッキー売りは、最初に私が思い描いたエバジャムみたいなアーティスト系菓子職人に他ならず、頭がおかしいわけでもウワゴトを言いながら徘徊しているわけでも、無いって事です。
この現実を知って二人は大変驚いていましたが、二人の驚きは、彼らが何ヶ月も心に持ち続けていた謎を、私が目の前であっという間に解いてしまった事への感動へとすぐに移行してしまい、如何に自分らが無責任なイメージを、可愛いクッキー屋さんに貼付けていたかなんて事を反省するつもりは、毛頭無い様子でした。
それにしても何が恐ろしいって、噂していた二人の中にクッキー売りにまつわる共通の悲しいストーリーがあったせいで、それを聞いた私が、現実とはかけ離れたイメージを持ってしまったと言う事だ。
こういう、自分の中にある確固たるストーリーのフィルターを通して現実を認識して解釈する事を、心理学では"転移と投影"と呼ぶ。
投影というのは主にこの話の様に、自分の中にある、ある種の信念や概念を、現実の出来事や人物に投影してしまう事によってありのままが全然見えてないケース。
転移は主に、自分の中にある、ある種の感情や思い込みを、あたかも他者が持っているかの様に感じる錯覚の事なんかを言う。
転移で良くあるのが、自分がAさんとの間で起こった特定の出来事に関して何らかの後ろめたさや罪悪感を持っている時に、Aさんが"その一件で"自分を怒っている、と思い込んでいたりする事。
もっと巧妙なレベルでは例えば自分がBさんの事を敬遠しているのにそれには気付かず、Bさんの方が自分を敬遠している、と思い込んでいたりするケースだ。
いずれにしてもこの転移と投影は、人間関係における殆ど全ての悪循環の源だと私は思っているので、普段からなるべく意識的でいたいと個人的には思っているだけに、今回の様なクッキー屋の件は非常に心に引っかかる出来事であった。
私とて二人の話を聞いた当初の時点で、すぐに友達のバカ明るいエバの顔を思い出したのなんかは、典型的な投影の始まりの瞬間で、その後、もしどんなに二人の悲しく淋しい話を聞いてもそのバカ明るい印象を頑固に変えない場合などは、自分に要注意である。
そういう態度は、自己の投影(ストーリー)との一体化と呼ばれ、そういう態度をする人は、現実を、自分の許容する概念のレベルでしか捕らえようとしない自動制御システムが脳に付いているので、どんなに何かを説明しても、絶対に正しく解釈してくれなかったりする。そしてその歪んだ情報を他者に伝授したりして、おかしな出来事に発展したりするのだ。
今回は私の印象の方が現実のクッキー売りに近かったのだけれど、でも実はその影に、この二人が感じていたような陰惨な現実が、あるかもしれない。
だとしたらしょっぱなにエバの脳天気な顔をそのクッキー売りに投影した私が、間違っていたという事になるんだから、自分の印象にすがりつき続けるのは、非常に無駄な事だ。
もしも噂話を聞くんなら、その話がどんな場合でも話し手のストーリーのフィルターを通過している、という事を心のアンカーとして持っているべきだし、噂話をするんなら、自分がどの程度ストーリーのフィルターを通して出来事を認識し話しているかを、出来る限り自覚しているべきだと私は思う。
そうでないとこの可愛いクッキー売りについて、いつの日か駅前の気のフれた妖怪女としての噂が轟き、誰も彼女からクッキーを買わなくなってしまう、なんて事にも、なりかねないのですから。
2016年11月18日金曜日
発達心理学によるプロファイルonニーガン
最近、ハーバード大学児童発達研究所から、幼児期の体験と脳のニューロン結合の密接な関係に関するレポートが発表されました。
既にこれをコロラドの学校でずうっと学び、また臨床的な解消実績も数え切れない程体験している私にとっては耳新しい情報ではなかったのですが、ハーバード大学のような権威がそれを言い出せば信頼性が高まり、今後様々な一般的な心理療法にも応用出来るようになるかもしれず、ようやくの一歩前進だなと感じました。
この、脳の80%の成長が完成される生後三歳までの幼児脳の発達をベースにした心理学と心理療法は、非常に実用性が高く正確だと私は思います。
ニューロンの結合、という実質的な結果によって生じる学習認識という物は、つまりほぼバイオロジカルな現実であり、外見が太っているか痩せているか、等に等しい正確さで、その人の心の癖を、情報として与えてくれるのです。
何度かブログにも書きましたが、このニューロンの結合による深いレベルでの学習認識は、体形や姿勢にもあからさまに反映されているため、プロファイリングにも有益です。
アメリカの犯罪ドラマなどを観ていると、俳優さんなり作り手の方が実によく心理学を学んでいるのがわかります。
ニューロン結合のような進んだ分野かどうかは別にしても、犯人の表情や犯行の手口に心理プロファイル的なズレが無く、リアリティを感じさせるなと感じる物が多いのです。
表面的な言動等の辻褄合わせにとどまらず、よりディープなレベルで、例えば眼差しやふとした仕草なども合わせてそれを演じられている俳優さんを見る事も多く、そういう時には鳥肌物の感動を感じます。
例え心理学の知識の無い人でも、人間という物は現実の人間関係の中で様々な情報をキャッチしているのですから、そういったディープで詳細な演技を見れば、視聴している誰もが心の底にある、"真に迫る"、をキャッチする事が出来ると思うのです。
というわけで。
テレビ・ドラマの話になりますが笑。
沢山の方が夢中になっていらっしゃる"ウォーキング・デッド"を最近私も見始め、そしてあのドラマの中には危機状態の中でおかしくなっちゃってる人間が沢山出て来ますよね。
今まで大抵のドラマ内悪人は、上記のプロファイル的見解からいろんな分析が可能だったのですが、あのドラマに出て来るニーガンだけは、どうしても理解出来ないのです。
故に私は、初めて犯罪者に、純然たる憎しみを感じる事が出来ているという、希有な体験を今現在しています。
発達心理学やニューロン結合の様な物を臨床的に知っていると、自分に直接迷惑がかからない限りは、悪人が全部幼児の姿や顔に見えてしまって中々怒りや憎しみに埋没出来ない物なんですが、あのニーガンだけにはまったくもって、幼児期のトラウマが原因であんなに憎たらしくなっている、という系譜が見えないのです。
行動そのものを見る限りにおいて、私の知るレベルでの現実世界の有名人でニーガンに最も近いのは、北のパタリロ将軍だと思うのですが、北のパタリロ将軍とニーガンには根本的な違いがあります。
北のパタリロ将軍には明確に、"自閉期の傷"と私たちが呼んでいるトラウマを現す外観があります。
自閉期というのは生後三ヶ月までの、まだ生まれたての非常に繊細な時期で、この期間にうまく保育者の保護を得られないと、他者や環境への不信と恐怖から、非常に閉鎖的で冷酷な心を持つ可能性があるのです。
お腹が空いているのにすぐにミルクが来ないとか、抱いてほしくて泣いているのに放置された程度の体験が繰り返されるだけでも、他者への共感性の欠如した人間不信人生不信的学習認識を獲得してしまう可能性があります。
現在のパタリロ将軍の持つ痛ましい、また他者への冷たい眼差しや赤ん坊の様な体形に、その育ち切っていない生後三ヶ月の心が非常によく反映されているのです。
恐らく彼は、充分な愛情と安心感を乳幼児期に体験出来ないまま成長したのでしょう。
しかーーーし!!!!
ニーガンはどうでしょう。
ニーガンの容姿は、非常によく育っていますよね。
もちろんこれには、ニーガンを演じている俳優さんの要素が多分に影響はしてしまいます。あの俳優さんは恐らく、おおらかで愛情深い保育者の元、ニューロンの結合が健康的に成される程度に十分な安全性の中で、育った方なのでしょう。
年齢に相応しい成熟した容姿と貫禄、萎縮や緊張を感じさせないおおらかな四肢、実際のところ、別のドラマなどで彼を拝見すると、愛情深い表情を無理無く演じられていて、バランスのとれた心の健全さを、とても感じさせてくれます。
その彼があのニーガンを演じているわけですから、実際のプロファイリングに合わないのも当然と言えば当然なのですが、私の臨床経験上、現実にああいう、見た目は立派で発達心理学的にも問題無さそうに見えるのに、なんだかおかしい、という人が、いない事も無いのです。
そういう前提の元で私は、一生懸命ニーガンを観察しているのですが、今のところまったくもって、"トラウマによるニューロンの結合不備が原因で悪くなっている"という印象を、持てないでいます。
ガバナーは簡単でした。だからガバナーを憎む気持ちには、私はなれませんでした。
でもニーガンは。
ニーガンには、人に暴力を振るう時、眼差しの中に、冷酷な喜びや微かな恐怖や静かな興奮や怒りなどが、無いのです。
非常に静かな、穏やかな眼差しで、人を酷い目に合わせています。
これには、無意識下のニューロン結合不備つまりトラウマが全然活性化されていない、つまり、トラウマを原動力にはしていないな、という印象があります。
ニーガン役の俳優さんが大根なのでしょうか。
そうは思いません。
何故なら、ニーガンには安っぽい表面的な悪魔的表現も、無いからです。
少なくとも言えるのは、ニーガンは確信をもって、安定した心からあの悪事を働いているという事。
子供時代に得られなかった何かの代償を求めてとか、何かへの憎しみや復讐とかの、代替行為ではないということ。
それを非常にうまく、彼は演じていると思うのです。
もちろん今後、ドラマの中でニーガンの背景が描かれる事もあるかもしれません。
もしもその中で、過酷な幼少期を経て、のような話があった場合、彼の場合はそのトラウマがあまりに深く、脳自体に損傷あるいは変質を負っているレベルの、重傷なケースだという事は確かです。
ところでウォーキング・デッドには、リックというリーダーがいますが、ニーガンはリックのナルシシズムを、執拗に攻撃していますよね。
あれを見ていると、ニーガン本人にも自己愛性のトラウマがあり、同族嫌悪みたいなもんがあるんじゃないか、とも思わせるのですが、しかしここにも私は、ニーガンがトラウマから、リックをやっつけているわけではない、という印象があるのです。
単に、まるで神の鉄拳のように、リックの肥大したナルシシズムに対して、自覚しろ、反省しろ、屈しろ、とやっているように見えてなりません。
一体ニーガンて、なんなんでしょ。
原作の印象は、テレビのニーガンとはまるで違うし、色々な理由から辻褄の合わない事もあるのかもしれませんが、例えそれがフィクションであっても、創作物には時に、何かおおいなるものの意図が、降りている場合があります。
だからそれがドラマの中で暴走するフィクションな存在だからと言って、作り事では済ませない事もあると私は思うのです。
特にドラマ版ウォーキング・デッドのニーガンの様に、心理学的な面から見ても謎めいた存在の場合、何か注目に値する存在の意味が、あるように感じてならないのです。
ですので今のところものすっごく憎たらしいニーガンですが、まあ興味深く見てゆきたいなと、思うのであります。
既にこれをコロラドの学校でずうっと学び、また臨床的な解消実績も数え切れない程体験している私にとっては耳新しい情報ではなかったのですが、ハーバード大学のような権威がそれを言い出せば信頼性が高まり、今後様々な一般的な心理療法にも応用出来るようになるかもしれず、ようやくの一歩前進だなと感じました。
この、脳の80%の成長が完成される生後三歳までの幼児脳の発達をベースにした心理学と心理療法は、非常に実用性が高く正確だと私は思います。
ニューロンの結合、という実質的な結果によって生じる学習認識という物は、つまりほぼバイオロジカルな現実であり、外見が太っているか痩せているか、等に等しい正確さで、その人の心の癖を、情報として与えてくれるのです。
何度かブログにも書きましたが、このニューロンの結合による深いレベルでの学習認識は、体形や姿勢にもあからさまに反映されているため、プロファイリングにも有益です。
アメリカの犯罪ドラマなどを観ていると、俳優さんなり作り手の方が実によく心理学を学んでいるのがわかります。
ニューロン結合のような進んだ分野かどうかは別にしても、犯人の表情や犯行の手口に心理プロファイル的なズレが無く、リアリティを感じさせるなと感じる物が多いのです。
表面的な言動等の辻褄合わせにとどまらず、よりディープなレベルで、例えば眼差しやふとした仕草なども合わせてそれを演じられている俳優さんを見る事も多く、そういう時には鳥肌物の感動を感じます。
例え心理学の知識の無い人でも、人間という物は現実の人間関係の中で様々な情報をキャッチしているのですから、そういったディープで詳細な演技を見れば、視聴している誰もが心の底にある、"真に迫る"、をキャッチする事が出来ると思うのです。
というわけで。
テレビ・ドラマの話になりますが笑。
沢山の方が夢中になっていらっしゃる"ウォーキング・デッド"を最近私も見始め、そしてあのドラマの中には危機状態の中でおかしくなっちゃってる人間が沢山出て来ますよね。
今まで大抵のドラマ内悪人は、上記のプロファイル的見解からいろんな分析が可能だったのですが、あのドラマに出て来るニーガンだけは、どうしても理解出来ないのです。
故に私は、初めて犯罪者に、純然たる憎しみを感じる事が出来ているという、希有な体験を今現在しています。
発達心理学やニューロン結合の様な物を臨床的に知っていると、自分に直接迷惑がかからない限りは、悪人が全部幼児の姿や顔に見えてしまって中々怒りや憎しみに埋没出来ない物なんですが、あのニーガンだけにはまったくもって、幼児期のトラウマが原因であんなに憎たらしくなっている、という系譜が見えないのです。
行動そのものを見る限りにおいて、私の知るレベルでの現実世界の有名人でニーガンに最も近いのは、北のパタリロ将軍だと思うのですが、北のパタリロ将軍とニーガンには根本的な違いがあります。
北のパタリロ将軍には明確に、"自閉期の傷"と私たちが呼んでいるトラウマを現す外観があります。
自閉期というのは生後三ヶ月までの、まだ生まれたての非常に繊細な時期で、この期間にうまく保育者の保護を得られないと、他者や環境への不信と恐怖から、非常に閉鎖的で冷酷な心を持つ可能性があるのです。
お腹が空いているのにすぐにミルクが来ないとか、抱いてほしくて泣いているのに放置された程度の体験が繰り返されるだけでも、他者への共感性の欠如した人間不信人生不信的学習認識を獲得してしまう可能性があります。
現在のパタリロ将軍の持つ痛ましい、また他者への冷たい眼差しや赤ん坊の様な体形に、その育ち切っていない生後三ヶ月の心が非常によく反映されているのです。
恐らく彼は、充分な愛情と安心感を乳幼児期に体験出来ないまま成長したのでしょう。
しかーーーし!!!!
ニーガンはどうでしょう。
ニーガンの容姿は、非常によく育っていますよね。
もちろんこれには、ニーガンを演じている俳優さんの要素が多分に影響はしてしまいます。あの俳優さんは恐らく、おおらかで愛情深い保育者の元、ニューロンの結合が健康的に成される程度に十分な安全性の中で、育った方なのでしょう。
年齢に相応しい成熟した容姿と貫禄、萎縮や緊張を感じさせないおおらかな四肢、実際のところ、別のドラマなどで彼を拝見すると、愛情深い表情を無理無く演じられていて、バランスのとれた心の健全さを、とても感じさせてくれます。
その彼があのニーガンを演じているわけですから、実際のプロファイリングに合わないのも当然と言えば当然なのですが、私の臨床経験上、現実にああいう、見た目は立派で発達心理学的にも問題無さそうに見えるのに、なんだかおかしい、という人が、いない事も無いのです。
そういう前提の元で私は、一生懸命ニーガンを観察しているのですが、今のところまったくもって、"トラウマによるニューロンの結合不備が原因で悪くなっている"という印象を、持てないでいます。
ガバナーは簡単でした。だからガバナーを憎む気持ちには、私はなれませんでした。
でもニーガンは。
ニーガンには、人に暴力を振るう時、眼差しの中に、冷酷な喜びや微かな恐怖や静かな興奮や怒りなどが、無いのです。
非常に静かな、穏やかな眼差しで、人を酷い目に合わせています。
これには、無意識下のニューロン結合不備つまりトラウマが全然活性化されていない、つまり、トラウマを原動力にはしていないな、という印象があります。
ニーガン役の俳優さんが大根なのでしょうか。
そうは思いません。
何故なら、ニーガンには安っぽい表面的な悪魔的表現も、無いからです。
少なくとも言えるのは、ニーガンは確信をもって、安定した心からあの悪事を働いているという事。
子供時代に得られなかった何かの代償を求めてとか、何かへの憎しみや復讐とかの、代替行為ではないということ。
それを非常にうまく、彼は演じていると思うのです。
もちろん今後、ドラマの中でニーガンの背景が描かれる事もあるかもしれません。
もしもその中で、過酷な幼少期を経て、のような話があった場合、彼の場合はそのトラウマがあまりに深く、脳自体に損傷あるいは変質を負っているレベルの、重傷なケースだという事は確かです。
ところでウォーキング・デッドには、リックというリーダーがいますが、ニーガンはリックのナルシシズムを、執拗に攻撃していますよね。
あれを見ていると、ニーガン本人にも自己愛性のトラウマがあり、同族嫌悪みたいなもんがあるんじゃないか、とも思わせるのですが、しかしここにも私は、ニーガンがトラウマから、リックをやっつけているわけではない、という印象があるのです。
単に、まるで神の鉄拳のように、リックの肥大したナルシシズムに対して、自覚しろ、反省しろ、屈しろ、とやっているように見えてなりません。
一体ニーガンて、なんなんでしょ。
原作の印象は、テレビのニーガンとはまるで違うし、色々な理由から辻褄の合わない事もあるのかもしれませんが、例えそれがフィクションであっても、創作物には時に、何かおおいなるものの意図が、降りている場合があります。
だからそれがドラマの中で暴走するフィクションな存在だからと言って、作り事では済ませない事もあると私は思うのです。
特にドラマ版ウォーキング・デッドのニーガンの様に、心理学的な面から見ても謎めいた存在の場合、何か注目に値する存在の意味が、あるように感じてならないのです。
ですので今のところものすっごく憎たらしいニーガンですが、まあ興味深く見てゆきたいなと、思うのであります。
2016年11月10日木曜日
大統領選後
アメリカ大統領選が終わってからずっと、うっすらと泣きたい様な感覚が続いている。
結果に失望しているわけではなく、いやもしかしたら気付かない様な深いレベルで失望しているのかもしれないけれど、ずっと感じているのは失望や怒りではなく、どちらかと言えば厳粛な、深い静けさを伴う胸の痛み、とでも言う様な物だ。
どういう人たちが何を思ってトランプに投票したのかは、実際のところよくわからないのだけど、昨日からずっとある知人の事が、頭から離れない。
趣味でヘリコプターやセスナを操縦するアメリカの知人のおかげで、私は最近よくアメリカで自由な空の旅を楽しんでいるのだけど、ある時その知人が紹介してくれた若いパイロットの青年と、ランチを食べに行った事がある。
Kというその青年は、青い瞳が静かで優しそうな白人の眼鏡男子で、空を飛ぶのが大好きでがんばってヘリの免許を取り、人に操縦を教えて生計を立てていると言った。
その時にその彼が、自分はヒルビリーなんだ、と笑いながら言ったのだ。
幸い森が近かったから、子供の頃から兄とふたりで森に入って、色んな動物を狩って食べた、と楽しそうに話し始めた。
狩った動物は蛇や鳥や蛙や魚など、普通に食用に出来る物から、オポッサムなどの変わった動物まで食べたと言った。オポッサムは死んだふりが上手で、始めの頃はそれに騙されて僕たちはよく失望したり笑い転げたりもしたもんだ、と。
私は大好きな北米の森を思い浮かべ、オポッサムの話を心から楽しみ、他にどんな動物を食べたのかと、大喜びで話をねだった。
彼はその時本当に楽しそうに自慢気に話していたから、私はそれが楽しい話だと、思い込んでいたのだ。
その事が唐突に、胸に突き上げる様に、昇って来た。
トランプが大統領になった時に。
小さな兄弟がふたりで森に入って、毎日の様に動物を狩って食べ、飢えをしのいでいたのだという、新しい現実として。
ヒラリーの、敗者演説は胸を打つ美しい物だった。
彼女が大統領になっていたら、どんなに素晴らしかったかしらと思わせるような、爽やかで、真剣で、静かな情熱を湛えた、力強いメッセージの込められた、品格を感じる素敵な物だった。
だけど毎日の生活にあえぐ人たちは、堂々と差別発言や痴漢行為を自慢する下衆野郎が見せてくれた、明日の食べ物を買える希望を、選んだのだ。
実際にトランプが役に立ってくれるかどうかは別として、とにかく彼を選んだ。
彼の言葉の方が、胸に響いたから。
森にオポッサムを獲りに行かなくてもいい、そんなに貧乏じゃない人たちもトランプを選んだ。なんでかっていうと、トランプの言ってる事が飾らない本音で、自分たちの気持ちを代弁していると感じたからだ。
私は、外側に敵を作る人たちというのは、結局は深く疲弊しているだけなのだと思っている。
人種差別はつまるところ八つ当たりであって、なんらかの強いフラストレーションや不満や怒りや恐怖や痛みを誰かにぶつけたいだけなのだ。
まあ、私怨から特定の人種なんかを憎む人もいるかもしれないけれど、それだって結局は心の痛みから発生している。
だからと言って同情出来るものでもないんだけれど、とにかく今回のトランプ勝利の現実は、如何に多くのアメリカ人が、実のところ非常に不幸なのだという事を現していると感じて、私は非常に、ガーーンとなってそしてその現実が、厳粛な悲しみとして心に広がりまくっているのだ。
アメリカには、自分のオポッサムを誰かが奪いに来ない様に、高い塀を作りたい人たちが、沢山いる。
そういう人たちにとっては、世界平和や差別の無い社会や自然界との調和や、エコやオーガニックやGMOやスピリチュアルや、高い精神性やウィットのあるユーモアや芸術や、多様性や平等や品格やそんな物なんかより、攻撃的で閉鎖的で、差別や憤怒に溢れ、恐怖と不信に満ちた心を代弁し、堂々と市民権を与えてくれる下衆なオヤジの方が、遥かに現実味があったのだ。
貧乏であれ金持ちであれ、トランプの言葉に説得力を感じる、不安で不幸で脅かされている人たちが、アメリカには沢山いるのだ。
その現実に、改めて光が当たった。
人類が進化して、中世の時代よりはずっとフェアで人道的な法律や価値観が行き渡っている文明社会において、より高潔な高い意識をもって生きてゆく理想的な流れがある一方で、様々な理由によって社会的に虐げられたり働けなかったり思う様に生きられなかったり稼げなかったりして、傷ついた痛ましい心を抱え、怒りと憎しみに燃え、怖れと不安で身動きがとれず、毎日が生き延びる事だけで精一杯な人たちが、この世にはいるのだということ。
もちろんKの様に、過酷な生活から自分の力でいっぱしの生活を勝ち取れる人もいるけれど、病気とは認定されない程度の精神疾患や、身体や心の弱さを抱えた人たちは、どんなにひとりでがんばっても、立ち上がれない事もある。
それがなんだと言うわけではない。
単に私は、Kの話してくれたオポッサムの話を、おもしろ可笑しく楽しんで、それ以上何も、気付こうともしなかった自分の目を、トランプの勝利が覚ましてくれたなと、思っているだけだ。
そしてそれがとても悲しくて、ただごめんなさいと、天に向かって謝りたいだけなのである。
結果に失望しているわけではなく、いやもしかしたら気付かない様な深いレベルで失望しているのかもしれないけれど、ずっと感じているのは失望や怒りではなく、どちらかと言えば厳粛な、深い静けさを伴う胸の痛み、とでも言う様な物だ。
どういう人たちが何を思ってトランプに投票したのかは、実際のところよくわからないのだけど、昨日からずっとある知人の事が、頭から離れない。
趣味でヘリコプターやセスナを操縦するアメリカの知人のおかげで、私は最近よくアメリカで自由な空の旅を楽しんでいるのだけど、ある時その知人が紹介してくれた若いパイロットの青年と、ランチを食べに行った事がある。
Kというその青年は、青い瞳が静かで優しそうな白人の眼鏡男子で、空を飛ぶのが大好きでがんばってヘリの免許を取り、人に操縦を教えて生計を立てていると言った。
その時にその彼が、自分はヒルビリーなんだ、と笑いながら言ったのだ。
幸い森が近かったから、子供の頃から兄とふたりで森に入って、色んな動物を狩って食べた、と楽しそうに話し始めた。
狩った動物は蛇や鳥や蛙や魚など、普通に食用に出来る物から、オポッサムなどの変わった動物まで食べたと言った。オポッサムは死んだふりが上手で、始めの頃はそれに騙されて僕たちはよく失望したり笑い転げたりもしたもんだ、と。
私は大好きな北米の森を思い浮かべ、オポッサムの話を心から楽しみ、他にどんな動物を食べたのかと、大喜びで話をねだった。
彼はその時本当に楽しそうに自慢気に話していたから、私はそれが楽しい話だと、思い込んでいたのだ。
その事が唐突に、胸に突き上げる様に、昇って来た。
トランプが大統領になった時に。
小さな兄弟がふたりで森に入って、毎日の様に動物を狩って食べ、飢えをしのいでいたのだという、新しい現実として。
ヒラリーの、敗者演説は胸を打つ美しい物だった。
彼女が大統領になっていたら、どんなに素晴らしかったかしらと思わせるような、爽やかで、真剣で、静かな情熱を湛えた、力強いメッセージの込められた、品格を感じる素敵な物だった。
だけど毎日の生活にあえぐ人たちは、堂々と差別発言や痴漢行為を自慢する下衆野郎が見せてくれた、明日の食べ物を買える希望を、選んだのだ。
実際にトランプが役に立ってくれるかどうかは別として、とにかく彼を選んだ。
彼の言葉の方が、胸に響いたから。
森にオポッサムを獲りに行かなくてもいい、そんなに貧乏じゃない人たちもトランプを選んだ。なんでかっていうと、トランプの言ってる事が飾らない本音で、自分たちの気持ちを代弁していると感じたからだ。
私は、外側に敵を作る人たちというのは、結局は深く疲弊しているだけなのだと思っている。
人種差別はつまるところ八つ当たりであって、なんらかの強いフラストレーションや不満や怒りや恐怖や痛みを誰かにぶつけたいだけなのだ。
まあ、私怨から特定の人種なんかを憎む人もいるかもしれないけれど、それだって結局は心の痛みから発生している。
だからと言って同情出来るものでもないんだけれど、とにかく今回のトランプ勝利の現実は、如何に多くのアメリカ人が、実のところ非常に不幸なのだという事を現していると感じて、私は非常に、ガーーンとなってそしてその現実が、厳粛な悲しみとして心に広がりまくっているのだ。
アメリカには、自分のオポッサムを誰かが奪いに来ない様に、高い塀を作りたい人たちが、沢山いる。
そういう人たちにとっては、世界平和や差別の無い社会や自然界との調和や、エコやオーガニックやGMOやスピリチュアルや、高い精神性やウィットのあるユーモアや芸術や、多様性や平等や品格やそんな物なんかより、攻撃的で閉鎖的で、差別や憤怒に溢れ、恐怖と不信に満ちた心を代弁し、堂々と市民権を与えてくれる下衆なオヤジの方が、遥かに現実味があったのだ。
貧乏であれ金持ちであれ、トランプの言葉に説得力を感じる、不安で不幸で脅かされている人たちが、アメリカには沢山いるのだ。
その現実に、改めて光が当たった。
人類が進化して、中世の時代よりはずっとフェアで人道的な法律や価値観が行き渡っている文明社会において、より高潔な高い意識をもって生きてゆく理想的な流れがある一方で、様々な理由によって社会的に虐げられたり働けなかったり思う様に生きられなかったり稼げなかったりして、傷ついた痛ましい心を抱え、怒りと憎しみに燃え、怖れと不安で身動きがとれず、毎日が生き延びる事だけで精一杯な人たちが、この世にはいるのだということ。
もちろんKの様に、過酷な生活から自分の力でいっぱしの生活を勝ち取れる人もいるけれど、病気とは認定されない程度の精神疾患や、身体や心の弱さを抱えた人たちは、どんなにひとりでがんばっても、立ち上がれない事もある。
それがなんだと言うわけではない。
単に私は、Kの話してくれたオポッサムの話を、おもしろ可笑しく楽しんで、それ以上何も、気付こうともしなかった自分の目を、トランプの勝利が覚ましてくれたなと、思っているだけだ。
そしてそれがとても悲しくて、ただごめんなさいと、天に向かって謝りたいだけなのである。
2016年10月30日日曜日
色々考えさせられるTWD
あまりにも評判を聞く機会が続いたので、ものすごく遅ればせながら観始めたドラマ"ウォーキング・デッド"。
人気の秘密が徐々にわかり始めた最近、実に色々と考えさせられる、という構造も、人気のひとつなのだろうと思ってアメリカの友人に聞いたら、もちろんそうだという返事。
みんな、ドラマに出てる人たちのやり方や価値観の分析や批判や肯定で楽しんでると言っていた。そういう意味では、そういった誘いに満ち満ちている、大変成功しているドラマだと思います。
視聴者をうまく"釣れてる"、ってやつですね。
そして私は、ドラマや映画については、積極的に釣られたり騙されたりする様にしています。
その方が楽しいからです。
登場人物についても、好みやなにやらが別れると思います。
私個人は、主人公グループを率いているリーダーであるリックを胡散臭いとずっと思っていて(笑)、片腕のダリルを、素晴らしいと思っています。
ダリルは、私が昔アメリカで学んだナチュラリストの技を実際の戦闘に活用しています。
地面の足跡を見てその人物の体重を測ったり、枝の折れ具合や木肌のコンディションから、そこで起こった事を推測したりと、中々かっこいいのです。
まあそれはそれとして。
ドラマの中では度々、ゾンビに変化しちゃった家族の誰かを、自分らに危害を加えない程度の管理でかくまっている人が出て来て、それを主人公サイドの人間が暴いて、ゾンビな家族を殺しちゃうエピソードが、度々出て来ます。
それを見る度に私は、これってどうなのよ、って思ってしまうんですよね。
確かに今のところ、一度ゾンビになっちゃったらもう戻れない事はわかっています。
完全脳死状態になった後、なんらかの作用で脳幹だけ機能し始め、しかしその時にはもう、凶暴な何かに変ってしまっているわけです。
家族をかくまっている人は、いつか治療法が発明されて、元のその人に戻るはずだと淡い期待をもって、彼らをかくまっているわけですね。
でもなんでだか、それを知ると殺しちゃう方向に、あのドラマは行くんだよね。
まだ見始めたばかりなので、何を示唆したい番組なのか私にはわからないんだけど、FOXテレビの番組だと言う事から、ちょっとばかりの疑いを、持ち始めているのです。
もしもあのドラマが、鷹派の価値観を基準に動いているんだとしたら、どうなんだろうと。
確かに、咬まれたり引っ掻かれたりすると感染してゾンビになっちゃうんだから、ゾンビはいなくなるのが最も良い。
しかし誰かが、まだ家族がゾンビになっちゃった事を受け入れられず、いつか戻ると期待していたいのだとしたら、それはそれでいいんじゃないんですか?
他人に迷惑をかけない様に隔離しているんだし、万が一そいつが逃げ出しても、真っ先に被害に遭うのはかくまっているその人であり、更に表に逃げ出しちゃっても、後は何万匹もいるゾンビに混ざってウロウロしているだけに過ぎません。
もうああなると、野生のゾンビがひとり増えようなふたり増えようが、関係無いような世界なんですから。
ドラマの中では、ゾンビVSニンゲンより、むしろ生き残った人の間で描かれる戦いと葛藤に焦点が当たっており、そして正義と正義じゃない側の価値観がとても曖昧です。
だからこのドラマは意識的に、絶対的な正義、という概念のはかなさを描いているのかもしれない。
けれどもしも、ゾンビになっちゃった家族をさっさと殺す方が正しいんですよ、先に進む為に、という意識がベースにあるんだとしたら、私は途端にこのドラマが、FOX系列TVで放映されている事が、気になり始めてしまうんですよね。
それって、鷹派の考え方じゃない?
Aという人物が、Bという人物の大切にしている物を、「おまえそれ、おかしいよ。」って言って、その人のドアをこじ開けて、その大切にしている物を破壊してしまう。それによって平和が築かれる。という錯覚。
それは単に、Aという人物が欲しい現実を、Bという人物の価値観が邪魔をするからと言って、Bの価値観を根こそぎ否定して"改心"させる、それによって欲しい現実が得られる、という自己満足に過ぎません。
Aは単に、Bに賛成出来ないから、自分の居心地悪さを正しさや常識に置き換えて正当化して、自分にとって居心地の悪い場を、居心地良く変えようとしているだけですよね。
アメリカにはまだ根強い保守派の人たちがいて、未だに同性愛者を異常視したり、正当派とその人たちが見なす価値観や宗教観から逸脱した人たちへの理解を、拒絶したりしています。
私は、どんな偏見でも古い考えでも、個人のレベルで持っているだけならそれはそれで自由だと思っている人間ですが、もしも誰かが自分の価値観を、誰もが持つべき正しい物だ、と勘違いして、それを他者に強制し始め、その行為が公民権を得たら、それは自由世界の終わりだと思います。
それだけは許してはいけないと思うのです。
ゾンビの存在は、害毒です。
醜悪で、生きる価値も無い。
しかし、誰がそう言いきれるのか。
一人娘がゾンビになってしまった。
その姿は、肉親以外の人から見れば、醜悪な悪魔かもしれない。
でも父親はその顔に、過去の可愛らしい娘の面影を見ているのです。
あのドラマが、どういう価値観で進んで行き終わってゆくのか、今は全くの未知だけど、もしも二元論で正悪を捉える価値観がゾンビを殺すのだとしたら、私はそれは間違っていると思います。
あのドラマの中で、ゾンビになっちゃった肉親をかくまう人々を、どうやって描いてゆくのかは、とても大切だと思うのです。
先へ進むとか、健全であるとか、ポジティブであるとか、正直であるとか、困難から立ち直るとか、社交的であるとか、ちゃんと働いているとか、家族がいるだとか、ヘテロであるとか、強いとか、病んでないとか、正義感があるとか、そういう事だけがノーマルであるとする意識が暴走している一部の人間を抱えている土壌が、もしもその思想を土台に、そうした方が結局はみんなの為だとかいう思いを土台に、家族がかくまっているゾンビを殺すのであれば、それは間違っていると、私は思うのです。
あのドラマがどんな方向に行くのか、だからとても興味があるのです。
TWDは、闇、と位置づけた存在や行動を、果たして今後、受け入れるのでしょうか。
人気の秘密が徐々にわかり始めた最近、実に色々と考えさせられる、という構造も、人気のひとつなのだろうと思ってアメリカの友人に聞いたら、もちろんそうだという返事。
みんな、ドラマに出てる人たちのやり方や価値観の分析や批判や肯定で楽しんでると言っていた。そういう意味では、そういった誘いに満ち満ちている、大変成功しているドラマだと思います。
視聴者をうまく"釣れてる"、ってやつですね。
そして私は、ドラマや映画については、積極的に釣られたり騙されたりする様にしています。
その方が楽しいからです。
登場人物についても、好みやなにやらが別れると思います。
私個人は、主人公グループを率いているリーダーであるリックを胡散臭いとずっと思っていて(笑)、片腕のダリルを、素晴らしいと思っています。
ダリルは、私が昔アメリカで学んだナチュラリストの技を実際の戦闘に活用しています。
地面の足跡を見てその人物の体重を測ったり、枝の折れ具合や木肌のコンディションから、そこで起こった事を推測したりと、中々かっこいいのです。
まあそれはそれとして。
ドラマの中では度々、ゾンビに変化しちゃった家族の誰かを、自分らに危害を加えない程度の管理でかくまっている人が出て来て、それを主人公サイドの人間が暴いて、ゾンビな家族を殺しちゃうエピソードが、度々出て来ます。
それを見る度に私は、これってどうなのよ、って思ってしまうんですよね。
確かに今のところ、一度ゾンビになっちゃったらもう戻れない事はわかっています。
完全脳死状態になった後、なんらかの作用で脳幹だけ機能し始め、しかしその時にはもう、凶暴な何かに変ってしまっているわけです。
家族をかくまっている人は、いつか治療法が発明されて、元のその人に戻るはずだと淡い期待をもって、彼らをかくまっているわけですね。
でもなんでだか、それを知ると殺しちゃう方向に、あのドラマは行くんだよね。
まだ見始めたばかりなので、何を示唆したい番組なのか私にはわからないんだけど、FOXテレビの番組だと言う事から、ちょっとばかりの疑いを、持ち始めているのです。
もしもあのドラマが、鷹派の価値観を基準に動いているんだとしたら、どうなんだろうと。
確かに、咬まれたり引っ掻かれたりすると感染してゾンビになっちゃうんだから、ゾンビはいなくなるのが最も良い。
しかし誰かが、まだ家族がゾンビになっちゃった事を受け入れられず、いつか戻ると期待していたいのだとしたら、それはそれでいいんじゃないんですか?
他人に迷惑をかけない様に隔離しているんだし、万が一そいつが逃げ出しても、真っ先に被害に遭うのはかくまっているその人であり、更に表に逃げ出しちゃっても、後は何万匹もいるゾンビに混ざってウロウロしているだけに過ぎません。
もうああなると、野生のゾンビがひとり増えようなふたり増えようが、関係無いような世界なんですから。
ドラマの中では、ゾンビVSニンゲンより、むしろ生き残った人の間で描かれる戦いと葛藤に焦点が当たっており、そして正義と正義じゃない側の価値観がとても曖昧です。
だからこのドラマは意識的に、絶対的な正義、という概念のはかなさを描いているのかもしれない。
けれどもしも、ゾンビになっちゃった家族をさっさと殺す方が正しいんですよ、先に進む為に、という意識がベースにあるんだとしたら、私は途端にこのドラマが、FOX系列TVで放映されている事が、気になり始めてしまうんですよね。
それって、鷹派の考え方じゃない?
Aという人物が、Bという人物の大切にしている物を、「おまえそれ、おかしいよ。」って言って、その人のドアをこじ開けて、その大切にしている物を破壊してしまう。それによって平和が築かれる。という錯覚。
それは単に、Aという人物が欲しい現実を、Bという人物の価値観が邪魔をするからと言って、Bの価値観を根こそぎ否定して"改心"させる、それによって欲しい現実が得られる、という自己満足に過ぎません。
Aは単に、Bに賛成出来ないから、自分の居心地悪さを正しさや常識に置き換えて正当化して、自分にとって居心地の悪い場を、居心地良く変えようとしているだけですよね。
アメリカにはまだ根強い保守派の人たちがいて、未だに同性愛者を異常視したり、正当派とその人たちが見なす価値観や宗教観から逸脱した人たちへの理解を、拒絶したりしています。
私は、どんな偏見でも古い考えでも、個人のレベルで持っているだけならそれはそれで自由だと思っている人間ですが、もしも誰かが自分の価値観を、誰もが持つべき正しい物だ、と勘違いして、それを他者に強制し始め、その行為が公民権を得たら、それは自由世界の終わりだと思います。
それだけは許してはいけないと思うのです。
ゾンビの存在は、害毒です。
醜悪で、生きる価値も無い。
しかし、誰がそう言いきれるのか。
一人娘がゾンビになってしまった。
その姿は、肉親以外の人から見れば、醜悪な悪魔かもしれない。
でも父親はその顔に、過去の可愛らしい娘の面影を見ているのです。
あのドラマが、どういう価値観で進んで行き終わってゆくのか、今は全くの未知だけど、もしも二元論で正悪を捉える価値観がゾンビを殺すのだとしたら、私はそれは間違っていると思います。
あのドラマの中で、ゾンビになっちゃった肉親をかくまう人々を、どうやって描いてゆくのかは、とても大切だと思うのです。
先へ進むとか、健全であるとか、ポジティブであるとか、正直であるとか、困難から立ち直るとか、社交的であるとか、ちゃんと働いているとか、家族がいるだとか、ヘテロであるとか、強いとか、病んでないとか、正義感があるとか、そういう事だけがノーマルであるとする意識が暴走している一部の人間を抱えている土壌が、もしもその思想を土台に、そうした方が結局はみんなの為だとかいう思いを土台に、家族がかくまっているゾンビを殺すのであれば、それは間違っていると、私は思うのです。
あのドラマがどんな方向に行くのか、だからとても興味があるのです。
TWDは、闇、と位置づけた存在や行動を、果たして今後、受け入れるのでしょうか。
2016年10月20日木曜日
ディランとノーベル賞
ディランがノーベル賞を獲ったおかげかどうか知らないけれど、huluに" I'm Not There"が配信されて来てたので観る事が出来た。
“I'm Not There"はボブ・ディランの半生をユニークな手法で描いた映画で、女優のケイト・ブランシェットがディラン役をそっくりに演じた事でも話題になっていた映画だ。
観たいと思いつつ機会を逃し続け、ようやくさっき観終えた。
そんで思ったんだけど、ディランてやっぱり、"禅"、だね笑。
ノーベル賞貰ったのに、ずっとスルーしている事で、様々な憶測が飛び交っているのを、ネットなんかで見る。
大方は、ノーベル賞が武器を作って発展した賞だから、平和主義者のディランは拒否しているし無視しているのだ的な、彼の、プロテスト・ソング・シンガーという側面を捉えた人の意見が多い感じがする。
私は評論家みたいな詳細な視点でディランを掘り下げた事が無いから、もしかしたらそれが正しいのかもしれないけれど、私の中にいるディランと照らし合わせると、その感じにはなんとなく違和感がある。
私の中にいるディランに照らし合わせると、ノーベル賞受賞、という経験に、単に今現在、彼のアンテナが響かないだけなんじゃないかという気がしてならないのだ。
何か他の事に気をとられているとか、そういう事だけなのであって、思想的にどうこうっていうんじゃないんじゃないのかな。
まあこれは本当に、単なる私の思い込みですから、世間で彼をもっと観察している人が”思想だ。”と言うんなら、そうなのかもしれません。まあどっちでもいいんです。
ディラン本人はまた、全然違う思惑の中にいるかもしれませんしね。
私が映画を観て思ったのは、天才って大変だなって事なんです。
ディランがデビューして有名になった時代って言うのは、まだ人類がそんなに進化してないって言うか笑、まだすっごく保守的だったり頭が異様に固かったりしたのでしょう。映画の中のディランは、非常に生きるの大変そうです。
ディランは単に、今の事にしか興味ありません、って言ってるんですよ。
それを、昔はアコースティックだったのにロックに転向したのは何故かとか、裏切りだとか、魂売ったとか、政治なのか詩なのかとか、どっちの味方なんだとかかんだとか、もう、うるさいっつうの!!笑。
様々な人が”ディラン”というイメージを持ち、またそれを持つ事に必死で、そしてなんらかの既存の型に、彼を当てはめて考えようとする。
そして、自分がはめていたイメージから彼の言動が逸脱する度に恐れおののき笑、非難し、憎み、ののしり、今度は次の新しいイメージを作る事で、彼の本性を暴こうとしたり、暴けたような気になる。
そんな事やってたら、いつまでたっても、ディランの本当の存在感なんて、見えて来ないじゃないですか。
彼の様な宝と同じ時代に生きる事が出来ている尊い体験を、全く無駄にしてしまっています。
私が最もバカバカしいと思ったのは、ディランが煙に巻いてる彼の生い立ちや素性を暴いたテレビ番組が、意気揚々と、それを報告していたシーンです。
私はディランが、正しい生年月日や出生地や生い立ちを、公にしないどころか、ニセモノを作って誤摩化す気持ちが、実はよくわかります。
そんな情報、彼の仕事や本質に全く関係無いし、ニセモノでも与えておかないと、知りたくて知りたくてうるさい人ってのが、必ずいるんですから!
それをわざわざ暴いて、公にして、得意になっているテレビの人のアホさ加減には、本当に腹が立ちました。
自分が気にしてないなら、教えたって同じじゃないか、なんて小学生みたいな事を言う人までいる始末です。
人には、自分のプライバシーを、守る権利があるんです。
その生い立ちが更なるイメージを人の心に作って、ディランの作品や存在の本質の、余計なフィルターになってしまう弊害だってあります。
創作者は、創作物だけが正直なら、それでいいんです。
私の近所にも、人のプライバシーを平気で漏らしがちな人がいますが、私にそれをやったら、訴訟を起こして100万円くらいは貰う気持ちも自信も、本気であります。
何故に人は、目の前のありのままの現実では無く、イメージや情報で、人や物を判断しようとするのでしょう。
イメージという物は、イメージである事でもう既に既存の、限界のある物なのです。
でもありのままの現実には、常にフレッシュで一期一会の、無限の知覚体験が、広がっています。
もしもディランに出会った時に、頭の中に、この人は反体制でプロテスト・シンガーで気難しくて不遜でプライドが高い、なんていうイメージがあったら、自分はそのイメージに対応してしまい、目の前の本当のディランを、フルに体験出来ません。
個人のイメージの中に、ボブ・ディラン本人は、存在していないのです。
ボブ・ディランという人は、常にそういう、人の持つ固定観念に挑戦し続けていた人だと記憶しています。だから今でも彼のコンサートは、新鮮な驚きに満ちています。
私は映画の中のディランが最後に言った、詩は無意味でこそ神聖だ、という言葉に、全てが集約されていると思いました。
本当の抽象は、全ての固定観念から自由で、そこに何も提示しない、純然たる、抽象だからです。
そこにあるのは、ただ流れて移ろい流転する、純然たる現実だけです。
イメージなどという、粘っこくて潔くない、臆病で腰の引けた、思いがけなさを恐れる心の安全ネットみたいな、古ぼけた座布団みたいな現実認識の介入する隙間はありません。
優れた芸術家は皆、風景画でさえ抽象の目で描き上げています。
もしも人がイメージにすがろうとするなら、もうその具象的な表現方法さえ諦めて、抽象的な言葉の羅列をするしかない。
本物のディランがどうなのかはわからないけれど、あの映画では、ディランの抽象的な歌詞の由来を、そんな風に描いていたように思います。
詩は無意味でこそ神聖だ。
なんて禅なのでしょう。
あの映画は、型破りなディランの姿を、型破りなやり方で、とてもよく描いていたと思います。
“I'm Not There"はボブ・ディランの半生をユニークな手法で描いた映画で、女優のケイト・ブランシェットがディラン役をそっくりに演じた事でも話題になっていた映画だ。
観たいと思いつつ機会を逃し続け、ようやくさっき観終えた。
そんで思ったんだけど、ディランてやっぱり、"禅"、だね笑。
ノーベル賞貰ったのに、ずっとスルーしている事で、様々な憶測が飛び交っているのを、ネットなんかで見る。
大方は、ノーベル賞が武器を作って発展した賞だから、平和主義者のディランは拒否しているし無視しているのだ的な、彼の、プロテスト・ソング・シンガーという側面を捉えた人の意見が多い感じがする。
私は評論家みたいな詳細な視点でディランを掘り下げた事が無いから、もしかしたらそれが正しいのかもしれないけれど、私の中にいるディランと照らし合わせると、その感じにはなんとなく違和感がある。
私の中にいるディランに照らし合わせると、ノーベル賞受賞、という経験に、単に今現在、彼のアンテナが響かないだけなんじゃないかという気がしてならないのだ。
何か他の事に気をとられているとか、そういう事だけなのであって、思想的にどうこうっていうんじゃないんじゃないのかな。
まあこれは本当に、単なる私の思い込みですから、世間で彼をもっと観察している人が”思想だ。”と言うんなら、そうなのかもしれません。まあどっちでもいいんです。
ディラン本人はまた、全然違う思惑の中にいるかもしれませんしね。
私が映画を観て思ったのは、天才って大変だなって事なんです。
ディランがデビューして有名になった時代って言うのは、まだ人類がそんなに進化してないって言うか笑、まだすっごく保守的だったり頭が異様に固かったりしたのでしょう。映画の中のディランは、非常に生きるの大変そうです。
ディランは単に、今の事にしか興味ありません、って言ってるんですよ。
それを、昔はアコースティックだったのにロックに転向したのは何故かとか、裏切りだとか、魂売ったとか、政治なのか詩なのかとか、どっちの味方なんだとかかんだとか、もう、うるさいっつうの!!笑。
様々な人が”ディラン”というイメージを持ち、またそれを持つ事に必死で、そしてなんらかの既存の型に、彼を当てはめて考えようとする。
そして、自分がはめていたイメージから彼の言動が逸脱する度に恐れおののき笑、非難し、憎み、ののしり、今度は次の新しいイメージを作る事で、彼の本性を暴こうとしたり、暴けたような気になる。
そんな事やってたら、いつまでたっても、ディランの本当の存在感なんて、見えて来ないじゃないですか。
彼の様な宝と同じ時代に生きる事が出来ている尊い体験を、全く無駄にしてしまっています。
私が最もバカバカしいと思ったのは、ディランが煙に巻いてる彼の生い立ちや素性を暴いたテレビ番組が、意気揚々と、それを報告していたシーンです。
私はディランが、正しい生年月日や出生地や生い立ちを、公にしないどころか、ニセモノを作って誤摩化す気持ちが、実はよくわかります。
そんな情報、彼の仕事や本質に全く関係無いし、ニセモノでも与えておかないと、知りたくて知りたくてうるさい人ってのが、必ずいるんですから!
それをわざわざ暴いて、公にして、得意になっているテレビの人のアホさ加減には、本当に腹が立ちました。
自分が気にしてないなら、教えたって同じじゃないか、なんて小学生みたいな事を言う人までいる始末です。
人には、自分のプライバシーを、守る権利があるんです。
その生い立ちが更なるイメージを人の心に作って、ディランの作品や存在の本質の、余計なフィルターになってしまう弊害だってあります。
創作者は、創作物だけが正直なら、それでいいんです。
私の近所にも、人のプライバシーを平気で漏らしがちな人がいますが、私にそれをやったら、訴訟を起こして100万円くらいは貰う気持ちも自信も、本気であります。
何故に人は、目の前のありのままの現実では無く、イメージや情報で、人や物を判断しようとするのでしょう。
イメージという物は、イメージである事でもう既に既存の、限界のある物なのです。
でもありのままの現実には、常にフレッシュで一期一会の、無限の知覚体験が、広がっています。
もしもディランに出会った時に、頭の中に、この人は反体制でプロテスト・シンガーで気難しくて不遜でプライドが高い、なんていうイメージがあったら、自分はそのイメージに対応してしまい、目の前の本当のディランを、フルに体験出来ません。
個人のイメージの中に、ボブ・ディラン本人は、存在していないのです。
ボブ・ディランという人は、常にそういう、人の持つ固定観念に挑戦し続けていた人だと記憶しています。だから今でも彼のコンサートは、新鮮な驚きに満ちています。
私は映画の中のディランが最後に言った、詩は無意味でこそ神聖だ、という言葉に、全てが集約されていると思いました。
本当の抽象は、全ての固定観念から自由で、そこに何も提示しない、純然たる、抽象だからです。
そこにあるのは、ただ流れて移ろい流転する、純然たる現実だけです。
イメージなどという、粘っこくて潔くない、臆病で腰の引けた、思いがけなさを恐れる心の安全ネットみたいな、古ぼけた座布団みたいな現実認識の介入する隙間はありません。
優れた芸術家は皆、風景画でさえ抽象の目で描き上げています。
もしも人がイメージにすがろうとするなら、もうその具象的な表現方法さえ諦めて、抽象的な言葉の羅列をするしかない。
本物のディランがどうなのかはわからないけれど、あの映画では、ディランの抽象的な歌詞の由来を、そんな風に描いていたように思います。
詩は無意味でこそ神聖だ。
なんて禅なのでしょう。
あの映画は、型破りなディランの姿を、型破りなやり方で、とてもよく描いていたと思います。
2016年10月4日火曜日
湖の泥沼
これから誰かと湖一周の散策をしようと思っている方にお伝えします。その湖は恐らく、今見えているより遥かに複雑な形を持ち、今感じられている湖の周辺距離の、少なくとも10倍はあるかもしれません。
9月のコロラドでそれを思い知った私と、その体験を聞いた私の友人が富士五湖で同じ思いをしたという証言からも、誰も気軽に湖一周など、するべきではないという事は、おわかりかと思います。
コロラドで散策好きの相方から、湖一周の散歩に誘われた時には、運動不足だからちょうどいいか、くらいの気軽さで応じました。
時々訪れていた湖で、そんなに大きく感じられない上に、周りの風景が大変美しいので、楽しみですらありました。
秋だというのにかんかん照りなのに帽子も日焼け止めも無く、軽装だったから持っていたのは500mlペットボトルの水だけでしたが、こんな湖、1〜2時間で回れるだろうと信じていたので、そのまま気軽に散策を始めてしまったのです。
しかし実際には、その湖はいくつもの小さな湖〜と言ってもボートが無ければ渡れないくらいの周囲の〜小型湖がメインの湖の周りに数え切れない程枝分かれして存在しており、実際にその湖を一周するには、膨大な距離を歩く羽目になってしまったのです。
場所はコロラドですから大自然です。
湖の周りは鷲鷹の保護エリアだったりして、脇道から道路に抜けるとかそういう逃げ道は全くありませんでした。
いや、何度かそういうチャンスもあったのですが、一緒にいた楽観的な知人が、何度かそのチャンスが訪れる度にその方法を選ばなかった為、二人共もう限界、を感じる頃には、もはやどこにも逃げ道の無い修羅場に、突入してしまっていました。
戻るにも距離があり過ぎ、ただ進むしか無い無限地獄です。
幸いだったのは、あくまでもメインの湖が歴然と見える中での散策だった為、道に迷う怖れは無かった事。
単に、目に見えているあそこの岸辺、という物に到達する為に、信じられない様な辛惨を経験しなければならなかったという事です。
最悪夜になってもしまっても、まあその場で野宿すれば、明るくなってからまた歩き始めればいいわけで、そういった意味での恐怖はありませんでした。
それでも。
あの森を抜ければようやく目指す岸辺だ、と言った際に、希望と共にその森を抜けた途端、今までで最も大きいのではないかと思われる枝別れ湖が現れ、その時にはさすがに、恐怖と絶望感に襲われたのは事実です。
心の強い同行者も、さすがにその時には、奇妙な動物の様な雄叫びを上げていました。
気の触れる一歩手前、という感じでしょうか。
ドライブウェイに抜けるチャンスがまだ稀に数回現れた頃に、私は何度か、今ここを抜けた方がいいんじゃないか、と提案をしましたが、同行者はそれに耳を貸しませんでした。
ですので私は、もう自分があれこれ考えるのはやめて、この人のやりたいようにさせよう、その方が心が楽だ、と諦め切りました。
思考が最も人間のスタミナを奪うという事を私は体験から知っていたので、考えるのを完全に、やめさせていただいたわけです。
繰り返される小型湖の出現や、歩きにくい湿地や沼地や、一体どこを歩けばいいのかわからないくらい丈高の、しかも刺だらけの草に覆われた場所、しかもガラガラヘビの生息地、などに出くわす度に、絶望や失望や心の迷いや苛立や恐怖や怒りを感じるのは全て相方にまかせ、私は一切、考える事を放棄しました。
するとスタミナは温存され、どんなに歩いても一向に疲れなくなりました。
そういった中で自分を観察している時、面白い事に気付いたのです。
私が疲労を感じるのは、自分の心が、「こっちじゃない。」と感じる方向に歩かねばならない時だけだったのです。
人と一緒だったし、体力を温存する為に私はリードする事を放棄しましたから、文句も言わずに相方の選ぶ道をついて行っていたわけですが、自分の心が、「こっち」と強く感じる時に相方が逆の道を選び、そちらに自分が行かねばならないその瞬間の分かれ道に出くわす度に、私は強い疲労を感じ、それがしばらく、まあ、3分程度でしたが、続くのです。
もしも私が自分の感覚に執着し続ければ、更に疲労は続いたでしょうが、抵抗を感じる度にそれを意識的に忘れる事で、疲労感は短時間で治まりました。
これは普段の生活でも感じられていた感覚ですが、普段は単なるそわそわするような落ち着かなさという形で出るだけだったので、こんなにあからさまに、堪え難い疲労、として体現されるのは、初めての事でした。
5月に友達と中欧ヨーロッパに行った時に、ロシアの空港で友人がカフェを見つけてそこで朝ご飯をゲットしようとした時にも、私のこの落ち着かなさが発動し、列に並ぶ友人に許しを貰って、一人で乗り換えゲート近くまで歩き、そのゲート内にあったカフェでひとりで食事をしました。
友人の見つけたカフェには、私が食べたかった物が無く、ゲートのカフェにはそれがありましたから、やはりこの感覚は、役に立つのです。
湖を歩いていた時にも、もしかしたら私がリードをとり、この感覚に従って歩いていれば、あんなに凄まじい事にはならなかったかも知れません。
でも私は、冒険の顛末を見てみたかったので、敢えてその提案もしませんでした。
結果、朝10時に歩き始めた私たちは、なんとか夕方5時には、全身泥だらけだったから湖に服ごと入って洗ったりしなければならなかったものの、怪我も無く脱出、5時を過ぎると駐車場が閉まっちゃって、車も出せないしどうすればいいの、という地獄にまでは発展せずに冒険は終わりました。
非常にチャンレンジな体験でしたが、やって良かったとも感じています。
まあ、やっちゃってから後悔しても仕方無いので、良き面を見るしかないんですけれど。
今回コロラドでは後にもう一度同じ様な事があったんですが、そこでもやはり例の疲労を感じたので、その時には相方に言ってみました。
するとやはり、私がこっち、という道に行くのが、正しかったのです。
そうではない道を選んでから、その事が後でわかったんだけどね。
冒険好きな友人がいると大変ですが、自分の限界点の目安では選ばない真新しい体験が出来るので、まあいいと思うのでした。
でももう二度と、湖を歩いて一周してみようとは思わないことでしょう。
2016年8月23日火曜日
深読み感想ーヒトラー最後の20000年
ケラさんの舞台"ヒトラー最後の20000年〜ほとんど、何もない"を、幸運な事にもう一度観る事が出来ました。千秋楽。
で、作った人が"ほとんど何もない"って言ってんだから、何もないでいいじゃんとも思うんだけど、実は色んな物があるように観えてしまった部分もあるので今日はそれを書こうと思います。
このお芝居は、主にヒトラーという、歴史的にマクロなモンスターに焦点が当たっているんだけれど、その同じ時代に生きたふたつの家族の事も、描いているんです。
ひとつはアンネ・フランクの一家。
そしてもうひとつは、歴史に名前など残らないであろう一介の民間人〜亡くなった娘の夫とひっそり二人暮らしをしている、「おとうさん」の家族ーつまり、娘婿(アフリカ系青年)とその義父(日本人57歳)、です。
アンネ・フランクの家族のエピソードを通しても色んな物を感じちゃったのですが、より強烈に心を捉えたのは、「おとうさん」の方でした。
この「おとうさん」、始めは普通に良い人物、という佇まいを持って出て来ます。新聞で報じられるナチスの、ユダヤ人への残虐な迫害ぶりに胸を痛めたりして。
だけど徐々にことあるごとに、彼の内にある無自覚な、というか、彼にとってはもうなんていうか当たり前過ぎて疑問にすら思えないのであろう、定着した無頓着な、無邪気な人種差別意識が、あからさまに言動に、随所に現れるのです。
これは、普段は良識的な発言をしている政治家が、スピーチ中に人をギョッとさせるような非人道的な(本音)発言をしてしまって、後で叩かれるみたいな出来事として、日常でもよく目にする光景ですが、この「おとうさん」は政治家でもなんでも無い、パブリックな人物では無いので、その無頓着で無邪気な残酷さは、日常を共にしている家族の現実という、非常にミクロな領域で体験され続けます。
大舞台で900万人ものユダヤ人を殺害したヒトラーというマクロ・モンスター。
その惨状に胸を痛める「おとうさん」の内にある、本人どころか周りの誰からも疑問視されない、日常的な残酷さ(&実はもっとホラーな本音も潜んでいるのですが。)というミクロ・モンスター。
殺した数が違うだけで、他にはまったくもってなんの違いも無い、ふたりのモンスターなわけです。
この「おとうさん」が日本人なのって、日本軍がナチス側だったからかなとか思ったけれどまあそれはどうでもいいんです。とにかくあの「おとうさん」の、随所に現れる他者への魂の無い残酷さが、背筋を凍らせる程不気味なんですよ。
こういった、日常の中で取り立てて責められる事も無く見過ごされている他者への無神経さ〜心を込めて作ってくれた料理を無視したり、誰かが大切にしている物や事や作品を尊重しなかったり、ちゃんと話を聞かなかったり、マルゴット・フランクを当たり前の様に「アンネの姉」と呼び続けたり〜そういう無神経な残酷さが随所に散りばめられているこのお芝居を観ていると、誰が、どの口下げてヒトラーを責められるのか、という気分にもなってくるのです。
わかりやすい悪い事をした人間は、標的になりやすい。
でも、その悪い事をした人と同じ心の質が、自分の中には全く無いのか。
たったひとりの人間が、900万人を殺せたわけではないのです。
900万人を超える人々の心の中に、ヒトラーの欠片があったから殺せたわけです。
もしも良識派を自負する誰かが、このヤンチャなお芝居が思いっきりやっちゃっている、ありとあらゆるタブーに対して、それはやり過ぎなんじゃない?と言ったとしたら、私はその人に問いたいなと思います。
「このお芝居の無法さは、あなたが日常的にやっちまっているかもしれない、他者への無自覚な残酷さという無法行為を超えていますか?」と。
このお芝居は勿論、決してヒトラーを弁護しているような物ではありません。
でも同時に、ヒトラーだけが特殊な悪人だったわけでは無い事を、思い出させてくれました。
大舞台に立つマクロなモンスターの背後には、盲目な心を持つミクロなモンスターが何百何千万人もいて、友達や、恋人や、子供や、孫や、教師や、作家や、親や、隣人や、上司や、部下や、有名人や、無名人や、兄弟や、気に入らない事を書いたブロガーや、気の利かない店員や、羨望の対象や、社会の弱者や負け組の人や、社会の強者や勝ち組と判断される人など、とにかくあらゆる他者に対して、無自覚に、必要以上に、残酷な言動を日常的に繰り返しているのかもしれないのです。
ヒトラーと私たちの違いは、一体どこにあるのか。
違いがあるなんて思うのは、思い上がりなんじゃないのか。
もし自分をこんな風に思えないとしたら、あなたもマクロなモンスターの素質を持つ、ミクロなモンスターの、一員かもしれませぬよ(^^)
で、作った人が"ほとんど何もない"って言ってんだから、何もないでいいじゃんとも思うんだけど、実は色んな物があるように観えてしまった部分もあるので今日はそれを書こうと思います。
このお芝居は、主にヒトラーという、歴史的にマクロなモンスターに焦点が当たっているんだけれど、その同じ時代に生きたふたつの家族の事も、描いているんです。
ひとつはアンネ・フランクの一家。
そしてもうひとつは、歴史に名前など残らないであろう一介の民間人〜亡くなった娘の夫とひっそり二人暮らしをしている、「おとうさん」の家族ーつまり、娘婿(アフリカ系青年)とその義父(日本人57歳)、です。
アンネ・フランクの家族のエピソードを通しても色んな物を感じちゃったのですが、より強烈に心を捉えたのは、「おとうさん」の方でした。
この「おとうさん」、始めは普通に良い人物、という佇まいを持って出て来ます。新聞で報じられるナチスの、ユダヤ人への残虐な迫害ぶりに胸を痛めたりして。
だけど徐々にことあるごとに、彼の内にある無自覚な、というか、彼にとってはもうなんていうか当たり前過ぎて疑問にすら思えないのであろう、定着した無頓着な、無邪気な人種差別意識が、あからさまに言動に、随所に現れるのです。
これは、普段は良識的な発言をしている政治家が、スピーチ中に人をギョッとさせるような非人道的な(本音)発言をしてしまって、後で叩かれるみたいな出来事として、日常でもよく目にする光景ですが、この「おとうさん」は政治家でもなんでも無い、パブリックな人物では無いので、その無頓着で無邪気な残酷さは、日常を共にしている家族の現実という、非常にミクロな領域で体験され続けます。
大舞台で900万人ものユダヤ人を殺害したヒトラーというマクロ・モンスター。
その惨状に胸を痛める「おとうさん」の内にある、本人どころか周りの誰からも疑問視されない、日常的な残酷さ(&実はもっとホラーな本音も潜んでいるのですが。)というミクロ・モンスター。
殺した数が違うだけで、他にはまったくもってなんの違いも無い、ふたりのモンスターなわけです。
この「おとうさん」が日本人なのって、日本軍がナチス側だったからかなとか思ったけれどまあそれはどうでもいいんです。とにかくあの「おとうさん」の、随所に現れる他者への魂の無い残酷さが、背筋を凍らせる程不気味なんですよ。
こういった、日常の中で取り立てて責められる事も無く見過ごされている他者への無神経さ〜心を込めて作ってくれた料理を無視したり、誰かが大切にしている物や事や作品を尊重しなかったり、ちゃんと話を聞かなかったり、マルゴット・フランクを当たり前の様に「アンネの姉」と呼び続けたり〜そういう無神経な残酷さが随所に散りばめられているこのお芝居を観ていると、誰が、どの口下げてヒトラーを責められるのか、という気分にもなってくるのです。
わかりやすい悪い事をした人間は、標的になりやすい。
でも、その悪い事をした人と同じ心の質が、自分の中には全く無いのか。
たったひとりの人間が、900万人を殺せたわけではないのです。
900万人を超える人々の心の中に、ヒトラーの欠片があったから殺せたわけです。
もしも良識派を自負する誰かが、このヤンチャなお芝居が思いっきりやっちゃっている、ありとあらゆるタブーに対して、それはやり過ぎなんじゃない?と言ったとしたら、私はその人に問いたいなと思います。
「このお芝居の無法さは、あなたが日常的にやっちまっているかもしれない、他者への無自覚な残酷さという無法行為を超えていますか?」と。
このお芝居は勿論、決してヒトラーを弁護しているような物ではありません。
でも同時に、ヒトラーだけが特殊な悪人だったわけでは無い事を、思い出させてくれました。
大舞台に立つマクロなモンスターの背後には、盲目な心を持つミクロなモンスターが何百何千万人もいて、友達や、恋人や、子供や、孫や、教師や、作家や、親や、隣人や、上司や、部下や、有名人や、無名人や、兄弟や、気に入らない事を書いたブロガーや、気の利かない店員や、羨望の対象や、社会の弱者や負け組の人や、社会の強者や勝ち組と判断される人など、とにかくあらゆる他者に対して、無自覚に、必要以上に、残酷な言動を日常的に繰り返しているのかもしれないのです。
ヒトラーと私たちの違いは、一体どこにあるのか。
違いがあるなんて思うのは、思い上がりなんじゃないのか。
もし自分をこんな風に思えないとしたら、あなたもマクロなモンスターの素質を持つ、ミクロなモンスターの、一員かもしれませぬよ(^^)
2016年8月9日火曜日
ヒトラー最後の20000年〜ほとんど、何もない〜
ケラリーノ・サンドロヴィッチさん脚本演出で、俳優の古田新太さん...てっきり主演だと思っていたんだけど主演は入江雅人さんだそうで(^^;;、じゃ、古田さんは参謀みたいな感じですかね、で、その、古ケラ・シリーズ第三弾"ヒトラー最後の20000年〜ほとんど、何もない〜"を観て来ました。
文字通り、ほとんどなにもありませんでした!!!!! 爆笑!!!!!
もう、本当に、気持ちの良いくらい、何もありませんでした!!!!!
何もないって、素晴らしいっすよ奥さん!!!!
テーマはヒトラー。
上演中のお芝居について書く時、やっぱネタバレしちゃダメだと思うから、お芝居からの引用はなるべく避けたいんですけれどね。
でもね私、しょっぱなに天国のヒトラーが、天国のユダヤ人たちにせっつかれて謝罪のお手紙を読むシーンでね、(すいませんこんなに書いちゃって😓)休職中ではあるけれども仮にも漫画家の私はね、本当に、本当に、こーーーーこーーーーろーーーーーかーーーーらーーーーーー、うらやましいーーーーーーーって思ったんですよ!!!
これ、描きてえーーーーーーーーーーーーーーーーーっってっっっっ!!!!!
こんなにおいしいネタ、無いっすよダンナ!!!!って思って、心が震えたね。
そしてやっぱりケラさんヒトラーが読み上げた手紙は、実に心震える、全然心のこもってない内容でね、もう、このしょっぱなのシーンから、私や、私の周りに座っていたお客さん達が、ほぼ、悲鳴みたいな絶叫で笑っていましたから。
こういう類いの笑いを思い切り楽しめるなんて、なんて贅沢な事でしょう!!
本当の贅沢って、こういう事なんじゃないでしょうか!!
三年くらい前でしたか、友達のパーカッショニスト リッチー・ガルシアが、80年代に一世を風靡したオサレ系アダルト・コンテンポラリーのシンガー クリストファー・クロスのバッキングでアメリカから来日した時に、日本に来てすぐビデオ・カメラがぶっ壊れちゃったから買いに行きたいと言って来て、秋葉原を案内した事があったんですよ。
その時に右翼さんの街宣車が街角に停まっていて、でっかい声で何かを一生懸命がなっておられたんですね。
こういう光景は都市ではしょっちゅう目にするせいで私は無意識的に意識からはずすって言うんですか、あたかも何も無いかの様に通り過ぎようとしたらリッチーがですね、あれは何かと私に尋ねたわけです。私は、ボリュームが大き過ぎて何を話しているのかよくわからなかったんですが、まあ、ある種政治的な強い主張を持っている人たちで、よくこんな風に街角でがなっているんだよ、と、やや揶揄する様な調子で答えたんです。
そしたらリッチーが、はあーーーーーっと溜め息を吐いて、そんな事を街角で堂々と出来るなんて、日本は素晴らしい国だね。。。。。と、深ーーーーいまなざしで街宣車を見ながら言ったのですよ。
リッチーは、オサレアダルトコンテンポラリーのコンサート・ツアーの前に、中東の女性シンガーのバンドでアラブ諸国を回っていたとかで、その時の経験と日本での経験が、すごいコントラストで心に刺さったらしいのです。
私はそういう目で日本という国を見た事が無かった、むしろ様々に窮屈さを感じていたため、リッチーの言葉がやけに印象深く胸に響いて、このエピソードをブログやTwitterに書くのも、何度目かになるかと思います。
その後日本にも奇妙な流れがあからさまになって来て、今の私はあの時リッチーが言った言葉をそのまんま日本に感じる事は出来なくなってはいるのですが。
しかし、本日。
ケラさんのこのお芝居を観てですね。
これが果たして、どの程度の国で上演出来るのか、とつくづく考えてしまってですね。
そういう意味では日本にはまだお江戸的なバカバカしい自由さがあって。
こういうお芝居で笑えるおおらかな気質っていうのがちゃんと生きていて。
そしてしかし、もしかしたらアウトなのかもしれない境界線超えにちゃんと挑戦してくれる作家さんが生きていて。
相当質の高い言葉遊びで、2時間強も楽しませてくれる。
贅沢だな、とつくづく感じた、どの部分がこのお芝居の贅沢さなんだろうと、明確に言葉に出来ないまま帰路の電車に乗ったのですけれど。
今、それがやっぱり、このお芝居のテーマにあると、感じるんです。
ヒトラーの事は、様々な人が様々な形で、作品にしています。
そこには重苦しい、深刻に受け止めるべき背景があるから、多くの作家さんが、もちろん本当に優れた映画やお芝居やドラマやパロディーだったりするけれども、そこにはどうしてもどこかにマナーが、問題提示が、メッセージが、行儀の良さが、真摯さが、あるわけなんですよね、そしてそれは素晴らしい事ですよ、確かにね。
だけれども。
けれども私は。
そういうマナーがどっこにも見当たらない、このケラさんのヒトラーに、心からの贅沢さを感じました。
だってさ。
もう、良識のある人たちは、わかってるんだよ。
あのチョビ髭が、何をやらかしたかを。
ドイツは何年もかけて、自国の罪を償おうと地球環境改善や色んな事で貢献しようと頑張っているし。
繰り返しちゃいけない事も、愚かさも、痛ましさも、実体験をしたわけじゃないけれども後世の人たちがそれなりに一生懸命、向き合おうとしている、そういう人たちがちゃんと沢山いると、私は思っています。
そういう前提が、私の中にはいつでもあるから、なんでかって言うと、私の仲良くしている人たちはみんなそんな風に、ちゃんと考えている人たちだからですが、そういう前提の元に、みながきちんと歴史の重みに向き合い、それに対して深いシンパシーを持っている、という前提を元になら、深刻に捉えるべき出来事を、全然深刻に捉えなくてもいい、そういう事ってあると思うんです。
歯に衣着せずに思い切りNGワードを言える世界が、成熟した良識ある社会にこそあると、私は思うのです。
世の中にはまだまだ、偏見や虐殺による心の生傷が癒えていない繊細な人たちが沢山いると思う。
けれども一方にはそうした不条理に強い心で立ち向かえる人たちがいて、酷い事を繰り返さないという意図で真っすぐに出来事を見据えて立ち向かえる強さを持つ人たちがいて、その強さを持っているからこそ、偏見や虐殺をテーマに笑える、という事も、あると思うんです。
それは決して、下卑た、偏見や虐殺を楽しむような笑いではない。
むしろその愚かさに、愚かさ以上の何の価値も見い出さない、心の高潔さから来る笑いだと、私は思います。
このお芝居が高潔なんですとかそういう事を言ってるんじゃないんですけれど、私が今夜このお芝居を観て、えも言われぬ贅沢さを感じたのは、あの出来事を、ヒトラーを、完全に踏みにじっちゃってさ、もう深刻でもなんでもなくしちゃってさ、アンネ・フランクを聖女から不思議ちゃんにしちゃってさ、それをみんなでゲラゲラ笑って観ていられる事に、この世の平安と成熟を見たからなんだと思います。
少なくとも今夜、あのお芝居を上演した日本には、それがあったんですよ、これから変って行くのかもしれないけれど。
そういう意味で私は今夜、あのまったくなんにも無いヒトラーのお芝居を観る事によって、お芝居の上演中ずうっと、人の世の最高の平和と成熟の頂点に座ってるみたいな気分になれて、だからとっても贅沢な気持ちになれたんだと思います。
ケラさん、今回も最高でした。
本当に、どうもありがとうございます。
そしてうふふ。余談ですが会場にて、私が描かせていただいたカバーを持つ古ケラ・シリーズ第2弾"奥様お尻をどうぞ"のDVDを売っている所にまた出会えました♥️
これは本当に光栄な勲章でございます。
私は実は第1弾の存在を知らずに、第2弾の劇中イラストなどをさせていただいたのですが、もしかするとこの三部作には、共通のスタイルがあるのかもしれません。
今回のお芝居にもイラストによる語りの場面があり、そしてわたくし、ちょっと申し訳無いと思っちゃったのが、グラフ画ですね。
前回の作品での夢子ちゃんも不思議ちゃんだったもので、夢子ちゃんが描いたはずの円グラフを私はわざと、子供が描いたみたいなへったくそな感じに仕上げたのですが、今回のグラフはなんかすっげーちゃんとしていて、も、もしやグラフ場面は皆さん、きちんと仕上げる物だったのではないかと、かなり冷や汗を感じてしまいました。。。。
そんな感じだったらごめんなさいすいません。
今度はちゃんとやりますから。
あ、今度は無いか泣笑。
いやー、でもほんと、申し訳なさでいっぱいです。とふぉふぉ。。
文字通り、ほとんどなにもありませんでした!!!!! 爆笑!!!!!
もう、本当に、気持ちの良いくらい、何もありませんでした!!!!!
何もないって、素晴らしいっすよ奥さん!!!!
テーマはヒトラー。
上演中のお芝居について書く時、やっぱネタバレしちゃダメだと思うから、お芝居からの引用はなるべく避けたいんですけれどね。
でもね私、しょっぱなに天国のヒトラーが、天国のユダヤ人たちにせっつかれて謝罪のお手紙を読むシーンでね、(すいませんこんなに書いちゃって😓)休職中ではあるけれども仮にも漫画家の私はね、本当に、本当に、こーーーーこーーーーろーーーーーかーーーーらーーーーーー、うらやましいーーーーーーーって思ったんですよ!!!
これ、描きてえーーーーーーーーーーーーーーーーーっってっっっっ!!!!!
こんなにおいしいネタ、無いっすよダンナ!!!!って思って、心が震えたね。
そしてやっぱりケラさんヒトラーが読み上げた手紙は、実に心震える、全然心のこもってない内容でね、もう、このしょっぱなのシーンから、私や、私の周りに座っていたお客さん達が、ほぼ、悲鳴みたいな絶叫で笑っていましたから。
こういう類いの笑いを思い切り楽しめるなんて、なんて贅沢な事でしょう!!
本当の贅沢って、こういう事なんじゃないでしょうか!!
三年くらい前でしたか、友達のパーカッショニスト リッチー・ガルシアが、80年代に一世を風靡したオサレ系アダルト・コンテンポラリーのシンガー クリストファー・クロスのバッキングでアメリカから来日した時に、日本に来てすぐビデオ・カメラがぶっ壊れちゃったから買いに行きたいと言って来て、秋葉原を案内した事があったんですよ。
その時に右翼さんの街宣車が街角に停まっていて、でっかい声で何かを一生懸命がなっておられたんですね。
こういう光景は都市ではしょっちゅう目にするせいで私は無意識的に意識からはずすって言うんですか、あたかも何も無いかの様に通り過ぎようとしたらリッチーがですね、あれは何かと私に尋ねたわけです。私は、ボリュームが大き過ぎて何を話しているのかよくわからなかったんですが、まあ、ある種政治的な強い主張を持っている人たちで、よくこんな風に街角でがなっているんだよ、と、やや揶揄する様な調子で答えたんです。
そしたらリッチーが、はあーーーーーっと溜め息を吐いて、そんな事を街角で堂々と出来るなんて、日本は素晴らしい国だね。。。。。と、深ーーーーいまなざしで街宣車を見ながら言ったのですよ。
リッチーは、オサレアダルトコンテンポラリーのコンサート・ツアーの前に、中東の女性シンガーのバンドでアラブ諸国を回っていたとかで、その時の経験と日本での経験が、すごいコントラストで心に刺さったらしいのです。
私はそういう目で日本という国を見た事が無かった、むしろ様々に窮屈さを感じていたため、リッチーの言葉がやけに印象深く胸に響いて、このエピソードをブログやTwitterに書くのも、何度目かになるかと思います。
その後日本にも奇妙な流れがあからさまになって来て、今の私はあの時リッチーが言った言葉をそのまんま日本に感じる事は出来なくなってはいるのですが。
しかし、本日。
ケラさんのこのお芝居を観てですね。
これが果たして、どの程度の国で上演出来るのか、とつくづく考えてしまってですね。
そういう意味では日本にはまだお江戸的なバカバカしい自由さがあって。
こういうお芝居で笑えるおおらかな気質っていうのがちゃんと生きていて。
そしてしかし、もしかしたらアウトなのかもしれない境界線超えにちゃんと挑戦してくれる作家さんが生きていて。
相当質の高い言葉遊びで、2時間強も楽しませてくれる。
贅沢だな、とつくづく感じた、どの部分がこのお芝居の贅沢さなんだろうと、明確に言葉に出来ないまま帰路の電車に乗ったのですけれど。
今、それがやっぱり、このお芝居のテーマにあると、感じるんです。
ヒトラーの事は、様々な人が様々な形で、作品にしています。
そこには重苦しい、深刻に受け止めるべき背景があるから、多くの作家さんが、もちろん本当に優れた映画やお芝居やドラマやパロディーだったりするけれども、そこにはどうしてもどこかにマナーが、問題提示が、メッセージが、行儀の良さが、真摯さが、あるわけなんですよね、そしてそれは素晴らしい事ですよ、確かにね。
だけれども。
けれども私は。
そういうマナーがどっこにも見当たらない、このケラさんのヒトラーに、心からの贅沢さを感じました。
だってさ。
もう、良識のある人たちは、わかってるんだよ。
あのチョビ髭が、何をやらかしたかを。
ドイツは何年もかけて、自国の罪を償おうと地球環境改善や色んな事で貢献しようと頑張っているし。
繰り返しちゃいけない事も、愚かさも、痛ましさも、実体験をしたわけじゃないけれども後世の人たちがそれなりに一生懸命、向き合おうとしている、そういう人たちがちゃんと沢山いると、私は思っています。
そういう前提が、私の中にはいつでもあるから、なんでかって言うと、私の仲良くしている人たちはみんなそんな風に、ちゃんと考えている人たちだからですが、そういう前提の元に、みながきちんと歴史の重みに向き合い、それに対して深いシンパシーを持っている、という前提を元になら、深刻に捉えるべき出来事を、全然深刻に捉えなくてもいい、そういう事ってあると思うんです。
歯に衣着せずに思い切りNGワードを言える世界が、成熟した良識ある社会にこそあると、私は思うのです。
世の中にはまだまだ、偏見や虐殺による心の生傷が癒えていない繊細な人たちが沢山いると思う。
けれども一方にはそうした不条理に強い心で立ち向かえる人たちがいて、酷い事を繰り返さないという意図で真っすぐに出来事を見据えて立ち向かえる強さを持つ人たちがいて、その強さを持っているからこそ、偏見や虐殺をテーマに笑える、という事も、あると思うんです。
それは決して、下卑た、偏見や虐殺を楽しむような笑いではない。
むしろその愚かさに、愚かさ以上の何の価値も見い出さない、心の高潔さから来る笑いだと、私は思います。
このお芝居が高潔なんですとかそういう事を言ってるんじゃないんですけれど、私が今夜このお芝居を観て、えも言われぬ贅沢さを感じたのは、あの出来事を、ヒトラーを、完全に踏みにじっちゃってさ、もう深刻でもなんでもなくしちゃってさ、アンネ・フランクを聖女から不思議ちゃんにしちゃってさ、それをみんなでゲラゲラ笑って観ていられる事に、この世の平安と成熟を見たからなんだと思います。
少なくとも今夜、あのお芝居を上演した日本には、それがあったんですよ、これから変って行くのかもしれないけれど。
そういう意味で私は今夜、あのまったくなんにも無いヒトラーのお芝居を観る事によって、お芝居の上演中ずうっと、人の世の最高の平和と成熟の頂点に座ってるみたいな気分になれて、だからとっても贅沢な気持ちになれたんだと思います。
ケラさん、今回も最高でした。
本当に、どうもありがとうございます。
そしてうふふ。余談ですが会場にて、私が描かせていただいたカバーを持つ古ケラ・シリーズ第2弾"奥様お尻をどうぞ"のDVDを売っている所にまた出会えました♥️
これは本当に光栄な勲章でございます。
私は実は第1弾の存在を知らずに、第2弾の劇中イラストなどをさせていただいたのですが、もしかするとこの三部作には、共通のスタイルがあるのかもしれません。
今回のお芝居にもイラストによる語りの場面があり、そしてわたくし、ちょっと申し訳無いと思っちゃったのが、グラフ画ですね。
前回の作品での夢子ちゃんも不思議ちゃんだったもので、夢子ちゃんが描いたはずの円グラフを私はわざと、子供が描いたみたいなへったくそな感じに仕上げたのですが、今回のグラフはなんかすっげーちゃんとしていて、も、もしやグラフ場面は皆さん、きちんと仕上げる物だったのではないかと、かなり冷や汗を感じてしまいました。。。。
そんな感じだったらごめんなさいすいません。
今度はちゃんとやりますから。
あ、今度は無いか泣笑。
いやー、でもほんと、申し訳なさでいっぱいです。とふぉふぉ。。
2016年7月16日土曜日
心に闇の無い女の子の出てくるドラマ
"心の闇"と一言に言っても、言われる状況によって様々なコンテンツを持つと思う。
犯罪を伝えるニュース番組などで言われれば、それは殺人を犯してしまう程に鬱屈したストレスや痛みや怒りなどを示す深刻な心の病理だし、乙女な人が言えば退廃やアンニュイに繋がるような、ナルシシズムや文学な響きを持つものかもしれない。
後者は多分に"心の闇"の解釈に薔薇の花びらを散りばめて深刻さを還元している印象があるので、現実離れした美化である事は明らかなんだけど、いずれにしても私は、前者であれ後者であれ、誰かが"心の闇"と何かを表現する時そこに、その闇自体と真っ向から対峙し切り込む勇敢さの欠如を、いつも感じるのです。
"心の闇"という十把一絡げ的で抽象的な表現は、具体的にそこに切り込んで真っ当に解釈する事への怖れをうまく誤摩化してくれる役割を持っているなと感じるのです。
言わば、臭い物に蓋、を、ちょっとばかり文学的な、深みのありそうな言葉を選んで使ってみました、みたいな感じです。
これは、欧米ほど心理学や分析学に日常的な親和性を持たない日本という国の、独特なやり方だなと私は思います。
これは、多くの日本人がフラジルな幼い繊細さを抱えて生きている証だと私は思います。そのことの善し悪しを語る気はありませんが、ただそう感じるわけです。
で、そういう幼い繊細さと真っ向から対決するドラマがアメリカにあって、それが、"GIRLS"だと私は思うのです。
"GIRLS"は、ニューヨークに生きる若い四人の女の子の日常や生き様を追っているドラマです。でも出て来る4人の女の子は、SEX AND THE CITYみたいに洗練されていません。
社会的に全然成功していないし、いつもお金に困っていて、狭くてあんまりかっこ良く無いアパートにルームシェアして住んでいて、性格も容姿も生々しく未完成で、迷っていて傷ついていて間違っていてかなり哀れな状態で、普通に生きている子達です。
最初あまりの生々しさに観るのに抵抗を感じたのだけど、やがてすぐに虜に。
何故なら、主人公のハンナと、その恋人アダムを、とても大好きになってしまったからです。
ハンナは作家を志す22歳の女の子。
肥満気味でいつもノーメイク、いざという時にはちゃんと可愛くオシャレに、時に実にハイセンスに装える独自のセンスや美的感覚があるんだけど、そこに気負いが無いせいか、普段はあまり発揮されません。安いスーパーにいるおばちゃんみたいな格好でいつも暮らしています。
始め私は彼女の事がよくわかりませんでした。
でもドラマを観ているうちに、友達を知って行くみたいに、ハンナの事がわかるようになって来て、ある日決定的に私を魅了する行動を、彼女はとったのです。
その頃の彼女は、作家を志しているとは言え誇大な自信があるだけで具体的な行動は何も起さず、出版社で無給のインターンとして働きながら、出版社にいるんだからいつか作家として扱ってもらえるはず、という類いの楽観的な勘違いをしている状態でした
夢見る夢子さん状態です。
だから当然稼ぎも無く、大学を卒業後しばらくは親からの仕送りに頼って生きていたんだけど、大学教授である両親が彼女への教育的目的として、いきなりその仕送りを全額ストップしてしまうんですね。
あわてたハンナはインターンとして働いていた出版社で、そろそろ給料を貰えないか、自分は重要な人材なのだから、と上司に訴えるのですが、上司は、無給だから重要なのであり、金を払うならもっと才能のある人を雇うよ、と言ってにべもなく彼女を首にしてしまいます。
これは良くある価値観ですね。
素晴らしい才能ですね、という言葉の裏に、その才能にお金を払えるか払えないかがある。
これは非常に正直で大事なポイントです。
払われない場合、それはそこまでの価値しか見いだされていないという事です。
お金をくれるのかくれないのか。こんなに正直に人の心を現す定規が他にあるでしょうか。現金をくれないのは、金を払う価値無しと思われている事必至です。
雇う側にそこまでの自覚は無いかもしれませんが、実は行動に、全てが現れるのです💣。
で、それを充分にわかった上で、お金をもらわなくても、あるいはすっごく安くても、その仕事をやりたいかどうかを、自分の価値観で決めるのです。
それが大人という物です。
もう一度言いますが、お金を払われない場合、その人はあなたの才能を、お金を払うほどではない程度に、買っているのです。
どんなに褒められても錯覚してはいけません。
ここ大事よ笑。
私はつい最近ある企業からスカウトを受けたのですが、話を聞けば私には、私が自分の時間を費やして得た収入の何パーセントしか来ず、会社自体からは私に何も支払われない、という事でした。
この企業は社会貢献としてとても優れた条件を揃えており、システムも一見フェアでよく出来ているように見えますが、会社側は全く懐を痛めずに人材だけ集めるという発想は、経営者側としてはよく出来たシステムなのかもしれませんが、どこかその人材への敬意と良心が不足しているように感じられます。
経営側やサービスを受ける側にとって素晴らしくても、働く者への敬意と良心が不足している場合、結局はプロジェクト全体に敬意と良心が不足しているという事です。他者への敬意と良心が不足しているプロジェクトは、いずれ先細りになると私は信じているんです。
だから、長い面接の末に数日じっくり考えて、お断りしました。
賃金と労力のバランスという物は、そこに雇う側の良心が明確に現れるので、注意深く観察する価値のあるものだと思います。
これはがめついというのとは違います。
小さな割合でも、こちらは損せずに外から搾取する、という心根が雇う側にあると、雇われている側は意外な程疲弊するし、無意識下のストレスで心身がおかしくなったりするもんですよ。
ですので安い現場で働く事を決めた場合は、自分で選んだ、という意識が大切なのです。
そしてすぐに見切りをつける事の出来る強さも。
で、ハンナに戻りますとですね。
そんなわけで彼女は、しばらくあんまりお金の無い日々を送りました。
そんなある日、飛行機に乗って故郷に戻らねばならない出来事が起こるのですが、長期旅行の経験のあんまり無い彼女はスーツケースを持っていなくて、買うお金も無いので、それでなななんと、家庭用4L入りゴミ袋に、衣類なんかを詰めてガムテープで封印し、それを抱えてJFK空港に向かったのですよ!!!
着いた先の空港のカルーセルでそのゴミ袋を引き取り、そのままバスに乗って目的地へ。
いやーーーーー、ホレボレしました!!
これでいいんだな、と思って。
人生、こんなんでいいんだなって!!!!!
ハンナは、実に無防備で、あっけらかんとした女の子です。
ボーイフレンドのアダムが、ちょっと危険で変態っぽいセックスを要求して来ても、すぐに偏見による嫌悪感からリアクションを取らず、ふーん、と考えて場合によってはカジュアルに受け入れたりします。
私は最初、その部分がよくわからなかったのですが、ゴミ袋をスーツケース替わりにしたあたりから、ハンナの事が見えて来ました。
ハンナは、自分や世界を、心底信頼しているのです。
私が遠出をする場合、しっかりしたスーツケースや様々な場合に応じた衣類や持ち物等つまりそういう、ある意味充分で完璧で周到な準備をしようと努める心の裏には、防衛心があります。
見知らぬ旅先を何パーセントか信頼していない不安が原動力になって、余分な物まで持参するという事が割とあるんです。
それは当たり前だし持ってて悪く無い習慣だというのもわかるのですが、私はハンナみたいな人に、すごくホレボレするんですね。
ハンナがアダムみたいな、一見変人で危なそうな彼氏に、非常に無防備に自分をさらけ出せるのも、ゴミ袋に荷物詰めて旅行に行けるのも、無給だから雇ってくれてたあからさまな上司に給料を払えと堂々と言えるのも、全て彼女が、自分の対峙している世界が安全な場であると、信頼しているから出来る事なんですね。
これは鈍感さとは違います。
彼女は本当に、健全なのです。
GIRLSでは、出て来る様々な人たちの会話の中に、この健全さがすごく強く流れています。
"心の闇"を、絵の中の餅みたいに扱わず、掴んで観察して分析して味わい尽くす健全さが、そこにはあるんです。
特に、一見危なそうなキャラとして独特な存在感を見せるハンナの恋人アダム。
この人は、非常に素敵です。
言動にアウトローで反社会的な印象があるので、一見破壊的で危険なタイプに見えるのですが、徐々に彼が、社会のルールではなく、彼自身の良心に準じて生きているのだと言う事がわかって来ます。
その良心は、社会のルールなんて遥かに超えた良識と愛とシンパシーに満ちていて、そのピュアさにまたホレボレするんですよ。
ハンナが、自分を認めてくれた編集者と発展的な仕事を始めた矢先に、その編集者が河で水死体で見つかるというエピがあるんですが、自分のキャリアの先行きを正直に不安がるハンナに、思いっきり引いて、たまげて、ダメージ受けて驚愕してたのがアダムだったってのも、すっごく面白かったです。
それでもアダムは、そんなハンナのヒトデナシぶりに思いっきり引きつつも、ハンナの事情を思いやりある想像力で理解しようと勤め、優しく寄り添うんですね。
あー、ハンナはほんと、あんな彼氏に愛されて幸せ者だよ。
色んなドラマや映画でカップルを観ていて、私が心底羨ましいと思った、テレビ版"大草原の小さな家"のチャールズ以来の逸材アダム。
まさか半世紀後にまたこんな思いになれるなんて、非常に意外です。笑。
人の心の闇を手づかみで取り出してあっけらかんと解きほぐし、太陽の下で日干ししてしまうようなドラマGIRLSを観ていると、"心の闇"への、腰の引けた臆病さや腫れ物を扱うみたいな慎重さや深刻さ、しいては畏怖、などという態度が、実に古くさくバカバカしく思えます。
こんな人たちとのこんな日常が自分にもあったら、本当に生きやすいなと感じるんです。
![]() |
| アダム |
2016年7月6日水曜日
2016年上半期を終えて
2016年も上半期が終了して、もう7月だ。
今年は、新年早々大切な友達の訃報が、同時期に続けて2件もあって、前半はそれで持って行かれた感じだ。
私にはアメリカに、二重の色濃い人間関係がある。
ひとつは、古くから続くポーの一族みたいなやつで)爆、もうひとつは、学校関連で培ったクラスメイトを中心とした友達の輪である。
両方共中心地がコロラドなので、この二重螺旋が交わらないのが不思議な感じなのだが、そこにはくっきりとした境界線があり、何故か絶対に交わらないのである。
奇妙なもんだね。
今年早々に亡くなったのは、二人共いにしえからあるポーの一族の方の友人で、それはやはり私とはポーなので、非常に悲しく無念であった。
ひとりひとりとの関係も深く大切であるが、集い、という形で与えられる滋養がある。
全員が同じ空間を分かち合う事で生まれる、暖かい空気感。
ひとりも欠けていない、その部屋の中にいる、という事だけで生まれる、なんとも言えない充足された気持ち。
実のところ誰かが死んだところでーこれは決して、喪失感を紛らわす為の幻想では無いのだがー死によってむしろ近しく感じられる人の存在というものがあることを何回か経験しているから、そんなに深刻な喪失感を覚えているわけではないのだけれど、更新されない情報というもの、例えばその人との会話で交わされる新しいジョークだとか、そんな物が無い事で、いやおうもなく不在を感じる事が、あるものだなあと思う。
今年亡くなった友人のひとりは、何度か私のエッセイ漫画にも登場していただいた、アリゾナのお爺さん、である。
86歳でまだピンピンしていたのだけれど、突然倒れ、回復と危機を繰り返した後、遂に天国に行ってしまった。
爺さんとは、ポーのパーティーで知り合った。
本当に、本当にもう大昔の事である。
ハンサムで背が高く、非常に仕立ての良い服を着ていて、一目でセレブリティだとわかる感じだった。(今思えばあの頃爺さんはまだ、60代だったのだな。)
友達とガヤガヤ喋っている時に視線を感じたから振り返ったら、暖炉の前に座ってくつろいでいた爺さんがこちらを見ていたのだった。
爺さんは、微笑んだ眼差しで私を見ながら、おいでおいでをした。
初対面の私に対して自分から寄って来ず、私を招いた時点で、爺さんの印象は決して良くはなかった。つうかはっきり言って悪かった。
でもその時私と喋っていた、私がポーの中でも最も大切に思っている夫妻が爺さんに手を振ったから、そ、そうか、その夫妻と友達なのか、じゃ、じゃあ、まあ、行ってやるか、と思って私は爺さんの前まで行って、促されるままに隣のソファに座ったのだ。
しかし偶然にも私はその時 現役の漫画家で、爺さんは漫画家デビューしたい出版界の大物だった。出版界の大物ならさっさとデビューすればいいのだが、厳しいまなざしで人の著作物を扱っている手前、自分の才能不満足を甘やかすわけに行かないと言うジレンマに、爺さんは悩んでいたのである。
爺さんは私が現役漫画家だと知って手招きしたわけではないのだが、私が漫画家だと知ると目がキラキラしちゃって、その場で私にイラストを描かせ、自分が持っているアイディアを得々と語り始めた。
そして私ははっきり言って憂鬱だった。
だってそのアイディアは、決して「クール!」って思えるような物じゃなかったから。
自分が出版界の大物で、自分でも本を何冊も出していて、その内のひとつがディスカバリー・チャンネルで映像化される等の実績もあるのに、漫画家のひとりも動かせないその事情は、そのアイディアを見れば明らかってものだったのである。
色々あって私たちは仲良くなったけれど、その漫画のアイディアはいつの間にか消えた。
私にはそれを形に出来る創造力は無かった。
爺さんが亡くなった時、その事が、とても私を悲しませた。
なんとか形にして、なんとか商品にしようとしてふたりでコケたりした方が、何もしないよりずっと良かったし楽しかった。
だけど私はほんの昨年始めまで、実際のところ蚕の中にいる幼虫期みたいな時代にいて、創作するモードにはいなかったんだよ。これは本当にそうなのだ。自分にはそれがわかっているから、だから後悔は無い。
それ以前に何かをやったとしても、たいした物は作れなかったと思う。
もちろん人生という物は、特に人間を取り巻く人生の形は、そういった個別の生物学的な成長の時期を無視した形で全て営まれる。営まないとお金が入って来なくてご飯が食べられなくなったりするから、無理矢理にでも何か生み出して生きてゆくのだ。そんな中で漫画の〆切に追われる私に、爺さんの漫画を具現化する筋力は無かった。
幸いな事に、爺さんは偉大な経歴の持ち主だから、私が爺さん原作の漫画を描かなかった事は、爺さんにとってそんなに大きな悲しみではない。
ケネディ大統領のスピーチ・ライターだった爺さんは、ケネディの死後もホワイトハウスで研鑽を重ね、色んな大物のスピーチに携わったり、PRの仕事で無名の人を歴史に残る大物に仕立て上げたり、その内の何人かは黒歴史だと悪態をついてみたり、小説を書いてドラマ化したり、シンガーソングライターになってちょっと恥をかいてみたりと、まさに輝かしくて楽しい人生を送った人なのだ。
だから爺さんにとって、私が漫画を描かなかったことくらいなんてことは無い。
だけどね。
今年の私には、筋力がある。
爺さんや、爺さんの友達や、あとその他、私と色々創作話をして沢山色んな約束をした、色んなある事を、具現化する筋力が。
15年間ばかり入っていたコクーンから出て、ようやく羽根が乾いて来た今の私なら、爺さんの元ネタが面白くなくたってなんだって、それを面白く仕立てる底力がある。
そして今年は、豊富に時間もあるのだ。
私はこの夏から、そういう約束を全て具現化する事に時間を使おうと思う。
もう悲しい思いをしないように、手遅れにならないように、全てを具現化するのだ。
爺さん、ビル、マルコム、○○さん、○○さん、そして○○さん、遂に私は、具現化するよ。
長い間待っていてくれて、ありがとう!!
今の私なら、ろくでもなくない物を、仕上げられるよ。
今の私じゃない時に仕上げても、ろくでもなかったと思うから、待たせたのは許してね。
じゃあそういう事で。
爺さんへの追悼ブログは、いつか改めて、写真満載で書こう。
今日は私の、決意表明でした。
今年は、新年早々大切な友達の訃報が、同時期に続けて2件もあって、前半はそれで持って行かれた感じだ。
私にはアメリカに、二重の色濃い人間関係がある。
ひとつは、古くから続くポーの一族みたいなやつで)爆、もうひとつは、学校関連で培ったクラスメイトを中心とした友達の輪である。
両方共中心地がコロラドなので、この二重螺旋が交わらないのが不思議な感じなのだが、そこにはくっきりとした境界線があり、何故か絶対に交わらないのである。
奇妙なもんだね。
今年早々に亡くなったのは、二人共いにしえからあるポーの一族の方の友人で、それはやはり私とはポーなので、非常に悲しく無念であった。
ひとりひとりとの関係も深く大切であるが、集い、という形で与えられる滋養がある。
全員が同じ空間を分かち合う事で生まれる、暖かい空気感。
ひとりも欠けていない、その部屋の中にいる、という事だけで生まれる、なんとも言えない充足された気持ち。
実のところ誰かが死んだところでーこれは決して、喪失感を紛らわす為の幻想では無いのだがー死によってむしろ近しく感じられる人の存在というものがあることを何回か経験しているから、そんなに深刻な喪失感を覚えているわけではないのだけれど、更新されない情報というもの、例えばその人との会話で交わされる新しいジョークだとか、そんな物が無い事で、いやおうもなく不在を感じる事が、あるものだなあと思う。
今年亡くなった友人のひとりは、何度か私のエッセイ漫画にも登場していただいた、アリゾナのお爺さん、である。
86歳でまだピンピンしていたのだけれど、突然倒れ、回復と危機を繰り返した後、遂に天国に行ってしまった。
爺さんとは、ポーのパーティーで知り合った。
本当に、本当にもう大昔の事である。
ハンサムで背が高く、非常に仕立ての良い服を着ていて、一目でセレブリティだとわかる感じだった。(今思えばあの頃爺さんはまだ、60代だったのだな。)
友達とガヤガヤ喋っている時に視線を感じたから振り返ったら、暖炉の前に座ってくつろいでいた爺さんがこちらを見ていたのだった。
爺さんは、微笑んだ眼差しで私を見ながら、おいでおいでをした。
初対面の私に対して自分から寄って来ず、私を招いた時点で、爺さんの印象は決して良くはなかった。つうかはっきり言って悪かった。
でもその時私と喋っていた、私がポーの中でも最も大切に思っている夫妻が爺さんに手を振ったから、そ、そうか、その夫妻と友達なのか、じゃ、じゃあ、まあ、行ってやるか、と思って私は爺さんの前まで行って、促されるままに隣のソファに座ったのだ。
しかし偶然にも私はその時 現役の漫画家で、爺さんは漫画家デビューしたい出版界の大物だった。出版界の大物ならさっさとデビューすればいいのだが、厳しいまなざしで人の著作物を扱っている手前、自分の才能不満足を甘やかすわけに行かないと言うジレンマに、爺さんは悩んでいたのである。
爺さんは私が現役漫画家だと知って手招きしたわけではないのだが、私が漫画家だと知ると目がキラキラしちゃって、その場で私にイラストを描かせ、自分が持っているアイディアを得々と語り始めた。
そして私ははっきり言って憂鬱だった。
だってそのアイディアは、決して「クール!」って思えるような物じゃなかったから。
自分が出版界の大物で、自分でも本を何冊も出していて、その内のひとつがディスカバリー・チャンネルで映像化される等の実績もあるのに、漫画家のひとりも動かせないその事情は、そのアイディアを見れば明らかってものだったのである。
色々あって私たちは仲良くなったけれど、その漫画のアイディアはいつの間にか消えた。
私にはそれを形に出来る創造力は無かった。
爺さんが亡くなった時、その事が、とても私を悲しませた。
なんとか形にして、なんとか商品にしようとしてふたりでコケたりした方が、何もしないよりずっと良かったし楽しかった。
だけど私はほんの昨年始めまで、実際のところ蚕の中にいる幼虫期みたいな時代にいて、創作するモードにはいなかったんだよ。これは本当にそうなのだ。自分にはそれがわかっているから、だから後悔は無い。
それ以前に何かをやったとしても、たいした物は作れなかったと思う。
もちろん人生という物は、特に人間を取り巻く人生の形は、そういった個別の生物学的な成長の時期を無視した形で全て営まれる。営まないとお金が入って来なくてご飯が食べられなくなったりするから、無理矢理にでも何か生み出して生きてゆくのだ。そんな中で漫画の〆切に追われる私に、爺さんの漫画を具現化する筋力は無かった。
幸いな事に、爺さんは偉大な経歴の持ち主だから、私が爺さん原作の漫画を描かなかった事は、爺さんにとってそんなに大きな悲しみではない。
ケネディ大統領のスピーチ・ライターだった爺さんは、ケネディの死後もホワイトハウスで研鑽を重ね、色んな大物のスピーチに携わったり、PRの仕事で無名の人を歴史に残る大物に仕立て上げたり、その内の何人かは黒歴史だと悪態をついてみたり、小説を書いてドラマ化したり、シンガーソングライターになってちょっと恥をかいてみたりと、まさに輝かしくて楽しい人生を送った人なのだ。
だから爺さんにとって、私が漫画を描かなかったことくらいなんてことは無い。
だけどね。
今年の私には、筋力がある。
爺さんや、爺さんの友達や、あとその他、私と色々創作話をして沢山色んな約束をした、色んなある事を、具現化する筋力が。
15年間ばかり入っていたコクーンから出て、ようやく羽根が乾いて来た今の私なら、爺さんの元ネタが面白くなくたってなんだって、それを面白く仕立てる底力がある。
そして今年は、豊富に時間もあるのだ。
私はこの夏から、そういう約束を全て具現化する事に時間を使おうと思う。
もう悲しい思いをしないように、手遅れにならないように、全てを具現化するのだ。
爺さん、ビル、マルコム、○○さん、○○さん、そして○○さん、遂に私は、具現化するよ。
長い間待っていてくれて、ありがとう!!
今の私なら、ろくでもなくない物を、仕上げられるよ。
今の私じゃない時に仕上げても、ろくでもなかったと思うから、待たせたのは許してね。
じゃあそういう事で。
爺さんへの追悼ブログは、いつか改めて、写真満載で書こう。
今日は私の、決意表明でした。
登録:
投稿 (Atom)















