2014年11月28日金曜日

トラウマ的ぬいぐるみ



今日は感謝祭なので、アメリカの友達からお祝いのメールが沢山届く。

秋に卒業したコロラドの学校のクラスメイトからも。
その中に、感謝祭の買い物に行ったスーパーで売っていたという、ぬいぐるみの写真が添付されているものがありました。

まああれですよ、大体何かを専門的に学んでる人間達というものは、仲間内でそれを笑いの種にするもんですよ。
コロラドの学校も、例外ではありませんでした。

そんで、このぬいぐるみですが。
クラスメイトが言うには、偶然にも"キャラクター・パターン”の姿で並んでいると(笑)。

キャラクター・パターンというのは、いわば人間が抱えている心理的外傷のパターンとも言えるものなんですが、それには五つの異なる基本パターンがあるんですね。

何故五つに異なるのかと言うと、うちの学校で主に扱っている心理的外傷は、大人になってからのものではなく、生後三年の間に起こる、脳の成長期にまつわるものなんです。

人間の脳は、その80%が生後三年の間に形成されると言われているのですが、その成長の過程は、脳幹と呼ばれる、生存する為の基本のあれこれを司る原始的な脳の部分から始まり、きちんと段階を追って、徐々にmoreヒト的機能の領域へと成長してゆきます。
その成長こそが、幼児の精神的肉体的発育とも言えるわけです。なんたって脳ですから、全体の発育をリードしているわけです。

こうした三歳までの脳の発育の段階が、生後0才〜1ヶ月、4ヶ月〜18ヶ月、といった具合に、三年の間に大きく五段階のタイム・ピリオドに別れるわけなんですね。

そして人間というものは、その脳の成長の段階レベルに応じて、質の異なる情緒的ニーズを必要としており、そのニーズを養育者などからきちんと満たしてもらえないと、脳の深いレベルに、深いトラウマを追ってしまう、というわけなんです。

この5種類に分かれるトラウマのパターンを、心理学ではキャラクター・パターンと呼びます。トラウマなのにあたかも生まれもっての性格みたいなふりをしてわたしらの脳に思考パターンや信念として存在しているので、"キャラクター"と呼ぶのかもしれませんが、おもしろいのは、人間というものは、実に正直に、自分の持つトラウマのパターンを体現する、姿勢や体形をしているものなのです。(そしてそれにはそれぞれ名前もついていたりするんです。)

これは単に太っているとか痩せているとかそういういうことではないんです。
また、大きなトラウマを持っている人ほど極端に体型に現れているというわけでもありません。
非の打ち所の無い様な美しい、バランスの取れた真っすぐなボディの人でも、酷いパターンを持っている人はいます。
まあそんなわけで、そうシンプルに一筋縄で語れるようなものではないのですが。

それでもクラスではデフォルメしたイラストなども使いつつ、如何なる形で脂肪や筋肉がついているか、如何なる形でどこが痩せているか、真っすぐ立った時にどんな姿勢になるか、等等、人によって大なり小なり体に出ている心理的パターンを学ぶわけなんです。

で、このぬいぐるみの写真がっ。

全くもって本当に、そのパターンを体現しているわけなのですっ)爆!


友人が言うには、

カエル→ホールド・トゥギャザー
(生後0〜1ヶ月/凍りついた様な動きの無い姿ー存在する事自体、生きる事自体への恐怖を持つ人)

豚→ホールド・ショート
(生後2〜4ヶ月/猫背。前屈みで崩れ落ちる様な姿勢ー挫折と虚脱のパターンを強く持つ)

猿→ホールド・アウト
(生後4〜18ヶ月/別名「私は大丈夫」。心の痛みを感じないよう意識をハートから体の表層にそらしている為、胸を張ったような堂々たる姿になる)

牛→ホールド・イン
(生後18〜24ヶ月/エネルギーが深く内側にホールドされている為、全体がギュッとした感じにー自由に振る舞おうとする度に叱られる事で培われる、もう何もやってやるもんか、という頑固な憤怒と反抗の体現)

アヒル→ホールド・アップ&ホールド・バック
(生後24〜36ヶ月/辛い感情や現実から逃げる為にエネルギーが体の上方に集中し、また後ろに退いている。)


すいません。。
これを書いているだけで笑っちゃってまともに文章が書けない。。。

こんな世界に馴染みの無い方には、きっとおもろくもなんともないかもとも思いますが、何と言ってもトラウマを扱う学びは、中々シリアスな空気になりがちです。
でもそれがこういう形で目の前に並んでいると、もうなんとも言えず可笑しい。。。。。

しかも、偶然これを見つけてしまう友人の可笑しさよ。

というわけで、一部の限られた人間の心にだけ深く響く、マニアックな”奇跡の一枚"のお話でした。





2014年11月1日土曜日

天国に行って来た少年の話


アメリカにいる時は、よく映画館へ行く。

映画好きの人が傍らにいる、ということもあるし、夕ご飯を食べた後に眠りにつくにはまだちょっと力が余っていて、そしてなんとなく暗くなり始めた夜の街の雰囲気にも触れたくて、なんていう時に、近所のモールの中にある映画館へ行くのは、中々楽しい経験です。

今回観た数本の映画はどれも印象深くて、夕ご飯の後のちょっとした娯楽にしては大変贅沢だなあと感じた物ばかりでした。
考えてみれば、巨額の制作費とすごい数の人々の長い時間の労働と創造力の産物を、10ドルかそこらで簡単に楽しめるんですから、映画という娯楽は、実際非常に贅沢な物なんですよね。あまりに身近なので忘れがちですが。。

今回、新旧入り交じって色々観た作品の中に、実話を基にした映画が一本ありました。

小さな男の子が生死の境を彷徨った時に天国を訪れたという、その不思議な体験を描いたものです。

この少年はキリスト教の牧師さんの息子さんなので、やや特定宗教的色彩が胡散臭くなりそうな気配も無くは無いのですが、映画の中で少年の天国訪問体験に疑念と疎ましさを持ち続けるのが、他でもない牧師をしている父を含む少年の両親と教会関係者だというところが面白いし、これが偏った啓蒙カルト映画に、なんとかならずに済んでいるひとつの要素だと思いました。

特に教会関係者の女性が口にしていた、少年が天国での体験を広く口外することでこの教会が有名になってしまうと、自分で物を考えない輩が救いを求めて集って来ちゃうからイヤだ、という言葉は、この教会と映画自体の健全さを物語る上で、大切なスパイスだなと感じました。

宗教や信仰というものはそれ自体に問題があるのではなく、それを扱う人間の意識が問題を作り上げるケースが多いですもんね。道徳的なコミュニティの場として生活に溶け込み健全に機能している教会に、奇跡を求める他力本願な狂信者がいっぱい集ってきちゃったら、確かにヤバいし脅威です。

しかしながら少年の口にする体験は実に信憑性があり、鮮明で感動的なので、教会関係者の 懸念もよそに、だんだん有名になってきてしまいます。

実は私は映画の途中まではこの少年の天国体験談について、使い古された逸話だなあ、なんて思ってあんまり新鮮に楽しめない部分も多かったのですが、終わりの方にそんなニヒルな私を打ちのめす、すごい仕掛けがありました。
それは前にこのブログにも書いた、アメリカの天才絵描き少女にも関係するエピソードでした。ネタバレになってしまうのでここには書きませんが、とにかく私にとっては、あっと驚く内容だったんです。


私は基本的に、奇跡体験のような物に偶像的な表現が絡んでくる物が苦手です。

例えば、太陽の光が緑色に見えて突然すごく神懸かった気分になり、叡智に満ちた言葉が心の中に浮かんだ、くらいまでは個人の主観的な至高体験なので素晴らしいな、と思うのですが、その緑色の光の中にマリア様が見えた、となれば話は別です。

見えたような気がした、と言うのなら、経験の主観的な解釈なので理解できるのですが、明らかにマリア様だった、となり、それはマリア様ですね、と認定されちゃうとですね、私の頭の中は全くの圏外になってしまうのですよね。

そしてこの映画の中には、明らかにキリストでした、が出て来てしまうのよね。
無垢な少年が生死の間を彷徨っている内に天国へ行って、天国で暮らす既に亡くなった家族に会っただけでなく、キリストにも会うんです。

で、実は途中まで私はこの苦手系エピソードに引きまくっていて、しかしながらまあこの少年は、小さな頃から教会でキリスト教的絵画やエピソードに触れまくっていたわけだから、生死を彷徨っている間に違うディメンションを訪れ、その世界の体験を、既に心の中に知識として存在しているキリスト教をベースにした情報として翻訳してしまうのは無理の無いことかもしれない子供だしね、なんて思いながら観ていました。

それにこの映画の中には、先に書いたしっかりした教会関係者の様な動機でではなく、やったらムキになって少年の話を頭から否定しようとする、非常に大人げない大人達も出て来て、いやそのかたくなな態度はむしろ、あんたらが馬鹿にしている狂信的に宗教を信じる人たちと全く同じ思考停止の産物だってことに、なんで気がつかないんだろうね、なんて忌々しい気持ちも感じつつ、それにしてもこの世の中は、ひとりの少年が生死の間を彷徨っている最中に美しい神秘体験をしたっていう、たったそれだけの事実を、口に出すのさえ難しいなんてのはおかしいんじゃないか、というところにも行き当たり、今更ながらに人の思考の無駄な複雑さに、私の心がうんざりするに至ったあたりでこの映画は、周囲の評価なんて物ともしない、実体験者であるという無敵の強さと清々しさを持つこの少年が、自分の経験を賢明で愛情深い形で役に立ててゆくという、美しくて凛々しい姿を見せてくれるのです。

それだよね。

少年の神秘体験が紛れも無い事実でも、あるいは単なる脳内物質の作用で起こった幻覚に過ぎなかったにしても、どっちでもいいんだよ。

少年はインパクトの強い神秘体験をして、その体験が少年を、すごく大きな心の持ち主にした。そこに私は奇跡を感じたしとても感動しました。

そして私が抵抗を感じ続けた偶像エピソード、つまりキリストとの出会いについては、さきほども書いた映画の最後にあった仕掛けによって、いくらか私自身の持つ抵抗感も、謙虚に脇に置く必要があるのかもしれないな、と思わせるものがありました。

この世界は、宇宙は、人間の心も脳も、他のあらゆる生命体の在り方も、そして時間の流れや成り立ちなどについて、まだ殆どはっきりとは解明されていないのです。

アインシュタインやダ・ヴィンチの見ていた世界を、実感として見て生きている人も、まだ殆どいないのです。

そんな今の現状で、頭ごなしに「無い」と否定できることなんて、一体どのくらいあるのだろう。

この映画の、ほぼ新鮮さの無いナイーブなストーリー展開は、こんなに繰り返し同じようなエピソードを、大昔から色んな人が語っているのに、人間の頭は未だにそれを、単なる戯れ言のように扱うんだということに、ふと思い当たらせてくれました。

人間ていつになったら、「キリストに会ったよ。」「どっひゃーーーーー!!!!!それってすっげえっっっっ!!!」てな具合に、素直に反応するようになるんでしょうね。いやもちろん、健康的なやり方で笑。

2014年10月28日火曜日

カボチャを彫る

今年の作品

今年もハロウィーンはやってきて、そして一度覚えたパンプキン・ケービング(彫)の味はそうそう忘れられるものではなく、あたしゃ今年も彫ったね、ジャック・オー・ランタンを。

このでっかいランタン用のカボチャは、毎年スーパーで山の様に売られている。一個10ドルくらいで。

某空港のディスプレイ


アメリカではハロウィンに家族や友人で集ってカボチャ彫りパーティーをするので、私もよく招かれるのですが、去年まで自分で彫ったことはなかったんです。

だってすっごく固そうじゃん?日本でさ、カボチャ料理するのって、ただごとじゃなくね?ナタでも無いと割れない様な固いやつあるよね。そんなやつを彫るなんて、箸より重い物持ったことないオイラのする遊びじゃないよね。と去年までは思っていた。

しかしなんとこのカボチャ、実は林檎みたいに柔らかくて、プラスティックの玩具みたいな専用ナイフでサックサク彫れるんですよ奥さん!その彫る手応えがなんとも快感で楽しい。一度やったらやめられません。
だからランタン・アートの凝ったのなんて、本当に絵画のようなのがあります。見てくださいよコレ→ Edge The Of Plank
私も、もう少し慣れたらこんな境地を目指してみようかななんて思っています。


ところでてっきり食べられないもんだと思っていたこのカボチャ、実はこうして彫って楽しんだ後に、パイにしたりして食べるんですってよ!
でかいから大味なんじゃない?と聞いたら、確かにそうだけど、砂糖やシナモンで味付けするから結構美味しくいただけるんだそうです。

今年の私のケービングは、コロラドの学校のクラスが始まってから、休み時間にちびちび独りで彫っていたんですけれど、種を捨てようとした私の前にクラスメイトが立ちふさがり、「た、種が美味しいのに!」と、これまた新しい文化を教えてくれました。

で、彼女が作ったのがこれ。

殻ごと食べて海老の味がするお得な種

ランタン用のカボチャの種にオリーブオイルと塩をかけて、さっとオーブンで焼いただけなんですけれど、ななんとコレが、まるっきり海老の素揚げみたいな味で、すっごく美味しいのです!
あんなに美味しい甲殻類を、アレルギーで食べられない気の毒なパスカルズのチェロ奏者三木さんは、これを食べればいいのにと思う程です。(余計なお世話か)

去年のランタンは作ってすぐに、ウサギやリスの襲撃によって食べ尽くされてしまいましたが、今年は何故かずっと残っていてくれて、夕方になると灯をともし、とても楽しめました。(上の写真)

これは食べられちゃったやつ。↓

文字下の部分が食べられてしまった去年の作品

ところで。

今年私は、クラスの内輪でだけ通用するような小洒落た(つもりの)、そして深淵な(つもりの)ジョークを、ランタンに施したんですよ。

私としてはてっきり大ウケするものと思ったんですが、クラスのみんなからはしばし何の反応も得られず。。。。。。。。。。。。

はずしたつもりは無いのになんなんだよ、と日々募る不満を口にも出来ずに過ごしていたのですが。

ある日の昼休みに先生がやってきて、ランタンに彫ってあるあの言葉って、わざとああやったの?と聞くので、勿論ですがなにか?と答えると、やっと堰を切った様な大爆笑が。それだよ!それを待っていたんだよオレは!!なんでこんなに待たせたんだよ君たちは!!!!ってなもんですよ。

するとななんと先生は、英語がファースト・ラングエッジじゃないこのワタクシが、あんなすっげえ英語の駄洒落を思いつくとはすぐには信じられず、スペルミスの偶然の産物なんじゃね?と半信半疑だったって言うんですよ!

その場にいた何人かは、いや、自分は気付いていてすごく感心してたよ、と言ってくれたんですが、大多数は、そ、そうだったのか!!と初めてそこで開眼した様子。

いやあ、人間の思い込みとは、かくも恐ろしいものなんですね。
私が私じゃなくてジョン・クリーズとかだったら、言葉の最初の一文字を見ただけで、みんなわけもわからず爆笑したにちがいない。そんなもんだよ人の世なんて。

去年の作品を抱え、薄暗い部屋で笑うホラーなオレ

そしてまた、それは一体どんなジョークだったのか、とここで日本語で説明しても、アメリカン・ジョークを日本語で語っても全く響かないデイブ・スペクターのように、決して面白くないはずなので、説明はしませんがね。

ジョークって、実はとっても繊細なナマモノだよね。
些細なタイミングや状況で、全然生きなかったりするんですよね。

だからこそ、同じ瞬間に同じことで笑えるかどうかが、仲良しでいられる大切な条件だったりもする。(それが全てではないけども)

そういう意味で私はしばし、大変孤独な日々を送りましたよ。しかし最終的には誤解(?)も解け、みんな笑ってくれたんでよかったよかった。

そしてこの出来事が今年の私にとっては、最もハロウィン恐怖な体験なのでした。



ゴールデンのダウンタウンを歩くハロウィン親子

2014年10月23日木曜日

ヴァーモントふたり旅

マンチェスターの宿の庭

のんびりと、紅葉世界一の異名を持つ、秋のヴァーモントへ行って来ました。

もっとも、のんびりしてたのは私だけで、一緒に行った友達は、片道10時間という道のりをぶっ通しで運転し続け、最初の目的地ストゥの村に着いた時には、紅葉だからってなんなのよ、ってな風情になっていましたけどね。夜もとっぷり暮れてたし。

ストゥの村

そんな友人がどう思っていたかは知りませんが、ヴァーモントはとにかく素晴らしかったです。

ストゥの村は観光地化されてもいたので、アーミッシュな雰囲気を味わえるかなという期待はやや裏切られましたが、自然を尊重する人々の暮らす村には、なんともゆっくり豊かな時間が流れていて、ただいるだけで心がふわーっと安らかになる感じが、大変幸福でした。

それに今回の旅、まるで誰かが草葉の陰でわたし達の話を聞いていて、欲しい物を全部あげようと頑張ってくれてるみたいだね、と友人と度々溜め息をついてしまうくらい幸運な出来事が頻発。
しまいには、もしかしてオレたちしぬんじゃね?的恐怖が襲ってくるほどのうまく行き具合でした。

中でも食べ物には恵まれていましたね。

東海岸ということで、またしても美味しいロブスターにありつけることを期待していたワタクシですが、ヴァーモントに関してそれは大きな誤解と判明。ストゥのどこにもロブスター屋なんてありゃしません。

それでも素晴らしいウッド・オーブン・レストランを見つけたわたし達は、そこで完璧な鴨料理を食べては有頂天となり、グルテン・フリーな食生活を徹底している友人は、グルテン・フリーとは思えないリッチなパンやケーキを出す店を見つけては舞い上がり。

ウッドオーヴンで仕上げた鴨料理。プラムソースで味付け。これで一人分。


そして友人から、東部名物ポップ・オーバーというパンの話を聞いて、一度は食べてみたいもんだと思っていたら、ヴァーモントでの最後の夕食に訪れたレストランで、「ランチに焼いたのがひとつだけ残っていたからあなたに。」とか言われて突然目の前に。

別にそのレストランの人は、わたしがポップ・オーバーを探し求めていたなんて知らないわけですが、あたかも"全てお見通しよ"的態度で、「ラッキーね。」とか言ってくださって大変シビレました。

手前がポップオーバー。奥に見えるパンは友人用のグルテンフリー・パン

ポップ・オーバーは、シュークリームのシューとクロワッサンの間みたいなパンで、バターの風味たっぷりのクロワッサン生地が、さくっもちっなシューになっているというかなんというか、とにかく、大変わたし好みのお味でございました。

そして食べ物ラッキーのハイライトはなんと言っても、ストゥから次の目的地マンチェスターへ移動する途中の出来事でございます。

その日は朝から雨模様で、霧に包まれたなんとも荘厳で幻想的な紅葉の森をうっとりと車で走り抜けながら、わたし達ふたりは腹ぺこでした。
なんたって、大自然ばかりでお店が一軒も無いんですよ奥さん!

どうすりゃいいんだろうねオレたちはトホホ、などと話しながら、目を見張るような美しい湖と渓谷に出くわした矢先に、獲物を狙う鷹のごとく動体視力が著しく上昇していたわたくしの両眼に、一軒の可愛らしい山小屋が飛び込んで来ました。
運転していた友人は、美しい湖と渓谷にすっかり目を奪われていたらしくスカっとその前を通り過ぎてしまったのですが、わたしからの激しいブーイングを受け、そんな小屋あったかよ、とか言いながら戻ってくれました。

レストランなのかどうかも定かでは無かったその山小屋の扉をそおっと開けると、中はこんな内装で。レストランでした!やっほー!!!!



しかも一歩足を踏み入れた途端にわたくしの鼻がいち早く感知したのは、ここにはまさかのロブスターがある!ということでした。

メニューを見ると明らかにシーフード専門店の品揃え。
入り口に猟った鹿の剥製が飾ってあるくせに。
そしてありました!あったんですよロブスターが!!!

とは言え。
例え東海岸でも、ロブスターにはお味にピンキリがあります。
しかもそこでは、通常お安くても30ドル〜40ドルはするロブスターが何故か19ドルというお安さ。
これっておかしくね?よく見ると、 LOBSTERじゃなくてTOBSTERとか書いてあるバチモンじゃね?と心に一抹の不安が。

するとそんなわたしの繊細なハートを知ってか知らずか、地元民らしきお客さんがわたし達に、ここのシーフードは新鮮で最高だよ、間違いないよ、と声をかけてくれたんです。
すかさず注文する飢えていたオレ。

すると、ハサミはついていなかったけど、なんと結構大きな二尾ものボイルド・ロブスターが!!!

ロブスター・テール、スイートポテトフライ、コールスロー、溶かしバター、というコンビネーションもロックポートそのまま♡

しかもお料理の仕方が大変洗練されていて、ロブスターも新鮮で柔らかくてとってもジューシー。遠い昔、ボストン郊外のロックポートという海辺の村で、目の前で水揚げされたロブスターをボイルして食べさせてくれたあの思い出の味に匹敵する美味しさでした。

こんな山の中の一軒家がまさかシーフード・レストランで、こんな新鮮なロブスターを出してくれるなんてと、狐につままれる心境とはまさにこのこと。
オレたちって実はサリーちゃんで、エイっと星付きのステッキを振ってこのレストラン出しちゃったんじゃね?とマジで思ってしまったほどの幸運でした。

こんな風に食べ物の幸運に恵まれ続けたわたし達でしたが、もうひとつ、絶対に触れておかねばならない味がございます。

それはストゥのアップル・サイダー工場で飲ませてくれる、作り立てのアップルサイダーです。
こんな風にタンクから直接出試飲させてくれるんですが、これがもうあなた。

飲んだ瞬間、頭を鈍器で殴られたみたいなショックを受ける程の美味しさなんですよ!

あんな林檎ジュース、初めて飲みました。

ポップオーバー・ブレッドのことを教えてくれた友人もここの工場を訪れこれを飲んだそうなのですが、それ以来林檎ジュースを封印したほど、やはり大変感動したそうです。
これだけ飲みに遥々ストゥまで出かける価値があるくらい、非常に特別な林檎ジュースでした。

ここはまた林檎酵母から作るドーナツも名物らしく、みんなダース買いしてましたよ。わたしももちろん買ったがね。

その他にもこの旅では、たまたまオクトーバー・フェスタに遭遇して夜はパーティーに参加、朝はかわいらしいパレードまで見ることが出来て、本当に恵まれていました。

小さなヴィレッジのお祭りなので盛大さは無かったけれど、様々に工夫された演出が素朴で楽しくて、ちょっとパスカルズ初めてのフランス公演で行ったナンシーのクリスマス・パレードのことなんて思い出しちゃいました。

そう。
今回改めて感じたのは、やっぱりアメリカ東海岸の自然や雰囲気は、中西部とは全く趣きが違うということです。
中西部に住む人も言ってたけれど、東海岸の美しさはかなり繊細というか、微細な美なんですよね。

中西部がどかーーーんだとしたら、東海岸は楚々....という感じ。
まるでヨーロッパにいるみたいだな、と始終感じてましたが、地理的にももしかしたら昔は地続きだったのかもしれません。

一口にアメリカと言っても西海岸にはまた別の趣きがあり....しかし考えてみれば、「アメリカ」、なんていう概念は人間が勝手に括った国境ですからね。自然にしてみたら知ったこっちゃ無いですよね。あれだけの面積があるんですから、あっちこっちが全く違っていて自然なんですよね。

まあそんなわけですが、ヴァーモントは本当に安らげる土地で、実に離れがたかったです。普段ニューヨークなんか好きで度々行ってる私が、ヴァーモントの帰路にニューヨークに入った瞬間に、すっごく悲しくなってしまったほど。
オレの体は、やっぱり大自然に馴染む様に出来ているんだぜ。

ところで全体的にショップ数が圧倒的に少ないストゥとマンチェスターの村でしたが、一軒一軒は大変充実の内容で、狭い軒先を入ってみると、ものすごく奥まで広がった大きなお店だったりするんです。

特にマンチェスターに滞在中は、ショップの魅力をおおいに楽しみました。

マンチェスターから30分程の村にあったクリスマス・ショップ

ストゥのアート雑貨屋さん入り口

そんなわけで初めてのヴァーモント旅は大成功。
次回は夏の花盛りの時期に来て、友人お薦めのターシャ・トゥーダーさんのお庭を訪れたいなあと思っています。


最後に、ある朝起きたら世界が薔薇色に染まっていた、ストゥの宿からの景色をば。
あのとき程、早起きは三文の得、を実感したことはありません。。本当に不思議な美しさに満ちていた瞬間でした。




2014年10月8日水曜日

黄檗普茶料理 初体験話


干菓子と宇治茶からスタート

パスカルズのツアーで京都に行く前に、偶然二カ所から黄檗普茶料理の話を聞いた。そしてとても心惹かれたのです。

江戸時代初期に中国から招かれた坊さんによって始まった黄檗宗というのがあって、このお料理はそれ由来なんだそうですので、その宗派の知識もなんにも無いのに食べてもいいのか、という気分もややありましたが、宗教や信仰というものはそもそもおおらかなものであるはず、と思いますので、お相伴にあずかることにしたのです。
美しい蘭茶。蘭は塩漬けで食べられます。

私はあんまり自分の行動に人様を巻き込まないタイプなのですが、このお料理を出してくださるお寺では ふたりからの予約となっていましたので、思い切ってパスカルズのM井部長やお友達数人をお誘いしてみました。

 調べてみると京都にはこの黄檗普茶料理を食べさせてくれるお店が三軒、お寺がひとつあり、実のところ目的であったお寺の予約は間に合わなかったので、お寺の門前にある料亭に行きました。ちなみにここは、ひとりからでも予約を受け付けているようです。
湯葉の山椒和えとキノコと山芋の和え物

そしてお料理はこれがもう、素晴らしかったです!!

盛りつけの美しさも、お料理の種類も味付けも、なにもかも私好み。少し中華に寄った和懐石精進料理、ということでしたが、あまり中華料理の風合いは感じなかったな。

もうちょっとなんていうんですか?
"古代"、という印象が。
唯一中華料理っぽかった野菜の炒め物
私は、過美な装飾の施されていない、古代のすとんとした美の風合いが大好きなのですが、このお料理はまさに、味付けも色合いもそんな感じが。          
真っすぐに、素材の美味しさと天然の色彩の美しさに落ちてゆく様な、潔い清々しさがあります。
しかし決して素材に頼り切るわけではなく、そこにはお料理人さんの、加え過ぎない、しかし退き過ぎもしない、という透徹された感覚が、満ち満ちていました。                                     
胡麻豆腐二人

精進料理なので魚もお肉も全く使っていませんが、鰻に似せたお豆腐のお料理などは、確かにほんのりと鰻の味を感じて面白かったし、別に鰻にこだわらないとしても、そういう発明料理としても美味しくて楽しめました。

和食が文化遺産になるには、やはりそれなりの価値があるなと改めて思いました。
野菜料理あれこれ
他の国の料理と比べて、ということではなく、この国の料理には、深く自然界の森羅万象に寄り添う、独特の風雅があるのですよね。

これはおそらく、人間の造り上げる文化の基本の要素として、大切に保たれてほしいものだと思いました。

というわけで、すっかり感銘し、普茶料理にはまってしまったワタクシ。。。

実は京都には銀杏庵さんという、建物自体も世界遺産になっているという小さな普茶料理のお店があることを突き止めました。

しっかり味のついている天婦羅。
一番下の黄色いのは、湯葉で作った満月だそうです。
ここは 一日に4組しかお客をとらないということで、競争率も激しいらしいのですが、今度是非行ってみたいと思いました。

ところで都内にも一軒、宇治の萬福寺で普茶料理を作っておられたという方の、普茶料理のお店があるそうです。

どうしても食べたくなったらそこも狙い目だなと、虎視眈々と次の訪問を狙うオレ様なのでした。


おひつで出て来る季節のご飯と香の物


松茸ご飯




絵画の様なお吸い物 
デザートは紫蘇のジュレ

2014年9月4日木曜日

ブレイキング・バッド


有名なドラマなので、説明はいらないでしょう。私もつい最近、ハマったのです。

色んな事を考えさせられるドラマですねえ。
アメリカ人がどういう了見でこのドラマに夢中になったのかはわからないけれど、私も今、夢中なんですよね。

このドラマは、脚本が面白いとかそういう、面白いドラマに備わっているべき基本的な条件は十二分に満たし切っています。それに加えて私は、彼らの創るドラッグが美しい青だという事に、大きな人気の理由もあるんじゃないかな、と思うのです。

なんか、宝物っぽいよね。

人間を破滅させる危険なヤク、すえたジャンキーの使う怪しい薬、というダークで薄汚れた印象が、彼らのブルーメスには無い。

それは創り手のホワイト先生が天才的な化学者で、このメスは誇り高き純度99%。
色んなアブナいまがい物で薄めて、ジャンキーを騙して売ろうという濁った意図が、全く無いから。

というか技術的には、そもそも始めに使っていた材料が手に入らず、別の手段を高じた結果生まれた偶然の産物ではあるのですが。

あ、もちろん、ホワイト先生に偶然はありません。
化学者だから、青くなることはもちろんわかっていたでしょう。

でも、世の中を席巻する可能性や力を持つ物って、こういう特別な特長がーこの場合は”青いメス"ですがー生まれた瞬間にもう、冠の様に与えられていること、与えられる運命にある事って、よくあることだと思うんです。

ホワイト先生のメスは、はじめはよくある白い粉だったけれど、ひょんな事から輝く澄んだ青い色に生まれ変わり、あっという間に評判を呼んで、それはそれは高価な値で闇取引されてゆくわけです。

このドラマの主人公はこんな風に、歴史にでも残りそうな唯一無二の麻薬を作って売って、必要とあらば人を陥れたり殺したりもする。

だけど元々は善良で気弱で平凡な、高校の化学教師だったわけです。

それがある日末期のがんになって余命を宣告される。
愛する家族の為にお金を残したいけれど、しがない教師ではたかが知れている。
それで始めたメス創りは、思わぬ形で彼の才能を開花させてゆき、明晰な頭脳と豊富な化学知識で、ありとあらゆる危機を、天才的に、そして生き生きと脱してゆくのです。(しかもその過程で病気も良くなっちゃうんだよね)

輝く青いメスは、徐々に開示され研ぎすまされてゆく彼の才能と存在そのものの様で、それはまさに、ゴミ溜の中に埋もれていた宝石が突如現れたかのような、きらきらとした象徴的な美しさなのです。

すっごく悪い事やってるんだけどねえ。
でも純然たるヒトという生命体としては、彼は自分の天性の持ち札を全て投入して、一流のドラッグを創り、危機を脱し、家族を守り、どんどん拡大してゆくという点で、私はなんとも責められないんだよね。

ちなみに彼そのものは、絶対にドラッグはやらない。
いつも明晰な状態で、いつの瞬間にも、とことん最高の手段を打つのです。
そしてどんどん勝ち抜いてゆく。

まだ全部見ていないから、どんな終わり方をするのか私は知らない。
数え切れないほど悪い事をたくさんして、どんどん残酷になってゆく主人公を、このドラマがどんな風に裁くのか、あるいは裁かないのか、わからない。

まだ初期の頃、「人は結局欲しい物を求める。自分らがこのメスを創らなくても、どうせジャンキーたちは他のメスを買い求める。でもそれは、危険な物がいっぱい混入した危ないメスなんだから、自分らの純度の高いメスをやった方が、彼らにとってもいいのだ。」などという、すんごい言い訳を端役の人が言ってたんだよね。

理想を言えば、ドラッグを作る人も売る人もジャンキー達も全員更正して、世界からそういう物がゼロになるのがいいわけだけど、現在の人間の世の中は、そうはなっていない。

同じ毒物ならば、欲と欺瞞に満ちた混ざり物の汚れたドラッグなんかより、ホワイト先生が誇りをかけて創る、純度の高い美しい青いメスの方が、なんだか体に良さそうな感じまでしてくるという恐ろしさ笑。

もちろん、絶対に正当化は出来ない麻薬ビジネスだけど、ホワイト先生のケースについては、人間の敷いた法律や常識や、あるいは良識や良心なんかを全く動因しないで、ただ彼の動向を見守ることを、許されている感じがするんですよね。

それがもしかしたら、開放的なのかもしれない。

瞬間瞬間に直面する現実を、最高の形で乗り越えてゆくという彼のゲームは、それがとことん、余命宣告された時からずっと、始めっから命がけだから、のんきにソファでドラマを観ている自分なんかが、頭で考えた浅薄な、外から植え込まれた良識や常識なんかで、判断しちゃいけないんじゃないかな、とも思える。

なんにつけても、粛々と行動している人を、なんにもしないで考えているだけの人が、責めたりジャッジしたりケチつけたりは出来ないってのは、人としての基本だもんね。

まあドラマも終盤にさしかかると、始めは純然たる「最高のメスを創る」マエストロだったホワイト先生が、果てしない世界征服の欲に動かされ始めちゃったから、もしもそれがホワイト先生の道ならば極められるんだろうし、そうじゃなきゃ、それなりの結末も来るのかな、って感じで、やや混沌とした様相が、出て来始めてはいるのですが。

どうなるのか、とても楽しみです。

2014年8月13日水曜日

"100年ごはん"を観た (1)


日本には大変な事がたくさんあったんだなあ、という想いが、映画を観ている最中にふと心によぎった。

戦争で焼け野原になって、食べる物が無くなったこともあった。

映画の内容とは関係の無い、突然心によぎったこの慈しむような想いは、認可されている食品添加物の数がアメリカの3倍、イギリスの20倍という日本の国の現状にいつも私が抱く、蔑みや苛立ちや怒りや悲しみの入り交じったような感情とは、全く相反するものだった。

日本は食べる物さえ十分に得られないような過酷な時代を生き抜いてきて、そして食品に化学薬品や添加物を使ったり、農作物に農薬や人工的な作為を施すことによって、早く安く確実に、食べ物を普及することに成功したのだ。

安全で自然な作物を100年後の子供達に残せる様にと、大分県臼杵市が始めた土作りからの自然農業について描かれているこのドキュメンタリー映画が、私の心にまず芽吹かせてくれたのは、農薬や食品添加物だって、当初はこの臼杵の人々の貴い取り組みと同じ動機から生まれたのかもしれない、子供達を飢えさせないようにと、創意工夫した結果だったのかもしれないんだ、という、頭を垂れる様な感謝と崇敬の想いだった。

私は一体どうしてしまったのか。
オーガニック志向の私にとって、食品添加物や農薬を多用して私が気持ちよく食べられない物を増やす人々は、ただ忌々しい存在でしかなかったのに。

この映画で描かれている人々は、自分の信じる崇高な意思に、ただひたむきに従う人々だ。その姿が私に、いつの世でも、方向は違えど、人間という物は、良い物を作ろうとする生き物なのだというシンプルな、けれど美しい現実を、思い出させてくれたのである。

私は"100年ごはん"の中で、従来の、産業廃棄物を使った物ではない、安全で健康な熟成堆肥を黙々と作っているひとりの農夫の姿に胸を打たれながら、飢えた子供達の為に安定した食物の供給を行えるようにと、添加物や農薬や遺伝子組み換えを黙々と研究する人々の姿を重ねて見ていた。

そこにあるのは愛だけであり、もしかしたら人間は大抵の場合、そうした想いで様々な物を開発してきたのかもしれない。飢えさせない、凍えさせない、乾きさせない、苦しめない、という、他者への限りない愛とシンパシーを動機として。


映画"100年ごはん"は、自然農法への方向転換を静かに、そして力強く描き出しながら、そうでない物たちのことを、決して裁かない。
ただ、もう日本には、食べ物を廃棄する国世界一になってしまったくらい豊富に食べ物があるんだから、今度はそろそろ、その質を高める方向に舵を切ろうよ、と言っているだけなのだ。

成長は、子供たちの仕事。大人がやるのは、成熟へ向かうことだよ。という言い方で。

高度成長期に、飢えない日本を作ってきたその叡智を、今度は成熟へ、本当に質の高い、本質的な物を生み出す方向へと、舵を切る時期が来たんだよ、と。

やりきれないような事の続いた時代に、ただただみんなが生き残れる様に必死に頑張ってきた日本だけど、今度はゆっくりと周りを見回して、自然の恵みを、見直してみようよと。
コントロールではなく調和することで、もしかしたらより多くの恵みを、自然界は提供してくれるのかもしれないという可能性を、もう一度信頼してみようよ、と。


日本は戦争という、大きな傷を抱えて生きて来た国です。

食べ物が無い、という事を一度でも経験すれば、恐ろしくてがむしゃらになるのは自然の事だ。
自分が、自分の子供が、友達が、親が、兄弟が、他人が、飢えて死ぬのなんてもう見たくない。

だから自然界を信頼し、身を預け、ゆったりとそれと調和して生きることなんて、とても怖くて出来なかったかもしれない。
今までは。

だけど今、ようやく私たちは、固く握っていた舵の手を緩め、風と波の導きに身を委ねる強さを取り戻し始めたのではないだろうか。

雑草や害虫が、実は私たちを脅かす敵なのではなく、役目を持ってこの地球に生まれ、糧を得ようとする私たちの支えになってくれる存在なのかもしれないという可能性に、心を開く強さを。


この映画の中で、その繁殖力の強さから、雑草として駆除される対象となっているナズナが、実は豊富なカリウムを含有し、土壌にカリウムを提供してくれている、というくだりと共に紹介される、ナズナの花言葉を聞いた時、私は泣いてしまいました。

「すべてを捧げます」


いつも何も語らずに、地球に住む生物たちに、滋養や薬効や美しさを提供してくれている植物の声を、聞いた様な気がしたからです。

私たちはそろそろ本当に、自分を取り巻く世界が、いつも無条件の愛と献身を提供し続けてくれているのだという事に、気が付く時期に来ているのかもしれません。

この映画を作られた大林千茱萸監督ご自身が、その事に優しく深く気付いているからこそ、この映画はこんなにも、まるで熟成堆肥にように、観る者の心に愛を呼び覚まし、栄養と勇気をくれるのかもしれません。


この映画にまつわる想いと上映会などへの感想は、しばらくこのブログで続けて書かせていただきます。
何故なら、この映画と今日千茱萸さんが語られていたお話は、殆ど15年くらい前に、私が某誌で連載していた、ネオ・マクロビオティックのレシピを紹介する為の創作童話の内容と、大変共通しているところがあるからです。

その童話も、こちらに全文掲載する予定です。