2015年1月27日火曜日

i Origins、観ました


私の漫画の元担当編集さんだった方が、漫画の絵柄は”発明品”のような物だから、とおっしゃったことがあります。

天性の物であれ意図的にデザインを構築した物であれ、先人の誰にも”極めて”似ていず、しかも充分に魅力的な個性を持つ漫画絵を描ける方というのがいらして、例えば私的にはその代表は、高野文子先生です。

他にも漫画界にフレッシュな個性を運び込まれた作家さんは大勢いらっしゃいますが、高野先生の絵というのは私にはあまりにも鮮烈で、しかもその絵柄で語られる物語のいくつか、特に"春の波止場で生まれた鳥は”が大好きで、あれは人類の宝ではないかと感じるほど優れた”発明”だと、私は思うのです。

物語や映画や音楽にもそういうのってありますよね。

何かがベースになっているとか、何かからインスパイアされて作った、あるいは、作家さん自身は誰にも影響は受けていないのだが、過去の何かを思い起こさせる、という物で素晴らしい作品は沢山あるし、そういう作品の中に大好きな物も沢山あります。

実際私は、「根源的なところからオリジナルではない」ということは作品の良し悪しや優劣とは関係無いと思っているし、事実今の創作物の大半は、偉大な先人からの血筋をなんらかの形で受け継いでいるというのが、スタンダードではないかとも思います。

単に新しさと奇をてらって、唐突で、確かにそりゃあ個性的でインパクトはあるけれど、あんまり感動は無い、というような物よりも、なんらかの血筋は過去から受け継いでいるけれど、その理由がオマージュだったりリスペクトだったり、あるいは単に同じタイプの遺伝子や魂を偶然受け継いだだけで似ちゃっただけであるとか理由は様々ながら、真摯でなんらかの根拠に根ざした、心に深く届く作品の方が、私は感動するし尊敬も出来るのです。

だから、新しい、という事が七難を隠すと言えば、そうとも限らないのも事実だと思います。


しかしながら。

時に突然全く前例の無い、まさに神様からファースト・ハンドの恩恵を受けたかのような、根源的にオリジナルな作品を創られる方が、いらっしゃるんですよね。

音楽にも映画にも漫画にも小説にも、そういう作品て稀に発現します。

そしてそういう作品に出会うと私は、出会った自分までもが特別な幸運の恩恵にでもあずかったかのような、奇跡体験みたいな煌びやかな感動に包まれるのです。

この感動は、血筋や前例あっての、という作品から受ける感動とは、全く質の違う物だと私は感じます。

この感動は、大自然が稀に見せる奇跡の瞬間にでも巻き込まれたかの様なタイプの感動であり、地球生命体である以上、それがまるで遺伝子にでも食い込んで来て、その後の進化の礎にでもなっちゃうんじゃないのか、と感じるくらいの、大きな大きなインパクトだと感じるのです。

それが、自分自身の心の琴線にも深く触れる様な物だった場合は特に。


今回アメリカへのフライト中、私は珍しくすっごく退屈していて、機内エンターテイメントにもその退屈さを埋めてくれるような物も無く、とは言え自分自身が何かを生み出すようなプロダクティブなエネルギーも無く、創るよりは何かいいものを得たい、という飢餓感の中にいて、多分美味しいおやつでもあればそっちに集中するんでしょうが、機内で配られる食べ物はあんまり魅力的じゃ無くて、貰ったチョコレートやサンドイッチを、食べるあても無くリュックに放り込みながら、私は映画のザッピングをしていました。

いつもは、「観たいな」と思う新作映画がいくつかあって、それが機内エンターテイメントのメニューにあったりすると、ラッキー!なんて思って嬉々としてそれを観るわけですが、今回は新作映画の情報も知らないまま飛行機に乗ってしまったので、全くあてもありません。

いくつか観ては退屈して途中で切り上げ、また新しい作品を観てみる、という繰り返しの中で私はふと、もうちょっと注意深く選んでみようぜ、という気分になりました。

飛行機に乗るまでの数日間のスケジュールや出来事が慌ただしかったため、完全に怠惰になっていた私は、映画を選ぶ時もおざなりでいいかげんな感じで選んでいたのです。

というわけでキリリとふんどしを締め直し、映画紹介の短い文章をきちんと読み始めた私。それでもなんだかなーと思っていた矢先に、さっきからずうっとスルーし続けていた作品に目が止まりました。

なんでスルーしていたかと言うと、紹介写真がヒマワリみたいに見えたからです。(上の写真)

ヒマワリ、という花から想像する私のハリウッド映画への偏見は、ゆるくてのどかなファミリー感動物、という感じです。

ゆるくてのどかなファミリー感動物は、私の最も食指の動かない分野であり、全く興味が持てなかったわけですが、説明文を読んでそれがヒマワリの写真ではなく、人間の目の虹彩だということに、遅ればせながら気付いたのです。
そしてそれが、科学者を主人公にしたものだということにも。

ということは。
私の心にどストライクではありませんか。

タイトルは、"I ORIGINS"。

そして観始めました。

そして映画が始まった途端に、今までとはまるで違う引力にぐいぐい引っ張られる自分を感じました。

面白いことに、優れた作品という物は、例外無く俳優陣も魅力的なんですよね。

この映画も、ヒロインを演じている方が新人であまり名前の無い女優さんなのですが、彼女の、通常のハリウッド映画の美人タイプからはちょっと逸脱した容姿の魅力は、この映画のファムファタルにふさわしい、深い印象をくれるんです。

まずはヒロインの魅力だけでもグイグイ物語に引っ張り込まれる、というのは、やはり私にとっての特別な映画"ぼくのエリ"みたいでした。エリ役の女優さんと、この”I ORININS"のヒロインの女優さんのタイプは、ちょっと似ています。

物語を大雑把に説明すると、主人公は分子生物学者の男性で、彼は人間の目の虹彩に興味があって、ずっと目の研究をしています。

彼は無神論者なので、神の実在を語る人々がその証拠として、人間の目という奇跡的な存在に言及するから、その奇跡を科学で解き明かしたい、というのが研究のひとつの動機です。
優れた助手を得た彼は、目を持たないミミズなどの生物に目を与えることを可能にするという、ものすごい画期的な遺伝子的発見をして、有頂天になります。

そんな中彼は、パーティーで出会った不思議な虹彩を持つ女性との恋愛にはまってゆくのですが、その関係を通して、人間の目の虹彩が思いも寄らない、信じ難い様な事実を紐解いてゆく、という話です。

これは、話の内容、女優さんの魅力も素晴らしいのですが、映画の表現力がすごい、と私は感じました。

特にラストシーンの、ある子供のアップは、もう一生忘れられないのでは、と思う程美しくて、もうまさに、大自然の起こした稀な奇跡の渦中に居合わせた的大感動を、私に与えてくれました。まさにこれは、神様からのファーストハンドで創られた映画だったのです!

この物語は、言葉や台詞で語られている話を頭の理解で解釈するだけ、という見方をすると、多くの大事な物を見失います。

言葉で語られているその背後に、深い綾の潜んでいる映画なのです。

まるで映画のキーとなる虹彩と脳のシナプスの関係のように、表には出ては来ない大事な領域を、美しい映像表現で示唆していてそれが成功しているすっごい映画です。

こんな映画に飛行機の中で出会えるなんて、私は実にラッキーです。
これを見逃していたらと思うと、本当にぞっとします。

それにしても、こういう神からのファーストハンド的物語って、そもそも数学や科学や哲学や物理なんかを一生懸命研究している人が、その副産物的に発見する、ってケースが時々あります。
この映画もそうなんでは、と思うくらい、着眼点がすげえな、と思ったのですが、定かではありません。

しかし最近、科学者が人間の根源的な何かを発見してしまうかもってパターンの話に出会うことが多いなあ。(ホーキング博士の映画とかね。)

私のところにもそういう物語がファーストハンドで来てくれたら、スイーツ一生食べなくてもいいってくらいの覚悟で、一生をかけて描き倒すのですが。

スイーツくらいの覚悟じゃダメっすかね。

ヒロインの持つ印象的な虹彩

2015年1月22日木曜日

しあわせってなんだっけ


この日記は、たった今とても苦しい事に直面している、私の若いお友達に捧げます。



夢見ていた幸せが、思う様に展開しない時、思わぬ形で裏切られた時、そりゃあ絶望もするしこの世の終わりだって、思うのはわかる。


世の中には、若い女の子の理想の幸せ、という概念がいくらでも存在している。

今は多様性の時代だから、昔みたいに誰もが結婚して子供育てて、という形ばかりを願うわけじゃないんだろうけれど、日本は保守に傾いているという噂も聞くから、もしかしたらまだそれが、若い女の子の夢の典型なのかもしれない。

それとも才能を行かして生きる道を望む人もいるだろうし、その両立を目指す人もいるだろう。
いずれにしても、こんな風になれたらきっと幸せだ、という象が、あるに違いない。

お店を開くとか、有名になるとか、どこかへ移住するとか、夢の家に住むとか、色々あると思う。

そしてそれに固執して、がんばって夢を叶えようとして、すごくがんばっていたのに、そうじゃない結果が人生に現れたら、そりゃあ絶望もするだろうし、この世の終わりみたいにも思えるだろうし、すごく辛いだろうとも思う。

でもそれでもう終わりだ、って思っちゃったらさ、自分の人生が、かわいそうじゃない?

自分の人生は、人生そのものとしてのオリジナルの道を、脳で考えた理想の在り方とは別の次元で、粛々と展開しているんだよ。

私は最近、ホーキング博士の映画を観て、そのレビューにも書いたんだけど、あの映画は、人間の思考、なんていうちっぽけな条件付けされた想像力が理想と描く、もっと言えばこれなら問題無い、と信じる人生の形が、より大きな人生そのものの在り方からすれば、如何に浅はかでくだらないか、固執する価値も無い様な、意味無きシロモノかということを、教えてくれる映画だったんだよね。

ホーキング博士が何故あんな難病を患ってしまったのか、何故あんな悲劇に見舞われたのか、という問いと共に映画館に入った私は、博士の病がそもそも悲劇だなんて思っていた自分の浅薄さが、愚かで可笑しくて笑えて仕方ないっていう感じで、映画館を出たんだよね。

そして、宇宙の起源を紐解く科学者のホーキング博士は、そのことをとうの昔から知っていて、本当の意味でのヒト生命体の、生物学的起源としての"完璧"ってどういうことなのかを、深く納得して生きているってことを、あの映画は見事に描いていました。

これは安っぽいポジティブ・シンキング志向や「どんな事にも意味がある」みたいな哲学的な言葉で説明されるような、概念で語れる様なものじゃない。
人類という生命体が、どんな風に生きれば地球の生物として自然なのかを、博士は科学者として知っている、ということなんだよ。


人生というものは、自分の頭で考える理想とは、別の次元で粛々と展開されているんです。

もしも頭で考えてる理想について、あれ?いつから、どうして自分はそんなことに固執していたんだろう、という、ちょっとだけ謙虚な気持ちになって、それって本当に、幸せ?と問い直してみたら、もしかしたらその理想は、何の根拠も無い、何の意味も価値も無い、単なる幻覚だっていうことが、わかるかもしれませんよ。

そしてそんな事に固執するあまり、盲目的にそれだけを追い求め、傍らで粛々と展開している自分の本当の人生の流れが見えなかったとしたら、すごく勿体ないと、私は思うのです。

自分の思い通りになって欲しい、という気持ちはあるにちがいない。
それに向けて努力を続けるのも、悪かないと、私は思います。

だけどある日人生が突然思っていたのとは違う顔を見せて、それがすごい晴天の霹靂で、それですごくショックを受けて、もうどうしたらいいかわからなくなったら、その時こそ人生の本当の顔を、見る事が出来るチャンスだと思うんです。

自分の頭で考えていた理想は崩れた、じゃあ、だとしたら、どんな事を人生は、やろうとしてるんだろう、という好奇心を持つ、チャンスだと思うんです。

もしかしたらそれは、制限のある思考で作った理想なんかを遥かに超えた、もっと創造的でオリジナリティーがあって色彩豊かで、ずっと面白い世界かもしれない。

自分で思い描いていた理想を一旦諦めてみることは、そんな自由な可能性を人生に許す、チャンスなのかもしれない。

アメリカの精神医学では既に、人間の持っている、誤ったアイデンティティが、全ての苦しみの源だって言うことを言い始めています。
これは科学者ホーキング博士が言っていることと同じだ。

理想に向かって邁進することはいいことだし、その努力が実を結ぶという幸福もある。

だけどもしも、自分の理想が、叶わないことで今、自分を苦しめているんだとしたら、その理想ってやつを洗い直して、正体を直視することも必要なんじゃないだろうか。


自分の理想って、本当にそれなの?

いつからそれが理想だって、信じていたの?

その理想と幸せのスタイルは、本当にその彼と、分かち合う物なの?

今が本当に、それが叶えられる正しい時期なの?

何故自分は、それが叶えられなければ人生に意味は無い、おしまいだ、なんて信じ込んでいるんだろう。


私もホーキング博士同様に、ずいぶん早いうちから、理想というものを思考する生き方をやめてしまったので、それを頑張っている人の気持ちが今ひとつわからないってのがあるように、理想を実現するってずっと頑張ってる人には、こんな文章読んでも全然ナンセンスかもしれない。

だけどもしも、自分の生き方に裏切られて、もう生きる道が無い、ってとこまで行っちゃったんなら、死を選ぶ前に、自分が固執していた理想という物を、ちょっと謙虚な気持ちで洗い直し、全くそれを持たない状態でただポカンと、人生の流れを、理想という色付きのフィルター無しに、眺めてみる時間を持ってみたら?と私は提案します。


何才でこれが起こって、何才でこれが結実して、今はこれがこうなっていなければならない時期で、女の子にとってはこれが幸せで、という考え方のかわりに、ただじっと耳を澄まして、人生の流れの水音を聞いて、次は人生は何をしようとしているの?夢が叶う時期は本当は今じゃないの?本当は違う方向に向かって流れているの?そっちに方向を転換すると、もしかしたらもっといいの?と、少し謙虚に、河岸に座ってみたらどうでしょうか。

疲れ果てているのなら、次の一歩を踏み出す前に、ちょっと河岸で休みながら、自分がしがみついていた理想というものが、果たして自分に良い物を、本当にもたらしてきたのかを、観察してみたらどうでしょうか。

そしてその理想という考えを一旦地面に置いて、とりあえず置いたままの軽い体で、しばらく静かに、好奇心だけ持って、ゆっくりと歩いてみたらどうだろう。

どうせ最後にはみんな死んじゃうんだし、今はまだそう死へと焦るのはやめて、しばらく人生そのもののやり口を観察してみたらどうだろう。

頭の中でうるさく叫んでいた理想の幸せの実現ばかりに集中していた耳と目と心を、傍らで粛々と静かに流れている人生そのものの存在に向かわせて、そしてしばらくその流れの在り方を、眺めてみたらいかがでしょうか。

それで救われるのか、と言えば、理想に固執している限りは救われないと思うけれど、その代わりに全く違う、もしかしたら自分が頭の中の理想に集中していた間、ずうっと勝手に展開していた人生そのものの、ユニークなやり方の相棒になれるかもしれません。




最近の納品

 最近またニヒル牛2に追加納品しました。

濃紺オーガニック長袖TシャツMサイズにウサギのイラスト。別の作家さんの作品、白いふわふわスカートと合わせたらとても素敵でした。

キャンバス・トートに鳩のイラスト、あと、白いブロードシャツにも鳩のイラスト。

の下記2点は早くもSOLD OUTです。ありがとうございます。




2015年1月7日水曜日

静かな午後





友達がやっているアート雑貨店ニヒル牛に、最近10年振りくらいに作品を納品して、その一部がちょっと壊れていたので、今日の午後、直しに伺った。

小雨のちらつく薄暗い午後にニヒル牛のドアを開けると、そこには今日の店番でありニヒル牛の作家さんでもあるナナコさんがいらした。

店主で友人のあるくんが店番の時にしか最近行かなかったので、私にとってのニヒル牛は、あるくんの醸し出す徹底的に陽気な、とは言えそれはラテン系的陽気さとも違うのだが、なんというか、農耕的な、ふところの深い陽気さ?みたいなわけのわからない物に一瞬で包まれる空間だったのだが、今日のニヒル牛は、まるで違っていた。

柔らかい、草原に潜む小さな妖精が唄っているような、ひそやかな女性ヴォーカルの歌声が流れ、店番のナナコさんが、多分納品に来ていたのであろう若い女性作家さんと(後にそれが私の大好きなビーズ作家ココマコムーンだったと知るのだが)優しくお互いの作品を讃え合う様な、きれいで可愛らしい会話をしていた。

窓から差し込む白い光、細やかに展示されたアート雑貨の数々。
カフェになっている店の角のテーブルにつき、縫い物の道具を広げた頃には、私は完全にその空間の中にくつろいでしまっていた。

音楽は何故かアイルランドかスコットランドあたりの、曇った空を写す海の景色を思い起こさせる。
まるでお店自体が、海辺の寒村の小さな丘の上にでも建っているような錯覚を起こさせる。

私はしんとしていることが好きなので、普段自分の部屋で音楽はかけない。
私にとって音楽とは、聴きたいと思った時に、聴きたいと思った物を、猛烈に集中して聴く物であり、日常的に部屋にかけっぱなしにしておくようなものではないのだ。

だけど今日、このニヒル牛でかかっている音楽は、静けさを、静けさ以上に静かにしてくれている。

深く心に沈殿するような、頼り無さげな、それでいて芯の強い歌声。
その声に乗せて時折聞こえる、ナナコさんと店を訪れるお客さんや作家さんとの、穏やかなお喋り。
自分の心の内と、しん、と繋がっているから、そこで交わされる会話は、決して表面的な社交ではない。とりあえず相手を褒めておけば角が立たないっしょ、なんていう軽薄なものではないのだ。

静けさというものは、そんじょそこらの若い娘が醸し出せるもんじゃないんだよ、と私はかねてから思っている。
どんなに見せかけを静かに装おうと勤めても、心の中にざわつきがあれば、それが表に現れる。
街で感じる快適ではない喧噪の多くは実際の声なのではなく、実はこの、心のざわつきが醸し出すエネルギー騒音が大きいのだと私は感じる。

期せずして、ナナコさんが私に「おもしろいですよ」と言って持ってきてくれたのは、ビーズ作家ココマコムーンが、隣近所の騒音にたまりかねて田舎に引っ越すまでを綴った、壮大なる旅の読本だった。
ふむふむ、ココマコムーンさんも静けさが好きなんだね。
わかるよ、ココマコさん自体も、すごく物静かな優しい感じの人だもんね。
文章ははっきり言って過激だけどね。
わかるよ、平和な静けさをわかってくれない環境にいると、静けさの炎で全員焼き殺したくなるんだよね。ふ、ふむふむ。。。。。。

まあ、それはそれとして。


今日の私の午後は、海辺の寒村に佇む小さな、けれど気の効いたアート雑貨屋のカフェの片隅で縫い物に費やされるという、極上の時間だった。

縫い上がったら作品を展示棚に戻して、小さな扉を開けて帰ろう。
扉を開けると表には、曇り空色の水を湛える海。
カモメが一羽岩の上で、打ち上げられた小魚を食べているかもしれない。

妖精みたいに人の心の気配をそっと汲み上げる、ナナコ店番の心地よい気遣いと静けさとそして、ナナコ店番のハートから聞こえてくるような、不思議な歌声は名残惜しいけれど。


ところで、この記事を書いた後にその歌声の主、イギリスのアーティスト ヴァシュティ・バニアンについてちょっと調べたところ、彼女は鳴り物入りでイギリスの音楽シーンにデビューしたもののそのビジネスに嫌気がさし、パートナーと共に、ななんとスコットランドのスカイ島に移り住んで音楽の世界から消えてしまった、とあったではありませんか。

スカイ島というのは私の長年の友人であるマルコムの生まれ故郷で、いつも話を聞かされている、私にとってはある種 馴染み深い島なのである。
そして彼からスカイ島の話を聞く度に私が思い浮かべる景色こそが、まさに今日ニヒル牛の中で見ていた景色、そのものなのです。

だからこのブログの写真に、そのスカイ島の景色を、載せておきます。

2014年12月29日月曜日

鳩のキャンバス・トート


ウサギに飽きて来たので、鳩を描き始めました。

このキャンバス・トート、私はかなり気に入っています。

背面と前面の絵が微妙に噛み合ないのは、時の流れを現しているからです、と相変わらずうそぶく私。。。。。。。




来年1月4日、西荻窪のニヒル牛2での新春初売りバーゲンにて販売致します。

ちなみにウサギのトートはこちらです。












2014年12月24日水曜日

エシレに並ぶ

エシレの袋とクリスマス・ツリーの記念撮影

スリリングな体験だった。

友達のあるくんがエシレのバターケーキ"ガトー・エシレ・ナチュール”を食べてみたいと言い出した時から、友人達との間でいつしかエシレ・ケーキの会をやろうという話が盛り上がり、それが本日、12月23日天皇誕生日の休日、クリスマス・イブの前日のホリデーとなったのだ。

わざわざそんな日を選ばねばならない程の、多忙なメンバーではない、と思う。

ただでさえ一日15台しか販売しないケーキ、開店直後に即座に売り切れると兼ねてから噂の入手困難なケーキを、なんでクリスマス・イブの前日の休日なんていう特別な日に食べようということになったのか、どうにも気がふれているとしか思えない決断なのだが、とにかくそうなったのだ。

購入役はわたくしである。

なんでかって言うと、エシレのあるブリック・スクエアは私のシマなのであり、今回集る誰よりも私には地の利があり、うちからもすぐに着くからだ。
私は別にエシレが無くても、ブリック・スクエアを含める丸の内界隈が好きでよく寄るので、ケーキの為に並ぶという生まれて初めての試みでさえ、なんとなく当日の様子が透けて見えるような気がするくらい、大変馴染みの場所なのである。

エシレが開店した当時は、確かにガトー・エシレは人気があったようだが、今はそんなでもないでしょ、と私は思っていた。
現に平日の午後とかに寄ってもまだ売ってる時もあるしね。

いくら12月23日の休日ではあっても、みんなクリスマスにはもっとクリスマスらしいケーキを選ぶんじゃない?年中売ってるガトー・エシレには、そんなに集らないんじゃない?と。

10時開店のこの店に、大体30分くらい前に着く様に計算して、それでもやや早めに家を出た。

するとホームに、何故か臨時列車が入って来た。
乗ろうと思っていた電車の15分程前に出るやつで、時刻表には載っていないまさに臨時の電車だった。

それに乗るとエシレに9時頃着いてしまい、1時間も立っていなければならないことになる。
天気がいいとは言え冬の寒いさなかに1時間も立ってなきゃならんのはイヤだし、他に誰もいなかったらと思うとなんとなく恥ずかしい。

だけど折角いいタイミングで入って来た電車である。
私はまずそれに乗って9時にエシレに行き、誰もいなかったら30分くらい近くのスタバでまったり休んで、それからまたエシレに行こうと思ったわけ。

9時ちょっと過ぎに東京駅到着。
ここまで来た時点で、脚が勝手にずんずんエシレへと向かう。
もしこのまま並ばねばならないとしたら、先にスタバで何か飲み物でもげとした方がいいんじゃないのかな、と思ったのに、脚が勝手にずんずんエシレに向かうので、歯向かわずにそれに任せた。

地下のエスカレーターを昇ると、いつもの素敵なブリック・スクエアの景色が広がる。
ここはロンドンの町中にある小さなオアシスみたいな公園で、大人っぽい庭デザインがいつも素敵だと思うのだ。
広場の真ん中には”不思議の国のアリス”をテーマにしたクリスマス・ツリー。

女性がひとり、そのツリーの写真を撮っていたので私も、と思ったのだが、何故か脚が止まらないので、歩きながらのこんな写真になってしまう。。ぶれてますがな。




そしていよいよ公園を横切ってエシレを目指すと、すぐにツリーの向こうにお店が。


この時点で私は、全てをあきらめました。。。。。。。。。。。


だって、既に店の前には黒山の人だかりが。。。。。。。。。。。。

甘かった。。

わ、私は人を、世間というものを、まるでわかっていないのでわ。
心理学をアメリカで、7年も学んだのにかよ!?


世間の人というものは、クリスマス・イブの前日のホリデイに、朝早くエシレに並んでガトー・エシレを買うものなんだよ!
あーーーーーーーーーーーーーー。。。。。。。。


店に着いてから、ざっと並んでいる人の数を数える。
既に20人はいるじゃない。
ガトー・エシレは一日15台限定。
既に負け犬決定である。

どうしよう、と思ったが、私はとりあえず並ぶ事にした。
その時点で9時15分。
ツリーの写真を撮っていた女性も現れ、私の数人後ろに並んだ。

まさかこの、ツリーの写真を立ち止まって撮ったかどうかで勝敗が分かれるとは、この時には思いもよりませんでした。
そして恐ろしいことに。

10分も経たないうちに、私の後ろには長蛇の列が.......................
ブリック・スクエアの敷地を超えて通りの向こうへと、建物に沿ってずうっと列は伸び、最後尾はもう見えないくらいに。もう大体40人か、もっといる。

こ、この人たちは。
何故並んでいるのか。。。

ガトー・エシレは15台しか無い、と色んなサイトで高らかに謳われているのだから、もう絶対に、どう転んでも買えないのは明らかなのになんで並んでいるんだよ、と思いつつ、同じ穴のムジナの私だって何故か並んでいるのだから人のことは言えない。

しかし私が並ぶのには理由があった。

私の前に並ぶ人数が15人を超えていたのは明らかなのだが、その内の数人は、友人同士やカップルで来ているグループなのだ。
そのグループが、もしもグループで一個、つまりひとりが一個ずつ買わなければ、もしかしたらギリギリで私にもチャンスがあるのかも。
そんな蜘蛛の糸のような確率に、私は賭けてみることにしたのである。

幸い私が並んでいる位置からはガラス張りの店内がよく見えて、オーブンからどんどん出て来る焼き菓子が陳列棚に並ぶ様子や、お店の人たちがてきぱき働く様子が見てて気持ち良くて、全く退屈しない。

北風の通うビルの谷間ではあったけれど、いつもは忌々しいと思うくらい分厚いコートを着ていたおかげで、寒さも全く感じない。

時間は思っていたより早く流れ、開店時間の10時はすぐに訪れた。


それにしてもアレですよ。

私はてっきり、ある程度の時間になったらお店から、ここまでの人しかガトー・エシレは買えないよ的お知らせがあると思っていたのだが、そういうことは全く無く、速やかにお店の扉は開いた。大体6人ずつくらいしかお店に入れてくれないので、それでもまだ待たねばならなかった。

友人同士で来ていた人たちが、ひとり一箱ずつガトー・エシレを買っているのを見て、さすがの私も覚悟を決めた。
代替品を考えた時、もうこの際だからいちまんえんのブッシュ・ド・ノエルでもいっか、とも考えた。
だって一時間も並んだんだぜ涙。

三回目に扉が開いた時に、私を含む一塊がやっとお店に入れた。

クロワッサンや焼き菓子のいい匂いの中で、お店の人がひとりひとりから注文をとってくれる。

この段階での緊張は、はっきり言ってピークだったね。
この時の気持ちは、どんな言葉でも言い表せないね。


並んでいる間は、とにかくこんなに大変なのはひとえに日付のせいだけで、平日のなんでもない時なら、こんなに大変なわけはなく、今日はダメでも後日仕切り直せばいいやん、なんて思って結構気楽だった。

しかしいざ、一時間並んだ後に、しかも後ろに並ぶ長蛇の列を見てしまった後に、いよいよ注文をとってもらえる、という瞬間が来た時、私の心は瞬時に、ここで買えないとわかったら、私結構凹むよ、と強く感じたのである。

結構どころか、立ち直れないくらい凹むかも。

なんだか、体がフルフルと震えるのを感じる。
こ、怖い。
逃げたい。
買えない、という現実に直面するくらいなら、全てを投げ出してこの場から立ち去った方がずうっとマシ。

そんな衝動に襲われながら、遂に私の番が訪れ、私は、私は遂に店員さんに、震える声で聞いてみた。


が 、ガトー・エシレは、まだありますか?

はい♩


なにをーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっっっっっっっ!!!!???

あ、あ、あ、あるのっっ!?

が、ガトー・エシレがまだ!?

ガトー・エツレとかいうバッタもんじゃなくっっっ!???


渡された番号札は17番。

あれ?

これ、番号的にはアウトなんですけど。

見ると、私のうしろ、20番目までの人にはガトー・エシレの番号札を配り、それからあの地獄のアナウンス、ガトー・エシレは売り切れですー!が聞こえてきたのだ。


これは。

恐らく。

なんらかの理由で、今日は20台売ってくれるのだろう。

よくわからないままレジに進んで番号札を見せると、ガトー・エシレ一台ですね、とにこやかに言われて会計が行われる。

やった。

よくわからないけれど、私は目的のケーキを手に入れたのだ。

嬉し過ぎて、感情が無い。


それにしても。

エシレ、並んでいる人たちに、ここまでしかガトー・エシレ買えませんインフォメーションも無ければ、今日は特別に20台売りますよ的連絡も無く。

淡々と静かに、ただその日の自分の作業を行う店員さんたちを前に、客は道しるべの無い森の中の迷い子のように、買えるかどうかわからないケーキのために並ぶだけ。


美しかったよ!


昨今、何かと過保護に先手を打つサービス業が多い中で、こうまでシンプルに、客が自分の身の振り方を自分で決めねばならない、このシステム。

皮肉じゃなくね、私は、すごく綺麗だと感じたんだよね。

ここまでシンプルに業務して、それで文句を言う人もいない。

こういう環境だと、野生の勘が培われるんだよ。

わたしたちはただ自分の責任で、並び続けるかどうかの覚悟を決めるだけ。

それでいいんだよ。

ケーキ屋さんの仕事は、美味しいケーキを丁寧に作るだけだ。
その美味しいケーキをありがたがって並ぶお客の采配までは、 しなくていい。

十分に美味しいケーキを、高いクオリティで作り続けてくれれば、それでいいんである。

しかもどういう決断なのか、特に高らかに宣伝もせずに、いつもより5台も多く出してくれるなんて、粋じゃないですか。


私は買えたからそう思えるだけかもしれないけれど、買えたからこそ、正常な感覚で現場の潔さを感じられたのかもしれないよ。

そんなわけで、無事に任務遂行。

友人らの待つ西荻へ、美しい青い袋を持って帰れる、この喜びよ。

エシレ、ありがとう!

それから、何故かタイム・スケジュールとは違う、15分早い電車を出してくれたJRの協力もね。
あれに乗らなかったら、はっきり言ってアウトでした。

私が買ったガトー・エシレ・ナチュール。ニヒル牛2カフェの赤いテーブルによく映えます。




2014年12月20日土曜日

鳥Tシャツ デビュー


うさぎTシャツに続き、鳥Tシャツも出来ました。

創作というものは、実に面白い物です。

Tシャツに直に絵を描きたいな、という気持ちは軽くずっとありました。

しかし今回描いたウサギと鳥のデザインは、Tシャツとは全く違うプロジェクトの為にデザインし、なんとなく先延ばしに、そしてもしかしたら没かもと思っていたキャラなのです。

そしてTシャツを描き始めた時は、まさかそのデザインがこうして具現化するとは、全く思っていなかったのです。
更にこうしてTシャツにしてみると、このデザインはとてもTシャツ向きだったなと感じます。(当社比)

この、実用品に直に絵を描きたいよプロジェクトは、この後エコバック的な物に植物なんかを描いて終了する予定ですが、なんとなく思いついたこの経験は、私にとってはとてもよかったなと感じます。

何故なら、自分がどんな素材に何で絵を描けば最も楽しいのか、という事が、はっきりとわかったからです。

勿論、長年漫画を描いてきたのですから、漫画を描くのも大好きです。

でも、そもそも油彩画から自分の創作を始めた私にとって、漫画というのは、自分の絵画を適用する表現手段ではない、というのが正直なところでした。

これは、たまたま私が、漫画に必要とされる条件下で絵を描く事が大変苦手だということでの個人の個性から言えることであり、漫画で素晴らしい絵画表現をされている方も沢山いらっしゃいます。

しかし私ははなから、白黒の小さな画面で自分の画才が100%開くことは出来ないと知っていたので、漫画については全く絵画的アートを追求してはいませんでした。
これは私の漫画をご存知の方は、皆さん感じておられる事だと思います。

私の漫画絵は、ひとえに下手、につきるのです。うがーっ。

また、色彩に強い執着を感じる私にとって、人気が出ないとカラー・ページなんかやらせてもらえない漫画の世界で、自分の絵画を適用する気は、はなから無かったとも言えます。私は自分の描く漫画には、絵画とは全く別の物を求めていて、それはそれで満足なのであり、これからもそれは変わらないと思います。

そして今回、布物に絵を描いたことで、私の中での油彩画への想いが限りなく再燃してきました。と言うか、私はそもそも多分、キャンバスに、油絵で絵を描く人間なのです。
このことにシンプルに気付けた事が、大変大きかったのでございます。

そういうわけでこの作業中、久々にキャンバスを沢山注文しました。
この実用品プロジェクトが一段落したところで、油彩画へと仕事を移してゆこうと思います。
そしてこの油彩画が、長く待っていてくださっている方に報いる為の、大切な仕事の入り口となってゆくでしょう。

いやあ、ありがたい。

ほんの些細な思いつきを行動に移した事で、今まで茫漠としていた景色が、くっきりと見えてきたわけです。

物事は、とにかく始めてみないと、何を運んで来るかわからないもんですな。