先ほど、さほど親しくも無い老若男女の多数同席する席で、まあはっきり言ってしまえば陶芸のクラスで、同じ駅を利用しているらしい世代の異なる男女が、クッキー売りの話をし始めた。
それはふたりの最寄り駅の駅前で、クッキーを売る女性がいる、という話で、二人ともその席で初めてお互いがそのクッキー売りに、随分前から多大なる関心を寄せているという事を確認し合ったらしく、大いに盛り上がっていた。
つまり二人の利用する駅の脇の道で、ひとりで手作りクッキーを売っている割と若い女性がいるそうなのだ。
私はその話を聞いた時すぐに、ひとりでジャムを作って売っている私の友達であるエバジャムのエバを筆頭に、自分の工房で質のいいこだわりの菓子やパンや色んな美味しい物を作っては自分の足で売り歩いている頼もしい知人たちの事を思い出して、わあ、いいなあ、私も買いに行きたい♬と思った。
しかしふたりの話し振りはそういうハッピーなノリとは全く異なっていた。
あんな所でたったひとりでクッキーを売っているなんて、大丈夫なのか。
子供を抱えたシングルマザーかなんかで、余程の事情があるんじゃないのか。
売り場に許可が必要なんじゃないのか、無断でやっていて大丈夫なのか。
偶然出くわしたけど、どこどこの路地からとぼとぼ出て来て、なんだかミジメで悲しかった。
包装なんかも素人っぽいから、クッキーも自分のみすぼらしい台所で作ってるんじゃない?
という具合に非常にペシミスティックで、という事はそのクッキー売りは私の思い描いているような、エバジャムのエバみたいな、明るくて馬鹿っぽいけど作る物には徹底的にこだわるアーティスト系行商人とはちょっと違うタイプなのかもしれない、と思い始めた。
その後もふたりの悲観的な噂話を聞く内に、私の中には明確な、そのクッキー売りのイメージが出来上がった。
みすぼらしい服装と容姿ー何故か水色の薄汚れたカーディガンに痩せた肩と腕。
化粧っ気の無い、くすんだ不健康そうな顔色。
生活に困窮している感満載の暗い不幸オーラ。
もしかしたら頭が少しおかしくて、クッキーって言ったって自分がそう思っているだけで、何を材料にしているのかわかったものではない何か恐ろしい物を売っている。
うわごとみたいな物を呟きながら髪を振り乱してあちこち徘徊し、気の向いた場所でクッキーの形をしたそうでない物を売る怪女。
そのクッキーは多分危険だ。
まあざっとこんな感じで、平成の口避け女みたいな妖女の売る恐ろしいクッキー、というイメージが、あっという間に出来上がってしまったのである。
というわけで好奇心を押さえ切れなくなった私は、已然として不気味で悲しくみじめなクッキー売りの話で盛り上がる二人を尻目に、I Phone で検索してみた。
最寄り駅の名前、駅前、クッキー売り、
このみっつだけで、すぐにその女性は検索に上がって来た。
写真があったから、この人ですか?と二人に聞いてみたら、「あっ!!!!そうそうこの人!!!」どうやって見つけたの!?すごーーーーい!!!!!!」
と、更にものすごく興奮する二人。
私はその二人に、そこに書かれているクッキー売りの正体について、読み上げてあげた。
その人は菓子職人。
自宅を改造した工房で、こだわりの材料でお菓子を作っている30代女性。
始めは夫の作る手作りパンをふたりで売っていたが、夫のやっているパン屋が忙しくなったから、今はひとりで、時間と曜日を決めて自作の菓子を売っている。
かいつまめば以上の様な情報が、可愛らしい明るい色の縞縞パラソルの元、ワゴンに広げた様々な種類の菓子を売る、白いコックさん帽とコックさん服に身をつつんだ、可憐な若い女性のほのぼのとした写真と一緒に載っていた。
つまりそのクッキー売りは、最初に私が思い描いたエバジャムみたいなアーティスト系菓子職人に他ならず、頭がおかしいわけでもウワゴトを言いながら徘徊しているわけでも、無いって事です。
この現実を知って二人は大変驚いていましたが、二人の驚きは、彼らが何ヶ月も心に持ち続けていた謎を、私が目の前であっという間に解いてしまった事への感動へとすぐに移行してしまい、如何に自分らが無責任なイメージを、可愛いクッキー屋さんに貼付けていたかなんて事を反省するつもりは、毛頭無い様子でした。
それにしても何が恐ろしいって、噂していた二人の中にクッキー売りにまつわる共通の悲しいストーリーがあったせいで、それを聞いた私が、現実とはかけ離れたイメージを持ってしまったと言う事だ。
こういう、自分の中にある確固たるストーリーのフィルターを通して現実を認識して解釈する事を、心理学では"転移と投影"と呼ぶ。
投影というのは主にこの話の様に、自分の中にある、ある種の信念や概念を、現実の出来事や人物に投影してしまう事によってありのままが全然見えてないケース。
転移は主に、自分の中にある、ある種の感情や思い込みを、あたかも他者が持っているかの様に感じる錯覚の事なんかを言う。
転移で良くあるのが、自分がAさんとの間で起こった特定の出来事に関して何らかの後ろめたさや罪悪感を持っている時に、Aさんが"その一件で"自分を怒っている、と思い込んでいたりする事。
もっと巧妙なレベルでは例えば自分がBさんの事を敬遠しているのにそれには気付かず、Bさんの方が自分を敬遠している、と思い込んでいたりするケースだ。
いずれにしてもこの転移と投影は、人間関係における殆ど全ての悪循環の源だと私は思っているので、普段からなるべく意識的でいたいと個人的には思っているだけに、今回の様なクッキー屋の件は非常に心に引っかかる出来事であった。
私とて二人の話を聞いた当初の時点で、すぐに友達のバカ明るいエバの顔を思い出したのなんかは、典型的な投影の始まりの瞬間で、その後、もしどんなに二人の悲しく淋しい話を聞いてもそのバカ明るい印象を頑固に変えない場合などは、自分に要注意である。
そういう態度は、自己の投影(ストーリー)との一体化と呼ばれ、そういう態度をする人は、現実を、自分の許容する概念のレベルでしか捕らえようとしない自動制御システムが脳に付いているので、どんなに何かを説明しても、絶対に正しく解釈してくれなかったりする。そしてその歪んだ情報を他者に伝授したりして、おかしな出来事に発展したりするのだ。
今回は私の印象の方が現実のクッキー売りに近かったのだけれど、でも実はその影に、この二人が感じていたような陰惨な現実が、あるかもしれない。
だとしたらしょっぱなにエバの脳天気な顔をそのクッキー売りに投影した私が、間違っていたという事になるんだから、自分の印象にすがりつき続けるのは、非常に無駄な事だ。
もしも噂話を聞くんなら、その話がどんな場合でも話し手のストーリーのフィルターを通過している、という事を心のアンカーとして持っているべきだし、噂話をするんなら、自分がどの程度ストーリーのフィルターを通して出来事を認識し話しているかを、出来る限り自覚しているべきだと私は思う。
そうでないとこの可愛いクッキー売りについて、いつの日か駅前の気のフれた妖怪女としての噂が轟き、誰も彼女からクッキーを買わなくなってしまう、なんて事にも、なりかねないのですから。
2016年11月27日日曜日
2016年11月18日金曜日
発達心理学によるプロファイルonニーガン
最近、ハーバード大学児童発達研究所から、幼児期の体験と脳のニューロン結合の密接な関係に関するレポートが発表されました。
既にこれをコロラドの学校でずうっと学び、また臨床的な解消実績も数え切れない程体験している私にとっては耳新しい情報ではなかったのですが、ハーバード大学のような権威がそれを言い出せば信頼性が高まり、今後様々な一般的な心理療法にも応用出来るようになるかもしれず、ようやくの一歩前進だなと感じました。
この、脳の80%の成長が完成される生後三歳までの幼児脳の発達をベースにした心理学と心理療法は、非常に実用性が高く正確だと私は思います。
ニューロンの結合、という実質的な結果によって生じる学習認識という物は、つまりほぼバイオロジカルな現実であり、外見が太っているか痩せているか、等に等しい正確さで、その人の心の癖を、情報として与えてくれるのです。
何度かブログにも書きましたが、このニューロンの結合による深いレベルでの学習認識は、体形や姿勢にもあからさまに反映されているため、プロファイリングにも有益です。
アメリカの犯罪ドラマなどを観ていると、俳優さんなり作り手の方が実によく心理学を学んでいるのがわかります。
ニューロン結合のような進んだ分野かどうかは別にしても、犯人の表情や犯行の手口に心理プロファイル的なズレが無く、リアリティを感じさせるなと感じる物が多いのです。
表面的な言動等の辻褄合わせにとどまらず、よりディープなレベルで、例えば眼差しやふとした仕草なども合わせてそれを演じられている俳優さんを見る事も多く、そういう時には鳥肌物の感動を感じます。
例え心理学の知識の無い人でも、人間という物は現実の人間関係の中で様々な情報をキャッチしているのですから、そういったディープで詳細な演技を見れば、視聴している誰もが心の底にある、"真に迫る"、をキャッチする事が出来ると思うのです。
というわけで。
テレビ・ドラマの話になりますが笑。
沢山の方が夢中になっていらっしゃる"ウォーキング・デッド"を最近私も見始め、そしてあのドラマの中には危機状態の中でおかしくなっちゃってる人間が沢山出て来ますよね。
今まで大抵のドラマ内悪人は、上記のプロファイル的見解からいろんな分析が可能だったのですが、あのドラマに出て来るニーガンだけは、どうしても理解出来ないのです。
故に私は、初めて犯罪者に、純然たる憎しみを感じる事が出来ているという、希有な体験を今現在しています。
発達心理学やニューロン結合の様な物を臨床的に知っていると、自分に直接迷惑がかからない限りは、悪人が全部幼児の姿や顔に見えてしまって中々怒りや憎しみに埋没出来ない物なんですが、あのニーガンだけにはまったくもって、幼児期のトラウマが原因であんなに憎たらしくなっている、という系譜が見えないのです。
行動そのものを見る限りにおいて、私の知るレベルでの現実世界の有名人でニーガンに最も近いのは、北のパタリロ将軍だと思うのですが、北のパタリロ将軍とニーガンには根本的な違いがあります。
北のパタリロ将軍には明確に、"自閉期の傷"と私たちが呼んでいるトラウマを現す外観があります。
自閉期というのは生後三ヶ月までの、まだ生まれたての非常に繊細な時期で、この期間にうまく保育者の保護を得られないと、他者や環境への不信と恐怖から、非常に閉鎖的で冷酷な心を持つ可能性があるのです。
お腹が空いているのにすぐにミルクが来ないとか、抱いてほしくて泣いているのに放置された程度の体験が繰り返されるだけでも、他者への共感性の欠如した人間不信人生不信的学習認識を獲得してしまう可能性があります。
現在のパタリロ将軍の持つ痛ましい、また他者への冷たい眼差しや赤ん坊の様な体形に、その育ち切っていない生後三ヶ月の心が非常によく反映されているのです。
恐らく彼は、充分な愛情と安心感を乳幼児期に体験出来ないまま成長したのでしょう。
しかーーーし!!!!
ニーガンはどうでしょう。
ニーガンの容姿は、非常によく育っていますよね。
もちろんこれには、ニーガンを演じている俳優さんの要素が多分に影響はしてしまいます。あの俳優さんは恐らく、おおらかで愛情深い保育者の元、ニューロンの結合が健康的に成される程度に十分な安全性の中で、育った方なのでしょう。
年齢に相応しい成熟した容姿と貫禄、萎縮や緊張を感じさせないおおらかな四肢、実際のところ、別のドラマなどで彼を拝見すると、愛情深い表情を無理無く演じられていて、バランスのとれた心の健全さを、とても感じさせてくれます。
その彼があのニーガンを演じているわけですから、実際のプロファイリングに合わないのも当然と言えば当然なのですが、私の臨床経験上、現実にああいう、見た目は立派で発達心理学的にも問題無さそうに見えるのに、なんだかおかしい、という人が、いない事も無いのです。
そういう前提の元で私は、一生懸命ニーガンを観察しているのですが、今のところまったくもって、"トラウマによるニューロンの結合不備が原因で悪くなっている"という印象を、持てないでいます。
ガバナーは簡単でした。だからガバナーを憎む気持ちには、私はなれませんでした。
でもニーガンは。
ニーガンには、人に暴力を振るう時、眼差しの中に、冷酷な喜びや微かな恐怖や静かな興奮や怒りなどが、無いのです。
非常に静かな、穏やかな眼差しで、人を酷い目に合わせています。
これには、無意識下のニューロン結合不備つまりトラウマが全然活性化されていない、つまり、トラウマを原動力にはしていないな、という印象があります。
ニーガン役の俳優さんが大根なのでしょうか。
そうは思いません。
何故なら、ニーガンには安っぽい表面的な悪魔的表現も、無いからです。
少なくとも言えるのは、ニーガンは確信をもって、安定した心からあの悪事を働いているという事。
子供時代に得られなかった何かの代償を求めてとか、何かへの憎しみや復讐とかの、代替行為ではないということ。
それを非常にうまく、彼は演じていると思うのです。
もちろん今後、ドラマの中でニーガンの背景が描かれる事もあるかもしれません。
もしもその中で、過酷な幼少期を経て、のような話があった場合、彼の場合はそのトラウマがあまりに深く、脳自体に損傷あるいは変質を負っているレベルの、重傷なケースだという事は確かです。
ところでウォーキング・デッドには、リックというリーダーがいますが、ニーガンはリックのナルシシズムを、執拗に攻撃していますよね。
あれを見ていると、ニーガン本人にも自己愛性のトラウマがあり、同族嫌悪みたいなもんがあるんじゃないか、とも思わせるのですが、しかしここにも私は、ニーガンがトラウマから、リックをやっつけているわけではない、という印象があるのです。
単に、まるで神の鉄拳のように、リックの肥大したナルシシズムに対して、自覚しろ、反省しろ、屈しろ、とやっているように見えてなりません。
一体ニーガンて、なんなんでしょ。
原作の印象は、テレビのニーガンとはまるで違うし、色々な理由から辻褄の合わない事もあるのかもしれませんが、例えそれがフィクションであっても、創作物には時に、何かおおいなるものの意図が、降りている場合があります。
だからそれがドラマの中で暴走するフィクションな存在だからと言って、作り事では済ませない事もあると私は思うのです。
特にドラマ版ウォーキング・デッドのニーガンの様に、心理学的な面から見ても謎めいた存在の場合、何か注目に値する存在の意味が、あるように感じてならないのです。
ですので今のところものすっごく憎たらしいニーガンですが、まあ興味深く見てゆきたいなと、思うのであります。
既にこれをコロラドの学校でずうっと学び、また臨床的な解消実績も数え切れない程体験している私にとっては耳新しい情報ではなかったのですが、ハーバード大学のような権威がそれを言い出せば信頼性が高まり、今後様々な一般的な心理療法にも応用出来るようになるかもしれず、ようやくの一歩前進だなと感じました。
この、脳の80%の成長が完成される生後三歳までの幼児脳の発達をベースにした心理学と心理療法は、非常に実用性が高く正確だと私は思います。
ニューロンの結合、という実質的な結果によって生じる学習認識という物は、つまりほぼバイオロジカルな現実であり、外見が太っているか痩せているか、等に等しい正確さで、その人の心の癖を、情報として与えてくれるのです。
何度かブログにも書きましたが、このニューロンの結合による深いレベルでの学習認識は、体形や姿勢にもあからさまに反映されているため、プロファイリングにも有益です。
アメリカの犯罪ドラマなどを観ていると、俳優さんなり作り手の方が実によく心理学を学んでいるのがわかります。
ニューロン結合のような進んだ分野かどうかは別にしても、犯人の表情や犯行の手口に心理プロファイル的なズレが無く、リアリティを感じさせるなと感じる物が多いのです。
表面的な言動等の辻褄合わせにとどまらず、よりディープなレベルで、例えば眼差しやふとした仕草なども合わせてそれを演じられている俳優さんを見る事も多く、そういう時には鳥肌物の感動を感じます。
例え心理学の知識の無い人でも、人間という物は現実の人間関係の中で様々な情報をキャッチしているのですから、そういったディープで詳細な演技を見れば、視聴している誰もが心の底にある、"真に迫る"、をキャッチする事が出来ると思うのです。
というわけで。
テレビ・ドラマの話になりますが笑。
沢山の方が夢中になっていらっしゃる"ウォーキング・デッド"を最近私も見始め、そしてあのドラマの中には危機状態の中でおかしくなっちゃってる人間が沢山出て来ますよね。
今まで大抵のドラマ内悪人は、上記のプロファイル的見解からいろんな分析が可能だったのですが、あのドラマに出て来るニーガンだけは、どうしても理解出来ないのです。
故に私は、初めて犯罪者に、純然たる憎しみを感じる事が出来ているという、希有な体験を今現在しています。
発達心理学やニューロン結合の様な物を臨床的に知っていると、自分に直接迷惑がかからない限りは、悪人が全部幼児の姿や顔に見えてしまって中々怒りや憎しみに埋没出来ない物なんですが、あのニーガンだけにはまったくもって、幼児期のトラウマが原因であんなに憎たらしくなっている、という系譜が見えないのです。
行動そのものを見る限りにおいて、私の知るレベルでの現実世界の有名人でニーガンに最も近いのは、北のパタリロ将軍だと思うのですが、北のパタリロ将軍とニーガンには根本的な違いがあります。
北のパタリロ将軍には明確に、"自閉期の傷"と私たちが呼んでいるトラウマを現す外観があります。
自閉期というのは生後三ヶ月までの、まだ生まれたての非常に繊細な時期で、この期間にうまく保育者の保護を得られないと、他者や環境への不信と恐怖から、非常に閉鎖的で冷酷な心を持つ可能性があるのです。
お腹が空いているのにすぐにミルクが来ないとか、抱いてほしくて泣いているのに放置された程度の体験が繰り返されるだけでも、他者への共感性の欠如した人間不信人生不信的学習認識を獲得してしまう可能性があります。
現在のパタリロ将軍の持つ痛ましい、また他者への冷たい眼差しや赤ん坊の様な体形に、その育ち切っていない生後三ヶ月の心が非常によく反映されているのです。
恐らく彼は、充分な愛情と安心感を乳幼児期に体験出来ないまま成長したのでしょう。
しかーーーし!!!!
ニーガンはどうでしょう。
ニーガンの容姿は、非常によく育っていますよね。
もちろんこれには、ニーガンを演じている俳優さんの要素が多分に影響はしてしまいます。あの俳優さんは恐らく、おおらかで愛情深い保育者の元、ニューロンの結合が健康的に成される程度に十分な安全性の中で、育った方なのでしょう。
年齢に相応しい成熟した容姿と貫禄、萎縮や緊張を感じさせないおおらかな四肢、実際のところ、別のドラマなどで彼を拝見すると、愛情深い表情を無理無く演じられていて、バランスのとれた心の健全さを、とても感じさせてくれます。
その彼があのニーガンを演じているわけですから、実際のプロファイリングに合わないのも当然と言えば当然なのですが、私の臨床経験上、現実にああいう、見た目は立派で発達心理学的にも問題無さそうに見えるのに、なんだかおかしい、という人が、いない事も無いのです。
そういう前提の元で私は、一生懸命ニーガンを観察しているのですが、今のところまったくもって、"トラウマによるニューロンの結合不備が原因で悪くなっている"という印象を、持てないでいます。
ガバナーは簡単でした。だからガバナーを憎む気持ちには、私はなれませんでした。
でもニーガンは。
ニーガンには、人に暴力を振るう時、眼差しの中に、冷酷な喜びや微かな恐怖や静かな興奮や怒りなどが、無いのです。
非常に静かな、穏やかな眼差しで、人を酷い目に合わせています。
これには、無意識下のニューロン結合不備つまりトラウマが全然活性化されていない、つまり、トラウマを原動力にはしていないな、という印象があります。
ニーガン役の俳優さんが大根なのでしょうか。
そうは思いません。
何故なら、ニーガンには安っぽい表面的な悪魔的表現も、無いからです。
少なくとも言えるのは、ニーガンは確信をもって、安定した心からあの悪事を働いているという事。
子供時代に得られなかった何かの代償を求めてとか、何かへの憎しみや復讐とかの、代替行為ではないということ。
それを非常にうまく、彼は演じていると思うのです。
もちろん今後、ドラマの中でニーガンの背景が描かれる事もあるかもしれません。
もしもその中で、過酷な幼少期を経て、のような話があった場合、彼の場合はそのトラウマがあまりに深く、脳自体に損傷あるいは変質を負っているレベルの、重傷なケースだという事は確かです。
ところでウォーキング・デッドには、リックというリーダーがいますが、ニーガンはリックのナルシシズムを、執拗に攻撃していますよね。
あれを見ていると、ニーガン本人にも自己愛性のトラウマがあり、同族嫌悪みたいなもんがあるんじゃないか、とも思わせるのですが、しかしここにも私は、ニーガンがトラウマから、リックをやっつけているわけではない、という印象があるのです。
単に、まるで神の鉄拳のように、リックの肥大したナルシシズムに対して、自覚しろ、反省しろ、屈しろ、とやっているように見えてなりません。
一体ニーガンて、なんなんでしょ。
原作の印象は、テレビのニーガンとはまるで違うし、色々な理由から辻褄の合わない事もあるのかもしれませんが、例えそれがフィクションであっても、創作物には時に、何かおおいなるものの意図が、降りている場合があります。
だからそれがドラマの中で暴走するフィクションな存在だからと言って、作り事では済ませない事もあると私は思うのです。
特にドラマ版ウォーキング・デッドのニーガンの様に、心理学的な面から見ても謎めいた存在の場合、何か注目に値する存在の意味が、あるように感じてならないのです。
ですので今のところものすっごく憎たらしいニーガンですが、まあ興味深く見てゆきたいなと、思うのであります。
2016年11月10日木曜日
大統領選後
アメリカ大統領選が終わってからずっと、うっすらと泣きたい様な感覚が続いている。
結果に失望しているわけではなく、いやもしかしたら気付かない様な深いレベルで失望しているのかもしれないけれど、ずっと感じているのは失望や怒りではなく、どちらかと言えば厳粛な、深い静けさを伴う胸の痛み、とでも言う様な物だ。
どういう人たちが何を思ってトランプに投票したのかは、実際のところよくわからないのだけど、昨日からずっとある知人の事が、頭から離れない。
趣味でヘリコプターやセスナを操縦するアメリカの知人のおかげで、私は最近よくアメリカで自由な空の旅を楽しんでいるのだけど、ある時その知人が紹介してくれた若いパイロットの青年と、ランチを食べに行った事がある。
Kというその青年は、青い瞳が静かで優しそうな白人の眼鏡男子で、空を飛ぶのが大好きでがんばってヘリの免許を取り、人に操縦を教えて生計を立てていると言った。
その時にその彼が、自分はヒルビリーなんだ、と笑いながら言ったのだ。
幸い森が近かったから、子供の頃から兄とふたりで森に入って、色んな動物を狩って食べた、と楽しそうに話し始めた。
狩った動物は蛇や鳥や蛙や魚など、普通に食用に出来る物から、オポッサムなどの変わった動物まで食べたと言った。オポッサムは死んだふりが上手で、始めの頃はそれに騙されて僕たちはよく失望したり笑い転げたりもしたもんだ、と。
私は大好きな北米の森を思い浮かべ、オポッサムの話を心から楽しみ、他にどんな動物を食べたのかと、大喜びで話をねだった。
彼はその時本当に楽しそうに自慢気に話していたから、私はそれが楽しい話だと、思い込んでいたのだ。
その事が唐突に、胸に突き上げる様に、昇って来た。
トランプが大統領になった時に。
小さな兄弟がふたりで森に入って、毎日の様に動物を狩って食べ、飢えをしのいでいたのだという、新しい現実として。
ヒラリーの、敗者演説は胸を打つ美しい物だった。
彼女が大統領になっていたら、どんなに素晴らしかったかしらと思わせるような、爽やかで、真剣で、静かな情熱を湛えた、力強いメッセージの込められた、品格を感じる素敵な物だった。
だけど毎日の生活にあえぐ人たちは、堂々と差別発言や痴漢行為を自慢する下衆野郎が見せてくれた、明日の食べ物を買える希望を、選んだのだ。
実際にトランプが役に立ってくれるかどうかは別として、とにかく彼を選んだ。
彼の言葉の方が、胸に響いたから。
森にオポッサムを獲りに行かなくてもいい、そんなに貧乏じゃない人たちもトランプを選んだ。なんでかっていうと、トランプの言ってる事が飾らない本音で、自分たちの気持ちを代弁していると感じたからだ。
私は、外側に敵を作る人たちというのは、結局は深く疲弊しているだけなのだと思っている。
人種差別はつまるところ八つ当たりであって、なんらかの強いフラストレーションや不満や怒りや恐怖や痛みを誰かにぶつけたいだけなのだ。
まあ、私怨から特定の人種なんかを憎む人もいるかもしれないけれど、それだって結局は心の痛みから発生している。
だからと言って同情出来るものでもないんだけれど、とにかく今回のトランプ勝利の現実は、如何に多くのアメリカ人が、実のところ非常に不幸なのだという事を現していると感じて、私は非常に、ガーーンとなってそしてその現実が、厳粛な悲しみとして心に広がりまくっているのだ。
アメリカには、自分のオポッサムを誰かが奪いに来ない様に、高い塀を作りたい人たちが、沢山いる。
そういう人たちにとっては、世界平和や差別の無い社会や自然界との調和や、エコやオーガニックやGMOやスピリチュアルや、高い精神性やウィットのあるユーモアや芸術や、多様性や平等や品格やそんな物なんかより、攻撃的で閉鎖的で、差別や憤怒に溢れ、恐怖と不信に満ちた心を代弁し、堂々と市民権を与えてくれる下衆なオヤジの方が、遥かに現実味があったのだ。
貧乏であれ金持ちであれ、トランプの言葉に説得力を感じる、不安で不幸で脅かされている人たちが、アメリカには沢山いるのだ。
その現実に、改めて光が当たった。
人類が進化して、中世の時代よりはずっとフェアで人道的な法律や価値観が行き渡っている文明社会において、より高潔な高い意識をもって生きてゆく理想的な流れがある一方で、様々な理由によって社会的に虐げられたり働けなかったり思う様に生きられなかったり稼げなかったりして、傷ついた痛ましい心を抱え、怒りと憎しみに燃え、怖れと不安で身動きがとれず、毎日が生き延びる事だけで精一杯な人たちが、この世にはいるのだということ。
もちろんKの様に、過酷な生活から自分の力でいっぱしの生活を勝ち取れる人もいるけれど、病気とは認定されない程度の精神疾患や、身体や心の弱さを抱えた人たちは、どんなにひとりでがんばっても、立ち上がれない事もある。
それがなんだと言うわけではない。
単に私は、Kの話してくれたオポッサムの話を、おもしろ可笑しく楽しんで、それ以上何も、気付こうともしなかった自分の目を、トランプの勝利が覚ましてくれたなと、思っているだけだ。
そしてそれがとても悲しくて、ただごめんなさいと、天に向かって謝りたいだけなのである。
結果に失望しているわけではなく、いやもしかしたら気付かない様な深いレベルで失望しているのかもしれないけれど、ずっと感じているのは失望や怒りではなく、どちらかと言えば厳粛な、深い静けさを伴う胸の痛み、とでも言う様な物だ。
どういう人たちが何を思ってトランプに投票したのかは、実際のところよくわからないのだけど、昨日からずっとある知人の事が、頭から離れない。
趣味でヘリコプターやセスナを操縦するアメリカの知人のおかげで、私は最近よくアメリカで自由な空の旅を楽しんでいるのだけど、ある時その知人が紹介してくれた若いパイロットの青年と、ランチを食べに行った事がある。
Kというその青年は、青い瞳が静かで優しそうな白人の眼鏡男子で、空を飛ぶのが大好きでがんばってヘリの免許を取り、人に操縦を教えて生計を立てていると言った。
その時にその彼が、自分はヒルビリーなんだ、と笑いながら言ったのだ。
幸い森が近かったから、子供の頃から兄とふたりで森に入って、色んな動物を狩って食べた、と楽しそうに話し始めた。
狩った動物は蛇や鳥や蛙や魚など、普通に食用に出来る物から、オポッサムなどの変わった動物まで食べたと言った。オポッサムは死んだふりが上手で、始めの頃はそれに騙されて僕たちはよく失望したり笑い転げたりもしたもんだ、と。
私は大好きな北米の森を思い浮かべ、オポッサムの話を心から楽しみ、他にどんな動物を食べたのかと、大喜びで話をねだった。
彼はその時本当に楽しそうに自慢気に話していたから、私はそれが楽しい話だと、思い込んでいたのだ。
その事が唐突に、胸に突き上げる様に、昇って来た。
トランプが大統領になった時に。
小さな兄弟がふたりで森に入って、毎日の様に動物を狩って食べ、飢えをしのいでいたのだという、新しい現実として。
ヒラリーの、敗者演説は胸を打つ美しい物だった。
彼女が大統領になっていたら、どんなに素晴らしかったかしらと思わせるような、爽やかで、真剣で、静かな情熱を湛えた、力強いメッセージの込められた、品格を感じる素敵な物だった。
だけど毎日の生活にあえぐ人たちは、堂々と差別発言や痴漢行為を自慢する下衆野郎が見せてくれた、明日の食べ物を買える希望を、選んだのだ。
実際にトランプが役に立ってくれるかどうかは別として、とにかく彼を選んだ。
彼の言葉の方が、胸に響いたから。
森にオポッサムを獲りに行かなくてもいい、そんなに貧乏じゃない人たちもトランプを選んだ。なんでかっていうと、トランプの言ってる事が飾らない本音で、自分たちの気持ちを代弁していると感じたからだ。
私は、外側に敵を作る人たちというのは、結局は深く疲弊しているだけなのだと思っている。
人種差別はつまるところ八つ当たりであって、なんらかの強いフラストレーションや不満や怒りや恐怖や痛みを誰かにぶつけたいだけなのだ。
まあ、私怨から特定の人種なんかを憎む人もいるかもしれないけれど、それだって結局は心の痛みから発生している。
だからと言って同情出来るものでもないんだけれど、とにかく今回のトランプ勝利の現実は、如何に多くのアメリカ人が、実のところ非常に不幸なのだという事を現していると感じて、私は非常に、ガーーンとなってそしてその現実が、厳粛な悲しみとして心に広がりまくっているのだ。
アメリカには、自分のオポッサムを誰かが奪いに来ない様に、高い塀を作りたい人たちが、沢山いる。
そういう人たちにとっては、世界平和や差別の無い社会や自然界との調和や、エコやオーガニックやGMOやスピリチュアルや、高い精神性やウィットのあるユーモアや芸術や、多様性や平等や品格やそんな物なんかより、攻撃的で閉鎖的で、差別や憤怒に溢れ、恐怖と不信に満ちた心を代弁し、堂々と市民権を与えてくれる下衆なオヤジの方が、遥かに現実味があったのだ。
貧乏であれ金持ちであれ、トランプの言葉に説得力を感じる、不安で不幸で脅かされている人たちが、アメリカには沢山いるのだ。
その現実に、改めて光が当たった。
人類が進化して、中世の時代よりはずっとフェアで人道的な法律や価値観が行き渡っている文明社会において、より高潔な高い意識をもって生きてゆく理想的な流れがある一方で、様々な理由によって社会的に虐げられたり働けなかったり思う様に生きられなかったり稼げなかったりして、傷ついた痛ましい心を抱え、怒りと憎しみに燃え、怖れと不安で身動きがとれず、毎日が生き延びる事だけで精一杯な人たちが、この世にはいるのだということ。
もちろんKの様に、過酷な生活から自分の力でいっぱしの生活を勝ち取れる人もいるけれど、病気とは認定されない程度の精神疾患や、身体や心の弱さを抱えた人たちは、どんなにひとりでがんばっても、立ち上がれない事もある。
それがなんだと言うわけではない。
単に私は、Kの話してくれたオポッサムの話を、おもしろ可笑しく楽しんで、それ以上何も、気付こうともしなかった自分の目を、トランプの勝利が覚ましてくれたなと、思っているだけだ。
そしてそれがとても悲しくて、ただごめんなさいと、天に向かって謝りたいだけなのである。
2016年10月30日日曜日
色々考えさせられるTWD
あまりにも評判を聞く機会が続いたので、ものすごく遅ればせながら観始めたドラマ"ウォーキング・デッド"。
人気の秘密が徐々にわかり始めた最近、実に色々と考えさせられる、という構造も、人気のひとつなのだろうと思ってアメリカの友人に聞いたら、もちろんそうだという返事。
みんな、ドラマに出てる人たちのやり方や価値観の分析や批判や肯定で楽しんでると言っていた。そういう意味では、そういった誘いに満ち満ちている、大変成功しているドラマだと思います。
視聴者をうまく"釣れてる"、ってやつですね。
そして私は、ドラマや映画については、積極的に釣られたり騙されたりする様にしています。
その方が楽しいからです。
登場人物についても、好みやなにやらが別れると思います。
私個人は、主人公グループを率いているリーダーであるリックを胡散臭いとずっと思っていて(笑)、片腕のダリルを、素晴らしいと思っています。
ダリルは、私が昔アメリカで学んだナチュラリストの技を実際の戦闘に活用しています。
地面の足跡を見てその人物の体重を測ったり、枝の折れ具合や木肌のコンディションから、そこで起こった事を推測したりと、中々かっこいいのです。
まあそれはそれとして。
ドラマの中では度々、ゾンビに変化しちゃった家族の誰かを、自分らに危害を加えない程度の管理でかくまっている人が出て来て、それを主人公サイドの人間が暴いて、ゾンビな家族を殺しちゃうエピソードが、度々出て来ます。
それを見る度に私は、これってどうなのよ、って思ってしまうんですよね。
確かに今のところ、一度ゾンビになっちゃったらもう戻れない事はわかっています。
完全脳死状態になった後、なんらかの作用で脳幹だけ機能し始め、しかしその時にはもう、凶暴な何かに変ってしまっているわけです。
家族をかくまっている人は、いつか治療法が発明されて、元のその人に戻るはずだと淡い期待をもって、彼らをかくまっているわけですね。
でもなんでだか、それを知ると殺しちゃう方向に、あのドラマは行くんだよね。
まだ見始めたばかりなので、何を示唆したい番組なのか私にはわからないんだけど、FOXテレビの番組だと言う事から、ちょっとばかりの疑いを、持ち始めているのです。
もしもあのドラマが、鷹派の価値観を基準に動いているんだとしたら、どうなんだろうと。
確かに、咬まれたり引っ掻かれたりすると感染してゾンビになっちゃうんだから、ゾンビはいなくなるのが最も良い。
しかし誰かが、まだ家族がゾンビになっちゃった事を受け入れられず、いつか戻ると期待していたいのだとしたら、それはそれでいいんじゃないんですか?
他人に迷惑をかけない様に隔離しているんだし、万が一そいつが逃げ出しても、真っ先に被害に遭うのはかくまっているその人であり、更に表に逃げ出しちゃっても、後は何万匹もいるゾンビに混ざってウロウロしているだけに過ぎません。
もうああなると、野生のゾンビがひとり増えようなふたり増えようが、関係無いような世界なんですから。
ドラマの中では、ゾンビVSニンゲンより、むしろ生き残った人の間で描かれる戦いと葛藤に焦点が当たっており、そして正義と正義じゃない側の価値観がとても曖昧です。
だからこのドラマは意識的に、絶対的な正義、という概念のはかなさを描いているのかもしれない。
けれどもしも、ゾンビになっちゃった家族をさっさと殺す方が正しいんですよ、先に進む為に、という意識がベースにあるんだとしたら、私は途端にこのドラマが、FOX系列TVで放映されている事が、気になり始めてしまうんですよね。
それって、鷹派の考え方じゃない?
Aという人物が、Bという人物の大切にしている物を、「おまえそれ、おかしいよ。」って言って、その人のドアをこじ開けて、その大切にしている物を破壊してしまう。それによって平和が築かれる。という錯覚。
それは単に、Aという人物が欲しい現実を、Bという人物の価値観が邪魔をするからと言って、Bの価値観を根こそぎ否定して"改心"させる、それによって欲しい現実が得られる、という自己満足に過ぎません。
Aは単に、Bに賛成出来ないから、自分の居心地悪さを正しさや常識に置き換えて正当化して、自分にとって居心地の悪い場を、居心地良く変えようとしているだけですよね。
アメリカにはまだ根強い保守派の人たちがいて、未だに同性愛者を異常視したり、正当派とその人たちが見なす価値観や宗教観から逸脱した人たちへの理解を、拒絶したりしています。
私は、どんな偏見でも古い考えでも、個人のレベルで持っているだけならそれはそれで自由だと思っている人間ですが、もしも誰かが自分の価値観を、誰もが持つべき正しい物だ、と勘違いして、それを他者に強制し始め、その行為が公民権を得たら、それは自由世界の終わりだと思います。
それだけは許してはいけないと思うのです。
ゾンビの存在は、害毒です。
醜悪で、生きる価値も無い。
しかし、誰がそう言いきれるのか。
一人娘がゾンビになってしまった。
その姿は、肉親以外の人から見れば、醜悪な悪魔かもしれない。
でも父親はその顔に、過去の可愛らしい娘の面影を見ているのです。
あのドラマが、どういう価値観で進んで行き終わってゆくのか、今は全くの未知だけど、もしも二元論で正悪を捉える価値観がゾンビを殺すのだとしたら、私はそれは間違っていると思います。
あのドラマの中で、ゾンビになっちゃった肉親をかくまう人々を、どうやって描いてゆくのかは、とても大切だと思うのです。
先へ進むとか、健全であるとか、ポジティブであるとか、正直であるとか、困難から立ち直るとか、社交的であるとか、ちゃんと働いているとか、家族がいるだとか、ヘテロであるとか、強いとか、病んでないとか、正義感があるとか、そういう事だけがノーマルであるとする意識が暴走している一部の人間を抱えている土壌が、もしもその思想を土台に、そうした方が結局はみんなの為だとかいう思いを土台に、家族がかくまっているゾンビを殺すのであれば、それは間違っていると、私は思うのです。
あのドラマがどんな方向に行くのか、だからとても興味があるのです。
TWDは、闇、と位置づけた存在や行動を、果たして今後、受け入れるのでしょうか。
人気の秘密が徐々にわかり始めた最近、実に色々と考えさせられる、という構造も、人気のひとつなのだろうと思ってアメリカの友人に聞いたら、もちろんそうだという返事。
みんな、ドラマに出てる人たちのやり方や価値観の分析や批判や肯定で楽しんでると言っていた。そういう意味では、そういった誘いに満ち満ちている、大変成功しているドラマだと思います。
視聴者をうまく"釣れてる"、ってやつですね。
そして私は、ドラマや映画については、積極的に釣られたり騙されたりする様にしています。
その方が楽しいからです。
登場人物についても、好みやなにやらが別れると思います。
私個人は、主人公グループを率いているリーダーであるリックを胡散臭いとずっと思っていて(笑)、片腕のダリルを、素晴らしいと思っています。
ダリルは、私が昔アメリカで学んだナチュラリストの技を実際の戦闘に活用しています。
地面の足跡を見てその人物の体重を測ったり、枝の折れ具合や木肌のコンディションから、そこで起こった事を推測したりと、中々かっこいいのです。
まあそれはそれとして。
ドラマの中では度々、ゾンビに変化しちゃった家族の誰かを、自分らに危害を加えない程度の管理でかくまっている人が出て来て、それを主人公サイドの人間が暴いて、ゾンビな家族を殺しちゃうエピソードが、度々出て来ます。
それを見る度に私は、これってどうなのよ、って思ってしまうんですよね。
確かに今のところ、一度ゾンビになっちゃったらもう戻れない事はわかっています。
完全脳死状態になった後、なんらかの作用で脳幹だけ機能し始め、しかしその時にはもう、凶暴な何かに変ってしまっているわけです。
家族をかくまっている人は、いつか治療法が発明されて、元のその人に戻るはずだと淡い期待をもって、彼らをかくまっているわけですね。
でもなんでだか、それを知ると殺しちゃう方向に、あのドラマは行くんだよね。
まだ見始めたばかりなので、何を示唆したい番組なのか私にはわからないんだけど、FOXテレビの番組だと言う事から、ちょっとばかりの疑いを、持ち始めているのです。
もしもあのドラマが、鷹派の価値観を基準に動いているんだとしたら、どうなんだろうと。
確かに、咬まれたり引っ掻かれたりすると感染してゾンビになっちゃうんだから、ゾンビはいなくなるのが最も良い。
しかし誰かが、まだ家族がゾンビになっちゃった事を受け入れられず、いつか戻ると期待していたいのだとしたら、それはそれでいいんじゃないんですか?
他人に迷惑をかけない様に隔離しているんだし、万が一そいつが逃げ出しても、真っ先に被害に遭うのはかくまっているその人であり、更に表に逃げ出しちゃっても、後は何万匹もいるゾンビに混ざってウロウロしているだけに過ぎません。
もうああなると、野生のゾンビがひとり増えようなふたり増えようが、関係無いような世界なんですから。
ドラマの中では、ゾンビVSニンゲンより、むしろ生き残った人の間で描かれる戦いと葛藤に焦点が当たっており、そして正義と正義じゃない側の価値観がとても曖昧です。
だからこのドラマは意識的に、絶対的な正義、という概念のはかなさを描いているのかもしれない。
けれどもしも、ゾンビになっちゃった家族をさっさと殺す方が正しいんですよ、先に進む為に、という意識がベースにあるんだとしたら、私は途端にこのドラマが、FOX系列TVで放映されている事が、気になり始めてしまうんですよね。
それって、鷹派の考え方じゃない?
Aという人物が、Bという人物の大切にしている物を、「おまえそれ、おかしいよ。」って言って、その人のドアをこじ開けて、その大切にしている物を破壊してしまう。それによって平和が築かれる。という錯覚。
それは単に、Aという人物が欲しい現実を、Bという人物の価値観が邪魔をするからと言って、Bの価値観を根こそぎ否定して"改心"させる、それによって欲しい現実が得られる、という自己満足に過ぎません。
Aは単に、Bに賛成出来ないから、自分の居心地悪さを正しさや常識に置き換えて正当化して、自分にとって居心地の悪い場を、居心地良く変えようとしているだけですよね。
アメリカにはまだ根強い保守派の人たちがいて、未だに同性愛者を異常視したり、正当派とその人たちが見なす価値観や宗教観から逸脱した人たちへの理解を、拒絶したりしています。
私は、どんな偏見でも古い考えでも、個人のレベルで持っているだけならそれはそれで自由だと思っている人間ですが、もしも誰かが自分の価値観を、誰もが持つべき正しい物だ、と勘違いして、それを他者に強制し始め、その行為が公民権を得たら、それは自由世界の終わりだと思います。
それだけは許してはいけないと思うのです。
ゾンビの存在は、害毒です。
醜悪で、生きる価値も無い。
しかし、誰がそう言いきれるのか。
一人娘がゾンビになってしまった。
その姿は、肉親以外の人から見れば、醜悪な悪魔かもしれない。
でも父親はその顔に、過去の可愛らしい娘の面影を見ているのです。
あのドラマが、どういう価値観で進んで行き終わってゆくのか、今は全くの未知だけど、もしも二元論で正悪を捉える価値観がゾンビを殺すのだとしたら、私はそれは間違っていると思います。
あのドラマの中で、ゾンビになっちゃった肉親をかくまう人々を、どうやって描いてゆくのかは、とても大切だと思うのです。
先へ進むとか、健全であるとか、ポジティブであるとか、正直であるとか、困難から立ち直るとか、社交的であるとか、ちゃんと働いているとか、家族がいるだとか、ヘテロであるとか、強いとか、病んでないとか、正義感があるとか、そういう事だけがノーマルであるとする意識が暴走している一部の人間を抱えている土壌が、もしもその思想を土台に、そうした方が結局はみんなの為だとかいう思いを土台に、家族がかくまっているゾンビを殺すのであれば、それは間違っていると、私は思うのです。
あのドラマがどんな方向に行くのか、だからとても興味があるのです。
TWDは、闇、と位置づけた存在や行動を、果たして今後、受け入れるのでしょうか。
2016年10月20日木曜日
ディランとノーベル賞
ディランがノーベル賞を獲ったおかげかどうか知らないけれど、huluに" I'm Not There"が配信されて来てたので観る事が出来た。
“I'm Not There"はボブ・ディランの半生をユニークな手法で描いた映画で、女優のケイト・ブランシェットがディラン役をそっくりに演じた事でも話題になっていた映画だ。
観たいと思いつつ機会を逃し続け、ようやくさっき観終えた。
そんで思ったんだけど、ディランてやっぱり、"禅"、だね笑。
ノーベル賞貰ったのに、ずっとスルーしている事で、様々な憶測が飛び交っているのを、ネットなんかで見る。
大方は、ノーベル賞が武器を作って発展した賞だから、平和主義者のディランは拒否しているし無視しているのだ的な、彼の、プロテスト・ソング・シンガーという側面を捉えた人の意見が多い感じがする。
私は評論家みたいな詳細な視点でディランを掘り下げた事が無いから、もしかしたらそれが正しいのかもしれないけれど、私の中にいるディランと照らし合わせると、その感じにはなんとなく違和感がある。
私の中にいるディランに照らし合わせると、ノーベル賞受賞、という経験に、単に今現在、彼のアンテナが響かないだけなんじゃないかという気がしてならないのだ。
何か他の事に気をとられているとか、そういう事だけなのであって、思想的にどうこうっていうんじゃないんじゃないのかな。
まあこれは本当に、単なる私の思い込みですから、世間で彼をもっと観察している人が”思想だ。”と言うんなら、そうなのかもしれません。まあどっちでもいいんです。
ディラン本人はまた、全然違う思惑の中にいるかもしれませんしね。
私が映画を観て思ったのは、天才って大変だなって事なんです。
ディランがデビューして有名になった時代って言うのは、まだ人類がそんなに進化してないって言うか笑、まだすっごく保守的だったり頭が異様に固かったりしたのでしょう。映画の中のディランは、非常に生きるの大変そうです。
ディランは単に、今の事にしか興味ありません、って言ってるんですよ。
それを、昔はアコースティックだったのにロックに転向したのは何故かとか、裏切りだとか、魂売ったとか、政治なのか詩なのかとか、どっちの味方なんだとかかんだとか、もう、うるさいっつうの!!笑。
様々な人が”ディラン”というイメージを持ち、またそれを持つ事に必死で、そしてなんらかの既存の型に、彼を当てはめて考えようとする。
そして、自分がはめていたイメージから彼の言動が逸脱する度に恐れおののき笑、非難し、憎み、ののしり、今度は次の新しいイメージを作る事で、彼の本性を暴こうとしたり、暴けたような気になる。
そんな事やってたら、いつまでたっても、ディランの本当の存在感なんて、見えて来ないじゃないですか。
彼の様な宝と同じ時代に生きる事が出来ている尊い体験を、全く無駄にしてしまっています。
私が最もバカバカしいと思ったのは、ディランが煙に巻いてる彼の生い立ちや素性を暴いたテレビ番組が、意気揚々と、それを報告していたシーンです。
私はディランが、正しい生年月日や出生地や生い立ちを、公にしないどころか、ニセモノを作って誤摩化す気持ちが、実はよくわかります。
そんな情報、彼の仕事や本質に全く関係無いし、ニセモノでも与えておかないと、知りたくて知りたくてうるさい人ってのが、必ずいるんですから!
それをわざわざ暴いて、公にして、得意になっているテレビの人のアホさ加減には、本当に腹が立ちました。
自分が気にしてないなら、教えたって同じじゃないか、なんて小学生みたいな事を言う人までいる始末です。
人には、自分のプライバシーを、守る権利があるんです。
その生い立ちが更なるイメージを人の心に作って、ディランの作品や存在の本質の、余計なフィルターになってしまう弊害だってあります。
創作者は、創作物だけが正直なら、それでいいんです。
私の近所にも、人のプライバシーを平気で漏らしがちな人がいますが、私にそれをやったら、訴訟を起こして100万円くらいは貰う気持ちも自信も、本気であります。
何故に人は、目の前のありのままの現実では無く、イメージや情報で、人や物を判断しようとするのでしょう。
イメージという物は、イメージである事でもう既に既存の、限界のある物なのです。
でもありのままの現実には、常にフレッシュで一期一会の、無限の知覚体験が、広がっています。
もしもディランに出会った時に、頭の中に、この人は反体制でプロテスト・シンガーで気難しくて不遜でプライドが高い、なんていうイメージがあったら、自分はそのイメージに対応してしまい、目の前の本当のディランを、フルに体験出来ません。
個人のイメージの中に、ボブ・ディラン本人は、存在していないのです。
ボブ・ディランという人は、常にそういう、人の持つ固定観念に挑戦し続けていた人だと記憶しています。だから今でも彼のコンサートは、新鮮な驚きに満ちています。
私は映画の中のディランが最後に言った、詩は無意味でこそ神聖だ、という言葉に、全てが集約されていると思いました。
本当の抽象は、全ての固定観念から自由で、そこに何も提示しない、純然たる、抽象だからです。
そこにあるのは、ただ流れて移ろい流転する、純然たる現実だけです。
イメージなどという、粘っこくて潔くない、臆病で腰の引けた、思いがけなさを恐れる心の安全ネットみたいな、古ぼけた座布団みたいな現実認識の介入する隙間はありません。
優れた芸術家は皆、風景画でさえ抽象の目で描き上げています。
もしも人がイメージにすがろうとするなら、もうその具象的な表現方法さえ諦めて、抽象的な言葉の羅列をするしかない。
本物のディランがどうなのかはわからないけれど、あの映画では、ディランの抽象的な歌詞の由来を、そんな風に描いていたように思います。
詩は無意味でこそ神聖だ。
なんて禅なのでしょう。
あの映画は、型破りなディランの姿を、型破りなやり方で、とてもよく描いていたと思います。
“I'm Not There"はボブ・ディランの半生をユニークな手法で描いた映画で、女優のケイト・ブランシェットがディラン役をそっくりに演じた事でも話題になっていた映画だ。
観たいと思いつつ機会を逃し続け、ようやくさっき観終えた。
そんで思ったんだけど、ディランてやっぱり、"禅"、だね笑。
ノーベル賞貰ったのに、ずっとスルーしている事で、様々な憶測が飛び交っているのを、ネットなんかで見る。
大方は、ノーベル賞が武器を作って発展した賞だから、平和主義者のディランは拒否しているし無視しているのだ的な、彼の、プロテスト・ソング・シンガーという側面を捉えた人の意見が多い感じがする。
私は評論家みたいな詳細な視点でディランを掘り下げた事が無いから、もしかしたらそれが正しいのかもしれないけれど、私の中にいるディランと照らし合わせると、その感じにはなんとなく違和感がある。
私の中にいるディランに照らし合わせると、ノーベル賞受賞、という経験に、単に今現在、彼のアンテナが響かないだけなんじゃないかという気がしてならないのだ。
何か他の事に気をとられているとか、そういう事だけなのであって、思想的にどうこうっていうんじゃないんじゃないのかな。
まあこれは本当に、単なる私の思い込みですから、世間で彼をもっと観察している人が”思想だ。”と言うんなら、そうなのかもしれません。まあどっちでもいいんです。
ディラン本人はまた、全然違う思惑の中にいるかもしれませんしね。
私が映画を観て思ったのは、天才って大変だなって事なんです。
ディランがデビューして有名になった時代って言うのは、まだ人類がそんなに進化してないって言うか笑、まだすっごく保守的だったり頭が異様に固かったりしたのでしょう。映画の中のディランは、非常に生きるの大変そうです。
ディランは単に、今の事にしか興味ありません、って言ってるんですよ。
それを、昔はアコースティックだったのにロックに転向したのは何故かとか、裏切りだとか、魂売ったとか、政治なのか詩なのかとか、どっちの味方なんだとかかんだとか、もう、うるさいっつうの!!笑。
様々な人が”ディラン”というイメージを持ち、またそれを持つ事に必死で、そしてなんらかの既存の型に、彼を当てはめて考えようとする。
そして、自分がはめていたイメージから彼の言動が逸脱する度に恐れおののき笑、非難し、憎み、ののしり、今度は次の新しいイメージを作る事で、彼の本性を暴こうとしたり、暴けたような気になる。
そんな事やってたら、いつまでたっても、ディランの本当の存在感なんて、見えて来ないじゃないですか。
彼の様な宝と同じ時代に生きる事が出来ている尊い体験を、全く無駄にしてしまっています。
私が最もバカバカしいと思ったのは、ディランが煙に巻いてる彼の生い立ちや素性を暴いたテレビ番組が、意気揚々と、それを報告していたシーンです。
私はディランが、正しい生年月日や出生地や生い立ちを、公にしないどころか、ニセモノを作って誤摩化す気持ちが、実はよくわかります。
そんな情報、彼の仕事や本質に全く関係無いし、ニセモノでも与えておかないと、知りたくて知りたくてうるさい人ってのが、必ずいるんですから!
それをわざわざ暴いて、公にして、得意になっているテレビの人のアホさ加減には、本当に腹が立ちました。
自分が気にしてないなら、教えたって同じじゃないか、なんて小学生みたいな事を言う人までいる始末です。
人には、自分のプライバシーを、守る権利があるんです。
その生い立ちが更なるイメージを人の心に作って、ディランの作品や存在の本質の、余計なフィルターになってしまう弊害だってあります。
創作者は、創作物だけが正直なら、それでいいんです。
私の近所にも、人のプライバシーを平気で漏らしがちな人がいますが、私にそれをやったら、訴訟を起こして100万円くらいは貰う気持ちも自信も、本気であります。
何故に人は、目の前のありのままの現実では無く、イメージや情報で、人や物を判断しようとするのでしょう。
イメージという物は、イメージである事でもう既に既存の、限界のある物なのです。
でもありのままの現実には、常にフレッシュで一期一会の、無限の知覚体験が、広がっています。
もしもディランに出会った時に、頭の中に、この人は反体制でプロテスト・シンガーで気難しくて不遜でプライドが高い、なんていうイメージがあったら、自分はそのイメージに対応してしまい、目の前の本当のディランを、フルに体験出来ません。
個人のイメージの中に、ボブ・ディラン本人は、存在していないのです。
ボブ・ディランという人は、常にそういう、人の持つ固定観念に挑戦し続けていた人だと記憶しています。だから今でも彼のコンサートは、新鮮な驚きに満ちています。
私は映画の中のディランが最後に言った、詩は無意味でこそ神聖だ、という言葉に、全てが集約されていると思いました。
本当の抽象は、全ての固定観念から自由で、そこに何も提示しない、純然たる、抽象だからです。
そこにあるのは、ただ流れて移ろい流転する、純然たる現実だけです。
イメージなどという、粘っこくて潔くない、臆病で腰の引けた、思いがけなさを恐れる心の安全ネットみたいな、古ぼけた座布団みたいな現実認識の介入する隙間はありません。
優れた芸術家は皆、風景画でさえ抽象の目で描き上げています。
もしも人がイメージにすがろうとするなら、もうその具象的な表現方法さえ諦めて、抽象的な言葉の羅列をするしかない。
本物のディランがどうなのかはわからないけれど、あの映画では、ディランの抽象的な歌詞の由来を、そんな風に描いていたように思います。
詩は無意味でこそ神聖だ。
なんて禅なのでしょう。
あの映画は、型破りなディランの姿を、型破りなやり方で、とてもよく描いていたと思います。
2016年10月4日火曜日
湖の泥沼
これから誰かと湖一周の散策をしようと思っている方にお伝えします。その湖は恐らく、今見えているより遥かに複雑な形を持ち、今感じられている湖の周辺距離の、少なくとも10倍はあるかもしれません。
9月のコロラドでそれを思い知った私と、その体験を聞いた私の友人が富士五湖で同じ思いをしたという証言からも、誰も気軽に湖一周など、するべきではないという事は、おわかりかと思います。
コロラドで散策好きの相方から、湖一周の散歩に誘われた時には、運動不足だからちょうどいいか、くらいの気軽さで応じました。
時々訪れていた湖で、そんなに大きく感じられない上に、周りの風景が大変美しいので、楽しみですらありました。
秋だというのにかんかん照りなのに帽子も日焼け止めも無く、軽装だったから持っていたのは500mlペットボトルの水だけでしたが、こんな湖、1〜2時間で回れるだろうと信じていたので、そのまま気軽に散策を始めてしまったのです。
しかし実際には、その湖はいくつもの小さな湖〜と言ってもボートが無ければ渡れないくらいの周囲の〜小型湖がメインの湖の周りに数え切れない程枝分かれして存在しており、実際にその湖を一周するには、膨大な距離を歩く羽目になってしまったのです。
場所はコロラドですから大自然です。
湖の周りは鷲鷹の保護エリアだったりして、脇道から道路に抜けるとかそういう逃げ道は全くありませんでした。
いや、何度かそういうチャンスもあったのですが、一緒にいた楽観的な知人が、何度かそのチャンスが訪れる度にその方法を選ばなかった為、二人共もう限界、を感じる頃には、もはやどこにも逃げ道の無い修羅場に、突入してしまっていました。
戻るにも距離があり過ぎ、ただ進むしか無い無限地獄です。
幸いだったのは、あくまでもメインの湖が歴然と見える中での散策だった為、道に迷う怖れは無かった事。
単に、目に見えているあそこの岸辺、という物に到達する為に、信じられない様な辛惨を経験しなければならなかったという事です。
最悪夜になってもしまっても、まあその場で野宿すれば、明るくなってからまた歩き始めればいいわけで、そういった意味での恐怖はありませんでした。
それでも。
あの森を抜ければようやく目指す岸辺だ、と言った際に、希望と共にその森を抜けた途端、今までで最も大きいのではないかと思われる枝別れ湖が現れ、その時にはさすがに、恐怖と絶望感に襲われたのは事実です。
心の強い同行者も、さすがにその時には、奇妙な動物の様な雄叫びを上げていました。
気の触れる一歩手前、という感じでしょうか。
ドライブウェイに抜けるチャンスがまだ稀に数回現れた頃に、私は何度か、今ここを抜けた方がいいんじゃないか、と提案をしましたが、同行者はそれに耳を貸しませんでした。
ですので私は、もう自分があれこれ考えるのはやめて、この人のやりたいようにさせよう、その方が心が楽だ、と諦め切りました。
思考が最も人間のスタミナを奪うという事を私は体験から知っていたので、考えるのを完全に、やめさせていただいたわけです。
繰り返される小型湖の出現や、歩きにくい湿地や沼地や、一体どこを歩けばいいのかわからないくらい丈高の、しかも刺だらけの草に覆われた場所、しかもガラガラヘビの生息地、などに出くわす度に、絶望や失望や心の迷いや苛立や恐怖や怒りを感じるのは全て相方にまかせ、私は一切、考える事を放棄しました。
するとスタミナは温存され、どんなに歩いても一向に疲れなくなりました。
そういった中で自分を観察している時、面白い事に気付いたのです。
私が疲労を感じるのは、自分の心が、「こっちじゃない。」と感じる方向に歩かねばならない時だけだったのです。
人と一緒だったし、体力を温存する為に私はリードする事を放棄しましたから、文句も言わずに相方の選ぶ道をついて行っていたわけですが、自分の心が、「こっち」と強く感じる時に相方が逆の道を選び、そちらに自分が行かねばならないその瞬間の分かれ道に出くわす度に、私は強い疲労を感じ、それがしばらく、まあ、3分程度でしたが、続くのです。
もしも私が自分の感覚に執着し続ければ、更に疲労は続いたでしょうが、抵抗を感じる度にそれを意識的に忘れる事で、疲労感は短時間で治まりました。
これは普段の生活でも感じられていた感覚ですが、普段は単なるそわそわするような落ち着かなさという形で出るだけだったので、こんなにあからさまに、堪え難い疲労、として体現されるのは、初めての事でした。
5月に友達と中欧ヨーロッパに行った時に、ロシアの空港で友人がカフェを見つけてそこで朝ご飯をゲットしようとした時にも、私のこの落ち着かなさが発動し、列に並ぶ友人に許しを貰って、一人で乗り換えゲート近くまで歩き、そのゲート内にあったカフェでひとりで食事をしました。
友人の見つけたカフェには、私が食べたかった物が無く、ゲートのカフェにはそれがありましたから、やはりこの感覚は、役に立つのです。
湖を歩いていた時にも、もしかしたら私がリードをとり、この感覚に従って歩いていれば、あんなに凄まじい事にはならなかったかも知れません。
でも私は、冒険の顛末を見てみたかったので、敢えてその提案もしませんでした。
結果、朝10時に歩き始めた私たちは、なんとか夕方5時には、全身泥だらけだったから湖に服ごと入って洗ったりしなければならなかったものの、怪我も無く脱出、5時を過ぎると駐車場が閉まっちゃって、車も出せないしどうすればいいの、という地獄にまでは発展せずに冒険は終わりました。
非常にチャンレンジな体験でしたが、やって良かったとも感じています。
まあ、やっちゃってから後悔しても仕方無いので、良き面を見るしかないんですけれど。
今回コロラドでは後にもう一度同じ様な事があったんですが、そこでもやはり例の疲労を感じたので、その時には相方に言ってみました。
するとやはり、私がこっち、という道に行くのが、正しかったのです。
そうではない道を選んでから、その事が後でわかったんだけどね。
冒険好きな友人がいると大変ですが、自分の限界点の目安では選ばない真新しい体験が出来るので、まあいいと思うのでした。
でももう二度と、湖を歩いて一周してみようとは思わないことでしょう。
2016年8月23日火曜日
深読み感想ーヒトラー最後の20000年
ケラさんの舞台"ヒトラー最後の20000年〜ほとんど、何もない"を、幸運な事にもう一度観る事が出来ました。千秋楽。
で、作った人が"ほとんど何もない"って言ってんだから、何もないでいいじゃんとも思うんだけど、実は色んな物があるように観えてしまった部分もあるので今日はそれを書こうと思います。
このお芝居は、主にヒトラーという、歴史的にマクロなモンスターに焦点が当たっているんだけれど、その同じ時代に生きたふたつの家族の事も、描いているんです。
ひとつはアンネ・フランクの一家。
そしてもうひとつは、歴史に名前など残らないであろう一介の民間人〜亡くなった娘の夫とひっそり二人暮らしをしている、「おとうさん」の家族ーつまり、娘婿(アフリカ系青年)とその義父(日本人57歳)、です。
アンネ・フランクの家族のエピソードを通しても色んな物を感じちゃったのですが、より強烈に心を捉えたのは、「おとうさん」の方でした。
この「おとうさん」、始めは普通に良い人物、という佇まいを持って出て来ます。新聞で報じられるナチスの、ユダヤ人への残虐な迫害ぶりに胸を痛めたりして。
だけど徐々にことあるごとに、彼の内にある無自覚な、というか、彼にとってはもうなんていうか当たり前過ぎて疑問にすら思えないのであろう、定着した無頓着な、無邪気な人種差別意識が、あからさまに言動に、随所に現れるのです。
これは、普段は良識的な発言をしている政治家が、スピーチ中に人をギョッとさせるような非人道的な(本音)発言をしてしまって、後で叩かれるみたいな出来事として、日常でもよく目にする光景ですが、この「おとうさん」は政治家でもなんでも無い、パブリックな人物では無いので、その無頓着で無邪気な残酷さは、日常を共にしている家族の現実という、非常にミクロな領域で体験され続けます。
大舞台で900万人ものユダヤ人を殺害したヒトラーというマクロ・モンスター。
その惨状に胸を痛める「おとうさん」の内にある、本人どころか周りの誰からも疑問視されない、日常的な残酷さ(&実はもっとホラーな本音も潜んでいるのですが。)というミクロ・モンスター。
殺した数が違うだけで、他にはまったくもってなんの違いも無い、ふたりのモンスターなわけです。
この「おとうさん」が日本人なのって、日本軍がナチス側だったからかなとか思ったけれどまあそれはどうでもいいんです。とにかくあの「おとうさん」の、随所に現れる他者への魂の無い残酷さが、背筋を凍らせる程不気味なんですよ。
こういった、日常の中で取り立てて責められる事も無く見過ごされている他者への無神経さ〜心を込めて作ってくれた料理を無視したり、誰かが大切にしている物や事や作品を尊重しなかったり、ちゃんと話を聞かなかったり、マルゴット・フランクを当たり前の様に「アンネの姉」と呼び続けたり〜そういう無神経な残酷さが随所に散りばめられているこのお芝居を観ていると、誰が、どの口下げてヒトラーを責められるのか、という気分にもなってくるのです。
わかりやすい悪い事をした人間は、標的になりやすい。
でも、その悪い事をした人と同じ心の質が、自分の中には全く無いのか。
たったひとりの人間が、900万人を殺せたわけではないのです。
900万人を超える人々の心の中に、ヒトラーの欠片があったから殺せたわけです。
もしも良識派を自負する誰かが、このヤンチャなお芝居が思いっきりやっちゃっている、ありとあらゆるタブーに対して、それはやり過ぎなんじゃない?と言ったとしたら、私はその人に問いたいなと思います。
「このお芝居の無法さは、あなたが日常的にやっちまっているかもしれない、他者への無自覚な残酷さという無法行為を超えていますか?」と。
このお芝居は勿論、決してヒトラーを弁護しているような物ではありません。
でも同時に、ヒトラーだけが特殊な悪人だったわけでは無い事を、思い出させてくれました。
大舞台に立つマクロなモンスターの背後には、盲目な心を持つミクロなモンスターが何百何千万人もいて、友達や、恋人や、子供や、孫や、教師や、作家や、親や、隣人や、上司や、部下や、有名人や、無名人や、兄弟や、気に入らない事を書いたブロガーや、気の利かない店員や、羨望の対象や、社会の弱者や負け組の人や、社会の強者や勝ち組と判断される人など、とにかくあらゆる他者に対して、無自覚に、必要以上に、残酷な言動を日常的に繰り返しているのかもしれないのです。
ヒトラーと私たちの違いは、一体どこにあるのか。
違いがあるなんて思うのは、思い上がりなんじゃないのか。
もし自分をこんな風に思えないとしたら、あなたもマクロなモンスターの素質を持つ、ミクロなモンスターの、一員かもしれませぬよ(^^)
で、作った人が"ほとんど何もない"って言ってんだから、何もないでいいじゃんとも思うんだけど、実は色んな物があるように観えてしまった部分もあるので今日はそれを書こうと思います。
このお芝居は、主にヒトラーという、歴史的にマクロなモンスターに焦点が当たっているんだけれど、その同じ時代に生きたふたつの家族の事も、描いているんです。
ひとつはアンネ・フランクの一家。
そしてもうひとつは、歴史に名前など残らないであろう一介の民間人〜亡くなった娘の夫とひっそり二人暮らしをしている、「おとうさん」の家族ーつまり、娘婿(アフリカ系青年)とその義父(日本人57歳)、です。
アンネ・フランクの家族のエピソードを通しても色んな物を感じちゃったのですが、より強烈に心を捉えたのは、「おとうさん」の方でした。
この「おとうさん」、始めは普通に良い人物、という佇まいを持って出て来ます。新聞で報じられるナチスの、ユダヤ人への残虐な迫害ぶりに胸を痛めたりして。
だけど徐々にことあるごとに、彼の内にある無自覚な、というか、彼にとってはもうなんていうか当たり前過ぎて疑問にすら思えないのであろう、定着した無頓着な、無邪気な人種差別意識が、あからさまに言動に、随所に現れるのです。
これは、普段は良識的な発言をしている政治家が、スピーチ中に人をギョッとさせるような非人道的な(本音)発言をしてしまって、後で叩かれるみたいな出来事として、日常でもよく目にする光景ですが、この「おとうさん」は政治家でもなんでも無い、パブリックな人物では無いので、その無頓着で無邪気な残酷さは、日常を共にしている家族の現実という、非常にミクロな領域で体験され続けます。
大舞台で900万人ものユダヤ人を殺害したヒトラーというマクロ・モンスター。
その惨状に胸を痛める「おとうさん」の内にある、本人どころか周りの誰からも疑問視されない、日常的な残酷さ(&実はもっとホラーな本音も潜んでいるのですが。)というミクロ・モンスター。
殺した数が違うだけで、他にはまったくもってなんの違いも無い、ふたりのモンスターなわけです。
この「おとうさん」が日本人なのって、日本軍がナチス側だったからかなとか思ったけれどまあそれはどうでもいいんです。とにかくあの「おとうさん」の、随所に現れる他者への魂の無い残酷さが、背筋を凍らせる程不気味なんですよ。
こういった、日常の中で取り立てて責められる事も無く見過ごされている他者への無神経さ〜心を込めて作ってくれた料理を無視したり、誰かが大切にしている物や事や作品を尊重しなかったり、ちゃんと話を聞かなかったり、マルゴット・フランクを当たり前の様に「アンネの姉」と呼び続けたり〜そういう無神経な残酷さが随所に散りばめられているこのお芝居を観ていると、誰が、どの口下げてヒトラーを責められるのか、という気分にもなってくるのです。
わかりやすい悪い事をした人間は、標的になりやすい。
でも、その悪い事をした人と同じ心の質が、自分の中には全く無いのか。
たったひとりの人間が、900万人を殺せたわけではないのです。
900万人を超える人々の心の中に、ヒトラーの欠片があったから殺せたわけです。
もしも良識派を自負する誰かが、このヤンチャなお芝居が思いっきりやっちゃっている、ありとあらゆるタブーに対して、それはやり過ぎなんじゃない?と言ったとしたら、私はその人に問いたいなと思います。
「このお芝居の無法さは、あなたが日常的にやっちまっているかもしれない、他者への無自覚な残酷さという無法行為を超えていますか?」と。
このお芝居は勿論、決してヒトラーを弁護しているような物ではありません。
でも同時に、ヒトラーだけが特殊な悪人だったわけでは無い事を、思い出させてくれました。
大舞台に立つマクロなモンスターの背後には、盲目な心を持つミクロなモンスターが何百何千万人もいて、友達や、恋人や、子供や、孫や、教師や、作家や、親や、隣人や、上司や、部下や、有名人や、無名人や、兄弟や、気に入らない事を書いたブロガーや、気の利かない店員や、羨望の対象や、社会の弱者や負け組の人や、社会の強者や勝ち組と判断される人など、とにかくあらゆる他者に対して、無自覚に、必要以上に、残酷な言動を日常的に繰り返しているのかもしれないのです。
ヒトラーと私たちの違いは、一体どこにあるのか。
違いがあるなんて思うのは、思い上がりなんじゃないのか。
もし自分をこんな風に思えないとしたら、あなたもマクロなモンスターの素質を持つ、ミクロなモンスターの、一員かもしれませぬよ(^^)
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