2014年5月24日土曜日
RIP、スティーブ
知人の突然の訃報に、共通の友人らと共に驚きと悲しみのコメント合戦の最中である。
彼はとてもきれいな歌を作るギタリストで、Today's Showというアメリカの有名なテレビ・ショーに出た事もあるし、最近また大きなステージで、演奏活動を始めたばかりだった。
最近までかなり元気で活発に活動していたんだけれど、ずっと患っていた病の悪化で、昨夜遅くに亡くなったらしい。
最近メールで彼のショーの楽屋に遊びにおいで、と誘ってくれたばかりで、その返事も出さないままだった。
彼の訃報とは直接関係無いのだけれど、数年前に飛行機のシートが隣同士だったことで、親しくなった人物がいる。その人の名前はピーターと言って、コミックスやアニメーション専門のジャーナリストだと自己紹介し、なんと私は日本で漫画やってるんですよ、とか言うことで、たった45分間程のフライトのアメリカ国内線の中で、急速に親しくなってしまったのである。
年齢は、かなり離れていると思う。ピーターは白髪に真っ白いあご髭をたたえたサンタクロースみたいな感じの素敵なロマンスグレイだ。
いつものことながら私は、飛行機に乗ると隣席の人とのコミュニケーションは極力しないようにと全エネルギーを使って抵抗するので(笑)、最初の数十分間は白々しい空気が流れていたはずであるが、一旦会話が始まってしまうとなんとも言えない親しみを感じ、まるで旧知の知り合いのようになってしまったのである。不思議な出会いだった。
彼が飛行機を降りる時に名刺をくれたから、私は日本に帰国してからFacebookで彼を見つけて、それ以来中々に親しい交流を続けているのである。
ところで、ピーターとFacebookで繋がってしばらくして、互いに共通の友人がいることがわかった。驚きながらもそれについて多くはお互いに語らず、お互いがその人物とどの程度親しいのかなども、触れないままで今まで来た。
何故ならその共通の知人は既に他界しており、おまけにかなりの有名人であることと、ちょっとした複雑な事情もあって、なんとなく互いにその話題に触れる事にナーヴァスになっているような感じもあり、共に踏み込まないで今日まで来たのである。
そして今回のスティーブの訃報を受け、なんとそのジャーナリストのピーターが、スティーブについての長い思い出コメントを寄せているのをさっき見たのだ。な、なんと彼は、私よりもずっとずっとスティーブと親しい間柄なのだった。
そしてその他界した人物とスティーブが親しかったので、ピーターの思い出話はその、既に他界した共通の友人との思い出話にまで及んでおり、期せずしてピーターの立ち位置が、私には今回はっきり見えたのであった。
なんとも不思議な縁。
というか、こういう縁が、この、私のアメリカの友人/人間関係には、いつも満ちているのだ。
よくソウルメイトっていうじゃない?
もし私にソウルメイトやソウルファミリーがいるとしたら、多分この、本当に長い長い時間、言ってしまえば、私が10才くらいの時から脈々と続いていると言ってもいい、この不可思議なアメリカの、人生の先輩達との交流がそうなのかもしれない。と改めて思う。
もしかしたら前世かなにかで、同じトライブにいた家族か何かだったのかもしれない。
今は学校を優先しているので、アメリカにいても中々彼らに会う時間がとれないのだけれど、私が今なんとなく感じるのは、今年学校を卒業したら、私はもしかしたら真っ先に、彼らの元へと、帰ってゆくのではないだろうか。
いつでもどんな時でも、静かに私の傍らに寄り添ってきてくれたこの不思議で優しい関係が、これからもっとより明確で確かな物になる、そんな気がするのである。
RIP、スティーブ。
生まれ変わっても、またどこかで会うんじゃないかな。
そんな気が、とてもするのである。
2014年5月18日日曜日
恋心
相手がしんだら亡骸を食べてしまうかも、というくらい愛している男性と結婚生活を送る女性と話をする機会がありました。
なんと幸福なことでしょう。
たまにこういう、"本当の相手"、みたいな人に出会って、一生をお互いへの深い愛情に満ちた中で生きる人っていますよね。真のロマンスです。
先日、ジョージ・クルーニーの新しいガールフレンド、なんていう女性の写真をネットのゴシップサイトで見かけた時、ジョージったら遂に見つけたじゃん、なんてふと思ったものですが、その後すぐに婚約のニュースがありましたね。
長年独身を貫いて来て、遊び人みたいに言われていたジョージ・クルーニーですが、50才を超えて最終的に選んだ女性が見るからに聡明で成熟した印象の人で、あの彼女を見た時、彼は単に真面目に丁寧に、本当の相手を待っていただけなんじゃないのかな、と思いました。
私が学校で、言語獲得前期(3才以前)に生じるトラウマとその影響について学んでゆく過程の中で、最も多く検証されるのが、恋愛感情です。
誰にも言える事ですが、両親との関係性が最も反映されるのが恋愛関係であり、これは特に私の行ってる学校で取り組んでいる"言語獲得前期"、などというニュー・テリトリーな脳科学を持ち出さなくても、極めて一般的に認識されている事ではないかと思います。
人間は無意識的に常に、親からもらえなかった、足りていない部分の愛情表現を他者から得ようと目論んでおり、この無意識下にある愛情への飢餓感が、様々な行動欲求の原動力になっているわけです。恋愛は愛情が絡む事から、特に親子関係を象徴すると言われています。
しかしながらこの飢餓感/三歳以前に脳に刻まれたトラウマは、大人になってから何か替わりの物を得る、という代替行為では決して癒されたり埋められたりは出来ないと言われています。
人生で何を達成しても満足出来ないことから、極端に食べ過ぎたり飲み過ぎたりドラッグに溺れたり恋愛に溺れたり賭け事や買い物など様々な物の中毒になったり、または真面目な人はそういった逃避行為への強い欲求全てを規制してストレスの塊になって、いずれにしても結局は崩壊する原因は、ここにあると言われています。
今はうちの学校で取り組んでいるような、早期トラウマに切り込む画期的で安全な方法が、日本の最新精神医療の分野にも取り入れられ始めていると聞いているので、才能豊かな若者が破壊的に若死にしたり健康を害したりする姿を見なくても済む時代がやって来るかもしれませんが、現状はまだまだ多くの人たちが、無意識下の飢餓感、という領域の犠牲になっているのではないかと思います。
そして実際、一旦この無意識下の飢餓感から自由になってしまうと、こんなにもバカバカしいことは無い!はあ!??、と心底思ってしまうものなんです。
こうなってくると、誰かに恋愛感情を感じることはあっても、そこにインテンスな瀕死の欲求、つまり親と赤ちゃんとの間に交わされるタイプの、お前の愛を失ったり見捨てられたりしたら命を脅かされるのよ的深刻な欲求〜
つまり赤ん坊はひとりでは生きられない為、親の愛情を失って育児放棄でもされた日にゃあ実際に死んじゃうよ、というような本能的危機感を動機とした欲求
〜の交換を求める気持ちがまるで無いため、相手が多かれ少なかれそういった欲求を抱えていた場合、そこには恋愛が成立しないということになってしまうわけなのです。
こう書くと、やけに分析的で理屈っぽい感じがするかもしれませんが、自分がそこから抜けてしまうと、実際にそうなってしまうんだからしょうがありません。
これが幸福な状態なのかどうかは、個人が人生に何を求めるかによって、意見が分かれるところだと思います。
さて、ジョージ・クルーニーの婚約はどうなるんでしょうか。
私の印象では、ジョージ自身はそういった赤ちゃん欲求恋愛から、かなりの度合いで卒業している印象があります。女性の方も成熟し、自立している印象が。
しかし関係性というものは、深まってくる内に、色んな物が露呈してくるものです。
お互いが自分の理不尽な欲求を盲目的に相手に対して正当化しない限りは、ある程度の赤ちゃん欲求を満たし合えるのも、いい関係だとも感じます。
これはそれぞれの度合いと許容量に関わってくるものなので、まだまだなんとも言えない感じ〜というのが、私の印象ですね。
ま、赤の他人のジョージ(情事/(オヤジギャグ))はおいといて。
オレ自身はどうなのよ。
ご想像におまかせしますよ。
え?まるで興味ない?
実は私もです笑。
しかしそんな私に先日ある人物が、唐突な予言をしてくれました。
なんでもヒュー・ジャックマンによく似た男性が現れ、私と結婚するんだそうですよ。
その人は大変私への理解と愛と尊敬に溢れた人物で、私がどんなに長時間、独りで作画などに没頭していても、それを喜んで応援してくれるような、暖かくてサポーティブな男性なんだそうです。
この予言が成就するのかどうか、わたしゃはっきり言ってどうでもいいんです。
でも成就したら面白いのでちょっと覚えておこうと思い、このブログに書いておきます。
それがこの記事を書き始めた理由でしたからね。わははははは。
アホっぽくてごめんなさい。
2014年5月13日火曜日
もうすぐ公開(5/17)"野のなななのか "の話
野のなななのか
とタイトルを聞いただけで、泣きたい様な気持ちがこみ上げて来る。
撮影の体験がとても素晴らしかったからだ。
自分にとって本当に納得している物を創作している時、人は独特の空間に入る、と私は思う。
これは私が漫画を描いている時や、油絵を描いている時にも感じるのだけれど、なんとも深く満たされた、フルな空間。そこに全てがあって、他に何もいらなくなる。深い満足感と至福感だけがあって、続々と自分の中から湧き出て来る様々なアイディアがあまりにも豊かで、その海の中でただ夢中で満たされて、食べることさえ必要無いと思えるような、完全に孤立しているのに、全てと繋がっているような、より深い現実と、密接な関係を結んでいるような、そんな暖かさに満ちた空間。
大林宣彦監督の最新作"野のなななのか"の撮影中に私が感じたのは、私自身が、映画を製作中の大林監督ご自身が体験されているのかもしれない、その豊かな至福の空間の中に、すっぽりと入ってしまったような感覚だった。
私は野の音楽隊という役で、主題歌を担当したパスカルズのメンバーのひとりとして出演しているだけなのだけれど、それでもあの不思議な深い至福感覚の中に入り込み、ひとりの人が「創作」という空間に入った時のエネルギーの膨大さに、改めて感じ入ったのだ。創作者だけが味わえると信じていたあの空間は、映画という現場においては、そこに関わる全ての人が分かち合う事の出来る程に、広大に広がってゆくものなんだと知った。
そして試写会で映画を観た時、自分の体験が決して幻想のようなものではなかったんだという確信を持った。
映画の中で語られていることの全てに、私自身も深くうなづいていたからだ。
ずっと言葉に出して言いたかったけれど、お茶を濁したり、怖かったり、遠慮したりして遠回しにしてきた事の全てが、映画の中でずばりと語り尽くされていた。
僭越や失礼を承知で言ってしまえば、これは私の映画だ!とさえ感じてしまったほどだ。
そのカタルシスたるや!
震災以来、ずっと癒えないで疼いていた傷が、一気に光を浴びて完治してしまったような、もやもやとした暗雲に覆われて混沌としていた心が、きれいな水で一瞬にして洗い清められてしまったような、そんな解放感だった。
丁寧に選ばれた言葉と、情熱的なやり方で、どんどん語られてゆく想い。
芦別の美しい風景と、素晴らしい存在感で圧倒的な演技をされている常磐貴子さんと安達祐実さんを始めとする女優さん達が、深い思索的な風情が感動的なまでの奥行きを造り出しておられる品川徹さんを始めとする男優さん達が、一丸となって"野のなななのか"の世界観に没入し、力の限り伝えたい事を演じ尽くしている、そんな感じだった。
大林監督の創作の空間に全員が巻き込まれ、大勢の人たちがひとつの巨大な塊となって、ひとつの高潔な方向へと向かってこの映画を創り上げているのだ。
深くて情熱的で圧倒的で、そして優しい映画だ。
そして前回の作品「この空の花」同様に、独特の、熟練された正義感と優しさのバランス感覚を持つ大林監督は、そこに決して敵を作らない。
全てを救い上げる仏の様な暖かい手で監督は、人間は、世界は、二元論ではない、敵と味方ではない、善と悪ではないやり方で、ちゃんと存在出来るのだということを、優しく諭してくれるのだ。
それについては同じ事を二度書くのもあれなので、今は一時的に閉めているブログに書かせていただいた、前作"この空の花"の感想をここに加えておきます。
"野のなななのか"必見です。
こんな映画に関わらせていただいて、まるで一生分の仕事を終えたような、そんな満足感と光栄さに、今は満たされています。
ところでこの映画の英語タイトル"SEVEN WEEKS"は、私率いるアメリカン・チームで作らせていただきました(自慢!!)
ーーーーーー"この空の花"感想ーーーーー
昨日、有楽町の朝日ホールで行われた、大林宣彦監督の最新作、長岡の花火の事を描いた映画『この空の花』の完成披露試写会へ行ってきた。
パスカルズが挿入歌を担当し出演もしており、特にパーカッションの石川浩司は、山下清役というはまり役で、映画の中でも素晴らしい位置にある、重要人物だ。
そもそも監督が、長岡の花火を愛した山下清画伯の言葉、「すべての爆弾が花火になったら、この世から戦争がなくなるのにな。」にインスパイアされた事で、生まれた部分もあるという映画だそうだから。
私は実は、邦画、というものにあまり縁の無い人間で、大林宣彦監督の作品に触れるのも、これが初めての体験だ。
とても独特の手法をお持ちで、映画の始めの方では、しばし面食らう、という感覚があった。
このスタイルは、好き嫌いがはっきりするかもしれないし、とっつきにくいと感じる人もいるのかもしれないな、と。
しかし観ているうちに、私はこの映画の持つ、ある崇高な意図に、深く感じ入り始めた。
この映画は、長岡が受けた第二次大戦での戦争被害を、現地の経験者の言葉をリアルに用いながら、淡々と描いてゆく。
しかし、そのどこにも、被害者意識を煽る気配も、当時の敵国アメリカへの怒りを煽る気配も、まったく無いのである。
意図するにしてもしなくても、戦争を題材にしたフィクションや報道には、加害者である物への怒りと、被害者たる物への悲しみが、横たわる事がある。
私はそれを、911の時の日本国内の報道に、強く感じた。
始めは、被害者であるNYへの哀悼が、後には、報復を始めたアメリカへの怒りが。
街角でのインタビューでさえ、微妙に翻訳を変えて、報道の持っていきたい方向へ視聴者の心を導く在り方。
身近な友人たちでさえそれに翻弄されて、ネット上に無防備なまでのアメリカへの罵倒を投稿したりしていたのを見て、私は随分と疲弊したのを覚えている。
報道する側が、ニュートラルである事を意図しない事で拡大する、個人の内に掻き立てられる過剰な憎しみと怒りと悲しみ。
そして時にそれは、国家政策レベルで行われる意図的な煽動である事もあり、そうやって今まで人間は、戦争を始める、という意図を感情の中で指示し、繰り返すことを許してきたのだ。
怒りと破壊をもってしか、変化を生みだせないと深く信じる心によって。
反戦、と名付けられたものでさえ、なんらかの対象への怒りと敵意が込められていることすらあるのだ。
その、対象への敵意こそが、戦争を生みだす、大きな要因のひとつであるという現実が、置き去りにされたまま。
だけど今ここに、戦争を煽動しない、美しい戦争映画が出来上がった。
爆弾が全部、花火になればいいのに、という祈りの元に。
戦争を生み出し、破壊を繰り返してきた人間の愚かさを、ふんわりと抱きしめあやしながら、もうやめようね、と優しく諭す、誰のことも非難しない、誰の事も貶めない、美しい、戦争の事を綴った映画が。
爆弾が花火になる、という平和への変容は、この映画によって、きっと人々の心に染み渡る。
破壊や怒りでしか物事を変化させられない、という想いを、鮮やかにくつがえす。
誰もが持つ心の中の爆弾のひとつひとつが、美しい花火へと昇華する事で、もうこの世に、戦争は起こらない。
そんな崇高な祈りが隅々にまで丁寧に込められているように感じられた映画、『この空の花』は、再生への想いを込められ長岡で打ち上げられた、フェニックス~不死鳥という名前の花火を描きながら、震災や原発への想いも含んで語られ、エンドマークをつけられずに終焉した。
大林監督、素晴らしい作品を、ありがとうございました。
2014年4月7日月曜日
Law and Order (ネタばれ付き)
"Law and Order"(ニューヨーク編)を観始めたのは、マリスカ・ハガテーがヒロインを演じているという、些細でおバカな理由からです。
私の大好きな"ラブ・ グル"というコメディ映画の中で、モテたい為にグル/精神修行指導者となったマイケル・マイヤー演じる聖者もどきが、「マリスカ・ハガテー」というアメリカ人にとってもエキゾティックな名前の響きを、とっさにマントラとして使い始めたというエピが気に入っていて、その時には知らなかった件の女優さんが、凛々しい女刑事役で出演されているのを知って、そのドラマを観たのがきっかけなのです。
だから最初の頃その女優さんを観る度に、胡散臭い宗教指導者のマイヤーが両手を合わせておごそかに、「マリスカハガテー」と唱え、信者達がそれをうやうやしく唱和する姿が重なって可笑しくてたまらなかったのですが、今はすっかりドラマの内容にハマり、ある意味私はマイヤー演じるキュートな偽グルの、マインドコントロールにハマったのでした。
"Law and Order"の話の前にちょこっとこのマリスカ・ハガテー マントラ論を話したいので脱線します。映画"ラブ・グル"の中でマイヤーは典型的なアメリカの俗物で、エキゾティックな神秘性、いわゆる彼が表面的に感じているグルのモテる要素のひとつを、全く所有していません。その彼がなんとか自分にカリスマ教祖という張り子の虎をかぶせる為に使ったのが、このマリスカ・ハガテーというテレビドラマの女優さんの名前だというところが、大変スパイシーでうまいなと思うのです。
しかもそのことによってこの映画は、世間によくいるステレオタイプなスピリチュアル・ティーチャーのことも、俗物として容赦なく切り捨てており、それがまた痛快なのです。
ま、"ラブ・グル"の話はまた今度。
そんな不純な動機で観始めたこの" Law and Order"が、最近素晴らしくて感動しきりなのです。このドラマは犯罪捜査の刑事物ですが、1話の中で話が二層三層と深まってゆき、最初の事件なんてもうどうでもよくなっちゃう、という展開がパターンで、そのようにエピが二層三層と深まるにつれ話も深まってゆき、最後は深い感動を与えてくれることが、多々あります。
あるエピについて、ここでオチバレも含めた感想を書きますので、Law and Orderを観ている方は、ここから読むのを止めた方がいいかもしれません。ーーーー>
最近特に感動したのが、小児性愛者の医者を扱ったエピでした。
ある医者が患者である少年達に診察室で性的な悪戯をしているのが発覚して起訴されますが、裁判中にこの医者が、何者かに惨殺されてしまいます。
物語は変質者への裁判から、その変質者を殺した犯人探しにシフトし、使用された銃弾から、ひとりの地位ある家族の父親に容疑が向かいます。
この父には成人した知的障害を持つ息子がいるのですが、取調中にこの息子もまた、件の医者の被害者であったことがわかってきたからです。
ところが。
この青年が被害を両親にひた隠しにしていたことがわかり、父親の動機は覆され、取調中に、普段の柔和で愛くるしい態度を一変させ、自分にへんなことをした変態医師への激しい憤怒と攻撃性を見せたこの知的障害を持つ青年が実は、父親の銃を持ち出して医師を殺したことが判明し、今度は裁判が、この青年を対象にしたものへとシフトしてゆきます。
Law and Orderは基本的に検事側の立場に立って描かれているドラマです。
陪審員制度でいかに犯人を有罪に導くのが難しいかを、このドラマでは何度も語られ、今回のこのエピでも、主人公側の検事が激しい情熱を傾けて、この情状酌量の可能性と責任能力無しと判断されそうな青年を、なんとか実刑に追い込もうと奔走しますが、ある時点でハタと、それが人道的に正しいことなのかどうか、ということを考え始めます。
そしてこの検事は、この青年の責任能力が正確にはどの程度なのかを、専門家を投じて詳細に探求してゆく中で、また裁判中のこの青年の態度等から、この青年が、何故知的障害を負っているのか、という本当の原因に行き当たるのです。
なんとこの青年の知的障害は生まれついてのものではなく、子供の頃に遊んだミニカーの塗装に使われていたペンキに含まれていた鉛による、鉛中毒が原因だったということが、明らかになるのです。
青年が子供だった頃には、アメリカでは鉛の害が既に判明していた為、口に含んだりなめたりされがちな子供のおもちゃには、鉛を含有したペンキを使用することが禁じられていたにも関わらず、この青年が今でも大事に持っていたミニカーのペイントには鉛が入っており、脳のスキャンによってこの青年の脳が、鉛中毒により著しく損傷していることも、発見されました。
ここで裁判の行方はなんと、コスト削減のために不正にこのおもちゃを作り販売していた、大手の玩具会社のトップが対象になってゆくのです。
青年の脳の損傷が証明されたことで陪審員はこの青年を無罪とし、大手の玩具会社の社長は、この青年が一生食べるに困らない保証金を支払うことを約束し、また物語は、始めの頃にほんの微かにしか描かれていなかった、この青年の父親の持つ、息子への微かな苛立ちまで救い上げてゆきます。
物語の最後には、完璧な子供が欲しかったのに息子は知的障害者だ、という父親の悲しい苛立ちがクローズアップされますが、毒のあるおもちゃを自らが誤って息子に与えてしまったこと、また医師からの猥褻な行為にずっと気付いてあげられなかった自分の愚かさなどと一気に対峙することになったこの父親が、それによって最後は息子への深い愛情を無条件に取り戻すという、大変感動的な結末が待っていたのでした。
いやー。
毎回ここまで掘り下げられた話が、ほんの一時間のTVドラマで描かれるのですから、実に贅沢な話です。
非情に成熟した正義の感覚を持っていないと、中々出来る物ではありません。
そして法に関わる人に関わらず、多くの現場で働くプロフェッショナル達が、みんなここまでの献身と洞察力で物事を行っていたら、さぞかし納得のいく世界が出来上がるのだろうなと、思わずにはいられません。
サンキューLaw and Order NY 。
マリスカハガテー。
私の大好きな"ラブ・ グル"というコメディ映画の中で、モテたい為にグル/精神修行指導者となったマイケル・マイヤー演じる聖者もどきが、「マリスカ・ハガテー」というアメリカ人にとってもエキゾティックな名前の響きを、とっさにマントラとして使い始めたというエピが気に入っていて、その時には知らなかった件の女優さんが、凛々しい女刑事役で出演されているのを知って、そのドラマを観たのがきっかけなのです。
だから最初の頃その女優さんを観る度に、胡散臭い宗教指導者のマイヤーが両手を合わせておごそかに、「マリスカハガテー」と唱え、信者達がそれをうやうやしく唱和する姿が重なって可笑しくてたまらなかったのですが、今はすっかりドラマの内容にハマり、ある意味私はマイヤー演じるキュートな偽グルの、マインドコントロールにハマったのでした。
"Law and Order"の話の前にちょこっとこのマリスカ・ハガテー マントラ論を話したいので脱線します。映画"ラブ・グル"の中でマイヤーは典型的なアメリカの俗物で、エキゾティックな神秘性、いわゆる彼が表面的に感じているグルのモテる要素のひとつを、全く所有していません。その彼がなんとか自分にカリスマ教祖という張り子の虎をかぶせる為に使ったのが、このマリスカ・ハガテーというテレビドラマの女優さんの名前だというところが、大変スパイシーでうまいなと思うのです。
しかもそのことによってこの映画は、世間によくいるステレオタイプなスピリチュアル・ティーチャーのことも、俗物として容赦なく切り捨てており、それがまた痛快なのです。
ま、"ラブ・グル"の話はまた今度。
そんな不純な動機で観始めたこの" Law and Order"が、最近素晴らしくて感動しきりなのです。このドラマは犯罪捜査の刑事物ですが、1話の中で話が二層三層と深まってゆき、最初の事件なんてもうどうでもよくなっちゃう、という展開がパターンで、そのようにエピが二層三層と深まるにつれ話も深まってゆき、最後は深い感動を与えてくれることが、多々あります。
あるエピについて、ここでオチバレも含めた感想を書きますので、Law and Orderを観ている方は、ここから読むのを止めた方がいいかもしれません。ーーーー>
最近特に感動したのが、小児性愛者の医者を扱ったエピでした。
ある医者が患者である少年達に診察室で性的な悪戯をしているのが発覚して起訴されますが、裁判中にこの医者が、何者かに惨殺されてしまいます。
物語は変質者への裁判から、その変質者を殺した犯人探しにシフトし、使用された銃弾から、ひとりの地位ある家族の父親に容疑が向かいます。
この父には成人した知的障害を持つ息子がいるのですが、取調中にこの息子もまた、件の医者の被害者であったことがわかってきたからです。
ところが。
この青年が被害を両親にひた隠しにしていたことがわかり、父親の動機は覆され、取調中に、普段の柔和で愛くるしい態度を一変させ、自分にへんなことをした変態医師への激しい憤怒と攻撃性を見せたこの知的障害を持つ青年が実は、父親の銃を持ち出して医師を殺したことが判明し、今度は裁判が、この青年を対象にしたものへとシフトしてゆきます。
Law and Orderは基本的に検事側の立場に立って描かれているドラマです。
陪審員制度でいかに犯人を有罪に導くのが難しいかを、このドラマでは何度も語られ、今回のこのエピでも、主人公側の検事が激しい情熱を傾けて、この情状酌量の可能性と責任能力無しと判断されそうな青年を、なんとか実刑に追い込もうと奔走しますが、ある時点でハタと、それが人道的に正しいことなのかどうか、ということを考え始めます。
そしてこの検事は、この青年の責任能力が正確にはどの程度なのかを、専門家を投じて詳細に探求してゆく中で、また裁判中のこの青年の態度等から、この青年が、何故知的障害を負っているのか、という本当の原因に行き当たるのです。
なんとこの青年の知的障害は生まれついてのものではなく、子供の頃に遊んだミニカーの塗装に使われていたペンキに含まれていた鉛による、鉛中毒が原因だったということが、明らかになるのです。
青年が子供だった頃には、アメリカでは鉛の害が既に判明していた為、口に含んだりなめたりされがちな子供のおもちゃには、鉛を含有したペンキを使用することが禁じられていたにも関わらず、この青年が今でも大事に持っていたミニカーのペイントには鉛が入っており、脳のスキャンによってこの青年の脳が、鉛中毒により著しく損傷していることも、発見されました。
ここで裁判の行方はなんと、コスト削減のために不正にこのおもちゃを作り販売していた、大手の玩具会社のトップが対象になってゆくのです。
青年の脳の損傷が証明されたことで陪審員はこの青年を無罪とし、大手の玩具会社の社長は、この青年が一生食べるに困らない保証金を支払うことを約束し、また物語は、始めの頃にほんの微かにしか描かれていなかった、この青年の父親の持つ、息子への微かな苛立ちまで救い上げてゆきます。
物語の最後には、完璧な子供が欲しかったのに息子は知的障害者だ、という父親の悲しい苛立ちがクローズアップされますが、毒のあるおもちゃを自らが誤って息子に与えてしまったこと、また医師からの猥褻な行為にずっと気付いてあげられなかった自分の愚かさなどと一気に対峙することになったこの父親が、それによって最後は息子への深い愛情を無条件に取り戻すという、大変感動的な結末が待っていたのでした。
いやー。
毎回ここまで掘り下げられた話が、ほんの一時間のTVドラマで描かれるのですから、実に贅沢な話です。
非情に成熟した正義の感覚を持っていないと、中々出来る物ではありません。
そして法に関わる人に関わらず、多くの現場で働くプロフェッショナル達が、みんなここまでの献身と洞察力で物事を行っていたら、さぞかし納得のいく世界が出来上がるのだろうなと、思わずにはいられません。
サンキューLaw and Order NY 。
マリスカハガテー。
2014年4月5日土曜日
ミルクゴッドからの託宣
皆さんは、ミルクゴッドという神様を知っていますか?
私はテレビをあまり観ないので知らなかったのですが、東京都知事選の時に、がんばって色々やっていた友人が結果に落胆した時、web上のミルクゴッド様とやらがなにやら胸をすく一言を投じていたようで、ツイッター上ですっかり興奮していて、それで初めてミルクゴッド様の存在を知りました。
ミルクゴッド様の都知事選に関する胸をすく一言というものは私はwebでは確認できなかったしまあそれはいいんですが、ミルクゴッド様はかわいいので知る事が出来てよかったです。
で、まあそれ以来、自分の中に新しい価値観などが芽生えると、ミルクゴッド様からのご託宣だ、と言ったりしているのですが、最近私に、結構きっぱりとしたご託宣が降りましたのでここに書いておきたいと思います。
ちょっとラディカルな心理学やスピリチュアリティの世界では、人生に起こることの全ては自分の心の反映だ、的な考え方があります。
人生に敵はいない、全ては自分の内面の反映であり、内面を変える事で人生は変容しますよ〜、みたいな。
私が勉強しているコロラドの学校でも、より科学的な領域からこれを検証していて、要するに脳の90%以上が形成される三歳までの経験によって脳に刻まれた学習パターンや価値観が、人生に起こる出来事や人格のパターンの形成に深く関わっている、というものです。
このパターンは個性と間違われがちですが、あくまでも後天的な、言わば癖とも呼べるような要素なので、正しいやり方をすればあっけなく取れるものであり、うちの学校では脳科学や理学療法の領域で完全にプロフェッショナルである教師が、安全なやり方でそれを掘り下げ取り去る方法や理念を教えているわけです。
が。
時々ツイッターなどでRTされてくるスピリチュアルなお言葉みたいな物や、最近本屋に沢山並んでいるちょっとお軽そうな自己啓発本の中にも、"不快な出来事や人物を敵として受け止めず、あくまでも自分の内部にその原因が眠っている"という考え、"外部に敵がいるわけではない、嫌な出来事は内部にある問題を探るヒントやきっかけとして受け止めよう"という高潔な要請も度々見受けられ、またこれには私も賛成で、実際にそういった検証を長年学校でもやってきているわけですし、ツイッターで流れてくるほどまでに一般的に浸透しているのは、いいことだとも思います。
しかしながら。
科学や心理学が宗教と違うのは、そこにいつでも例外を認める、科学的な観察眼がつきまとう、という部分です。
例外を認めるきちんとした識別能力と洞察力が自分に備わっていなければ、こうした理念は時に理念として暴走してしまい、人間の根本的な生命力が自分に下す正しい反応への気付きを、時に鈍らせてしまいます。
だからああいった考え方が、一般に広く行き渡ることに、ある種の懸念を感じることもあります。
そもそも責任感の強い良識のある人物が、人生に起こる悪い事全ては自分に原因があるんだよ、と大雑把に言われたら、どう感じるでしょうか。
例外、というものを正しいバランスで洞察できるまでその知識や心を研磨しない限り、世の中鵜呑みにすべきではないことだらけなのではないでしょうか。
というわけで。
つい最近、しばし自分にとってグレーゾーンとして保留しておいた事例に、例外として扱ってよし、という、ミルクゴッド様からの託宣が降りました。
これは、80年代くらいにアメリカでばっと有名になった人格障害の一種である、「サイコパス」と呼ばれる社会性人格障害に関わる事例です。
25人にひとりいる、というこのタイプの人格障害は、特に社会的な機能をあからさまに失っているわけではないので判断がつきにくく、ましてや軽々しく自分の周りに居る人間を、これだと決めつけるようなことはすべきではありません。
しかし、こういったタイプの人物からもたらされるネガティビティに関しては、自分の内部にあるパターンが原因ではと掘り下げる価値はありません。
もちろん、そうした被害からでも掘り下げられる何かはあるのですが、だからといってその相手を「敵として位置づけない」、という判断は、事態を悪化させる可能性だってあるのです。
普通に善良な人たちは、自分の良心から何かを判断する、ということを無意識に行っています。だからこういったタイプの、隠微な攻撃性を持つ人物からのあてこすりや嫌みや、計算高く密かに行われる略奪やコントロールや侵略の気配に日常で遭遇すると、そこになんらかの違和感や不快感を感じながらも、「こんな風に感じる自分が悪い」なんて考えがちです。
ましてや、本屋に並んでいるお軽い啓発本によって、「ネガティブな出来事は自分の中にある何かを教えてくれているんだわ、この人が悪いんじゃない、私のネガティブな思い込みが、この人の行為を不愉快なものだと感じさせているのよ、私はこの人を、否定したり拒絶したりするべきではない(お花畑)。」なんていう考え方が自分の心に浸透している場合は、特にです。
深く心理学を学んでいない人たちにとって、ここで識別力を公使するなんていうことは不可能に近いとも思うのですが、幸いにも私たち人間には、不快感を感じる、センサーがあります。
不快感を感じる自分を、きちんと認めましょう。
そしてどうしてもイヤならば、正当な言い訳や説明が無くても、誰かや出来事を完全に拒絶してもいいケースがあることを、知っておくべきです。
誰かのせいにしても、いいケースがあるのです。
誰かを敵として位置づけても、いいケースがあるのです。
ミルクゴッド様は、しばらく私の中にあった、この部分の判断に、最近激しく決着をつけてくれました。それによって接触するたびにこちらを不快にするような人物を、心の中から完全に断捨離することが出来たのです。
その人物の価値を根こそぎ自分の心から追い出し、無価値化することに成功したわけです。
上記に上げたサイコパス的人格障害者は、ターゲットにした相手の仕事などを滅多に褒めない、または隠微に否定、批判する、という方法で相手を無価値化し無力化するやり方を好むそうなので、こちらは呪い返しのようなことをやったに過ぎません。
しかも、サイコパスが相手を無価値化するのは驚異を感じる相手への恐れからですが、こちらにとってはそんな失礼な人は完全に無価値なんですから、もういないも同然ですね。
時にはこのくらいのはっきりとした強さで、自分にとって不愉快だと感じる環境や人物を、否定してもいいのです。
しかしこのケースの場合は、徒労に終わるであろう喧嘩を避ける為に、あくまで相手に面と向かってきっぱり宣言するのではなく、隠微な方法でじと、っと卑怯に、相手を心の中から追い出しましょう笑。
ところで今回の内容は、常にすべてを誰かや何かのせいにしている人向けではなく、あくまでも上記に記したような、基本的には外部を敵と位置づけない、高潔な判断の癖が自分に根っからついている、私の様に素晴らしい人物向けの物ですので、それを最後に付け加えておきます。
私はテレビをあまり観ないので知らなかったのですが、東京都知事選の時に、がんばって色々やっていた友人が結果に落胆した時、web上のミルクゴッド様とやらがなにやら胸をすく一言を投じていたようで、ツイッター上ですっかり興奮していて、それで初めてミルクゴッド様の存在を知りました。
ミルクゴッド様の都知事選に関する胸をすく一言というものは私はwebでは確認できなかったしまあそれはいいんですが、ミルクゴッド様はかわいいので知る事が出来てよかったです。
で、まあそれ以来、自分の中に新しい価値観などが芽生えると、ミルクゴッド様からのご託宣だ、と言ったりしているのですが、最近私に、結構きっぱりとしたご託宣が降りましたのでここに書いておきたいと思います。
ちょっとラディカルな心理学やスピリチュアリティの世界では、人生に起こることの全ては自分の心の反映だ、的な考え方があります。
人生に敵はいない、全ては自分の内面の反映であり、内面を変える事で人生は変容しますよ〜、みたいな。
私が勉強しているコロラドの学校でも、より科学的な領域からこれを検証していて、要するに脳の90%以上が形成される三歳までの経験によって脳に刻まれた学習パターンや価値観が、人生に起こる出来事や人格のパターンの形成に深く関わっている、というものです。
このパターンは個性と間違われがちですが、あくまでも後天的な、言わば癖とも呼べるような要素なので、正しいやり方をすればあっけなく取れるものであり、うちの学校では脳科学や理学療法の領域で完全にプロフェッショナルである教師が、安全なやり方でそれを掘り下げ取り去る方法や理念を教えているわけです。
が。
時々ツイッターなどでRTされてくるスピリチュアルなお言葉みたいな物や、最近本屋に沢山並んでいるちょっとお軽そうな自己啓発本の中にも、"不快な出来事や人物を敵として受け止めず、あくまでも自分の内部にその原因が眠っている"という考え、"外部に敵がいるわけではない、嫌な出来事は内部にある問題を探るヒントやきっかけとして受け止めよう"という高潔な要請も度々見受けられ、またこれには私も賛成で、実際にそういった検証を長年学校でもやってきているわけですし、ツイッターで流れてくるほどまでに一般的に浸透しているのは、いいことだとも思います。
しかしながら。
科学や心理学が宗教と違うのは、そこにいつでも例外を認める、科学的な観察眼がつきまとう、という部分です。
例外を認めるきちんとした識別能力と洞察力が自分に備わっていなければ、こうした理念は時に理念として暴走してしまい、人間の根本的な生命力が自分に下す正しい反応への気付きを、時に鈍らせてしまいます。
だからああいった考え方が、一般に広く行き渡ることに、ある種の懸念を感じることもあります。
そもそも責任感の強い良識のある人物が、人生に起こる悪い事全ては自分に原因があるんだよ、と大雑把に言われたら、どう感じるでしょうか。
例外、というものを正しいバランスで洞察できるまでその知識や心を研磨しない限り、世の中鵜呑みにすべきではないことだらけなのではないでしょうか。
というわけで。
つい最近、しばし自分にとってグレーゾーンとして保留しておいた事例に、例外として扱ってよし、という、ミルクゴッド様からの託宣が降りました。
これは、80年代くらいにアメリカでばっと有名になった人格障害の一種である、「サイコパス」と呼ばれる社会性人格障害に関わる事例です。
25人にひとりいる、というこのタイプの人格障害は、特に社会的な機能をあからさまに失っているわけではないので判断がつきにくく、ましてや軽々しく自分の周りに居る人間を、これだと決めつけるようなことはすべきではありません。
しかし、こういったタイプの人物からもたらされるネガティビティに関しては、自分の内部にあるパターンが原因ではと掘り下げる価値はありません。
もちろん、そうした被害からでも掘り下げられる何かはあるのですが、だからといってその相手を「敵として位置づけない」、という判断は、事態を悪化させる可能性だってあるのです。
普通に善良な人たちは、自分の良心から何かを判断する、ということを無意識に行っています。だからこういったタイプの、隠微な攻撃性を持つ人物からのあてこすりや嫌みや、計算高く密かに行われる略奪やコントロールや侵略の気配に日常で遭遇すると、そこになんらかの違和感や不快感を感じながらも、「こんな風に感じる自分が悪い」なんて考えがちです。
ましてや、本屋に並んでいるお軽い啓発本によって、「ネガティブな出来事は自分の中にある何かを教えてくれているんだわ、この人が悪いんじゃない、私のネガティブな思い込みが、この人の行為を不愉快なものだと感じさせているのよ、私はこの人を、否定したり拒絶したりするべきではない(お花畑)。」なんていう考え方が自分の心に浸透している場合は、特にです。
深く心理学を学んでいない人たちにとって、ここで識別力を公使するなんていうことは不可能に近いとも思うのですが、幸いにも私たち人間には、不快感を感じる、センサーがあります。
不快感を感じる自分を、きちんと認めましょう。
そしてどうしてもイヤならば、正当な言い訳や説明が無くても、誰かや出来事を完全に拒絶してもいいケースがあることを、知っておくべきです。
誰かのせいにしても、いいケースがあるのです。
誰かを敵として位置づけても、いいケースがあるのです。
ミルクゴッド様は、しばらく私の中にあった、この部分の判断に、最近激しく決着をつけてくれました。それによって接触するたびにこちらを不快にするような人物を、心の中から完全に断捨離することが出来たのです。
その人物の価値を根こそぎ自分の心から追い出し、無価値化することに成功したわけです。
上記に上げたサイコパス的人格障害者は、ターゲットにした相手の仕事などを滅多に褒めない、または隠微に否定、批判する、という方法で相手を無価値化し無力化するやり方を好むそうなので、こちらは呪い返しのようなことをやったに過ぎません。
しかも、サイコパスが相手を無価値化するのは驚異を感じる相手への恐れからですが、こちらにとってはそんな失礼な人は完全に無価値なんですから、もういないも同然ですね。
時にはこのくらいのはっきりとした強さで、自分にとって不愉快だと感じる環境や人物を、否定してもいいのです。
しかしこのケースの場合は、徒労に終わるであろう喧嘩を避ける為に、あくまで相手に面と向かってきっぱり宣言するのではなく、隠微な方法でじと、っと卑怯に、相手を心の中から追い出しましょう笑。
ところで今回の内容は、常にすべてを誰かや何かのせいにしている人向けではなく、あくまでも上記に記したような、基本的には外部を敵と位置づけない、高潔な判断の癖が自分に根っからついている、私の様に素晴らしい人物向けの物ですので、それを最後に付け加えておきます。
2014年3月30日日曜日
りげんどう@西荻窪
落ち着きたかった。
なんだか忙しい2月と3月だったから。
私の心に芽生えていた、和の空間でまったりしたいという気持ちは、隙の無い完成された、隅々まで洗練された日本庭園を見ながら、という感じではなかった。
高価な鯉や刈り込まれた芸術的な植物のあるあの日本庭園ではなかった。
竹林の足下に淡い灯りが灯っていたりとか、白い砂利石の庭に波紋が描かれていたりする必要も無く、石の器にたまった水にぽつんと花が一輪浮かんでいるところを見せてくれる必要も無いし、禅を象徴する深淵な陰影を、中庭が見せてくれる必要も無かった。
誤解の無いように言っておきますが、上記は全て私が実際に体験して、そして感動した日本の美です。揶揄しているわけでは決してありません。いつもはそういうの、好きなんです。
でもなんだかこの三月、私が求めていたのはネオ・ジャパネスクとでも言うのかね。伝統美、というのではなくてもっと日常的な、それでいて、日常にこんなのってあったかな、と思わせる、日常のイデアを軽く持つ日本の空間だったのです。
そんな時、忙しい時間をぬってちょっと遠くから西荻窪を訪れる友人とランチをすることになり、その友人のイメージから、まさに今こそネオ・ジャパネスクなのでは!と思ったのです。
しかし西荻窪にそういう場所を全く知らなかった私。
ランチ後にすぐ荻窪に移動しなければならず、あまり駅から離れたくもないしどうしたものか、と思った時にふと、「西荻窪 古民家」という言葉が頭をよぎり、検索したら出て来たのが、この古民家レストラン"りげんどう"でした。
なんと駅から徒歩3分と近いのに、中庭もある和古民家ののどかそうなたたずまい。
丁寧に作られていそうな和定食。
それも、懐石料理みたいなんじゃなくて、家庭料理の進化版。
木枠の窓から柔らかく差し込む日差し。
窓の向こうに覗く、適当に雑然とした庭。
これって、私が欲しかったあれじゃない?
加えてサイトで紹介されている、階上の併設ブティックに並ぶ服や雑貨のイメージが、その日ご一緒する友人のイメージにもぴったりでした。
もうここで決まりっしょ。
何度も行き慣れているはずの西荻窪に、こんな店があったとは。しかも駅前に!?
半信半疑で訪れたら、まさに駅前の、まさに期待を裏切らないのどかなたたずまいの”りげんどう”が、あっと言う間にありました。
「こういう店は店員がお高い。」
何故かこういう店をよく知りもしない私が勝手に抱いていた思い込みは、店に入った瞬間の、なんとも親しげで暖かい出迎えで一気に崩壊。
初めて伺ったにも関わらず、ものすごくくつろげてしまったのは、あのフレンドリーな店員さんのおかげだと思います。
「週替わりの定食をご予約ですが、それで大丈夫ですか?」と改めてメニューを持ってきてくれて、私はそのまま、友人は、出雲蕎麦付きの野菜寿司のお膳に変更。美味しかったそうです。
私の定食も美味しかったです。三種類の変わり豆腐とお漬け物が特に。
これからも、時々行ってしまうことでしょう。
ここはなんだか、観光地にいる気分にもさせてくれるよ。
島根が本店ていうのもあるのかもしれないけどね。
あ、友人はやはり、ブティックの服にハマったそうです。
こんなことって、あるんだなあ。
2014年3月25日火曜日
Trattoria 29 (ヴェンティノーヴェ)

私は実はお嬢様なので(爆)、ありとあらゆる名だたる一流レストランでの飲食経験が多々あります。
だから一流である、ということは単なるレッテルや張り子の虎なのではなく、しっかりと裏付けされた技術やホスピタリティーにちゃんと由来しているのだ、ということも、骨の髄から知っています。
近年、日本では価格破壊やアマチュア礼賛の様な現象が起こり、一流店でさえかなり緩んじゃってるな、っていう印象を受ける場もありましたけれど、踏ん張って揺らがない店はちゃんとあり、そういう店は本当に芯の通った、美味しい物を出してくれます。
そして更に近年、新たな一流の波が来ているのかもと感じます。
色んな意味で自由になった現代、沢山の人たちが学びたい場へ出てゆき、広い世界で多くの経験を積んで、ドメスティックな環境で培われた感性の限界を遥かに超えた感覚を手に入れて帰って来る、そしてそういう人たちが、また美味しい物を創り始めたのです。西荻窪のトラットリア 29 (ヴェンティノーヴェ)の噂は、いつも西荻を愛する友達から聞かされていましたが、先日女子会で訪れ、いやーぶったまげました!!
イタリアでの放浪的修行の末にこの店を開いたというシェフの創るお料理の数々は、本格的、という器には納まりません。本格的、という言葉は、本格、という主役が別にあって、そこに限りなく近いとか、そのレベルを凌駕する、という印象がどうしてもありますが、29の料理は、それ自体が、まさに本格なのです。
イタリアの風土が生み出す本当の、風土の味とプレゼンテーションなのです。
どうやれば日本の素材で、こんな食べ物が作れるの、と驚きます。

私は今まで、それなりに一流に美味しいかもしれないれども、欧米の味を再現しない日本の欧米レストランについて、これはもう、水や素材が原因で起こるどうしようもない個性で、仕方が無いのかもしれない、と思っていたのですが、29に行ってその考えは変わりました。
シェフが、日本のドメスティックな魂に留まっていなければ、日本の素材で、本当のイタリアの味を創ることは可能なのだ、と感じたのです。
そしてこれは多分、既存のイタリアのイタリア料理、という物とも違うんだと思います。
これは29の生み出すオリジナルな、本質的イタリアンなのです。

二次的な味なのではなく、29そのものに、源流があるのです。
私はこういう、究極的なオリジナリティを持つものにだけは、本当に気持ちよく思い切り尊敬を抱ける性質なので、29では思い切り心が解放された、と感じました。本当に、久しぶりに。
当日食べたお料理の写真を載せました。
最も素晴らしかったのは、二番目に載せた、36ヶ月熟成させたなんとも言えないバランスを持ったパルミジャーノのクロスティー二。
それからこの店では、お肉を本当に美味しく調理してくれます。バターチキンが絶品。そして、ウサギとアーティチョークのフリットも最高。
西荻窪29/トラットリア・ヴェンティノーヴェ 、自分がふらふら脇道に逸れそうになったらまた行って、がつんと魂叩き直してもらおうっと。
本物の料理人の味で。
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