2014年7月14日月曜日
海路図
私は漠然と、人間というものは元々大きな自分の海路図を持って生まれてくると考えています。
運命と言ってもいいのかもしれませんが、その人の持つ才能や特性が最適に生かされる設計図があらかじめ用意されており、しかしながら人生を歩む上でのひとつひとつの選択の仕方によって、その最適化された回路図の、最短ーお得コースを行くか最長ー遠回りコースを行くのかが、決まってくるのだと感じています。
だから、運命は漠然とあるんだけど、選択の自由もある、というような設計に、人生というものはなっているんじゃないかな、と思うわけです。
なんでこんな事を朝っぱらから考えているのかというと、昨日の私の、なんとも言えない幸福感の原因はなんだったのかなと探っていたところから始まりました。
昨日私は、特にいい気分で目が覚めたわけでもなく、一日を実にニュートラルな気分で過ごしていました。
でも午後になって、クラスの授業の方向性が混沌とする事態が起こりました。
私が今参加している学校では、大まかなカリキュラムや授業の方向性は決まっているのですが、クラスが進行する中で、重要度の大きな事が現れてきた場合にはいつでも変更可能というか、その時その時のニーズに合った内容が展開されてゆくようになっています。
おもしろい事に、これは私が人間の運命の流れについて感じている事と共通しているなあと今ふと思いましたが。。
とにかくそんな状況の中で、強く提案されたのが、プランAでした。
私は、プランAでも一向に構わなかったのですが、なんとなく感じた違和感を無視出来ず、自分はそれでもいいのだけれど、出来ればプランBを優先して欲しいと思う、と手を挙げて意見を述べてみました。
すると、他のクラスメイトの数人がそれに同調し、ではもう一度考え直しましょう、という事になり、結局は私の推したプランBを先に行い、それが終わって時間があったら、プランAをやることにしましょう、という結論になりました。
私は、自分が提案した、やりたいと思った事が通った、という事もまあ嬉しかったのですが、そんなことを遥かに超えたある部分で、その結論に達した時に、なんとも言えない深い安堵感の様な物に包まれ、その安堵感がどんどん大きな幸福感へと変わってゆくのを感じました。
こんな大きな幸福感を感じる原因はどこにも無いなあ、と思いながらその日の授業を終え、そしたらディナーを食べている時にショッピングにつき合ってと誘われ、期せずして私の大好きな、夕闇が迫り来る直前の逢魔が刻(by大島弓子♡)のドライブに行けることになり、おまけにその人が行こうとしていた店がもう閉まっていた為、オイラの大好きなスプラウト・ファマーズ・マーケットに行ける事になっちゃって浮かれまくっていたところに虹まで出たりして、もうヤッホー!な気分は留まるところを知らないって感じになったのでございます。
それでも一連のこの出来事は、私の内に突然沸き起こっている大きな幸福感と満足感を説明する材料にはなりません。
まあ普段から、状況の善し悪しに関わらず基本的に脳天気なので、理由は無いけどハッピーだわって感じには慣れているのですが、昨日感じていた幸福感には明らかに裏付けがある、と思っていたわけなのです。
で、今朝、はたと閃いたのです。
恐らく私を含め人類全般というものは実は、普段から漠然と、運命の最適化された設計図、っていう物を見ているんじゃないのかなと。
で、昨日クラスの方向性がプランAに行こうとした時に私が感じた違和感は、それは間違いでは無いけれど、元の海路図はプランBなのにな、っていう違和感だったんじゃないかと。
それで思い切って自分の意見を述べて、それが通ったわけですが、それはそういう表面的な事だけなのではなく、恐らく元の海路図に沿ったコースに乗ったということで、そのことで私の人としての本能が、すっごく幸福になった、つまりあの幸福感は、より生物学的な、より人間という生き物としての本能の領域の中で起こった、イエス!それこそがそれよ!!っていう、そういう幸福感だったんだなと。
今はそう実感しているわけなのです。
というわけでコースに乗りまくった私は、その後ディナー後から就寝までの、普段だったら歯磨きしてお風呂に入っておしゃべりして寝るだけの日常の中に、ドライブして虹を見てスプラウト・ファーマーズ・マーケットに行ける、なんていうちょっとした褒美まで手に入れてしまったのではないのかなと。
私は、遠回りが悪いとか、海路のコースの選択を誤るべきではないとか、全然思ってないんですが、海路図通りに進んだと思われた昨日の物事の流れのスムーズさとスカッと嬉しい感じは、本当に気分がよかった。
これは、仕事で成功を納めたとか素敵な彼氏が出来たとかいう類いの、なんらかの夢が叶ったというような一般的に言われているいい事とは、全く関係が無いんだなと思います。
もし何か、具体的な良い事が起こっても、それがもし海路図からズレている出来事だとしたら、きっと私はあんなに大きく広漠とした、心の底から安堵するような幸福感は、抱かないんじゃないかなとも思うのです。
もちろん、ちょっと嬉しい♩はあるでしょうが。
世間では、人間だって所詮動物だ、とかいう言い方で正当化されたがる、色んな下世話な性癖があるけれど、本来動物というのはこういった、非情に大きな最適化された海路図と結びついて生きているのであり、そこからズレた所で行うどんな行為も、動物だから、という理屈で正当化されるというのは通らないのではないかと感じます。
むしろ人間だけが様々な理由で、グラッと、海路に無いコースを選ぶことがあるんじゃないかな。
これは世間の目を気にするとか、単に臆病とか、そういう事だけではなく、こうした方がよりサービスになるんじゃないかな、とか、相手への余剰な思いやりが動機になる場合もあると思う。
昨日クラスで起こりかかったのは後者で、プランAを選んだ方がより親切なのでは、という動機があったのだと思います。
だから私は、遠回りのコースを選ぶ人を残念とかは思いません。
間違ってる、というんでもないと思う。
なんたってこの海路図のアイディアそのものが、私の私的な感覚ですからね。
でも結果現実として、今は全員がプランBで良かったと感じていて、全員が満足してるんだから、やっぱりあの時一歩踏み出して、手を挙げて提案してみて良かったなー、と思う訳なのです。
きっとあの時口を開かなければ、すっと違和感と共に今日を迎えていたのかもね。
これは、昨日スプラウト・ファーマーズ・マーケットの駐車場から撮った空。↓
2014年7月9日水曜日
コロラドに来ている
コロラドに来ている。
相変わらず広大だ。
この写真はキャッスル・ロックと言って、お城じゃないのにお城にしか見えない、自然に出来た山頂の岩だ。
移動中の車の中から撮ったので曲がっちゃったけど、実物はこんな風には斜めじゃなくて、もっとちゃんと、威風堂々とそびえ立っているのよ。
どう思います?
白い、お城にしか見えないでしょ?まるで絵画みたいでしょ?どうして時に自然は、こんな事をするんでしょうね。
前にも書いたけれど、コロラドと私の縁は深い。
そして縁が深いだけあって、コロラド絡みでは色んな幸運がたくさん起こる。
言ってみれば、色んな幸運がたくさん起こる場所や環境って、ここがあなたの本当の居場所だよ、と語りかけてくれるサインの様な気もする。
私は最近、このサインをくれるエリアが俄然広がってきたのだけれど、コロラドのレベルには到底及ばない。
だからコロラドは私の、本当の居場所なんだろう。
一昨日、知人の家の引っ越しパーティーに招かれて伺った。
パイクス・ピークという、標高4000mを超える観光地としても有名な高山を臨む素敵な丘の上に建っている、素晴らしい家だった。
お料理ももてなしも素晴らしかったのだけど、最近の私は社交の為の会話、というものがからきしダメになっていて、とか書くと、付き合いの長い人から今に始まった事じゃねえだろとお叱りを受けるかもしれないのだが、いやもう本当に、全くもって忍耐がなくなってしまったのよ。
それで、パーティーという席はそういう事になりがちですし案の定そういう感じだったので、ちょっくら抜け出して家の周りの大自然の散策をし、木陰で寝転がっていたんですね。
そうしたら、もんのすごく大きな、ブーンという蜂の羽音が、耳のすぐそばでするじゃあありませんか!
恐れおののいてドバッと目を見開くと、なんとそこに居たのは、ハミングバードだったんですよ奥さん!!
まあ、コロラドでハミングバードはたいして珍しく無いんですが、やっぱり地元の人にとっても気分が上がる鳥だそうだし、その日はアメリカに着いた次の日だったんで私の常識はまだ日本でしたから、なんだかすっごくラッキー♩と感じてしまったのでした。
しかも帰路、何故か私は連れに、パーティーでの態度を褒められたしね。
自分の気の向くことしかやらなかっただけなんだけど。
無理をしてでも社交的に、毒にも薬にもならないような会話をすることが良き社交術だと思われるのかと思いきや、浅い会話に混じらないで好き勝手に楽しくやってたのがよかったらしいですよ奥さん。
時代はもうそんな風な、ありのままにーな感じになっているんですね。
まあそれはともかくこのハミングバードが、どうも今回の旅のテーマのようで、家に帰ると家人がハミングバード招集作戦をするって言うし、友達が大量のハミングバードが家に集まっちゃったビデオをタイムリーに公開したりして、まるで前回のパスカルズ・ツアーが、鰻に始まり鰻に終わったように(一例:ツアー前夜バンマスから、ツアー先の名物 鰻弁当の購入計画メールが届き、ツアー最終日のライブ・ハウスが、鰻通りという所にあった等。)
どうやら私の今回のコロラド・ツアーは、ハミング・バードに始まりハミング・バードに終わるのかもな気配が濃厚なのである。
ハミング・バードは愛や復活、幸運の象徴と言われていますから、来る時成田で両替したら、666ドルという獣の数字になっちゃった事なんてスカッと忘れさせてくれるような、なんかいい事でもあるに違いない。
なんたってここはコロラド。
ただでさえ私の味方な上に、ハミング・バードまでついてきちゃうっつうんだから、鬼に金棒よ!
てか今のところ、ハミングバード寄せの効果は無いです。。
←これがハミング・バード呼び込みセット。
赤い液体は甘いネクターで、それをハミング・バードにとって飲みやすい型になっている瓶やグラスボールに入れて軒先に吊るす、人間の考えた涙ぐましい作戦である。
ネクターが赤いのは、ハミング・バードって赤い色に惹き付けられるからだそうですよ。私みたい。
成功例↓
2014年6月11日水曜日
お花畑クッキー
あるパーティーの為に、先日ハーブのブーケを送ってもらった炭素循環農法で肥料も農薬も使わずにハーブを育てておられる、兵庫のまるふく農園さんから、エディブル・フラワーやハーブをたっぷりあしらったクッキーを取り寄せた。
材料は国産小麦粉、ざらめ、卵、ハーブだけ。素朴だけど味わい深いざっくりとしたクッキーでとても美味しい。
見た目もご覧のように、ワクワクするような素敵さです♡
ところで私はオーガニックや無添加の物を好む人間ですが、そういう物を食べなければ人間はどうにかなっちゃう、と信じているわけではありません。
何故なら私は素材以上に、人間が何かを創り上げる時に生じる、錬金術的な魔法の力を信じているからです。
だから逆に、どんなに厳選された安心安全な素材を使って創られた物でも、作り手がリジットで排他的な心、例えば、マクロビオティックをやらない人間はアホだとか、ビーガンじゃない人間は野蛮だ、というような心を持っていると、そこに素敵な錬金術は作用しないんじゃないかな、と思うわけです。
同様に、おざなりな気分で創られた物にも。
だから素材に関わらず、丁寧に創られた物が好きだし、宝石みたいなデザインを施された美しいスイーツなんかも大好きです。
以前エッセイ漫画に描いたことがあるので覚えてくださっている方もいらっしゃるかもしれませんが、アメリカでローフード・シェフをやっている知人がいて、彼の主張は、とにかく色彩なのです)笑。
野菜や果物の色彩にこそエネルギーが宿ると信じる彼の料理は、まさにサイケな色彩の魔術。
人間は、四季の彩りを目と口から接種する事で、その滋養を完全に取り入れる事が出来ると主張する彼の存在感はいささかエキセントリックで極端な印象ではあったけれど、どんなに強烈な言葉を使っていても、彼が食材を触り愛でる姿には、胸を打たれる真摯さがあり、出て来る料理も、その美しさは言うに及ばず、とにかく優しくて美味しくて、私はその時患っていた、高山病による頭痛があっという間に消えてしまったりしたのです。
そう伝えると彼は、ほらね、食材の"色"は、すごいんだよ、と目を輝かせていましたが、私は心の中で、いやいや、あなたの料理と客への愛情が、こんな魔法を生んだんだよ、思ったものです。
真相は定かではありませんが、とにかく私は人が、丁寧な心でじっくりと生み出す物が大好き。
私もまたそんな作り手になりたいと思って、最近ではややせっかち気味だった心を抑え、ひとうひとつの作品や計画に、自分の納得出来る時間を、じっくりとかけることにしてみています。
2014年6月2日月曜日
ソプラノズ
昔からファンなんである。
私はストーリーを創る仕事をしているので、特に私の個性では書けないようなタイプの話で、そして脚本が素晴らしいとなると、本当にのめり込んでしまう。
このソプラノズは観るたびに、一体誰がこんな脚本書いてるの、と思ってしまうのです。
私がもう何年も前にこのドラマを観始めたのは、3シーズン目くらいからで、始めの頃の話を知らなかったのだけど、最近ネットの配信で初期の頃のシーズンを観る事が出来る様になったので、美味しいお菓子を一個ずつ楽しむように、少しずつ大切に観ている。
昨日は一日の予定が大変すみやかに済んだ上に、成功報酬をあげてもよいような出来事があったので、夜遅くに帰宅してから、ソプラノズに手を伸ばした。
昨日観た話も、めっちゃおもしろかったです!!
とにかくこのドラマは、マフィアのドラマだから、出て来る人たちが全員ろくでもない。
主人公のトニー・ソプラノは幹部クラスのマフィアで、ふたりのティーンエイジャーの子供と奥さんと共に、プール付きの、結構な屋敷に住んでいる。
話は主に、家族関係やマフィアの人間関係や事件を中心に描かれるのだけど、何が面白いって、ひとりひとりの性格が、大変詳細に設定されていることが面白いのだ。
基本的にトニーの率いているマフィア・ファミリーの人たちは、その家族に及ぶまで、みんな情に厚くて善人である。
しかしここで、何を持って善人と呼ぶか、という点においては、多分一般社会におけるモラルを基準にした価値観とは著しく異なる。
何故なら彼らはマフィアなので、ごく日常的に犯罪的な裏家業で金儲けをし、都合の悪い奴はケすからだ。
そう、このドラマでは、普通の、家族を愛し近所付き合いに気を使う一家の大黒柱が、いとも簡単に人を殺したり殺されかかったりする。
もちろんドラマの背景ではFBIが必死になって、トニーの尻尾を捕まえようと色んな策を講じる様子も頻繁に描かれている。
彼らはアメリカの法治国家の中にいて、巧みに犯罪を繰り返して生き伸びていて、しかしそれがあんまり大きな問題としては、このドラマでは描かれない。
このドラマで問題になるのは、あくまでもトニーの個人的苦悩、ファミリーのメンバーの個人的苦悩、家族の個人的苦悩で、大変重苦しい苦悩の中で、みんな生きているのです。
その苦悩の有様が、実に丁寧な性格描写で描かれているのである。
昨日私が観た回では、トニーの愛甥クリストファーが銃で撃たれ、ICUで一時心停止となる。クリストファーはその臨死体験中に地獄へ行って(笑、既に他界していたファミリー数人が、緑色の悪魔とギャンブルに興じているのを目撃するのです。
その、亡きファミリーから、トニーとその相棒ポーリーへの伝言を受け取って、回復します。その伝言は、ひとこと、「3時。」
当然、「おい、3時ってなんなんだ。」って話になりますよね。
強面のトニー(写真真ん中)とポーリー(写真右)は、そう見えて実はとっても繊細。
特にポーリーは、このドラマ・シリーズの後半で大変興味深い神秘体験をするというエピがあるほど、たいへん信心深い性格です。
まあ、信心深いんですけれど、特に臆病で、ですので、ファミリーの中では比較的衝動的に人を殺したりしてしまいます。
恐れの強い人というのは、防衛心も強いので、過剰な防衛意識によってやったら攻撃的になる、という、セオリー通りの男なのです笑。
クリストファーから聞いた話によって密かに動揺したふたりは、それぞれの解決策を取ります。
トニーはセラピーへ。
ポーリーは、愛人から薦められた霊能者の元へ行き、「3時」の意味をクリアにしようと画策するのです。
いやー、面白かった。
このドラマは、決してコメディではありません。
キリスト教など、伝統宗教に縛られない日本という国で生きていると、地獄とか神様とかいう存在が、こんなにも影響力があるという事が、実感としてはわからないのだけれども、基本的にソプラノズで描かれる彼らマフィアは、大変保守的な価値観を持っていて、この感じは多分、キリスト教原理主義に近いのではと感じます。
だから、と言ってはなんですが、割と平気で、人種差別やゲイ差別の発言が出て来ます。
でも基本的に彼らは、どうしようもない人間、として描かれているので、そういう事もあまり気になりません。
とにかくこのドラマに出てくる人たちは大変泥臭くて、自分なりの正義を貫くことで、家族や友人にとっての善良で愛情深く思いやりのある良いパートナーであろうと懸命に努力しているんだけれども、時に衝動や感情に振り回されて、非情にとんでもない事をしでかしてしまう、というケースが多々あるので、発言に問題がある程度では、観ている側もさほどギョッとしないわけです。
とにかく昨日の話では。
愛人に、死者と会話できる霊能者の所に行って、「3時」の意味を明らかにすれば、もう悪夢も見ないわよ、と言われたポーリーは、まずは罵詈雑言でその霊能者を馬鹿にするのですが、結局は助けを求めに行き、グループ・セッションの席でその霊能者がどんどん色んな事を当ててゆくことに、徐々に感嘆を感じ始めます。
そんな矢先におもむろにポーリーの前に立った霊能者が、ポーリーの背後に立つ幽霊と会話し始め、そしてその複数の霊の名前を告げ出すのですが、それが全て、ポーリーが過去に消した人々の霊だったからさあ大変だっっ!!
幽霊の怒りをポーリーに告げる霊能者、恐怖で暴れるポーリー。それを見て爆笑する私(笑)。。
結局のところポーリーの恐れは、癒されるどころか更なる凄みを増す結果となり、這々の体で霊能者のところを逃げ出します。そしてホッとする私。いや、いつもの流れだと、ポーリー、この霊能者を、その場で殺しかねないっすから。
まあ、そんな素敵なエピソードがいくつもちりばめられながら、それぞれを重要なファクターとしつつ、物語はより深刻な方向へと、どんどんどんどん流れてゆく。
それが、ソプラノズです。
まだまだ観ていない回が残っているので、また一日がうまく行った時、ホクホクしながら見続けようと思うのである。
2014年5月31日土曜日
天才画家の教え(笑
先日、今アメリカで話題になっている天才少女画家のインタビューを観ました。
彼女は物心ついた時から絵を描き始め、全くトレーニングを受けていないにも関わらず、幼少期からレンブラントやドラクロア並のデッサン力を持ち、かなり高度な写実画を描きます。
分類すればラファエル前派的な、綿密な写実+幻想的な味付け、っていう感じの画風で、好き嫌いは分かれるとは思うものの、画力がすごい、ということだけは決定的に確かな作風です。
彼女は対象をスケッチするのではなく、全く何も見ないで、ただ自分の中にあるイメージをキャンバスに写すだけなのですが、特に人物画のリアリティに関しては、瞳の中の光に至るまで真に迫るようなリアリティで、ただ感嘆してしまいます。
この写真はネット上で勝手に持ってきちゃったんですぐに削除しなきゃならないかもですが、彼女が12才の時に描いた"宇宙の仕組み"だかなんだかの世界で、実際の宇宙物理学者が、何故これを知ってるんだ、と驚いたくらい、正確に描写しているんだそうです。
彼女は絵の才能があるばかりでなく大変高潔な価値観を持ち、まだほんの子供なのにも関わらず、素晴らしいことを沢山しゃべります。既に高額な値段のついている自分の絵画の売り上げは、殆ど困窮している世界の子供達の為に使い、なんでかっていうと、その為に描いているから、としゃらっと語ったりします。
時代が時代ならセイントという類として、ヴァチカンが認定してもいいくらいです。もしかしたら、今後そういうこともあるかもしれません。
こんないい大人の私でさえ彼女のドキュメンタリーを観て、様々なレベルでリラックスすることが出来ました。なんでかって言うと彼女がすごく自由で、その自由さが、私の自由さを完全肯定してくれたからです。
画力という点では感嘆に値するに申し分無く文句のつけようも無いのですが、私が最も感心したのは、実は彼女の両親の態度でした。
インタビューではまだ年若い彼女の両親も登場するのですが、彼女がごく幼少の頃から、4日間くらいは全く物を食べないということが、頻繁にあった、というのです。
それをこの両親は、そのままにしておくことを、許していたのです。
4日間くらい何も食べず、それから時々果物や野菜を少量食べ、それだけで彼女は健康な少女に成長しているわけですが、それを彼女に許していた両親がすげえ!!と私は思ったのです。
彼女は今でも殆ど物を食べず、食べても野菜と果物だけ。動物性の物は一切口にしないと言いますが、彼女の両親は、インタビューでも言っていますが、ごくごく普通の、大変平凡なふつう〜の人間なのだそうです。
彼女は、天国や天使の絵等も多く描くのですが、そういったキリスト教的世界観の話を彼女にしたことも、一切無い、と言います。
つまりこの両親は、特に宗教や精神世界に心酔するようなタイプではない、ごく一般的な、お肉にもジャンクなスナックにも抵抗を示さない、普通の健康的な、平均的アメリカ人だ、ということです。
今では娘の影響を受けてベジタリアンとなったり彼女のチャリティーに協力したりと、色々と清々しいサポートをしているのですが、彼女がまだ幼少の時、つまりまだ野の物とも山の物ともつかない時代から、彼女の特異性に気付きそれをずっと尊重していたなんて、本当に素晴らしいなと思います。
物を食べない、という感覚が、私にもよくわかるのです。
私も物を食べない子供だったからです。
しかし私の親は、ごく一般的な親同様、食べない子供を心配し心を痛めるタイプでしたから、私はある時から、親に心配をかけまいとして食べ始めたのです。
今では食べる事をすっごく楽しんでいるのでまあそれはいいんですが、私が彼女のインタビューを観て真っ先に思い出したのは、そのことでした。
私は今行っているアメリカの学校で、後天的な脳への刷り込みが如何に人間の、生来の自由さや能力を奪っているか、という勉強を沢山しているので、この少女の両親が、彼女の「食べない」を尊重した結果に、改めて感嘆してしまったのです。
様々な思い込みさえ無ければ、もしかしたら人間て、今とは全く違う生き物なのかも。
と改めて感じさせてくれるインタビューで、とても面白かったです。
人間社会には、後天的に作られた掟が、多数存在します。
例えばある宗教は同性愛を認めていませんが、それって、何が根拠になっているのか。
同性愛を指示する友人が、「同性愛を許すと出生率が減って人類が滅亡するじゃないか」的抵抗を受けて、それってまるで、鳥にウサギを見せるとウサギになっちゃうから大変、みたいな突拍子もない発想だよね、と語っていましたが、このようにある種の人間が、同じ種の中における単なる違いを、そんなパラノイドな脅威として受け取ってしまう傾向があることにも、実際驚かされます。
このような、既に限界意識を後天的に刷り込まれた人間による、限界意識に満ちた価値観によって"異端"とみなされた存在が実は、より自然な生命体としての人間なのかもしれないという可能性だってあると思うのです。
私は、学校でそういう事を勉強しているからと言って、人類全体が後天的な刷り込みなるものから自由になればいいのに、とか思っているわけではありません。
ただ、人間が、人間の多様性に、もっと自然に心を開けばいいのに、とは思います。
まあ、多様性に心を開いている人間は、他の人の価値観なんてあまり気にならないのでいいんですが、ただこの少女みたいな自由を、誰もがすんなりと赤ん坊の頃から手に出来るわけではない、という点が、ちょっとひっかかるんですよね。
自分の経験上、子供という物は親が思う以上に早熟で、親を思いやるあまり自分を曲げるっていうことを、結構してしまうものだからです。
2014年5月29日木曜日
ミリオネラの教え(笑
私のコミック・エッセイを読んだことのある方は、私がかつて分不相応にも、大金持ちのアメリカ社会に首を突っ込んでいたことがあることを、ご存知かもしれません。
私が最初に知ったアメリカ社会がそこだったもので、未だに私にとってはそこがスタンダードになってしまっているところがあり、時々無作法な発言で人様を驚かせることがあるようだなと、時々友人の反応を見て気付いたりもしています。
でもまあしょうがないんですよ。それが私の、自然なのですから。
友人も殆どは、私のそういう部分を、笑って酒の肴にしてくれますしね。
ステレオ・タイプな世界観の中には、お金で幸せは買えないとか、余分なお金があってもしょうがないとかいう事を、判で押した様に言う方もおり、私もある意味それは真理かもとも思うのですが、そう言い切っているのが、かつて一度も億万長者の体験をした事の無い人なのだとしたら、私はちょっとそれはどうかな、とも思うのです。
体験していない体験を否定する、というのは愚かな行為だと私は思うし、まあめんどくさくてそう決めている程度の事なのかもしれませが、素直に「そうですねえ」とは言えないわけなのでございます。
過日アメリカの、いわゆるセレブというクラスにいる人の為のコーディネーターの仕事をしている女性を知っていました。彼女自身も相当なお金持ちでしたが、彼女の顧客は皆、言わば東京ドームみたいな敷地面積の豪邸に住んでいるような人たちばかりで、そういう人たちは有り余るお金で何をしているかというと、殆どは、チャリティーと趣味につぎ込んでいるわけなのです。
まあ、チャリティーの部分は感嘆を覚える様な美しい逸話もかなりあるのですが今日はその話はさておいて、趣味、となるとですね、彼らは、お金があるので、妥協をする必要が、無いんですね。
そういった人たちのお金を湯水の様に使って、インテリアや衣服やアクセサリーやパーティーの企画なんかをコーディネートするわけですから、コーディネーターも、妥協をする、ということを、知らないのです。だからとても、辛辣だったりします。
この辛辣さは、人によっては不快と感じるかもしれませんが、私にとっては大変気持ちのよいもので、そして色んな意味で目から鱗なことを、沢山体験させてもらいました。
私は昔、フランスのアカデミズムな絵画教育をたっぷりと受けました。
その時先生が生徒に言ったのは、どんなにお金が無くても、まずは一流の道具を使いなさい、ということでした。何故なら、まず一流の道具から始めることで、その後一流ではない道具を使った時に、違いがわかるからなのだと。
若かった私は、いやいや先生、弘法筆を択ばずですよ、なんていう子供染みた反発を感じたものですが、その後がんばって一流の絵の具やオイルや筆やキャンバスを使い続けたことで私のからだに染み込んだ、本当にいい物ってこうなんだ、という手応えの感覚は大変価値があり、多分あの多感な若い時期にあれを体験したことでしか培われなかったであろう特有の識別力が、ちゃんと今役に立っているのは、すごいことだと思っています。
私にはどうも、教師運というのがあるみたい。
人生を通じて大変良い教師たちに恵まれているのです。
ま、それはそれとしてですね。
無限のお金を趣味に費やせるので妥協をする必要が全く無いそのコーディネーターの、物を判断する時の辛辣さがですね、私にいつもその絵の道具の体験を、思い起こさせるのです。
そして、そんなにお金持ちでは無い自分の人生が私に、無意識での妥協を強いていることにも、気付かせてもらいました。
私は結構好みにうるさい性格で、こうとなったら執念で思い通りの物を探し求めるし、好みでない物を身近に置いておくのが、耐えられないような人間です。
しかしたとえそうであっても、例えば1億円のカウチは元々買えないと自分でわかっているわけですから、そこの所は選択肢に、はなから入れないわけですよ。
しかしそこがおかしいんだ、ということに、彼女は私にがんがん気付かせてくれたわけなんです。
別に無理して買う必要は無いんですが、1億円のカウチをはなから念頭に入れないでまっすぐに、例えばIKEAなんかに行くことによって、だんだん私の感性がIKEA寄りになってきてしまうのだ、ということに、彼女は気付かせてくれたんですね。
私はIKEAあたりの品は、プリントもの以外はさほど嫌いではないし、今現在の家を終の住処とする気持ちも無いので、そういう意味でああいった、安くて分解出来て、つまり捨てやすくて適当に趣味も良くて、というよりはあんまり主張の無いファスト・ファニチャーが(ニトリには主張があると思うのです、いわゆる、"私は庶民です"、というタイプの)、今現在の生活には適合しているし邪魔にならないかもと感じているので、IKEAを引き合いに出したのは単なる例としてなんですけれど、とにかく彼女の辛辣さに目が覚めた、という経験を、何度かしたわけなのです。
例えば、友人の家のリフォームの相談に彼女が乗っていた時。
その友人もまた大豪邸に住んでいて、その中の一室だってあなた、私が今住んでる部屋の10倍くらいは軽くあって、有名な建築家の建てたいわゆるデザイナーズ物件ですから、もう十二分に、かっこいいわけなんです。ただ、倉庫にしようと思っていたということで、他の部屋に比べればまあ質素な印象でした。
私はその部屋を見た時、特に何も思いませんでした。
そんなにラグジュアリーじゃないクラスのホテルの一室みたいだなー、程度には思ったかもしれませんが、まあ私が住めるなら十分ありがたいなあ、なんて思っていたかもしれません。
しかーし!
コーディネーターの彼女は、部屋を見るなり卒倒しそうなほどの呆れ顔を見せ、その場に座り込んでしまったのです。
ありえない。こんな一室がこの豪邸にあるってだけで、全体の質が落ちるのよ。
てなもんですよ。
その後彼女が、歯に衣着せぬ辛辣な言葉で延々と言い続けたその部屋の悪口三昧を聞いた時私は、その感想は確かに私の中にもあった、しかし何故か私はそれを感じる事をはなから放棄してしまい、まあいいんじゃない?的な気の抜けた感想しか、その部屋に対して持たなかった、という事に、怒濤の様に気付いたというわけなのです。
これは、結構危険なことなんですよ奥さん!
311があった時に多くの日本人が覚醒した、と私は感じたのですが、それまでは確かにあった思考停止状態、つまり、政治やらなんやらが庶民の力の及ばない領域で下す矛盾に満ちた決断を疑問に感じても、政治家の言う、大丈夫です、安全です、ただちに健康に影響はありません、を徐々に鵜呑みにしてゆく時の、心の中のどこかにある、「何を言ってもどうせ変わらないんだから、まあそれを信じておけばいいさ。」的思考停止状態と、これは同じ事だと思うんです。
私はその後も何度かその彼女が、グレードの落ちる物に対して放つ辛辣であからさまで強烈な批判を繰り返し聞くうちに、どんどん清々しい気分になっていってですね、すぐに私もその感覚を取り戻す事が出来、彼女とは本当に気持ちの合う、良い関係を続けることが出来るようになったのです。気持ち良く思いっきり批判を口にし合えるような笑。
彼女は、虚栄心や成金趣味でそういうことをやっているわけではないんですね。
金額に糸目をつけずにとことん良い物を選ぶ、ということが可能な環境にいて、自分のクライアントが、本当に質の良い生活を送れる様に、誠心誠意仕事をしているだけなのです。
だからもちろん、小物そのものでも、単に高額ならばよい、という選び方はしません。
しかしながら、例えばトルコの写真集でちらっと目にした露天商人の売っている手製の置物がいいとなれば、すぐに飛行機でトルコに飛んで、莫大な額で人を雇ってその小物を探させる、というような仕事をしているわけなのです。
私だったら多分、似た様な物で妥協するか似た様な物を自分で作るかしてお茶を濁すところを(まあ、それはそれで楽しいと思うけれど) 彼女にはお金があるが故に、とことん最初の直感を実現しようと、がんばるわけなのです。
例えば1億円の、本当に素敵なカウチがあったとして、とりあえずそれは今は、あるいは一生買えないにしても、私が本当に欲しいのはこれなんだよ、と感じる心は、決して失ってはいけないのだと、彼女が教えてくれたのです。
2014年5月27日火曜日
炭素循環農法で育てたハーブのブーケ
アメリカの、例えばWHOLE FOOODSみたいなオーガニックのスーパーマーケットなんかではよく見かけるハーブやエディブル・フラワーのブーケですが、日本の花屋の店頭ではめったに見かけないなあ、と常々思っていました。
でも先日、大林千茱萸さんからお食事会のご招待を受けた時、どうしてもそんな花束を持っていきたいのよ、と思ったのです、何故ならば、パスカルズで出演させていただいた大林宣彦監督の映画"野のなななのか"
の撮影中、ロケが終わって芦別を去る俳優さん達が、芦別の街の方から現地に咲く野の花のブーケをもらっているのを、度々目にしたからです。
前のブログにも書いたのですが、撮影中に滞在していたホテルには映画関係者が限りなくまったり出来る飲み部屋が用意されていて、そこは、置いてある大きな冷蔵庫の中の物が食べ放題飲み放題という夢の様な場所だったのですが、その部屋をまさに桃源郷っぽくしていたのも、やはり街の方が飾ってくださる、野の植物、ミントやハーブなんかを含む草花の寄せ植えやブーケだったのです。
なんだかあれ以来、ブーケと言えばハーブやエディブル・フラワーを使ったブーケの一挙両得感、つまり飾れるし使える、花より団子ならぬ、花も団子も手に入る一石二鳥な優秀さぶりに取り憑かれまくってしまっていたわけです。
大輪の薔薇も大好きですけれど、野の草花の楚々とした風情もまた、とても清々しくてよいものです。
まるで野原が部屋の中にすかっと現れたような、大林監督のCGの様なことが起こる感じなわけです、ハーブな野花を部屋に飾ると。香りも素晴らしいしね。
そんなわけで、どうしても大林家にハーブのブーケを持っていきたかった私はあちこち調べまくり、遂に、炭素循環農法という方法で、農薬も肥料も使わずにハーブを育てておられる農園を見つけたのです。
お食事会にお誘いいただいたのが木曜日、農園を発見したのが金曜日、お食事会は日曜日、というわけで日程もぎりぎりだったのですが、お電話したら遥々四国からクール宅急便で送ってくださると言っていただいたのですぐに注文。花束が届いたのが土曜日の夕方、というわけで一晩冷蔵庫で寝かせ、新鮮で元気な内にハーブを持参することが出来たというわけです。
そしてそれ以来私は、更にこの花束の虜になり、これから毎月取り寄せよう、そして、飾ったり食べたり飲んだりしようと、決めたわけなのです。
お食事会も楽しかったけれど、おかげ様でずっと欲しかった物を提供してくれる場所が見つかり、なんだか私は大変幸福な気分なわけなのでございます。
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