2014年12月10日水曜日

ミステリー


本日の更新は、完全に私自身と、限られた関係者たちの為に書くお話なので、退屈かもしれません。しかもわけのわからない内容です。
と始めにお断りしておきます。


2008年の夏、私はフランスから観光で日本に来ていたパスカルズのマネージャー フィリップのガイド役として、かなり忙しい日々を過ごしていた。

フィリップは人気者なので、基本的に計画していた旅程以外に、パスカルズのメンバー達から色んなお招きを受けてもいたので、そういった事全てを計らう為に、私がロード・マネージャーみたいな感じになっていた。

ある日、パスカルズのチェロ奏者〜通称"悪い方のチェロ"〜坂本さんが、ある音楽フェスに招いてくださり、そこで渋さ知らズ・オーケストラのステージを初めて観た私は大変盛り上がり、フィリップ達そっちのけでノリまくった挙げ句、会場から出たらボディーバッグのファスナーが開いていて、財布が無いことに気が付いたのである。

私はその場で電話をしてクレジット・カードやキャッシュ・カードを使用停止にしてしまい、印鑑も財布に入っていたので通帳も無効にした。
私はどうもこういう時、自動操縦モードのようになって、考えも無く色々やってしまうのです。

だけど財布はあっけなく出て来た。
渋さ知らず ズの会場で拾った方が、フェスのオフィスに届けておいてくれたのだ。
現金も、たいした額では無いが全額そのままだった。
さすが音楽ファン、悪い人は集らないね、とその時は感動した。

とーこーろーがー。


財布に残っていたお金は、その日の交通費を払ってしまえば底をついてしまうような額であり、その日家に着いた私はハタと、自分にはむこう半月くらい以上、自分の口座からお金を引き出す術が無い事に気付いたのである。

カードも使えない。

試しに銀行に行ってみたけれど、本人の確認が出来たところで、通帳もカードも無いんじゃお話になりません、という事だった。

翌日あたりからフィリップのガイドで京都へ行く予定だったのだが、なんたって一文無し!どうすりゃいいのかわかりゃしまへん〜。

フィリップが、旅でのお金は気にしなくていいよ、と言ってくれたのだが、仮にもパスカルズのマネージャーに金を借りるわけにはいかないのではないのか、しかも相手は旅先だし、と思った私はそれは辞退。

事情を知ったパスカルズのバンマスが1万円貸してくれて、フィリップに宿を提供してくれていたBebeちゃんも、確か1万円貸してくれたはず。

京都での日々はなんとかそれでまかない、フィリップ一行を熊野の旅に送り出した後は、友人が一ヶ月細々と生活出来るくらいの現金を貸してくれたので、(友人の名誉の為に申し上げますが、彼女は「200万円くらい貸そうか?」と言ってくれたんですね。。でも、そんなに借りても返せないので、小さくお借りしましてん。)バンマスとBebeちゃんにはそこからお金をお返しして、あとはカード類が復活してくるのを待つだけ、ということで、なんとかなった。


そんなある日。

フィリップ達は熊野にいるし、久々に時間の出来た私は、家族と恒例の乗馬クラブに行く事にした。

最寄り駅で待ち合わせして、迎えに来た車に乗り込もうとした直前、今まで感じたことも無いような、すごく奇妙な、後ろ髪を引かれる、というような、なんとも言えない異様な気配を感じたのである。

すぐに家に戻りたい、戻らなきゃ!!という、ちょっとパニック発作に似た衝動を感じて足がすくんでしまったのだが、そんな事で予定を変えるわけにも行かず、なんとか車に乗り込んだ。

車が走り出して15分ほどすると、すうっとその、平たく言えば「イヤな予感」が消えて行ったので、ややホッとして乗馬を楽しみ、その後ドライブまで楽しんでから、家に帰宅した。


そうしたらですね。

棚の上に置いてあった、友人が借してくれて封筒に入れたまま放置してあったお金が、その封筒のまま失くなっていることに、気付いたのです。

既に半分は、様々な支払いなどで使ってしまっていたのですが、半分は、特に使い道も無く、そのまま友人に 返そうと思って、友人が渡してくれた緑色の、セブン銀行の封筒に入れたままの状態で、置いてあったのです。

それが、無い。

見ると、窓が開いている。

むむむ。


当時うちの近所では、空き巣が大流行りでした。

忍び込み、通帳と印鑑を持ち出して銀行でお金をおろし、その後再び侵入して通帳と印鑑を戻しておく、なんていう離れ技の空き巣にやられた人が沢山いて、注意を呼びかける貼り紙が、マンションのあちこちに貼ってあったものです。

私の部屋は、住んでいる階といい環境と言い、とても空き巣に入れる様な場所ではないのですが、離れ技の空き巣に不可能は無いのではとも思ったし、なにより思い出したのは、昼間感じた、あのなんとも言えない異様な気配でした。

あれはもしかしたら胸騒ぎってやつで、もしかしたらあの瞬間に、泥棒が忍び込んでいたのでは、と私は思いました。


それにしても、探しましたよ。

隅から隅まで。

置いてあった棚の後ろまで潜り込んで、とにかく全力を尽くして探したんです。

でも失かった。

失かったんですよ奥さん!!!


その後、しょうがないので使わなかった分のお金も勿論自分で付け足して友人に返し、なんとなく狐につままれたような気分のまま、今日を迎えていたのである。

実際その後も度々、思い当たる場所は探したし、とにかくお金が惜しいというよりも、環境的に空き巣が入れるようには到底思えない私の部屋から、物が失くなるなんていうことが信じられなかったんですね。

だから念入りに、思い当たる所はもちろん、まさかという場所まで探しました。

でも、出てこなかったんです。

6年間。



さっき、近所のカフェでちょっとお茶をして、のんきに、ポップオーバーが売ってるよ、なんていうツイートをして、そのポップオーバーを焼いてもらって家に持ち帰り、そうだ、と思い立ち、廊下の掃除をしたんです。

言っておきますが、この廊下は、6年前、あのお金が消えて以降も何度も何度も何度も掃除をしています。

その廊下の角には、旅行が多い私が、留守中溜まった郵便物を、じっくり開く時間が出来るまで留めておくラックが置いてあります。

帰国した時にポストに溜まった郵便物をそこに入れておいて、やる気になった時に全部確認して捨てる為の、仮の置き場がそのラックなんです。


封筒系の郵便物が多いので、あのお金が消えた時に真っ先に疑って探した場所であり、その後も何度も何度も、旅が終わる毎に満たされ、しばらくすると空になり、また帰国すると満たされ、またすぐに空になる、を繰り返す、敢えて溜め込まないように一番目につく所に、しかも、大変開放感のある状態で置いてある物です。

形状は、ワインのボトルを立てかけておくボトルホルダーみたいな感じで、中身が隠れない様に、箱形ではなく鉄枠の輪郭だけで出来ていて、だから時々小さい郵便物等は、脇からこぼれたりしちゃうような物なんですが、こぼれたところで廊下の床に置いてあるんですから、問題はありません。


先月の末に帰国して、それからかなり忙しかったため、その時にポストから回収した郵便物が、今回はまだ確認しないまま入っていたので、廊下の拭き掃除が終わったあとにお茶を入れ、ラックのそばの壁にもたれて座って、郵便物を一個一個、開いて破いて捨てて、という作業を繰り返していたんです。

その時、真新しい封書達に混ざって入っていたのが、これだったんですよ。。。



私の記憶では、封筒はべったり緑色だったのですが、これは縞模様。。
だけど一目見て、あっっ!と思いました。

これはまさに、6年間探し続けた、あのお金の入った封筒。。。。。

中を確認するとまさに、あの時使わないまま消えた時のままの、まったく同じ金額が、耳を揃えて入っていました。



何故。。。。。。。。。。。。。。。


何故なの

   ママン。。

2014年12月9日火曜日

ティム・バートンの世界展

ティム・バートンとのコラボ・カレーライス

私の20代は吸収の時代で、コンサートや展覧会に数え切れないほど通った。

昔は西洋の大家の作品が惜しみない量で入って来て、日本ではさほどポピュラーではない作家たちの展覧会も多かったし、展示されている絵の数もすごかった。

私が展覧会に行かなくなった理由は、自分の吸収の時代のサイクルが一旦終わったってこともあったけれど、近年行った印象派の展覧会で、作品の数と質がかなり薄かった、という印象があり、加えて入館料も反比例に高くなっていたので、なんとなく、時代が変わったんだな、と感じたのが、展覧会通いのピリオドになったような感じだった。

だけど最近、自分が更に新たなサイクルに入ったような気がするきっかけがあり、なんらかの吸収を必要としていた部分があり、そんな矢先に目に留まったのが、ティム・バートンの展覧会だった。

今までティムの作品に興味を持った事は無かったんだけど、イベント全体に惹かれるものがあって、昨日行って来た。

展覧会に入ってすぐの時には、私が絵画に求める物は、画面に描かれてある、いわゆるイマジネーションやアイディアなのではなく、あくまでも色彩とマティエールなんだな、というのを痛感してしまったことが先に立ってしまい、ティムの作品を味わうまでにかなりの努力を必要とした、というのが正直なところであった。

殆どの展示作品は小さなスケッチブックに描かれたモノクロあるいはサラッと彩色されたドローイングだったし、大きな油彩画も、色はきれいだけどまずはイマジネーションありき、というタイプのもので別にマティエールなんて関係無い、という作品だったからだ。

それがなんたってティム・バートンの醍醐味なんですから、違う物を期待したところで他の物は出てこないのであり、私のあの集中できなさ具合は全くティム・バートンのせいなのではなく、100%私の感性が場違いだっただけなのである。

で、こういう感じの絵なら実物を見なくても、むしろ画集とかで部屋でひとりでゆっくりと彼のイマジネーションと遊ぶ方が、人をかきわけて壁にかかっている小さな作品を凝視 しに行くよりいんじゃないかな、なんて思ったりもしたんです。

しかしそんな時に目の前に広がったのが、彼のポラロイド作品を集めた部屋でした。

絵画ではなく、彼のイマジネーションを具現化した世界を、ポラロイドで撮影した写真展なのですが、これは本当に、素晴らしかったのです。

色んなタイプの作家さんがいるけれど、脳内イマジネーションを具現化するタイプの作家は、絵筆にこだわる必要は無いのであり、むしろこんな風に、映像や写真という素材で頭の中の世界を表現する方が、よりストレートに何かが起こることもある、という事を、改めて実感させてくれる体験でした。

そうなればやはり、写真や映像が発明されてよかったね、なのであり、文明の発展はやはり必然なのだなとも感じます。

そしてそうなって初めて私は、ティム・バートンの世界を堪能する準備が出来上がり、改めて最初から作品を観て回り、あの豊富で個性的なイマジネーションの嵐を改めて堪能することが出来ました。

彼の作品は不気味でエッジィなのだけど、決して排他的な痛みを感じさせる、トゲトゲしたところがありません。
ある意味そこが、一流になる条件なのかな、と感じさせてくれる物がありました。

私は別に、一流にならねば価値無し、という意味でこう書いているのではありません。

ティム・バートンのような、好き嫌いの別れそうな特有のイマジネーションを持つ作家が、大金を稼げるくらいポピュラーになる可能性って、この世にどのくらいあるんだろう、って思ったのです。

多くの人が既に感じているように、ポピュラーになるならないは、作品や才能の質とは関係ありませんから、別にそこが価値を決めるポイントだとは私も思っていません。

ただ、ティムのイラストには、表面に描かれたダークでエッジィなイメージとは別に、安心して心にゆったりと受け入れる事の出来るような、なんとも言えない温もりがあるのです。

これは、いわゆる"手の温もり”とか"人間性の暖かさ”、などそういう人情的なものとは違うのでどう表現したらいいのかわからないのですが、作品そのものが、地球の深いところにある温泉から生まれ出てきたような、そういう暖かさがある、というのが一番しっくりくるかもしれません。

エキセントリックさというのは時に、キワモノ的でインパクトは強いけれど、なんだか痛ましくて刺々しい、と感じることもありますが、ティム・バートンのエキセントリックは、その色彩もイメージも、そういう利己的な領域には無いんだな、と感じたのです。

もちろん私は時々、そういう閉鎖的なエキセントリックさを持つ作品に惹かれることもあるし、だからそれが悪いとか苦手とかそういうわけではなく、なんていうのかティム・バートンの作品は、アウトローなんだけど、本質的な 意味ではアウトローではない、例えば、常識人は嫌うけれど、森の動物は好むんじゃない?的な、いわば人の世間的にはアウトローかもしれんけど、世界全体で見ればアウトローじゃないんじゃない?さがあるのであり、これは私が個人的に、すごく大事だな、と思っている要素なのです。

ティムの類い稀なイマジネーションに加えてその暖かさが、これはつまり先にも書いたように、心の温かさとかそういう人間的な意味ではないのですが、とにかくその暖かさをベースにした個性が、巨大な需要を生み出すことに繋がっているのかもしれないな、と感じたわけなのです。

何度も書きますが、作家はお金を稼げるとかプロであるとかそういう現実が才能を決めるわけではありませんから、ティム・バートンが世界で指折りの有名なエキセントリックな作家のひとりだからと言って、世界一才能のあるエキセントリックな作家だとは思いませんけれど、私は自分が大事だなと感じる要素が彼の中にあって、そんな彼の作品が大舞台で巨大な数字を巻き込んで活躍しているのを見て、なんだかちょっとホッとしたのです。

何故ならそれが、世界や人の心の、本質的な良心のように感じられるからです。
私には。

ティム・バートン監修のツリー。

2014年12月4日木曜日

ネガティブ・マージング

ちょっと興味深い事があったので、そこで感じた事を書いておこうとこのブログ投稿画面を開く。

私がここに、学校で学んでいるトラウマなどの事を書くと、元気で問題無く生きている方などは、トラウマは持っててナンボだ、などと思われるかもしれませんが、この世にはわけのわからない理由で機能を失っている方も多く、そういう方の中には多彩な情報から自分の状態を紐解く必要を感じている方も多いのです。

健康な立場の人が、耳慣れない栄養学や心理学やトラウマ学や、あらゆる多彩な情報ひとつひとつに目くじら立てるのは、それだけの余力があるという事です。余力がある人が、癇に障るというだけで新しい情報を潰しにかかっていけば、新しい可能性はまるで生まれません。

日本のSNSでは、提示された情報にちょっとでも誤りがあったり物議を醸したりすると、情報元を非難するという行為に走りがちな傾向を時々目にしますが、そういう風に情報元を叩き潰してゆくと、結局は害にも毒にもならないぬるい情報しか開示されなくなってゆくと思うのですがいかがでしょうか。

情報元はそのまま多彩なまま尊重しておいておき、受け取る側がリテラシーや探査力を高めてゆけばよいだけであり、そういった態度を高めなかった結果が、国が情報を統制する、という法律を公使してしまえることにも繋がるのではないかと思います。


なんて書きましたが、これから書くことは別にそんな、物議を醸し出す様な内容ではありません。ちょっと私的に書き留めておきたい事があったので書き留めておくのです。


ネガティブ・マージンという心理状態があります。

これは、赤ん坊の頃にお母さんといつも一緒にいた時の経験を起源にした学習パターンです。

お母さんも人間なので、機嫌の良いときも悪い時もあります。
体調が良いときも悪いときもあり、だらしないときもきちんとしているときもあります。

そういった、お母さんの中にある揺らぎを、最も敏感に感じ取っているのは、赤ちゃんです。

先日アメリカのテレビドラマを観ていたら、テーブルにきちんと座って 無心にご飯を食べている赤ちゃんを挟んで、夫婦が突然喧嘩を始めるというシーンがありました。
間に挟まれていた赤ちゃんの、途端に顔色を変えて体を硬直させる様子があからさまに見る事が出来たので、あれは演技ではなく、リアクションだな、と感じました。

酷いよね。。
生活の中でなら防げない現実かもしれないけれど、ドラマ撮影なんていう現場で生の赤ちゃんの反応を利用するなんて。

と思いましたが。

まあそれはそれとして。

赤ちゃんというものは、まだ未完全な成長中の脳に、そういった 出来事への心理的生理的反応をどんどん記録してゆきます。
大人にとっては「また始まった。。」で済む事が、赤ちゃんにとっては何もかも新鮮で強烈、初めての体験の連続なんですから、ものすごいインパクトで、脳に刻んでゆくのです。学習パターンとして。

そんな数ある記録ピースの中に、お母さんの変化、というものが入ります。
最も身近で大事な存在のお母さんに関する事ですから、かなり深く、かなり沢山、入ります。
もうそれが、基本学習パターンになってしまうくらい、入って来ます。

赤ちゃんは、お母さんに抱かれている時、大変甘美な一体感の中にいると言われています。まだ脳が、個体識別認識を出来ない状態の成長度での他者との融合は、それはそれはとろけるような、まさに溶け合うような体験だそうです。

多くの人が恋愛にそれを求めるのは、この時期の再体験を求めていると書いている本もあります。

そんな至福の体験ですから、赤ちゃんは愛着を感じます。
しかし融合している相手が神でない以上、融合状態の中でお母さんの態度が変化する事が多々あります。

つまり、赤ちゃんへの深い愛情を示していながら、例えばそろそろ仕事に行く時間だわ、と思ってさっと胸から赤ちゃんを引き離し、ベビーシッターさんに預けちゃうとか、赤ちゃんを抱えながらいきなり荒々しいエネルギーでダンナを責め始めるとか、あるいは赤ちゃんそのものに対して怒りを感じて、突然叩いたり突き放す様な行為をしたりとか。

そういう、愛情とは真逆のエネルギーを、至福の体験と共に赤ちゃんは経験するわけです。

当然赤ちゃんは不快を感じます。
しかし、その体験は已然として愛着対象であるお母さんとの融合感の中に含まれている為、赤ちゃんはその不快な体験にも、徐々に愛着を持つ様になっていってしまうのです。

脳が完成される頃には、表面的には至福な関係性を求めつつ、潜在的にはどこかでネガティブな要素が無いと、本当の幸福と感じられない、リアルと感じられない、と思う様になってゆくわけです。

幸福には不幸がつきもの。
これが、「ネガティブ(否定的な)・マージング(融合)」のトラウマ的学習パターンです。

こういう状態で成長すると、関係性の中に不健康な要素があっても、むしろそこに愛着を感じるようになってしまいます。

愛情関係や人間関係、親子関係の中に、頼り過ぎ、甘え過ぎ、支配し過ぎ、支配され過ぎ、侵略し過ぎ、虐め過ぎ虐められすぎ、エネルギー取り過ぎ取られ過ぎ、威張り過ぎ威張られ過ぎ、などの行為があっても、それはあくまでもお母さんの一部なので、絶対に手放したく無い、それを手放すのはお母さんを失うのと同じ事、という強烈なインパルスを感じてしまいます。

ここで言うお母さんとは、何も実際のお母さんだけのことではありません。
赤ちゃんにとっての至福と安全を象徴する全存在、至福の融合相手全般を意味しますから、人生全般とも言えるかもしれません。

もし人生が圧倒的に幸福な時、何か悪い事があるような気がして不安、落ち着かない、という症状が自分にあったら、このネガティブ・マージングの傷が疼いているのかもしれません。
良い事の後には悪い事がある、という体験は、脳の成長の早い時期に自分が、養育者を通して体験したものの両極性なのです。

ところでうちの学校では、臨床的にこの経験の傷が治ってゆく課程において、すさまじい悲しさと孤独を体験し、その後すっげえいい気分になるというレポートがありました。

そしてこの、すさまじい悲しさと孤独の後に、感じた事も無い様な幸福な自由感を感じるというこの状態、これはまさに、お母さんだと信じている緑石混合の融合相手を手放す悲しさと、一旦手放して独立してみたら随分楽じゃねえか、という、あっけらかんとした結果に他なりません。

もう一度書きますが、こういった人間の脳のトラウマ的要素こそが人間の面白さだ、と感じられるくらい楽しく それを応用して生きている方はそれでいいのです。

しかしもし自分が、わけも無く不本意な現状にはまっているとしたら、それにはこういったカラクリと原因があるのかもしれず、原因があるということは変更も可能であるということを、知っていて欲しいと思うのです。

2014年11月28日金曜日

感謝祭の思い出


昨日は感謝祭だった。

私は七面鳥好きなので、このイベントは特に好きだが、今年は残念ながら日本にいたので、アメリカの感謝祭ランチには参加出来ず、友人らが送って来るディナーやランチの写真を楽しむだけだった。
そういう参加の仕方が楽しいかどうかは、今一疑問だったのですが。

勿論、食べる為だけの祭りじゃない、とか色々ありますが、感謝祭はやはり、最も料理に焦点が当たるイベントだと思います。なんたって、収穫に感謝する祭りなのですから!

私自身は感謝祭の料理をメインでホストしたことは無いのですが、色んな友人宅で色んなターキーを味わいました。

レシピの基本は決まっているのに、実に様々なタイプに別れるのは、日本で言えば味噌汁のような物なのかもしれません。
オレのおふくろのターキーの味、なんてのが、アメリカにはあるかもしれません。

ターキーには様々な詰め物を入れます。
まずこれに、バラエティーがあるのです。
これが美味しいかどうかが、命綱とも言えます。
過去の私の経験では、五勝五敗といったところでしょうか。

パンに味付けしてぐずぐずにしてみたり、クスクスを入れてみたり、米や野菜料理を詰めたりします。
アメリカ人は総じて香辛料の使い方が上手なので、うまく仕上がるととても豊かな味わいの、今風の美味しい物が出来上がりますが、以前、私の親エイジの方がホストされるパーティーで出された物は、全く香辛料を使っていない塩味だけのオーソドックスな優しい味で、もしかしたらアメリカにも保守的派と革新派の調理というものがあって、世代や育った環境で違いが出るものなのかなと興味深かった記憶があります。

これは結婚などに割と大きく影響を及ぼす部分だと私などは感じます。
そんなことを言っているからまだ独身なんだろうとも思いますが、むむむ、まさしくそうかも、とも思います。
私個人はやはり、ハーブや香辛料をバランス良くふんだんに使った物が好きなので、夫にはそういう物を創って欲しいわけです。(お前が作るんじゃないのかよ!と自分で突っ込む)

ターキー自体も様々な焼き上がりがあります。
私が好きなのは、ローストする前にたっぷりとガーリックを塗っておくやり方。
ローズマリーまで散らしてしまうと、なんとなーく、なんとなくではありますが、ちょっと感謝祭の七面鳥じゃなくなってしまうような、お前それ、ぶっ飛び過ぎだよ、と言いたくなる様な気がします。先の記述とは矛盾しますが。。

普段のお肉料理にハーブを用いるのは大好きなのですが、なんとなく、感謝祭の七面鳥にハーブで風味をつけるのは違うような気がします。
初めて食べた感謝祭のターキーがガーリック塗りタイプだったので、最早ソウルフードになっているのかもしれません。

ガーリックを塗らずにただ焼いてグレービーで食べる、という調理法をやる人がいるんですが、私はあまりグレービーが好きではないので、これも違うんだよね。
ガーリックと程よい塩味、それにフルーツ系ソースと詰め物の味がミックス、が理想的です。

また、一度野生のターキーを狩って来た友人のターキー・パーティーに招かれたことがあるのですが、私に切り分けられた部分は大変柔らかくてジューシーで美味しかったのですが、狩った本人の皿に乗ったお肉は、固くて歯が立たないくらいだったそうです。
これはある種の鳥的リベンジかもしれません。

それにしても、でかいターキーのロースト、詰め物とソース、カボチャのパイ、コーンブレッド、マッシュポテトなどが揃うとそれだけでワクワクします。


ところで昨日、ひとりの友人がこの写真を送ってくれました。


彼女はターキーではなく、コーニッシュ・ゲーム・ヘンという、小さな鶏の一種を感謝祭に用意したんだそうです。これはよくお肉屋さんで、ピッチピチのタイツ履いてるみたいな姿で売られています。タイツじゃなくて、真空パックのパッケージなんですが、どうも見る度に感じるのが、ピッチピチだなという。。

ところで感謝祭に七面鳥を食べ終わった後は、ウィッシュ・ボーンで遊ぶ、ということをやります。
七面鳥の中にはV字型の小さな骨があるんですが、これを二人の人が一個ずつ持って交差させて引っぱり、どちらの骨が壊れてしまうかで、どちらの願いが叶うかを占うような遊びで、シンプルだけど結構盛り上がります。


時々、アメリカの料理はワンディッシュが巨大でみんな大食いだ、と言うのを聞くことがあるのですが、私の長いアメリカ経験から言えば、出される料理はたっぷりだけど、殆どの人は完食はしないということです。

殆どの人は出された料理の半分ほど、あるいはほんのちょこっとを食べるだけで、残りは持ち帰ったり暖め直して何日も食べたりします。

この感謝祭の七面鳥も、私は今まで食べ尽くされた状態を見たことが無く、大体次の日以降三日間くらいの間に、ポット・ローストやシチューやスープなどに変化して出て来たりするのです。

私がアメリカで学んだ食への姿勢は、自分の食生活をかなりヘルシーなものに変えてくれました。これは単に、最新栄養学やそれに基づく新しい食事法が、食品系大企業とのしがらみ無く次々に進化し維新されるアメリカのヘルシー志向ばかりが原因なのではなく、食べ物を、賞味期限の数字や冷蔵庫に保存することだけに頼るんじゃなくて、体感で捉えて食べられるかどうかを決めるなど、自分の五感を信じるつき合い方が浸透していることに影響される部分が大きいのです。

有機物である食べ物を、同じ有機体である自分の体が捉え、どう感じるか、というつき合い方は、とても地に足がついていて、なんとなく食材とのハーモニックな繫がりを感じたりする体験です。

おばあちゃんが実際に手で触って食材を調べ、腐っていて食べられないのか熟成しているだけでとても美味しくなっているのかを判断するみたいな、多分昔の日本にもあったんじゃないかなと思えるような、有機的な食べ物との付き合いを、典型的な核家族の近代ジャパンで育った私は、アメリカで学びました。

単に、食べ物には実はそんなに冷蔵庫が必要じゃない事を知った、それひとつだけでも私にとっては大きくて、機械や防腐剤などの無かった大昔の人たちのやっていた食べ物とのつき合い方を、現在でもちゃんと行えるのだと知ったことが、とても大きかったのです。

トラウマ的ぬいぐるみ



今日は感謝祭なので、アメリカの友達からお祝いのメールが沢山届く。

秋に卒業したコロラドの学校のクラスメイトからも。
その中に、感謝祭の買い物に行ったスーパーで売っていたという、ぬいぐるみの写真が添付されているものがありました。

まああれですよ、大体何かを専門的に学んでる人間達というものは、仲間内でそれを笑いの種にするもんですよ。
コロラドの学校も、例外ではありませんでした。

そんで、このぬいぐるみですが。
クラスメイトが言うには、偶然にも"キャラクター・パターン”の姿で並んでいると(笑)。

キャラクター・パターンというのは、いわば人間が抱えている心理的外傷のパターンとも言えるものなんですが、それには五つの異なる基本パターンがあるんですね。

何故五つに異なるのかと言うと、うちの学校で主に扱っている心理的外傷は、大人になってからのものではなく、生後三年の間に起こる、脳の成長期にまつわるものなんです。

人間の脳は、その80%が生後三年の間に形成されると言われているのですが、その成長の過程は、脳幹と呼ばれる、生存する為の基本のあれこれを司る原始的な脳の部分から始まり、きちんと段階を追って、徐々にmoreヒト的機能の領域へと成長してゆきます。
その成長こそが、幼児の精神的肉体的発育とも言えるわけです。なんたって脳ですから、全体の発育をリードしているわけです。

こうした三歳までの脳の発育の段階が、生後0才〜1ヶ月、4ヶ月〜18ヶ月、といった具合に、三年の間に大きく五段階のタイム・ピリオドに別れるわけなんですね。

そして人間というものは、その脳の成長の段階レベルに応じて、質の異なる情緒的ニーズを必要としており、そのニーズを養育者などからきちんと満たしてもらえないと、脳の深いレベルに、深いトラウマを追ってしまう、というわけなんです。

この5種類に分かれるトラウマのパターンを、心理学ではキャラクター・パターンと呼びます。トラウマなのにあたかも生まれもっての性格みたいなふりをしてわたしらの脳に思考パターンや信念として存在しているので、"キャラクター"と呼ぶのかもしれませんが、おもしろいのは、人間というものは、実に正直に、自分の持つトラウマのパターンを体現する、姿勢や体形をしているものなのです。(そしてそれにはそれぞれ名前もついていたりするんです。)

これは単に太っているとか痩せているとかそういういうことではないんです。
また、大きなトラウマを持っている人ほど極端に体型に現れているというわけでもありません。
非の打ち所の無い様な美しい、バランスの取れた真っすぐなボディの人でも、酷いパターンを持っている人はいます。
まあそんなわけで、そうシンプルに一筋縄で語れるようなものではないのですが。

それでもクラスではデフォルメしたイラストなども使いつつ、如何なる形で脂肪や筋肉がついているか、如何なる形でどこが痩せているか、真っすぐ立った時にどんな姿勢になるか、等等、人によって大なり小なり体に出ている心理的パターンを学ぶわけなんです。

で、このぬいぐるみの写真がっ。

全くもって本当に、そのパターンを体現しているわけなのですっ)爆!


友人が言うには、

カエル→ホールド・トゥギャザー
(生後0〜1ヶ月/凍りついた様な動きの無い姿ー存在する事自体、生きる事自体への恐怖を持つ人)

豚→ホールド・ショート
(生後2〜4ヶ月/猫背。前屈みで崩れ落ちる様な姿勢ー挫折と虚脱のパターンを強く持つ)

猿→ホールド・アウト
(生後4〜18ヶ月/別名「私は大丈夫」。心の痛みを感じないよう意識をハートから体の表層にそらしている為、胸を張ったような堂々たる姿になる)

牛→ホールド・イン
(生後18〜24ヶ月/エネルギーが深く内側にホールドされている為、全体がギュッとした感じにー自由に振る舞おうとする度に叱られる事で培われる、もう何もやってやるもんか、という頑固な憤怒と反抗の体現)

アヒル→ホールド・アップ&ホールド・バック
(生後24〜36ヶ月/辛い感情や現実から逃げる為にエネルギーが体の上方に集中し、また後ろに退いている。)


すいません。。
これを書いているだけで笑っちゃってまともに文章が書けない。。。

こんな世界に馴染みの無い方には、きっとおもろくもなんともないかもとも思いますが、何と言ってもトラウマを扱う学びは、中々シリアスな空気になりがちです。
でもそれがこういう形で目の前に並んでいると、もうなんとも言えず可笑しい。。。。。

しかも、偶然これを見つけてしまう友人の可笑しさよ。

というわけで、一部の限られた人間の心にだけ深く響く、マニアックな”奇跡の一枚"のお話でした。





2014年11月1日土曜日

天国に行って来た少年の話


アメリカにいる時は、よく映画館へ行く。

映画好きの人が傍らにいる、ということもあるし、夕ご飯を食べた後に眠りにつくにはまだちょっと力が余っていて、そしてなんとなく暗くなり始めた夜の街の雰囲気にも触れたくて、なんていう時に、近所のモールの中にある映画館へ行くのは、中々楽しい経験です。

今回観た数本の映画はどれも印象深くて、夕ご飯の後のちょっとした娯楽にしては大変贅沢だなあと感じた物ばかりでした。
考えてみれば、巨額の制作費とすごい数の人々の長い時間の労働と創造力の産物を、10ドルかそこらで簡単に楽しめるんですから、映画という娯楽は、実際非常に贅沢な物なんですよね。あまりに身近なので忘れがちですが。。

今回、新旧入り交じって色々観た作品の中に、実話を基にした映画が一本ありました。

小さな男の子が生死の境を彷徨った時に天国を訪れたという、その不思議な体験を描いたものです。

この少年はキリスト教の牧師さんの息子さんなので、やや特定宗教的色彩が胡散臭くなりそうな気配も無くは無いのですが、映画の中で少年の天国訪問体験に疑念と疎ましさを持ち続けるのが、他でもない牧師をしている父を含む少年の両親と教会関係者だというところが面白いし、これが偏った啓蒙カルト映画に、なんとかならずに済んでいるひとつの要素だと思いました。

特に教会関係者の女性が口にしていた、少年が天国での体験を広く口外することでこの教会が有名になってしまうと、自分で物を考えない輩が救いを求めて集って来ちゃうからイヤだ、という言葉は、この教会と映画自体の健全さを物語る上で、大切なスパイスだなと感じました。

宗教や信仰というものはそれ自体に問題があるのではなく、それを扱う人間の意識が問題を作り上げるケースが多いですもんね。道徳的なコミュニティの場として生活に溶け込み健全に機能している教会に、奇跡を求める他力本願な狂信者がいっぱい集ってきちゃったら、確かにヤバいし脅威です。

しかしながら少年の口にする体験は実に信憑性があり、鮮明で感動的なので、教会関係者の 懸念もよそに、だんだん有名になってきてしまいます。

実は私は映画の途中まではこの少年の天国体験談について、使い古された逸話だなあ、なんて思ってあんまり新鮮に楽しめない部分も多かったのですが、終わりの方にそんなニヒルな私を打ちのめす、すごい仕掛けがありました。
それは前にこのブログにも書いた、アメリカの天才絵描き少女にも関係するエピソードでした。ネタバレになってしまうのでここには書きませんが、とにかく私にとっては、あっと驚く内容だったんです。


私は基本的に、奇跡体験のような物に偶像的な表現が絡んでくる物が苦手です。

例えば、太陽の光が緑色に見えて突然すごく神懸かった気分になり、叡智に満ちた言葉が心の中に浮かんだ、くらいまでは個人の主観的な至高体験なので素晴らしいな、と思うのですが、その緑色の光の中にマリア様が見えた、となれば話は別です。

見えたような気がした、と言うのなら、経験の主観的な解釈なので理解できるのですが、明らかにマリア様だった、となり、それはマリア様ですね、と認定されちゃうとですね、私の頭の中は全くの圏外になってしまうのですよね。

そしてこの映画の中には、明らかにキリストでした、が出て来てしまうのよね。
無垢な少年が生死の間を彷徨っている内に天国へ行って、天国で暮らす既に亡くなった家族に会っただけでなく、キリストにも会うんです。

で、実は途中まで私はこの苦手系エピソードに引きまくっていて、しかしながらまあこの少年は、小さな頃から教会でキリスト教的絵画やエピソードに触れまくっていたわけだから、生死を彷徨っている間に違うディメンションを訪れ、その世界の体験を、既に心の中に知識として存在しているキリスト教をベースにした情報として翻訳してしまうのは無理の無いことかもしれない子供だしね、なんて思いながら観ていました。

それにこの映画の中には、先に書いたしっかりした教会関係者の様な動機でではなく、やったらムキになって少年の話を頭から否定しようとする、非常に大人げない大人達も出て来て、いやそのかたくなな態度はむしろ、あんたらが馬鹿にしている狂信的に宗教を信じる人たちと全く同じ思考停止の産物だってことに、なんで気がつかないんだろうね、なんて忌々しい気持ちも感じつつ、それにしてもこの世の中は、ひとりの少年が生死の間を彷徨っている最中に美しい神秘体験をしたっていう、たったそれだけの事実を、口に出すのさえ難しいなんてのはおかしいんじゃないか、というところにも行き当たり、今更ながらに人の思考の無駄な複雑さに、私の心がうんざりするに至ったあたりでこの映画は、周囲の評価なんて物ともしない、実体験者であるという無敵の強さと清々しさを持つこの少年が、自分の経験を賢明で愛情深い形で役に立ててゆくという、美しくて凛々しい姿を見せてくれるのです。

それだよね。

少年の神秘体験が紛れも無い事実でも、あるいは単なる脳内物質の作用で起こった幻覚に過ぎなかったにしても、どっちでもいいんだよ。

少年はインパクトの強い神秘体験をして、その体験が少年を、すごく大きな心の持ち主にした。そこに私は奇跡を感じたしとても感動しました。

そして私が抵抗を感じ続けた偶像エピソード、つまりキリストとの出会いについては、さきほども書いた映画の最後にあった仕掛けによって、いくらか私自身の持つ抵抗感も、謙虚に脇に置く必要があるのかもしれないな、と思わせるものがありました。

この世界は、宇宙は、人間の心も脳も、他のあらゆる生命体の在り方も、そして時間の流れや成り立ちなどについて、まだ殆どはっきりとは解明されていないのです。

アインシュタインやダ・ヴィンチの見ていた世界を、実感として見て生きている人も、まだ殆どいないのです。

そんな今の現状で、頭ごなしに「無い」と否定できることなんて、一体どのくらいあるのだろう。

この映画の、ほぼ新鮮さの無いナイーブなストーリー展開は、こんなに繰り返し同じようなエピソードを、大昔から色んな人が語っているのに、人間の頭は未だにそれを、単なる戯れ言のように扱うんだということに、ふと思い当たらせてくれました。

人間ていつになったら、「キリストに会ったよ。」「どっひゃーーーーー!!!!!それってすっげえっっっっ!!!」てな具合に、素直に反応するようになるんでしょうね。いやもちろん、健康的なやり方で笑。

2014年10月28日火曜日

カボチャを彫る

今年の作品

今年もハロウィーンはやってきて、そして一度覚えたパンプキン・ケービング(彫)の味はそうそう忘れられるものではなく、あたしゃ今年も彫ったね、ジャック・オー・ランタンを。

このでっかいランタン用のカボチャは、毎年スーパーで山の様に売られている。一個10ドルくらいで。

某空港のディスプレイ


アメリカではハロウィンに家族や友人で集ってカボチャ彫りパーティーをするので、私もよく招かれるのですが、去年まで自分で彫ったことはなかったんです。

だってすっごく固そうじゃん?日本でさ、カボチャ料理するのって、ただごとじゃなくね?ナタでも無いと割れない様な固いやつあるよね。そんなやつを彫るなんて、箸より重い物持ったことないオイラのする遊びじゃないよね。と去年までは思っていた。

しかしなんとこのカボチャ、実は林檎みたいに柔らかくて、プラスティックの玩具みたいな専用ナイフでサックサク彫れるんですよ奥さん!その彫る手応えがなんとも快感で楽しい。一度やったらやめられません。
だからランタン・アートの凝ったのなんて、本当に絵画のようなのがあります。見てくださいよコレ→ Edge The Of Plank
私も、もう少し慣れたらこんな境地を目指してみようかななんて思っています。


ところでてっきり食べられないもんだと思っていたこのカボチャ、実はこうして彫って楽しんだ後に、パイにしたりして食べるんですってよ!
でかいから大味なんじゃない?と聞いたら、確かにそうだけど、砂糖やシナモンで味付けするから結構美味しくいただけるんだそうです。

今年の私のケービングは、コロラドの学校のクラスが始まってから、休み時間にちびちび独りで彫っていたんですけれど、種を捨てようとした私の前にクラスメイトが立ちふさがり、「た、種が美味しいのに!」と、これまた新しい文化を教えてくれました。

で、彼女が作ったのがこれ。

殻ごと食べて海老の味がするお得な種

ランタン用のカボチャの種にオリーブオイルと塩をかけて、さっとオーブンで焼いただけなんですけれど、ななんとコレが、まるっきり海老の素揚げみたいな味で、すっごく美味しいのです!
あんなに美味しい甲殻類を、アレルギーで食べられない気の毒なパスカルズのチェロ奏者三木さんは、これを食べればいいのにと思う程です。(余計なお世話か)

去年のランタンは作ってすぐに、ウサギやリスの襲撃によって食べ尽くされてしまいましたが、今年は何故かずっと残っていてくれて、夕方になると灯をともし、とても楽しめました。(上の写真)

これは食べられちゃったやつ。↓

文字下の部分が食べられてしまった去年の作品

ところで。

今年私は、クラスの内輪でだけ通用するような小洒落た(つもりの)、そして深淵な(つもりの)ジョークを、ランタンに施したんですよ。

私としてはてっきり大ウケするものと思ったんですが、クラスのみんなからはしばし何の反応も得られず。。。。。。。。。。。。

はずしたつもりは無いのになんなんだよ、と日々募る不満を口にも出来ずに過ごしていたのですが。

ある日の昼休みに先生がやってきて、ランタンに彫ってあるあの言葉って、わざとああやったの?と聞くので、勿論ですがなにか?と答えると、やっと堰を切った様な大爆笑が。それだよ!それを待っていたんだよオレは!!なんでこんなに待たせたんだよ君たちは!!!!ってなもんですよ。

するとななんと先生は、英語がファースト・ラングエッジじゃないこのワタクシが、あんなすっげえ英語の駄洒落を思いつくとはすぐには信じられず、スペルミスの偶然の産物なんじゃね?と半信半疑だったって言うんですよ!

その場にいた何人かは、いや、自分は気付いていてすごく感心してたよ、と言ってくれたんですが、大多数は、そ、そうだったのか!!と初めてそこで開眼した様子。

いやあ、人間の思い込みとは、かくも恐ろしいものなんですね。
私が私じゃなくてジョン・クリーズとかだったら、言葉の最初の一文字を見ただけで、みんなわけもわからず爆笑したにちがいない。そんなもんだよ人の世なんて。

去年の作品を抱え、薄暗い部屋で笑うホラーなオレ

そしてまた、それは一体どんなジョークだったのか、とここで日本語で説明しても、アメリカン・ジョークを日本語で語っても全く響かないデイブ・スペクターのように、決して面白くないはずなので、説明はしませんがね。

ジョークって、実はとっても繊細なナマモノだよね。
些細なタイミングや状況で、全然生きなかったりするんですよね。

だからこそ、同じ瞬間に同じことで笑えるかどうかが、仲良しでいられる大切な条件だったりもする。(それが全てではないけども)

そういう意味で私はしばし、大変孤独な日々を送りましたよ。しかし最終的には誤解(?)も解け、みんな笑ってくれたんでよかったよかった。

そしてこの出来事が今年の私にとっては、最もハロウィン恐怖な体験なのでした。



ゴールデンのダウンタウンを歩くハロウィン親子