2015年3月15日日曜日
今日からジュース・クレンズ 3日間 !
去年の秋に学校を卒業したので、もうこれからは年に4回コロラドへ行かなくてもいいワタクシ。
しかしその分、一回行ってしまうとその滞在期間が延びるのなんのって。で、最近もしばらくアメリカにいて、帰って来たばかりなんですが...。
日本に戻ってきてやはり戸惑うのは、なんといっても食生活です。そんなにストイックに規律を守っているわけではないけれど、やはりアメリカでは、学校で教えてもらった栄養学に基づく食生活を続けているし、それを日常的に日本でやろうとすると、中々難しいのです。
アメリカには、非常に多種多様な食事制限のアイディアがあるだけでなく、それを簡単に実践出来る環境があると思います。
私は、この食事制限が一番だ、とか、誰にとっても正しい、と言う考え方には反対だし言うつもりもありませんが、唯一、選択肢が多い、ということはやはり大事なことではないかと思います。
そして、どんな食事法のアイディアでも、それを選んだ人が簡単にそれを実行しやすい環境を整えてあげる、という点では、アメリカはとても優れていると思うのです。
これはやはり、他民族国家で、様々に複雑な教義を持つ多種多様な宗教を許容しているという下地があるからなのかもしれません。
例えば、去年くらいまで私もハマっていた、ローのスプラウテッド・ブレッド。
これは発芽小麦の芽をミキサーでドロドロにして天日で干して固めてパンにした物で、いわば野菜で出来たパンなのですが、これが精製小麦や酵素の破壊された食品に抵抗を感じる人たちの間であっと言う間に広がり、今やどこのスーパーでも簡単に、安価で手に入ります。
アメリカではロー(熱を加えないで酵素を残す調理法)やグルテン・フリー(小麦抜き)というアイディアはすっかりメジャー市場を占め、そうじゃない物を探す方が難しいぞ、という勢い。(探さないけどね。)
そして最近のトレンドはと言えば、やはりスペルト小麦ですね。
大昔に食べられていた小麦は背が高く、風で倒されてしまって収穫出来ないことが多かったことから、人類が改良を重ね、現在の背の低い育てやすい小麦が出来たそうなのですが、どうもこの小麦・・・と呼ばれている植物は実際には既に遺伝子のレベルからして昔の小麦とは違う植物になってしまっており、最近の研究ではなんとこの新しい(60年くらい前から浸透している)小麦のプロテインが脳の血管の壁を擦り抜け、脳組織へと浸食してしまうということがわかった、というリサーチが発表されてから、それってやべえんじゃねえの、と感じる人が増え、結果流行り始めたのが改良前の古代の小麦、スペルト小麦なのです。
博物館にあった古代種の小麦の種からイタリア人が育てて広めたらしいのですが、グルテン・フリーの人もこの古代の小麦なら食べてもいいかも、と、私などは個人的に思います。実際、小麦アレルギーの人も食べられます、と表示されていたりするんです。
実はこのリサーチ、小麦だけでなくコーンや大豆も対象になっていることから、脳由来の疾患を持つ人はそういう物全部食べないようにしているケースも。
今は農機や環境も研究されているんでしょうから、植物の方を改良(改悪?)するんじゃなくて、育て方を変えるっていう方向には行けないものなんでしょうかね。
それにしても今やアメリカではこの小麦の害説は、トランス脂肪酸の害に次ぐ勢いで社会常識となっていますが、こういった、トランス脂肪酸や小麦の、「害かもよ」、的情報は、日本では恐ろしく浸透しにくいですね。
以前そういう事をちょこっとTwitterで呟いたら、いきなり排他性食品原理主義者扱いされて大変驚いた事がありますが、実際にはその人こそが、オーソドックスな栄養学を妄信するあまり私の情報を排除しようとしたのだということに、本人は気付いているのだろうか。
私は、従来の栄養学に固執して新しい情報を敵と見なす行為もまたその逆も、宗教原理主義者同士の争いの在り方と、全く同じだと思うのです。
まあ、小麦やトランス脂肪酸の害についての情報が一般的になると、日本でのメジャーな市場にかなりな影響を及ぼしかねないので、Twitterなどにはプロの刺客なんかが来て、嫌がらせを言ったりすることもあるのかもしれませんが。
いずれにしても、日本のスーパーにはグルテン・フリーやローやトランス脂肪酸フリーの物が溢れることは当分無いのかもしれず、それはそれで自分は少数派なんだと諦めてそれなりに生きるわけですが、そこでジュース・クレンズの出番なわけなのです。
日本に帰ってきてから、アメリカの毎日と違う物を結構食べちゃって驚いている身体をリセットする為に、今日から三日間、私はジュースだけで生きるのよ。
とは言え2時間おきに全6種類のジュースを飲むというプログラムなので、そんなにお腹は空かないんだけどね。
既に、朝の分を飲んでからもう2時間経過しているので、今二本目を飲んでいます。
これは、コールド・プレスという特殊な方法で絞ったことによって酵素や栄養素がすんごく残っている朝絞りジュースだけで三日間を過ごし、身体をリブートするというプログラムです。
今日のメニューはこんな感じ。
寝坊したから9時半スタートで、全部時間がずれ込んでいきますが。
ジュースの味はとっても美味しいので全種類飲むのが楽しみです。
明日はまた全然違う6種類のジュースを飲むので、三日間で、18種類!?
ジュースの合間に同量の水を飲むとより良い、と言われたんですが、なんか水分過多で溺れそうな気もするのでちょっと様子を見ながらやってみます〜。
またまたアメリカの話になってしまい恐縮なのですが、去年アメリカで、無気力で目の曇った太っててどんよりしたオヤジが、一ヶ月のジュース・クレンズで若々しく活気に満ち、澄んだ目をしたハンサムな青年に変貌して新しい事業も大成功!なんていうリアリティー・ショーが公開されて以来、ジュース断食、すっごく人気です。
私も変われるかしら。
三日間じゃ無理か。。
2015年2月28日土曜日
マジカーとザザ
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| マジカー・ 最近のプロモ写真 |
以前フランスのユーロケエンヌ・ロック・フェスティバルという大きな音楽フェスに出たことがあった。
当時フランスで一斉を風靡し始めていた歌姫カミーユとのコラボレーション・ステージだったので、1万5千人キャパの会場は熱気溢れて満員だった。
ちなみにカミーユというのは、ディズニー・アニメ”ラタトゥイユ'(邦題"レミーのおいしいレストラン")で主題歌を歌っているので、歌声を聴いたことがある方も多いかと思います。
あの興行は大きな予算が割かれていたので準備期間を結構貰えて、わたし達パスカルズとカミーユ&プロデュース兼アレンジャー兼演奏者兼影の黒幕マジカーは、10日間くらいフランスの片田舎の街で(もうどこだか忘れちゃったけど)合宿をして、錬りに錬ったステージングのリハーサルを頑張っていた。
この時の様子は当時私が"flowers"というコミック誌で連載していたエッセイ漫画でも描いたのですが、中々一筋縄では行かない過酷なリハーサル内容とは正反対に、環境は天国だった。特に飲ん兵衛のメンバー達にとっては。
なんたって、蛇口をひねれば飲み放題の、ビールの出る泉がキッチンに完備してたんですから。
あんまり飲ん兵衛ではない私にとってどうだったかと言うと、まあそれはやはり楽しかったです。
ご飯担当のカルメンが熱いハートの持ち主で、毎日肝っ玉を込めた美味しい料理を出してくれたし。
そんな、考えてみれば数ある欧州ツアー経験の中でも特異な、共演アーティストとの長期にわたる合宿という体験を共に通過して、すっかり打ち解けたカミーユの黒幕であるアーティストのマジカーは、今はソロ・アーティストとしてフランスと母国イギリスで大活躍中です。
端麗な容姿を生かした怪奇耽美なプロモMVはいつも私の注目の的・笑。
最近ではZAZAという女性シンガーのプロデュースでも注目を集めているのです。
![]() |
| ZAZA |
そんな彼から、昨夜楽しい知らせが届いた。
合宿してた頃から、東京に行くのが夢、とずっと言っていた彼が、ついに今年の5月に、来日出来る事になったそうなのです。
ZAZAの東京公演が決まったからなのです。
再会をとても楽しみにしてくれているマジカー。私も絶対ZAZAのコンサートを観に行こうと思っています。
ご興味のある方、是非とも5月の爽やかな季節に、おフランスの風に触れてみては?どうやらディナー・ショーみたいです。
ZAZAコンサート・インフォが公開されたら、またブログで紹介します。
これはマジカーが昨日見せてくれた、日本練習中、の証拠写真(^^)。
クッキーうまそう。。
最後に、怪奇耽美なマジカーのMVをご紹介しときます(^^)。
2015年2月27日金曜日
映画GravityとBIG HERO6の邦題に思う
BIG HERO 6という映画が、日本では "ベイマックス”というタイトルなのでなんでかなーと思っていたら、日本の宣伝戦略で、映画そのものを少年と癒し系ロボットの感動物として売りたいから、という背景があるのかも、ということを最近知った。
しかもその戦略の辻褄を合わせる為に、映画のエンディングの翻訳に操作を加え、アメリカ上映版とは違う結末を提供していると聞いて、私はすごく驚いた。
ディズニーも承知してるって話だし、そもそもその国の文化に合う様なアレンジを、物語や台詞そのものに加えることはよくあることだろうし、だから別に怒ってるとか不愉快だとか理不尽だとか感じているわけではないのですが、私はアメリカ版のエンディングで感動して泣いた口なので、同じ類いの感動を日本版だけ観ている人とは分かち合えないんだな、という些細な空虚感があった。
そしてこの一件は私に、『GRAVITY』という映画の事を思い起こさせた。
GRAVITYは、サンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーと宇宙空間しか出てこないシンプルな映画なんだけど、ひとりの女性宇宙飛行士が事故で宇宙空間に投げ出されたことから、その果てしない孤独の暗闇の中で何度も襲い来る絶望と諦めを克服しながら、なんとか地球に生還するというすごい迫力の鬼気迫る映画で、IMAXシアターで観る事によってまるで自分もそんな宇宙アトラクションにでも乗っているかのような気分を味わえる、いわば遊園地的体験型映画ですごいんである。
しかしこの映画のもっとすごいところは、→ここからネタバレなのでこの映画を観ていない方でこれから観る予定のある方は読まないでいただきたいのですが→
映画の殆どを締める生き残りの格闘の末に訪れる、一瞬のエンディング・シーンにあるのである。
この一瞬のシーンの為にその前の全てがあったのか、と深ーーーい感動に落とされる、素晴らしい瞬間が最後にあるのである。
それは、長く孤独な格闘の末にやっと小さなポッドに乗り込み、暗い宇宙空間を抜けて生きるか死ぬかの大気圏に突入した後、ポッドごと地球の海に落ちた主人公が、そのポッドから這い出して海に身を沈め、それから浜辺に辿り着いて地面に一歩を踏み出したその時に、「あ、重力」と囁く、その瞬間なのである。
その瞬間に観てる側は、殆どのシーンが無重力の宇宙空間であるにも関わらず、映画のタイトルが"GRAVITY(重力)"であるその、深い意図に気付くのである。
あーーーーーー、この映画って、宇宙空間のスペクタクルを描きたかったわけではないんだな、母なる地球、わたし達の故郷 地球の、尊さっつうかありがたさっつうか、なんですかもう、なんかわけのわからない、すっごい安らぎと安心感と、あーーーー、地球だよ、戻ってきたよ、地球があってよかったねーーーみたいな、そういう、そういうことを言いたかったんだな、だからタイトルが、「重力」なんだな、って納得して、すごーーーーーーく感動するんである。
特に主人公が女性であり、ひとりの娘を持つ母親であるという象徴的な設定からも、映画製作側の意図は明らかなのである。
一緒に観に行ったアメリカ人も、「あ、重力」のシーンではっとしたように深ーーーく息を吸い込み、それからさざめくようにずうっと泣いていたから、彼も全く私と同じ感動に包まれたんだなということがよくわかったのである。
だからこの映画の日本語タイトルが、なんと " ZERO GRAVITY(無重力)"だと知った時、私はものすごく仰天したし、それを言ったら彼もやっぱり愕然&動揺して、「な、なにもわかってないね...。」と一言言ったのである。
邦題に”重力ゼロ”と付けたってことは、日本の視点は全く帰還後の地球には向いておらず、この映画の価値はひたすら行われる宇宙空間での格闘なのだということであり、最後のシーンでどんなに主人公が、「あ、重力」と呟いたところで、あくまでも地球と重力は脇役という設定なんだから、特に事前に日本側の宣伝など見てた人は既にマインドコントロール下にあり、あのエンディング・シーンがそんなに胸には来ないんじゃないですか?
私、これははっきり言って、酷いと思います。
この邦題は、この映画そのものの本質的なクオリティを完全に歪めており、最も大きな感動をくれる大切なシーンを、観る側から根こそぎ奪ってしまっているのである。
もちろんこの映画は、宇宙での格闘シーンだけでも充分に楽しめるので、日本国内においてよくステレオ・タイプに言われている、”お軽くて楽しいハリウッド映画”を求めている人には充分かも知れないけどね。
どう思います?
日本は、日本側のイメージ戦略によって、ハリウッド映画をお軽くてイージーな商業主義、というカテゴリーに入れて、そして実際にこういう翻訳操作によって、本当はすごく深い所を突いてくる映画を、ただの派手なアクション・スペクタル物にでっち上げてるんじゃないのとか、思いませんこと?
これは別に意図的にそうしてるって言うよりは、もしかすっと日本側の映画を売り込む人たちが既に過去のマインドコントロールの犠牲者で、軽薄なハリウッド映画がこの映画にGRAVITYなんてタイトルつけてるのは単に頭が緩いだけよねー、ゼロを付けた方がよりわかりやすいのにねー、なんて思って、余計なお世話焼いちゃってるんじゃないんですかね。
かつて私は、「日本ではプロフェッショナルな物、感動や意味の大きくて深い物、笑いの質の高いコメディなどは流行らない、日本人の感性は、そういった刺激にすぐ疲労を感じてしまうから売れない。緩いもの、アマチュアな物、そこそこな物じゃないと商売にならない。」と書かれた物を読んだ事があります。
これって、マジですか?
もしこれが本当で、大方の日本人が本当にそうなんだとしたら、それはひとつの民族性や文化度として尊重され、ハリウッド映画にも軽薄なアレンジを加えたままの流出でいいんじゃね、とは思うんですが、実は大方がそうではないにも関わらず、御上のユルフワ戦略によって、高い満足度を与えてくれる刺激の強い、あるいは高品質な、あるいはオーセンティックな感動や想いをくれるような物から「保護」され続けているうちに、そういう刺激に抵抗を覚えるような感性になって行っているとしたら、それってなんだか恐ろしいことだなーと思うんである。
まあ、自分の趣味に合わないなら遠ざかればいいんですが、私にはまだ、日本人て本当にそうなの?GRAVITYより、ゼロ・グラヴィティの方がお気楽でいいよ、って人ばかりなの?マジに?っていう疑いがあるので、こういう出来事に触れる度に、ちょっと何か言いたくなってしまうんである。
2015年2月2日月曜日
今日はグランドフォグ・デイ!!
アメリカにいます。
1週間程前から。
コロラドは、夏日だったと思ったら、朝起きたらいきなり雪が積もっていたりと、相変わらずのワイルドなウエザー。
そんなある日、というか今日、TVのニュースを賑わせていたのが、ペンシルバニアで本日行われた歴史的なイベント、グランドフォグ・デイです。
この権威あるイベントは、2月2日の朝、ペンシルバニアのパンクストゥニー・ヒルという小さな町の市長さんが、グランドフォグ(ウッドチャック/山ネズミ)をケージから出して高々と宙に掲げ、その視線の先を見守るというものです。
もし、グランドフォグが市長さんの影の伸びる方向に目をやれば、今年の冬は短い、つまり、太陽の光がすぐそこに来ている、しかし、万が一グランドフォグが市長さんの影の方に顔を向けなかったら、わたし達は長く暗い冬を過ごすことになってしまうという、大変な明暗がこのむっくりとした大きなネズミの肩にかかっている、重要なイベントなのです。
毎年かかさず行われるこの行事の為に、今朝も明け方から町中の人々がイベント会場に集い、市長の両手の先にちんまり乗っかった山ネズミの姿に、一心に目を向けました。
そして今年、なんとグランドフォグは無事に市長さんの影をちらり見し、結果として、冬は6週間後に終わるだろうとの予想が上げられたのです!!
この由緒正しいグランドフォグ・デイが唯一の観光の呼び物であるその、パンクストゥニー・ヒルという町ですが、このユニークな町名の由来は何なのかと紐解けば、ネイティブ・アメリカンが小さな刺す虫、まあ、蚊みたいなやつを、パンキーと呼んでいたので、そこからもじってパンクストゥニーと名付けたんだそうです。
なんて全てがバカバカしいんでしょう!
冗談のような本当の、アメリカのお話でした。
朝っぱらからニュースで爆笑したよ。
1週間程前から。
コロラドは、夏日だったと思ったら、朝起きたらいきなり雪が積もっていたりと、相変わらずのワイルドなウエザー。
そんなある日、というか今日、TVのニュースを賑わせていたのが、ペンシルバニアで本日行われた歴史的なイベント、グランドフォグ・デイです。
この権威あるイベントは、2月2日の朝、ペンシルバニアのパンクストゥニー・ヒルという小さな町の市長さんが、グランドフォグ(ウッドチャック/山ネズミ)をケージから出して高々と宙に掲げ、その視線の先を見守るというものです。
もし、グランドフォグが市長さんの影の伸びる方向に目をやれば、今年の冬は短い、つまり、太陽の光がすぐそこに来ている、しかし、万が一グランドフォグが市長さんの影の方に顔を向けなかったら、わたし達は長く暗い冬を過ごすことになってしまうという、大変な明暗がこのむっくりとした大きなネズミの肩にかかっている、重要なイベントなのです。
毎年かかさず行われるこの行事の為に、今朝も明け方から町中の人々がイベント会場に集い、市長の両手の先にちんまり乗っかった山ネズミの姿に、一心に目を向けました。
そして今年、なんとグランドフォグは無事に市長さんの影をちらり見し、結果として、冬は6週間後に終わるだろうとの予想が上げられたのです!!
この由緒正しいグランドフォグ・デイが唯一の観光の呼び物であるその、パンクストゥニー・ヒルという町ですが、このユニークな町名の由来は何なのかと紐解けば、ネイティブ・アメリカンが小さな刺す虫、まあ、蚊みたいなやつを、パンキーと呼んでいたので、そこからもじってパンクストゥニーと名付けたんだそうです。
なんて全てがバカバカしいんでしょう!
冗談のような本当の、アメリカのお話でした。
朝っぱらからニュースで爆笑したよ。
2015年1月27日火曜日
i Origins、観ました
私の漫画の元担当編集さんだった方が、漫画の絵柄は”発明品”のような物だから、とおっしゃったことがあります。
天性の物であれ意図的にデザインを構築した物であれ、先人の誰にも”極めて”似ていず、しかも充分に魅力的な個性を持つ漫画絵を描ける方というのがいらして、例えば私的にはその代表は、高野文子先生です。
他にも漫画界にフレッシュな個性を運び込まれた作家さんは大勢いらっしゃいますが、高野先生の絵というのは私にはあまりにも鮮烈で、しかもその絵柄で語られる物語のいくつか、特に"春の波止場で生まれた鳥は”が大好きで、あれは人類の宝ではないかと感じるほど優れた”発明”だと、私は思うのです。
物語や映画や音楽にもそういうのってありますよね。
何かがベースになっているとか、何かからインスパイアされて作った、あるいは、作家さん自身は誰にも影響は受けていないのだが、過去の何かを思い起こさせる、という物で素晴らしい作品は沢山あるし、そういう作品の中に大好きな物も沢山あります。
実際私は、「根源的なところからオリジナルではない」ということは作品の良し悪しや優劣とは関係無いと思っているし、事実今の創作物の大半は、偉大な先人からの血筋をなんらかの形で受け継いでいるというのが、スタンダードではないかとも思います。
単に新しさと奇をてらって、唐突で、確かにそりゃあ個性的でインパクトはあるけれど、あんまり感動は無い、というような物よりも、なんらかの血筋は過去から受け継いでいるけれど、その理由がオマージュだったりリスペクトだったり、あるいは単に同じタイプの遺伝子や魂を偶然受け継いだだけで似ちゃっただけであるとか理由は様々ながら、真摯でなんらかの根拠に根ざした、心に深く届く作品の方が、私は感動するし尊敬も出来るのです。
だから、新しい、という事が七難を隠すと言えば、そうとも限らないのも事実だと思います。
しかしながら。
時に突然全く前例の無い、まさに神様からファースト・ハンドの恩恵を受けたかのような、根源的にオリジナルな作品を創られる方が、いらっしゃるんですよね。
音楽にも映画にも漫画にも小説にも、そういう作品て稀に発現します。
そしてそういう作品に出会うと私は、出会った自分までもが特別な幸運の恩恵にでもあずかったかのような、奇跡体験みたいな煌びやかな感動に包まれるのです。
この感動は、血筋や前例あっての、という作品から受ける感動とは、全く質の違う物だと私は感じます。
この感動は、大自然が稀に見せる奇跡の瞬間にでも巻き込まれたかの様なタイプの感動であり、地球生命体である以上、それがまるで遺伝子にでも食い込んで来て、その後の進化の礎にでもなっちゃうんじゃないのか、と感じるくらいの、大きな大きなインパクトだと感じるのです。
それが、自分自身の心の琴線にも深く触れる様な物だった場合は特に。
今回アメリカへのフライト中、私は珍しくすっごく退屈していて、機内エンターテイメントにもその退屈さを埋めてくれるような物も無く、とは言え自分自身が何かを生み出すようなプロダクティブなエネルギーも無く、創るよりは何かいいものを得たい、という飢餓感の中にいて、多分美味しいおやつでもあればそっちに集中するんでしょうが、機内で配られる食べ物はあんまり魅力的じゃ無くて、貰ったチョコレートやサンドイッチを、食べるあても無くリュックに放り込みながら、私は映画のザッピングをしていました。
いつもは、「観たいな」と思う新作映画がいくつかあって、それが機内エンターテイメントのメニューにあったりすると、ラッキー!なんて思って嬉々としてそれを観るわけですが、今回は新作映画の情報も知らないまま飛行機に乗ってしまったので、全くあてもありません。
いくつか観ては退屈して途中で切り上げ、また新しい作品を観てみる、という繰り返しの中で私はふと、もうちょっと注意深く選んでみようぜ、という気分になりました。
飛行機に乗るまでの数日間のスケジュールや出来事が慌ただしかったため、完全に怠惰になっていた私は、映画を選ぶ時もおざなりでいいかげんな感じで選んでいたのです。
というわけでキリリとふんどしを締め直し、映画紹介の短い文章をきちんと読み始めた私。それでもなんだかなーと思っていた矢先に、さっきからずうっとスルーし続けていた作品に目が止まりました。
なんでスルーしていたかと言うと、紹介写真がヒマワリみたいに見えたからです。(上の写真)
ヒマワリ、という花から想像する私のハリウッド映画への偏見は、ゆるくてのどかなファミリー感動物、という感じです。
ゆるくてのどかなファミリー感動物は、私の最も食指の動かない分野であり、全く興味が持てなかったわけですが、説明文を読んでそれがヒマワリの写真ではなく、人間の目の虹彩だということに、遅ればせながら気付いたのです。
そしてそれが、科学者を主人公にしたものだということにも。
ということは。
私の心にどストライクではありませんか。
タイトルは、"I ORIGINS"。
そして観始めました。
そして映画が始まった途端に、今までとはまるで違う引力にぐいぐい引っ張られる自分を感じました。
面白いことに、優れた作品という物は、例外無く俳優陣も魅力的なんですよね。
この映画も、ヒロインを演じている方が新人であまり名前の無い女優さんなのですが、彼女の、通常のハリウッド映画の美人タイプからはちょっと逸脱した容姿の魅力は、この映画のファムファタルにふさわしい、深い印象をくれるんです。
まずはヒロインの魅力だけでもグイグイ物語に引っ張り込まれる、というのは、やはり私にとっての特別な映画"ぼくのエリ"みたいでした。エリ役の女優さんと、この”I ORININS"のヒロインの女優さんのタイプは、ちょっと似ています。
物語を大雑把に説明すると、主人公は分子生物学者の男性で、彼は人間の目の虹彩に興味があって、ずっと目の研究をしています。
彼は無神論者なので、神の実在を語る人々がその証拠として、人間の目という奇跡的な存在に言及するから、その奇跡を科学で解き明かしたい、というのが研究のひとつの動機です。
優れた助手を得た彼は、目を持たないミミズなどの生物に目を与えることを可能にするという、ものすごい画期的な遺伝子的発見をして、有頂天になります。
そんな中彼は、パーティーで出会った不思議な虹彩を持つ女性との恋愛にはまってゆくのですが、その関係を通して、人間の目の虹彩が思いも寄らない、信じ難い様な事実を紐解いてゆく、という話です。
これは、話の内容、女優さんの魅力も素晴らしいのですが、映画の表現力がすごい、と私は感じました。
特にラストシーンの、ある子供のアップは、もう一生忘れられないのでは、と思う程美しくて、もうまさに、大自然の起こした稀な奇跡の渦中に居合わせた的大感動を、私に与えてくれました。まさにこれは、神様からのファーストハンドで創られた映画だったのです!
この物語は、言葉や台詞で語られている話を頭の理解で解釈するだけ、という見方をすると、多くの大事な物を見失います。
言葉で語られているその背後に、深い綾の潜んでいる映画なのです。
まるで映画のキーとなる虹彩と脳のシナプスの関係のように、表には出ては来ない大事な領域を、美しい映像表現で示唆していてそれが成功しているすっごい映画です。
こんな映画に飛行機の中で出会えるなんて、私は実にラッキーです。
これを見逃していたらと思うと、本当にぞっとします。
それにしても、こういう神からのファーストハンド的物語って、そもそも数学や科学や哲学や物理なんかを一生懸命研究している人が、その副産物的に発見する、ってケースが時々あります。
この映画もそうなんでは、と思うくらい、着眼点がすげえな、と思ったのですが、定かではありません。
しかし最近、科学者が人間の根源的な何かを発見してしまうかもってパターンの話に出会うことが多いなあ。(ホーキング博士の映画とかね。)
私のところにもそういう物語がファーストハンドで来てくれたら、スイーツ一生食べなくてもいいってくらいの覚悟で、一生をかけて描き倒すのですが。
スイーツくらいの覚悟じゃダメっすかね。
![]() |
| ヒロインの持つ印象的な虹彩 |
2015年1月22日木曜日
しあわせってなんだっけ
この日記は、たった今とても苦しい事に直面している、私の若いお友達に捧げます。
夢見ていた幸せが、思う様に展開しない時、思わぬ形で裏切られた時、そりゃあ絶望もするしこの世の終わりだって、思うのはわかる。
世の中には、若い女の子の理想の幸せ、という概念がいくらでも存在している。
今は多様性の時代だから、昔みたいに誰もが結婚して子供育てて、という形ばかりを願うわけじゃないんだろうけれど、日本は保守に傾いているという噂も聞くから、もしかしたらまだそれが、若い女の子の夢の典型なのかもしれない。
それとも才能を行かして生きる道を望む人もいるだろうし、その両立を目指す人もいるだろう。
いずれにしても、こんな風になれたらきっと幸せだ、という象が、あるに違いない。
お店を開くとか、有名になるとか、どこかへ移住するとか、夢の家に住むとか、色々あると思う。
そしてそれに固執して、がんばって夢を叶えようとして、すごくがんばっていたのに、そうじゃない結果が人生に現れたら、そりゃあ絶望もするだろうし、この世の終わりみたいにも思えるだろうし、すごく辛いだろうとも思う。
でもそれでもう終わりだ、って思っちゃったらさ、自分の人生が、かわいそうじゃない?
自分の人生は、人生そのものとしてのオリジナルの道を、脳で考えた理想の在り方とは別の次元で、粛々と展開しているんだよ。
私は最近、ホーキング博士の映画を観て、そのレビューにも書いたんだけど、あの映画は、人間の思考、なんていうちっぽけな条件付けされた想像力が理想と描く、もっと言えばこれなら問題無い、と信じる人生の形が、より大きな人生そのものの在り方からすれば、如何に浅はかでくだらないか、固執する価値も無い様な、意味無きシロモノかということを、教えてくれる映画だったんだよね。
ホーキング博士が何故あんな難病を患ってしまったのか、何故あんな悲劇に見舞われたのか、という問いと共に映画館に入った私は、博士の病がそもそも悲劇だなんて思っていた自分の浅薄さが、愚かで可笑しくて笑えて仕方ないっていう感じで、映画館を出たんだよね。
そして、宇宙の起源を紐解く科学者のホーキング博士は、そのことをとうの昔から知っていて、本当の意味でのヒト生命体の、生物学的起源としての"完璧"ってどういうことなのかを、深く納得して生きているってことを、あの映画は見事に描いていました。
これは安っぽいポジティブ・シンキング志向や「どんな事にも意味がある」みたいな哲学的な言葉で説明されるような、概念で語れる様なものじゃない。
人類という生命体が、どんな風に生きれば地球の生物として自然なのかを、博士は科学者として知っている、ということなんだよ。
人生というものは、自分の頭で考える理想とは、別の次元で粛々と展開されているんです。
もしも頭で考えてる理想について、あれ?いつから、どうして自分はそんなことに固執していたんだろう、という、ちょっとだけ謙虚な気持ちになって、それって本当に、幸せ?と問い直してみたら、もしかしたらその理想は、何の根拠も無い、何の意味も価値も無い、単なる幻覚だっていうことが、わかるかもしれませんよ。
そしてそんな事に固執するあまり、盲目的にそれだけを追い求め、傍らで粛々と展開している自分の本当の人生の流れが見えなかったとしたら、すごく勿体ないと、私は思うのです。
自分の思い通りになって欲しい、という気持ちはあるにちがいない。
それに向けて努力を続けるのも、悪かないと、私は思います。
だけどある日人生が突然思っていたのとは違う顔を見せて、それがすごい晴天の霹靂で、それですごくショックを受けて、もうどうしたらいいかわからなくなったら、その時こそ人生の本当の顔を、見る事が出来るチャンスだと思うんです。
自分の頭で考えていた理想は崩れた、じゃあ、だとしたら、どんな事を人生は、やろうとしてるんだろう、という好奇心を持つ、チャンスだと思うんです。
もしかしたらそれは、制限のある思考で作った理想なんかを遥かに超えた、もっと創造的でオリジナリティーがあって色彩豊かで、ずっと面白い世界かもしれない。
自分で思い描いていた理想を一旦諦めてみることは、そんな自由な可能性を人生に許す、チャンスなのかもしれない。
アメリカの精神医学では既に、人間の持っている、誤ったアイデンティティが、全ての苦しみの源だって言うことを言い始めています。
これは科学者ホーキング博士が言っていることと同じだ。
理想に向かって邁進することはいいことだし、その努力が実を結ぶという幸福もある。
だけどもしも、自分の理想が、叶わないことで今、自分を苦しめているんだとしたら、その理想ってやつを洗い直して、正体を直視することも必要なんじゃないだろうか。
自分の理想って、本当にそれなの?
いつからそれが理想だって、信じていたの?
その理想と幸せのスタイルは、本当にその彼と、分かち合う物なの?
今が本当に、それが叶えられる正しい時期なの?
何故自分は、それが叶えられなければ人生に意味は無い、おしまいだ、なんて信じ込んでいるんだろう。
私もホーキング博士同様に、ずいぶん早いうちから、理想というものを思考する生き方をやめてしまったので、それを頑張っている人の気持ちが今ひとつわからないってのがあるように、理想を実現するってずっと頑張ってる人には、こんな文章読んでも全然ナンセンスかもしれない。
だけどもしも、自分の生き方に裏切られて、もう生きる道が無い、ってとこまで行っちゃったんなら、死を選ぶ前に、自分が固執していた理想という物を、ちょっと謙虚な気持ちで洗い直し、全くそれを持たない状態でただポカンと、人生の流れを、理想という色付きのフィルター無しに、眺めてみる時間を持ってみたら?と私は提案します。
何才でこれが起こって、何才でこれが結実して、今はこれがこうなっていなければならない時期で、女の子にとってはこれが幸せで、という考え方のかわりに、ただじっと耳を澄まして、人生の流れの水音を聞いて、次は人生は何をしようとしているの?夢が叶う時期は本当は今じゃないの?本当は違う方向に向かって流れているの?そっちに方向を転換すると、もしかしたらもっといいの?と、少し謙虚に、河岸に座ってみたらどうでしょうか。
疲れ果てているのなら、次の一歩を踏み出す前に、ちょっと河岸で休みながら、自分がしがみついていた理想というものが、果たして自分に良い物を、本当にもたらしてきたのかを、観察してみたらどうでしょうか。
そしてその理想という考えを一旦地面に置いて、とりあえず置いたままの軽い体で、しばらく静かに、好奇心だけ持って、ゆっくりと歩いてみたらどうだろう。
どうせ最後にはみんな死んじゃうんだし、今はまだそう死へと焦るのはやめて、しばらく人生そのもののやり口を観察してみたらどうだろう。
頭の中でうるさく叫んでいた理想の幸せの実現ばかりに集中していた耳と目と心を、傍らで粛々と静かに流れている人生そのものの存在に向かわせて、そしてしばらくその流れの在り方を、眺めてみたらいかがでしょうか。
それで救われるのか、と言えば、理想に固執している限りは救われないと思うけれど、その代わりに全く違う、もしかしたら自分が頭の中の理想に集中していた間、ずうっと勝手に展開していた人生そのものの、ユニークなやり方の相棒になれるかもしれません。
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の下記2点は早くもSOLD OUTです。ありがとうございます。
濃紺オーガニック長袖TシャツMサイズにウサギのイラスト。別の作家さんの作品、白いふわふわスカートと合わせたらとても素敵でした。
キャンバス・トートに鳩のイラスト、あと、白いブロードシャツにも鳩のイラスト。
の下記2点は早くもSOLD OUTです。ありがとうございます。
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