2016年3月3日木曜日

レヴェナントを観た

オレが感動の稲妻に打たれて動けなくなったシーン

あまりに素晴らしい映画だったので、ゴチャゴチャ言いたくありません。

ただ、「これを観た」という事を自分に刻み込みたくて、ブログに書くのです。

これはもう、本当に素晴らしいです。

天才的。



アカデミー賞の選考に偏りがあるとかなんとかいう文句をよく聞くけれど、今年はこの映画の監督に賞が行ったんだったら、その偏り方は私の偏り方と同じなので全然文句ありません。

こんな映画、どうして創れるの、と思うのは、人間のイマジネーションを遥かに超えていると感じたから。
単なる映像美という事ではなく、ここでこのシーンをなんで持って来られたの、という奇跡だ。

でも実際に映画が出来たんだから、本当は人間はこんなにすごい領域にアクセスできちゃうという事なので、それはもう、本当にすごい。


アカデミー賞を気を付けて観ていなかったのでよくわかってはいないのだが、ディカプリオもそりゃあ貢献してたけど、敵役の役者さんの演技がまたすごい、というか、この人だから名画になったんじゃ、というくらいの深みだったので、なんか賞をあげればいいのにと思う。


悪役の彼のヒルビリー訛の英語が、非常に色んな事を感じさせる。

悪い事をいっぱいやっているんだけど、彼のヒルビリー訛が、心に深く、彼という人間の人としての限界を、ひりひり感じさせるんだよね。
こんな気持ちにさせられる悪役というのは初めてだなー。


私はある意味、ディカプリオの演じた主人公ヒュー・グラスは、とても豊かで美しい人生の領域を生きている人だと思う。

でもあの敵役フィッツジェラルドには、そういう豊かな世界の扉が開いていないんだよね。


フィッツジェラルドが実人生でそばにいたらイヤだけど、俯瞰の目線で見ると、だってフィッツジェラルドは、世界の美しさを味方につける深みを持てなかったんだから、と思ってなんだか悲しくなってしまう。


いやもちろん、最低野郎なんだけどさ。
でも彼にとっては、必然なんだよね。。
何をやってるのかわからないんだよね。。。
それが彼の限界なんだよ。。


圧倒的な映像美は、全てがヒュー・グラスに開かれているドアだ。

同じ世界に生きていながら、人によって、見える物や感じる物や、そして世界からの手の差し伸べられ方が違うという現実は、世の中によくある事だと思う。


この映画はそういう意図で創られては全然いないんだろうけど、期せずして素晴らしく奥深かった悪役の俳優さんのせいで、なんだか私にはこれが、モーツァルトとサリエリの対決みたいに見えちゃって。


鮮やかな天才ヒュー・グラスと、人としての限界の中で盲目状態のフィッツジェラルド。

右脳と左脳。

流動と停止。

直感と画策。


色んな映画を観て来たけれど、こんなに映画で感動したのは、10年振りくらいかもしれません。

今日は映画に行く前に、湖のほとりの道を2時間半くらいハイクしたのだけれど、樹々、河、滝、鳥の声と、なにもかもが映画とシンクロしていて、今日という一日が、映画の中のヒュー・グラスの生きる、なんとなく奇跡的な気配のする世界の中に、自分もずうっと包まれている感じがしました。



これは私のもうひとつの大好きな映画(ブラザーサン・シスタームーン)の主要な一場面

2016年3月1日火曜日

モヤモヤしています

今、猛烈にモヤモヤしている。

でも原因がわからない。

さっき顔見知りのWさんに会った。

このWさんが、なんとなくいつも、モヤモヤした人物だと私は感じるのである。


実のところ、彼にそういう評価を下す人は、あまりいないだろう。

Wさんは行動派だ。

やりたい事をどんどん実現してゆく。

たったひとりで音楽オーガニゼーションを立ち上げて、やりたい企画をどんどん実現している。

ラジオ番組を持っていて、流暢な語り口で自分の好きな音楽をかけ、子供達を音楽に巻き込む為に色んなコンサートを実現している。

インディーズの音楽家たちを世界中から発掘して、自分の企画するコンサートに出演させてそれを自分の番組で取り上げたりしているから、きっと色んなミュージシャンから感謝もされているだろう。

コロラドでも有名なレッド・ロック・シアターで、今年も何かやるらしい。

そんな志や行動力は素晴らしいし、基本的にいい人間でもあるのはわかる。

思いやりもあって、親切な紳士だ。


でも実は。


私との相性は、絶対に悪いと思うのである。

相性というのは、性格の事では無い。
(Wさんの性格はまだよく知らないからわからないし)

なんか全体的に、住む世界っていうかさ、そういうのが、全く違うと思うんだよね。

「住む世界が違う」なんて言うと、どっちかが上流階級でどっちかがアンタッチャブルなのかよ、なんて極端な解釈をされると困るので言っておくけれど、そういう上下とかを言ってるんじゃない。

属性が違うっていうの?
そう、属性が、違うんだよね。完全に。
私は森の生物で、Wさんは浜辺の生物だから、一生会う事は無い、そういう間柄だと思うの。

私は今回、アメリカで沢山そういう体験をした。
今まで良しとしてきた関係性に間違いが見つかり、深まってゆく人たちと離れてゆく人たちが、はっきりくっきり、見えて来たのである。

好き嫌いとか、そういう事での区別ではない。
ああ、この人は遠いんだな、単にそんな風に、体感でわかるっていう、生物学的本能的な反応だ。

そしてそれはとても真摯な感覚だと私は思う。

失礼だとも冷たいとも思わない。

私は誠実に、ただそう感じるのだ。

私は本当に、真摯に人に関わっていると思う。


だけどWさんはさ。

いきなりアポを取って来て、割と強引に押し掛けて来て、勝手にツーショット撮って、勝手にその写真をSNSに投稿したんだよね、さっき。

で、投稿しながら、こう言ったの。
「Dが見るといいんだけど。」


Dというのは、私が親しくさせていただいている、ある有名シンガーだ。

Wさんは実は、今年行うレッド・ロック・シアターでのコンサートに、Dを呼びたいのである。
だから私に何度も連絡が来るのはわかるし、それがモヤモヤする理由ではない。

Wさんのコンサートへの情熱や意図は中々素晴らしい物で、アメリカでやっていた私のバンドの事も知っているから、私にも出て欲しいと言ってくれているし、そのイベントにDを呼んで欲しくて私に橋渡しを頼むのなんて、全然自然な事だ。

だからそれはいいんです。

いくらでも、橋渡しをしたいし、協力するとも言いました。

だから、Wさんが私と知り合いだという事を強調する為に私とのツーショットを撮り、それをDが見てくれたら話も早いのにと思っても全然構わない。

わざわざ、これ載せていい?とか聞かなくても、この場合は別にいい。

私のモヤモヤは、そこじゃないんですよ奥さん。


Wさんは私に今日、こう言ったのです。

「Dに出演を頼んだのだけど、なんていうか、アマチュア・バンドと共演なんか出来ないよ的な感じで断られてしまって。」

それを、非常に、非難めいた口調で、私に言ったんだよね。

Wさんは、プロやアマチュアという境界の無いコンサート世界を創りたいと思っている人物だ。

音楽を、子供、その親、プロ、アマチュアが、みんなで一緒に同じ現場で楽しめたらな、と思っている人物だ。

その為にレッド・ロック・シアターをおさえたのだ。

素敵な発想だし、確かに耳障りもいいよ。


だけどさ、「アマチュア・バンドとなんか共演出来ないよ」、と言ったプロのミュージシャンの言葉を非難するのは、ちょっと違うんじゃないのかい?


まずはっきり言って、Dはそういう事を言う様なタイプのミュージシャンではない。

生粋の芸術家肌だから、見た目や歌の雰囲気よりは、直接話すとやや気難しい印象があるかもしれないけれど、いつも人を、すごく純粋な気持ちで見ている人だ。

以前私に、感動の面持ちでこんな話をしてくれた事がある。

Dの娘がまだ小さかった時に、学校で仲良くなった親友シンディーちゃんの話ばかりするので、学校に娘を迎えに行った時に、「どの子がシンディーちゃんなの?」と聞いたそうだ。

そしたらDの娘は、「あの、ピンクのカーディガンの子。」と言って、みんなでブランコに群がっていた、ひとりの女の子を指差した。
そしたらその子は、黒人だったのだそうだ。

Dは、自分の娘が、「あの肌の黒い子」と言わずに「ピンクのカーディガンの子」と言った事で、子供には、肌の色の違いなんて、まるで目に入っていないんだ、という事に、衝撃的な感銘を受けたのである。

Dは私よりかなり年上だ。
Dの娘が小さい時代なんて、今よりもっと人種差別が激しかっただろう。
そんな中、Dは自分の娘の視点に深い感銘を受けて、その事をずうっと、何十年も心に生かし続けているのだ。

そんなDが、単なる蔑みの心で、アマチュアなんかと、なんて言ったとは、とても思えない。

そして例え言ったとしてもだね。

それは当たり前なんだよ!!!

プロとアマチュアの違いっていうのはなによりも、人目や厳しい精査の目に耐えて、それでも好きな事を貫いているのか、あるいはそういう事を全部避けて、傷つかずに済む、気楽な位置でそれをやっているのか、という所にある、と私は思う。

私は、どっちが偉くてどっちがダメで、とか言うつもりは全く無い。

だけど、自分の最も大切な創作物を、例えば心無い評論家に公の場で何度もこきおろされて、それでもそれを貫いている人々というのは、そこを通過していない人たちと、全く属性が違うっていうことを、知っていなければならないと、私は思うのだ。


Wさんが崇高な気持ちで、プロとアマの垣根を越えてさ、なんて言うならば、同じ様に音楽をやっているWさんこそがまず、プロの通過してきた道を尊ぶ気持ちを、持っていなきゃダメだと思う。

断られた事で卑屈になってDの事を悪く表現するなんて、もっての他だ。

そしてちなみに私は、何度かWさんに、おかしいな、Dはそういう事を易々と言う様な人じゃないんだけど、とさっきの会話の中で言ってみた。

するとWさんは、いや、必ずしも言葉でそう言ったわけじゃないんだよ、ニュアンスでさ、そんな感じだったんだ、と言ったのだ。

ニュアンス。

つまり、Dは断っただけでなんにも言ってないのに、Wさんがそう捉えたって事なわけ。


この、ヒガミ男がーーーーーーーーっっっ!!!!!!!!!!!!!💢💢💢




あ、これだったんだ、私が怒っていたのは。


そういう経緯があっての、勝手にSNSに写真投稿だったから、私はモヤモヤしていたんだな。

というわけで、残念ながらWさんが投稿した写真は私のTLからは削除、Dの目には触れないようにさせていただきました。

私はDみたいな強くて純粋な人を、ヒガミ根性で影で悪口言う様な人間に関わらせる片棒を担ぐのは、まっぴらゴメンってわけだからよ。
ここは勘弁してくんな。

Wさんにもそう伝えなくちゃあ。

というわけで、モヤモヤの原因がはっきりしたのでこのへんで。


2016年2月19日金曜日

イディアル・セルフ・イメージ

ドナルド・トランプ

ドナルド・トランプへの投票数が共和党のトップになったというニュースを聞いて、まあ、どうせ最終的にこの人が大統領になることは無いだろうと楽観的な見地を保ちつつも、万が一大統領になった場合、彼はその仕事をきちんとやれるのかなと思って、今やっかいになっている家主の意見を聞いてみた。


家主は、アメリカの議会のデザイン上、ひとりの政治家が暴走出来ない様になっているから、トランプが当選したところで世界が破壊されるような事は無いだろう、とだけ言った。

では、トランプが意外にも、いい大統領になる可能性は?と更に質問し、ここから結構話が盛り上がったのです。

既に専門家が指摘している様に、ドナルド・トランプは典型的な、自己愛性人格障害の傾向を持っています。
自己愛性人格障害というものには双極性があり、表的出方をするとトランプの様に肥大した自己像を持ち、声高に「オレはヒーローだ。」って感じになりますが、ヒーローだ、ってのは明らかに誤った自己像なわけです。で、裏的出方をすると物静かで自信無げでありつつも、でもやっぱり誤った理想の自己像を抱えていて、その役割を演じていたりするのです。

つまりこの両者とも、自分をとてもいい人物だと勘違いしたまま生きているというわけですが、勘違いなので明確な自意識は無く、もうすっかり自分を正義の味方で優しくて弱者の味方でいい趣味でとにかくとてもいい人だと思い込んでいるわけです。

ドナルド・トランプの髪型がヘンなのは、その勘違いの産物では無いかと思います。お金持ちなので、いくらでも素敵なウィッグを作れそうな物ですが、彼は薄くなってない領域の髪の毛をうんと長くしてその髪の毛で薄い部分をカバーしている為、とっても奇妙なヘアスタイルになっているわけですが、こういう外見が人から見て奇妙だと客観視する感性が不足しているんだなと、私は思うのです。


ところで、自己愛自体が悪いわけでは無いのに、何故に自己愛性人格障害、と人格障害、という名がついているかと言えば、実はこの人たちには本当の自己愛が無いからなのです。つまり、極度の自己不信を錯覚で補っているだけで、実は本当の自分に強い嫌悪感を持っていたりします。ですので、本当の自分の上に、どこからか盗んで来た理想のイメージの皮を被っていて、それを自分だと勘違いして生きているわけなのです。

本当の自分とはかけ離れた理想の自己像を、自分だと思い込んで演じている訳ですが、やはり本能的な部分ではこれが「自分にも他者にもついている嘘だ」、という認識があるらしく、それ故にこの自己像を外部から脅かされると、こっちがびっくりするような狼狽あるいは意外な攻撃性や、自己像を守る為の必死の取り繕いを見せたりします。

つまり自己愛性人格障害の人にとって、自分の抱えている自己像とは違う印象を他者が持っている事が、死ぬ程嫌、な場合があるわけです。


私はここに、唯一の望みがあるんではないかと、家主に言ったのです。


はっきり言って、トランプが持っている理想の自己像が嘘なのかどうかなんて、こっちには関係ありません。
大切なのは、彼が自分にも他者にもついている「嘘」を、行動で全う出来るかどうかです。

もし彼が、「ヒーロー」という自己像に固執するなら、その行動が「ヒーローらしくない」と指摘されたら、一生懸命「ヒーロー」らしくするんじゃないかしら。
でも、彼の内面には全く真のヒーロー部分が無いわけです。

ここで出番なのが、自己愛性人格障害の人の特性、「真似」です。

もし彼が、必死に自己像を守ろうとして、スーパーマンやキャプテン・アメリカを真似たらどうでしょう。
そこには立派な、本当っぽいヒーローが、誕生するんではないでしょうか。

と、私は期待を持ったのです。


だけど。

もしもドナルドが本当に自己愛性人格障害だった場合、ありがちなのが、自分をヒーローと認めない周囲、つまり自分の自己像を偽りだと見破った人たちの事を「敵」と見なし、いきなり攻撃的な行動を仕掛けて来る可能性があります。

そして大抵こういう人の張りボテ感を見破れるのは、健全な心を持った、良識や教養のある人たちです。

教養というのは教育の程度ではありません。人質、という意味での教養です。
つまり今後こういう有識者達が彼の標的になってしまう可能性も、今後あるんじゃないかという気がします。

あと、ヒーローとして自分以外の人がもてはやされるのもイヤだから、真のヒーローがアメリカ政界に誕生したら、潰しにかかるかもしれません。
加えて自己愛性人格障害の人は、真似っこにも関わらず自分をオリジナルだと思いたいし思わせたいので、キャプテン・アメリカやスーパーマンの存在をも、無かった事にしようとするかもしれません。

ドナルドの今の標的はテロですが、もしも自国の中で彼の自己像を脅かす様な存在や見解が出て来た時に、簡単に標的が変る可能性は大なのです。

なんたって、自己愛性人格障害者にとって一番大切なのは、偽りの自己像を他者も認めてくれる事であり、他の事なんて実は殆どどうでもいいからです。

だからやはり、この人が大統領になっちゃダメなのかもしれません。


それにしても悲しいのは、彼の様な人が大統領の座につく可能性があるという現実です。

ドナルド・トランプなんて、自己愛性人格障害としてはまだマシな方です。
何故なら、あからさまにその奇妙さが、表に出ているから。
だから多くの人たちは彼のニセモノ臭さを見抜いていて、からかったりパロディに使ったりしています。

それでもなおかつ、彼に投票する人がいるという現実。
彼を見破らない、そういう人たちが、見破っている人と同じくらい、いるという事です。


彼の被っているヒーローの皮を、敢えてはぎ取らずに、何かを信じようとしている人たち。

家主は、彼に投票する多くの人たちは、恐怖感に動かされていると言っていました。

つまり、ニセモノでもなんでもいい、矢面に立って自分を守り代弁してくれる人物でさえあれば。
テロリストだろうが善良な市民であろうがムスリム全部をアメリカから追い出して、国連や良識者から非難という泥をひとりで被り、自分の抱えている他者へのやみくもな恐怖を自分の替わりに正当化してくれる人物なら、品性下劣なろくでなしでも全然オッケー、というわけです。


実のところ、世間一般で自己愛性人格障害の人が見破られず、むしろ好かれたりしている傾向には、こういう現実があるのかもしれないと思いました。

その人のニセモノ臭さを実はどこかで見破ってはいるのだけど、いい人というレッテルを欲しがる限りその人物は他者を傷つけたりはしないし、むしろ利益をもたらしてくれる、ーつまりナルシシズムの人は評判を気にするあまり役に立とうとする傾向も多いのでーという損得勘定で、その人を好ましいと解釈しているケースです。


もしそういう事があるんだとしたら、やはり悲しいなあと思います。

悪い行いがはびこるのを助けるのは、善人の無言さだという誰かの名言がありました。

許容する事、寛大である事、誰かの奇妙さに気付かないふりをする事が、必ずしも良い行いとは言い切れないという事が、私はあると思うのです。

2016年1月26日火曜日

シャークネードという映画

私が最もすごいと思った名場面



この映画の噂は度々聞いて知っていた。
でも観る事は無いと思っていた絶対に。


でも観てしまった。
しかも1と2を。







先日世話になったコロラドの友人宅で、友達が今アメリカで流行っているファイヤーボールという酒のボトルとショットグラスを2個抱えて私を大画面テレビの前のソファに招き、必見の映画だと言ってシャークネードの紹介を始めた。

そして、まあ観るからにはまずこれを飲みませんとと、ファイヤーボールを私に注いでくれたわけです。

ファイヤーボールというのは、シナモンの入ったウイスキーで、なんだか今コレがアメリカで大流行りだと言うのです。



シナモンが大好きなので、♬おー♬と思って飲んでみたらすっごく甘くて、甘い酒を飲むと悪酔いする私は一気に警戒モードに。
なんでも入っているのはシナモン、唐辛子、蜂蜜なのだそう。ちなみに33度。

まあ、ワンショット飲んだくらいでは酔いもしませんでしたがね、わっはっはっは。




で、この話題のややゲテモノ的酒を飲まねば我慢出来ないような映画だという事で、いよいよシャークネードの上映を始めた友人。なんでそんな物を私に見せるの。


シャークネードというのは、シャーク(鮫)とトルネード(竜巻)をくっつけた造語です。

シャークとトルネード。
怖い物がふたつくっついちゃってて恐怖のどん底です。

つまりこの映画は、海上で巻き起こった大竜巻が、海で気持ちよく泳いでいた鮫たちを大量に巻き上げ、そのままサンフランシスコやニューヨークに上陸し、街中に大量に鮫を撒き散らして人々を恐怖のどん底に突き落とすという、パニック映画なのです。

パニック映画。

さて、ここで大きな疑問が、心の中でトルネードの様に巻き起こります。

陸地に鮫が降って来た時、果たしてそれは怖いのか。


皆様ご存知のように、鮫は海の中でなければ生きられません。
海の中にいたって、遊泳性の鮫なら動いていなければ死んでしまうのです。
そのような鮫を、陸にいる私たちが、どうやって怖がればいいのでしょう。

この疑問は、シャークネード1と続編2を観ても、解明されることはありません。
何故なら映画の中の登場人物たちも、なんとかして怖がろう、というノリで怖がっているからです。

空から落ちて来た鮫が路上でうねうねうごめく前で足を滑らせて転んでみて、腰が抜けたようになって逃げられなくなってみたり。

飛んで来た鮫をチェーンソーで切り裂こうとわざわざ向かって行って、うっかり噛み付かれて腕をもがれてみたり。

膝上くらいまで浸水した家の中に入り込んでしまった鮫に、コーナーに追い込まれて咬み殺されてみたり。

もう、それはそれは様々な工夫を凝らして、鮫に襲われる登場人物達。

襲われる側の積極的参加が無ければ、決して襲えない陸の鮫に向かって、どんどん無駄な攻撃をしかけに行ってはなんらかの傷を負ったり殺されてみたりと、その努力はまさに涙ぐましい程なのです。

そして、どう考えてもさほど深刻とは思えないこの事態を、世界の終わりかのように語り煽り戦う孤独のヒーロー(上の写真の人)。
空から鮫が降って来るなんていうマヌケな事態を、あそこまで深刻に捉えられる人物も、世界広しと言えどあの人しかいない事でしょう。

そんなわけですから、パニック映画とは言えもう笑いっ放し、突っ込み放題。

映画自体も、あからさまに有名映画のパロディを散りばめたりして楽しませてくれます。
個人的に受けたのは、道路に降って来た鮫の真ん前で腰を抜かしてしまった男が、はっきり言えばそのままにしておきゃあ鮫は自然に死ぬし、男もいずれ腰が治ってそこから立ち去れるのですが、わざわざ酸素ボンベを見つけて来たヒーローが鮫の口にそれを押し込み、銃で撃って爆発させるという、そうです、あの名作、ジョーズの名場面を、まんまパクっているシーン。
いやー、笑いました。

海で鮫と戦う正しい恐怖のジョーズと違い、シャークネードは、水も無い路上でマグロ状態になってジタバタしている鮫に、わざわざ人が喰ってかかるというどっちが加害者かわからない被害妄想恐怖です。
ぬいぐるみ相手にプロレスしてるようなもんなんですよ奥さん。

しかしこの映画、あーーーーーーまーーーーーーりーーーーのーーーーーバカバカしさに結構人気が出てしまい、無名の俳優ばかりの1と違って2では結構名前のある俳優さんを使っているし、予算がいっぱい出来たらしくてバカバカしさにも磨きがかかり、1では半信半疑だった「実は冗談なんですよ」という監督の意図が、2ではくっきりと浮かび上がっているので、結構ギャグ映画として面白く観る事が出来ました。

上の写真はその、続編2の大団円シーンです。
空から降って来た巨大鮫を、ただすっと身体をかわせば避けられる物を、わざわざチェーンソーで縦にまっぷたつに裂くという、鬼畜なヒーローの晴れ姿。

街の人々はそんなヒーローの足下に集い、すごい喝采を浴びせたりして、それはもう、やってらんない、って感じです。

でも。
なんだかんだ言っても、観てよかった。。。と思います。
結構楽しめたのはファイヤーボールのおかげかもしれないけれど。
どっかでただでやってたら、ちょっと観てみてもいいかもしれません。
心の底から脱力して、アホなのか、という言葉が自然に出て来ますよ。


そんなシャークネードは、現在3を製作中とのことです。

2016年1月2日土曜日

性善説のSF的仮説


先日、サラさんて性善説を信じているんですね、と言われた。

私はそういう事を考えた事も無かったので、その瞬間はややぽかんとした。

私には善悪という概念がそもそも無いので、性善説も性悪説も無いのである。

でも、私は確かに、性善説とも言えるかもしれないある事を信じてはいるなと考え直した。
その友人は、私との会話の中にその基準を感じ取ったのだと思う。

それは、人間という生き物の心の内部には、生命体としてのある種の良識と言えるのかもしれないバランス感覚があり、その感覚から逸脱した行為をしてしまった時に、深いレベルで自滅行為を行う存在だというものだ。


で、どういった事が生命体ヒトの良識なのか、というと、それは生まれた時に備わっている本質的な心の感覚だと言うのが、私の基準だ。

人間という物は、生育の過程で様々な、外部からの影響を刻まれる。
例えば昔の日本には、女の子には教育は必要無く、良い結婚をして良い家庭を築き夫の支えになれればいい、みたいな価値観があったが、言わばそういうモノサシ、つまりヒト生命体として普遍的とは思えないなんらかの文化的背景から来ている後天的な価値観によるモノサシの無い、生来の自然な状態のバランス感覚が、本質的な基準だと思うのだ。

まあ、この自然さ、という基準にも人によって様々な意見があると思うから、私は自分の基準が絶対的に普遍なんだと、意見を違える人を説得するつもりは毛頭無いが、私個人が何を信じているかと言えば、私個人には明確な本質的基準と感じられる物があり、それがやはり普遍だと信じているわけである。

で、ヒトはその心、というか魂のような物の持つ良識からはずれた行為を行う度に、深い無意識の領域で「ヤバい」と感じ、そういう自分を自滅させる方向に、脳がホルモンなどの質と量を調節すると思うのである。

この深いレベルにある良識は、いわゆるモラルや道徳や正義感に共通する所はあるかもしれないが、そうではない部分も多々あると思う。
例えば誰かの為に自己犠牲的な奉仕を行っていても、その動機に不純さがあれば、心はその不純さによる無意識的な緊張によって、健康によくない体内物質や、電磁的放射を発生させ、健康や人間関係や社会生活に、なんらかの不和を実現させるのではないかと思うのだ。

近年サイコパスという、良心の無い脳を持つ人格障害の事を耳にするが、私はそういうタイプのヒトにもこの無意識下のアラートは存在すると思っている、というか思いたい部分があるように思う。一般的なヒトより鈍いかも、とも思いつつ。。

つまり私は天罰というものは、常に自分が自分に下し続けているのが、ヒト生命体だと思っているわけである。
無意識の領域での指揮系統を通じて。
これは恐らく、性善説と言ってもいい感覚かもしれない。
ただ、ここで善とされている物が、必ずしも既存のモラルや良識とイコールではないかもしれない、という可能性があるので、平易に性善説とも言えないわけである。


ところで先日、アメリカのERでドクターをしている友人と長話をした。
彼女は、既に優秀な医師でありながら、私の学んだコロラドの学校で同じ先鋭セラピーを学び、それを病院で実践している経験の中から、興味深い葛藤を話してくれた。

ERに来たある患者が、中々改善しなかった。
あまりにも良くならないので、彼女は件のセラピーを使って、何らかの心理的抑圧が無いかどうかを、探ってみたそうだ。

するとその患者には、本人の記憶には明確に意識されていない、ある深い罪悪感があった。
それは会社で、同僚から打ち明けられた企画アイディアを自分流に改変し、同僚よりも先に企画会議に出してまんまとその企画を通して成功を勝ち得た、という行為による物だった。

この行為はしかし、アイディアを盗まれた同僚を含め他の誰からも非難はされなかった。
巧妙なアレンジだった為に同僚も責める決め手を感じられなかったそうで、積極的に形にした君の力さ、的寛大さで受け止めてくれたのだそうだ。

だからその患者は、その事に全く罪悪感は持っていなかった。
その患者の勤める会社ではよくある事でもあったから。

ところが、治らない疾患の根を探るセラピーを行った結果、その根にこの罪悪感がこびりついていたのよ、と友達は言った。

それで彼女は葛藤を感じた。

医師という物は、どんな極悪非道な犯罪者にも、平等に治療を行う誓いを立てているそうだ。
だからもしもこれが治療ならば、迷わず患者を治さねばならないだろう、と思ったそうだ。

けれどセラピーは、自分の、病院での役割の領分だとは言い切れない。
自分には、それについては自由意志がある、と彼女は感じたそうだ。
で、彼女は、人の企画を盗む様な人間は許せない、と感じた。
もしも罪悪感から疾患をそのままに、その患者自身がしておきたいなら、何もその根をセラピーして、解放してあげなくてもいいんじゃね?

その葛藤中に打ち明けられた話だったので、結局彼女がどうしたのかはまだわからないのだけれど、あくまでもSF的仮説として、もしもこの世界で今後深い領域の心理的な抑圧を解放出来る様なセラピーの効果がはっきりと認識されて一般的になった時、もしかしたらそれは遺伝子操作のように、神の選択の領域に踏み入る様な部分が出てくるんじゃないのだろうか。

もしもヒト生命体が私が思う様に、深い領域で自分の行為の善悪を判断し、自分に罰を下す様な行為を常に繰り返しているのだとしたら、その根本の心の領域にメスを入れる心理療法は、中々どうして、施す側に様々な葛藤を生むのではないのか。

医師の場合は、治療は誰に対しても行わなければならない、何故なら医師は裁く立場ではないからだ、という誓いに私は賛成だ。
どんな犯罪にもなんらかの背景があり、またそれを不快に感じる者にも、個人的な背景がある可能性がいつでもあるのだから、犯罪者の命の明暗を医師が左右してはならないのは当然の事。

だけど、もしも犯罪者が、自分自身の高潔な領域で自分を罰していたとしたら?

それを他者が左右する事は(もし左右できたらの仮定だが)、果たしてどうなのだろうか。

私は個人的には。
もしも私にそんな事が出来るのだとしたら、私は個人的には、迷わず主観で判断するだろう。

何故なら、もしも私自身が自分の深い良識のモノサシに合わない行為を行えば、今度は私自身が自分を罰してしまうと思うからだ。

だから私は、誰かの中に自分を罰する"高潔な天罰行為"を認めたら、そのまんまにしておこうと思う。
それが私の基準から見て、やり過ぎだ、と感じられない限りは。

そしてそのやり過ぎかどうかも私は、自分の感覚を基準に計ると思う。
私が自分自身を無意識下で罰しない為に。

一見利己的に見えるこういう自分の感性を基準にした選択が、実は最も普遍的にフェアなものなのだとも、私はなんとなく感じるのである。

人間という物は、個々が個別の個性を持つ神の様に、高潔な領域でのオリジナルの選択を、責任を伴う形で常にしているべきだと、私は思うのである。


2015年12月24日木曜日

夜の森博物誌ー冊子完成

皆様、メリークリスマス!!

12月22日に、遂に”夜の森博物誌"の冊子が出来上がってまいりました。

これは、友人の営むユニークなアート雑貨店”ニヒル牛2"で今年5月にさせていただいた個展の、カタログ兼用物語絵本です。

ニヒル牛2との付き合いは、開店当時から10年に渡りますが、スペースをいただいておきながら、私は殆ど作品を置かず売らず、ただいたずらに日々が過ぎて行っていました。



しかし今年ニヒル牛2が、建物の老朽化が原因で大晦日をもって閉店すると知り、この10年間ただ漠然と、稀に頭に去来していた、あのスペースでこんな物を売りたい、やってみたい、という想いを、全て今年中に実行に移さねばならなくなったのです。

やりたい事を先延ばしにしていた事への報いを、期せずしてニヒル牛2が教えてくれたという始末です。

さて、かくして私は、突然今年からニヒル牛2にて、様々な物を創っては販売し創っては販売しを繰り返し、おかげさまで私の"箱"は以前の様な凪状態から脱する事が出来ました。

そして最終目標と掲げていたニヒル牛2での個展を、店主のあるくんに相談したのは、ギャラリー空間でのイベント・スケジュールがほぼ埋まってしまっていた、今年の1月だったのです。

気持ち的には、2015年11月くらいに出来たらいいなーと思っていたニヒル牛2での個展ですが、そんな事情から5月開催と決まり、それでもなんとかねじ込んでくれたお店には、本当に感謝しています。

しかしながら、2015年前半の私のスケジュールは怒濤を極め、しかも、個展をさせて!と申し出た物の、何を飾りたいのかも決まっていなかった私には、その後悶絶の苦悩が待っていました。

始めは、ニヒル牛2で販売させていただいていたウサギや鳥のイラストを入れた小物の展示にしようと思っており、ウサギ店長と名付けたファンタジックなデカ人形まで創って、なんとなくうまく行く様な気になっていたのですが、徐々に違う様な気がして来て却下。

私に却下されたウサギ店長

その後まっさらな状態になってしまった個展のアイディアを、どうしようどうしようと悩み続けた挙げ句、なんと個展開催の5月に突入してしまったではありませんか!!!
しかも5月は最初の10日間は長野に籠って知人の為、通訳手伝いをする予定が入っていました。
個展は22日からで、ゼロから何か創らねばならないわけで、これはもう、人類史上最大のピンチです。

そんな状態なのでお店も全く私の個展について告知していませんでしたから、もうその頃には、「やめてしまうのも手、ニヒル牛2最後の年に、念願の個展を申し入れたものの、時間もアイディアも無いままに中止した、という臆病者のろくでなし認定を、一生引き摺って生きてゆくのも一笑、いいんじゃね?もうそれで」とやさぐれた諦めモードが、強く私の心を支配し始めました。

そんな時です。

頭の奥で突然、「夜の森博物誌」という声が聞こえたのは。

むむ?と思ってその声の方向に耳を澄ますと、そこには自然史学者ギュスタフ・アーレと名乗る痩せぎすで背の高いおじさんがいて、そのおじさんは、長年憧れていた、"フォレト・ヌ"という名の伝説の森を目指していました。

絵画の個展にするには時間があまりに無くて、クオリティに期待が持てません。
だけど、もしも展示されている絵を描いたのが絵描きを自称する私ではなく、自然史学者さんなら、そんなに上手じゃなくていいんじゃね?
そんな卑怯な考えが、遂に実現した、"夜の森博物誌〜自然史学者ギュスタフ・アーレの手記"、という展示になりました。

そして私はなんとか個展前日に、ギュスタフ・アーレが森で描いた(という設定の)油彩画と色鉛筆でのスケッチと、アーレの娘ノラが描いた(という設定の)ちょっと風合いの違う森の絵数点と、道で拾った伐採直後の木の枝をごっそりニヒル牛2に持ち込んで展示を済ませ、今年1月から始まった苦悩の結末を、遂に見たのでした。

苦悩の結末

そんなわけで、その後しばらく廃人状態となり、本来なら来ていただいたお客様にその場でご覧いただきたかった"夜の森博物誌"の物語を綴った冊子が、うーーーーーーーーんと後回しになってしまったことを、大変深くお詫び申し上げます。

この、始めはただの通りすがりだった夜の森が、個展終了後も私の頭に大量の情報と風景を送り続けている為、一体どうやってまとめたらいいのかわからなくなってしまったという事情も重なり、個展後7ヶ月も経過しての仕上がりになってしまいました。

今回お届けする冊子は物語の重要な導入部です。
現在、そこに続く壮大な森の話を、ふとした折りに書き続けていますので、そちらもいつか、お届け出来る時が来ればいいなと思っています。

そんなわけで、思わず懐古してしまったいいわけがましい私のジタバタ物語と目の前にある仕上がった夜の森の冊子を見比べてしみじみと安堵しつつも、ご予約いただいた皆様とニヒル牛様には、大変大変深くお詫び申し上げます。

ところで、物語を読んでいただくとわかるのですが、最近私が焼いている大量の鳥型の皿は、夜の森に棲むクラルハイトという鳥を象っている物であり、その焼き物はお話の中にも登場します。

こんな風に夜の森は、三次元の空間にまでその領域を広げているのです。

私は何を自分でするという事も特にしないままに、今後は自然に広がってゆく夜の森の気配を、ゆっくりと楽しもうと思っています。

2015年12月7日月曜日

12/12(土)にecoな大安売りを開催!

通常3780円のNKUKUの大トレーが半額以下!
12月12日土曜日正午から、もうすぐ閉店してしまう西荻窪のアート雑貨店ニヒル牛2の一部をお借りして、またバーゲンを開催します。

今回の売り物も、主にピープル・ツリーなどフェア・トレード製品を扱っているブランドの物が並びます。

前回大好評ですぐに売り切れてしまったNKUKUのハンドペイント製品や、防虫効果があると言われているモーラス草の根で創られたクリスマス・ツリーや果物の形の飾り物、やはり防虫効果のあるハーブで創られたキャンドル各種他、炭石鹸、トナカイや花を象ったモビールなどなど、クリスマス色の物も多数。

前回目玉だったドイツの自然派洗剤ソネット製品は、今回はよりお得な形でご入手出来るかもです。

全ての商品が、通常販売価格の半額以下での大バーゲンです。

前回のバーゲンについて→バーゲン@ニヒル牛2
ニヒル牛2:杉並区西荻北3−26−5 ☎︎ 03-6765-2286



建物の老朽化が原因で、12月31日をもって閉店してしまうニヒル牛2を、この機会に是非体験を!現在は段ボール・アートの圧倒される展示を開催中ですし、私が創っている小鳥の小皿の新作も、いっぱい置いてありますよ(^^;えへへ。

これはバーゲンにはならないけれど。。



小鳥小皿"黒い子たち"。12日には"白い子たち""薔薇柄子たち""青い子たち"も納品されます。