2016年12月17日土曜日

ニーガンが教えてくれる事

もしもAさんという人に突出した能力があって。

その突出した能力が例えば未来を知る力や、この一手を打てばこういう返事が世界から来るとか、この場所へ行けばこういう物が手に入るとか言う事が手に取る様にわかる力だったり、誰かの偽善的な言動の影に隠れる本音や本当の動機が、レントゲンの様に見透かせる力だったりしたら、そのAさんは、周りの人達と対等な関係を保つ事が出来るだろうか。

そういう能力の無い人たちの愚かな言動や決定によって、自分の命やミッションや人生が危険や、不利な状況に晒される様な事があったとしたら、その人は周囲から自分を隔離して自分を守り抜くか、あるいはもし誰かと共に生きるとしたら、自分の作ったルールに絶対服従を強いる、独裁者となるしかないのではないのか。

ウォーキング・デッドのニーガンが、単なるアホなナルシストが、称賛と敬意と権力を欲しがって軽薄に威張ってるだけじゃない事が透けて見えるだけに、非常に複雑な気持ちになる。
ドラマの中では徐々にニーガンへの刺客が迫っている気配なので今の内に書いちゃうけどさ、私、結構ニーガン、好きかも。


ニーガンが先に書いた様な、天才的な洞察力の持ち主かどうかはわからないけれど、さっきニーガンが、自分の元に酒を抱えてやって来て、友好的な絆を結ぼうとしたスペンサーをバッサリ殺っちゃった時に私のハートがとても喜ぶのを感じて、私も随分、怒ってるんだなあ、と思ったのだ。

人間界は、あのスペンサーみたいな人を肯定する事が、いや肯定とまでは行かなくても、なんとなく違和感を感じながらも受け入れている、と言った方が近いのかもしれないけれど、アヤフヤな違和感だから事を荒立てるよりは、放置して仲良くやっておこうじゃないか、みたいな事が、多いように思うのだ。

ドラマ全体を通してみると、スペンサーの想いは理解に足る。
私はあのドラマの主人公でありヒーローである好戦的なリックがそもそも嫌いで、彼の決断によって平和に暮らしていた街の人々がニーガン率いる"救世主"軍団に宣戦布告し、結果負けて植民地みたいにされてしまったわけだから、その平和に暮らしていた街の指導者の息子だったスペンサーが、リックに反感を抱くのは当然だ。

だけど今回スペンサーは、自分がその恨みを背負う替わりに、ニーガンに擦り寄って、ニーガンに自分の怒りを、肩代わりしてもらおうとしちゃいました。

ニーガンと酒を酌み交わし、仲良くビリヤードをやりながらスペンサーは、自分が如何にリックを憎んでいるかを告げ、リックの所行を告げ如何にリーダーにふさわしくないかを告げ、自分がリーダーなら如何にすみやかに、街と"救世主"が共生関係になれるかを、ニーガンに訴える。

結局私に何をして欲しいのだ、とニーガンは問い、スペンサーはそれにははっきりとは答えず、だからニーガンはスペンサーの、言葉にははっきりとは出さなかった本音を、ズバリ言い当てる。
要するに、ニーガンの力で、自分をリーダーにしてくれって事ですよ。

こういう事って、たまにではあるが、実生活でも目にする。

自分の中にある、誰かへの理不尽かもしれない不満や怒りを、自分の持っている感情的な問題として語らず、何かに転嫁して正当化あるいは美化しつつ、語ったり、誰かを納得させようとする。
スペンサーのケースでは、リックへの恨みは妥当だと思うので理不尽な怒りではないんだけど、それでも彼は、それを自分で解決しようとせず、ニーガンを使おうとしたのが、人として美しくないんだよね。

で、世の中にはスペンサーみたいな事情は無く、単にジェラシーや我が身可愛さから、誰かに否定的な感情を持って、で、誰かに否定的な感情を持つまでは仕方無いと思うんだけど、その、理不尽かもしれない自分の誰かへの不満を、自分自身に対して正当化あるいは美化する為に、別の誰かを説得して味方にするっていう事を、する人っているよね。

そして私がそういう時に怒りを感じるのは、それを行う人、つまりスペンサー的人物に対してではなくて、そういう人に、巻き込まれる側の人に対してなんです。
スペンサー的な人に対しては私はそもそも友達として認識しないから怒ったりはしないんです。そういう人たちは、言わばキリストの言う、「彼らは何をやっているのかわからないのです。」な人々ですので、早急に正しい行いを求めても無駄だと私は思うので、怒りも感じません。ただお友達にならないだけ。

だから問題は、巻き込まれたり黙認したりする方だと、私は思うんですよ。

見て見ぬふりをしたり、その行為をなんとなく汚いかもとは思っても、汚いと指摘する人間を積量だとか言い過ぎだとか、言っちゃったりする方。
そんな小さな事に目くじら立てなくても、とか言って、寛大な、我慢強い人のふりをしちゃう方。
大人しい悪人を庇い、毅然とした善人の方を、糾弾しちゃう方。


ウォーキング・デッドの優れた所は、敵味方のいずれにも、主人公サイド脇役サイドの両方に必ず、良い点と悪い点が混在し、白黒の判定がつきにくい事だと私は思います。
これによって人は、上記の様なあやふやな悪、もっと言えば巧妙で狡猾な、隠れた悪の姿を、心の中であぶり出す訓練が出来ると、私は思うのです。


さっき悪役のニーガンがスペンサーを殺っちゃった時に正しかったのは、あの悪名高いニーガンの方だったと、私は思いました。

スペンサーがリックの事を語った時にニーガンは、リックは自分の尊厳を抹消して今、ニーガンの命令に従っている、でも、スペンサーは自分が泥を被らずに、ニーガンに自分の代役をやらそうとした、みたいな事を言ってスペンサーを殺っちゃいました。
(だからと言って殺しちゃいかんのですが)
これはニーガンが、リックのがむしゃらな犠牲に、ちゃんと敬意を払ってるって事です。
ズルい人や卑怯な人じゃなくて、ちゃんと自分で背負う体当たりな人を、尊敬しますよって事ですよね。

ニーガンは登場当時から、リックのナルシシズムを始め、その場にいる人たちの深い心理を見抜くような事を、しばしば発言します。

自分は徹底した悪でいながら、周囲の人間の詰めの甘い偽善をすぐに見抜き、絶対に許さないのです。
そしてあり得ない程の統率力と組織力で、あのゾンビだらけの絶望的な世界で、最も強大なグループを率い、文明を復興させようとしています。

あの恐怖政治的なやり方には共感は出来ないと思いつつも、先に書いたように、もしも周囲の人間が全員自分よりも激しくぼんくらで、さっきのスペンサーがやったみたいな無自覚で清潔ではない言動ばかりが横行していたとしたら、ルールによって強制するしかないのではないかと、今回(シーズン7・8話)は思ってしまいまいした。

現リアル世界での独裁者は我が身可愛さの愚か者ばかりかもしれませんが、ニーガンの動機にはなんとなく、これらとは違う興味深い心理がある様に感じます。

ドラマの中ではまだ全く触れられない彼の過去や背景が、今後描かれる事もあるのでしょうから、とても楽しみだなと感じます。

ゾンビだらけになる前の、まだ世界が社会という形を呈していた中で、彼は一体どんな職業で、どんな人物として、どんな人生を生きていたのか。

ドラマ初期に出て来ていた、わかりやすい心傷を負った独裁者ガバナーとは厚みも深みも悪さも格の違うニーガンの物語が、楽しみでなりません。

2016年12月10日土曜日

ジョバンニかサイモンか


いつの間にか定例化している、パスカルズのチェロ奏者三木黄太が主催する、オペラ・チームによるMETライブビューイング観劇&感想会。

昨日はモーツァルトの有名過ぎる一作、"ドンジョバンニ"を観て来ました。この作品についてはもう、昨日の感想会で思いっきり、言いたい放題、掘り下げるだけ掘り下げ切って大満足していますので、このブログでは書きません。私が書きたいのは、ジョバンニを演じたサイモン・キンリーサイドの事です。

とにかく、メトロポリタン歌劇場の舞台に乗れるんですから、このオペラ歌手たちは一流中の一流です。こういう人たちの芸に触れると、「歌は下手でも心が籠っていればいい」とか、「音痴でもいい、魂からの声ならば。」等という、よくちまたで耳にする定番の暖かい言葉たちの事が、ちゃんちゃらおかしくなります笑。

そういう事は一流になってから、体感を通じて発見する崇高な真実なのであって、素人のうちからそんな事に甘んじていちゃいけないのです。
まずは心や個性を失うくらい研鑽を積んだ後に、その研鑽と共にいつの間にか背後で発達していた澄んだ成熟した魂と、研磨されて輝く深いところに眠っていた真の個性が、ようやく歌と深く繋がる、それが、一流、という事なんだと、私は思います。
あ、もちろん一流を目指してないならば、上記のような心理的クッションも、ある意味では真実なので、それでいいと思いますよ。私も、心しか籠ってないバイオリン弾いてるし。MET目指してないから。


で、このジョバンニを演じたサイモンなんですが、とにかくこの舞台、幕が開いた瞬間から、すっごい引力で舞台から目が離せない。熱狂的な集中力で観切った末に、あっという間に一幕目が終わります。
そして恒例の、舞台裏でのインタビュー。

このドンジョバンニは、希代のプレイボーイを描いた舞台です。今まで私は、このアンチヒーローを正当化する人を見た事が無いし、そういう評価を聞いた事もありません。
実に2000人もの女を口説き落とし、彼女らの名前をノートに連ね、寝る為ならどんな嘘もいとわず、彼に思いを寄せる女たちを裏切り、とにかく情交した女の数を増やす事だけに一生を費やす、言わばろくでなし貴族男の話なんですから。
だから、インタビューでの出演者たちの言葉も様々ですが、納得のできる行儀の良い物が続きました。


しかーーーーーーーーし!!!!!
インタビューの相手がこの主人公、ドンジョバンニを演じているサイモンに及んだときに、私が今まで持っていたこの物語への漠然とした解釈が、音を立ててガーーラガラと崩れ去って行ったのですよ。


サイモンは、高揚した様子でインタビュアーの前に現れ、今さっきまで演じていたジョバンニの衣装の乱れを気にする事も無く、爆発的に語り始めました。

1幕最後の歌を歌った時にはもう、感動でからだが震えたよ! ジョバンニは素晴らしい、自由だ、この物語は、自由を描いているんだよ!!!!

彼が言うには、この時代、フランス革命以前のこの時代は、身分制度は厳しく、モラルも厳しく、非常に鬱屈した時代だった。けれどジョバンニは、貴族でありながら平民を家に招き(村娘をモノにする為ですが)カトリック的規律をことごとく侵してゆく、モーツアルトはこの舞台に、ひとりの人間が、神をも恐れずに追求し選び取ってゆく自由という物を、描き切っているんだ。というのです。

なーーーーーるーーーーーーほーーーーーーーどーーーーーーーーー。


というわけで、サイモンのインタビューでは一切、女性への礼儀的配慮的な発言は発せられず、インタビュアーの女性は早いうちからムッとしており、しかし熱狂的に語り続けるサイモンは止められず、あー、そういう発言によってあなたはみんなから愛されているのね、なんていう、わけのわからない錯乱した間の手を唐突に打ってなんとかインタビューを終わらせるという、なんだかとっても見応えのあるモノとなっていました。


冷静に見れば、ジョバンニのやっていた事は自由というよりは病であり、恐らくセックス依存症か、あるいは下僕の男への愛を封じ込めているがためのリビドーの異常な爆発あたりなんじゃね?くらいに私は思うのですが、あり得ない程人間の自由や尊厳が無視され制約されている時代ならば、これだけ極端で破天荒な方法で自由を描くくらいが、ちょうどいいんじゃないのかな、とも思いました。
根深い慣習を打ち破る為には荒療治みたいな物が必要なのと、同じです。

そう思うと、なんだかジョバンニの味方をしたくなります。
責められても悪びれないジョバンニが言う様に、ロマンスの最中は女性は幸福なのですから、執着さえ捨てれば、その関係が終わったとしても素晴らしい経験をした、というだけの事なんです。
貞操、なんていうものに重きを置く時代の掟に縛られていなければ、恐らくとっても床上手であろうジョバンニと、素敵なセックスを楽しんだわよ、ってだけの話です。

最後にジョバンニが地獄に堕ちるのは、上演当時の世評への配慮だろうと私は思いますが、それを考えるとジョバンニの姿が、どこから発生したのかわからない横暴な規律なんていう物に縛られてがんじがらめにされている、人間の自由と尊厳の解放への警鐘であり、同じ様に魂の解放を叫んで最後は磔刑に処せられた、キリストにすら重なって感じられます。


この舞台を観て私は、このサイモンに強くインスパイアされ、生きる、という事への非常に強いコミットが、あっという間に生まれてしまいました。

私がさっき、一流という事の素晴らしさを書いたのは、それが理由です。
サイモンは、自分自身がジョバンニ同様に、地上で出来る事は全てやる、ってな勢いで、オペラの研鑽を積んで来たんじゃないでしょうか。
そしてそういう人物だからこそ、技術不足や力不足やらに足を引っ張られずに、自由に、最高に、全身全霊でジョバンニを演じる事が出来た、そしてだからこそ彼はジョバンニの魂に、深く触れたんだと思います。

こういう一流の人物の芸は、圧倒的に人に、生きる力をもたらしてくれます。
眠っていた自分の尊厳という存在に、燃える様に立ち戻らせてくれるのです。

感想会の後、冷たいシェイクを飲みながらみんなとの話に昇ったのは、何故ケア施設や子供やお年寄りを相手にする人たちが、彼らへの慰労に、安く雇えるアマチュアの芸人やミュージシャンを呼んでしまうのか、という事でした。

ケア施設で最近、上手なジョークの言えない無名の芸人のショーに呼ばれ、うんざりしているお年寄り達を目撃したばかりの友人からの言葉は、やり切れない程その現実のもたらす害を、伝えてくれました。

もしもケア施設に入っている皆さんが、過去に一流のオペラを観ていた人だったら、ケア施設の中でそういう研鑽されていない芸を見せられる事がもしかしたら、自分がどんなに落ちぶれてしまったかという実感に繋がってしまうという可能性は、無いでしょうか。
私はそれは、拷問だと思います。

あとどのくらい生きられるかわからない人こそ、最高の物を観るべきだ、ともうひとりの友人が言いましたが、私もそう思います。
また私はそばに、何もわからない未熟な時にこそ最高の体験をするべきだ、最高の材料で絵を描き、最高の料理を食べるのは、大人ではなく子供の仕事だ、と言ってくれる人が居た事に、心から感謝しています。
何故なら、早いうちに頂点を知る事で、自分の許容量の上限が、広がるからです。
その広がった領域から、様々な多様性を見て行けます。選択肢が広がるのです。
だから、お年寄りだけでなく子供達だって、最高の経験をするべきだと私は思います。

まだそんなに実力の伴っていないアーティストや芸人さんは、どちらかというとケアされる側であって、誰かをケアする為に芸を提供出来る側では無いと私は思います。
私は施設で希望を失ったり元気を失ったりしている人は、サイモンみたいな人の歌を聞くといいと思うのです。

世界最高峰の、真に自信を持って芸を披露出来る人たち、本当に自分の才能と人生を生き切っている人たちのもたらす一流の技は、それだけで、今まで発揮出来ていなかった自分のスタミナを呼び覚ます様な力が、本当にありますよ。

2016年12月2日金曜日

本当の薔薇のお菓子

サウスアベニューさんのtweetから勝手に拝借
2016年も年末となり、街がクリスマスの飾りに彩られる、私の最も大好きな季節が到来しています。そしてそんな時期にふさわしいお菓子を、本日手にする事が出来ました。

それは、西荻窪にあるサウスアベニューさんというお店が販売を始めた、白バラ、黒バラ、というお菓子の事。

このお菓子をTwitterで見た瞬間から、私はこれは本物だ、と感じて、販売初日の今日、いても立ってもいられずに、買いに行ってしまったのです。写真がそれ。



私にとって本物というのは、真にオリジナルでしかも生まれるべくして生まれた物、という感覚で、つまりそのまま歴史に刻まれ、何世紀にも渡って残ってゆき、やがて伝統、と呼ばれる物に育ってゆく様な、底力を持つ物の事です。

今の時代に伝統菓子とか呼ばれている物だって、始まりがあったわけですからね。
生まれた当時は新しいお菓子だったり習慣だったり文学だったり宗教だったりパフォーマンスだったり音楽だったり絵画だったりした物の中から、真に強い力を放つ物〜つまり花や樹木や湖の様に、根源的創造物、と言える様な物が、その輝きが絶えないままに、何世紀にも渡って残ってゆくわけです。

宇宙の創造物である自然界の持つ普遍性を持つ物を、人間もまた生み出す事が出来る。
そしてそういった物が何百年も、自然な形で残ってゆくのだと、私は感じているのです。

私は実は、100円ショップの様な文化の蔓延する日本が苦手でした。でも最近、それこそ今年になってから少しずつ、そこから抜け出した、これは本物だな、と感じられる様な物が生まれ始めている様に思えるのです。多分ちょっと前までの大量生産的で手の届きやすい物に人気の集る時代は、カンブリア爆発みたいな物で、淘汰と洗練の起こる前の、大量放出の時代だったのかもしれません。

私の本物志向は、絵画や音楽以外では、今現在既に伝統と認められているような物にはあまり食指は動かず、新しく生まれた物で今後伝統になりそうな本物でオリジナルな物、と私が感じる物へと限定して集中している為に、近年しばらく好きな物に出会えずお寒い時代を過ごしていたのですが、今年に入ってから特別な出会いの様な形でしばしば、いいな、と思える物を得る事が出来始めていました。

そんな密かな居心地の良さを感じ始めていた今年、この2016年の終わりに、このお菓子に出会えたのは、私にとってとても象徴的な出来事です。

このお菓子、黒バラ白バラは、苦水バラと砂糖を半年間熟成させて作る苦水地方の珍しい特産品、苦水バラ醤という物を使って作られた、黒バラは焼き菓子、白バラはチョコレート菓子です。
口に入れた瞬間に、驚くほど鮮烈なバラの香りが広がります。
このバラの香りの確かさに、今後伝統になってゆく強さを、私は特に感じたのです。

私が素晴らしいと感じる作品やお菓子には、確信、と言える様な、根拠のある強さが備わっているといつも感じます。


強さというのは、例えば絵画なんかでは線が太くて強いとか、色がはっきりしてるとか、そういう事を言うわけではありませんよね。
淡い色彩や繊細な線がそこに描かれていても、そこに地に足の付いた、確信的な何かがある事は可能です。

これは作り手が、常に多大なる自信を持って作っている、というのともまた違います。
人はいつでもいくらでも、どうしようもない物に、自信を持つ事が出来ます。
今の世では商業的な成功や、感覚の鈍さや、社交辞令や、観客からの感動バイアスのかかった感想なんかが、自信を裏付けてくれる事がいくらでもあるからです。
だからそういう、自信を持って、というのともまた違う。
もっと深いレベルでの、充足、とでも言う様な確信を、それを作る人は持っていると、私は信じているのです。
人からの評価や認識を全く必要としないような、自己の内に宿る、充足です。

白バラ黒バラを作った方がそれを感じていたかどうかはわからないけれど、これを販売する事にされたサウスアベニューさんはTwitterで、どこにも無いとびきりのおやつ、と言っています。これは本当に自然に出て来た、喜びからの言葉って感じがするんです。

私は予言しますぜ。

このお菓子は、伝統になると。

600年先にはこのお菓子が、年忘れに欠かせないハレのお菓子として、人々の間にすっかり浸透している事を。

シュトーレンやガレットデロワや月餅みたいに。


そして大切なのは、これが本当に伝統になるかどうかじゃあ、ないんです。
伝統になる、と確信出来るほどの本物の、真にオリジナルの、新しい強い光を放つお菓子を、今、食べる事が出来るという、喜び。
そんな贅沢で豊かな体験って、あるでしょうか。

年末に、思いもかけない贈り物を貰った気分です。

ありがとう!サウスアベニューさん!!


2016年11月27日日曜日

クッキー売りを巡る誤解

先ほど、さほど親しくも無い老若男女の多数同席する席で、まあはっきり言ってしまえば陶芸のクラスで、同じ駅を利用しているらしい世代の異なる男女が、クッキー売りの話をし始めた。

それはふたりの最寄り駅の駅前で、クッキーを売る女性がいる、という話で、二人ともその席で初めてお互いがそのクッキー売りに、随分前から多大なる関心を寄せているという事を確認し合ったらしく、大いに盛り上がっていた。

つまり二人の利用する駅の脇の道で、ひとりで手作りクッキーを売っている割と若い女性がいるそうなのだ。

私はその話を聞いた時すぐに、ひとりでジャムを作って売っている私の友達であるエバジャムのエバを筆頭に、自分の工房で質のいいこだわりの菓子やパンや色んな美味しい物を作っては自分の足で売り歩いている頼もしい知人たちの事を思い出して、わあ、いいなあ、私も買いに行きたい♬と思った。

しかしふたりの話し振りはそういうハッピーなノリとは全く異なっていた。

あんな所でたったひとりでクッキーを売っているなんて、大丈夫なのか。
子供を抱えたシングルマザーかなんかで、余程の事情があるんじゃないのか。
売り場に許可が必要なんじゃないのか、無断でやっていて大丈夫なのか。
偶然出くわしたけど、どこどこの路地からとぼとぼ出て来て、なんだかミジメで悲しかった。
包装なんかも素人っぽいから、クッキーも自分のみすぼらしい台所で作ってるんじゃない?

という具合に非常にペシミスティックで、という事はそのクッキー売りは私の思い描いているような、エバジャムのエバみたいな、明るくて馬鹿っぽいけど作る物には徹底的にこだわるアーティスト系行商人とはちょっと違うタイプなのかもしれない、と思い始めた。

その後もふたりの悲観的な噂話を聞く内に、私の中には明確な、そのクッキー売りのイメージが出来上がった。

みすぼらしい服装と容姿ー何故か水色の薄汚れたカーディガンに痩せた肩と腕。
化粧っ気の無い、くすんだ不健康そうな顔色。
生活に困窮している感満載の暗い不幸オーラ。
もしかしたら頭が少しおかしくて、クッキーって言ったって自分がそう思っているだけで、何を材料にしているのかわかったものではない何か恐ろしい物を売っている。
うわごとみたいな物を呟きながら髪を振り乱してあちこち徘徊し、気の向いた場所でクッキーの形をしたそうでない物を売る怪女。
そのクッキーは多分危険だ。

まあざっとこんな感じで、平成の口避け女みたいな妖女の売る恐ろしいクッキー、というイメージが、あっという間に出来上がってしまったのである。

というわけで好奇心を押さえ切れなくなった私は、已然として不気味で悲しくみじめなクッキー売りの話で盛り上がる二人を尻目に、I Phone で検索してみた。

最寄り駅の名前、駅前、クッキー売り、

このみっつだけで、すぐにその女性は検索に上がって来た。
写真があったから、この人ですか?と二人に聞いてみたら、「あっ!!!!そうそうこの人!!!」どうやって見つけたの!?すごーーーーい!!!!!!」
と、更にものすごく興奮する二人。
私はその二人に、そこに書かれているクッキー売りの正体について、読み上げてあげた。

その人は菓子職人。
自宅を改造した工房で、こだわりの材料でお菓子を作っている30代女性。
始めは夫の作る手作りパンをふたりで売っていたが、夫のやっているパン屋が忙しくなったから、今はひとりで、時間と曜日を決めて自作の菓子を売っている。

かいつまめば以上の様な情報が、可愛らしい明るい色の縞縞パラソルの元、ワゴンに広げた様々な種類の菓子を売る、白いコックさん帽とコックさん服に身をつつんだ、可憐な若い女性のほのぼのとした写真と一緒に載っていた。

つまりそのクッキー売りは、最初に私が思い描いたエバジャムみたいなアーティスト系菓子職人に他ならず、頭がおかしいわけでもウワゴトを言いながら徘徊しているわけでも、無いって事です。
この現実を知って二人は大変驚いていましたが、二人の驚きは、彼らが何ヶ月も心に持ち続けていた謎を、私が目の前であっという間に解いてしまった事への感動へとすぐに移行してしまい、如何に自分らが無責任なイメージを、可愛いクッキー屋さんに貼付けていたかなんて事を反省するつもりは、毛頭無い様子でした。

それにしても何が恐ろしいって、噂していた二人の中にクッキー売りにまつわる共通の悲しいストーリーがあったせいで、それを聞いた私が、現実とはかけ離れたイメージを持ってしまったと言う事だ。

こういう、自分の中にある確固たるストーリーのフィルターを通して現実を認識して解釈する事を、心理学では"転移と投影"と呼ぶ。


投影というのは主にこの話の様に、自分の中にある、ある種の信念や概念を、現実の出来事や人物に投影してしまう事によってありのままが全然見えてないケース。
転移は主に、自分の中にある、ある種の感情や思い込みを、あたかも他者が持っているかの様に感じる錯覚の事なんかを言う。

転移で良くあるのが、自分がAさんとの間で起こった特定の出来事に関して何らかの後ろめたさや罪悪感を持っている時に、Aさんが"その一件で"自分を怒っている、と思い込んでいたりする事。
もっと巧妙なレベルでは例えば自分がBさんの事を敬遠しているのにそれには気付かず、Bさんの方が自分を敬遠している、と思い込んでいたりするケースだ。

いずれにしてもこの転移と投影は、人間関係における殆ど全ての悪循環の源だと私は思っているので、普段からなるべく意識的でいたいと個人的には思っているだけに、今回の様なクッキー屋の件は非常に心に引っかかる出来事であった。

私とて二人の話を聞いた当初の時点で、すぐに友達のバカ明るいエバの顔を思い出したのなんかは、典型的な投影の始まりの瞬間で、その後、もしどんなに二人の悲しく淋しい話を聞いてもそのバカ明るい印象を頑固に変えない場合などは、自分に要注意である。

そういう態度は、自己の投影(ストーリー)との一体化と呼ばれ、そういう態度をする人は、現実を、自分の許容する概念のレベルでしか捕らえようとしない自動制御システムが脳に付いているので、どんなに何かを説明しても、絶対に正しく解釈してくれなかったりする。そしてその歪んだ情報を他者に伝授したりして、おかしな出来事に発展したりするのだ。


今回は私の印象の方が現実のクッキー売りに近かったのだけれど、でも実はその影に、この二人が感じていたような陰惨な現実が、あるかもしれない。
だとしたらしょっぱなにエバの脳天気な顔をそのクッキー売りに投影した私が、間違っていたという事になるんだから、自分の印象にすがりつき続けるのは、非常に無駄な事だ。

もしも噂話を聞くんなら、その話がどんな場合でも話し手のストーリーのフィルターを通過している、という事を心のアンカーとして持っているべきだし、噂話をするんなら、自分がどの程度ストーリーのフィルターを通して出来事を認識し話しているかを、出来る限り自覚しているべきだと私は思う。

そうでないとこの可愛いクッキー売りについて、いつの日か駅前の気のフれた妖怪女としての噂が轟き、誰も彼女からクッキーを買わなくなってしまう、なんて事にも、なりかねないのですから。

2016年11月18日金曜日

発達心理学によるプロファイルonニーガン

最近、ハーバード大学児童発達研究所から、幼児期の体験と脳のニューロン結合の密接な関係に関するレポートが発表されました。

既にこれをコロラドの学校でずうっと学び、また臨床的な解消実績も数え切れない程体験している私にとっては耳新しい情報ではなかったのですが、ハーバード大学のような権威がそれを言い出せば信頼性が高まり、今後様々な一般的な心理療法にも応用出来るようになるかもしれず、ようやくの一歩前進だなと感じました。

この、脳の80%の成長が完成される生後三歳までの幼児脳の発達をベースにした心理学と心理療法は、非常に実用性が高く正確だと私は思います。
ニューロンの結合、という実質的な結果によって生じる学習認識という物は、つまりほぼバイオロジカルな現実であり、外見が太っているか痩せているか、等に等しい正確さで、その人の心の癖を、情報として与えてくれるのです。

何度かブログにも書きましたが、このニューロンの結合による深いレベルでの学習認識は、体形や姿勢にもあからさまに反映されているため、プロファイリングにも有益です。

アメリカの犯罪ドラマなどを観ていると、俳優さんなり作り手の方が実によく心理学を学んでいるのがわかります。
ニューロン結合のような進んだ分野かどうかは別にしても、犯人の表情や犯行の手口に心理プロファイル的なズレが無く、リアリティを感じさせるなと感じる物が多いのです。
表面的な言動等の辻褄合わせにとどまらず、よりディープなレベルで、例えば眼差しやふとした仕草なども合わせてそれを演じられている俳優さんを見る事も多く、そういう時には鳥肌物の感動を感じます。

例え心理学の知識の無い人でも、人間という物は現実の人間関係の中で様々な情報をキャッチしているのですから、そういったディープで詳細な演技を見れば、視聴している誰もが心の底にある、"真に迫る"、をキャッチする事が出来ると思うのです。


というわけで。
テレビ・ドラマの話になりますが笑。

沢山の方が夢中になっていらっしゃる"ウォーキング・デッド"を最近私も見始め、そしてあのドラマの中には危機状態の中でおかしくなっちゃってる人間が沢山出て来ますよね。

今まで大抵のドラマ内悪人は、上記のプロファイル的見解からいろんな分析が可能だったのですが、あのドラマに出て来るニーガンだけは、どうしても理解出来ないのです。
故に私は、初めて犯罪者に、純然たる憎しみを感じる事が出来ているという、希有な体験を今現在しています。

発達心理学やニューロン結合の様な物を臨床的に知っていると、自分に直接迷惑がかからない限りは、悪人が全部幼児の姿や顔に見えてしまって中々怒りや憎しみに埋没出来ない物なんですが、あのニーガンだけにはまったくもって、幼児期のトラウマが原因であんなに憎たらしくなっている、という系譜が見えないのです。

行動そのものを見る限りにおいて、私の知るレベルでの現実世界の有名人でニーガンに最も近いのは、北のパタリロ将軍だと思うのですが、北のパタリロ将軍とニーガンには根本的な違いがあります。

北のパタリロ将軍には明確に、"自閉期の傷"と私たちが呼んでいるトラウマを現す外観があります。
自閉期というのは生後三ヶ月までの、まだ生まれたての非常に繊細な時期で、この期間にうまく保育者の保護を得られないと、他者や環境への不信と恐怖から、非常に閉鎖的で冷酷な心を持つ可能性があるのです。

お腹が空いているのにすぐにミルクが来ないとか、抱いてほしくて泣いているのに放置された程度の体験が繰り返されるだけでも、他者への共感性の欠如した人間不信人生不信的学習認識を獲得してしまう可能性があります。

現在のパタリロ将軍の持つ痛ましい、また他者への冷たい眼差しや赤ん坊の様な体形に、その育ち切っていない生後三ヶ月の心が非常によく反映されているのです。
恐らく彼は、充分な愛情と安心感を乳幼児期に体験出来ないまま成長したのでしょう。


しかーーーし!!!!

ニーガンはどうでしょう。
ニーガンの容姿は、非常によく育っていますよね。

もちろんこれには、ニーガンを演じている俳優さんの要素が多分に影響はしてしまいます。あの俳優さんは恐らく、おおらかで愛情深い保育者の元、ニューロンの結合が健康的に成される程度に十分な安全性の中で、育った方なのでしょう。

年齢に相応しい成熟した容姿と貫禄、萎縮や緊張を感じさせないおおらかな四肢、実際のところ、別のドラマなどで彼を拝見すると、愛情深い表情を無理無く演じられていて、バランスのとれた心の健全さを、とても感じさせてくれます。

その彼があのニーガンを演じているわけですから、実際のプロファイリングに合わないのも当然と言えば当然なのですが、私の臨床経験上、現実にああいう、見た目は立派で発達心理学的にも問題無さそうに見えるのに、なんだかおかしい、という人が、いない事も無いのです。

そういう前提の元で私は、一生懸命ニーガンを観察しているのですが、今のところまったくもって、"トラウマによるニューロンの結合不備が原因で悪くなっている"という印象を、持てないでいます。
ガバナーは簡単でした。だからガバナーを憎む気持ちには、私はなれませんでした。
でもニーガンは。


ニーガンには、人に暴力を振るう時、眼差しの中に、冷酷な喜びや微かな恐怖や静かな興奮や怒りなどが、無いのです。
非常に静かな、穏やかな眼差しで、人を酷い目に合わせています。

これには、無意識下のニューロン結合不備つまりトラウマが全然活性化されていない、つまり、トラウマを原動力にはしていないな、という印象があります。

ニーガン役の俳優さんが大根なのでしょうか。
そうは思いません。
何故なら、ニーガンには安っぽい表面的な悪魔的表現も、無いからです。

少なくとも言えるのは、ニーガンは確信をもって、安定した心からあの悪事を働いているという事。

子供時代に得られなかった何かの代償を求めてとか、何かへの憎しみや復讐とかの、代替行為ではないということ。
それを非常にうまく、彼は演じていると思うのです。

もちろん今後、ドラマの中でニーガンの背景が描かれる事もあるかもしれません。
もしもその中で、過酷な幼少期を経て、のような話があった場合、彼の場合はそのトラウマがあまりに深く、脳自体に損傷あるいは変質を負っているレベルの、重傷なケースだという事は確かです。


ところでウォーキング・デッドには、リックというリーダーがいますが、ニーガンはリックのナルシシズムを、執拗に攻撃していますよね。
あれを見ていると、ニーガン本人にも自己愛性のトラウマがあり、同族嫌悪みたいなもんがあるんじゃないか、とも思わせるのですが、しかしここにも私は、ニーガンがトラウマから、リックをやっつけているわけではない、という印象があるのです。

単に、まるで神の鉄拳のように、リックの肥大したナルシシズムに対して、自覚しろ、反省しろ、屈しろ、とやっているように見えてなりません。

一体ニーガンて、なんなんでしょ。


原作の印象は、テレビのニーガンとはまるで違うし、色々な理由から辻褄の合わない事もあるのかもしれませんが、例えそれがフィクションであっても、創作物には時に、何かおおいなるものの意図が、降りている場合があります。

だからそれがドラマの中で暴走するフィクションな存在だからと言って、作り事では済ませない事もあると私は思うのです。

特にドラマ版ウォーキング・デッドのニーガンの様に、心理学的な面から見ても謎めいた存在の場合、何か注目に値する存在の意味が、あるように感じてならないのです。

ですので今のところものすっごく憎たらしいニーガンですが、まあ興味深く見てゆきたいなと、思うのであります。


2016年11月10日木曜日

大統領選後

アメリカ大統領選が終わってからずっと、うっすらと泣きたい様な感覚が続いている。

結果に失望しているわけではなく、いやもしかしたら気付かない様な深いレベルで失望しているのかもしれないけれど、ずっと感じているのは失望や怒りではなく、どちらかと言えば厳粛な、深い静けさを伴う胸の痛み、とでも言う様な物だ。

どういう人たちが何を思ってトランプに投票したのかは、実際のところよくわからないのだけど、昨日からずっとある知人の事が、頭から離れない。


趣味でヘリコプターやセスナを操縦するアメリカの知人のおかげで、私は最近よくアメリカで自由な空の旅を楽しんでいるのだけど、ある時その知人が紹介してくれた若いパイロットの青年と、ランチを食べに行った事がある。

Kというその青年は、青い瞳が静かで優しそうな白人の眼鏡男子で、空を飛ぶのが大好きでがんばってヘリの免許を取り、人に操縦を教えて生計を立てていると言った。

その時にその彼が、自分はヒルビリーなんだ、と笑いながら言ったのだ。
幸い森が近かったから、子供の頃から兄とふたりで森に入って、色んな動物を狩って食べた、と楽しそうに話し始めた。
狩った動物は蛇や鳥や蛙や魚など、普通に食用に出来る物から、オポッサムなどの変わった動物まで食べたと言った。オポッサムは死んだふりが上手で、始めの頃はそれに騙されて僕たちはよく失望したり笑い転げたりもしたもんだ、と。

私は大好きな北米の森を思い浮かべ、オポッサムの話を心から楽しみ、他にどんな動物を食べたのかと、大喜びで話をねだった。
彼はその時本当に楽しそうに自慢気に話していたから、私はそれが楽しい話だと、思い込んでいたのだ。


その事が唐突に、胸に突き上げる様に、昇って来た。
トランプが大統領になった時に。
小さな兄弟がふたりで森に入って、毎日の様に動物を狩って食べ、飢えをしのいでいたのだという、新しい現実として。


ヒラリーの、敗者演説は胸を打つ美しい物だった。
彼女が大統領になっていたら、どんなに素晴らしかったかしらと思わせるような、爽やかで、真剣で、静かな情熱を湛えた、力強いメッセージの込められた、品格を感じる素敵な物だった。

だけど毎日の生活にあえぐ人たちは、堂々と差別発言や痴漢行為を自慢する下衆野郎が見せてくれた、明日の食べ物を買える希望を、選んだのだ。
実際にトランプが役に立ってくれるかどうかは別として、とにかく彼を選んだ。
彼の言葉の方が、胸に響いたから。


森にオポッサムを獲りに行かなくてもいい、そんなに貧乏じゃない人たちもトランプを選んだ。なんでかっていうと、トランプの言ってる事が飾らない本音で、自分たちの気持ちを代弁していると感じたからだ。


私は、外側に敵を作る人たちというのは、結局は深く疲弊しているだけなのだと思っている。
人種差別はつまるところ八つ当たりであって、なんらかの強いフラストレーションや不満や怒りや恐怖や痛みを誰かにぶつけたいだけなのだ。
まあ、私怨から特定の人種なんかを憎む人もいるかもしれないけれど、それだって結局は心の痛みから発生している。

だからと言って同情出来るものでもないんだけれど、とにかく今回のトランプ勝利の現実は、如何に多くのアメリカ人が、実のところ非常に不幸なのだという事を現していると感じて、私は非常に、ガーーンとなってそしてその現実が、厳粛な悲しみとして心に広がりまくっているのだ。

アメリカには、自分のオポッサムを誰かが奪いに来ない様に、高い塀を作りたい人たちが、沢山いる。

そういう人たちにとっては、世界平和や差別の無い社会や自然界との調和や、エコやオーガニックやGMOやスピリチュアルや、高い精神性やウィットのあるユーモアや芸術や、多様性や平等や品格やそんな物なんかより、攻撃的で閉鎖的で、差別や憤怒に溢れ、恐怖と不信に満ちた心を代弁し、堂々と市民権を与えてくれる下衆なオヤジの方が、遥かに現実味があったのだ。

貧乏であれ金持ちであれ、トランプの言葉に説得力を感じる、不安で不幸で脅かされている人たちが、アメリカには沢山いるのだ。


その現実に、改めて光が当たった。

人類が進化して、中世の時代よりはずっとフェアで人道的な法律や価値観が行き渡っている文明社会において、より高潔な高い意識をもって生きてゆく理想的な流れがある一方で、様々な理由によって社会的に虐げられたり働けなかったり思う様に生きられなかったり稼げなかったりして、傷ついた痛ましい心を抱え、怒りと憎しみに燃え、怖れと不安で身動きがとれず、毎日が生き延びる事だけで精一杯な人たちが、この世にはいるのだということ。

もちろんKの様に、過酷な生活から自分の力でいっぱしの生活を勝ち取れる人もいるけれど、病気とは認定されない程度の精神疾患や、身体や心の弱さを抱えた人たちは、どんなにひとりでがんばっても、立ち上がれない事もある。


それがなんだと言うわけではない。
単に私は、Kの話してくれたオポッサムの話を、おもしろ可笑しく楽しんで、それ以上何も、気付こうともしなかった自分の目を、トランプの勝利が覚ましてくれたなと、思っているだけだ。

そしてそれがとても悲しくて、ただごめんなさいと、天に向かって謝りたいだけなのである。

2016年10月30日日曜日

色々考えさせられるTWD

あまりにも評判を聞く機会が続いたので、ものすごく遅ればせながら観始めたドラマ"ウォーキング・デッド"。

人気の秘密が徐々にわかり始めた最近、実に色々と考えさせられる、という構造も、人気のひとつなのだろうと思ってアメリカの友人に聞いたら、もちろんそうだという返事。
みんな、ドラマに出てる人たちのやり方や価値観の分析や批判や肯定で楽しんでると言っていた。そういう意味では、そういった誘いに満ち満ちている、大変成功しているドラマだと思います。

視聴者をうまく"釣れてる"、ってやつですね。
そして私は、ドラマや映画については、積極的に釣られたり騙されたりする様にしています。
その方が楽しいからです。


登場人物についても、好みやなにやらが別れると思います。
私個人は、主人公グループを率いているリーダーであるリックを胡散臭いとずっと思っていて(笑)、片腕のダリルを、素晴らしいと思っています。


ダリルは、私が昔アメリカで学んだナチュラリストの技を実際の戦闘に活用しています。
地面の足跡を見てその人物の体重を測ったり、枝の折れ具合や木肌のコンディションから、そこで起こった事を推測したりと、中々かっこいいのです。

まあそれはそれとして。


ドラマの中では度々、ゾンビに変化しちゃった家族の誰かを、自分らに危害を加えない程度の管理でかくまっている人が出て来て、それを主人公サイドの人間が暴いて、ゾンビな家族を殺しちゃうエピソードが、度々出て来ます。

それを見る度に私は、これってどうなのよ、って思ってしまうんですよね。


確かに今のところ、一度ゾンビになっちゃったらもう戻れない事はわかっています。
完全脳死状態になった後、なんらかの作用で脳幹だけ機能し始め、しかしその時にはもう、凶暴な何かに変ってしまっているわけです。

家族をかくまっている人は、いつか治療法が発明されて、元のその人に戻るはずだと淡い期待をもって、彼らをかくまっているわけですね。


でもなんでだか、それを知ると殺しちゃう方向に、あのドラマは行くんだよね。


まだ見始めたばかりなので、何を示唆したい番組なのか私にはわからないんだけど、FOXテレビの番組だと言う事から、ちょっとばかりの疑いを、持ち始めているのです。


もしもあのドラマが、鷹派の価値観を基準に動いているんだとしたら、どうなんだろうと。


確かに、咬まれたり引っ掻かれたりすると感染してゾンビになっちゃうんだから、ゾンビはいなくなるのが最も良い。
しかし誰かが、まだ家族がゾンビになっちゃった事を受け入れられず、いつか戻ると期待していたいのだとしたら、それはそれでいいんじゃないんですか?
他人に迷惑をかけない様に隔離しているんだし、万が一そいつが逃げ出しても、真っ先に被害に遭うのはかくまっているその人であり、更に表に逃げ出しちゃっても、後は何万匹もいるゾンビに混ざってウロウロしているだけに過ぎません。
もうああなると、野生のゾンビがひとり増えようなふたり増えようが、関係無いような世界なんですから。


ドラマの中では、ゾンビVSニンゲンより、むしろ生き残った人の間で描かれる戦いと葛藤に焦点が当たっており、そして正義と正義じゃない側の価値観がとても曖昧です。
だからこのドラマは意識的に、絶対的な正義、という概念のはかなさを描いているのかもしれない。

けれどもしも、ゾンビになっちゃった家族をさっさと殺す方が正しいんですよ、先に進む為に、という意識がベースにあるんだとしたら、私は途端にこのドラマが、FOX系列TVで放映されている事が、気になり始めてしまうんですよね。

それって、鷹派の考え方じゃない?

Aという人物が、Bという人物の大切にしている物を、「おまえそれ、おかしいよ。」って言って、その人のドアをこじ開けて、その大切にしている物を破壊してしまう。それによって平和が築かれる。という錯覚。

それは単に、Aという人物が欲しい現実を、Bという人物の価値観が邪魔をするからと言って、Bの価値観を根こそぎ否定して"改心"させる、それによって欲しい現実が得られる、という自己満足に過ぎません。

Aは単に、Bに賛成出来ないから、自分の居心地悪さを正しさや常識に置き換えて正当化して、自分にとって居心地の悪い場を、居心地良く変えようとしているだけですよね。



アメリカにはまだ根強い保守派の人たちがいて、未だに同性愛者を異常視したり、正当派とその人たちが見なす価値観や宗教観から逸脱した人たちへの理解を、拒絶したりしています。

私は、どんな偏見でも古い考えでも、個人のレベルで持っているだけならそれはそれで自由だと思っている人間ですが、もしも誰かが自分の価値観を、誰もが持つべき正しい物だ、と勘違いして、それを他者に強制し始め、その行為が公民権を得たら、それは自由世界の終わりだと思います。
それだけは許してはいけないと思うのです。


ゾンビの存在は、害毒です。

醜悪で、生きる価値も無い。

しかし、誰がそう言いきれるのか。

一人娘がゾンビになってしまった。
その姿は、肉親以外の人から見れば、醜悪な悪魔かもしれない。
でも父親はその顔に、過去の可愛らしい娘の面影を見ているのです。


あのドラマが、どういう価値観で進んで行き終わってゆくのか、今は全くの未知だけど、もしも二元論で正悪を捉える価値観がゾンビを殺すのだとしたら、私はそれは間違っていると思います。

あのドラマの中で、ゾンビになっちゃった肉親をかくまう人々を、どうやって描いてゆくのかは、とても大切だと思うのです。

先へ進むとか、健全であるとか、ポジティブであるとか、正直であるとか、困難から立ち直るとか、社交的であるとか、ちゃんと働いているとか、家族がいるだとか、ヘテロであるとか、強いとか、病んでないとか、正義感があるとか、そういう事だけがノーマルであるとする意識が暴走している一部の人間を抱えている土壌が、もしもその思想を土台に、そうした方が結局はみんなの為だとかいう思いを土台に、家族がかくまっているゾンビを殺すのであれば、それは間違っていると、私は思うのです。


あのドラマがどんな方向に行くのか、だからとても興味があるのです。

TWDは、闇、と位置づけた存在や行動を、果たして今後、受け入れるのでしょうか。