2014年5月13日火曜日
もうすぐ公開(5/17)"野のなななのか "の話
野のなななのか
とタイトルを聞いただけで、泣きたい様な気持ちがこみ上げて来る。
撮影の体験がとても素晴らしかったからだ。
自分にとって本当に納得している物を創作している時、人は独特の空間に入る、と私は思う。
これは私が漫画を描いている時や、油絵を描いている時にも感じるのだけれど、なんとも深く満たされた、フルな空間。そこに全てがあって、他に何もいらなくなる。深い満足感と至福感だけがあって、続々と自分の中から湧き出て来る様々なアイディアがあまりにも豊かで、その海の中でただ夢中で満たされて、食べることさえ必要無いと思えるような、完全に孤立しているのに、全てと繋がっているような、より深い現実と、密接な関係を結んでいるような、そんな暖かさに満ちた空間。
大林宣彦監督の最新作"野のなななのか"の撮影中に私が感じたのは、私自身が、映画を製作中の大林監督ご自身が体験されているのかもしれない、その豊かな至福の空間の中に、すっぽりと入ってしまったような感覚だった。
私は野の音楽隊という役で、主題歌を担当したパスカルズのメンバーのひとりとして出演しているだけなのだけれど、それでもあの不思議な深い至福感覚の中に入り込み、ひとりの人が「創作」という空間に入った時のエネルギーの膨大さに、改めて感じ入ったのだ。創作者だけが味わえると信じていたあの空間は、映画という現場においては、そこに関わる全ての人が分かち合う事の出来る程に、広大に広がってゆくものなんだと知った。
そして試写会で映画を観た時、自分の体験が決して幻想のようなものではなかったんだという確信を持った。
映画の中で語られていることの全てに、私自身も深くうなづいていたからだ。
ずっと言葉に出して言いたかったけれど、お茶を濁したり、怖かったり、遠慮したりして遠回しにしてきた事の全てが、映画の中でずばりと語り尽くされていた。
僭越や失礼を承知で言ってしまえば、これは私の映画だ!とさえ感じてしまったほどだ。
そのカタルシスたるや!
震災以来、ずっと癒えないで疼いていた傷が、一気に光を浴びて完治してしまったような、もやもやとした暗雲に覆われて混沌としていた心が、きれいな水で一瞬にして洗い清められてしまったような、そんな解放感だった。
丁寧に選ばれた言葉と、情熱的なやり方で、どんどん語られてゆく想い。
芦別の美しい風景と、素晴らしい存在感で圧倒的な演技をされている常磐貴子さんと安達祐実さんを始めとする女優さん達が、深い思索的な風情が感動的なまでの奥行きを造り出しておられる品川徹さんを始めとする男優さん達が、一丸となって"野のなななのか"の世界観に没入し、力の限り伝えたい事を演じ尽くしている、そんな感じだった。
大林監督の創作の空間に全員が巻き込まれ、大勢の人たちがひとつの巨大な塊となって、ひとつの高潔な方向へと向かってこの映画を創り上げているのだ。
深くて情熱的で圧倒的で、そして優しい映画だ。
そして前回の作品「この空の花」同様に、独特の、熟練された正義感と優しさのバランス感覚を持つ大林監督は、そこに決して敵を作らない。
全てを救い上げる仏の様な暖かい手で監督は、人間は、世界は、二元論ではない、敵と味方ではない、善と悪ではないやり方で、ちゃんと存在出来るのだということを、優しく諭してくれるのだ。
それについては同じ事を二度書くのもあれなので、今は一時的に閉めているブログに書かせていただいた、前作"この空の花"の感想をここに加えておきます。
"野のなななのか"必見です。
こんな映画に関わらせていただいて、まるで一生分の仕事を終えたような、そんな満足感と光栄さに、今は満たされています。
ところでこの映画の英語タイトル"SEVEN WEEKS"は、私率いるアメリカン・チームで作らせていただきました(自慢!!)
ーーーーーー"この空の花"感想ーーーーー
昨日、有楽町の朝日ホールで行われた、大林宣彦監督の最新作、長岡の花火の事を描いた映画『この空の花』の完成披露試写会へ行ってきた。
パスカルズが挿入歌を担当し出演もしており、特にパーカッションの石川浩司は、山下清役というはまり役で、映画の中でも素晴らしい位置にある、重要人物だ。
そもそも監督が、長岡の花火を愛した山下清画伯の言葉、「すべての爆弾が花火になったら、この世から戦争がなくなるのにな。」にインスパイアされた事で、生まれた部分もあるという映画だそうだから。
私は実は、邦画、というものにあまり縁の無い人間で、大林宣彦監督の作品に触れるのも、これが初めての体験だ。
とても独特の手法をお持ちで、映画の始めの方では、しばし面食らう、という感覚があった。
このスタイルは、好き嫌いがはっきりするかもしれないし、とっつきにくいと感じる人もいるのかもしれないな、と。
しかし観ているうちに、私はこの映画の持つ、ある崇高な意図に、深く感じ入り始めた。
この映画は、長岡が受けた第二次大戦での戦争被害を、現地の経験者の言葉をリアルに用いながら、淡々と描いてゆく。
しかし、そのどこにも、被害者意識を煽る気配も、当時の敵国アメリカへの怒りを煽る気配も、まったく無いのである。
意図するにしてもしなくても、戦争を題材にしたフィクションや報道には、加害者である物への怒りと、被害者たる物への悲しみが、横たわる事がある。
私はそれを、911の時の日本国内の報道に、強く感じた。
始めは、被害者であるNYへの哀悼が、後には、報復を始めたアメリカへの怒りが。
街角でのインタビューでさえ、微妙に翻訳を変えて、報道の持っていきたい方向へ視聴者の心を導く在り方。
身近な友人たちでさえそれに翻弄されて、ネット上に無防備なまでのアメリカへの罵倒を投稿したりしていたのを見て、私は随分と疲弊したのを覚えている。
報道する側が、ニュートラルである事を意図しない事で拡大する、個人の内に掻き立てられる過剰な憎しみと怒りと悲しみ。
そして時にそれは、国家政策レベルで行われる意図的な煽動である事もあり、そうやって今まで人間は、戦争を始める、という意図を感情の中で指示し、繰り返すことを許してきたのだ。
怒りと破壊をもってしか、変化を生みだせないと深く信じる心によって。
反戦、と名付けられたものでさえ、なんらかの対象への怒りと敵意が込められていることすらあるのだ。
その、対象への敵意こそが、戦争を生みだす、大きな要因のひとつであるという現実が、置き去りにされたまま。
だけど今ここに、戦争を煽動しない、美しい戦争映画が出来上がった。
爆弾が全部、花火になればいいのに、という祈りの元に。
戦争を生み出し、破壊を繰り返してきた人間の愚かさを、ふんわりと抱きしめあやしながら、もうやめようね、と優しく諭す、誰のことも非難しない、誰の事も貶めない、美しい、戦争の事を綴った映画が。
爆弾が花火になる、という平和への変容は、この映画によって、きっと人々の心に染み渡る。
破壊や怒りでしか物事を変化させられない、という想いを、鮮やかにくつがえす。
誰もが持つ心の中の爆弾のひとつひとつが、美しい花火へと昇華する事で、もうこの世に、戦争は起こらない。
そんな崇高な祈りが隅々にまで丁寧に込められているように感じられた映画、『この空の花』は、再生への想いを込められ長岡で打ち上げられた、フェニックス~不死鳥という名前の花火を描きながら、震災や原発への想いも含んで語られ、エンドマークをつけられずに終焉した。
大林監督、素晴らしい作品を、ありがとうございました。
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