2014年11月1日土曜日

天国に行って来た少年の話


アメリカにいる時は、よく映画館へ行く。

映画好きの人が傍らにいる、ということもあるし、夕ご飯を食べた後に眠りにつくにはまだちょっと力が余っていて、そしてなんとなく暗くなり始めた夜の街の雰囲気にも触れたくて、なんていう時に、近所のモールの中にある映画館へ行くのは、中々楽しい経験です。

今回観た数本の映画はどれも印象深くて、夕ご飯の後のちょっとした娯楽にしては大変贅沢だなあと感じた物ばかりでした。
考えてみれば、巨額の制作費とすごい数の人々の長い時間の労働と創造力の産物を、10ドルかそこらで簡単に楽しめるんですから、映画という娯楽は、実際非常に贅沢な物なんですよね。あまりに身近なので忘れがちですが。。

今回、新旧入り交じって色々観た作品の中に、実話を基にした映画が一本ありました。

小さな男の子が生死の境を彷徨った時に天国を訪れたという、その不思議な体験を描いたものです。

この少年はキリスト教の牧師さんの息子さんなので、やや特定宗教的色彩が胡散臭くなりそうな気配も無くは無いのですが、映画の中で少年の天国訪問体験に疑念と疎ましさを持ち続けるのが、他でもない牧師をしている父を含む少年の両親と教会関係者だというところが面白いし、これが偏った啓蒙カルト映画に、なんとかならずに済んでいるひとつの要素だと思いました。

特に教会関係者の女性が口にしていた、少年が天国での体験を広く口外することでこの教会が有名になってしまうと、自分で物を考えない輩が救いを求めて集って来ちゃうからイヤだ、という言葉は、この教会と映画自体の健全さを物語る上で、大切なスパイスだなと感じました。

宗教や信仰というものはそれ自体に問題があるのではなく、それを扱う人間の意識が問題を作り上げるケースが多いですもんね。道徳的なコミュニティの場として生活に溶け込み健全に機能している教会に、奇跡を求める他力本願な狂信者がいっぱい集ってきちゃったら、確かにヤバいし脅威です。

しかしながら少年の口にする体験は実に信憑性があり、鮮明で感動的なので、教会関係者の 懸念もよそに、だんだん有名になってきてしまいます。

実は私は映画の途中まではこの少年の天国体験談について、使い古された逸話だなあ、なんて思ってあんまり新鮮に楽しめない部分も多かったのですが、終わりの方にそんなニヒルな私を打ちのめす、すごい仕掛けがありました。
それは前にこのブログにも書いた、アメリカの天才絵描き少女にも関係するエピソードでした。ネタバレになってしまうのでここには書きませんが、とにかく私にとっては、あっと驚く内容だったんです。


私は基本的に、奇跡体験のような物に偶像的な表現が絡んでくる物が苦手です。

例えば、太陽の光が緑色に見えて突然すごく神懸かった気分になり、叡智に満ちた言葉が心の中に浮かんだ、くらいまでは個人の主観的な至高体験なので素晴らしいな、と思うのですが、その緑色の光の中にマリア様が見えた、となれば話は別です。

見えたような気がした、と言うのなら、経験の主観的な解釈なので理解できるのですが、明らかにマリア様だった、となり、それはマリア様ですね、と認定されちゃうとですね、私の頭の中は全くの圏外になってしまうのですよね。

そしてこの映画の中には、明らかにキリストでした、が出て来てしまうのよね。
無垢な少年が生死の間を彷徨っている内に天国へ行って、天国で暮らす既に亡くなった家族に会っただけでなく、キリストにも会うんです。

で、実は途中まで私はこの苦手系エピソードに引きまくっていて、しかしながらまあこの少年は、小さな頃から教会でキリスト教的絵画やエピソードに触れまくっていたわけだから、生死を彷徨っている間に違うディメンションを訪れ、その世界の体験を、既に心の中に知識として存在しているキリスト教をベースにした情報として翻訳してしまうのは無理の無いことかもしれない子供だしね、なんて思いながら観ていました。

それにこの映画の中には、先に書いたしっかりした教会関係者の様な動機でではなく、やったらムキになって少年の話を頭から否定しようとする、非常に大人げない大人達も出て来て、いやそのかたくなな態度はむしろ、あんたらが馬鹿にしている狂信的に宗教を信じる人たちと全く同じ思考停止の産物だってことに、なんで気がつかないんだろうね、なんて忌々しい気持ちも感じつつ、それにしてもこの世の中は、ひとりの少年が生死の間を彷徨っている最中に美しい神秘体験をしたっていう、たったそれだけの事実を、口に出すのさえ難しいなんてのはおかしいんじゃないか、というところにも行き当たり、今更ながらに人の思考の無駄な複雑さに、私の心がうんざりするに至ったあたりでこの映画は、周囲の評価なんて物ともしない、実体験者であるという無敵の強さと清々しさを持つこの少年が、自分の経験を賢明で愛情深い形で役に立ててゆくという、美しくて凛々しい姿を見せてくれるのです。

それだよね。

少年の神秘体験が紛れも無い事実でも、あるいは単なる脳内物質の作用で起こった幻覚に過ぎなかったにしても、どっちでもいいんだよ。

少年はインパクトの強い神秘体験をして、その体験が少年を、すごく大きな心の持ち主にした。そこに私は奇跡を感じたしとても感動しました。

そして私が抵抗を感じ続けた偶像エピソード、つまりキリストとの出会いについては、さきほども書いた映画の最後にあった仕掛けによって、いくらか私自身の持つ抵抗感も、謙虚に脇に置く必要があるのかもしれないな、と思わせるものがありました。

この世界は、宇宙は、人間の心も脳も、他のあらゆる生命体の在り方も、そして時間の流れや成り立ちなどについて、まだ殆どはっきりとは解明されていないのです。

アインシュタインやダ・ヴィンチの見ていた世界を、実感として見て生きている人も、まだ殆どいないのです。

そんな今の現状で、頭ごなしに「無い」と否定できることなんて、一体どのくらいあるのだろう。

この映画の、ほぼ新鮮さの無いナイーブなストーリー展開は、こんなに繰り返し同じようなエピソードを、大昔から色んな人が語っているのに、人間の頭は未だにそれを、単なる戯れ言のように扱うんだということに、ふと思い当たらせてくれました。

人間ていつになったら、「キリストに会ったよ。」「どっひゃーーーーー!!!!!それってすっげえっっっっ!!!」てな具合に、素直に反応するようになるんでしょうね。いやもちろん、健康的なやり方で笑。