2015年1月22日木曜日

しあわせってなんだっけ


この日記は、たった今とても苦しい事に直面している、私の若いお友達に捧げます。



夢見ていた幸せが、思う様に展開しない時、思わぬ形で裏切られた時、そりゃあ絶望もするしこの世の終わりだって、思うのはわかる。


世の中には、若い女の子の理想の幸せ、という概念がいくらでも存在している。

今は多様性の時代だから、昔みたいに誰もが結婚して子供育てて、という形ばかりを願うわけじゃないんだろうけれど、日本は保守に傾いているという噂も聞くから、もしかしたらまだそれが、若い女の子の夢の典型なのかもしれない。

それとも才能を行かして生きる道を望む人もいるだろうし、その両立を目指す人もいるだろう。
いずれにしても、こんな風になれたらきっと幸せだ、という象が、あるに違いない。

お店を開くとか、有名になるとか、どこかへ移住するとか、夢の家に住むとか、色々あると思う。

そしてそれに固執して、がんばって夢を叶えようとして、すごくがんばっていたのに、そうじゃない結果が人生に現れたら、そりゃあ絶望もするだろうし、この世の終わりみたいにも思えるだろうし、すごく辛いだろうとも思う。

でもそれでもう終わりだ、って思っちゃったらさ、自分の人生が、かわいそうじゃない?

自分の人生は、人生そのものとしてのオリジナルの道を、脳で考えた理想の在り方とは別の次元で、粛々と展開しているんだよ。

私は最近、ホーキング博士の映画を観て、そのレビューにも書いたんだけど、あの映画は、人間の思考、なんていうちっぽけな条件付けされた想像力が理想と描く、もっと言えばこれなら問題無い、と信じる人生の形が、より大きな人生そのものの在り方からすれば、如何に浅はかでくだらないか、固執する価値も無い様な、意味無きシロモノかということを、教えてくれる映画だったんだよね。

ホーキング博士が何故あんな難病を患ってしまったのか、何故あんな悲劇に見舞われたのか、という問いと共に映画館に入った私は、博士の病がそもそも悲劇だなんて思っていた自分の浅薄さが、愚かで可笑しくて笑えて仕方ないっていう感じで、映画館を出たんだよね。

そして、宇宙の起源を紐解く科学者のホーキング博士は、そのことをとうの昔から知っていて、本当の意味でのヒト生命体の、生物学的起源としての"完璧"ってどういうことなのかを、深く納得して生きているってことを、あの映画は見事に描いていました。

これは安っぽいポジティブ・シンキング志向や「どんな事にも意味がある」みたいな哲学的な言葉で説明されるような、概念で語れる様なものじゃない。
人類という生命体が、どんな風に生きれば地球の生物として自然なのかを、博士は科学者として知っている、ということなんだよ。


人生というものは、自分の頭で考える理想とは、別の次元で粛々と展開されているんです。

もしも頭で考えてる理想について、あれ?いつから、どうして自分はそんなことに固執していたんだろう、という、ちょっとだけ謙虚な気持ちになって、それって本当に、幸せ?と問い直してみたら、もしかしたらその理想は、何の根拠も無い、何の意味も価値も無い、単なる幻覚だっていうことが、わかるかもしれませんよ。

そしてそんな事に固執するあまり、盲目的にそれだけを追い求め、傍らで粛々と展開している自分の本当の人生の流れが見えなかったとしたら、すごく勿体ないと、私は思うのです。

自分の思い通りになって欲しい、という気持ちはあるにちがいない。
それに向けて努力を続けるのも、悪かないと、私は思います。

だけどある日人生が突然思っていたのとは違う顔を見せて、それがすごい晴天の霹靂で、それですごくショックを受けて、もうどうしたらいいかわからなくなったら、その時こそ人生の本当の顔を、見る事が出来るチャンスだと思うんです。

自分の頭で考えていた理想は崩れた、じゃあ、だとしたら、どんな事を人生は、やろうとしてるんだろう、という好奇心を持つ、チャンスだと思うんです。

もしかしたらそれは、制限のある思考で作った理想なんかを遥かに超えた、もっと創造的でオリジナリティーがあって色彩豊かで、ずっと面白い世界かもしれない。

自分で思い描いていた理想を一旦諦めてみることは、そんな自由な可能性を人生に許す、チャンスなのかもしれない。

アメリカの精神医学では既に、人間の持っている、誤ったアイデンティティが、全ての苦しみの源だって言うことを言い始めています。
これは科学者ホーキング博士が言っていることと同じだ。

理想に向かって邁進することはいいことだし、その努力が実を結ぶという幸福もある。

だけどもしも、自分の理想が、叶わないことで今、自分を苦しめているんだとしたら、その理想ってやつを洗い直して、正体を直視することも必要なんじゃないだろうか。


自分の理想って、本当にそれなの?

いつからそれが理想だって、信じていたの?

その理想と幸せのスタイルは、本当にその彼と、分かち合う物なの?

今が本当に、それが叶えられる正しい時期なの?

何故自分は、それが叶えられなければ人生に意味は無い、おしまいだ、なんて信じ込んでいるんだろう。


私もホーキング博士同様に、ずいぶん早いうちから、理想というものを思考する生き方をやめてしまったので、それを頑張っている人の気持ちが今ひとつわからないってのがあるように、理想を実現するってずっと頑張ってる人には、こんな文章読んでも全然ナンセンスかもしれない。

だけどもしも、自分の生き方に裏切られて、もう生きる道が無い、ってとこまで行っちゃったんなら、死を選ぶ前に、自分が固執していた理想という物を、ちょっと謙虚な気持ちで洗い直し、全くそれを持たない状態でただポカンと、人生の流れを、理想という色付きのフィルター無しに、眺めてみる時間を持ってみたら?と私は提案します。


何才でこれが起こって、何才でこれが結実して、今はこれがこうなっていなければならない時期で、女の子にとってはこれが幸せで、という考え方のかわりに、ただじっと耳を澄まして、人生の流れの水音を聞いて、次は人生は何をしようとしているの?夢が叶う時期は本当は今じゃないの?本当は違う方向に向かって流れているの?そっちに方向を転換すると、もしかしたらもっといいの?と、少し謙虚に、河岸に座ってみたらどうでしょうか。

疲れ果てているのなら、次の一歩を踏み出す前に、ちょっと河岸で休みながら、自分がしがみついていた理想というものが、果たして自分に良い物を、本当にもたらしてきたのかを、観察してみたらどうでしょうか。

そしてその理想という考えを一旦地面に置いて、とりあえず置いたままの軽い体で、しばらく静かに、好奇心だけ持って、ゆっくりと歩いてみたらどうだろう。

どうせ最後にはみんな死んじゃうんだし、今はまだそう死へと焦るのはやめて、しばらく人生そのもののやり口を観察してみたらどうだろう。

頭の中でうるさく叫んでいた理想の幸せの実現ばかりに集中していた耳と目と心を、傍らで粛々と静かに流れている人生そのものの存在に向かわせて、そしてしばらくその流れの在り方を、眺めてみたらいかがでしょうか。

それで救われるのか、と言えば、理想に固執している限りは救われないと思うけれど、その代わりに全く違う、もしかしたら自分が頭の中の理想に集中していた間、ずうっと勝手に展開していた人生そのものの、ユニークなやり方の相棒になれるかもしれません。




最近の納品

 最近またニヒル牛2に追加納品しました。

濃紺オーガニック長袖TシャツMサイズにウサギのイラスト。別の作家さんの作品、白いふわふわスカートと合わせたらとても素敵でした。

キャンバス・トートに鳩のイラスト、あと、白いブロードシャツにも鳩のイラスト。

の下記2点は早くもSOLD OUTです。ありがとうございます。