2014年7月14日月曜日

海路図


私は漠然と、人間というものは元々大きな自分の海路図を持って生まれてくると考えています。

運命と言ってもいいのかもしれませんが、その人の持つ才能や特性が最適に生かされる設計図があらかじめ用意されており、しかしながら人生を歩む上でのひとつひとつの選択の仕方によって、その最適化された回路図の、最短ーお得コースを行くか最長ー遠回りコースを行くのかが、決まってくるのだと感じています。

だから、運命は漠然とあるんだけど、選択の自由もある、というような設計に、人生というものはなっているんじゃないかな、と思うわけです。

なんでこんな事を朝っぱらから考えているのかというと、昨日の私の、なんとも言えない幸福感の原因はなんだったのかなと探っていたところから始まりました。

昨日私は、特にいい気分で目が覚めたわけでもなく、一日を実にニュートラルな気分で過ごしていました。

でも午後になって、クラスの授業の方向性が混沌とする事態が起こりました。

私が今参加している学校では、大まかなカリキュラムや授業の方向性は決まっているのですが、クラスが進行する中で、重要度の大きな事が現れてきた場合にはいつでも変更可能というか、その時その時のニーズに合った内容が展開されてゆくようになっています。
おもしろい事に、これは私が人間の運命の流れについて感じている事と共通しているなあと今ふと思いましたが。。

とにかくそんな状況の中で、強く提案されたのが、プランAでした。

私は、プランAでも一向に構わなかったのですが、なんとなく感じた違和感を無視出来ず、自分はそれでもいいのだけれど、出来ればプランBを優先して欲しいと思う、と手を挙げて意見を述べてみました。

すると、他のクラスメイトの数人がそれに同調し、ではもう一度考え直しましょう、という事になり、結局は私の推したプランBを先に行い、それが終わって時間があったら、プランAをやることにしましょう、という結論になりました。

私は、自分が提案した、やりたいと思った事が通った、という事もまあ嬉しかったのですが、そんなことを遥かに超えたある部分で、その結論に達した時に、なんとも言えない深い安堵感の様な物に包まれ、その安堵感がどんどん大きな幸福感へと変わってゆくのを感じました。

こんな大きな幸福感を感じる原因はどこにも無いなあ、と思いながらその日の授業を終え、そしたらディナーを食べている時にショッピングにつき合ってと誘われ、期せずして私の大好きな、夕闇が迫り来る直前の逢魔が刻(by大島弓子♡)のドライブに行けることになり、おまけにその人が行こうとしていた店がもう閉まっていた為、オイラの大好きなスプラウト・ファマーズ・マーケットに行ける事になっちゃって浮かれまくっていたところに虹まで出たりして、もうヤッホー!な気分は留まるところを知らないって感じになったのでございます。

それでも一連のこの出来事は、私の内に突然沸き起こっている大きな幸福感と満足感を説明する材料にはなりません。
まあ普段から、状況の善し悪しに関わらず基本的に脳天気なので、理由は無いけどハッピーだわって感じには慣れているのですが、昨日感じていた幸福感には明らかに裏付けがある、と思っていたわけなのです。

で、今朝、はたと閃いたのです。

恐らく私を含め人類全般というものは実は、普段から漠然と、運命の最適化された設計図、っていう物を見ているんじゃないのかなと。

で、昨日クラスの方向性がプランAに行こうとした時に私が感じた違和感は、それは間違いでは無いけれど、元の海路図はプランBなのにな、っていう違和感だったんじゃないかと。

それで思い切って自分の意見を述べて、それが通ったわけですが、それはそういう表面的な事だけなのではなく、恐らく元の海路図に沿ったコースに乗ったということで、そのことで私の人としての本能が、すっごく幸福になった、つまりあの幸福感は、より生物学的な、より人間という生き物としての本能の領域の中で起こった、イエス!それこそがそれよ!!っていう、そういう幸福感だったんだなと。

今はそう実感しているわけなのです。

というわけでコースに乗りまくった私は、その後ディナー後から就寝までの、普段だったら歯磨きしてお風呂に入っておしゃべりして寝るだけの日常の中に、ドライブして虹を見てスプラウト・ファーマーズ・マーケットに行ける、なんていうちょっとした褒美まで手に入れてしまったのではないのかなと。

私は、遠回りが悪いとか、海路のコースの選択を誤るべきではないとか、全然思ってないんですが、海路図通りに進んだと思われた昨日の物事の流れのスムーズさとスカッと嬉しい感じは、本当に気分がよかった。

これは、仕事で成功を納めたとか素敵な彼氏が出来たとかいう類いの、なんらかの夢が叶ったというような一般的に言われているいい事とは、全く関係が無いんだなと思います。

もし何か、具体的な良い事が起こっても、それがもし海路図からズレている出来事だとしたら、きっと私はあんなに大きく広漠とした、心の底から安堵するような幸福感は、抱かないんじゃないかなとも思うのです。
もちろん、ちょっと嬉しい♩はあるでしょうが。

世間では、人間だって所詮動物だ、とかいう言い方で正当化されたがる、色んな下世話な性癖があるけれど、本来動物というのはこういった、非情に大きな最適化された海路図と結びついて生きているのであり、そこからズレた所で行うどんな行為も、動物だから、という理屈で正当化されるというのは通らないのではないかと感じます。

むしろ人間だけが様々な理由で、グラッと、海路に無いコースを選ぶことがあるんじゃないかな。

これは世間の目を気にするとか、単に臆病とか、そういう事だけではなく、こうした方がよりサービスになるんじゃないかな、とか、相手への余剰な思いやりが動機になる場合もあると思う。

昨日クラスで起こりかかったのは後者で、プランAを選んだ方がより親切なのでは、という動機があったのだと思います。
だから私は、遠回りのコースを選ぶ人を残念とかは思いません。
間違ってる、というんでもないと思う。
なんたってこの海路図のアイディアそのものが、私の私的な感覚ですからね。

でも結果現実として、今は全員がプランBで良かったと感じていて、全員が満足してるんだから、やっぱりあの時一歩踏み出して、手を挙げて提案してみて良かったなー、と思う訳なのです。

きっとあの時口を開かなければ、すっと違和感と共に今日を迎えていたのかもね。

これは、昨日スプラウト・ファーマーズ・マーケットの駐車場から撮った空。↓