2016年12月10日土曜日

ジョバンニかサイモンか


いつの間にか定例化している、パスカルズのチェロ奏者三木黄太が主催する、オペラ・チームによるMETライブビューイング観劇&感想会。

昨日はモーツァルトの有名過ぎる一作、"ドンジョバンニ"を観て来ました。この作品についてはもう、昨日の感想会で思いっきり、言いたい放題、掘り下げるだけ掘り下げ切って大満足していますので、このブログでは書きません。私が書きたいのは、ジョバンニを演じたサイモン・キンリーサイドの事です。

とにかく、メトロポリタン歌劇場の舞台に乗れるんですから、このオペラ歌手たちは一流中の一流です。こういう人たちの芸に触れると、「歌は下手でも心が籠っていればいい」とか、「音痴でもいい、魂からの声ならば。」等という、よくちまたで耳にする定番の暖かい言葉たちの事が、ちゃんちゃらおかしくなります笑。

そういう事は一流になってから、体感を通じて発見する崇高な真実なのであって、素人のうちからそんな事に甘んじていちゃいけないのです。
まずは心や個性を失うくらい研鑽を積んだ後に、その研鑽と共にいつの間にか背後で発達していた澄んだ成熟した魂と、研磨されて輝く深いところに眠っていた真の個性が、ようやく歌と深く繋がる、それが、一流、という事なんだと、私は思います。
あ、もちろん一流を目指してないならば、上記のような心理的クッションも、ある意味では真実なので、それでいいと思いますよ。私も、心しか籠ってないバイオリン弾いてるし。MET目指してないから。


で、このジョバンニを演じたサイモンなんですが、とにかくこの舞台、幕が開いた瞬間から、すっごい引力で舞台から目が離せない。熱狂的な集中力で観切った末に、あっという間に一幕目が終わります。
そして恒例の、舞台裏でのインタビュー。

このドンジョバンニは、希代のプレイボーイを描いた舞台です。今まで私は、このアンチヒーローを正当化する人を見た事が無いし、そういう評価を聞いた事もありません。
実に2000人もの女を口説き落とし、彼女らの名前をノートに連ね、寝る為ならどんな嘘もいとわず、彼に思いを寄せる女たちを裏切り、とにかく情交した女の数を増やす事だけに一生を費やす、言わばろくでなし貴族男の話なんですから。
だから、インタビューでの出演者たちの言葉も様々ですが、納得のできる行儀の良い物が続きました。


しかーーーーーーーーし!!!!!
インタビューの相手がこの主人公、ドンジョバンニを演じているサイモンに及んだときに、私が今まで持っていたこの物語への漠然とした解釈が、音を立ててガーーラガラと崩れ去って行ったのですよ。


サイモンは、高揚した様子でインタビュアーの前に現れ、今さっきまで演じていたジョバンニの衣装の乱れを気にする事も無く、爆発的に語り始めました。

1幕最後の歌を歌った時にはもう、感動でからだが震えたよ! ジョバンニは素晴らしい、自由だ、この物語は、自由を描いているんだよ!!!!

彼が言うには、この時代、フランス革命以前のこの時代は、身分制度は厳しく、モラルも厳しく、非常に鬱屈した時代だった。けれどジョバンニは、貴族でありながら平民を家に招き(村娘をモノにする為ですが)カトリック的規律をことごとく侵してゆく、モーツアルトはこの舞台に、ひとりの人間が、神をも恐れずに追求し選び取ってゆく自由という物を、描き切っているんだ。というのです。

なーーーーーるーーーーーーほーーーーーーーどーーーーーーーーー。


というわけで、サイモンのインタビューでは一切、女性への礼儀的配慮的な発言は発せられず、インタビュアーの女性は早いうちからムッとしており、しかし熱狂的に語り続けるサイモンは止められず、あー、そういう発言によってあなたはみんなから愛されているのね、なんていう、わけのわからない錯乱した間の手を唐突に打ってなんとかインタビューを終わらせるという、なんだかとっても見応えのあるモノとなっていました。


冷静に見れば、ジョバンニのやっていた事は自由というよりは病であり、恐らくセックス依存症か、あるいは下僕の男への愛を封じ込めているがためのリビドーの異常な爆発あたりなんじゃね?くらいに私は思うのですが、あり得ない程人間の自由や尊厳が無視され制約されている時代ならば、これだけ極端で破天荒な方法で自由を描くくらいが、ちょうどいいんじゃないのかな、とも思いました。
根深い慣習を打ち破る為には荒療治みたいな物が必要なのと、同じです。

そう思うと、なんだかジョバンニの味方をしたくなります。
責められても悪びれないジョバンニが言う様に、ロマンスの最中は女性は幸福なのですから、執着さえ捨てれば、その関係が終わったとしても素晴らしい経験をした、というだけの事なんです。
貞操、なんていうものに重きを置く時代の掟に縛られていなければ、恐らくとっても床上手であろうジョバンニと、素敵なセックスを楽しんだわよ、ってだけの話です。

最後にジョバンニが地獄に堕ちるのは、上演当時の世評への配慮だろうと私は思いますが、それを考えるとジョバンニの姿が、どこから発生したのかわからない横暴な規律なんていう物に縛られてがんじがらめにされている、人間の自由と尊厳の解放への警鐘であり、同じ様に魂の解放を叫んで最後は磔刑に処せられた、キリストにすら重なって感じられます。


この舞台を観て私は、このサイモンに強くインスパイアされ、生きる、という事への非常に強いコミットが、あっという間に生まれてしまいました。

私がさっき、一流という事の素晴らしさを書いたのは、それが理由です。
サイモンは、自分自身がジョバンニ同様に、地上で出来る事は全てやる、ってな勢いで、オペラの研鑽を積んで来たんじゃないでしょうか。
そしてそういう人物だからこそ、技術不足や力不足やらに足を引っ張られずに、自由に、最高に、全身全霊でジョバンニを演じる事が出来た、そしてだからこそ彼はジョバンニの魂に、深く触れたんだと思います。

こういう一流の人物の芸は、圧倒的に人に、生きる力をもたらしてくれます。
眠っていた自分の尊厳という存在に、燃える様に立ち戻らせてくれるのです。

感想会の後、冷たいシェイクを飲みながらみんなとの話に昇ったのは、何故ケア施設や子供やお年寄りを相手にする人たちが、彼らへの慰労に、安く雇えるアマチュアの芸人やミュージシャンを呼んでしまうのか、という事でした。

ケア施設で最近、上手なジョークの言えない無名の芸人のショーに呼ばれ、うんざりしているお年寄り達を目撃したばかりの友人からの言葉は、やり切れない程その現実のもたらす害を、伝えてくれました。

もしもケア施設に入っている皆さんが、過去に一流のオペラを観ていた人だったら、ケア施設の中でそういう研鑽されていない芸を見せられる事がもしかしたら、自分がどんなに落ちぶれてしまったかという実感に繋がってしまうという可能性は、無いでしょうか。
私はそれは、拷問だと思います。

あとどのくらい生きられるかわからない人こそ、最高の物を観るべきだ、ともうひとりの友人が言いましたが、私もそう思います。
また私はそばに、何もわからない未熟な時にこそ最高の体験をするべきだ、最高の材料で絵を描き、最高の料理を食べるのは、大人ではなく子供の仕事だ、と言ってくれる人が居た事に、心から感謝しています。
何故なら、早いうちに頂点を知る事で、自分の許容量の上限が、広がるからです。
その広がった領域から、様々な多様性を見て行けます。選択肢が広がるのです。
だから、お年寄りだけでなく子供達だって、最高の経験をするべきだと私は思います。

まだそんなに実力の伴っていないアーティストや芸人さんは、どちらかというとケアされる側であって、誰かをケアする為に芸を提供出来る側では無いと私は思います。
私は施設で希望を失ったり元気を失ったりしている人は、サイモンみたいな人の歌を聞くといいと思うのです。

世界最高峰の、真に自信を持って芸を披露出来る人たち、本当に自分の才能と人生を生き切っている人たちのもたらす一流の技は、それだけで、今まで発揮出来ていなかった自分のスタミナを呼び覚ます様な力が、本当にありますよ。