2015年10月10日土曜日

コロラドと私

コロラドに来ると、「私、何かいい事しましたっけ?」と思わず聞きたくなってしまうような、褒美のようなもてなしの数々にいつも圧倒される。

特定の誰かがしてくれるというのではない。
いや、誰か、と言うならば、寄ってたかってみんなが、と言うべきかもしれない。

でもどちらかと言えば、土地がそうしてくれてるんじゃないかと思う様な、森羅万象や自然現象や希有な偶然や動物まで巻き込んで、そ、そ、そ、そんなにしてくれなくっても、と思う様な、すっげえ出来事がいっぱい起こって、思わず天を仰いで聞きたくなってしまうわけです。
「オレ、なんかいいこと、した?」と。


私は、そんなどでかい褒美に値する様な、いい人間ではないことはわかっています。

だから日本では、それなりの人生を送っています。

日本では、「たいしていい人間じゃない自分」に当然あてがわれる様な、ぱっとしない人生を生きています。


しかーーーーーし!

対してコロラドは、私がいい人間じゃない事なんて、これっぽっちも気にしません。

怠け者で、やるべき事をやらなくて、思いやりが足りなくて、好き嫌いが激しくて、傲慢で、口が悪くて、我が儘でも、コロラドはいつも私に、最高の体験やご褒美や、なんとかして夢を叶えてあげよう、というようなお助け心を用意して待っていてくれるのです。

コロラドは、私がどんな人間で、誰かがどんなに私を嫌ったり私に怒ったり私を悪く思っていたりしても、全く気にしません。
溢れる様な愛情をフル回転させて、私を思いっきり、もてなそうとしてくれるのです。


親みたいに。


そんな存在を、人は誰でも持っているべきだと私は思います。
どんな人にだって、この世に少なくともひとりは、全てを受け入れて、完全な愛情で抱きしめてくれる誰かが、いるべきだと私は思います。

だから私は、親が必ずしもそんな風な存在では無いという現実が世の中にあることについては、とても悲しく思います。
犯罪を侵した自分の子供について、その子供よりも世間を尊重してしまう姿に、時々落胆する事があります。

これは、盲目的な親バカのことではありません。

酷い事をして、世間や誰かに迷惑をかけて、責められて当然の事をして、そして実際に責められている自分の子供の姿と現実を、曇りや贔屓の無い目でしっかりと見ながら、だけれどもちゃんとその子に、出来る限りのごちそうと愛情をあげて、味方である、という態度を貫いてあげる人が、どんな人にもいて欲しいと、私は思います。


私はコロラドに来て、全面的に肯定されて、磐余の無いご褒美を沢山貰って、なんだか怖くなるような幸運に恵まれて、素晴らしい偶然を山ほど体験して、こんなろくでなしなのに、「そのままでいいんだよ。」と言われているような気分になって、やや当惑気味な感じに今はなり始めてはいるけれど、だけど私は、世の中の誰もがこんな風に、際限の無い愛情でもてなされ、褒められ、夢を叶えようとしてもらえる権利を持っているんだと、根拠の無い自信を持って今は感じます。

それが心に良い影響を及ぼすだとか、歪んだ心を癒すとか、そんな野暮な事ではなく、無条件に、完全に肯定してくれる存在が、誰にとってもあってしかるべきだと私は感じるのです。



コロラドという土地の私への過剰サービスの原因は、いつまで経ってもわからないままだけど、だけど本当に、本当の意味で心ごと帰れる場所でいつもいてくれるというのは、とてもありがたいことです。

今回は本当に顕著にそれを示してくれているから、私は今後もう少し、ちゃんとノルマをこなすマシな人間になろうと、謙虚に改心しているところです。

旅人のコートを、冷たい風の勢いで脱がせるんじゃなく、太陽で暖めて脱がせるお話みたいだなと、感じているのです。