2014年5月29日木曜日
ミリオネラの教え(笑
私のコミック・エッセイを読んだことのある方は、私がかつて分不相応にも、大金持ちのアメリカ社会に首を突っ込んでいたことがあることを、ご存知かもしれません。
私が最初に知ったアメリカ社会がそこだったもので、未だに私にとってはそこがスタンダードになってしまっているところがあり、時々無作法な発言で人様を驚かせることがあるようだなと、時々友人の反応を見て気付いたりもしています。
でもまあしょうがないんですよ。それが私の、自然なのですから。
友人も殆どは、私のそういう部分を、笑って酒の肴にしてくれますしね。
ステレオ・タイプな世界観の中には、お金で幸せは買えないとか、余分なお金があってもしょうがないとかいう事を、判で押した様に言う方もおり、私もある意味それは真理かもとも思うのですが、そう言い切っているのが、かつて一度も億万長者の体験をした事の無い人なのだとしたら、私はちょっとそれはどうかな、とも思うのです。
体験していない体験を否定する、というのは愚かな行為だと私は思うし、まあめんどくさくてそう決めている程度の事なのかもしれませが、素直に「そうですねえ」とは言えないわけなのでございます。
過日アメリカの、いわゆるセレブというクラスにいる人の為のコーディネーターの仕事をしている女性を知っていました。彼女自身も相当なお金持ちでしたが、彼女の顧客は皆、言わば東京ドームみたいな敷地面積の豪邸に住んでいるような人たちばかりで、そういう人たちは有り余るお金で何をしているかというと、殆どは、チャリティーと趣味につぎ込んでいるわけなのです。
まあ、チャリティーの部分は感嘆を覚える様な美しい逸話もかなりあるのですが今日はその話はさておいて、趣味、となるとですね、彼らは、お金があるので、妥協をする必要が、無いんですね。
そういった人たちのお金を湯水の様に使って、インテリアや衣服やアクセサリーやパーティーの企画なんかをコーディネートするわけですから、コーディネーターも、妥協をする、ということを、知らないのです。だからとても、辛辣だったりします。
この辛辣さは、人によっては不快と感じるかもしれませんが、私にとっては大変気持ちのよいもので、そして色んな意味で目から鱗なことを、沢山体験させてもらいました。
私は昔、フランスのアカデミズムな絵画教育をたっぷりと受けました。
その時先生が生徒に言ったのは、どんなにお金が無くても、まずは一流の道具を使いなさい、ということでした。何故なら、まず一流の道具から始めることで、その後一流ではない道具を使った時に、違いがわかるからなのだと。
若かった私は、いやいや先生、弘法筆を択ばずですよ、なんていう子供染みた反発を感じたものですが、その後がんばって一流の絵の具やオイルや筆やキャンバスを使い続けたことで私のからだに染み込んだ、本当にいい物ってこうなんだ、という手応えの感覚は大変価値があり、多分あの多感な若い時期にあれを体験したことでしか培われなかったであろう特有の識別力が、ちゃんと今役に立っているのは、すごいことだと思っています。
私にはどうも、教師運というのがあるみたい。
人生を通じて大変良い教師たちに恵まれているのです。
ま、それはそれとしてですね。
無限のお金を趣味に費やせるので妥協をする必要が全く無いそのコーディネーターの、物を判断する時の辛辣さがですね、私にいつもその絵の道具の体験を、思い起こさせるのです。
そして、そんなにお金持ちでは無い自分の人生が私に、無意識での妥協を強いていることにも、気付かせてもらいました。
私は結構好みにうるさい性格で、こうとなったら執念で思い通りの物を探し求めるし、好みでない物を身近に置いておくのが、耐えられないような人間です。
しかしたとえそうであっても、例えば1億円のカウチは元々買えないと自分でわかっているわけですから、そこの所は選択肢に、はなから入れないわけですよ。
しかしそこがおかしいんだ、ということに、彼女は私にがんがん気付かせてくれたわけなんです。
別に無理して買う必要は無いんですが、1億円のカウチをはなから念頭に入れないでまっすぐに、例えばIKEAなんかに行くことによって、だんだん私の感性がIKEA寄りになってきてしまうのだ、ということに、彼女は気付かせてくれたんですね。
私はIKEAあたりの品は、プリントもの以外はさほど嫌いではないし、今現在の家を終の住処とする気持ちも無いので、そういう意味でああいった、安くて分解出来て、つまり捨てやすくて適当に趣味も良くて、というよりはあんまり主張の無いファスト・ファニチャーが(ニトリには主張があると思うのです、いわゆる、"私は庶民です"、というタイプの)、今現在の生活には適合しているし邪魔にならないかもと感じているので、IKEAを引き合いに出したのは単なる例としてなんですけれど、とにかく彼女の辛辣さに目が覚めた、という経験を、何度かしたわけなのです。
例えば、友人の家のリフォームの相談に彼女が乗っていた時。
その友人もまた大豪邸に住んでいて、その中の一室だってあなた、私が今住んでる部屋の10倍くらいは軽くあって、有名な建築家の建てたいわゆるデザイナーズ物件ですから、もう十二分に、かっこいいわけなんです。ただ、倉庫にしようと思っていたということで、他の部屋に比べればまあ質素な印象でした。
私はその部屋を見た時、特に何も思いませんでした。
そんなにラグジュアリーじゃないクラスのホテルの一室みたいだなー、程度には思ったかもしれませんが、まあ私が住めるなら十分ありがたいなあ、なんて思っていたかもしれません。
しかーし!
コーディネーターの彼女は、部屋を見るなり卒倒しそうなほどの呆れ顔を見せ、その場に座り込んでしまったのです。
ありえない。こんな一室がこの豪邸にあるってだけで、全体の質が落ちるのよ。
てなもんですよ。
その後彼女が、歯に衣着せぬ辛辣な言葉で延々と言い続けたその部屋の悪口三昧を聞いた時私は、その感想は確かに私の中にもあった、しかし何故か私はそれを感じる事をはなから放棄してしまい、まあいいんじゃない?的な気の抜けた感想しか、その部屋に対して持たなかった、という事に、怒濤の様に気付いたというわけなのです。
これは、結構危険なことなんですよ奥さん!
311があった時に多くの日本人が覚醒した、と私は感じたのですが、それまでは確かにあった思考停止状態、つまり、政治やらなんやらが庶民の力の及ばない領域で下す矛盾に満ちた決断を疑問に感じても、政治家の言う、大丈夫です、安全です、ただちに健康に影響はありません、を徐々に鵜呑みにしてゆく時の、心の中のどこかにある、「何を言ってもどうせ変わらないんだから、まあそれを信じておけばいいさ。」的思考停止状態と、これは同じ事だと思うんです。
私はその後も何度かその彼女が、グレードの落ちる物に対して放つ辛辣であからさまで強烈な批判を繰り返し聞くうちに、どんどん清々しい気分になっていってですね、すぐに私もその感覚を取り戻す事が出来、彼女とは本当に気持ちの合う、良い関係を続けることが出来るようになったのです。気持ち良く思いっきり批判を口にし合えるような笑。
彼女は、虚栄心や成金趣味でそういうことをやっているわけではないんですね。
金額に糸目をつけずにとことん良い物を選ぶ、ということが可能な環境にいて、自分のクライアントが、本当に質の良い生活を送れる様に、誠心誠意仕事をしているだけなのです。
だからもちろん、小物そのものでも、単に高額ならばよい、という選び方はしません。
しかしながら、例えばトルコの写真集でちらっと目にした露天商人の売っている手製の置物がいいとなれば、すぐに飛行機でトルコに飛んで、莫大な額で人を雇ってその小物を探させる、というような仕事をしているわけなのです。
私だったら多分、似た様な物で妥協するか似た様な物を自分で作るかしてお茶を濁すところを(まあ、それはそれで楽しいと思うけれど) 彼女にはお金があるが故に、とことん最初の直感を実現しようと、がんばるわけなのです。
例えば1億円の、本当に素敵なカウチがあったとして、とりあえずそれは今は、あるいは一生買えないにしても、私が本当に欲しいのはこれなんだよ、と感じる心は、決して失ってはいけないのだと、彼女が教えてくれたのです。
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