温帯低気圧で大雨の中、ニヒル牛2へ行ってお針子バンビに頼んであったブラウスを引き取った。
バンビのブラウスには私が独特の彩色を施し、5/22から始まるニヒル牛2での私の展示会に出品する予定だ。
この展示会についてはまた改めてお知らせ致しますが、準備期間にとっておいた日々にエマージェンシーが重なり、正味10日間くらいしか無くなってしまった制作日程の中で細々と作業を進めているという悲しい現実があるので、あんまり大々的に宣伝していないアタクシ。泣いてもいいですか。
ところで。
今ニヒル牛2では旅本展をやっていて、様々な方々が手作りの旅本を展示している。あんまり時間が無かったからじっくり見れなかったけど、鷹の目を持つと言われているわたくしが一瞬にして発見したのが、大好きなビーズ作家ココマコムーンの書いた手記"地球無期限の旅"である。
以前これの前編を読んで大変気に入っていたので、後編を発見できてとても嬉しかったから、400円出してすぐに買いました。
この本は、理不尽な大家さんや不動産屋さんに翻弄されて怒れる獅子となったココマコムーンが、法律などを盾にひとり戦う様を描いた小気味の良い手記である。
歯に衣着せない文体がカタルシスをもたらしてくれるので、ニヒル牛2へ行って是非買ってみてください。
この手記を読んでしみじみと感じたのは、アーティストを甘く見てはいけないよ、ということである。
実は私もしばらくの間、理不尽な人のもたらすいくつかの理不尽な出来事の渦中にあって静かな戦いを繰り広げていたのだが、その理不尽の中で幾度と無くちらほらと聞こえて来たのが、私がアーティストであるため浮世離れしていて、実社会的云々に関して地に足のついた解決能力が無いから心配だ、という、実社会に精通していると自負している社会人たちからの声だった。
その人たちからしてみると私はどうにも頼り無く、誰かが何とかしないとダメだ、と思っちゃうようなのである。
しかし冷静に物事を良く見てみれば、常に行動し実現し解決しこなしているのは私の方であり、その人達は私の作り上げた土台に対して後から色々言うだけであり、ゼロから物を創ったところを見た事が無いので、何を根拠に自分たちの方が地に足が着いていると信じているのかがわからない、という不思議さがある。
どんな物でもそうだが、ゼロから創る、という事と、既にある物にアレンジや校正を加える事との間には、次元をいくつも超える大きな差があるのだ。
批評家がどんなに頭のいい批評を述べた所で、それは既にあるものについてあれこれ言っているだけなのであり、それはいわば人のふんどしで相撲を取っている状態なのである。
人は誰でも脳内イメージの世界でならどんなに壮大で素晴らしい物でも創れるので、実際に手を施していなくてもやれば出来ちゃうような気になって、人の作品に対して平気でクリティカルになれちゃったりすることがある。時にそこを完全に錯覚して、脳内で出来ちゃう自分を三次元でも出来ちゃう自分だと思い込んで、物理的に行動している人に対してあれこれ偉そうに言っちゃう人もいるのである。
これは愚かな事ですね。
というような、頭に来る程でも無いけれどうっとうしい、という経験がしばし続いていたのだが最近私はそれらの全てに勝利してせいせいしていたところだった。そしてココマコムーンの手記を読んだ。
それで改めて思ったんだけど。
アーティストっていうのは、いわば日常的に無から有を生み出している人種なんですよ。
作品を創る時、そこに法律や常識や社会通念が介在する事は無いので、完全に自由な状況の中で、無限の海を泳いでいるわけ。
ココマコムーンの手記を読むと、彼女が理不尽な大家と対峙する時、そこにあるのは完全に、無から有を生み出す、アーティストの創造性だな、とよーくわかります。
その、無限の可能性の中で無から有を生み出すことを日常の当たり前としている人とさ、色んな常識や社会通念にがんじがらめになっている、自称オトナな社会人が勝負したら、どっちが勝つと思う?
ココマコムーンの手記に勇気をもらって、私は今こそ、高らかにこう言いたいわけよ。
数年前、絶対に無理だありえない、と、プロの司法書士の人でも目を疑った、初めての申請で5年のEクラスビザの取得という奇跡を成し遂げたのは、私なんだよ。
これは私が日常的に、無限の海の中から有を生み出す作業をしているからさ、”常識的に無理”、なんていう概念に、何の意味も無いということを、身を以て知っているから出来た事なんだよ。
社会常識や人情を知り尽くしていて、その理の中で生きている人には、その理の中にある現実しか、生み出せないんじゃないのかい?
浮世離れしているからこそ出来る事は大きい。
私はこれからも常にゼロ地点から、自分で自由に現実を創り上げて、オリジナルに生きてゆくよ。頼りないと言われてもな。