2017年4月20日木曜日

背後の快

今朝のABCニュースで、牧場に迷い込んだ一匹のビーバーに興味を惹かれた150頭の牛達が、ぞろぞろとビーバーについてゆく映像をやっていました。

以前にも私は、玩具だかボールだかを追う牛の群れの映像を観た事があり、牛という動物の個性みたいな物を感じてとても嬉しくなりました。

牛には大変お世話になっています。
私はベジタリアンじゃないし乳製品が好きだから、特に。
親しみのある、と思っていたこの動物の意外な一面を知り、食べ物以外の牛を実はまるで知らなかった事に改めて気付かされたりもしました。

このニュースを楽しく観た後に私はふと、なんでこんなに心が嬉しい感じがするのか、という点に意識が行き、ああ私の心は、牛の個性を観る事が出来るこういう生育環境、つまり、牛が牛らしく生きられている環境で牛が飼育されている事と、牛が牛らしさを失っていないという事に、喜んでいるんだ、という事に気付きました。

これは、映像を観て愉快だな、と感じる表層の反応の、背後にある感覚です。
私の心は、ユーモラスな牛の様子を楽しむ奥で、もっと普遍的な感覚から生物学的な"快"を感じ、このニュースに心地の良さを感じたのです。


人間は結構この、表層の感覚の背後にあるより深い普遍的なセンスに左右される物なんだなと思いました。

表現の表面がなんであれ関係無い、という部分がこれにはあります。
美しい森の映像であれ醜悪なゴミの写真であれ、その表現の深部の背後にある意図や動機や真実に、人間の快不快の感性は動かされるのです。

そういう事を実感させられる出来事に最近よく遭遇もしています。
例えば日常的には、優しい、親しみのある言葉を話す人の背後に、真逆の動機がある事に気付いている人と、そのストレスについて話し合う機会がやけに増えているし笑。

生物学的普遍的感覚に完全に鈍感な選択や感想を目にする事も多い世の中で、最近、行動の背後にある動機に反応して、快不快を直感的に感じ取っている人に会う事が多くなっているのは、とても頼もしい恵まれた事だと感じています。

この普遍的な感覚がOKと言う事で、ある物が長く安定した揺るぎないマイブーム等へと繋がってゆく事もあるのかもしれません。


ただ、個人の人生や生活が常に危機感に脅かされていると、この普遍的な生物学的感覚とは切り離されてしまうと私は思います。

疲弊した肝臓が活動を活発化するために毒や刺激物を求めてやがて破壊される様に、心にもそれが起こるように思えるのです。
私の経験上、強烈な危機に見舞われた人は逆に普遍性に回帰する事が多いのですが、問題なのは、弛緩し習慣化した、誤摩化せる程度と感じられる心の危機感です。


生物学的普遍的感性に響かないような物が一時的に人気を博したり好ましいと受け取られる事って、実は人間の心や世の中の危機の象徴的現象なのかもしれません。


これは勿論さっき書いた様に、何がそこに描かれているのか、という事には関係ありません。
モチーフは、関係無いのです。

よくない動機を持つ人が、自分の言語や行動の表現を妙に優しく親しみやすくして、ステレオタイプの善人を装う事がよくあるのとおんなじで。