2014年5月31日土曜日

天才画家の教え(笑


先日、今アメリカで話題になっている天才少女画家のインタビューを観ました。

彼女は物心ついた時から絵を描き始め、全くトレーニングを受けていないにも関わらず、幼少期からレンブラントやドラクロア並のデッサン力を持ち、かなり高度な写実画を描きます。

分類すればラファエル前派的な、綿密な写実+幻想的な味付け、っていう感じの画風で、好き嫌いは分かれるとは思うものの、画力がすごい、ということだけは決定的に確かな作風です。

彼女は対象をスケッチするのではなく、全く何も見ないで、ただ自分の中にあるイメージをキャンバスに写すだけなのですが、特に人物画のリアリティに関しては、瞳の中の光に至るまで真に迫るようなリアリティで、ただ感嘆してしまいます。

この写真はネット上で勝手に持ってきちゃったんですぐに削除しなきゃならないかもですが、彼女が12才の時に描いた"宇宙の仕組み"だかなんだかの世界で、実際の宇宙物理学者が、何故これを知ってるんだ、と驚いたくらい、正確に描写しているんだそうです。

彼女は絵の才能があるばかりでなく大変高潔な価値観を持ち、まだほんの子供なのにも関わらず、素晴らしいことを沢山しゃべります。既に高額な値段のついている自分の絵画の売り上げは、殆ど困窮している世界の子供達の為に使い、なんでかっていうと、その為に描いているから、としゃらっと語ったりします。
時代が時代ならセイントという類として、ヴァチカンが認定してもいいくらいです。もしかしたら、今後そういうこともあるかもしれません。

こんないい大人の私でさえ彼女のドキュメンタリーを観て、様々なレベルでリラックスすることが出来ました。なんでかって言うと彼女がすごく自由で、その自由さが、私の自由さを完全肯定してくれたからです。

画力という点では感嘆に値するに申し分無く文句のつけようも無いのですが、私が最も感心したのは、実は彼女の両親の態度でした。

インタビューではまだ年若い彼女の両親も登場するのですが、彼女がごく幼少の頃から、4日間くらいは全く物を食べないということが、頻繁にあった、というのです。

それをこの両親は、そのままにしておくことを、許していたのです。

4日間くらい何も食べず、それから時々果物や野菜を少量食べ、それだけで彼女は健康な少女に成長しているわけですが、それを彼女に許していた両親がすげえ!!と私は思ったのです。

彼女は今でも殆ど物を食べず、食べても野菜と果物だけ。動物性の物は一切口にしないと言いますが、彼女の両親は、インタビューでも言っていますが、ごくごく普通の、大変平凡なふつう〜の人間なのだそうです。
彼女は、天国や天使の絵等も多く描くのですが、そういったキリスト教的世界観の話を彼女にしたことも、一切無い、と言います。

つまりこの両親は、特に宗教や精神世界に心酔するようなタイプではない、ごく一般的な、お肉にもジャンクなスナックにも抵抗を示さない、普通の健康的な、平均的アメリカ人だ、ということです。

今では娘の影響を受けてベジタリアンとなったり彼女のチャリティーに協力したりと、色々と清々しいサポートをしているのですが、彼女がまだ幼少の時、つまりまだ野の物とも山の物ともつかない時代から、彼女の特異性に気付きそれをずっと尊重していたなんて、本当に素晴らしいなと思います。

物を食べない、という感覚が、私にもよくわかるのです。

私も物を食べない子供だったからです。

しかし私の親は、ごく一般的な親同様、食べない子供を心配し心を痛めるタイプでしたから、私はある時から、親に心配をかけまいとして食べ始めたのです。
今では食べる事をすっごく楽しんでいるのでまあそれはいいんですが、私が彼女のインタビューを観て真っ先に思い出したのは、そのことでした。

私は今行っているアメリカの学校で、後天的な脳への刷り込みが如何に人間の、生来の自由さや能力を奪っているか、という勉強を沢山しているので、この少女の両親が、彼女の「食べない」を尊重した結果に、改めて感嘆してしまったのです。

様々な思い込みさえ無ければ、もしかしたら人間て、今とは全く違う生き物なのかも。
と改めて感じさせてくれるインタビューで、とても面白かったです。

人間社会には、後天的に作られた掟が、多数存在します。

例えばある宗教は同性愛を認めていませんが、それって、何が根拠になっているのか。

同性愛を指示する友人が、「同性愛を許すと出生率が減って人類が滅亡するじゃないか」的抵抗を受けて、それってまるで、鳥にウサギを見せるとウサギになっちゃうから大変、みたいな突拍子もない発想だよね、と語っていましたが、このようにある種の人間が、同じ種の中における単なる違いを、そんなパラノイドな脅威として受け取ってしまう傾向があることにも、実際驚かされます。

このような、既に限界意識を後天的に刷り込まれた人間による、限界意識に満ちた価値観によって"異端"とみなされた存在が実は、より自然な生命体としての人間なのかもしれないという可能性だってあると思うのです。

私は、学校でそういう事を勉強しているからと言って、人類全体が後天的な刷り込みなるものから自由になればいいのに、とか思っているわけではありません。

ただ、人間が、人間の多様性に、もっと自然に心を開けばいいのに、とは思います。

まあ、多様性に心を開いている人間は、他の人の価値観なんてあまり気にならないのでいいんですが、ただこの少女みたいな自由を、誰もがすんなりと赤ん坊の頃から手に出来るわけではない、という点が、ちょっとひっかかるんですよね。

自分の経験上、子供という物は親が思う以上に早熟で、親を思いやるあまり自分を曲げるっていうことを、結構してしまうものだからです。

2014年5月29日木曜日

ミリオネラの教え(笑


私のコミック・エッセイを読んだことのある方は、私がかつて分不相応にも、大金持ちのアメリカ社会に首を突っ込んでいたことがあることを、ご存知かもしれません。

私が最初に知ったアメリカ社会がそこだったもので、未だに私にとってはそこがスタンダードになってしまっているところがあり、時々無作法な発言で人様を驚かせることがあるようだなと、時々友人の反応を見て気付いたりもしています。
でもまあしょうがないんですよ。それが私の、自然なのですから。
友人も殆どは、私のそういう部分を、笑って酒の肴にしてくれますしね。


ステレオ・タイプな世界観の中には、お金で幸せは買えないとか、余分なお金があってもしょうがないとかいう事を、判で押した様に言う方もおり、私もある意味それは真理かもとも思うのですが、そう言い切っているのが、かつて一度も億万長者の体験をした事の無い人なのだとしたら、私はちょっとそれはどうかな、とも思うのです。

体験していない体験を否定する、というのは愚かな行為だと私は思うし、まあめんどくさくてそう決めている程度の事なのかもしれませが、素直に「そうですねえ」とは言えないわけなのでございます。


過日アメリカの、いわゆるセレブというクラスにいる人の為のコーディネーターの仕事をしている女性を知っていました。彼女自身も相当なお金持ちでしたが、彼女の顧客は皆、言わば東京ドームみたいな敷地面積の豪邸に住んでいるような人たちばかりで、そういう人たちは有り余るお金で何をしているかというと、殆どは、チャリティーと趣味につぎ込んでいるわけなのです。

まあ、チャリティーの部分は感嘆を覚える様な美しい逸話もかなりあるのですが今日はその話はさておいて、趣味、となるとですね、彼らは、お金があるので、妥協をする必要が、無いんですね。

そういった人たちのお金を湯水の様に使って、インテリアや衣服やアクセサリーやパーティーの企画なんかをコーディネートするわけですから、コーディネーターも、妥協をする、ということを、知らないのです。だからとても、辛辣だったりします。

この辛辣さは、人によっては不快と感じるかもしれませんが、私にとっては大変気持ちのよいもので、そして色んな意味で目から鱗なことを、沢山体験させてもらいました。


私は昔、フランスのアカデミズムな絵画教育をたっぷりと受けました。
その時先生が生徒に言ったのは、どんなにお金が無くても、まずは一流の道具を使いなさい、ということでした。何故なら、まず一流の道具から始めることで、その後一流ではない道具を使った時に、違いがわかるからなのだと。

若かった私は、いやいや先生、弘法筆を択ばずですよ、なんていう子供染みた反発を感じたものですが、その後がんばって一流の絵の具やオイルや筆やキャンバスを使い続けたことで私のからだに染み込んだ、本当にいい物ってこうなんだ、という手応えの感覚は大変価値があり、多分あの多感な若い時期にあれを体験したことでしか培われなかったであろう特有の識別力が、ちゃんと今役に立っているのは、すごいことだと思っています。

私にはどうも、教師運というのがあるみたい。
人生を通じて大変良い教師たちに恵まれているのです。

ま、それはそれとしてですね。


無限のお金を趣味に費やせるので妥協をする必要が全く無いそのコーディネーターの、物を判断する時の辛辣さがですね、私にいつもその絵の道具の体験を、思い起こさせるのです。

そして、そんなにお金持ちでは無い自分の人生が私に、無意識での妥協を強いていることにも、気付かせてもらいました。

私は結構好みにうるさい性格で、こうとなったら執念で思い通りの物を探し求めるし、好みでない物を身近に置いておくのが、耐えられないような人間です。

しかしたとえそうであっても、例えば1億円のカウチは元々買えないと自分でわかっているわけですから、そこの所は選択肢に、はなから入れないわけですよ。
しかしそこがおかしいんだ、ということに、彼女は私にがんがん気付かせてくれたわけなんです。

別に無理して買う必要は無いんですが、1億円のカウチをはなから念頭に入れないでまっすぐに、例えばIKEAなんかに行くことによって、だんだん私の感性がIKEA寄りになってきてしまうのだ、ということに、彼女は気付かせてくれたんですね。

私はIKEAあたりの品は、プリントもの以外はさほど嫌いではないし、今現在の家を終の住処とする気持ちも無いので、そういう意味でああいった、安くて分解出来て、つまり捨てやすくて適当に趣味も良くて、というよりはあんまり主張の無いファスト・ファニチャーが(ニトリには主張があると思うのです、いわゆる、"私は庶民です"、というタイプの)、今現在の生活には適合しているし邪魔にならないかもと感じているので、IKEAを引き合いに出したのは単なる例としてなんですけれど、とにかく彼女の辛辣さに目が覚めた、という経験を、何度かしたわけなのです。

例えば、友人の家のリフォームの相談に彼女が乗っていた時。

その友人もまた大豪邸に住んでいて、その中の一室だってあなた、私が今住んでる部屋の10倍くらいは軽くあって、有名な建築家の建てたいわゆるデザイナーズ物件ですから、もう十二分に、かっこいいわけなんです。ただ、倉庫にしようと思っていたということで、他の部屋に比べればまあ質素な印象でした。

私はその部屋を見た時、特に何も思いませんでした。

そんなにラグジュアリーじゃないクラスのホテルの一室みたいだなー、程度には思ったかもしれませんが、まあ私が住めるなら十分ありがたいなあ、なんて思っていたかもしれません。

しかーし!

コーディネーターの彼女は、部屋を見るなり卒倒しそうなほどの呆れ顔を見せ、その場に座り込んでしまったのです。

ありえない。こんな一室がこの豪邸にあるってだけで、全体の質が落ちるのよ。
てなもんですよ。

その後彼女が、歯に衣着せぬ辛辣な言葉で延々と言い続けたその部屋の悪口三昧を聞いた時私は、その感想は確かに私の中にもあった、しかし何故か私はそれを感じる事をはなから放棄してしまい、まあいいんじゃない?的な気の抜けた感想しか、その部屋に対して持たなかった、という事に、怒濤の様に気付いたというわけなのです。

これは、結構危険なことなんですよ奥さん!

311があった時に多くの日本人が覚醒した、と私は感じたのですが、それまでは確かにあった思考停止状態、つまり、政治やらなんやらが庶民の力の及ばない領域で下す矛盾に満ちた決断を疑問に感じても、政治家の言う、大丈夫です、安全です、ただちに健康に影響はありません、を徐々に鵜呑みにしてゆく時の、心の中のどこかにある、「何を言ってもどうせ変わらないんだから、まあそれを信じておけばいいさ。」的思考停止状態と、これは同じ事だと思うんです。


私はその後も何度かその彼女が、グレードの落ちる物に対して放つ辛辣であからさまで強烈な批判を繰り返し聞くうちに、どんどん清々しい気分になっていってですね、すぐに私もその感覚を取り戻す事が出来、彼女とは本当に気持ちの合う、良い関係を続けることが出来るようになったのです。気持ち良く思いっきり批判を口にし合えるような笑。

彼女は、虚栄心や成金趣味でそういうことをやっているわけではないんですね。

金額に糸目をつけずにとことん良い物を選ぶ、ということが可能な環境にいて、自分のクライアントが、本当に質の良い生活を送れる様に、誠心誠意仕事をしているだけなのです。

だからもちろん、小物そのものでも、単に高額ならばよい、という選び方はしません。
しかしながら、例えばトルコの写真集でちらっと目にした露天商人の売っている手製の置物がいいとなれば、すぐに飛行機でトルコに飛んで、莫大な額で人を雇ってその小物を探させる、というような仕事をしているわけなのです。

私だったら多分、似た様な物で妥協するか似た様な物を自分で作るかしてお茶を濁すところを(まあ、それはそれで楽しいと思うけれど) 彼女にはお金があるが故に、とことん最初の直感を実現しようと、がんばるわけなのです。

例えば1億円の、本当に素敵なカウチがあったとして、とりあえずそれは今は、あるいは一生買えないにしても、私が本当に欲しいのはこれなんだよ、と感じる心は、決して失ってはいけないのだと、彼女が教えてくれたのです。

2014年5月27日火曜日

炭素循環農法で育てたハーブのブーケ


アメリカの、例えばWHOLE FOOODSみたいなオーガニックのスーパーマーケットなんかではよく見かけるハーブやエディブル・フラワーのブーケですが、日本の花屋の店頭ではめったに見かけないなあ、と常々思っていました。

でも先日、大林千茱萸さんからお食事会のご招待を受けた時、どうしてもそんな花束を持っていきたいのよ、と思ったのです、何故ならば、パスカルズで出演させていただいた大林宣彦監督の映画"野のなななのか"
の撮影中、ロケが終わって芦別を去る俳優さん達が、芦別の街の方から現地に咲く野の花のブーケをもらっているのを、度々目にしたからです。

前のブログにも書いたのですが、撮影中に滞在していたホテルには映画関係者が限りなくまったり出来る飲み部屋が用意されていて、そこは、置いてある大きな冷蔵庫の中の物が食べ放題飲み放題という夢の様な場所だったのですが、その部屋をまさに桃源郷っぽくしていたのも、やはり街の方が飾ってくださる、野の植物、ミントやハーブなんかを含む草花の寄せ植えやブーケだったのです。

なんだかあれ以来、ブーケと言えばハーブやエディブル・フラワーを使ったブーケの一挙両得感、つまり飾れるし使える、花より団子ならぬ、花も団子も手に入る一石二鳥な優秀さぶりに取り憑かれまくってしまっていたわけです。

大輪の薔薇も大好きですけれど、野の草花の楚々とした風情もまた、とても清々しくてよいものです。
まるで野原が部屋の中にすかっと現れたような、大林監督のCGの様なことが起こる感じなわけです、ハーブな野花を部屋に飾ると。香りも素晴らしいしね。

そんなわけで、どうしても大林家にハーブのブーケを持っていきたかった私はあちこち調べまくり、遂に、炭素循環農法という方法で、農薬も肥料も使わずにハーブを育てておられる農園を見つけたのです。

お食事会にお誘いいただいたのが木曜日、農園を発見したのが金曜日、お食事会は日曜日、というわけで日程もぎりぎりだったのですが、お電話したら遥々四国からクール宅急便で送ってくださると言っていただいたのですぐに注文。花束が届いたのが土曜日の夕方、というわけで一晩冷蔵庫で寝かせ、新鮮で元気な内にハーブを持参することが出来たというわけです。

そしてそれ以来私は、更にこの花束の虜になり、これから毎月取り寄せよう、そして、飾ったり食べたり飲んだりしようと、決めたわけなのです。

お食事会も楽しかったけれど、おかげ様でずっと欲しかった物を提供してくれる場所が見つかり、なんだか私は大変幸福な気分なわけなのでございます。


100倍ごはん

 

25日に、 大林千茱萸さんのお家でごはん会がありました。


大林千茱萸さんは大林宣彦監督の娘さんで、映画感想家で、そしてなんといっても会員3千人を誇るホットサンド・クラブの会長さんであり、ホットサンド・レシピ100の著者であります。
そして更に言えば、有機農業を描いた映画、 "100年ごはん"の監督さんであり、同時にすんばらしい、シェフなのですよ!!
そんな千茱萸さんが、私の為に手料理を作ってくださるって言うんだから、お邪魔しない手はありません。ま、正確に言えば、私の為ではなく、私を含めた10名のゲストの為に、腕を奮ってくださったんですけどね!
そして更に詳細を語れば、このごはん会はテレビ番組の収録であり、10名のゲストの中には、大林宣彦監督や女優の常磐貴子さんなどの大物がいらっしゃり、その番組の収録クルーの方々も入っておりますので、ここでずいぶん、「私の為」度は薄くなるわけですが、私は勝手に私の為だと思って、思いっきり楽しませていただいたんでございますからいいんです。いやー、素晴らしかった!!
お料理の写真を沢山撮ったんですが、何と言ってもテレビ番組的ご都合もあるのでしょうから、まだ掲載できるかわからず、ですので今日のところは楽しかったご報告だけ書かせていただきますけどね。

同じ料理は二度と作らねえ、と豪語する千茱萸さんの手料理はまさに一期一会のライブ感満載。そして本当に美味しいーーーーーーー!!!!!

しかも食べた後、本当に本当に、元気百倍になるのです。なんというか、エネルギーがすっと身体に通って、背筋がシャン!気力がバリ!!って感じです。
このマジックは、厳選された素晴らしい食材、ということもあるのでしょうが、食材の命への愛と敬意に満ちた、まるで祈りの様な千茱萸さんの、お料理の仕方にあるのではないかと思うのです。
本来お料理って、そういうものですよね。
命を捧げてくれた物への感謝と、その命を更に他の物の命を繋げる姿へと、愛情のこもった手の平で変容させる。
それはまるで錬金術とも言える、マジックなのです。
テーブルいっぱいに、まるで百花繚乱、という風情で広がった美しいお料理の数々は、まるでシェフによって新しい生命を得たかのように、キラキラ輝いていました。
この日の模様は近日中にテレビ放映されるということですので、是非是非、ご覧になってくださいね。番組の情報がわかり次第、こちらでもお知らせします。
そして続きはまた改めて、お料理の写真が解禁となりましたら、ここで書かせていただきます。








←美味しい物三昧だった4月のパスカルズ関西ツアーによって三倍の大きさになったと噂の私と、いつも同じ大きさの素敵な大林監督。


2014年5月24日土曜日

RIP、スティーブ


知人の突然の訃報に、共通の友人らと共に驚きと悲しみのコメント合戦の最中である。

彼はとてもきれいな歌を作るギタリストで、Today's Showというアメリカの有名なテレビ・ショーに出た事もあるし、最近また大きなステージで、演奏活動を始めたばかりだった。

最近までかなり元気で活発に活動していたんだけれど、ずっと患っていた病の悪化で、昨夜遅くに亡くなったらしい。

最近メールで彼のショーの楽屋に遊びにおいで、と誘ってくれたばかりで、その返事も出さないままだった。


彼の訃報とは直接関係無いのだけれど、数年前に飛行機のシートが隣同士だったことで、親しくなった人物がいる。その人の名前はピーターと言って、コミックスやアニメーション専門のジャーナリストだと自己紹介し、なんと私は日本で漫画やってるんですよ、とか言うことで、たった45分間程のフライトのアメリカ国内線の中で、急速に親しくなってしまったのである。

年齢は、かなり離れていると思う。ピーターは白髪に真っ白いあご髭をたたえたサンタクロースみたいな感じの素敵なロマンスグレイだ。

いつものことながら私は、飛行機に乗ると隣席の人とのコミュニケーションは極力しないようにと全エネルギーを使って抵抗するので(笑)、最初の数十分間は白々しい空気が流れていたはずであるが、一旦会話が始まってしまうとなんとも言えない親しみを感じ、まるで旧知の知り合いのようになってしまったのである。不思議な出会いだった。

彼が飛行機を降りる時に名刺をくれたから、私は日本に帰国してからFacebookで彼を見つけて、それ以来中々に親しい交流を続けているのである。


ところで、ピーターとFacebookで繋がってしばらくして、互いに共通の友人がいることがわかった。驚きながらもそれについて多くはお互いに語らず、お互いがその人物とどの程度親しいのかなども、触れないままで今まで来た。

何故ならその共通の知人は既に他界しており、おまけにかなりの有名人であることと、ちょっとした複雑な事情もあって、なんとなく互いにその話題に触れる事にナーヴァスになっているような感じもあり、共に踏み込まないで今日まで来たのである。

そして今回のスティーブの訃報を受け、なんとそのジャーナリストのピーターが、スティーブについての長い思い出コメントを寄せているのをさっき見たのだ。な、なんと彼は、私よりもずっとずっとスティーブと親しい間柄なのだった。

そしてその他界した人物とスティーブが親しかったので、ピーターの思い出話はその、既に他界した共通の友人との思い出話にまで及んでおり、期せずしてピーターの立ち位置が、私には今回はっきり見えたのであった。


なんとも不思議な縁。

というか、こういう縁が、この、私のアメリカの友人/人間関係には、いつも満ちているのだ。


よくソウルメイトっていうじゃない?

もし私にソウルメイトやソウルファミリーがいるとしたら、多分この、本当に長い長い時間、言ってしまえば、私が10才くらいの時から脈々と続いていると言ってもいい、この不可思議なアメリカの、人生の先輩達との交流がそうなのかもしれない。と改めて思う。

もしかしたら前世かなにかで、同じトライブにいた家族か何かだったのかもしれない。

今は学校を優先しているので、アメリカにいても中々彼らに会う時間がとれないのだけれど、私が今なんとなく感じるのは、今年学校を卒業したら、私はもしかしたら真っ先に、彼らの元へと、帰ってゆくのではないだろうか。

いつでもどんな時でも、静かに私の傍らに寄り添ってきてくれたこの不思議で優しい関係が、これからもっとより明確で確かな物になる、そんな気がするのである。

RIP、スティーブ。

生まれ変わっても、またどこかで会うんじゃないかな。

そんな気が、とてもするのである。

2014年5月18日日曜日

恋心


相手がしんだら亡骸を食べてしまうかも、というくらい愛している男性と結婚生活を送る女性と話をする機会がありました。

なんと幸福なことでしょう。

たまにこういう、"本当の相手"、みたいな人に出会って、一生をお互いへの深い愛情に満ちた中で生きる人っていますよね。真のロマンスです。

先日、ジョージ・クルーニーの新しいガールフレンド、なんていう女性の写真をネットのゴシップサイトで見かけた時、ジョージったら遂に見つけたじゃん、なんてふと思ったものですが、その後すぐに婚約のニュースがありましたね。

長年独身を貫いて来て、遊び人みたいに言われていたジョージ・クルーニーですが、50才を超えて最終的に選んだ女性が見るからに聡明で成熟した印象の人で、あの彼女を見た時、彼は単に真面目に丁寧に、本当の相手を待っていただけなんじゃないのかな、と思いました。


私が学校で、言語獲得前期(3才以前)に生じるトラウマとその影響について学んでゆく過程の中で、最も多く検証されるのが、恋愛感情です。

誰にも言える事ですが、両親との関係性が最も反映されるのが恋愛関係であり、これは特に私の行ってる学校で取り組んでいる"言語獲得前期"、などというニュー・テリトリーな脳科学を持ち出さなくても、極めて一般的に認識されている事ではないかと思います。

人間は無意識的に常に、親からもらえなかった、足りていない部分の愛情表現を他者から得ようと目論んでおり、この無意識下にある愛情への飢餓感が、様々な行動欲求の原動力になっているわけです。恋愛は愛情が絡む事から、特に親子関係を象徴すると言われています。

しかしながらこの飢餓感/三歳以前に脳に刻まれたトラウマは、大人になってから何か替わりの物を得る、という代替行為では決して癒されたり埋められたりは出来ないと言われています。
人生で何を達成しても満足出来ないことから、極端に食べ過ぎたり飲み過ぎたりドラッグに溺れたり恋愛に溺れたり賭け事や買い物など様々な物の中毒になったり、または真面目な人はそういった逃避行為への強い欲求全てを規制してストレスの塊になって、いずれにしても結局は崩壊する原因は、ここにあると言われています。

今はうちの学校で取り組んでいるような、早期トラウマに切り込む画期的で安全な方法が、日本の最新精神医療の分野にも取り入れられ始めていると聞いているので、才能豊かな若者が破壊的に若死にしたり健康を害したりする姿を見なくても済む時代がやって来るかもしれませんが、現状はまだまだ多くの人たちが、無意識下の飢餓感、という領域の犠牲になっているのではないかと思います。


そして実際、一旦この無意識下の飢餓感から自由になってしまうと、こんなにもバカバカしいことは無い!はあ!??、と心底思ってしまうものなんです。


こうなってくると、誰かに恋愛感情を感じることはあっても、そこにインテンスな瀕死の欲求、つまり親と赤ちゃんとの間に交わされるタイプの、お前の愛を失ったり見捨てられたりしたら命を脅かされるのよ的深刻な欲求〜

つまり赤ん坊はひとりでは生きられない為、親の愛情を失って育児放棄でもされた日にゃあ実際に死んじゃうよ、というような本能的危機感を動機とした欲求

〜の交換を求める気持ちがまるで無いため、相手が多かれ少なかれそういった欲求を抱えていた場合、そこには恋愛が成立しないということになってしまうわけなのです。

こう書くと、やけに分析的で理屈っぽい感じがするかもしれませんが、自分がそこから抜けてしまうと、実際にそうなってしまうんだからしょうがありません。

これが幸福な状態なのかどうかは、個人が人生に何を求めるかによって、意見が分かれるところだと思います。


さて、ジョージ・クルーニーの婚約はどうなるんでしょうか。

私の印象では、ジョージ自身はそういった赤ちゃん欲求恋愛から、かなりの度合いで卒業している印象があります。女性の方も成熟し、自立している印象が。

しかし関係性というものは、深まってくる内に、色んな物が露呈してくるものです。

お互いが自分の理不尽な欲求を盲目的に相手に対して正当化しない限りは、ある程度の赤ちゃん欲求を満たし合えるのも、いい関係だとも感じます。
これはそれぞれの度合いと許容量に関わってくるものなので、まだまだなんとも言えない感じ〜というのが、私の印象ですね。


ま、赤の他人のジョージ(情事/(オヤジギャグ))はおいといて。

オレ自身はどうなのよ。
ご想像におまかせしますよ。
え?まるで興味ない?
実は私もです笑。

しかしそんな私に先日ある人物が、唐突な予言をしてくれました。

なんでもヒュー・ジャックマンによく似た男性が現れ、私と結婚するんだそうですよ。
その人は大変私への理解と愛と尊敬に溢れた人物で、私がどんなに長時間、独りで作画などに没頭していても、それを喜んで応援してくれるような、暖かくてサポーティブな男性なんだそうです。

この予言が成就するのかどうか、わたしゃはっきり言ってどうでもいいんです。
でも成就したら面白いのでちょっと覚えておこうと思い、このブログに書いておきます。
それがこの記事を書き始めた理由でしたからね。わははははは。

アホっぽくてごめんなさい。


2014年5月13日火曜日

もうすぐ公開(5/17)"野のなななのか "の話


野のなななのか

とタイトルを聞いただけで、泣きたい様な気持ちがこみ上げて来る。

撮影の体験がとても素晴らしかったからだ。

自分にとって本当に納得している物を創作している時、人は独特の空間に入る、と私は思う。

これは私が漫画を描いている時や、油絵を描いている時にも感じるのだけれど、なんとも深く満たされた、フルな空間。そこに全てがあって、他に何もいらなくなる。深い満足感と至福感だけがあって、続々と自分の中から湧き出て来る様々なアイディアがあまりにも豊かで、その海の中でただ夢中で満たされて、食べることさえ必要無いと思えるような、完全に孤立しているのに、全てと繋がっているような、より深い現実と、密接な関係を結んでいるような、そんな暖かさに満ちた空間。

大林宣彦監督の最新作"野のなななのか"の撮影中に私が感じたのは、私自身が、映画を製作中の大林監督ご自身が体験されているのかもしれない、その豊かな至福の空間の中に、すっぽりと入ってしまったような感覚だった。


私は野の音楽隊という役で、主題歌を担当したパスカルズのメンバーのひとりとして出演しているだけなのだけれど、それでもあの不思議な深い至福感覚の中に入り込み、ひとりの人が「創作」という空間に入った時のエネルギーの膨大さに、改めて感じ入ったのだ。創作者だけが味わえると信じていたあの空間は、映画という現場においては、そこに関わる全ての人が分かち合う事の出来る程に、広大に広がってゆくものなんだと知った。


そして試写会で映画を観た時、自分の体験が決して幻想のようなものではなかったんだという確信を持った。

映画の中で語られていることの全てに、私自身も深くうなづいていたからだ。

ずっと言葉に出して言いたかったけれど、お茶を濁したり、怖かったり、遠慮したりして遠回しにしてきた事の全てが、映画の中でずばりと語り尽くされていた。

僭越や失礼を承知で言ってしまえば、これは私の映画だ!とさえ感じてしまったほどだ。


そのカタルシスたるや!

震災以来、ずっと癒えないで疼いていた傷が、一気に光を浴びて完治してしまったような、もやもやとした暗雲に覆われて混沌としていた心が、きれいな水で一瞬にして洗い清められてしまったような、そんな解放感だった。


丁寧に選ばれた言葉と、情熱的なやり方で、どんどん語られてゆく想い。

芦別の美しい風景と、素晴らしい存在感で圧倒的な演技をされている常磐貴子さんと安達祐実さんを始めとする女優さん達が、深い思索的な風情が感動的なまでの奥行きを造り出しておられる品川徹さんを始めとする男優さん達が、一丸となって"野のなななのか"の世界観に没入し、力の限り伝えたい事を演じ尽くしている、そんな感じだった。

大林監督の創作の空間に全員が巻き込まれ、大勢の人たちがひとつの巨大な塊となって、ひとつの高潔な方向へと向かってこの映画を創り上げているのだ。


深くて情熱的で圧倒的で、そして優しい映画だ。

そして前回の作品「この空の花」同様に、独特の、熟練された正義感と優しさのバランス感覚を持つ大林監督は、そこに決して敵を作らない。

全てを救い上げる仏の様な暖かい手で監督は、人間は、世界は、二元論ではない、敵と味方ではない、善と悪ではないやり方で、ちゃんと存在出来るのだということを、優しく諭してくれるのだ。

それについては同じ事を二度書くのもあれなので、今は一時的に閉めているブログに書かせていただいた、前作"この空の花"の感想をここに加えておきます。


"野のなななのか"必見です。

こんな映画に関わらせていただいて、まるで一生分の仕事を終えたような、そんな満足感と光栄さに、今は満たされています。


ところでこの映画の英語タイトル"SEVEN WEEKS"は、私率いるアメリカン・チームで作らせていただきました(自慢!!)


ーーーーーー"この空の花"感想ーーーーー

昨日、有楽町の朝日ホールで行われた、大林宣彦監督の最新作、長岡の花火の事を描いた映画『この空の花』の完成披露試写会へ行ってきた。

パスカルズが挿入歌を担当し出演もしており、特にパーカッションの石川浩司は、山下清役というはまり役で、映画の中でも素晴らしい位置にある、重要人物だ。

そもそも監督が、長岡の花火を愛した山下清画伯の言葉、「すべての爆弾が花火になったら、この世から戦争がなくなるのにな。」にインスパイアされた事で、生まれた部分もあるという映画だそうだから。


私は実は、邦画、というものにあまり縁の無い人間で、大林宣彦監督の作品に触れるのも、これが初めての体験だ。

とても独特の手法をお持ちで、映画の始めの方では、しばし面食らう、という感覚があった。
このスタイルは、好き嫌いがはっきりするかもしれないし、とっつきにくいと感じる人もいるのかもしれないな、と。


しかし観ているうちに、私はこの映画の持つ、ある崇高な意図に、深く感じ入り始めた。

この映画は、長岡が受けた第二次大戦での戦争被害を、現地の経験者の言葉をリアルに用いながら、淡々と描いてゆく。

しかし、そのどこにも、被害者意識を煽る気配も、当時の敵国アメリカへの怒りを煽る気配も、まったく無いのである。


意図するにしてもしなくても、戦争を題材にしたフィクションや報道には、加害者である物への怒りと、被害者たる物への悲しみが、横たわる事がある。

私はそれを、911の時の日本国内の報道に、強く感じた。
始めは、被害者であるNYへの哀悼が、後には、報復を始めたアメリカへの怒りが。
街角でのインタビューでさえ、微妙に翻訳を変えて、報道の持っていきたい方向へ視聴者の心を導く在り方。

身近な友人たちでさえそれに翻弄されて、ネット上に無防備なまでのアメリカへの罵倒を投稿したりしていたのを見て、私は随分と疲弊したのを覚えている。

報道する側が、ニュートラルである事を意図しない事で拡大する、個人の内に掻き立てられる過剰な憎しみと怒りと悲しみ。
そして時にそれは、国家政策レベルで行われる意図的な煽動である事もあり、そうやって今まで人間は、戦争を始める、という意図を感情の中で指示し、繰り返すことを許してきたのだ。

怒りと破壊をもってしか、変化を生みだせないと深く信じる心によって。


反戦、と名付けられたものでさえ、なんらかの対象への怒りと敵意が込められていることすらあるのだ。
その、対象への敵意こそが、戦争を生みだす、大きな要因のひとつであるという現実が、置き去りにされたまま。

だけど今ここに、戦争を煽動しない、美しい戦争映画が出来上がった。

爆弾が全部、花火になればいいのに、という祈りの元に。

戦争を生み出し、破壊を繰り返してきた人間の愚かさを、ふんわりと抱きしめあやしながら、もうやめようね、と優しく諭す、誰のことも非難しない、誰の事も貶めない、美しい、戦争の事を綴った映画が。


爆弾が花火になる、という平和への変容は、この映画によって、きっと人々の心に染み渡る。

破壊や怒りでしか物事を変化させられない、という想いを、鮮やかにくつがえす。

誰もが持つ心の中の爆弾のひとつひとつが、美しい花火へと昇華する事で、もうこの世に、戦争は起こらない。


そんな崇高な祈りが隅々にまで丁寧に込められているように感じられた映画、『この空の花』は、再生への想いを込められ長岡で打ち上げられた、フェニックス~不死鳥という名前の花火を描きながら、震災や原発への想いも含んで語られ、エンドマークをつけられずに終焉した。


大林監督、素晴らしい作品を、ありがとうございました。