2015年1月27日火曜日

i Origins、観ました


私の漫画の元担当編集さんだった方が、漫画の絵柄は”発明品”のような物だから、とおっしゃったことがあります。

天性の物であれ意図的にデザインを構築した物であれ、先人の誰にも”極めて”似ていず、しかも充分に魅力的な個性を持つ漫画絵を描ける方というのがいらして、例えば私的にはその代表は、高野文子先生です。

他にも漫画界にフレッシュな個性を運び込まれた作家さんは大勢いらっしゃいますが、高野先生の絵というのは私にはあまりにも鮮烈で、しかもその絵柄で語られる物語のいくつか、特に"春の波止場で生まれた鳥は”が大好きで、あれは人類の宝ではないかと感じるほど優れた”発明”だと、私は思うのです。

物語や映画や音楽にもそういうのってありますよね。

何かがベースになっているとか、何かからインスパイアされて作った、あるいは、作家さん自身は誰にも影響は受けていないのだが、過去の何かを思い起こさせる、という物で素晴らしい作品は沢山あるし、そういう作品の中に大好きな物も沢山あります。

実際私は、「根源的なところからオリジナルではない」ということは作品の良し悪しや優劣とは関係無いと思っているし、事実今の創作物の大半は、偉大な先人からの血筋をなんらかの形で受け継いでいるというのが、スタンダードではないかとも思います。

単に新しさと奇をてらって、唐突で、確かにそりゃあ個性的でインパクトはあるけれど、あんまり感動は無い、というような物よりも、なんらかの血筋は過去から受け継いでいるけれど、その理由がオマージュだったりリスペクトだったり、あるいは単に同じタイプの遺伝子や魂を偶然受け継いだだけで似ちゃっただけであるとか理由は様々ながら、真摯でなんらかの根拠に根ざした、心に深く届く作品の方が、私は感動するし尊敬も出来るのです。

だから、新しい、という事が七難を隠すと言えば、そうとも限らないのも事実だと思います。


しかしながら。

時に突然全く前例の無い、まさに神様からファースト・ハンドの恩恵を受けたかのような、根源的にオリジナルな作品を創られる方が、いらっしゃるんですよね。

音楽にも映画にも漫画にも小説にも、そういう作品て稀に発現します。

そしてそういう作品に出会うと私は、出会った自分までもが特別な幸運の恩恵にでもあずかったかのような、奇跡体験みたいな煌びやかな感動に包まれるのです。

この感動は、血筋や前例あっての、という作品から受ける感動とは、全く質の違う物だと私は感じます。

この感動は、大自然が稀に見せる奇跡の瞬間にでも巻き込まれたかの様なタイプの感動であり、地球生命体である以上、それがまるで遺伝子にでも食い込んで来て、その後の進化の礎にでもなっちゃうんじゃないのか、と感じるくらいの、大きな大きなインパクトだと感じるのです。

それが、自分自身の心の琴線にも深く触れる様な物だった場合は特に。


今回アメリカへのフライト中、私は珍しくすっごく退屈していて、機内エンターテイメントにもその退屈さを埋めてくれるような物も無く、とは言え自分自身が何かを生み出すようなプロダクティブなエネルギーも無く、創るよりは何かいいものを得たい、という飢餓感の中にいて、多分美味しいおやつでもあればそっちに集中するんでしょうが、機内で配られる食べ物はあんまり魅力的じゃ無くて、貰ったチョコレートやサンドイッチを、食べるあても無くリュックに放り込みながら、私は映画のザッピングをしていました。

いつもは、「観たいな」と思う新作映画がいくつかあって、それが機内エンターテイメントのメニューにあったりすると、ラッキー!なんて思って嬉々としてそれを観るわけですが、今回は新作映画の情報も知らないまま飛行機に乗ってしまったので、全くあてもありません。

いくつか観ては退屈して途中で切り上げ、また新しい作品を観てみる、という繰り返しの中で私はふと、もうちょっと注意深く選んでみようぜ、という気分になりました。

飛行機に乗るまでの数日間のスケジュールや出来事が慌ただしかったため、完全に怠惰になっていた私は、映画を選ぶ時もおざなりでいいかげんな感じで選んでいたのです。

というわけでキリリとふんどしを締め直し、映画紹介の短い文章をきちんと読み始めた私。それでもなんだかなーと思っていた矢先に、さっきからずうっとスルーし続けていた作品に目が止まりました。

なんでスルーしていたかと言うと、紹介写真がヒマワリみたいに見えたからです。(上の写真)

ヒマワリ、という花から想像する私のハリウッド映画への偏見は、ゆるくてのどかなファミリー感動物、という感じです。

ゆるくてのどかなファミリー感動物は、私の最も食指の動かない分野であり、全く興味が持てなかったわけですが、説明文を読んでそれがヒマワリの写真ではなく、人間の目の虹彩だということに、遅ればせながら気付いたのです。
そしてそれが、科学者を主人公にしたものだということにも。

ということは。
私の心にどストライクではありませんか。

タイトルは、"I ORIGINS"。

そして観始めました。

そして映画が始まった途端に、今までとはまるで違う引力にぐいぐい引っ張られる自分を感じました。

面白いことに、優れた作品という物は、例外無く俳優陣も魅力的なんですよね。

この映画も、ヒロインを演じている方が新人であまり名前の無い女優さんなのですが、彼女の、通常のハリウッド映画の美人タイプからはちょっと逸脱した容姿の魅力は、この映画のファムファタルにふさわしい、深い印象をくれるんです。

まずはヒロインの魅力だけでもグイグイ物語に引っ張り込まれる、というのは、やはり私にとっての特別な映画"ぼくのエリ"みたいでした。エリ役の女優さんと、この”I ORININS"のヒロインの女優さんのタイプは、ちょっと似ています。

物語を大雑把に説明すると、主人公は分子生物学者の男性で、彼は人間の目の虹彩に興味があって、ずっと目の研究をしています。

彼は無神論者なので、神の実在を語る人々がその証拠として、人間の目という奇跡的な存在に言及するから、その奇跡を科学で解き明かしたい、というのが研究のひとつの動機です。
優れた助手を得た彼は、目を持たないミミズなどの生物に目を与えることを可能にするという、ものすごい画期的な遺伝子的発見をして、有頂天になります。

そんな中彼は、パーティーで出会った不思議な虹彩を持つ女性との恋愛にはまってゆくのですが、その関係を通して、人間の目の虹彩が思いも寄らない、信じ難い様な事実を紐解いてゆく、という話です。

これは、話の内容、女優さんの魅力も素晴らしいのですが、映画の表現力がすごい、と私は感じました。

特にラストシーンの、ある子供のアップは、もう一生忘れられないのでは、と思う程美しくて、もうまさに、大自然の起こした稀な奇跡の渦中に居合わせた的大感動を、私に与えてくれました。まさにこれは、神様からのファーストハンドで創られた映画だったのです!

この物語は、言葉や台詞で語られている話を頭の理解で解釈するだけ、という見方をすると、多くの大事な物を見失います。

言葉で語られているその背後に、深い綾の潜んでいる映画なのです。

まるで映画のキーとなる虹彩と脳のシナプスの関係のように、表には出ては来ない大事な領域を、美しい映像表現で示唆していてそれが成功しているすっごい映画です。

こんな映画に飛行機の中で出会えるなんて、私は実にラッキーです。
これを見逃していたらと思うと、本当にぞっとします。

それにしても、こういう神からのファーストハンド的物語って、そもそも数学や科学や哲学や物理なんかを一生懸命研究している人が、その副産物的に発見する、ってケースが時々あります。
この映画もそうなんでは、と思うくらい、着眼点がすげえな、と思ったのですが、定かではありません。

しかし最近、科学者が人間の根源的な何かを発見してしまうかもってパターンの話に出会うことが多いなあ。(ホーキング博士の映画とかね。)

私のところにもそういう物語がファーストハンドで来てくれたら、スイーツ一生食べなくてもいいってくらいの覚悟で、一生をかけて描き倒すのですが。

スイーツくらいの覚悟じゃダメっすかね。

ヒロインの持つ印象的な虹彩

2015年1月22日木曜日

しあわせってなんだっけ


この日記は、たった今とても苦しい事に直面している、私の若いお友達に捧げます。



夢見ていた幸せが、思う様に展開しない時、思わぬ形で裏切られた時、そりゃあ絶望もするしこの世の終わりだって、思うのはわかる。


世の中には、若い女の子の理想の幸せ、という概念がいくらでも存在している。

今は多様性の時代だから、昔みたいに誰もが結婚して子供育てて、という形ばかりを願うわけじゃないんだろうけれど、日本は保守に傾いているという噂も聞くから、もしかしたらまだそれが、若い女の子の夢の典型なのかもしれない。

それとも才能を行かして生きる道を望む人もいるだろうし、その両立を目指す人もいるだろう。
いずれにしても、こんな風になれたらきっと幸せだ、という象が、あるに違いない。

お店を開くとか、有名になるとか、どこかへ移住するとか、夢の家に住むとか、色々あると思う。

そしてそれに固執して、がんばって夢を叶えようとして、すごくがんばっていたのに、そうじゃない結果が人生に現れたら、そりゃあ絶望もするだろうし、この世の終わりみたいにも思えるだろうし、すごく辛いだろうとも思う。

でもそれでもう終わりだ、って思っちゃったらさ、自分の人生が、かわいそうじゃない?

自分の人生は、人生そのものとしてのオリジナルの道を、脳で考えた理想の在り方とは別の次元で、粛々と展開しているんだよ。

私は最近、ホーキング博士の映画を観て、そのレビューにも書いたんだけど、あの映画は、人間の思考、なんていうちっぽけな条件付けされた想像力が理想と描く、もっと言えばこれなら問題無い、と信じる人生の形が、より大きな人生そのものの在り方からすれば、如何に浅はかでくだらないか、固執する価値も無い様な、意味無きシロモノかということを、教えてくれる映画だったんだよね。

ホーキング博士が何故あんな難病を患ってしまったのか、何故あんな悲劇に見舞われたのか、という問いと共に映画館に入った私は、博士の病がそもそも悲劇だなんて思っていた自分の浅薄さが、愚かで可笑しくて笑えて仕方ないっていう感じで、映画館を出たんだよね。

そして、宇宙の起源を紐解く科学者のホーキング博士は、そのことをとうの昔から知っていて、本当の意味でのヒト生命体の、生物学的起源としての"完璧"ってどういうことなのかを、深く納得して生きているってことを、あの映画は見事に描いていました。

これは安っぽいポジティブ・シンキング志向や「どんな事にも意味がある」みたいな哲学的な言葉で説明されるような、概念で語れる様なものじゃない。
人類という生命体が、どんな風に生きれば地球の生物として自然なのかを、博士は科学者として知っている、ということなんだよ。


人生というものは、自分の頭で考える理想とは、別の次元で粛々と展開されているんです。

もしも頭で考えてる理想について、あれ?いつから、どうして自分はそんなことに固執していたんだろう、という、ちょっとだけ謙虚な気持ちになって、それって本当に、幸せ?と問い直してみたら、もしかしたらその理想は、何の根拠も無い、何の意味も価値も無い、単なる幻覚だっていうことが、わかるかもしれませんよ。

そしてそんな事に固執するあまり、盲目的にそれだけを追い求め、傍らで粛々と展開している自分の本当の人生の流れが見えなかったとしたら、すごく勿体ないと、私は思うのです。

自分の思い通りになって欲しい、という気持ちはあるにちがいない。
それに向けて努力を続けるのも、悪かないと、私は思います。

だけどある日人生が突然思っていたのとは違う顔を見せて、それがすごい晴天の霹靂で、それですごくショックを受けて、もうどうしたらいいかわからなくなったら、その時こそ人生の本当の顔を、見る事が出来るチャンスだと思うんです。

自分の頭で考えていた理想は崩れた、じゃあ、だとしたら、どんな事を人生は、やろうとしてるんだろう、という好奇心を持つ、チャンスだと思うんです。

もしかしたらそれは、制限のある思考で作った理想なんかを遥かに超えた、もっと創造的でオリジナリティーがあって色彩豊かで、ずっと面白い世界かもしれない。

自分で思い描いていた理想を一旦諦めてみることは、そんな自由な可能性を人生に許す、チャンスなのかもしれない。

アメリカの精神医学では既に、人間の持っている、誤ったアイデンティティが、全ての苦しみの源だって言うことを言い始めています。
これは科学者ホーキング博士が言っていることと同じだ。

理想に向かって邁進することはいいことだし、その努力が実を結ぶという幸福もある。

だけどもしも、自分の理想が、叶わないことで今、自分を苦しめているんだとしたら、その理想ってやつを洗い直して、正体を直視することも必要なんじゃないだろうか。


自分の理想って、本当にそれなの?

いつからそれが理想だって、信じていたの?

その理想と幸せのスタイルは、本当にその彼と、分かち合う物なの?

今が本当に、それが叶えられる正しい時期なの?

何故自分は、それが叶えられなければ人生に意味は無い、おしまいだ、なんて信じ込んでいるんだろう。


私もホーキング博士同様に、ずいぶん早いうちから、理想というものを思考する生き方をやめてしまったので、それを頑張っている人の気持ちが今ひとつわからないってのがあるように、理想を実現するってずっと頑張ってる人には、こんな文章読んでも全然ナンセンスかもしれない。

だけどもしも、自分の生き方に裏切られて、もう生きる道が無い、ってとこまで行っちゃったんなら、死を選ぶ前に、自分が固執していた理想という物を、ちょっと謙虚な気持ちで洗い直し、全くそれを持たない状態でただポカンと、人生の流れを、理想という色付きのフィルター無しに、眺めてみる時間を持ってみたら?と私は提案します。


何才でこれが起こって、何才でこれが結実して、今はこれがこうなっていなければならない時期で、女の子にとってはこれが幸せで、という考え方のかわりに、ただじっと耳を澄まして、人生の流れの水音を聞いて、次は人生は何をしようとしているの?夢が叶う時期は本当は今じゃないの?本当は違う方向に向かって流れているの?そっちに方向を転換すると、もしかしたらもっといいの?と、少し謙虚に、河岸に座ってみたらどうでしょうか。

疲れ果てているのなら、次の一歩を踏み出す前に、ちょっと河岸で休みながら、自分がしがみついていた理想というものが、果たして自分に良い物を、本当にもたらしてきたのかを、観察してみたらどうでしょうか。

そしてその理想という考えを一旦地面に置いて、とりあえず置いたままの軽い体で、しばらく静かに、好奇心だけ持って、ゆっくりと歩いてみたらどうだろう。

どうせ最後にはみんな死んじゃうんだし、今はまだそう死へと焦るのはやめて、しばらく人生そのもののやり口を観察してみたらどうだろう。

頭の中でうるさく叫んでいた理想の幸せの実現ばかりに集中していた耳と目と心を、傍らで粛々と静かに流れている人生そのものの存在に向かわせて、そしてしばらくその流れの在り方を、眺めてみたらいかがでしょうか。

それで救われるのか、と言えば、理想に固執している限りは救われないと思うけれど、その代わりに全く違う、もしかしたら自分が頭の中の理想に集中していた間、ずうっと勝手に展開していた人生そのものの、ユニークなやり方の相棒になれるかもしれません。




最近の納品

 最近またニヒル牛2に追加納品しました。

濃紺オーガニック長袖TシャツMサイズにウサギのイラスト。別の作家さんの作品、白いふわふわスカートと合わせたらとても素敵でした。

キャンバス・トートに鳩のイラスト、あと、白いブロードシャツにも鳩のイラスト。

の下記2点は早くもSOLD OUTです。ありがとうございます。




2015年1月7日水曜日

静かな午後





友達がやっているアート雑貨店ニヒル牛に、最近10年振りくらいに作品を納品して、その一部がちょっと壊れていたので、今日の午後、直しに伺った。

小雨のちらつく薄暗い午後にニヒル牛のドアを開けると、そこには今日の店番でありニヒル牛の作家さんでもあるナナコさんがいらした。

店主で友人のあるくんが店番の時にしか最近行かなかったので、私にとってのニヒル牛は、あるくんの醸し出す徹底的に陽気な、とは言えそれはラテン系的陽気さとも違うのだが、なんというか、農耕的な、ふところの深い陽気さ?みたいなわけのわからない物に一瞬で包まれる空間だったのだが、今日のニヒル牛は、まるで違っていた。

柔らかい、草原に潜む小さな妖精が唄っているような、ひそやかな女性ヴォーカルの歌声が流れ、店番のナナコさんが、多分納品に来ていたのであろう若い女性作家さんと(後にそれが私の大好きなビーズ作家ココマコムーンだったと知るのだが)優しくお互いの作品を讃え合う様な、きれいで可愛らしい会話をしていた。

窓から差し込む白い光、細やかに展示されたアート雑貨の数々。
カフェになっている店の角のテーブルにつき、縫い物の道具を広げた頃には、私は完全にその空間の中にくつろいでしまっていた。

音楽は何故かアイルランドかスコットランドあたりの、曇った空を写す海の景色を思い起こさせる。
まるでお店自体が、海辺の寒村の小さな丘の上にでも建っているような錯覚を起こさせる。

私はしんとしていることが好きなので、普段自分の部屋で音楽はかけない。
私にとって音楽とは、聴きたいと思った時に、聴きたいと思った物を、猛烈に集中して聴く物であり、日常的に部屋にかけっぱなしにしておくようなものではないのだ。

だけど今日、このニヒル牛でかかっている音楽は、静けさを、静けさ以上に静かにしてくれている。

深く心に沈殿するような、頼り無さげな、それでいて芯の強い歌声。
その声に乗せて時折聞こえる、ナナコさんと店を訪れるお客さんや作家さんとの、穏やかなお喋り。
自分の心の内と、しん、と繋がっているから、そこで交わされる会話は、決して表面的な社交ではない。とりあえず相手を褒めておけば角が立たないっしょ、なんていう軽薄なものではないのだ。

静けさというものは、そんじょそこらの若い娘が醸し出せるもんじゃないんだよ、と私はかねてから思っている。
どんなに見せかけを静かに装おうと勤めても、心の中にざわつきがあれば、それが表に現れる。
街で感じる快適ではない喧噪の多くは実際の声なのではなく、実はこの、心のざわつきが醸し出すエネルギー騒音が大きいのだと私は感じる。

期せずして、ナナコさんが私に「おもしろいですよ」と言って持ってきてくれたのは、ビーズ作家ココマコムーンが、隣近所の騒音にたまりかねて田舎に引っ越すまでを綴った、壮大なる旅の読本だった。
ふむふむ、ココマコムーンさんも静けさが好きなんだね。
わかるよ、ココマコさん自体も、すごく物静かな優しい感じの人だもんね。
文章ははっきり言って過激だけどね。
わかるよ、平和な静けさをわかってくれない環境にいると、静けさの炎で全員焼き殺したくなるんだよね。ふ、ふむふむ。。。。。。

まあ、それはそれとして。


今日の私の午後は、海辺の寒村に佇む小さな、けれど気の効いたアート雑貨屋のカフェの片隅で縫い物に費やされるという、極上の時間だった。

縫い上がったら作品を展示棚に戻して、小さな扉を開けて帰ろう。
扉を開けると表には、曇り空色の水を湛える海。
カモメが一羽岩の上で、打ち上げられた小魚を食べているかもしれない。

妖精みたいに人の心の気配をそっと汲み上げる、ナナコ店番の心地よい気遣いと静けさとそして、ナナコ店番のハートから聞こえてくるような、不思議な歌声は名残惜しいけれど。


ところで、この記事を書いた後にその歌声の主、イギリスのアーティスト ヴァシュティ・バニアンについてちょっと調べたところ、彼女は鳴り物入りでイギリスの音楽シーンにデビューしたもののそのビジネスに嫌気がさし、パートナーと共に、ななんとスコットランドのスカイ島に移り住んで音楽の世界から消えてしまった、とあったではありませんか。

スカイ島というのは私の長年の友人であるマルコムの生まれ故郷で、いつも話を聞かされている、私にとってはある種 馴染み深い島なのである。
そして彼からスカイ島の話を聞く度に私が思い浮かべる景色こそが、まさに今日ニヒル牛の中で見ていた景色、そのものなのです。

だからこのブログの写真に、そのスカイ島の景色を、載せておきます。