2016年3月10日木曜日
NODA・MAP 逆鱗
少年王者舘との公演の際に舞台でご一緒させていただいた俳優の織田圭祐さんが出演されているので、初めて野田秀樹さんのお芝居を観てきました。
タイトルは"逆鱗"。
お芝居前半はポップなギャグの応酬が大変面白く、野田さんは無邪気だし俳優さん達も皆さんニッコニコしながらお芝居されているので、なんだこりゃみんな遊んでるだけなんじゃないのか面白いけど、みたいな感じでした。
魚座の逸話が出て来たり(オレが魚座)、人魚の鱗”逆鱗”が青白く光る鱗だったり(最近オレが書いたお話の鍵が青く光る鱗)と、個人的にもなんだかツボにはまるお芝居だなとか思いながら、しかも織田君の取ってくれた席が前から三番目の真ん中というかぶりつきだったから、にぎやかな衣装や舞台の仕掛けや愉快な言葉の応酬を思い切り堪能していました。
だけどお芝居後半になって、ようやくこのお話のコアが現れ始めて、私は本当に心が苦しかった。
上演中のお芝居の内容についてはあんまり詳しく書かない方がいいんだろうから、あんまり詳しくは書かないけれど。
たまに人と話していて、まあ例えば相手がバスの車掌さんだとか駅員さんだとか店員さんだとか上司だとか親だとか先生だとか生徒だとか近所のおじさんだとか、まあ相手は誰でもいいんだけど、話の道理や融通が、相手に全然通じないっていう体験て、無いですか?
例えば私は最近アメリカの、朝食ブッフェのあるホテルで、時間を間違えてブッフェの始まる30分も前にレストランに降りていってしまったのだけど、ホテルの人が私のいるのを見つけて、すぐに中に入れてくれて既に準備の出来ていたコーヒーを、さっと持って来てくれたんです。食べ物も急いで準備するからそれ飲んで待っててね、って言って。
こういう臨機応変な対応は、アメリカではよく経験するし自然な事だと思うのですが、ホテルによっては断固として、時間まで客を中に入れない、って態度の所もありますよね。
私は、そのホテルのポリシーや個性を尊重したいからそういう事があっても不愉快だとは勿論思わないのだけど、もしその態度が、ホテルなりのポリシーや理にかなった方針に乗っ取った物では無く、単に思考停止なだけだったら、それはダメじゃん、と思うのです。
例えばすごく美意識の高いホテルで、ブッフェ全体の美しいディスプレイをお客に楽しんで欲しいから、決まった時間が来るまでは客を中に入れないとか、そういう事ならいいんだけど、もしもお客を待たせるのが、「ルールだから」という以上の理由が無いのだとしたら、それは問題だと思うわけです。
だけど、こういう思考停止な感じの価値観から動かない人に対して私は、割に何も言わず、さくっとあきらめて過ごして来たというか、ああ、言ってもわからないよな、ってな感じではいはいわかりましたよ、と、自分が引く形でやり過ごして来たんです。
だけど私、”逆鱗”を見て、それじゃダメなのかもしれないと思いました。
私たちは、思考停止に陥っている人に対して、ちゃんとしつこく文句を言わなきゃならないし、もし自分が思考停止に陥っていたら、誰かに文句を言ってもらわなきゃならないと、思ったんです。
戦争中、厳しい軍隊の規則の中にあって、それでも心を失わないでいられた上官が、部下に特攻を免除した例があったと知りました。
だけどそれは、極めて特殊なケースだったんだと思う。
多くはルールの中で臨機応変さや叡智を見失い、思考停止状態で無駄な犠牲を部下に強いた上官により、失う必要の無かった命を失った人たちが、沢山いたんだと思う。
"逆鱗"の中で交わされた、本当の、理にかなった声と、それを殺し上辺だけで交わされる思考停止な言葉のやり取りが、そこに人の命がかかっているだけに、本当に口惜しかった。
いざという時に、誰もが心を失わないでいられるようになる為には、心を失っている時の自分や他人に、普段からちゃんと、きちんと文句を言って、その事をわからせてあげないとダメなんだと、そうしないといざという時に本当に、ルールや、世間一般の常識、なんかを重んじるあまり命を犠牲にするような、そんな愚かな行為を人や自分に強いる事になってしまうんだと、私は本当に感じたのです。
プロトコルの中で盲目になった、その盲目さによって実行された特攻で失われてしまった沢山の若者の命が、今日ほど重い現実として心に迫って来た事は、今まで無かった。
ひとりの命の重さ、完全に直視された死という現実、誰かの誤った言動や価値観への寛大さや諦めが引き起こす深刻な過ち、そういった物全てが日常的に見過ごされている事から、何万人もの善良な命が、犠牲になってしまう事があるのだ。
"逆鱗"のお芝居が終わり、カーテンコールで自分がステージに拍手を始めた瞬間、あれ?という奇妙な時空の揺らぎを感じた。
ステージにいるのは今演技を終えたばかりの俳優さん達なんだけど、私はそれを通り越して、まるで特攻で命を失った若者達に拍手を送っている様な錯覚に陥ったのだ。
その拍手は、お国の為に率先して死を迎えた事への拍手なのではない。
それは、ただただ過酷な運命に散ったその滅私の命への、称賛と敬意と謝罪の入り交じった、その命そのものへの、深い喝采だった。
お芝居が終わってから起こったその不思議な、でも圧倒的な感覚は、自分自身の心の昇華にとても役に立った。
思い出したのは、311の直後にケラリーノ・サンドロヴィッチさん脚本演出の舞台”奥様お尻をどうぞ"に、劇中&ポスターのイラストで関わらせていただいた時の事だ。
あの時も、原発などへの昇華出来ない想いの中で窒息しそうになっていた時に、痛烈なコメディで思いっきり原発をいじったあのお芝居に、救われたのだ。
芸術は、魂を助ける。
私は今夜、あの劇場で拍手を送る役割を与えてもらった事に、本当に感謝しています。
ありがとう、逆鱗。
余談だけど、劇場で偶然、ひさしぶりに萩尾望都先生にお会い出来ておしゃべりできたのも、大きな贈り物だったな♡
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