2015年10月20日火曜日

仮想現実

気だての良い音楽に似合わないワイルドな野生動物カルーセル
昨日、ワシントンDCにあるスミソニアン国立動物園へ行って来た。

スミソニアン系施設だけあって、学習要素がとても多かったし、そしてとても思いやりのある動物園だと言っていいかもしれない。

象なんて、人間の干渉を受けずに、広大な動物園の半分くらいの面積を移動出来るようになっているし、アシカやアザラシなどのプールも相当広い。

一緒に行った人が、動物への愛情が深い動物園だね、と言ったので、それは確かにそうかもな、と思いつつ、私はやっぱり疑問を感じた。

動物園という施設については、ここやサンディエゴ動物園の様に、動物の研究や保護に貢献している所もあるし、かつまた、人間が普段出会えない種類の動物に生で接する事で得る恩恵は大きいと思うから、もう今更、動物を閉じ込めないで、というような不満を安易に言うつもりはないし、乗馬クラブでの経験から、動物に直に接する仕事をしている人たちというものは、外部の人たちよりもずっと大きくて深い思索を抱えて色んな事をやっているのを私は知っているので、外部の人間があれこれ言うことじゃないのかも、という辺りで思考が止まっている状態で、動物園の存在そのものへの疑問というわけではない。


ただ私が感じたのは、いくら動物舎の面積が広くて、あるいは有機的な造形であれこれ工夫を凝らしてあったとしても、あくまでもその空間は人工の物で、自然界における森羅万象の変化とは切り離されているということだ。

アザラシのプールを見ていて感じたのは、確かに広くて十分に延び延びと泳げるかもしれないけれど、アザラシはあそこにいる限り、自分で魚を発見してそれを追って捕まえたり、鮫やシャチに追われて逃げ切ったり、他にも様々な海の事象に直面して受ける日々の有機的な刺激という物から完全に遮断されているということだ。

時々飼育員が色んな事をしてくれるかもしれないけれど、人間の頭で考えて行われる事と大自然が与えてくれる彩り豊かで予測不可能な現実とは、比べ物にならないだろう。

私が近年流行しているコンピューター・ゲームにはまらないのもそこだ。

あれはクリエイターが創作した世界だ。
確かに世の中には、人より深いレベルで現実を認知・体験している人がいるので、そういう人の創り上げたファンタジーや創作物の中に溺れるのは、私も大好きだ。ゲームはやらないけれど、本を読むのは好きだから、もしかしたらゲームって、本をより三次元的に体験出来る世界なのかもしれないとも思うから、一度はまると面白いのかもしれない。とも思う。

しかしそれとて結局は、他者の世界観を生きる事に変わりはない。
私は誰かの創った世界観の中で時間を使うより、一秒でも多く、自分の泳いでいる大海での、自分のオリジナルのゲームを楽しみたいと思う。
有機的で変化に富んだ、予測不可能な現実を、一生の間に少しでも沢山経験したいと思う。


大方の人間には自由があるから、いくらでも好きな時に人の創ったゲームから目を上げて、自分の人生を生きる事を選択出来るからいいんだけど、動物園の動物はそうは行かない。
自然界の状態に似せて造られた、でも決して有機的な変化の無い世界の中で生きる動物達を見ていると、私はその息苦しさに、どうしてもあえいでしまう。

そこには動物それぞれがオリジナルに行える、開拓と解決と創作が無い。

私は、動物たちは人間より知的に劣っているんじゃなくて、違うやり方でそれぞれがすごい知性と洞察と直感を発揮して生きていると信じているので、動物にはオリジナルの生き方をして欲しい。

誰かが創り上げた仮想空間はその人の思惑でしかなく、その枠の中に生きるという事は、それを創り上げた人の限界をも生きるということだ。
動物園には、それぞれの動物達の持つ個性的で大きな視座に見合った生態空間があるように、私には思えなかった。それが少し悲しかった。


まあそれとて素人の私の思い込みであって、自分の感覚を動物に投影しているだけかもしれないけどね。