2015年11月14日土曜日

Peace for Paris

 金曜日が終わり、土曜日が来て、明日は日曜日だ。

パリにも同じように、土曜日が来て、日曜日が来る。

突然親しい人を失った時、本当の悲しみと苦しみが来たのは、強烈な体験の瞬間が過ぎ去り、日常の風景が戻って来た時だった。

いつもと同じように始まるはずの日曜日が、もう永遠に失われてしまったという焼け付くような実感が、全身を切り裂く様な痛みに感じられたのだ。

こういう経験を持つと、こんな体験、誰にもして欲しくないと思う。
誰もが自然に、そう感じる物だと思っている。自然な環境に生きていれば。

人間は、生き物だ。
だから、生きる、というどうしようもない本能と共に生きている。
そして、生かす、というどうしようもない本能と共にも。

目の前で誰かが溺れていると、後先考えずに、飛び込もう、という衝動が身体を走る。
それを実行に移すかどうかは別として、誰かが目の前で危機に直面していると、身体と心は、助けに向かう、というどうしようもない衝動に、突き動かされる。

それが本能だからだ。

でも、金曜日にパリで起こった事は、それとは真逆の事だった。

自爆することで、他者の命も奪う。

生きるという本能も、生かすという本能も、機能しないまま、それが起こった。

こんなにも人を狂わせるものは、一体何なのか。

人間は、いつ自然界の一員である遺伝子を、失ってしまったのか。


人間の寿命は、せいぜい100年とか、長くても150年くらいだ。

その内の20年間くらいは、先進国なら、まだ子供時代とも言える。

子供時代を終えて、例えば残り80年くらい程度の短い時を、お金や地位や思想やアイデンティティなんかをなんとかする為に生きるのって、一体どういうことなんだろう。

なんでそんな事になってしまう人が、この世にいてしまうのか。

こんなに美しい惑星に生まれ、気持ちのよい風や空や樹々に囲まれ、きれいな声でさえずる鳥や、愛くるしい姿の動物に囲まれ、夜には星が、朝には日の出が、心に光を運んでくれるのに。

その光を感じなくなってしまう心は、一体どんな風に育まれてしまうのか。

私は臨床心理学の経験的学びをアメリカで沢山したし、今もそれに関わっているから、様々な人間の心の仕組みに向き合っていて、だからそれに基づいていろんな事はいくらでも言える。
なんなら、それはこんな風にすれば変れるんだよ、という方法も、提示出来るかもしれない。
そして例えばそれが、ものすごく効果のある方法だったとしても。

そこに辿り着ける人が少なければ、それは何の役にも立たない。

世界には、そんな洗練された心理療法や、それどころかより基本的な、身体の健康を保持する為のシンプルな医療やケアにさえ、到達出来ない人が、沢山いるのだ。

生まれた時から爆音や銃声にさらされ、幼い繊細な心で、愛する人の無惨な姿をまのあたりにしたり、置き去りにされて路頭に迷ったり、食べ物を探して彷徨い歩かねばならない生活をしている人たちが、沢山いる。

そんな子供たちがどうやって、健全な、他者や自己を敬い尊重し生かし合う心を、維持出来るというのか。


先進国に生きる人間、先進国に生きて、生きてゆくだけのお金に恵まれ、食べ物に不自由せず、愛情を交わし合うだけのゆとりある平和の中に生きている人の義務は、そういった環境に生きている人々に、武器を与える事ではない。

ぎりぎりの瀬戸際で生きなくても済んでいる多くのゆとりある人たちがするべきことは、政治的な利権を確保したり、武器を売ったり、自分の自尊心を保つ為に他者を迫害することなんかではないはずだ。


政治を司る人たちを含む世界中の、ゆとりある人生を送っている全ての人たちが、もっと違う方向に矛先を定めたやり方を今すぐに始めれば、食べ物と、抱き上げてくれる暖かい手を求めてよちよち歩く子供達全てに、星や朝陽の光の差し込める健全な心を、失わないでいられるような生育環境を、与えてあげられるかもしれない。


そんな方向転換が全世界で起こる、そんな奇跡を今は、本気で祈りたい。

愛情と食べ物が世界中に循環し、世界中の隅々にまで染み渡り、飢えや孤独や爆音の恐怖に泣く子供が、この世からひとりもいなくなりますように。


パリで亡くなった人たちの命が、争いを正当化する為の道具に、されませんように。