2015年2月27日金曜日

映画GravityとBIG HERO6の邦題に思う



BIG HERO 6という映画が、日本では "ベイマックス”というタイトルなのでなんでかなーと思っていたら、日本の宣伝戦略で、映画そのものを少年と癒し系ロボットの感動物として売りたいから、という背景があるのかも、ということを最近知った。



しかもその戦略の辻褄を合わせる為に、映画のエンディングの翻訳に操作を加え、アメリカ上映版とは違う結末を提供していると聞いて、私はすごく驚いた。

ディズニーも承知してるって話だし、そもそもその国の文化に合う様なアレンジを、物語や台詞そのものに加えることはよくあることだろうし、だから別に怒ってるとか不愉快だとか理不尽だとか感じているわけではないのですが、私はアメリカ版のエンディングで感動して泣いた口なので、同じ類いの感動を日本版だけ観ている人とは分かち合えないんだな、という些細な空虚感があった。

そしてこの一件は私に、『GRAVITY』という映画の事を思い起こさせた。

GRAVITYは、サンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーと宇宙空間しか出てこないシンプルな映画なんだけど、ひとりの女性宇宙飛行士が事故で宇宙空間に投げ出されたことから、その果てしない孤独の暗闇の中で何度も襲い来る絶望と諦めを克服しながら、なんとか地球に生還するというすごい迫力の鬼気迫る映画で、IMAXシアターで観る事によってまるで自分もそんな宇宙アトラクションにでも乗っているかのような気分を味わえる、いわば遊園地的体験型映画ですごいんである。

しかしこの映画のもっとすごいところは、→ここからネタバレなのでこの映画を観ていない方でこれから観る予定のある方は読まないでいただきたいのですが→
映画の殆どを締める生き残りの格闘の末に訪れる、一瞬のエンディング・シーンにあるのである。

この一瞬のシーンの為にその前の全てがあったのか、と深ーーーい感動に落とされる、素晴らしい瞬間が最後にあるのである。

それは、長く孤独な格闘の末にやっと小さなポッドに乗り込み、暗い宇宙空間を抜けて生きるか死ぬかの大気圏に突入した後、ポッドごと地球の海に落ちた主人公が、そのポッドから這い出して海に身を沈め、それから浜辺に辿り着いて地面に一歩を踏み出したその時に、「あ、重力」と囁く、その瞬間なのである。

その瞬間に観てる側は、殆どのシーンが無重力の宇宙空間であるにも関わらず、映画のタイトルが"GRAVITY(重力)"であるその、深い意図に気付くのである。

あーーーーーー、この映画って、宇宙空間のスペクタクルを描きたかったわけではないんだな、母なる地球、わたし達の故郷 地球の、尊さっつうかありがたさっつうか、なんですかもう、なんかわけのわからない、すっごい安らぎと安心感と、あーーーー、地球だよ、戻ってきたよ、地球があってよかったねーーーみたいな、そういう、そういうことを言いたかったんだな、だからタイトルが、「重力」なんだな、って納得して、すごーーーーーーく感動するんである。

特に主人公が女性であり、ひとりの娘を持つ母親であるという象徴的な設定からも、映画製作側の意図は明らかなのである。

一緒に観に行ったアメリカ人も、「あ、重力」のシーンではっとしたように深ーーーく息を吸い込み、それからさざめくようにずうっと泣いていたから、彼も全く私と同じ感動に包まれたんだなということがよくわかったのである。

だからこの映画の日本語タイトルが、なんと " ZERO GRAVITY(無重力)"だと知った時、私はものすごく仰天したし、それを言ったら彼もやっぱり愕然&動揺して、「な、なにもわかってないね...。」と一言言ったのである。

邦題に”重力ゼロ”と付けたってことは、日本の視点は全く帰還後の地球には向いておらず、この映画の価値はひたすら行われる宇宙空間での格闘なのだということであり、最後のシーンでどんなに主人公が、「あ、重力」と呟いたところで、あくまでも地球と重力は脇役という設定なんだから、特に事前に日本側の宣伝など見てた人は既にマインドコントロール下にあり、あのエンディング・シーンがそんなに胸には来ないんじゃないですか?

私、これははっきり言って、酷いと思います。

この邦題は、この映画そのものの本質的なクオリティを完全に歪めており、最も大きな感動をくれる大切なシーンを、観る側から根こそぎ奪ってしまっているのである。

もちろんこの映画は、宇宙での格闘シーンだけでも充分に楽しめるので、日本国内においてよくステレオ・タイプに言われている、”お軽くて楽しいハリウッド映画”を求めている人には充分かも知れないけどね。

どう思います?

日本は、日本側のイメージ戦略によって、ハリウッド映画をお軽くてイージーな商業主義、というカテゴリーに入れて、そして実際にこういう翻訳操作によって、本当はすごく深い所を突いてくる映画を、ただの派手なアクション・スペクタル物にでっち上げてるんじゃないのとか、思いませんこと?

これは別に意図的にそうしてるって言うよりは、もしかすっと日本側の映画を売り込む人たちが既に過去のマインドコントロールの犠牲者で、軽薄なハリウッド映画がこの映画にGRAVITYなんてタイトルつけてるのは単に頭が緩いだけよねー、ゼロを付けた方がよりわかりやすいのにねー、なんて思って、余計なお世話焼いちゃってるんじゃないんですかね。

かつて私は、「日本ではプロフェッショナルな物、感動や意味の大きくて深い物、笑いの質の高いコメディなどは流行らない、日本人の感性は、そういった刺激にすぐ疲労を感じてしまうから売れない。緩いもの、アマチュアな物、そこそこな物じゃないと商売にならない。」と書かれた物を読んだ事があります。

これって、マジですか?

もしこれが本当で、大方の日本人が本当にそうなんだとしたら、それはひとつの民族性や文化度として尊重され、ハリウッド映画にも軽薄なアレンジを加えたままの流出でいいんじゃね、とは思うんですが、実は大方がそうではないにも関わらず、御上のユルフワ戦略によって、高い満足度を与えてくれる刺激の強い、あるいは高品質な、あるいはオーセンティックな感動や想いをくれるような物から「保護」され続けているうちに、そういう刺激に抵抗を覚えるような感性になって行っているとしたら、それってなんだか恐ろしいことだなーと思うんである。


まあ、自分の趣味に合わないなら遠ざかればいいんですが、私にはまだ、日本人て本当にそうなの?GRAVITYより、ゼロ・グラヴィティの方がお気楽でいいよ、って人ばかりなの?マジに?っていう疑いがあるので、こういう出来事に触れる度に、ちょっと何か言いたくなってしまうんである。