2016年10月4日火曜日

湖の泥沼

これから誰かと湖一周の散策をしようと思っている方にお伝えします。

その湖は恐らく、今見えているより遥かに複雑な形を持ち、今感じられている湖の周辺距離の、少なくとも10倍はあるかもしれません。

9月のコロラドでそれを思い知った私と、その体験を聞いた私の友人が富士五湖で同じ思いをしたという証言からも、誰も気軽に湖一周など、するべきではないという事は、おわかりかと思います。

コロラドで散策好きの相方から、湖一周の散歩に誘われた時には、運動不足だからちょうどいいか、くらいの気軽さで応じました。

時々訪れていた湖で、そんなに大きく感じられない上に、周りの風景が大変美しいので、楽しみですらありました。

秋だというのにかんかん照りなのに帽子も日焼け止めも無く、軽装だったから持っていたのは500mlペットボトルの水だけでしたが、こんな湖、1〜2時間で回れるだろうと信じていたので、そのまま気軽に散策を始めてしまったのです。


しかし実際には、その湖はいくつもの小さな湖〜と言ってもボートが無ければ渡れないくらいの周囲の〜小型湖がメインの湖の周りに数え切れない程枝分かれして存在しており、実際にその湖を一周するには、膨大な距離を歩く羽目になってしまったのです。


場所はコロラドですから大自然です。
湖の周りは鷲鷹の保護エリアだったりして、脇道から道路に抜けるとかそういう逃げ道は全くありませんでした。

いや、何度かそういうチャンスもあったのですが、一緒にいた楽観的な知人が、何度かそのチャンスが訪れる度にその方法を選ばなかった為、二人共もう限界、を感じる頃には、もはやどこにも逃げ道の無い修羅場に、突入してしまっていました。


戻るにも距離があり過ぎ、ただ進むしか無い無限地獄です。


幸いだったのは、あくまでもメインの湖が歴然と見える中での散策だった為、道に迷う怖れは無かった事。
単に、目に見えているあそこの岸辺、という物に到達する為に、信じられない様な辛惨を経験しなければならなかったという事です。

最悪夜になってもしまっても、まあその場で野宿すれば、明るくなってからまた歩き始めればいいわけで、そういった意味での恐怖はありませんでした。


それでも。


あの森を抜ければようやく目指す岸辺だ、と言った際に、希望と共にその森を抜けた途端、今までで最も大きいのではないかと思われる枝別れ湖が現れ、その時にはさすがに、恐怖と絶望感に襲われたのは事実です。
心の強い同行者も、さすがにその時には、奇妙な動物の様な雄叫びを上げていました。
気の触れる一歩手前、という感じでしょうか。


ドライブウェイに抜けるチャンスがまだ稀に数回現れた頃に、私は何度か、今ここを抜けた方がいいんじゃないか、と提案をしましたが、同行者はそれに耳を貸しませんでした。
ですので私は、もう自分があれこれ考えるのはやめて、この人のやりたいようにさせよう、その方が心が楽だ、と諦め切りました。

思考が最も人間のスタミナを奪うという事を私は体験から知っていたので、考えるのを完全に、やめさせていただいたわけです。
繰り返される小型湖の出現や、歩きにくい湿地や沼地や、一体どこを歩けばいいのかわからないくらい丈高の、しかも刺だらけの草に覆われた場所、しかもガラガラヘビの生息地、などに出くわす度に、絶望や失望や心の迷いや苛立や恐怖や怒りを感じるのは全て相方にまかせ、私は一切、考える事を放棄しました。

するとスタミナは温存され、どんなに歩いても一向に疲れなくなりました。


そういった中で自分を観察している時、面白い事に気付いたのです。


私が疲労を感じるのは、自分の心が、「こっちじゃない。」と感じる方向に歩かねばならない時だけだったのです。


人と一緒だったし、体力を温存する為に私はリードする事を放棄しましたから、文句も言わずに相方の選ぶ道をついて行っていたわけですが、自分の心が、「こっち」と強く感じる時に相方が逆の道を選び、そちらに自分が行かねばならないその瞬間の分かれ道に出くわす度に、私は強い疲労を感じ、それがしばらく、まあ、3分程度でしたが、続くのです。


もしも私が自分の感覚に執着し続ければ、更に疲労は続いたでしょうが、抵抗を感じる度にそれを意識的に忘れる事で、疲労感は短時間で治まりました。


これは普段の生活でも感じられていた感覚ですが、普段は単なるそわそわするような落ち着かなさという形で出るだけだったので、こんなにあからさまに、堪え難い疲労、として体現されるのは、初めての事でした。


5月に友達と中欧ヨーロッパに行った時に、ロシアの空港で友人がカフェを見つけてそこで朝ご飯をゲットしようとした時にも、私のこの落ち着かなさが発動し、列に並ぶ友人に許しを貰って、一人で乗り換えゲート近くまで歩き、そのゲート内にあったカフェでひとりで食事をしました。
友人の見つけたカフェには、私が食べたかった物が無く、ゲートのカフェにはそれがありましたから、やはりこの感覚は、役に立つのです。


湖を歩いていた時にも、もしかしたら私がリードをとり、この感覚に従って歩いていれば、あんなに凄まじい事にはならなかったかも知れません。
でも私は、冒険の顛末を見てみたかったので、敢えてその提案もしませんでした。


結果、朝10時に歩き始めた私たちは、なんとか夕方5時には、全身泥だらけだったから湖に服ごと入って洗ったりしなければならなかったものの、怪我も無く脱出、5時を過ぎると駐車場が閉まっちゃって、車も出せないしどうすればいいの、という地獄にまでは発展せずに冒険は終わりました。


非常にチャンレンジな体験でしたが、やって良かったとも感じています。
まあ、やっちゃってから後悔しても仕方無いので、良き面を見るしかないんですけれど。



今回コロラドでは後にもう一度同じ様な事があったんですが、そこでもやはり例の疲労を感じたので、その時には相方に言ってみました。

するとやはり、私がこっち、という道に行くのが、正しかったのです。
そうではない道を選んでから、その事が後でわかったんだけどね。


冒険好きな友人がいると大変ですが、自分の限界点の目安では選ばない真新しい体験が出来るので、まあいいと思うのでした。


でももう二度と、湖を歩いて一周してみようとは思わないことでしょう。