さっき電車の中で"モネ展"の広告を見た時の、自分の心の反応に、驚いている。
遠い昔に亡くなっている、絵画を通してしか触れる事の出来ない絵描きの、生々しい存在感をありありと感じたのだ。
まるで隣に、生きて肉体を持ったモネが、存在しているかのように。
私はそもそも、特別なモネ・ファンである。(と多くのモネ・ファンが自称したいことだろう)
モネと私には、ひとかたならない縁があると感じている。(と、多くのモネ・ファンも信じていることだろう)
私以外の多くのモネ・ファンの言い分も尊重するから、私にも思い切り言わせてちょうだいよ、というわけで言わせてもらえば、モネは私の魂の本質の領域に生きる、その深い同じ領域を分かち合っている絵描きなのである。(言っちゃったーーー!)
そんなクレイジーなモネ・ファンを何十年も続けているのに、さっきみたいな生々しい、モネを"ヒト"として認識するような感覚を覚えたのは、生まれて初めての経験だ。
私は芸術全般において常に作品が全てであり、それを創った人物、つまり作家、という物にはあまり注意が向かない方だ。だから作品が大好きでも、その作家自身を語る本とか映画などには、基本的に全く興味が無い。
その作品が生まれた背景や生んだ人物、なんてもの知らなくても、作品があればいいのであり、作品こそが全てを与えてくれる。と思っている。
だからモネに対しても、ヒトとなり、とか、人間モネ、なんていうものはどうでもよくて、そういう事情で長い事、ジヴェルニーに想いが向かなかったのかもしれない。
ジヴェルニーにはモネの生きた庭と家とアトリエがある。
モネのファンはとても多いので、ジヴェルニーのモネの家観光は、とても人気だ。
気にならないわけではなかったけれど、さほど興味もそそられなかったのだ。
今までは。
ところが最近急に、モネの見た睡蓮を見たい、と思う様になってきた。
モネの見た睡蓮を、モネの心で見たいと、思う様になってきた。
モネの心で見るのは勿論無理な話だが、なんていうのか、一人の人として、モネの視線の先を、その同じ位置で、同じ様に体験してみたくなったのだ。
そんな矢先にパスカルズの欧州ツアーが入って来て、私は友達をひとり誘って、ふたりでみんなより1泊か2泊早くパリに行って、ジヴェルニーに行ってみない?と言ってみた。
友達も乗り気だったしその計画は無理が無いように思えたけれど、私はなんとなく思いとどまった。パリに前乗りしなくても、もしもパリのライブがレンヌからの移動日の午後に設定されれば、翌日は丸一日オフになる。もしもそんな風に事が運んだら、ジヴェルニーに行くことにすればいいんじゃない?と私は思い直したのだ。
今回この機会に、なんとしてでもジヴェルニーに行きたいと思っていた割には、やけに消極的な計画にしたもんだな、と我ながら不審に思った物だが、これはどうやら私の心が、モネに縁があるなら、私はきっとジヴェルニーに行けることになる、的賭けに出たのではないかと思っている。
かくしてまんまと、7月21日、パリでの丸一日オフを手に入れたワタクシ。
初めてのジヴェルニーは無理の無い確実な方法で、というわけで、パリの旅行社が企画している、ジヴェルニー半日観光を予約。それは70ユーロで、パリからバスでジヴェルニーに直行、モネの家でサクッと添乗員さんにガイドしてもらった後は、自由にしていていいですよ、っていう、いい案配の内容だった。
そして、何年も抱えていた、パリからジヴェルニーに行くのって大変よね、っていう思い込みを跡形も無く消し去ってしまう程に、ツアー・バスはいとも簡単に、75分くらいでジヴェルニーに到着してしまった。しかもパリの街を出る時には、主要な観光地ーエッフェル塔、シャンゼリゼ通り、凱旋門、ブローニュの森、ポンテザール、ヴェルサイユ、ポンヌフ、を全部触っていくような余裕までぶちかまして。
この余裕には、あんたジヴェルニーを嘗めてない?って思ったほどだ。楽しかったけど。
この旅は、セーヌ河をずうっと遡る旅でもあった。
セーヌはパリの街を出てもずっと続いていて、ジヴェルニーに近づくにつれ、その様子はどんどん自然の姿に回帰していった。
エッフェル塔や有名な橋やディナー・クルーズ船は消え去り、そのかわりに水草の茂みと森と石造りの水郷が、セーヌを縁取る役割を担い始めた。そしてほぼ完全に自然物として回帰したセーヌの流れの先に、石造りの家の並ぶ、小さなジヴェルニーの村があった。
モネの家も庭も、観光客でいっぱいだったし、あの絵に描かれた緑色の橋の上も人がいっぱいで静けさは無かったけれど、私の心の深い深い底に、静かに侵入してくる気配、その庭の、花の、睡蓮の放つ静謐な光は、そんな事には全くわずらわされなかった。
あの時の私は確かにモネの庭を歩きながら、しかし足はもっともっと深い時空を、踏みしめていたように感じる。
心の内側に、直に侵入してくるような、庭の輝き。
水面、反射、花、色彩、緑、その何もかもが、全くフィルターを通さずに、真っすぐ心に飛び込んでくるのだ。
だから人も話し声もにぎわいも、何も邪魔にはならなかった。
そこには私と、庭の放つ光だけがあったのだ。
あんなに深い静かな感動を、あんなに長い時間味わった事は、今まであっただろうか。
自分の細胞全てが塗り替えられる様な、比類の無い輝きに晒され続けるような。
そこには実際、モネさえも関係無かったように思う。
私と庭だけが、ただ深く静かに対峙し、交歓していたのだ。
そんな時、一緒に来ていた友達から、お茶でも飲んで行かないか、と電話があった。
この半日観光は、そもそも下見として、ってな感じで計画したものだったから、私はそろそろ自分のいた深みから出て、今度は観光を楽しむ事に決めて、お茶のプランに乗ることにした。
ティーハウスはモネの家の目の前にあって、古い、風情のある、植物に囲まれた素敵な一軒家だった。私は地元の名物酒カルバドスをかけて食べるケーキを注文して、そしてそれはすっごく大きくてびっくりしたけれど、とても美味しかった。
今度は絶対に、泊まりがけでジヴェルニーに行こうと思う。
そして日がな一日モネの庭で過ごして、池と睡蓮を楽しもう。
この、ほんの短いモネの家での体験が、さっきの電車の中での、モネにまつわる衝撃的な感覚に繋がっているのだろうけれど、だとしたら私の細胞の一部は、本当になんらかの変化を起こしたんじゃないかなと思う。
だから行ってよかった。
このタイミングでモネ展が開催されるのも、恵まれた偶然だなと思う。
モネ・ファンは、誰もがモネの絵に自分の魂の深みを重ねるのかもしれないけれど、私も今回は本当に、自分の根底の領域が、モネの何かと繋がったと感じるのだ。
こんな美しい神秘な半日を過ごした日の午後が、先のブログにも書いた、パリのホテル盗難未遂事件に繋がるってわけなのだから、人の世というものは、バラエティーに富んでいておもしろいもんですなあ。とほほのほー。。(^^;