2016年12月17日土曜日

ニーガンが教えてくれる事

もしもAさんという人に突出した能力があって。

その突出した能力が例えば未来を知る力や、この一手を打てばこういう返事が世界から来るとか、この場所へ行けばこういう物が手に入るとか言う事が手に取る様にわかる力だったり、誰かの偽善的な言動の影に隠れる本音や本当の動機が、レントゲンの様に見透かせる力だったりしたら、そのAさんは、周りの人達と対等な関係を保つ事が出来るだろうか。

そういう能力の無い人たちの愚かな言動や決定によって、自分の命やミッションや人生が危険や、不利な状況に晒される様な事があったとしたら、その人は周囲から自分を隔離して自分を守り抜くか、あるいはもし誰かと共に生きるとしたら、自分の作ったルールに絶対服従を強いる、独裁者となるしかないのではないのか。

ウォーキング・デッドのニーガンが、単なるアホなナルシストが、称賛と敬意と権力を欲しがって軽薄に威張ってるだけじゃない事が透けて見えるだけに、非常に複雑な気持ちになる。
ドラマの中では徐々にニーガンへの刺客が迫っている気配なので今の内に書いちゃうけどさ、私、結構ニーガン、好きかも。


ニーガンが先に書いた様な、天才的な洞察力の持ち主かどうかはわからないけれど、さっきニーガンが、自分の元に酒を抱えてやって来て、友好的な絆を結ぼうとしたスペンサーをバッサリ殺っちゃった時に私のハートがとても喜ぶのを感じて、私も随分、怒ってるんだなあ、と思ったのだ。

人間界は、あのスペンサーみたいな人を肯定する事が、いや肯定とまでは行かなくても、なんとなく違和感を感じながらも受け入れている、と言った方が近いのかもしれないけれど、アヤフヤな違和感だから事を荒立てるよりは、放置して仲良くやっておこうじゃないか、みたいな事が、多いように思うのだ。

ドラマ全体を通してみると、スペンサーの想いは理解に足る。
私はあのドラマの主人公でありヒーローである好戦的なリックがそもそも嫌いで、彼の決断によって平和に暮らしていた街の人々がニーガン率いる"救世主"軍団に宣戦布告し、結果負けて植民地みたいにされてしまったわけだから、その平和に暮らしていた街の指導者の息子だったスペンサーが、リックに反感を抱くのは当然だ。

だけど今回スペンサーは、自分がその恨みを背負う替わりに、ニーガンに擦り寄って、ニーガンに自分の怒りを、肩代わりしてもらおうとしちゃいました。

ニーガンと酒を酌み交わし、仲良くビリヤードをやりながらスペンサーは、自分が如何にリックを憎んでいるかを告げ、リックの所行を告げ如何にリーダーにふさわしくないかを告げ、自分がリーダーなら如何にすみやかに、街と"救世主"が共生関係になれるかを、ニーガンに訴える。

結局私に何をして欲しいのだ、とニーガンは問い、スペンサーはそれにははっきりとは答えず、だからニーガンはスペンサーの、言葉にははっきりとは出さなかった本音を、ズバリ言い当てる。
要するに、ニーガンの力で、自分をリーダーにしてくれって事ですよ。

こういう事って、たまにではあるが、実生活でも目にする。

自分の中にある、誰かへの理不尽かもしれない不満や怒りを、自分の持っている感情的な問題として語らず、何かに転嫁して正当化あるいは美化しつつ、語ったり、誰かを納得させようとする。
スペンサーのケースでは、リックへの恨みは妥当だと思うので理不尽な怒りではないんだけど、それでも彼は、それを自分で解決しようとせず、ニーガンを使おうとしたのが、人として美しくないんだよね。

で、世の中にはスペンサーみたいな事情は無く、単にジェラシーや我が身可愛さから、誰かに否定的な感情を持って、で、誰かに否定的な感情を持つまでは仕方無いと思うんだけど、その、理不尽かもしれない自分の誰かへの不満を、自分自身に対して正当化あるいは美化する為に、別の誰かを説得して味方にするっていう事を、する人っているよね。

そして私がそういう時に怒りを感じるのは、それを行う人、つまりスペンサー的人物に対してではなくて、そういう人に、巻き込まれる側の人に対してなんです。
スペンサー的な人に対しては私はそもそも友達として認識しないから怒ったりはしないんです。そういう人たちは、言わばキリストの言う、「彼らは何をやっているのかわからないのです。」な人々ですので、早急に正しい行いを求めても無駄だと私は思うので、怒りも感じません。ただお友達にならないだけ。

だから問題は、巻き込まれたり黙認したりする方だと、私は思うんですよ。

見て見ぬふりをしたり、その行為をなんとなく汚いかもとは思っても、汚いと指摘する人間を積量だとか言い過ぎだとか、言っちゃったりする方。
そんな小さな事に目くじら立てなくても、とか言って、寛大な、我慢強い人のふりをしちゃう方。
大人しい悪人を庇い、毅然とした善人の方を、糾弾しちゃう方。


ウォーキング・デッドの優れた所は、敵味方のいずれにも、主人公サイド脇役サイドの両方に必ず、良い点と悪い点が混在し、白黒の判定がつきにくい事だと私は思います。
これによって人は、上記の様なあやふやな悪、もっと言えば巧妙で狡猾な、隠れた悪の姿を、心の中であぶり出す訓練が出来ると、私は思うのです。


さっき悪役のニーガンがスペンサーを殺っちゃった時に正しかったのは、あの悪名高いニーガンの方だったと、私は思いました。

スペンサーがリックの事を語った時にニーガンは、リックは自分の尊厳を抹消して今、ニーガンの命令に従っている、でも、スペンサーは自分が泥を被らずに、ニーガンに自分の代役をやらそうとした、みたいな事を言ってスペンサーを殺っちゃいました。
(だからと言って殺しちゃいかんのですが)
これはニーガンが、リックのがむしゃらな犠牲に、ちゃんと敬意を払ってるって事です。
ズルい人や卑怯な人じゃなくて、ちゃんと自分で背負う体当たりな人を、尊敬しますよって事ですよね。

ニーガンは登場当時から、リックのナルシシズムを始め、その場にいる人たちの深い心理を見抜くような事を、しばしば発言します。

自分は徹底した悪でいながら、周囲の人間の詰めの甘い偽善をすぐに見抜き、絶対に許さないのです。
そしてあり得ない程の統率力と組織力で、あのゾンビだらけの絶望的な世界で、最も強大なグループを率い、文明を復興させようとしています。

あの恐怖政治的なやり方には共感は出来ないと思いつつも、先に書いたように、もしも周囲の人間が全員自分よりも激しくぼんくらで、さっきのスペンサーがやったみたいな無自覚で清潔ではない言動ばかりが横行していたとしたら、ルールによって強制するしかないのではないかと、今回(シーズン7・8話)は思ってしまいまいした。

現リアル世界での独裁者は我が身可愛さの愚か者ばかりかもしれませんが、ニーガンの動機にはなんとなく、これらとは違う興味深い心理がある様に感じます。

ドラマの中ではまだ全く触れられない彼の過去や背景が、今後描かれる事もあるのでしょうから、とても楽しみだなと感じます。

ゾンビだらけになる前の、まだ世界が社会という形を呈していた中で、彼は一体どんな職業で、どんな人物として、どんな人生を生きていたのか。

ドラマ初期に出て来ていた、わかりやすい心傷を負った独裁者ガバナーとは厚みも深みも悪さも格の違うニーガンの物語が、楽しみでなりません。

2016年12月10日土曜日

ジョバンニかサイモンか


いつの間にか定例化している、パスカルズのチェロ奏者三木黄太が主催する、オペラ・チームによるMETライブビューイング観劇&感想会。

昨日はモーツァルトの有名過ぎる一作、"ドンジョバンニ"を観て来ました。この作品についてはもう、昨日の感想会で思いっきり、言いたい放題、掘り下げるだけ掘り下げ切って大満足していますので、このブログでは書きません。私が書きたいのは、ジョバンニを演じたサイモン・キンリーサイドの事です。

とにかく、メトロポリタン歌劇場の舞台に乗れるんですから、このオペラ歌手たちは一流中の一流です。こういう人たちの芸に触れると、「歌は下手でも心が籠っていればいい」とか、「音痴でもいい、魂からの声ならば。」等という、よくちまたで耳にする定番の暖かい言葉たちの事が、ちゃんちゃらおかしくなります笑。

そういう事は一流になってから、体感を通じて発見する崇高な真実なのであって、素人のうちからそんな事に甘んじていちゃいけないのです。
まずは心や個性を失うくらい研鑽を積んだ後に、その研鑽と共にいつの間にか背後で発達していた澄んだ成熟した魂と、研磨されて輝く深いところに眠っていた真の個性が、ようやく歌と深く繋がる、それが、一流、という事なんだと、私は思います。
あ、もちろん一流を目指してないならば、上記のような心理的クッションも、ある意味では真実なので、それでいいと思いますよ。私も、心しか籠ってないバイオリン弾いてるし。MET目指してないから。


で、このジョバンニを演じたサイモンなんですが、とにかくこの舞台、幕が開いた瞬間から、すっごい引力で舞台から目が離せない。熱狂的な集中力で観切った末に、あっという間に一幕目が終わります。
そして恒例の、舞台裏でのインタビュー。

このドンジョバンニは、希代のプレイボーイを描いた舞台です。今まで私は、このアンチヒーローを正当化する人を見た事が無いし、そういう評価を聞いた事もありません。
実に2000人もの女を口説き落とし、彼女らの名前をノートに連ね、寝る為ならどんな嘘もいとわず、彼に思いを寄せる女たちを裏切り、とにかく情交した女の数を増やす事だけに一生を費やす、言わばろくでなし貴族男の話なんですから。
だから、インタビューでの出演者たちの言葉も様々ですが、納得のできる行儀の良い物が続きました。


しかーーーーーーーーし!!!!!
インタビューの相手がこの主人公、ドンジョバンニを演じているサイモンに及んだときに、私が今まで持っていたこの物語への漠然とした解釈が、音を立ててガーーラガラと崩れ去って行ったのですよ。


サイモンは、高揚した様子でインタビュアーの前に現れ、今さっきまで演じていたジョバンニの衣装の乱れを気にする事も無く、爆発的に語り始めました。

1幕最後の歌を歌った時にはもう、感動でからだが震えたよ! ジョバンニは素晴らしい、自由だ、この物語は、自由を描いているんだよ!!!!

彼が言うには、この時代、フランス革命以前のこの時代は、身分制度は厳しく、モラルも厳しく、非常に鬱屈した時代だった。けれどジョバンニは、貴族でありながら平民を家に招き(村娘をモノにする為ですが)カトリック的規律をことごとく侵してゆく、モーツアルトはこの舞台に、ひとりの人間が、神をも恐れずに追求し選び取ってゆく自由という物を、描き切っているんだ。というのです。

なーーーーーるーーーーーーほーーーーーーーどーーーーーーーーー。


というわけで、サイモンのインタビューでは一切、女性への礼儀的配慮的な発言は発せられず、インタビュアーの女性は早いうちからムッとしており、しかし熱狂的に語り続けるサイモンは止められず、あー、そういう発言によってあなたはみんなから愛されているのね、なんていう、わけのわからない錯乱した間の手を唐突に打ってなんとかインタビューを終わらせるという、なんだかとっても見応えのあるモノとなっていました。


冷静に見れば、ジョバンニのやっていた事は自由というよりは病であり、恐らくセックス依存症か、あるいは下僕の男への愛を封じ込めているがためのリビドーの異常な爆発あたりなんじゃね?くらいに私は思うのですが、あり得ない程人間の自由や尊厳が無視され制約されている時代ならば、これだけ極端で破天荒な方法で自由を描くくらいが、ちょうどいいんじゃないのかな、とも思いました。
根深い慣習を打ち破る為には荒療治みたいな物が必要なのと、同じです。

そう思うと、なんだかジョバンニの味方をしたくなります。
責められても悪びれないジョバンニが言う様に、ロマンスの最中は女性は幸福なのですから、執着さえ捨てれば、その関係が終わったとしても素晴らしい経験をした、というだけの事なんです。
貞操、なんていうものに重きを置く時代の掟に縛られていなければ、恐らくとっても床上手であろうジョバンニと、素敵なセックスを楽しんだわよ、ってだけの話です。

最後にジョバンニが地獄に堕ちるのは、上演当時の世評への配慮だろうと私は思いますが、それを考えるとジョバンニの姿が、どこから発生したのかわからない横暴な規律なんていう物に縛られてがんじがらめにされている、人間の自由と尊厳の解放への警鐘であり、同じ様に魂の解放を叫んで最後は磔刑に処せられた、キリストにすら重なって感じられます。


この舞台を観て私は、このサイモンに強くインスパイアされ、生きる、という事への非常に強いコミットが、あっという間に生まれてしまいました。

私がさっき、一流という事の素晴らしさを書いたのは、それが理由です。
サイモンは、自分自身がジョバンニ同様に、地上で出来る事は全てやる、ってな勢いで、オペラの研鑽を積んで来たんじゃないでしょうか。
そしてそういう人物だからこそ、技術不足や力不足やらに足を引っ張られずに、自由に、最高に、全身全霊でジョバンニを演じる事が出来た、そしてだからこそ彼はジョバンニの魂に、深く触れたんだと思います。

こういう一流の人物の芸は、圧倒的に人に、生きる力をもたらしてくれます。
眠っていた自分の尊厳という存在に、燃える様に立ち戻らせてくれるのです。

感想会の後、冷たいシェイクを飲みながらみんなとの話に昇ったのは、何故ケア施設や子供やお年寄りを相手にする人たちが、彼らへの慰労に、安く雇えるアマチュアの芸人やミュージシャンを呼んでしまうのか、という事でした。

ケア施設で最近、上手なジョークの言えない無名の芸人のショーに呼ばれ、うんざりしているお年寄り達を目撃したばかりの友人からの言葉は、やり切れない程その現実のもたらす害を、伝えてくれました。

もしもケア施設に入っている皆さんが、過去に一流のオペラを観ていた人だったら、ケア施設の中でそういう研鑽されていない芸を見せられる事がもしかしたら、自分がどんなに落ちぶれてしまったかという実感に繋がってしまうという可能性は、無いでしょうか。
私はそれは、拷問だと思います。

あとどのくらい生きられるかわからない人こそ、最高の物を観るべきだ、ともうひとりの友人が言いましたが、私もそう思います。
また私はそばに、何もわからない未熟な時にこそ最高の体験をするべきだ、最高の材料で絵を描き、最高の料理を食べるのは、大人ではなく子供の仕事だ、と言ってくれる人が居た事に、心から感謝しています。
何故なら、早いうちに頂点を知る事で、自分の許容量の上限が、広がるからです。
その広がった領域から、様々な多様性を見て行けます。選択肢が広がるのです。
だから、お年寄りだけでなく子供達だって、最高の経験をするべきだと私は思います。

まだそんなに実力の伴っていないアーティストや芸人さんは、どちらかというとケアされる側であって、誰かをケアする為に芸を提供出来る側では無いと私は思います。
私は施設で希望を失ったり元気を失ったりしている人は、サイモンみたいな人の歌を聞くといいと思うのです。

世界最高峰の、真に自信を持って芸を披露出来る人たち、本当に自分の才能と人生を生き切っている人たちのもたらす一流の技は、それだけで、今まで発揮出来ていなかった自分のスタミナを呼び覚ます様な力が、本当にありますよ。

2016年12月2日金曜日

本当の薔薇のお菓子

サウスアベニューさんのtweetから勝手に拝借
2016年も年末となり、街がクリスマスの飾りに彩られる、私の最も大好きな季節が到来しています。そしてそんな時期にふさわしいお菓子を、本日手にする事が出来ました。

それは、西荻窪にあるサウスアベニューさんというお店が販売を始めた、白バラ、黒バラ、というお菓子の事。

このお菓子をTwitterで見た瞬間から、私はこれは本物だ、と感じて、販売初日の今日、いても立ってもいられずに、買いに行ってしまったのです。写真がそれ。



私にとって本物というのは、真にオリジナルでしかも生まれるべくして生まれた物、という感覚で、つまりそのまま歴史に刻まれ、何世紀にも渡って残ってゆき、やがて伝統、と呼ばれる物に育ってゆく様な、底力を持つ物の事です。

今の時代に伝統菓子とか呼ばれている物だって、始まりがあったわけですからね。
生まれた当時は新しいお菓子だったり習慣だったり文学だったり宗教だったりパフォーマンスだったり音楽だったり絵画だったりした物の中から、真に強い力を放つ物〜つまり花や樹木や湖の様に、根源的創造物、と言える様な物が、その輝きが絶えないままに、何世紀にも渡って残ってゆくわけです。

宇宙の創造物である自然界の持つ普遍性を持つ物を、人間もまた生み出す事が出来る。
そしてそういった物が何百年も、自然な形で残ってゆくのだと、私は感じているのです。

私は実は、100円ショップの様な文化の蔓延する日本が苦手でした。でも最近、それこそ今年になってから少しずつ、そこから抜け出した、これは本物だな、と感じられる様な物が生まれ始めている様に思えるのです。多分ちょっと前までの大量生産的で手の届きやすい物に人気の集る時代は、カンブリア爆発みたいな物で、淘汰と洗練の起こる前の、大量放出の時代だったのかもしれません。

私の本物志向は、絵画や音楽以外では、今現在既に伝統と認められているような物にはあまり食指は動かず、新しく生まれた物で今後伝統になりそうな本物でオリジナルな物、と私が感じる物へと限定して集中している為に、近年しばらく好きな物に出会えずお寒い時代を過ごしていたのですが、今年に入ってから特別な出会いの様な形でしばしば、いいな、と思える物を得る事が出来始めていました。

そんな密かな居心地の良さを感じ始めていた今年、この2016年の終わりに、このお菓子に出会えたのは、私にとってとても象徴的な出来事です。

このお菓子、黒バラ白バラは、苦水バラと砂糖を半年間熟成させて作る苦水地方の珍しい特産品、苦水バラ醤という物を使って作られた、黒バラは焼き菓子、白バラはチョコレート菓子です。
口に入れた瞬間に、驚くほど鮮烈なバラの香りが広がります。
このバラの香りの確かさに、今後伝統になってゆく強さを、私は特に感じたのです。

私が素晴らしいと感じる作品やお菓子には、確信、と言える様な、根拠のある強さが備わっているといつも感じます。


強さというのは、例えば絵画なんかでは線が太くて強いとか、色がはっきりしてるとか、そういう事を言うわけではありませんよね。
淡い色彩や繊細な線がそこに描かれていても、そこに地に足の付いた、確信的な何かがある事は可能です。

これは作り手が、常に多大なる自信を持って作っている、というのともまた違います。
人はいつでもいくらでも、どうしようもない物に、自信を持つ事が出来ます。
今の世では商業的な成功や、感覚の鈍さや、社交辞令や、観客からの感動バイアスのかかった感想なんかが、自信を裏付けてくれる事がいくらでもあるからです。
だからそういう、自信を持って、というのともまた違う。
もっと深いレベルでの、充足、とでも言う様な確信を、それを作る人は持っていると、私は信じているのです。
人からの評価や認識を全く必要としないような、自己の内に宿る、充足です。

白バラ黒バラを作った方がそれを感じていたかどうかはわからないけれど、これを販売する事にされたサウスアベニューさんはTwitterで、どこにも無いとびきりのおやつ、と言っています。これは本当に自然に出て来た、喜びからの言葉って感じがするんです。

私は予言しますぜ。

このお菓子は、伝統になると。

600年先にはこのお菓子が、年忘れに欠かせないハレのお菓子として、人々の間にすっかり浸透している事を。

シュトーレンやガレットデロワや月餅みたいに。


そして大切なのは、これが本当に伝統になるかどうかじゃあ、ないんです。
伝統になる、と確信出来るほどの本物の、真にオリジナルの、新しい強い光を放つお菓子を、今、食べる事が出来るという、喜び。
そんな贅沢で豊かな体験って、あるでしょうか。

年末に、思いもかけない贈り物を貰った気分です。

ありがとう!サウスアベニューさん!!