2014年2月21日金曜日

冬のオリンピック




オリンピックは、メダルを獲りにいくお祭りなんだと思う。
だから、メダルを目指してがんばるのは理にかなっているし、応援している方も、メダルを期待するのは、当然の事なんだと思う。

だけど選手にとっては、恐らくオリンピックの他にも沢山重要な試合の場があって、フェアに力を競う場は、むしろオリンピックでは無い場にあるケースの方が多いのではないかとも思う。

オリンピックは4年に一度だから、そこに標準を合わせて自分のコンディションを最高に持っていける、という力が、アスリートとしての力量だと言える部分もあるのかもしれないけれど、なにしろ4年に一度なんだから、どんな事が起こるかなんて、やっぱり人智を超えた部分なんじゃないかなとも思う。

だけれども、多くの人はオリンピックでメダルを獲ることを、ほぼ何の疑問も無く最高、と考え、金か銀か銅かで一喜一憂するし、色んな社会的な価値も変わってくるのだろうから、やはり実質的にも、オリンピックでメダルを獲ることが、アスリートにとってのなによりの栄誉なのかもしれないし、素晴らしいことにも変わりはない。

だから私もいつも通り、メダルを獲れた選手を素晴らしいと感じたし、良かったね、と感じたし、嬉しいなとも感じながら、冬のオリンピックを観ていた。
メダルに当然の価値を感じて、やっぱりオリンピックはメダルよね、と思って。

だけど昨夜その意識が、もう全く、根本から完全に、大きく覆ってしまった。

真央ちゃんの、フリースケーティングを観た時に。

あの素晴らしい、荘厳なまでの演技を観た時に。


真央ちゃんが滑り終わった時、ただもう感動して、その瞬間自分の中にあった、メダルをとれれば云々、という考えが、非常にちっぽけで狭苦しい、大変つまらん物に感じてしまったのである。

この生きた、神聖にも感じる瞬間に、金メダルだの銀メダルだのという話題が、如何にそぐわないことか!


真央ちゃんは実際には、女子でエイト・トリプルを実現して、歴史的にも大きな功績を残したんだよね。
でもなんかもうさ、そういう、歴史に残るとか点数とか功績とかそういうのも、もうどうでもいいよって思ってしまう。

昨日の真央ちゃんは、あらゆるレベルで、人類史上、最も美しいスケーティングを見せてくれた。と私は思うのだ。

もう地球が壊れちゃうから、いつかどっかの宇宙人が見つけてくれるように、何か素晴らしい記録をカプセルに入れて、人類がいた事の証拠を残しましょう、なんていう事態が起こったら、私は絶対に、真央ちゃんのあの演技のDVDを推す。

あんなアスリートと同じ時代にいられるなんて、本当に素晴らしいことです。

いやあ、本当に、どうもありがとう!!!!

2014年2月18日火曜日

インセクト・アート


美しいけれど大量の命の犠牲が。

とかお喋りしながら、今日の午後、クリストファー•マーレーのインセクト・アートを見ていた。

インセクト・アートとは、文字通り昆虫を使ったアートで、シンプルに言えば、アートな標本です。

非常に美しい。

昆虫ってホラ、色とりどりだから。

天然の、言わば神の色彩を使ってオブジェしてるわけだから、その美しさのグレードは果てしなく高い、と私は感じる。

しかしながら、それはまた、命でもあるわけです。

殺して、作る。

きれいな物を。  

微妙だよね。
動物愛護団体の人とかが見たら、目くじら立てそう。
私ならやらない。私なら、きれいだと思ったら、それを絵の具で描こうとするから。
自分の感性のフィルターを通した、自分の感じた昆虫の色を、キャンバスの上に、再現しようとするから。

神の作った色彩に、負けるとは思わないよ。
自慢じゃないけど、(自慢だが)オレ、米ワーナーブラザースの人に、色彩の魔術師って言われたんだもんね〜。
                             

でもだからって、それは殺して作るより"正しい"のか?

私は、この地球上の生命体の持つ、様々な関係性のことを時々考える。
植物には薬効があり、動物の役に立ち、花々は人の目を楽しませ、木の実や果物は生き物を養う。
動物は互いの命を糧とし合って、自分の命を繋いでゆく。

以前アメリカで、バイオドームという、地球のサイクルを完璧に再現した温室の中に入ったことがある。そこでは微生物や昆虫や植物が絶妙なバランスで関係し合い、見事なまでに共存している。互いに助け合っているので、農薬ゼロで、立派な野菜が作れる。

このバランスを壊すのは、いつも人間なのであり、近視眼的な見方をすれば、人間がいつも鬼っ子で、異端児で、自然界のバランスを崩す元凶である。

だけれども、人間もこの惑星の子だ。

人間の心には、この惑星の美しさを、堪能する、という感性がある。
花を愛し、動物を愛し、自然を愛する。
心に届く滋養は、何にも代え難いくらい、人を元気にする。
美しさに胸を打たれるだけで、しばらくの間は生きていけるような生命体だ。

だから昆虫を、他の動物がやらないような方法で、糧にする。

それだけのことなんじゃないかな、と私は思うのだ。

もちろん、そういう動機で殺戮を行う人ばかりじゃないのも確かだ。
そこに全く対象への愛や敬意を持たない、自分の利益の追求ばかりで動物や植物や、他者を踏みにじる人もいる。

それは、アートではない。
破壊だ。

ここは、成熟した感性で、区別しなければならないところだと、私は思う。
大体においてこの成熟した感性に自信の無い人というのは、なんでも一緒くたにまとめて扱いたがるけれど、そういうもんじゃないんじゃない?

地球に生きる生命体として、同じ殺戮でも、それが惑星の、理にかなっているのかどうか、人間にはわかるはずなのだ。野生動物がそうであるように。

これは誰かが教えてくれるようなことではない。
自分の心で、計るのだ。

自分のエゴ/心の傷やプライドや偏見や防衛や自己愛等で曇っていない、澄み切った惑星生物の感性で。

クリストファー・マーレーの作品を見る時、私は昆虫達の美しさに打たれながら、自分の心のバランス感覚に、注意深く耳を傾ける。

やり過ぎか、これでいいのか。


これについての答えは出ていないし、もしかしたら彼が、これ以上の作品を作ろうとする所に出くわしたら、止めるかもしれないけれど、でも、それもどうかはわからない。

ただ、目の前にある作品は、もう、結論である。

結論が出ていることについて私は、抵抗はしない。

それはただただ美しく、私の心にたっぷりの栄養を与えてくれるから、私は100%の肯定と称賛を感じながら、それを楽しむだけなのである。

上の写真は、クリストファーの作品かどうかはわからないのですが、友人の家に飾ってあった物です。多分、そうなんじゃないのかな。

左はクリストファーの作品集。