2014年7月25日金曜日

山頂の音楽祭

私が先日コロラドで参加した音楽祭は、聾唖の方達の為のチャリティー・イベントになっていて、現場では沢山の聾唖の方が働いておられた。

客席にも沢山の聾唖の方がいらしたので、ステージ脇には常に、手話を使って、演奏される曲の歌詞を通訳する方がいた。

この通訳によって聾唖の方達は、何を唄われているのかがわかり、心から聞き入り、涙されている方もおられた。

私はというと、英語が母国語ではないから、歌詞の混み入った内容や気の利いた表現などが、コンディションによっては全く理解できない事もあった。


音楽祭は7/17からだったけれど、私が現地に着いたのは7/18で、既に現場はおおいに盛り上がり言わば"出来上がった"状態にあり、野外フェスなんてパスカルズで出演する為にしか参加した事の無い私は、右も左もわからない状態だった。

受付に行くと、そこで働いておられる皆さんも全て聾唖の方達で、皆さん、私の言っている事はわかるけれど、私に伝える術を持たず、手続きがスムーズに行われなかった。

みんなは共通言語ーこの場合は手話ーで自由にお喋りしていて、笑い合ったり真剣に話し合ったりしている。
状況が飲み込めないのは私だけでなす術が無く、私の言語を話す人が来るまで、待たなければならなかった。

これは言葉の通じない国での体験と、全く同じ物だ。

私はそこでは完全なるマイノリティで、てきぱきと仕事をこなし互いに真剣に語り合う人々の前で、何も理解出来ずに右往左往する、全くの異邦人だった。

もしも「障害」という言葉をどうしても使いたいなら、あの現場で障害を持つ者は私であり、彼らでは無かった。


あるドラマを観ていた時、子供時代に誘拐され監禁状態にあった少女が逃げ出し、保護された病院の医師にその少女が、「酷い状況にあったけれどそれも私の人生なのに、誰もまともに話を聞いてくれようとしない。酷い目に遭ったけれど、病室のテレビで、監禁中に犯人が観せてくれた映画をやってるのを観た時、犯人の事を愛しくさえ思った。そんなこと言うと、異常だと思われるわよね。」という台詞があった。

彼女は自分の体験を、「酷い状態だった。」と敢えて言わなければならない事を知っていた。
何故なら彼女の戻って来た"ノーマルな"世界は、監禁下の彼女の人生が「酷い」ものだった、と考えるのが、妥当な世界だからだ。


これを観た時私は、かつて拉致の被害者の方々の一部が日本に帰国した時、彼らのあの国での人生を全て否定するような言葉を、報道を通じて度々聞いた時の違和感を思い出した。

これからは美味しい物を沢山食べられるよ、そんなダサい服は捨てなさい、日本に戻れたのだから幸せになれるよ。

当たり前の様に放たれるこういった言葉を聞いて、当事者の方はどう感じているのだろうと、私はいつも思っていた。
拉致は許されざる犯罪ではあるが、その被害者である彼らは、被害者であると同時に、その人生を生きた人々なのだ。それは彼らの人生なのである。

犯罪を許さない、ということと、彼らの生きた人生を、あたかも忌まわしい物であるかの様に扱うことは別物だ。それは妥当ではないと私は思う。犯罪は忌まわしいけれど、それに巻き込まれた彼らの人生体験そのものが、忌まわしいとは限らないと思うのだ。

耳が聴こえない、目が見えない、という事が人にもたらす益と可能性が、聴く事や見る事が当たり前になっている人々には決してわからないように、犯罪や事故や病気の被害者である人々の人生や体験を、マイナス、と考えることが当たり前になっているのはおかしい。

欠損、という意識でそれらを受け止める限り、彼らの生きている人生の奥行きを推し量ることは出来ないのだ。


先日あるテレビCMを見て愕然とした。

日本のどこかの会社が「未開地」に、テレビを普及する運動をしていて、それをあたかも美談の様に、CMで自画自賛していたのだ。

オー、マイ、ガー  !!!!

日本人は、テレビを観られる事が、人の幸せだと思っているんだね!!!

人助けの為に情報伝達が必要だと思うなら、選択肢の豊富なインターネットを普及すればいいと思うけれど、それだってもしかしたらいらないのかもよ?

少なくとも、最近私が最も幸福を感じた時間は、テレビからもインターネットからも離れて、きれいな空気の中で太陽をいっぱい浴びて、大好きな人たちと、山や空や鳥や花や野生のウサギを見ている時間だったよ。

でもテレビ大好きな一部の日本人にはそんな事思いもよらなくて、テレビという娯楽を未開地に届ける事が、堂々たる美談になっちゃうんだね。なんの疑問も無く。


こんな風に、如何に人間が心理的に盲目かを、人はもっと知るべきだと思う。

聞こえない人は聞こえないままでいいし、見えない人は見えないままでいい。
(本人が別の可能性を望む以外は)

誘拐された子供が、監禁されていた時間に、なんらかの幸せを感じていたのなら、それはそれでいいじゃない。
理不尽な状況からはもちろん救い出されるべきだけれど、その環境の中で生きた時間の価値を否定することは、誰にも出来ない。

手や脚の無い人には、ある人には獲得できないような、特別な力があるかもしれない。

大病を患った事で、普通の人が持ち得ないような、深い洞察力を得たかもしれない。


生き物には、欠落なんて絶対に無い。

誰かがそうと、決めない限りは。

何かを持っていない人のことを、持っている人が、「欠落だ」「障害だ」「不幸だ」と決めつけるのは、豊かな自然と共に生きることを知っている人々の生活にテレビを普及しようと頑張っちゃうのと同じくらい、盲目的で浅はかでアホくさい事だと私は思う。

そんな事を改めて思い起こさせてくれた、山の上での音楽祭。

炎天下での高山の上、酸素不足で次々に病んでゆく出演者や観客を、介護し、思いやり、いたわり、保護し、助け続けてくれたのは、地元に住む、聾唖ボランティアの方々でした。