2014年12月4日木曜日

ネガティブ・マージング

ちょっと興味深い事があったので、そこで感じた事を書いておこうとこのブログ投稿画面を開く。

私がここに、学校で学んでいるトラウマなどの事を書くと、元気で問題無く生きている方などは、トラウマは持っててナンボだ、などと思われるかもしれませんが、この世にはわけのわからない理由で機能を失っている方も多く、そういう方の中には多彩な情報から自分の状態を紐解く必要を感じている方も多いのです。

健康な立場の人が、耳慣れない栄養学や心理学やトラウマ学や、あらゆる多彩な情報ひとつひとつに目くじら立てるのは、それだけの余力があるという事です。余力がある人が、癇に障るというだけで新しい情報を潰しにかかっていけば、新しい可能性はまるで生まれません。

日本のSNSでは、提示された情報にちょっとでも誤りがあったり物議を醸したりすると、情報元を非難するという行為に走りがちな傾向を時々目にしますが、そういう風に情報元を叩き潰してゆくと、結局は害にも毒にもならないぬるい情報しか開示されなくなってゆくと思うのですがいかがでしょうか。

情報元はそのまま多彩なまま尊重しておいておき、受け取る側がリテラシーや探査力を高めてゆけばよいだけであり、そういった態度を高めなかった結果が、国が情報を統制する、という法律を公使してしまえることにも繋がるのではないかと思います。


なんて書きましたが、これから書くことは別にそんな、物議を醸し出す様な内容ではありません。ちょっと私的に書き留めておきたい事があったので書き留めておくのです。


ネガティブ・マージンという心理状態があります。

これは、赤ん坊の頃にお母さんといつも一緒にいた時の経験を起源にした学習パターンです。

お母さんも人間なので、機嫌の良いときも悪い時もあります。
体調が良いときも悪いときもあり、だらしないときもきちんとしているときもあります。

そういった、お母さんの中にある揺らぎを、最も敏感に感じ取っているのは、赤ちゃんです。

先日アメリカのテレビドラマを観ていたら、テーブルにきちんと座って 無心にご飯を食べている赤ちゃんを挟んで、夫婦が突然喧嘩を始めるというシーンがありました。
間に挟まれていた赤ちゃんの、途端に顔色を変えて体を硬直させる様子があからさまに見る事が出来たので、あれは演技ではなく、リアクションだな、と感じました。

酷いよね。。
生活の中でなら防げない現実かもしれないけれど、ドラマ撮影なんていう現場で生の赤ちゃんの反応を利用するなんて。

と思いましたが。

まあそれはそれとして。

赤ちゃんというものは、まだ未完全な成長中の脳に、そういった 出来事への心理的生理的反応をどんどん記録してゆきます。
大人にとっては「また始まった。。」で済む事が、赤ちゃんにとっては何もかも新鮮で強烈、初めての体験の連続なんですから、ものすごいインパクトで、脳に刻んでゆくのです。学習パターンとして。

そんな数ある記録ピースの中に、お母さんの変化、というものが入ります。
最も身近で大事な存在のお母さんに関する事ですから、かなり深く、かなり沢山、入ります。
もうそれが、基本学習パターンになってしまうくらい、入って来ます。

赤ちゃんは、お母さんに抱かれている時、大変甘美な一体感の中にいると言われています。まだ脳が、個体識別認識を出来ない状態の成長度での他者との融合は、それはそれはとろけるような、まさに溶け合うような体験だそうです。

多くの人が恋愛にそれを求めるのは、この時期の再体験を求めていると書いている本もあります。

そんな至福の体験ですから、赤ちゃんは愛着を感じます。
しかし融合している相手が神でない以上、融合状態の中でお母さんの態度が変化する事が多々あります。

つまり、赤ちゃんへの深い愛情を示していながら、例えばそろそろ仕事に行く時間だわ、と思ってさっと胸から赤ちゃんを引き離し、ベビーシッターさんに預けちゃうとか、赤ちゃんを抱えながらいきなり荒々しいエネルギーでダンナを責め始めるとか、あるいは赤ちゃんそのものに対して怒りを感じて、突然叩いたり突き放す様な行為をしたりとか。

そういう、愛情とは真逆のエネルギーを、至福の体験と共に赤ちゃんは経験するわけです。

当然赤ちゃんは不快を感じます。
しかし、その体験は已然として愛着対象であるお母さんとの融合感の中に含まれている為、赤ちゃんはその不快な体験にも、徐々に愛着を持つ様になっていってしまうのです。

脳が完成される頃には、表面的には至福な関係性を求めつつ、潜在的にはどこかでネガティブな要素が無いと、本当の幸福と感じられない、リアルと感じられない、と思う様になってゆくわけです。

幸福には不幸がつきもの。
これが、「ネガティブ(否定的な)・マージング(融合)」のトラウマ的学習パターンです。

こういう状態で成長すると、関係性の中に不健康な要素があっても、むしろそこに愛着を感じるようになってしまいます。

愛情関係や人間関係、親子関係の中に、頼り過ぎ、甘え過ぎ、支配し過ぎ、支配され過ぎ、侵略し過ぎ、虐め過ぎ虐められすぎ、エネルギー取り過ぎ取られ過ぎ、威張り過ぎ威張られ過ぎ、などの行為があっても、それはあくまでもお母さんの一部なので、絶対に手放したく無い、それを手放すのはお母さんを失うのと同じ事、という強烈なインパルスを感じてしまいます。

ここで言うお母さんとは、何も実際のお母さんだけのことではありません。
赤ちゃんにとっての至福と安全を象徴する全存在、至福の融合相手全般を意味しますから、人生全般とも言えるかもしれません。

もし人生が圧倒的に幸福な時、何か悪い事があるような気がして不安、落ち着かない、という症状が自分にあったら、このネガティブ・マージングの傷が疼いているのかもしれません。
良い事の後には悪い事がある、という体験は、脳の成長の早い時期に自分が、養育者を通して体験したものの両極性なのです。

ところでうちの学校では、臨床的にこの経験の傷が治ってゆく課程において、すさまじい悲しさと孤独を体験し、その後すっげえいい気分になるというレポートがありました。

そしてこの、すさまじい悲しさと孤独の後に、感じた事も無い様な幸福な自由感を感じるというこの状態、これはまさに、お母さんだと信じている緑石混合の融合相手を手放す悲しさと、一旦手放して独立してみたら随分楽じゃねえか、という、あっけらかんとした結果に他なりません。

もう一度書きますが、こういった人間の脳のトラウマ的要素こそが人間の面白さだ、と感じられるくらい楽しく それを応用して生きている方はそれでいいのです。

しかしもし自分が、わけも無く不本意な現状にはまっているとしたら、それにはこういったカラクリと原因があるのかもしれず、原因があるということは変更も可能であるということを、知っていて欲しいと思うのです。