2016年10月20日木曜日

ディランとノーベル賞

ディランがノーベル賞を獲ったおかげかどうか知らないけれど、huluに" I'm Not There"が配信されて来てたので観る事が出来た。

“I'm Not There"はボブ・ディランの半生をユニークな手法で描いた映画で、女優のケイト・ブランシェットがディラン役をそっくりに演じた事でも話題になっていた映画だ。

観たいと思いつつ機会を逃し続け、ようやくさっき観終えた。

そんで思ったんだけど、ディランてやっぱり、"禅"、だね笑。

ノーベル賞貰ったのに、ずっとスルーしている事で、様々な憶測が飛び交っているのを、ネットなんかで見る。

大方は、ノーベル賞が武器を作って発展した賞だから、平和主義者のディランは拒否しているし無視しているのだ的な、彼の、プロテスト・ソング・シンガーという側面を捉えた人の意見が多い感じがする。

私は評論家みたいな詳細な視点でディランを掘り下げた事が無いから、もしかしたらそれが正しいのかもしれないけれど、私の中にいるディランと照らし合わせると、その感じにはなんとなく違和感がある。

私の中にいるディランに照らし合わせると、ノーベル賞受賞、という経験に、単に今現在、彼のアンテナが響かないだけなんじゃないかという気がしてならないのだ。

何か他の事に気をとられているとか、そういう事だけなのであって、思想的にどうこうっていうんじゃないんじゃないのかな。
まあこれは本当に、単なる私の思い込みですから、世間で彼をもっと観察している人が”思想だ。”と言うんなら、そうなのかもしれません。まあどっちでもいいんです。
ディラン本人はまた、全然違う思惑の中にいるかもしれませんしね。


私が映画を観て思ったのは、天才って大変だなって事なんです。

ディランがデビューして有名になった時代って言うのは、まだ人類がそんなに進化してないって言うか笑、まだすっごく保守的だったり頭が異様に固かったりしたのでしょう。映画の中のディランは、非常に生きるの大変そうです。


ディランは単に、今の事にしか興味ありません、って言ってるんですよ。

それを、昔はアコースティックだったのにロックに転向したのは何故かとか、裏切りだとか、魂売ったとか、政治なのか詩なのかとか、どっちの味方なんだとかかんだとか、もう、うるさいっつうの!!笑。

様々な人が”ディラン”というイメージを持ち、またそれを持つ事に必死で、そしてなんらかの既存の型に、彼を当てはめて考えようとする。
そして、自分がはめていたイメージから彼の言動が逸脱する度に恐れおののき笑、非難し、憎み、ののしり、今度は次の新しいイメージを作る事で、彼の本性を暴こうとしたり、暴けたような気になる。

そんな事やってたら、いつまでたっても、ディランの本当の存在感なんて、見えて来ないじゃないですか。
彼の様な宝と同じ時代に生きる事が出来ている尊い体験を、全く無駄にしてしまっています。

私が最もバカバカしいと思ったのは、ディランが煙に巻いてる彼の生い立ちや素性を暴いたテレビ番組が、意気揚々と、それを報告していたシーンです。


私はディランが、正しい生年月日や出生地や生い立ちを、公にしないどころか、ニセモノを作って誤摩化す気持ちが、実はよくわかります。
そんな情報、彼の仕事や本質に全く関係無いし、ニセモノでも与えておかないと、知りたくて知りたくてうるさい人ってのが、必ずいるんですから!
それをわざわざ暴いて、公にして、得意になっているテレビの人のアホさ加減には、本当に腹が立ちました。

自分が気にしてないなら、教えたって同じじゃないか、なんて小学生みたいな事を言う人までいる始末です。
人には、自分のプライバシーを、守る権利があるんです。
その生い立ちが更なるイメージを人の心に作って、ディランの作品や存在の本質の、余計なフィルターになってしまう弊害だってあります。
創作者は、創作物だけが正直なら、それでいいんです。

私の近所にも、人のプライバシーを平気で漏らしがちな人がいますが、私にそれをやったら、訴訟を起こして100万円くらいは貰う気持ちも自信も、本気であります。


何故に人は、目の前のありのままの現実では無く、イメージや情報で、人や物を判断しようとするのでしょう。
イメージという物は、イメージである事でもう既に既存の、限界のある物なのです。
でもありのままの現実には、常にフレッシュで一期一会の、無限の知覚体験が、広がっています。

もしもディランに出会った時に、頭の中に、この人は反体制でプロテスト・シンガーで気難しくて不遜でプライドが高い、なんていうイメージがあったら、自分はそのイメージに対応してしまい、目の前の本当のディランを、フルに体験出来ません。
個人のイメージの中に、ボブ・ディラン本人は、存在していないのです。

ボブ・ディランという人は、常にそういう、人の持つ固定観念に挑戦し続けていた人だと記憶しています。だから今でも彼のコンサートは、新鮮な驚きに満ちています。



私は映画の中のディランが最後に言った、詩は無意味でこそ神聖だ、という言葉に、全てが集約されていると思いました。


本当の抽象は、全ての固定観念から自由で、そこに何も提示しない、純然たる、抽象だからです。
そこにあるのは、ただ流れて移ろい流転する、純然たる現実だけです。
イメージなどという、粘っこくて潔くない、臆病で腰の引けた、思いがけなさを恐れる心の安全ネットみたいな、古ぼけた座布団みたいな現実認識の介入する隙間はありません。

優れた芸術家は皆、風景画でさえ抽象の目で描き上げています。
もしも人がイメージにすがろうとするなら、もうその具象的な表現方法さえ諦めて、抽象的な言葉の羅列をするしかない。

本物のディランがどうなのかはわからないけれど、あの映画では、ディランの抽象的な歌詞の由来を、そんな風に描いていたように思います。


詩は無意味でこそ神聖だ。


なんて禅なのでしょう。


あの映画は、型破りなディランの姿を、型破りなやり方で、とてもよく描いていたと思います。