2015年1月7日水曜日

静かな午後





友達がやっているアート雑貨店ニヒル牛に、最近10年振りくらいに作品を納品して、その一部がちょっと壊れていたので、今日の午後、直しに伺った。

小雨のちらつく薄暗い午後にニヒル牛のドアを開けると、そこには今日の店番でありニヒル牛の作家さんでもあるナナコさんがいらした。

店主で友人のあるくんが店番の時にしか最近行かなかったので、私にとってのニヒル牛は、あるくんの醸し出す徹底的に陽気な、とは言えそれはラテン系的陽気さとも違うのだが、なんというか、農耕的な、ふところの深い陽気さ?みたいなわけのわからない物に一瞬で包まれる空間だったのだが、今日のニヒル牛は、まるで違っていた。

柔らかい、草原に潜む小さな妖精が唄っているような、ひそやかな女性ヴォーカルの歌声が流れ、店番のナナコさんが、多分納品に来ていたのであろう若い女性作家さんと(後にそれが私の大好きなビーズ作家ココマコムーンだったと知るのだが)優しくお互いの作品を讃え合う様な、きれいで可愛らしい会話をしていた。

窓から差し込む白い光、細やかに展示されたアート雑貨の数々。
カフェになっている店の角のテーブルにつき、縫い物の道具を広げた頃には、私は完全にその空間の中にくつろいでしまっていた。

音楽は何故かアイルランドかスコットランドあたりの、曇った空を写す海の景色を思い起こさせる。
まるでお店自体が、海辺の寒村の小さな丘の上にでも建っているような錯覚を起こさせる。

私はしんとしていることが好きなので、普段自分の部屋で音楽はかけない。
私にとって音楽とは、聴きたいと思った時に、聴きたいと思った物を、猛烈に集中して聴く物であり、日常的に部屋にかけっぱなしにしておくようなものではないのだ。

だけど今日、このニヒル牛でかかっている音楽は、静けさを、静けさ以上に静かにしてくれている。

深く心に沈殿するような、頼り無さげな、それでいて芯の強い歌声。
その声に乗せて時折聞こえる、ナナコさんと店を訪れるお客さんや作家さんとの、穏やかなお喋り。
自分の心の内と、しん、と繋がっているから、そこで交わされる会話は、決して表面的な社交ではない。とりあえず相手を褒めておけば角が立たないっしょ、なんていう軽薄なものではないのだ。

静けさというものは、そんじょそこらの若い娘が醸し出せるもんじゃないんだよ、と私はかねてから思っている。
どんなに見せかけを静かに装おうと勤めても、心の中にざわつきがあれば、それが表に現れる。
街で感じる快適ではない喧噪の多くは実際の声なのではなく、実はこの、心のざわつきが醸し出すエネルギー騒音が大きいのだと私は感じる。

期せずして、ナナコさんが私に「おもしろいですよ」と言って持ってきてくれたのは、ビーズ作家ココマコムーンが、隣近所の騒音にたまりかねて田舎に引っ越すまでを綴った、壮大なる旅の読本だった。
ふむふむ、ココマコムーンさんも静けさが好きなんだね。
わかるよ、ココマコさん自体も、すごく物静かな優しい感じの人だもんね。
文章ははっきり言って過激だけどね。
わかるよ、平和な静けさをわかってくれない環境にいると、静けさの炎で全員焼き殺したくなるんだよね。ふ、ふむふむ。。。。。。

まあ、それはそれとして。


今日の私の午後は、海辺の寒村に佇む小さな、けれど気の効いたアート雑貨屋のカフェの片隅で縫い物に費やされるという、極上の時間だった。

縫い上がったら作品を展示棚に戻して、小さな扉を開けて帰ろう。
扉を開けると表には、曇り空色の水を湛える海。
カモメが一羽岩の上で、打ち上げられた小魚を食べているかもしれない。

妖精みたいに人の心の気配をそっと汲み上げる、ナナコ店番の心地よい気遣いと静けさとそして、ナナコ店番のハートから聞こえてくるような、不思議な歌声は名残惜しいけれど。


ところで、この記事を書いた後にその歌声の主、イギリスのアーティスト ヴァシュティ・バニアンについてちょっと調べたところ、彼女は鳴り物入りでイギリスの音楽シーンにデビューしたもののそのビジネスに嫌気がさし、パートナーと共に、ななんとスコットランドのスカイ島に移り住んで音楽の世界から消えてしまった、とあったではありませんか。

スカイ島というのは私の長年の友人であるマルコムの生まれ故郷で、いつも話を聞かされている、私にとってはある種 馴染み深い島なのである。
そして彼からスカイ島の話を聞く度に私が思い浮かべる景色こそが、まさに今日ニヒル牛の中で見ていた景色、そのものなのです。

だからこのブログの写真に、そのスカイ島の景色を、載せておきます。