ボブ・ディランは本当に立ち止まらない男だよ。
初来日から何回か、年数を開けてだけど何回もコンサートに行っているけれど、毎回毎回新鮮で、過去という物を全く引きずってない。
そして今回はなんというか致命的に、と言うとネガティブな印象になっちゃうかもしれないけれど、とにかく今までのレベルを遥かに超えた別人ぶりだったんだよね。
まあ私の主観だけどね。
ボブ・ディランは私の親くらいの年なので、もちろん私はデビュー当時から彼を知っているわけではない。私が彼に夢中になったのは、"Hard Rain"というアルバムを出した頃で、その頃の彼は、もうフォークソングのディランて感じじゃなかった。
その頃の彼はサイケで先鋭的なアーティストで、"レナルドとクララ"なんていう実験的な映画を創ったりしていた。
ディランは常に変り続ける男なので、その時代のその表現をもすぐに脱皮した。だから私ももう彼を追わなくなった。というか、CDを買わなくなった。
でも日本に来るとちゃんと気にしていたし、時々コンサートにも行って、毎回のそのあまりの素晴らしさに、ボブ・ディランていうのは唯一無二の怪物で、唄ってる歌が好きなタイプだとか嫌いなタイプだとかそういうんじゃなくて、火山みたいにそこにいて、火を噴いてると誰もが圧倒されて眺めてしまうような、そんな存在なんだなといつも感嘆していた。
そしてどんなに彼が変っても、私の中にはいつも同じ、普遍的な彼の印象があった。
それは、抽象的だ、ということだ。
私がディランを好きになった頃、私はシュールレアリズムにハマっていた。
前にブログに書いた幼なじみのアーティスト友達のルナがダリを中二病っぽいと言うんだけど、まさに中学生になった頃に私はダリのファンになった)笑。
それもあって記憶の中のボブ・ディランとシュールレアリズムが結びついてしまう部分もあるのだが、ボブ・ディランはシュールというよりいつも私にとっては抽象絵画だったのだ。
まるでただの粒子の光る粒の様に、そこにいるディラン。
彼のコンサートに行くと、声がまるで光のシャワーの様に感じられて、とにかくあんまりヒトの温度を感じないのである。唄う表現が変っても、ディランはいつも抽象的にそこにいて、Hard Rainの頃は派手なサイケな色彩を放つ粒子だったのが、年を得る毎にどんどん白とか銀とか透明になって行って、とにかくそんな感じがすっごく好きだった。
目の前にいても会話が通じない感じ。
言葉が通じないから点描で会話するみたいな(なんだそりゃ)。
ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、私はボブ・ディランに会った事があるんです。
直接会ったその時も、やっぱり抽象的な、点描な感じだった。
白い肌に澄んだ大きな水色の目が印象的で、ものすごく優しく微笑んで暖かく接してくれるのだけれど、情的暑苦しさの全く無い、存在そのものが涼やかな、ミロの絵みたいな人だった。
しかし。
今夜観て来た、文化村オーチャード・ホールでのディランは〜。。。。
私は初めて、具象絵画のボブ・ディランを観た、と感じたのです。
今夜のようなボブ・ディランとなら、なんだか居酒屋で酒とか飲みながら話し込めそうです。
なんというか、何年もずうっと霞を食べて生きてきた人が、急に人界の物を食べに降りて来た様な。
それは彼が"枯れ葉"やフランク・シナトラのラブソングを、素晴らしい表現力で歌い上げたせいかもしれないし、何度と無くステージの上でおどけた仕草をしたり、アンプの影でストレッチしたり、日本語で挨拶したりしたせいかもしれません。
とにかく今夜の彼は、もう完全に、私の知ってるボブ・ディランじゃありませんでした。
だけどやっぱり、素晴らしかった。
どういうわけか、私が彼のファンになった当時から、ボブ・ディランは歌が下手だ、みたいな評価がありました。
でも私はそれに、一度も同意した事はありません。
ディランの声は素晴らしく安定した深さと美しさと表現力があると、ずっと思っていた。
そして今夜それが、本当に際立って証明された感じです。
今夜のディランはギターを持たず、唄う事に徹していました。
時々素敵なピアノ演奏で弾き語りを聴かせてくれたけれど、殆どの時間は立って、そしてただ唄っていました。
その声はハスキーだけど澄み切っていて、伸びやかで力強くて、深くて表現力の豊かさに満ち満ちていて、"枯れ葉"なんて、歌詞のひとつひとつが、心に深ーーーーーーーく突き刺さって来て、まるで映画を観ているようでした。
今夜のボブ・ディランは吟遊詩人ではなく、歌手でした。
抽象絵画ではなく、瑞々しい風景画でした。
今までのボブ・ディランは徹底的に消えてしまったけれど、私には第二期ボブ・ディラン・ファン時代が始まったような気がする。
彼の歌い上げる、抽象的でも反抗的でもシュールレアリズムでもダダイズムでもない、普通のラブ・ソングやバラードをもっと聴きたい。
彼のあの、仙人みたいな響きの深い声で歌い上げられる普通の歌の、なんと素晴らしい事よ。
歌詞のすごさや楽曲アレンジの複雑さに気を取られ、というか、とにかく今までのディランの音楽はね、あの素晴らしい歌声に中々集中できないくらい沢山の聞き逃せない情報を抱え込んでいたんですよ。
だけどディランが"枯れ葉"を唄うとなれば、こっちは完全に歌声に酔いしれる事が出来るというわけ。
今後しばらく私はディランの作った、アメリカン・クラシック・カバー集CDを買って、あの、世界の宝の様な歌声に酔いしれるとしよう。
なんと贅沢な楽しみ!! を、今更くれてありがとう。
ああ、あと今夜もうひとつ素晴らしかったのは、ピアノの弾き語りでの、"風に吹かれて"でした。
ボブ・ディラン本人の唄う"風に吹かれて"を今更また生で聴けるなんて、カザルスの演奏する"鳥の歌"を生で聴いた時以来の感無量。
とにかく私は、またディランを追っかけるよ。
だから今夜は、終わりで始まりの夜でした。
ボブ・ディラン。
恐ろしい人。