あまりにも評判を聞く機会が続いたので、ものすごく遅ればせながら観始めたドラマ"ウォーキング・デッド"。
人気の秘密が徐々にわかり始めた最近、実に色々と考えさせられる、という構造も、人気のひとつなのだろうと思ってアメリカの友人に聞いたら、もちろんそうだという返事。
みんな、ドラマに出てる人たちのやり方や価値観の分析や批判や肯定で楽しんでると言っていた。そういう意味では、そういった誘いに満ち満ちている、大変成功しているドラマだと思います。
視聴者をうまく"釣れてる"、ってやつですね。
そして私は、ドラマや映画については、積極的に釣られたり騙されたりする様にしています。
その方が楽しいからです。
登場人物についても、好みやなにやらが別れると思います。
私個人は、主人公グループを率いているリーダーであるリックを胡散臭いとずっと思っていて(笑)、片腕のダリルを、素晴らしいと思っています。
ダリルは、私が昔アメリカで学んだナチュラリストの技を実際の戦闘に活用しています。
地面の足跡を見てその人物の体重を測ったり、枝の折れ具合や木肌のコンディションから、そこで起こった事を推測したりと、中々かっこいいのです。
まあそれはそれとして。
ドラマの中では度々、ゾンビに変化しちゃった家族の誰かを、自分らに危害を加えない程度の管理でかくまっている人が出て来て、それを主人公サイドの人間が暴いて、ゾンビな家族を殺しちゃうエピソードが、度々出て来ます。
それを見る度に私は、これってどうなのよ、って思ってしまうんですよね。
確かに今のところ、一度ゾンビになっちゃったらもう戻れない事はわかっています。
完全脳死状態になった後、なんらかの作用で脳幹だけ機能し始め、しかしその時にはもう、凶暴な何かに変ってしまっているわけです。
家族をかくまっている人は、いつか治療法が発明されて、元のその人に戻るはずだと淡い期待をもって、彼らをかくまっているわけですね。
でもなんでだか、それを知ると殺しちゃう方向に、あのドラマは行くんだよね。
まだ見始めたばかりなので、何を示唆したい番組なのか私にはわからないんだけど、FOXテレビの番組だと言う事から、ちょっとばかりの疑いを、持ち始めているのです。
もしもあのドラマが、鷹派の価値観を基準に動いているんだとしたら、どうなんだろうと。
確かに、咬まれたり引っ掻かれたりすると感染してゾンビになっちゃうんだから、ゾンビはいなくなるのが最も良い。
しかし誰かが、まだ家族がゾンビになっちゃった事を受け入れられず、いつか戻ると期待していたいのだとしたら、それはそれでいいんじゃないんですか?
他人に迷惑をかけない様に隔離しているんだし、万が一そいつが逃げ出しても、真っ先に被害に遭うのはかくまっているその人であり、更に表に逃げ出しちゃっても、後は何万匹もいるゾンビに混ざってウロウロしているだけに過ぎません。
もうああなると、野生のゾンビがひとり増えようなふたり増えようが、関係無いような世界なんですから。
ドラマの中では、ゾンビVSニンゲンより、むしろ生き残った人の間で描かれる戦いと葛藤に焦点が当たっており、そして正義と正義じゃない側の価値観がとても曖昧です。
だからこのドラマは意識的に、絶対的な正義、という概念のはかなさを描いているのかもしれない。
けれどもしも、ゾンビになっちゃった家族をさっさと殺す方が正しいんですよ、先に進む為に、という意識がベースにあるんだとしたら、私は途端にこのドラマが、FOX系列TVで放映されている事が、気になり始めてしまうんですよね。
それって、鷹派の考え方じゃない?
Aという人物が、Bという人物の大切にしている物を、「おまえそれ、おかしいよ。」って言って、その人のドアをこじ開けて、その大切にしている物を破壊してしまう。それによって平和が築かれる。という錯覚。
それは単に、Aという人物が欲しい現実を、Bという人物の価値観が邪魔をするからと言って、Bの価値観を根こそぎ否定して"改心"させる、それによって欲しい現実が得られる、という自己満足に過ぎません。
Aは単に、Bに賛成出来ないから、自分の居心地悪さを正しさや常識に置き換えて正当化して、自分にとって居心地の悪い場を、居心地良く変えようとしているだけですよね。
アメリカにはまだ根強い保守派の人たちがいて、未だに同性愛者を異常視したり、正当派とその人たちが見なす価値観や宗教観から逸脱した人たちへの理解を、拒絶したりしています。
私は、どんな偏見でも古い考えでも、個人のレベルで持っているだけならそれはそれで自由だと思っている人間ですが、もしも誰かが自分の価値観を、誰もが持つべき正しい物だ、と勘違いして、それを他者に強制し始め、その行為が公民権を得たら、それは自由世界の終わりだと思います。
それだけは許してはいけないと思うのです。
ゾンビの存在は、害毒です。
醜悪で、生きる価値も無い。
しかし、誰がそう言いきれるのか。
一人娘がゾンビになってしまった。
その姿は、肉親以外の人から見れば、醜悪な悪魔かもしれない。
でも父親はその顔に、過去の可愛らしい娘の面影を見ているのです。
あのドラマが、どういう価値観で進んで行き終わってゆくのか、今は全くの未知だけど、もしも二元論で正悪を捉える価値観がゾンビを殺すのだとしたら、私はそれは間違っていると思います。
あのドラマの中で、ゾンビになっちゃった肉親をかくまう人々を、どうやって描いてゆくのかは、とても大切だと思うのです。
先へ進むとか、健全であるとか、ポジティブであるとか、正直であるとか、困難から立ち直るとか、社交的であるとか、ちゃんと働いているとか、家族がいるだとか、ヘテロであるとか、強いとか、病んでないとか、正義感があるとか、そういう事だけがノーマルであるとする意識が暴走している一部の人間を抱えている土壌が、もしもその思想を土台に、そうした方が結局はみんなの為だとかいう思いを土台に、家族がかくまっているゾンビを殺すのであれば、それは間違っていると、私は思うのです。
あのドラマがどんな方向に行くのか、だからとても興味があるのです。
TWDは、闇、と位置づけた存在や行動を、果たして今後、受け入れるのでしょうか。
2016年10月30日日曜日
2016年10月20日木曜日
ディランとノーベル賞
ディランがノーベル賞を獲ったおかげかどうか知らないけれど、huluに" I'm Not There"が配信されて来てたので観る事が出来た。
“I'm Not There"はボブ・ディランの半生をユニークな手法で描いた映画で、女優のケイト・ブランシェットがディラン役をそっくりに演じた事でも話題になっていた映画だ。
観たいと思いつつ機会を逃し続け、ようやくさっき観終えた。
そんで思ったんだけど、ディランてやっぱり、"禅"、だね笑。
ノーベル賞貰ったのに、ずっとスルーしている事で、様々な憶測が飛び交っているのを、ネットなんかで見る。
大方は、ノーベル賞が武器を作って発展した賞だから、平和主義者のディランは拒否しているし無視しているのだ的な、彼の、プロテスト・ソング・シンガーという側面を捉えた人の意見が多い感じがする。
私は評論家みたいな詳細な視点でディランを掘り下げた事が無いから、もしかしたらそれが正しいのかもしれないけれど、私の中にいるディランと照らし合わせると、その感じにはなんとなく違和感がある。
私の中にいるディランに照らし合わせると、ノーベル賞受賞、という経験に、単に今現在、彼のアンテナが響かないだけなんじゃないかという気がしてならないのだ。
何か他の事に気をとられているとか、そういう事だけなのであって、思想的にどうこうっていうんじゃないんじゃないのかな。
まあこれは本当に、単なる私の思い込みですから、世間で彼をもっと観察している人が”思想だ。”と言うんなら、そうなのかもしれません。まあどっちでもいいんです。
ディラン本人はまた、全然違う思惑の中にいるかもしれませんしね。
私が映画を観て思ったのは、天才って大変だなって事なんです。
ディランがデビューして有名になった時代って言うのは、まだ人類がそんなに進化してないって言うか笑、まだすっごく保守的だったり頭が異様に固かったりしたのでしょう。映画の中のディランは、非常に生きるの大変そうです。
ディランは単に、今の事にしか興味ありません、って言ってるんですよ。
それを、昔はアコースティックだったのにロックに転向したのは何故かとか、裏切りだとか、魂売ったとか、政治なのか詩なのかとか、どっちの味方なんだとかかんだとか、もう、うるさいっつうの!!笑。
様々な人が”ディラン”というイメージを持ち、またそれを持つ事に必死で、そしてなんらかの既存の型に、彼を当てはめて考えようとする。
そして、自分がはめていたイメージから彼の言動が逸脱する度に恐れおののき笑、非難し、憎み、ののしり、今度は次の新しいイメージを作る事で、彼の本性を暴こうとしたり、暴けたような気になる。
そんな事やってたら、いつまでたっても、ディランの本当の存在感なんて、見えて来ないじゃないですか。
彼の様な宝と同じ時代に生きる事が出来ている尊い体験を、全く無駄にしてしまっています。
私が最もバカバカしいと思ったのは、ディランが煙に巻いてる彼の生い立ちや素性を暴いたテレビ番組が、意気揚々と、それを報告していたシーンです。
私はディランが、正しい生年月日や出生地や生い立ちを、公にしないどころか、ニセモノを作って誤摩化す気持ちが、実はよくわかります。
そんな情報、彼の仕事や本質に全く関係無いし、ニセモノでも与えておかないと、知りたくて知りたくてうるさい人ってのが、必ずいるんですから!
それをわざわざ暴いて、公にして、得意になっているテレビの人のアホさ加減には、本当に腹が立ちました。
自分が気にしてないなら、教えたって同じじゃないか、なんて小学生みたいな事を言う人までいる始末です。
人には、自分のプライバシーを、守る権利があるんです。
その生い立ちが更なるイメージを人の心に作って、ディランの作品や存在の本質の、余計なフィルターになってしまう弊害だってあります。
創作者は、創作物だけが正直なら、それでいいんです。
私の近所にも、人のプライバシーを平気で漏らしがちな人がいますが、私にそれをやったら、訴訟を起こして100万円くらいは貰う気持ちも自信も、本気であります。
何故に人は、目の前のありのままの現実では無く、イメージや情報で、人や物を判断しようとするのでしょう。
イメージという物は、イメージである事でもう既に既存の、限界のある物なのです。
でもありのままの現実には、常にフレッシュで一期一会の、無限の知覚体験が、広がっています。
もしもディランに出会った時に、頭の中に、この人は反体制でプロテスト・シンガーで気難しくて不遜でプライドが高い、なんていうイメージがあったら、自分はそのイメージに対応してしまい、目の前の本当のディランを、フルに体験出来ません。
個人のイメージの中に、ボブ・ディラン本人は、存在していないのです。
ボブ・ディランという人は、常にそういう、人の持つ固定観念に挑戦し続けていた人だと記憶しています。だから今でも彼のコンサートは、新鮮な驚きに満ちています。
私は映画の中のディランが最後に言った、詩は無意味でこそ神聖だ、という言葉に、全てが集約されていると思いました。
本当の抽象は、全ての固定観念から自由で、そこに何も提示しない、純然たる、抽象だからです。
そこにあるのは、ただ流れて移ろい流転する、純然たる現実だけです。
イメージなどという、粘っこくて潔くない、臆病で腰の引けた、思いがけなさを恐れる心の安全ネットみたいな、古ぼけた座布団みたいな現実認識の介入する隙間はありません。
優れた芸術家は皆、風景画でさえ抽象の目で描き上げています。
もしも人がイメージにすがろうとするなら、もうその具象的な表現方法さえ諦めて、抽象的な言葉の羅列をするしかない。
本物のディランがどうなのかはわからないけれど、あの映画では、ディランの抽象的な歌詞の由来を、そんな風に描いていたように思います。
詩は無意味でこそ神聖だ。
なんて禅なのでしょう。
あの映画は、型破りなディランの姿を、型破りなやり方で、とてもよく描いていたと思います。
“I'm Not There"はボブ・ディランの半生をユニークな手法で描いた映画で、女優のケイト・ブランシェットがディラン役をそっくりに演じた事でも話題になっていた映画だ。
観たいと思いつつ機会を逃し続け、ようやくさっき観終えた。
そんで思ったんだけど、ディランてやっぱり、"禅"、だね笑。
ノーベル賞貰ったのに、ずっとスルーしている事で、様々な憶測が飛び交っているのを、ネットなんかで見る。
大方は、ノーベル賞が武器を作って発展した賞だから、平和主義者のディランは拒否しているし無視しているのだ的な、彼の、プロテスト・ソング・シンガーという側面を捉えた人の意見が多い感じがする。
私は評論家みたいな詳細な視点でディランを掘り下げた事が無いから、もしかしたらそれが正しいのかもしれないけれど、私の中にいるディランと照らし合わせると、その感じにはなんとなく違和感がある。
私の中にいるディランに照らし合わせると、ノーベル賞受賞、という経験に、単に今現在、彼のアンテナが響かないだけなんじゃないかという気がしてならないのだ。
何か他の事に気をとられているとか、そういう事だけなのであって、思想的にどうこうっていうんじゃないんじゃないのかな。
まあこれは本当に、単なる私の思い込みですから、世間で彼をもっと観察している人が”思想だ。”と言うんなら、そうなのかもしれません。まあどっちでもいいんです。
ディラン本人はまた、全然違う思惑の中にいるかもしれませんしね。
私が映画を観て思ったのは、天才って大変だなって事なんです。
ディランがデビューして有名になった時代って言うのは、まだ人類がそんなに進化してないって言うか笑、まだすっごく保守的だったり頭が異様に固かったりしたのでしょう。映画の中のディランは、非常に生きるの大変そうです。
ディランは単に、今の事にしか興味ありません、って言ってるんですよ。
それを、昔はアコースティックだったのにロックに転向したのは何故かとか、裏切りだとか、魂売ったとか、政治なのか詩なのかとか、どっちの味方なんだとかかんだとか、もう、うるさいっつうの!!笑。
様々な人が”ディラン”というイメージを持ち、またそれを持つ事に必死で、そしてなんらかの既存の型に、彼を当てはめて考えようとする。
そして、自分がはめていたイメージから彼の言動が逸脱する度に恐れおののき笑、非難し、憎み、ののしり、今度は次の新しいイメージを作る事で、彼の本性を暴こうとしたり、暴けたような気になる。
そんな事やってたら、いつまでたっても、ディランの本当の存在感なんて、見えて来ないじゃないですか。
彼の様な宝と同じ時代に生きる事が出来ている尊い体験を、全く無駄にしてしまっています。
私が最もバカバカしいと思ったのは、ディランが煙に巻いてる彼の生い立ちや素性を暴いたテレビ番組が、意気揚々と、それを報告していたシーンです。
私はディランが、正しい生年月日や出生地や生い立ちを、公にしないどころか、ニセモノを作って誤摩化す気持ちが、実はよくわかります。
そんな情報、彼の仕事や本質に全く関係無いし、ニセモノでも与えておかないと、知りたくて知りたくてうるさい人ってのが、必ずいるんですから!
それをわざわざ暴いて、公にして、得意になっているテレビの人のアホさ加減には、本当に腹が立ちました。
自分が気にしてないなら、教えたって同じじゃないか、なんて小学生みたいな事を言う人までいる始末です。
人には、自分のプライバシーを、守る権利があるんです。
その生い立ちが更なるイメージを人の心に作って、ディランの作品や存在の本質の、余計なフィルターになってしまう弊害だってあります。
創作者は、創作物だけが正直なら、それでいいんです。
私の近所にも、人のプライバシーを平気で漏らしがちな人がいますが、私にそれをやったら、訴訟を起こして100万円くらいは貰う気持ちも自信も、本気であります。
何故に人は、目の前のありのままの現実では無く、イメージや情報で、人や物を判断しようとするのでしょう。
イメージという物は、イメージである事でもう既に既存の、限界のある物なのです。
でもありのままの現実には、常にフレッシュで一期一会の、無限の知覚体験が、広がっています。
もしもディランに出会った時に、頭の中に、この人は反体制でプロテスト・シンガーで気難しくて不遜でプライドが高い、なんていうイメージがあったら、自分はそのイメージに対応してしまい、目の前の本当のディランを、フルに体験出来ません。
個人のイメージの中に、ボブ・ディラン本人は、存在していないのです。
ボブ・ディランという人は、常にそういう、人の持つ固定観念に挑戦し続けていた人だと記憶しています。だから今でも彼のコンサートは、新鮮な驚きに満ちています。
私は映画の中のディランが最後に言った、詩は無意味でこそ神聖だ、という言葉に、全てが集約されていると思いました。
本当の抽象は、全ての固定観念から自由で、そこに何も提示しない、純然たる、抽象だからです。
そこにあるのは、ただ流れて移ろい流転する、純然たる現実だけです。
イメージなどという、粘っこくて潔くない、臆病で腰の引けた、思いがけなさを恐れる心の安全ネットみたいな、古ぼけた座布団みたいな現実認識の介入する隙間はありません。
優れた芸術家は皆、風景画でさえ抽象の目で描き上げています。
もしも人がイメージにすがろうとするなら、もうその具象的な表現方法さえ諦めて、抽象的な言葉の羅列をするしかない。
本物のディランがどうなのかはわからないけれど、あの映画では、ディランの抽象的な歌詞の由来を、そんな風に描いていたように思います。
詩は無意味でこそ神聖だ。
なんて禅なのでしょう。
あの映画は、型破りなディランの姿を、型破りなやり方で、とてもよく描いていたと思います。
2016年10月4日火曜日
湖の泥沼
これから誰かと湖一周の散策をしようと思っている方にお伝えします。
その湖は恐らく、今見えているより遥かに複雑な形を持ち、今感じられている湖の周辺距離の、少なくとも10倍はあるかもしれません。
9月のコロラドでそれを思い知った私と、その体験を聞いた私の友人が富士五湖で同じ思いをしたという証言からも、誰も気軽に湖一周など、するべきではないという事は、おわかりかと思います。
コロラドで散策好きの相方から、湖一周の散歩に誘われた時には、運動不足だからちょうどいいか、くらいの気軽さで応じました。
時々訪れていた湖で、そんなに大きく感じられない上に、周りの風景が大変美しいので、楽しみですらありました。
秋だというのにかんかん照りなのに帽子も日焼け止めも無く、軽装だったから持っていたのは500mlペットボトルの水だけでしたが、こんな湖、1〜2時間で回れるだろうと信じていたので、そのまま気軽に散策を始めてしまったのです。
しかし実際には、その湖はいくつもの小さな湖〜と言ってもボートが無ければ渡れないくらいの周囲の〜小型湖がメインの湖の周りに数え切れない程枝分かれして存在しており、実際にその湖を一周するには、膨大な距離を歩く羽目になってしまったのです。
場所はコロラドですから大自然です。
湖の周りは鷲鷹の保護エリアだったりして、脇道から道路に抜けるとかそういう逃げ道は全くありませんでした。
いや、何度かそういうチャンスもあったのですが、一緒にいた楽観的な知人が、何度かそのチャンスが訪れる度にその方法を選ばなかった為、二人共もう限界、を感じる頃には、もはやどこにも逃げ道の無い修羅場に、突入してしまっていました。
戻るにも距離があり過ぎ、ただ進むしか無い無限地獄です。
幸いだったのは、あくまでもメインの湖が歴然と見える中での散策だった為、道に迷う怖れは無かった事。
単に、目に見えているあそこの岸辺、という物に到達する為に、信じられない様な辛惨を経験しなければならなかったという事です。
最悪夜になってもしまっても、まあその場で野宿すれば、明るくなってからまた歩き始めればいいわけで、そういった意味での恐怖はありませんでした。
それでも。
あの森を抜ければようやく目指す岸辺だ、と言った際に、希望と共にその森を抜けた途端、今までで最も大きいのではないかと思われる枝別れ湖が現れ、その時にはさすがに、恐怖と絶望感に襲われたのは事実です。
心の強い同行者も、さすがにその時には、奇妙な動物の様な雄叫びを上げていました。
気の触れる一歩手前、という感じでしょうか。
ドライブウェイに抜けるチャンスがまだ稀に数回現れた頃に、私は何度か、今ここを抜けた方がいいんじゃないか、と提案をしましたが、同行者はそれに耳を貸しませんでした。
ですので私は、もう自分があれこれ考えるのはやめて、この人のやりたいようにさせよう、その方が心が楽だ、と諦め切りました。
思考が最も人間のスタミナを奪うという事を私は体験から知っていたので、考えるのを完全に、やめさせていただいたわけです。
繰り返される小型湖の出現や、歩きにくい湿地や沼地や、一体どこを歩けばいいのかわからないくらい丈高の、しかも刺だらけの草に覆われた場所、しかもガラガラヘビの生息地、などに出くわす度に、絶望や失望や心の迷いや苛立や恐怖や怒りを感じるのは全て相方にまかせ、私は一切、考える事を放棄しました。
するとスタミナは温存され、どんなに歩いても一向に疲れなくなりました。
そういった中で自分を観察している時、面白い事に気付いたのです。
私が疲労を感じるのは、自分の心が、「こっちじゃない。」と感じる方向に歩かねばならない時だけだったのです。
人と一緒だったし、体力を温存する為に私はリードする事を放棄しましたから、文句も言わずに相方の選ぶ道をついて行っていたわけですが、自分の心が、「こっち」と強く感じる時に相方が逆の道を選び、そちらに自分が行かねばならないその瞬間の分かれ道に出くわす度に、私は強い疲労を感じ、それがしばらく、まあ、3分程度でしたが、続くのです。
もしも私が自分の感覚に執着し続ければ、更に疲労は続いたでしょうが、抵抗を感じる度にそれを意識的に忘れる事で、疲労感は短時間で治まりました。
これは普段の生活でも感じられていた感覚ですが、普段は単なるそわそわするような落ち着かなさという形で出るだけだったので、こんなにあからさまに、堪え難い疲労、として体現されるのは、初めての事でした。
5月に友達と中欧ヨーロッパに行った時に、ロシアの空港で友人がカフェを見つけてそこで朝ご飯をゲットしようとした時にも、私のこの落ち着かなさが発動し、列に並ぶ友人に許しを貰って、一人で乗り換えゲート近くまで歩き、そのゲート内にあったカフェでひとりで食事をしました。
友人の見つけたカフェには、私が食べたかった物が無く、ゲートのカフェにはそれがありましたから、やはりこの感覚は、役に立つのです。
湖を歩いていた時にも、もしかしたら私がリードをとり、この感覚に従って歩いていれば、あんなに凄まじい事にはならなかったかも知れません。
でも私は、冒険の顛末を見てみたかったので、敢えてその提案もしませんでした。
結果、朝10時に歩き始めた私たちは、なんとか夕方5時には、全身泥だらけだったから湖に服ごと入って洗ったりしなければならなかったものの、怪我も無く脱出、5時を過ぎると駐車場が閉まっちゃって、車も出せないしどうすればいいの、という地獄にまでは発展せずに冒険は終わりました。
非常にチャンレンジな体験でしたが、やって良かったとも感じています。
まあ、やっちゃってから後悔しても仕方無いので、良き面を見るしかないんですけれど。
今回コロラドでは後にもう一度同じ様な事があったんですが、そこでもやはり例の疲労を感じたので、その時には相方に言ってみました。
するとやはり、私がこっち、という道に行くのが、正しかったのです。
そうではない道を選んでから、その事が後でわかったんだけどね。
冒険好きな友人がいると大変ですが、自分の限界点の目安では選ばない真新しい体験が出来るので、まあいいと思うのでした。
でももう二度と、湖を歩いて一周してみようとは思わないことでしょう。
その湖は恐らく、今見えているより遥かに複雑な形を持ち、今感じられている湖の周辺距離の、少なくとも10倍はあるかもしれません。
9月のコロラドでそれを思い知った私と、その体験を聞いた私の友人が富士五湖で同じ思いをしたという証言からも、誰も気軽に湖一周など、するべきではないという事は、おわかりかと思います。
コロラドで散策好きの相方から、湖一周の散歩に誘われた時には、運動不足だからちょうどいいか、くらいの気軽さで応じました。
時々訪れていた湖で、そんなに大きく感じられない上に、周りの風景が大変美しいので、楽しみですらありました。
秋だというのにかんかん照りなのに帽子も日焼け止めも無く、軽装だったから持っていたのは500mlペットボトルの水だけでしたが、こんな湖、1〜2時間で回れるだろうと信じていたので、そのまま気軽に散策を始めてしまったのです。
しかし実際には、その湖はいくつもの小さな湖〜と言ってもボートが無ければ渡れないくらいの周囲の〜小型湖がメインの湖の周りに数え切れない程枝分かれして存在しており、実際にその湖を一周するには、膨大な距離を歩く羽目になってしまったのです。
場所はコロラドですから大自然です。
湖の周りは鷲鷹の保護エリアだったりして、脇道から道路に抜けるとかそういう逃げ道は全くありませんでした。
いや、何度かそういうチャンスもあったのですが、一緒にいた楽観的な知人が、何度かそのチャンスが訪れる度にその方法を選ばなかった為、二人共もう限界、を感じる頃には、もはやどこにも逃げ道の無い修羅場に、突入してしまっていました。
戻るにも距離があり過ぎ、ただ進むしか無い無限地獄です。
幸いだったのは、あくまでもメインの湖が歴然と見える中での散策だった為、道に迷う怖れは無かった事。
単に、目に見えているあそこの岸辺、という物に到達する為に、信じられない様な辛惨を経験しなければならなかったという事です。
最悪夜になってもしまっても、まあその場で野宿すれば、明るくなってからまた歩き始めればいいわけで、そういった意味での恐怖はありませんでした。
それでも。
あの森を抜ければようやく目指す岸辺だ、と言った際に、希望と共にその森を抜けた途端、今までで最も大きいのではないかと思われる枝別れ湖が現れ、その時にはさすがに、恐怖と絶望感に襲われたのは事実です。
心の強い同行者も、さすがにその時には、奇妙な動物の様な雄叫びを上げていました。
気の触れる一歩手前、という感じでしょうか。
ドライブウェイに抜けるチャンスがまだ稀に数回現れた頃に、私は何度か、今ここを抜けた方がいいんじゃないか、と提案をしましたが、同行者はそれに耳を貸しませんでした。
ですので私は、もう自分があれこれ考えるのはやめて、この人のやりたいようにさせよう、その方が心が楽だ、と諦め切りました。
思考が最も人間のスタミナを奪うという事を私は体験から知っていたので、考えるのを完全に、やめさせていただいたわけです。
繰り返される小型湖の出現や、歩きにくい湿地や沼地や、一体どこを歩けばいいのかわからないくらい丈高の、しかも刺だらけの草に覆われた場所、しかもガラガラヘビの生息地、などに出くわす度に、絶望や失望や心の迷いや苛立や恐怖や怒りを感じるのは全て相方にまかせ、私は一切、考える事を放棄しました。
するとスタミナは温存され、どんなに歩いても一向に疲れなくなりました。
そういった中で自分を観察している時、面白い事に気付いたのです。
私が疲労を感じるのは、自分の心が、「こっちじゃない。」と感じる方向に歩かねばならない時だけだったのです。
人と一緒だったし、体力を温存する為に私はリードする事を放棄しましたから、文句も言わずに相方の選ぶ道をついて行っていたわけですが、自分の心が、「こっち」と強く感じる時に相方が逆の道を選び、そちらに自分が行かねばならないその瞬間の分かれ道に出くわす度に、私は強い疲労を感じ、それがしばらく、まあ、3分程度でしたが、続くのです。
もしも私が自分の感覚に執着し続ければ、更に疲労は続いたでしょうが、抵抗を感じる度にそれを意識的に忘れる事で、疲労感は短時間で治まりました。
これは普段の生活でも感じられていた感覚ですが、普段は単なるそわそわするような落ち着かなさという形で出るだけだったので、こんなにあからさまに、堪え難い疲労、として体現されるのは、初めての事でした。
5月に友達と中欧ヨーロッパに行った時に、ロシアの空港で友人がカフェを見つけてそこで朝ご飯をゲットしようとした時にも、私のこの落ち着かなさが発動し、列に並ぶ友人に許しを貰って、一人で乗り換えゲート近くまで歩き、そのゲート内にあったカフェでひとりで食事をしました。
友人の見つけたカフェには、私が食べたかった物が無く、ゲートのカフェにはそれがありましたから、やはりこの感覚は、役に立つのです。
湖を歩いていた時にも、もしかしたら私がリードをとり、この感覚に従って歩いていれば、あんなに凄まじい事にはならなかったかも知れません。
でも私は、冒険の顛末を見てみたかったので、敢えてその提案もしませんでした。
結果、朝10時に歩き始めた私たちは、なんとか夕方5時には、全身泥だらけだったから湖に服ごと入って洗ったりしなければならなかったものの、怪我も無く脱出、5時を過ぎると駐車場が閉まっちゃって、車も出せないしどうすればいいの、という地獄にまでは発展せずに冒険は終わりました。
非常にチャンレンジな体験でしたが、やって良かったとも感じています。
まあ、やっちゃってから後悔しても仕方無いので、良き面を見るしかないんですけれど。
今回コロラドでは後にもう一度同じ様な事があったんですが、そこでもやはり例の疲労を感じたので、その時には相方に言ってみました。
するとやはり、私がこっち、という道に行くのが、正しかったのです。
そうではない道を選んでから、その事が後でわかったんだけどね。
冒険好きな友人がいると大変ですが、自分の限界点の目安では選ばない真新しい体験が出来るので、まあいいと思うのでした。
でももう二度と、湖を歩いて一周してみようとは思わないことでしょう。
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