今朝のABCニュースで、牧場に迷い込んだ一匹のビーバーに興味を惹かれた150頭の牛達が、ぞろぞろとビーバーについてゆく映像をやっていました。
以前にも私は、玩具だかボールだかを追う牛の群れの映像を観た事があり、牛という動物の個性みたいな物を感じてとても嬉しくなりました。
牛には大変お世話になっています。
私はベジタリアンじゃないし乳製品が好きだから、特に。
親しみのある、と思っていたこの動物の意外な一面を知り、食べ物以外の牛を実はまるで知らなかった事に改めて気付かされたりもしました。
このニュースを楽しく観た後に私はふと、なんでこんなに心が嬉しい感じがするのか、という点に意識が行き、ああ私の心は、牛の個性を観る事が出来るこういう生育環境、つまり、牛が牛らしく生きられている環境で牛が飼育されている事と、牛が牛らしさを失っていないという事に、喜んでいるんだ、という事に気付きました。
これは、映像を観て愉快だな、と感じる表層の反応の、背後にある感覚です。
私の心は、ユーモラスな牛の様子を楽しむ奥で、もっと普遍的な感覚から生物学的な"快"を感じ、このニュースに心地の良さを感じたのです。
人間は結構この、表層の感覚の背後にあるより深い普遍的なセンスに左右される物なんだなと思いました。
表現の表面がなんであれ関係無い、という部分がこれにはあります。
美しい森の映像であれ醜悪なゴミの写真であれ、その表現の深部の背後にある意図や動機や真実に、人間の快不快の感性は動かされるのです。
そういう事を実感させられる出来事に最近よく遭遇もしています。
例えば日常的には、優しい、親しみのある言葉を話す人の背後に、真逆の動機がある事に気付いている人と、そのストレスについて話し合う機会がやけに増えているし笑。
生物学的普遍的感覚に完全に鈍感な選択や感想を目にする事も多い世の中で、最近、行動の背後にある動機に反応して、快不快を直感的に感じ取っている人に会う事が多くなっているのは、とても頼もしい恵まれた事だと感じています。
この普遍的な感覚がOKと言う事で、ある物が長く安定した揺るぎないマイブーム等へと繋がってゆく事もあるのかもしれません。
ただ、個人の人生や生活が常に危機感に脅かされていると、この普遍的な生物学的感覚とは切り離されてしまうと私は思います。
疲弊した肝臓が活動を活発化するために毒や刺激物を求めてやがて破壊される様に、心にもそれが起こるように思えるのです。
私の経験上、強烈な危機に見舞われた人は逆に普遍性に回帰する事が多いのですが、問題なのは、弛緩し習慣化した、誤摩化せる程度と感じられる心の危機感です。
生物学的普遍的感性に響かないような物が一時的に人気を博したり好ましいと受け取られる事って、実は人間の心や世の中の危機の象徴的現象なのかもしれません。
これは勿論さっき書いた様に、何がそこに描かれているのか、という事には関係ありません。
モチーフは、関係無いのです。
よくない動機を持つ人が、自分の言語や行動の表現を妙に優しく親しみやすくして、ステレオタイプの善人を装う事がよくあるのとおんなじで。
2017年4月20日木曜日
2017年4月10日月曜日
差別
アジア人の女性が、予約していたAirBNBのホストから、アジア人だから、という理由で宿泊を断られたというニュースを読みました。
このAirBNBのホストが外国人に英語を教える言語教師だったらしいという事で、ただでさえかんかんに怒っている普通に良識のある人々の怒りに油を注ぎ、結構炎上している模様です。
トランプが大統領になって以来、彼やバノンがおおっぴらに差別発言を繰り返す事で、潜在的人種差別主義者たちが今、大変おおらかに自分の主義を表明している傾向があるように思えます。
私個人は、こんなに何年にも亘ってアメリカに入り浸っているにも関わらず、今まで一度も人種差別に遭ったことはありません。ですのでそれをされたらどんな気持ちになるのかが、実際のところあまりよくわかりません。想像がつかないのです。
こういう無知な状態の人間は、机上の理論で傍若無人な感覚を持ちがちであるという例に違わず私も人種差別に関しては、こんな風に軽く思う程度でした。
「人種差別は、持つ側の問題で、差別される側の問題ではない。差別される側は気にする必要無し。」
勿論、宿泊先を確保出来なかった上記のアジア人の様に、差別に伴う実害を経験している人は大勢いるので、差別される側に問題が及ぶケースは多々あると思います。ただ私のこの感覚は、差別されている側に非があるわけではないという、シンプルな事実に根を降ろしているだけの感覚で、差別にそれ以上の深刻な想いを持つ事はありませんでした。
そしてそんな私にある日、友人が差別されるのを目の当たりにするという出来事が起こりました。
ダークスキンのこの友人Aをあからさまに差別したのは、私の尊敬する友人で才能ある音楽家の男性Bでした。
私自身はこのBから差別的な待遇を受けた事が無かったので、兼ねてから友人らの口から出る、Bは差別的である、という噂を信じる事が出来ませんでした。
また、例の机上の持論で、別に政治家でもなんでもない、言わばはっきり言ってエキセントリックでも全然問題にならないアウトローなアーティストである彼が、どんな嗜好を持っててもいいんじゃないんですか、作品さえ素晴らしければ、てな感じで、たいして問題にも思っていなかったのです。
以前フランスから老齢のシャンソン歌手が来日された時に世話役だった友人が、その老齢の歌手がアジア人や日本食を全く受け付けられず、ホテルの部屋に籠ってしまってリハーサルと本番以外出て来ない、と言って笑っていたのを思い出します。
日本にだって外国人に慣れていない老齢の方で、白人だろうがなんだろうがモンスター扱いする人はいると思うし、そんなのを深刻に受け止めてたってしょうがないじゃん、てな感じで、軽く受け流していたのです。
しかし奥さん!!
実体験という物は、時に机上の理論とは、真逆の結論を導き出すものなのですね!!!
この音楽家Bは、友人Aの存在を、初対面からあからさまに無視しました。
まるでいないものの様に扱ったのです。
Aがパーティーで打ち解けて周りから一目置かれ始めると、今度はA以外の人を著名人に紹介したりし始め、Aをのけ者にしました。
パーティーにいる間中、私は一部始終それを見ていました。
何故私が、Aを連れてその場から去らなかったかと言うと、私自身がBの態度の動機に確証が欲しかったために観察を続けたかったのと、Aが去らねばならない理由が無かったからです。
というわけで。
この経験の終焉に私は、生まれて初めて、後にも先にもこれが初めてだよ、というくらいに強烈な、非常に純度の高い、『軽蔑』という感情が、腹の底から沸き上がって来るのを押さえる事が出来ませんでした。勿論、Bに対してです。
この軽蔑という感情には、怒りとか悲しみという感情が一切入っていなくて、なんていうんですか非常に冴え冴えとした、非常に明晰な、軽蔑、という感覚以外のなにものでもない、非常に大きな感覚でした。
この"軽蔑"という感覚は、今まで100%素晴らしいと思っていた人物を、強マイナスに貶める威力があり、我ながら驚きました。
かくしてこの日以来、私の中ではBの創る音楽にさえ、以前の様な感動を感じる事が出来なくなりました。
あんなけつの穴のちいせえ男が、生意気な歌うたってんじゃねえみたいな冷めた感覚が付きまとい、全然楽しめなくなりました。
彼の唄う言葉そのものが、非常に空虚に感じられたのです。
怒りとは全く別の次元の感覚です。
"性格なんかどうでもいいよ作品が素晴らしければ魔法"は、Bの人格のくだらなさに直に接した途端、非常にあっさりと消え去ってしまったのです。
これは我ながら意外な反応でした。
と同時に。
差別意識を恥も外聞も無く露呈している人間というものは、普通に良識のある人たちから、こんなにも強烈な軽蔑を受けてしまうんだな、という学習にもなりました。
才能あるアーティストのエキセントリックさに甘いこの私でさえ、しかもBは私の事はいつも大切に姫の様に扱ってくれる私怨無き関係性であるにも関わらず、私の軽蔑感覚の凄まじさたるや。
私には人間関係において、ある種の区別意識があります。
例えばAが、Bとはまるで住む世界の違う種類の人物だというのなら、Bの態度はわかるのです。
住む世界が違うというのは誤解を生む表現かもしれませんが、これは単に、人間関係にはやはり、羊の群れと牛の群れがあると思う、という意味での違いです。
違うからと言って喧嘩したり差別し合う必要は勿論ありませんが、お互いが違うという事を正確に健康的に理解していないと、侵略的になったり支配的になったり嫉妬したり搾取したりと、心理的な領域で不健康な事になると思うので、”違うのだ”、という認識には敏感な方が嬉しいと、私は思うのです。
違うという前提で付き合い始めれば、共通点が見つかったり共通の価値観での成長が起こってきたりすると、新鮮で嬉しいと思いませんか?
というわけで、こういう事が動機で全然違うと感じ、BがAを直感的に嫌ってしまって遠ざけたというのなら、私はBの態度を尊重出来るのです。
だけどそういうんじゃないのが、明らかだったのです。
なんかもっと、くだらない感じでした。
私の持っている、人間関係上の区別意識には、「今のところはお友達にはなれない相手とそのワールド」への、尊敬と信頼が土台にあります。
羊の身であり羊ワールドに満足しながらも馬の事はそれなりに尊敬していて、尊敬しながらでも今のところは餌場を共有しませんよ、という感じとでも言うんでしょうか。
あるいは、今は馬が恐くてわからなくてダメだから勘弁、でも、決して馬鹿にしたり一生NGとか思っているわけではありませんよ、とか。
これは上記の、老齢のシャンソン歌手が、日本食を食べられない感じに近い様に思います。ダメな理由が自分にあると、知っている態度です。
しかしBの態度は明らかに、Aの存在を貶める物でした。
Aの側に劣っている物があるから無視しますよ、でした。
お前はオレより劣った存在なんだから馴れ馴れしく入って来るな、という態度でした。
残酷に、冷たく、Bは初対面で何も知らない相手Aの存在価値を、利己的に踏みにじる行為を、堂々と行ったのです。
これははっきりと、軽蔑に値する行為だと私は感じました。
日本であまりトランプへの軽蔑が見受けられないのは、単一民族の歴史が長く、あまり差別という物を経験していない事が、一因にあるのかもしれません。
頭だけで考えていると、差別意識ってそんなたいした物では無いように感じられるかもしれない。誰でもなんらかの差別意識はあるんじゃない?と思ったりして。
確かに、誰だって何かはあるかもしれません。
だけどそれについて、自分の側に問題があると認識しているのと、あたかもそれが普遍的で正当な判定みたいな錯覚に陥って、堂々と態度や口に出すのとでは、大きな違いがあると私は思います。
トランプやBは、後者なのです。
後者である事が問題なんだと、私は思います。
トランプに懸念を持つ多く人が見ているのは、トランプの行いの背後にある、動機なのです。
自分の中にある欠損を、他者の欠損だと思い込んで蔑み憎み無視するという行為。
これは、害を及ぼして来たり今は友達になれないと感じる人物に対して毅然とした境界線を引く行為とは、全く異なると私は思います。
意外な事に私は、人素差別という事について、ちゃんと考え始めたのはトランプ当選以降です。
これは、こんな年になるまで差別の犠牲にならなかったという事なので、今の世の中を見るともしかしたらラッキーだったのかもしれません。
自分の中の欠損や恐怖の原因を象徴的に他者に投影する人は、その欠損や恐怖を持ち続ける事に絶え切れず、替わりに象徴となる投影の対象を、とことん嫌い消滅させようとします。
しかし働きかけるべきは自分の内面なのであり、外界をどんなに変えても根は消えません。
そうやって外界にあると思い込んでいる原因を根絶やしにし、それでも自分の心にある欠損感覚や恐怖感は消えないから、今度は次の原因を探すわけです。また外側に。
熟慮無く海外への実力行使を始めたトランプのムスリムbanが、いつかアジア人対象に変らないと、誰が保証出来るのでしょうか。
このAirBNBのホストが外国人に英語を教える言語教師だったらしいという事で、ただでさえかんかんに怒っている普通に良識のある人々の怒りに油を注ぎ、結構炎上している模様です。
トランプが大統領になって以来、彼やバノンがおおっぴらに差別発言を繰り返す事で、潜在的人種差別主義者たちが今、大変おおらかに自分の主義を表明している傾向があるように思えます。
私個人は、こんなに何年にも亘ってアメリカに入り浸っているにも関わらず、今まで一度も人種差別に遭ったことはありません。ですのでそれをされたらどんな気持ちになるのかが、実際のところあまりよくわかりません。想像がつかないのです。
こういう無知な状態の人間は、机上の理論で傍若無人な感覚を持ちがちであるという例に違わず私も人種差別に関しては、こんな風に軽く思う程度でした。
「人種差別は、持つ側の問題で、差別される側の問題ではない。差別される側は気にする必要無し。」
勿論、宿泊先を確保出来なかった上記のアジア人の様に、差別に伴う実害を経験している人は大勢いるので、差別される側に問題が及ぶケースは多々あると思います。ただ私のこの感覚は、差別されている側に非があるわけではないという、シンプルな事実に根を降ろしているだけの感覚で、差別にそれ以上の深刻な想いを持つ事はありませんでした。
そしてそんな私にある日、友人が差別されるのを目の当たりにするという出来事が起こりました。
ダークスキンのこの友人Aをあからさまに差別したのは、私の尊敬する友人で才能ある音楽家の男性Bでした。
私自身はこのBから差別的な待遇を受けた事が無かったので、兼ねてから友人らの口から出る、Bは差別的である、という噂を信じる事が出来ませんでした。
また、例の机上の持論で、別に政治家でもなんでもない、言わばはっきり言ってエキセントリックでも全然問題にならないアウトローなアーティストである彼が、どんな嗜好を持っててもいいんじゃないんですか、作品さえ素晴らしければ、てな感じで、たいして問題にも思っていなかったのです。
以前フランスから老齢のシャンソン歌手が来日された時に世話役だった友人が、その老齢の歌手がアジア人や日本食を全く受け付けられず、ホテルの部屋に籠ってしまってリハーサルと本番以外出て来ない、と言って笑っていたのを思い出します。
日本にだって外国人に慣れていない老齢の方で、白人だろうがなんだろうがモンスター扱いする人はいると思うし、そんなのを深刻に受け止めてたってしょうがないじゃん、てな感じで、軽く受け流していたのです。
しかし奥さん!!
実体験という物は、時に机上の理論とは、真逆の結論を導き出すものなのですね!!!
この音楽家Bは、友人Aの存在を、初対面からあからさまに無視しました。
まるでいないものの様に扱ったのです。
Aがパーティーで打ち解けて周りから一目置かれ始めると、今度はA以外の人を著名人に紹介したりし始め、Aをのけ者にしました。
パーティーにいる間中、私は一部始終それを見ていました。
何故私が、Aを連れてその場から去らなかったかと言うと、私自身がBの態度の動機に確証が欲しかったために観察を続けたかったのと、Aが去らねばならない理由が無かったからです。
というわけで。
この経験の終焉に私は、生まれて初めて、後にも先にもこれが初めてだよ、というくらいに強烈な、非常に純度の高い、『軽蔑』という感情が、腹の底から沸き上がって来るのを押さえる事が出来ませんでした。勿論、Bに対してです。
この軽蔑という感情には、怒りとか悲しみという感情が一切入っていなくて、なんていうんですか非常に冴え冴えとした、非常に明晰な、軽蔑、という感覚以外のなにものでもない、非常に大きな感覚でした。
この"軽蔑"という感覚は、今まで100%素晴らしいと思っていた人物を、強マイナスに貶める威力があり、我ながら驚きました。
かくしてこの日以来、私の中ではBの創る音楽にさえ、以前の様な感動を感じる事が出来なくなりました。
あんなけつの穴のちいせえ男が、生意気な歌うたってんじゃねえみたいな冷めた感覚が付きまとい、全然楽しめなくなりました。
彼の唄う言葉そのものが、非常に空虚に感じられたのです。
怒りとは全く別の次元の感覚です。
"性格なんかどうでもいいよ作品が素晴らしければ魔法"は、Bの人格のくだらなさに直に接した途端、非常にあっさりと消え去ってしまったのです。
これは我ながら意外な反応でした。
と同時に。
差別意識を恥も外聞も無く露呈している人間というものは、普通に良識のある人たちから、こんなにも強烈な軽蔑を受けてしまうんだな、という学習にもなりました。
才能あるアーティストのエキセントリックさに甘いこの私でさえ、しかもBは私の事はいつも大切に姫の様に扱ってくれる私怨無き関係性であるにも関わらず、私の軽蔑感覚の凄まじさたるや。
私には人間関係において、ある種の区別意識があります。
例えばAが、Bとはまるで住む世界の違う種類の人物だというのなら、Bの態度はわかるのです。
住む世界が違うというのは誤解を生む表現かもしれませんが、これは単に、人間関係にはやはり、羊の群れと牛の群れがあると思う、という意味での違いです。
違うからと言って喧嘩したり差別し合う必要は勿論ありませんが、お互いが違うという事を正確に健康的に理解していないと、侵略的になったり支配的になったり嫉妬したり搾取したりと、心理的な領域で不健康な事になると思うので、”違うのだ”、という認識には敏感な方が嬉しいと、私は思うのです。
違うという前提で付き合い始めれば、共通点が見つかったり共通の価値観での成長が起こってきたりすると、新鮮で嬉しいと思いませんか?
というわけで、こういう事が動機で全然違うと感じ、BがAを直感的に嫌ってしまって遠ざけたというのなら、私はBの態度を尊重出来るのです。
だけどそういうんじゃないのが、明らかだったのです。
なんかもっと、くだらない感じでした。
私の持っている、人間関係上の区別意識には、「今のところはお友達にはなれない相手とそのワールド」への、尊敬と信頼が土台にあります。
羊の身であり羊ワールドに満足しながらも馬の事はそれなりに尊敬していて、尊敬しながらでも今のところは餌場を共有しませんよ、という感じとでも言うんでしょうか。
あるいは、今は馬が恐くてわからなくてダメだから勘弁、でも、決して馬鹿にしたり一生NGとか思っているわけではありませんよ、とか。
これは上記の、老齢のシャンソン歌手が、日本食を食べられない感じに近い様に思います。ダメな理由が自分にあると、知っている態度です。
しかしBの態度は明らかに、Aの存在を貶める物でした。
Aの側に劣っている物があるから無視しますよ、でした。
お前はオレより劣った存在なんだから馴れ馴れしく入って来るな、という態度でした。
残酷に、冷たく、Bは初対面で何も知らない相手Aの存在価値を、利己的に踏みにじる行為を、堂々と行ったのです。
これははっきりと、軽蔑に値する行為だと私は感じました。
日本であまりトランプへの軽蔑が見受けられないのは、単一民族の歴史が長く、あまり差別という物を経験していない事が、一因にあるのかもしれません。
頭だけで考えていると、差別意識ってそんなたいした物では無いように感じられるかもしれない。誰でもなんらかの差別意識はあるんじゃない?と思ったりして。
確かに、誰だって何かはあるかもしれません。
だけどそれについて、自分の側に問題があると認識しているのと、あたかもそれが普遍的で正当な判定みたいな錯覚に陥って、堂々と態度や口に出すのとでは、大きな違いがあると私は思います。
トランプやBは、後者なのです。
後者である事が問題なんだと、私は思います。
トランプに懸念を持つ多く人が見ているのは、トランプの行いの背後にある、動機なのです。
自分の中にある欠損を、他者の欠損だと思い込んで蔑み憎み無視するという行為。
これは、害を及ぼして来たり今は友達になれないと感じる人物に対して毅然とした境界線を引く行為とは、全く異なると私は思います。
意外な事に私は、人素差別という事について、ちゃんと考え始めたのはトランプ当選以降です。
これは、こんな年になるまで差別の犠牲にならなかったという事なので、今の世の中を見るともしかしたらラッキーだったのかもしれません。
自分の中の欠損や恐怖の原因を象徴的に他者に投影する人は、その欠損や恐怖を持ち続ける事に絶え切れず、替わりに象徴となる投影の対象を、とことん嫌い消滅させようとします。
しかし働きかけるべきは自分の内面なのであり、外界をどんなに変えても根は消えません。
そうやって外界にあると思い込んでいる原因を根絶やしにし、それでも自分の心にある欠損感覚や恐怖感は消えないから、今度は次の原因を探すわけです。また外側に。
熟慮無く海外への実力行使を始めたトランプのムスリムbanが、いつかアジア人対象に変らないと、誰が保証出来るのでしょうか。
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