オレが感動の稲妻に打たれて動けなくなったシーン |
あまりに素晴らしい映画だったので、ゴチャゴチャ言いたくありません。
ただ、「これを観た」という事を自分に刻み込みたくて、ブログに書くのです。
これはもう、本当に素晴らしいです。
天才的。
アカデミー賞の選考に偏りがあるとかなんとかいう文句をよく聞くけれど、今年はこの映画の監督に賞が行ったんだったら、その偏り方は私の偏り方と同じなので全然文句ありません。
こんな映画、どうして創れるの、と思うのは、人間のイマジネーションを遥かに超えていると感じたから。
単なる映像美という事ではなく、ここでこのシーンをなんで持って来られたの、という奇跡だ。
でも実際に映画が出来たんだから、本当は人間はこんなにすごい領域にアクセスできちゃうという事なので、それはもう、本当にすごい。
アカデミー賞を気を付けて観ていなかったのでよくわかってはいないのだが、ディカプリオもそりゃあ貢献してたけど、敵役の役者さんの演技がまたすごい、というか、この人だから名画になったんじゃ、というくらいの深みだったので、なんか賞をあげればいいのにと思う。
悪役の彼のヒルビリー訛の英語が、非常に色んな事を感じさせる。
悪い事をいっぱいやっているんだけど、彼のヒルビリー訛が、心に深く、彼という人間の人としての限界を、ひりひり感じさせるんだよね。
こんな気持ちにさせられる悪役というのは初めてだなー。
私はある意味、ディカプリオの演じた主人公ヒュー・グラスは、とても豊かで美しい人生の領域を生きている人だと思う。
でもあの敵役フィッツジェラルドには、そういう豊かな世界の扉が開いていないんだよね。
フィッツジェラルドが実人生でそばにいたらイヤだけど、俯瞰の目線で見ると、だってフィッツジェラルドは、世界の美しさを味方につける深みを持てなかったんだから、と思ってなんだか悲しくなってしまう。
いやもちろん、最低野郎なんだけどさ。
でも彼にとっては、必然なんだよね。。
何をやってるのかわからないんだよね。。。
それが彼の限界なんだよ。。
圧倒的な映像美は、全てがヒュー・グラスに開かれているドアだ。
同じ世界に生きていながら、人によって、見える物や感じる物や、そして世界からの手の差し伸べられ方が違うという現実は、世の中によくある事だと思う。
この映画はそういう意図で創られては全然いないんだろうけど、期せずして素晴らしく奥深かった悪役の俳優さんのせいで、なんだか私にはこれが、モーツァルトとサリエリの対決みたいに見えちゃって。
鮮やかな天才ヒュー・グラスと、人としての限界の中で盲目状態のフィッツジェラルド。
右脳と左脳。
流動と停止。
直感と画策。
色んな映画を観て来たけれど、こんなに映画で感動したのは、10年振りくらいかもしれません。
今日は映画に行く前に、湖のほとりの道を2時間半くらいハイクしたのだけれど、樹々、河、滝、鳥の声と、なにもかもが映画とシンクロしていて、今日という一日が、映画の中のヒュー・グラスの生きる、なんとなく奇跡的な気配のする世界の中に、自分もずうっと包まれている感じがしました。
これは私のもうひとつの大好きな映画(ブラザーサン・シスタームーン)の主要な一場面 |
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