2016年8月23日火曜日

深読み感想ーヒトラー最後の20000年

ケラさんの舞台"ヒトラー最後の20000年〜ほとんど、何もない"を、幸運な事にもう一度観る事が出来ました。千秋楽。

で、作った人が"ほとんど何もない"って言ってんだから、何もないでいいじゃんとも思うんだけど、実は色んな物があるように観えてしまった部分もあるので今日はそれを書こうと思います。


このお芝居は、主にヒトラーという、歴史的にマクロなモンスターに焦点が当たっているんだけれど、その同じ時代に生きたふたつの家族の事も、描いているんです。

ひとつはアンネ・フランクの一家。
そしてもうひとつは、歴史に名前など残らないであろう一介の民間人〜亡くなった娘の夫とひっそり二人暮らしをしている、「おとうさん」の家族ーつまり、娘婿(アフリカ系青年)とその義父(日本人57歳)、です。


アンネ・フランクの家族のエピソードを通しても色んな物を感じちゃったのですが、より強烈に心を捉えたのは、「おとうさん」の方でした。

この「おとうさん」、始めは普通に良い人物、という佇まいを持って出て来ます。新聞で報じられるナチスの、ユダヤ人への残虐な迫害ぶりに胸を痛めたりして。
だけど徐々にことあるごとに、彼の内にある無自覚な、というか、彼にとってはもうなんていうか当たり前過ぎて疑問にすら思えないのであろう、定着した無頓着な、無邪気な人種差別意識が、あからさまに言動に、随所に現れるのです。

これは、普段は良識的な発言をしている政治家が、スピーチ中に人をギョッとさせるような非人道的な(本音)発言をしてしまって、後で叩かれるみたいな出来事として、日常でもよく目にする光景ですが、この「おとうさん」は政治家でもなんでも無い、パブリックな人物では無いので、その無頓着で無邪気な残酷さは、日常を共にしている家族の現実という、非常にミクロな領域で体験され続けます。


大舞台で900万人ものユダヤ人を殺害したヒトラーというマクロ・モンスター。
その惨状に胸を痛める「おとうさん」の内にある、本人どころか周りの誰からも疑問視されない、日常的な残酷さ(&実はもっとホラーな本音も潜んでいるのですが。)というミクロ・モンスター。


殺した数が違うだけで、他にはまったくもってなんの違いも無い、ふたりのモンスターなわけです。
この「おとうさん」が日本人なのって、日本軍がナチス側だったからかなとか思ったけれどまあそれはどうでもいいんです。とにかくあの「おとうさん」の、随所に現れる他者への魂の無い残酷さが、背筋を凍らせる程不気味なんですよ。


こういった、日常の中で取り立てて責められる事も無く見過ごされている他者への無神経さ〜心を込めて作ってくれた料理を無視したり、誰かが大切にしている物や事や作品を尊重しなかったり、ちゃんと話を聞かなかったり、マルゴット・フランクを当たり前の様に「アンネの姉」と呼び続けたり〜そういう無神経な残酷さが随所に散りばめられているこのお芝居を観ていると、誰が、どの口下げてヒトラーを責められるのか、という気分にもなってくるのです。

わかりやすい悪い事をした人間は、標的になりやすい。
でも、その悪い事をした人と同じ心の質が、自分の中には全く無いのか。

たったひとりの人間が、900万人を殺せたわけではないのです。
900万人を超える人々の心の中に、ヒトラーの欠片があったから殺せたわけです。


もしも良識派を自負する誰かが、このヤンチャなお芝居が思いっきりやっちゃっている、ありとあらゆるタブーに対して、それはやり過ぎなんじゃない?と言ったとしたら、私はその人に問いたいなと思います。
「このお芝居の無法さは、あなたが日常的にやっちまっているかもしれない、他者への無自覚な残酷さという無法行為を超えていますか?」と。

このお芝居は勿論、決してヒトラーを弁護しているような物ではありません。
でも同時に、ヒトラーだけが特殊な悪人だったわけでは無い事を、思い出させてくれました。


大舞台に立つマクロなモンスターの背後には、盲目な心を持つミクロなモンスターが何百何千万人もいて、友達や、恋人や、子供や、孫や、教師や、作家や、親や、隣人や、上司や、部下や、有名人や、無名人や、兄弟や、気に入らない事を書いたブロガーや、気の利かない店員や、羨望の対象や、社会の弱者や負け組の人や、社会の強者や勝ち組と判断される人など、とにかくあらゆる他者に対して、無自覚に、必要以上に、残酷な言動を日常的に繰り返しているのかもしれないのです。


ヒトラーと私たちの違いは、一体どこにあるのか。

違いがあるなんて思うのは、思い上がりなんじゃないのか。

もし自分をこんな風に思えないとしたら、あなたもマクロなモンスターの素質を持つ、ミクロなモンスターの、一員かもしれませぬよ(^^)



2016年8月9日火曜日

ヒトラー最後の20000年〜ほとんど、何もない〜

ケラリーノ・サンドロヴィッチさん脚本演出で、俳優の古田新太さん...てっきり主演だと思っていたんだけど主演は入江雅人さんだそうで(^^;;、じゃ、古田さんは参謀みたいな感じですかね、で、その、古ケラ・シリーズ第三弾"ヒトラー最後の20000年〜ほとんど、何もない〜"を観て来ました。

文字通り、ほとんどなにもありませんでした!!!!! 爆笑!!!!!

もう、本当に、気持ちの良いくらい、何もありませんでした!!!!!
何もないって、素晴らしいっすよ奥さん!!!!


テーマはヒトラー。

上演中のお芝居について書く時、やっぱネタバレしちゃダメだと思うから、お芝居からの引用はなるべく避けたいんですけれどね。

でもね私、しょっぱなに天国のヒトラーが、天国のユダヤ人たちにせっつかれて謝罪のお手紙を読むシーンでね、(すいませんこんなに書いちゃって😓)休職中ではあるけれども仮にも漫画家の私はね、本当に、本当に、こーーーーこーーーーろーーーーーかーーーーらーーーーーー、うらやましいーーーーーーーって思ったんですよ!!!
これ、描きてえーーーーーーーーーーーーーーーーーっってっっっっ!!!!!

こんなにおいしいネタ、無いっすよダンナ!!!!って思って、心が震えたね。
そしてやっぱりケラさんヒトラーが読み上げた手紙は、実に心震える、全然心のこもってない内容でね、もう、このしょっぱなのシーンから、私や、私の周りに座っていたお客さん達が、ほぼ、悲鳴みたいな絶叫で笑っていましたから。

こういう類いの笑いを思い切り楽しめるなんて、なんて贅沢な事でしょう!!
本当の贅沢って、こういう事なんじゃないでしょうか!!


三年くらい前でしたか、友達のパーカッショニスト リッチー・ガルシアが、80年代に一世を風靡したオサレ系アダルト・コンテンポラリーのシンガー クリストファー・クロスのバッキングでアメリカから来日した時に、日本に来てすぐビデオ・カメラがぶっ壊れちゃったから買いに行きたいと言って来て、秋葉原を案内した事があったんですよ。

その時に右翼さんの街宣車が街角に停まっていて、でっかい声で何かを一生懸命がなっておられたんですね。
こういう光景は都市ではしょっちゅう目にするせいで私は無意識的に意識からはずすって言うんですか、あたかも何も無いかの様に通り過ぎようとしたらリッチーがですね、あれは何かと私に尋ねたわけです。私は、ボリュームが大き過ぎて何を話しているのかよくわからなかったんですが、まあ、ある種政治的な強い主張を持っている人たちで、よくこんな風に街角でがなっているんだよ、と、やや揶揄する様な調子で答えたんです。

そしたらリッチーが、はあーーーーーっと溜め息を吐いて、そんな事を街角で堂々と出来るなんて、日本は素晴らしい国だね。。。。。と、深ーーーーいまなざしで街宣車を見ながら言ったのですよ。

リッチーは、オサレアダルトコンテンポラリーのコンサート・ツアーの前に、中東の女性シンガーのバンドでアラブ諸国を回っていたとかで、その時の経験と日本での経験が、すごいコントラストで心に刺さったらしいのです。

私はそういう目で日本という国を見た事が無かった、むしろ様々に窮屈さを感じていたため、リッチーの言葉がやけに印象深く胸に響いて、このエピソードをブログやTwitterに書くのも、何度目かになるかと思います。

その後日本にも奇妙な流れがあからさまになって来て、今の私はあの時リッチーが言った言葉をそのまんま日本に感じる事は出来なくなってはいるのですが。


しかし、本日。

ケラさんのこのお芝居を観てですね。

これが果たして、どの程度の国で上演出来るのか、とつくづく考えてしまってですね。

そういう意味では日本にはまだお江戸的なバカバカしい自由さがあって。
こういうお芝居で笑えるおおらかな気質っていうのがちゃんと生きていて。
そしてしかし、もしかしたらアウトなのかもしれない境界線超えにちゃんと挑戦してくれる作家さんが生きていて。
相当質の高い言葉遊びで、2時間強も楽しませてくれる。


贅沢だな、とつくづく感じた、どの部分がこのお芝居の贅沢さなんだろうと、明確に言葉に出来ないまま帰路の電車に乗ったのですけれど。

今、それがやっぱり、このお芝居のテーマにあると、感じるんです。

ヒトラーの事は、様々な人が様々な形で、作品にしています。
そこには重苦しい、深刻に受け止めるべき背景があるから、多くの作家さんが、もちろん本当に優れた映画やお芝居やドラマやパロディーだったりするけれども、そこにはどうしてもどこかにマナーが、問題提示が、メッセージが、行儀の良さが、真摯さが、あるわけなんですよね、そしてそれは素晴らしい事ですよ、確かにね。

だけれども。

けれども私は。

そういうマナーがどっこにも見当たらない、このケラさんのヒトラーに、心からの贅沢さを感じました。


だってさ。
もう、良識のある人たちは、わかってるんだよ。
あのチョビ髭が、何をやらかしたかを。

ドイツは何年もかけて、自国の罪を償おうと地球環境改善や色んな事で貢献しようと頑張っているし。

繰り返しちゃいけない事も、愚かさも、痛ましさも、実体験をしたわけじゃないけれども後世の人たちがそれなりに一生懸命、向き合おうとしている、そういう人たちがちゃんと沢山いると、私は思っています。

そういう前提が、私の中にはいつでもあるから、なんでかって言うと、私の仲良くしている人たちはみんなそんな風に、ちゃんと考えている人たちだからですが、そういう前提の元に、みながきちんと歴史の重みに向き合い、それに対して深いシンパシーを持っている、という前提を元になら、深刻に捉えるべき出来事を、全然深刻に捉えなくてもいい、そういう事ってあると思うんです。

歯に衣着せずに思い切りNGワードを言える世界が、成熟した良識ある社会にこそあると、私は思うのです。

世の中にはまだまだ、偏見や虐殺による心の生傷が癒えていない繊細な人たちが沢山いると思う。
けれども一方にはそうした不条理に強い心で立ち向かえる人たちがいて、酷い事を繰り返さないという意図で真っすぐに出来事を見据えて立ち向かえる強さを持つ人たちがいて、その強さを持っているからこそ、偏見や虐殺をテーマに笑える、という事も、あると思うんです。

それは決して、下卑た、偏見や虐殺を楽しむような笑いではない。
むしろその愚かさに、愚かさ以上の何の価値も見い出さない、心の高潔さから来る笑いだと、私は思います。


このお芝居が高潔なんですとかそういう事を言ってるんじゃないんですけれど、私が今夜このお芝居を観て、えも言われぬ贅沢さを感じたのは、あの出来事を、ヒトラーを、完全に踏みにじっちゃってさ、もう深刻でもなんでもなくしちゃってさ、アンネ・フランクを聖女から不思議ちゃんにしちゃってさ、それをみんなでゲラゲラ笑って観ていられる事に、この世の平安と成熟を見たからなんだと思います。

少なくとも今夜、あのお芝居を上演した日本には、それがあったんですよ、これから変って行くのかもしれないけれど。

そういう意味で私は今夜、あのまったくなんにも無いヒトラーのお芝居を観る事によって、お芝居の上演中ずうっと、人の世の最高の平和と成熟の頂点に座ってるみたいな気分になれて、だからとっても贅沢な気持ちになれたんだと思います。


ケラさん、今回も最高でした。
本当に、どうもありがとうございます。



そしてうふふ。余談ですが会場にて、私が描かせていただいたカバーを持つ古ケラ・シリーズ第2弾"奥様お尻をどうぞ"のDVDを売っている所にまた出会えました♥️
これは本当に光栄な勲章でございます。

私は実は第1弾の存在を知らずに、第2弾の劇中イラストなどをさせていただいたのですが、もしかするとこの三部作には、共通のスタイルがあるのかもしれません。

今回のお芝居にもイラストによる語りの場面があり、そしてわたくし、ちょっと申し訳無いと思っちゃったのが、グラフ画ですね。

前回の作品での夢子ちゃんも不思議ちゃんだったもので、夢子ちゃんが描いたはずの円グラフを私はわざと、子供が描いたみたいなへったくそな感じに仕上げたのですが、今回のグラフはなんかすっげーちゃんとしていて、も、もしやグラフ場面は皆さん、きちんと仕上げる物だったのではないかと、かなり冷や汗を感じてしまいました。。。。

そんな感じだったらごめんなさいすいません。
今度はちゃんとやりますから。
あ、今度は無いか泣笑。

いやー、でもほんと、申し訳なさでいっぱいです。とふぉふぉ。。