ケラさんの舞台"ヒトラー最後の20000年〜ほとんど、何もない"を、幸運な事にもう一度観る事が出来ました。千秋楽。
で、作った人が"ほとんど何もない"って言ってんだから、何もないでいいじゃんとも思うんだけど、実は色んな物があるように観えてしまった部分もあるので今日はそれを書こうと思います。
このお芝居は、主にヒトラーという、歴史的にマクロなモンスターに焦点が当たっているんだけれど、その同じ時代に生きたふたつの家族の事も、描いているんです。
ひとつはアンネ・フランクの一家。
そしてもうひとつは、歴史に名前など残らないであろう一介の民間人〜亡くなった娘の夫とひっそり二人暮らしをしている、「おとうさん」の家族ーつまり、娘婿(アフリカ系青年)とその義父(日本人57歳)、です。
アンネ・フランクの家族のエピソードを通しても色んな物を感じちゃったのですが、より強烈に心を捉えたのは、「おとうさん」の方でした。
この「おとうさん」、始めは普通に良い人物、という佇まいを持って出て来ます。新聞で報じられるナチスの、ユダヤ人への残虐な迫害ぶりに胸を痛めたりして。
だけど徐々にことあるごとに、彼の内にある無自覚な、というか、彼にとってはもうなんていうか当たり前過ぎて疑問にすら思えないのであろう、定着した無頓着な、無邪気な人種差別意識が、あからさまに言動に、随所に現れるのです。
これは、普段は良識的な発言をしている政治家が、スピーチ中に人をギョッとさせるような非人道的な(本音)発言をしてしまって、後で叩かれるみたいな出来事として、日常でもよく目にする光景ですが、この「おとうさん」は政治家でもなんでも無い、パブリックな人物では無いので、その無頓着で無邪気な残酷さは、日常を共にしている家族の現実という、非常にミクロな領域で体験され続けます。
大舞台で900万人ものユダヤ人を殺害したヒトラーというマクロ・モンスター。
その惨状に胸を痛める「おとうさん」の内にある、本人どころか周りの誰からも疑問視されない、日常的な残酷さ(&実はもっとホラーな本音も潜んでいるのですが。)というミクロ・モンスター。
殺した数が違うだけで、他にはまったくもってなんの違いも無い、ふたりのモンスターなわけです。
この「おとうさん」が日本人なのって、日本軍がナチス側だったからかなとか思ったけれどまあそれはどうでもいいんです。とにかくあの「おとうさん」の、随所に現れる他者への魂の無い残酷さが、背筋を凍らせる程不気味なんですよ。
こういった、日常の中で取り立てて責められる事も無く見過ごされている他者への無神経さ〜心を込めて作ってくれた料理を無視したり、誰かが大切にしている物や事や作品を尊重しなかったり、ちゃんと話を聞かなかったり、マルゴット・フランクを当たり前の様に「アンネの姉」と呼び続けたり〜そういう無神経な残酷さが随所に散りばめられているこのお芝居を観ていると、誰が、どの口下げてヒトラーを責められるのか、という気分にもなってくるのです。
わかりやすい悪い事をした人間は、標的になりやすい。
でも、その悪い事をした人と同じ心の質が、自分の中には全く無いのか。
たったひとりの人間が、900万人を殺せたわけではないのです。
900万人を超える人々の心の中に、ヒトラーの欠片があったから殺せたわけです。
もしも良識派を自負する誰かが、このヤンチャなお芝居が思いっきりやっちゃっている、ありとあらゆるタブーに対して、それはやり過ぎなんじゃない?と言ったとしたら、私はその人に問いたいなと思います。
「このお芝居の無法さは、あなたが日常的にやっちまっているかもしれない、他者への無自覚な残酷さという無法行為を超えていますか?」と。
このお芝居は勿論、決してヒトラーを弁護しているような物ではありません。
でも同時に、ヒトラーだけが特殊な悪人だったわけでは無い事を、思い出させてくれました。
大舞台に立つマクロなモンスターの背後には、盲目な心を持つミクロなモンスターが何百何千万人もいて、友達や、恋人や、子供や、孫や、教師や、作家や、親や、隣人や、上司や、部下や、有名人や、無名人や、兄弟や、気に入らない事を書いたブロガーや、気の利かない店員や、羨望の対象や、社会の弱者や負け組の人や、社会の強者や勝ち組と判断される人など、とにかくあらゆる他者に対して、無自覚に、必要以上に、残酷な言動を日常的に繰り返しているのかもしれないのです。
ヒトラーと私たちの違いは、一体どこにあるのか。
違いがあるなんて思うのは、思い上がりなんじゃないのか。
もし自分をこんな風に思えないとしたら、あなたもマクロなモンスターの素質を持つ、ミクロなモンスターの、一員かもしれませぬよ(^^)
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