2017年4月20日木曜日

背後の快

今朝のABCニュースで、牧場に迷い込んだ一匹のビーバーに興味を惹かれた150頭の牛達が、ぞろぞろとビーバーについてゆく映像をやっていました。

以前にも私は、玩具だかボールだかを追う牛の群れの映像を観た事があり、牛という動物の個性みたいな物を感じてとても嬉しくなりました。

牛には大変お世話になっています。
私はベジタリアンじゃないし乳製品が好きだから、特に。
親しみのある、と思っていたこの動物の意外な一面を知り、食べ物以外の牛を実はまるで知らなかった事に改めて気付かされたりもしました。

このニュースを楽しく観た後に私はふと、なんでこんなに心が嬉しい感じがするのか、という点に意識が行き、ああ私の心は、牛の個性を観る事が出来るこういう生育環境、つまり、牛が牛らしく生きられている環境で牛が飼育されている事と、牛が牛らしさを失っていないという事に、喜んでいるんだ、という事に気付きました。

これは、映像を観て愉快だな、と感じる表層の反応の、背後にある感覚です。
私の心は、ユーモラスな牛の様子を楽しむ奥で、もっと普遍的な感覚から生物学的な"快"を感じ、このニュースに心地の良さを感じたのです。


人間は結構この、表層の感覚の背後にあるより深い普遍的なセンスに左右される物なんだなと思いました。

表現の表面がなんであれ関係無い、という部分がこれにはあります。
美しい森の映像であれ醜悪なゴミの写真であれ、その表現の深部の背後にある意図や動機や真実に、人間の快不快の感性は動かされるのです。

そういう事を実感させられる出来事に最近よく遭遇もしています。
例えば日常的には、優しい、親しみのある言葉を話す人の背後に、真逆の動機がある事に気付いている人と、そのストレスについて話し合う機会がやけに増えているし笑。

生物学的普遍的感覚に完全に鈍感な選択や感想を目にする事も多い世の中で、最近、行動の背後にある動機に反応して、快不快を直感的に感じ取っている人に会う事が多くなっているのは、とても頼もしい恵まれた事だと感じています。

この普遍的な感覚がOKと言う事で、ある物が長く安定した揺るぎないマイブーム等へと繋がってゆく事もあるのかもしれません。


ただ、個人の人生や生活が常に危機感に脅かされていると、この普遍的な生物学的感覚とは切り離されてしまうと私は思います。

疲弊した肝臓が活動を活発化するために毒や刺激物を求めてやがて破壊される様に、心にもそれが起こるように思えるのです。
私の経験上、強烈な危機に見舞われた人は逆に普遍性に回帰する事が多いのですが、問題なのは、弛緩し習慣化した、誤摩化せる程度と感じられる心の危機感です。


生物学的普遍的感性に響かないような物が一時的に人気を博したり好ましいと受け取られる事って、実は人間の心や世の中の危機の象徴的現象なのかもしれません。


これは勿論さっき書いた様に、何がそこに描かれているのか、という事には関係ありません。
モチーフは、関係無いのです。

よくない動機を持つ人が、自分の言語や行動の表現を妙に優しく親しみやすくして、ステレオタイプの善人を装う事がよくあるのとおんなじで。


2017年4月10日月曜日

差別

アジア人の女性が、予約していたAirBNBのホストから、アジア人だから、という理由で宿泊を断られたというニュースを読みました。

このAirBNBのホストが外国人に英語を教える言語教師だったらしいという事で、ただでさえかんかんに怒っている普通に良識のある人々の怒りに油を注ぎ、結構炎上している模様です。


トランプが大統領になって以来、彼やバノンがおおっぴらに差別発言を繰り返す事で、潜在的人種差別主義者たちが今、大変おおらかに自分の主義を表明している傾向があるように思えます。


私個人は、こんなに何年にも亘ってアメリカに入り浸っているにも関わらず、今まで一度も人種差別に遭ったことはありません。ですのでそれをされたらどんな気持ちになるのかが、実際のところあまりよくわかりません。想像がつかないのです。

こういう無知な状態の人間は、机上の理論で傍若無人な感覚を持ちがちであるという例に違わず私も人種差別に関しては、こんな風に軽く思う程度でした。

「人種差別は、持つ側の問題で、差別される側の問題ではない。差別される側は気にする必要無し。」

勿論、宿泊先を確保出来なかった上記のアジア人の様に、差別に伴う実害を経験している人は大勢いるので、差別される側に問題が及ぶケースは多々あると思います。ただ私のこの感覚は、差別されている側に非があるわけではないという、シンプルな事実に根を降ろしているだけの感覚で、差別にそれ以上の深刻な想いを持つ事はありませんでした。


そしてそんな私にある日、友人が差別されるのを目の当たりにするという出来事が起こりました。

ダークスキンのこの友人Aをあからさまに差別したのは、私の尊敬する友人で才能ある音楽家の男性Bでした。

私自身はこのBから差別的な待遇を受けた事が無かったので、兼ねてから友人らの口から出る、Bは差別的である、という噂を信じる事が出来ませんでした。

また、例の机上の持論で、別に政治家でもなんでもない、言わばはっきり言ってエキセントリックでも全然問題にならないアウトローなアーティストである彼が、どんな嗜好を持っててもいいんじゃないんですか、作品さえ素晴らしければ、てな感じで、たいして問題にも思っていなかったのです。

以前フランスから老齢のシャンソン歌手が来日された時に世話役だった友人が、その老齢の歌手がアジア人や日本食を全く受け付けられず、ホテルの部屋に籠ってしまってリハーサルと本番以外出て来ない、と言って笑っていたのを思い出します。

日本にだって外国人に慣れていない老齢の方で、白人だろうがなんだろうがモンスター扱いする人はいると思うし、そんなのを深刻に受け止めてたってしょうがないじゃん、てな感じで、軽く受け流していたのです。


しかし奥さん!!

実体験という物は、時に机上の理論とは、真逆の結論を導き出すものなのですね!!!


この音楽家Bは、友人Aの存在を、初対面からあからさまに無視しました。
まるでいないものの様に扱ったのです。
Aがパーティーで打ち解けて周りから一目置かれ始めると、今度はA以外の人を著名人に紹介したりし始め、Aをのけ者にしました。
パーティーにいる間中、私は一部始終それを見ていました。

何故私が、Aを連れてその場から去らなかったかと言うと、私自身がBの態度の動機に確証が欲しかったために観察を続けたかったのと、Aが去らねばならない理由が無かったからです。

というわけで。

この経験の終焉に私は、生まれて初めて、後にも先にもこれが初めてだよ、というくらいに強烈な、非常に純度の高い、『軽蔑』という感情が、腹の底から沸き上がって来るのを押さえる事が出来ませんでした。勿論、Bに対してです。

この軽蔑という感情には、怒りとか悲しみという感情が一切入っていなくて、なんていうんですか非常に冴え冴えとした、非常に明晰な、軽蔑、という感覚以外のなにものでもない、非常に大きな感覚でした。

この"軽蔑"という感覚は、今まで100%素晴らしいと思っていた人物を、強マイナスに貶める威力があり、我ながら驚きました。


かくしてこの日以来、私の中ではBの創る音楽にさえ、以前の様な感動を感じる事が出来なくなりました。
あんなけつの穴のちいせえ男が、生意気な歌うたってんじゃねえみたいな冷めた感覚が付きまとい、全然楽しめなくなりました。
彼の唄う言葉そのものが、非常に空虚に感じられたのです。
怒りとは全く別の次元の感覚です。


"性格なんかどうでもいいよ作品が素晴らしければ魔法"は、Bの人格のくだらなさに直に接した途端、非常にあっさりと消え去ってしまったのです。

これは我ながら意外な反応でした。

と同時に。


差別意識を恥も外聞も無く露呈している人間というものは、普通に良識のある人たちから、こんなにも強烈な軽蔑を受けてしまうんだな、という学習にもなりました。

才能あるアーティストのエキセントリックさに甘いこの私でさえ、しかもBは私の事はいつも大切に姫の様に扱ってくれる私怨無き関係性であるにも関わらず、私の軽蔑感覚の凄まじさたるや。


私には人間関係において、ある種の区別意識があります。
例えばAが、Bとはまるで住む世界の違う種類の人物だというのなら、Bの態度はわかるのです。

住む世界が違うというのは誤解を生む表現かもしれませんが、これは単に、人間関係にはやはり、羊の群れと牛の群れがあると思う、という意味での違いです。

違うからと言って喧嘩したり差別し合う必要は勿論ありませんが、お互いが違うという事を正確に健康的に理解していないと、侵略的になったり支配的になったり嫉妬したり搾取したりと、心理的な領域で不健康な事になると思うので、”違うのだ”、という認識には敏感な方が嬉しいと、私は思うのです。

違うという前提で付き合い始めれば、共通点が見つかったり共通の価値観での成長が起こってきたりすると、新鮮で嬉しいと思いませんか?

というわけで、こういう事が動機で全然違うと感じ、BがAを直感的に嫌ってしまって遠ざけたというのなら、私はBの態度を尊重出来るのです。

だけどそういうんじゃないのが、明らかだったのです。
なんかもっと、くだらない感じでした。


私の持っている、人間関係上の区別意識には、「今のところはお友達にはなれない相手とそのワールド」への、尊敬と信頼が土台にあります。

羊の身であり羊ワールドに満足しながらも馬の事はそれなりに尊敬していて、尊敬しながらでも今のところは餌場を共有しませんよ、という感じとでも言うんでしょうか。

あるいは、今は馬が恐くてわからなくてダメだから勘弁、でも、決して馬鹿にしたり一生NGとか思っているわけではありませんよ、とか。
これは上記の、老齢のシャンソン歌手が、日本食を食べられない感じに近い様に思います。ダメな理由が自分にあると、知っている態度です。


しかしBの態度は明らかに、Aの存在を貶める物でした。
Aの側に劣っている物があるから無視しますよ、でした。
お前はオレより劣った存在なんだから馴れ馴れしく入って来るな、という態度でした。
残酷に、冷たく、Bは初対面で何も知らない相手Aの存在価値を、利己的に踏みにじる行為を、堂々と行ったのです。
これははっきりと、軽蔑に値する行為だと私は感じました。


日本であまりトランプへの軽蔑が見受けられないのは、単一民族の歴史が長く、あまり差別という物を経験していない事が、一因にあるのかもしれません。

頭だけで考えていると、差別意識ってそんなたいした物では無いように感じられるかもしれない。誰でもなんらかの差別意識はあるんじゃない?と思ったりして。

確かに、誰だって何かはあるかもしれません。
だけどそれについて、自分の側に問題があると認識しているのと、あたかもそれが普遍的で正当な判定みたいな錯覚に陥って、堂々と態度や口に出すのとでは、大きな違いがあると私は思います。


トランプやBは、後者なのです。
後者である事が問題なんだと、私は思います。
トランプに懸念を持つ多く人が見ているのは、トランプの行いの背後にある、動機なのです。

自分の中にある欠損を、他者の欠損だと思い込んで蔑み憎み無視するという行為。
これは、害を及ぼして来たり今は友達になれないと感じる人物に対して毅然とした境界線を引く行為とは、全く異なると私は思います。


意外な事に私は、人素差別という事について、ちゃんと考え始めたのはトランプ当選以降です。
これは、こんな年になるまで差別の犠牲にならなかったという事なので、今の世の中を見るともしかしたらラッキーだったのかもしれません。


自分の中の欠損や恐怖の原因を象徴的に他者に投影する人は、その欠損や恐怖を持ち続ける事に絶え切れず、替わりに象徴となる投影の対象を、とことん嫌い消滅させようとします。
しかし働きかけるべきは自分の内面なのであり、外界をどんなに変えても根は消えません。

そうやって外界にあると思い込んでいる原因を根絶やしにし、それでも自分の心にある欠損感覚や恐怖感は消えないから、今度は次の原因を探すわけです。また外側に。


熟慮無く海外への実力行使を始めたトランプのムスリムbanが、いつかアジア人対象に変らないと、誰が保証出来るのでしょうか。

2017年3月9日木曜日

Twitterのバウンダリー

ブログやTwitterをやっている人には、それぞれ異なる目的や動機やルールがあると思います。

この領域においてはまだ、何が普遍的に正しくて誤りなのか、というマナーやルールという物は、明確には言えない、若い文化なのだと思います。

しかし私が思うにここには人付き合いにおける距離感やバウンダリーのセンスに起因する暗黙の良識的了解があり、多くの人はそれをなんとか、守っている様に思うのです。


私の場合個人的に、どういう想いでTwitterやブログをやっているかと言うと、一般公開しておいてなんなのですが、これは完全に、プライベートな物だと思ってやっています。

プライベートな生活の中で感じたり思ったり体験したプライベートな事を、プライベートな友達に語る感覚でtweetしたりブログに書いたりしているのです。

自分がそうなので、通常私は、人のtweetやブログに対しても、同様の対応を心がけています。
つまり、「自分はプライバシーを見せてもらっている。だからもし、リプなんかをする場合でも、その人のプライベートな事情に踏み込み過ぎたり、台無しにしたりしては絶対にいけない。それをやる権利は、誰にも無い。」
と言った感じです。


相互フォローしている友人や知人やお仕事関係の皆さんのtweetの中には、私の大切にしている信条や美学や政治的立ち位置とは真っ向から対立する様な価値観や世界観をお持ちの方も沢山いらして、日頃からそういった主張や思想をよくtweetされてもいますが、私個人に向けて語られているので無い限り、そういった事に反論しに行ったりはしません。

それはその方々なりの想いや考えであり、私が個人的に、それは間違っているとか違うとか思っても、その人には全然関係無い事だと思うからです。
勿論、私個人に向かって語って来られた場合は正直に誠実に対応しますが、その人が勝手にtweetしている事というのは、その背景にどんな事情があっての行いなのかがまずわからないという事もあるので、そっとしておきたいと思うのです。


これには私がTwitterやブログについて、深刻に捕らえるほどではない「たかが」だと思っているから、という前提もあります。
勿論、影響力のある方のtweetやブログでの意見、あるいは誰かが切羽詰まって助けを求めていたりするケースや、誰かへの積極的な攻撃や嫌がらせに使っている場合等は「たかが」とは言えません。しかし一般的な人間関係という点においては、やはり「たかが」だと思うのです。

例えどんな非常識な罵詈雑言を吐いていたとしても、それが自分を含む特定可能な個人に向けられているのでない限りは、そのままそっとしておいてあげて全然オッケーな「たかが」だと思うのです。


私は先日、私のtweetに対してちょっと気の障るリプをしてきた知人を、ブロックしました。

その時の私のtweetの内容は、私がとても大切に想っているある少女が、私の事を綺麗だと言ってくれた、という物でした。
私はそれを照れ隠しに、美少女に美少女って言われた、という表現でtweetしたんです。
するとある男性の知人が、顔文字でゲッというような反応をリプして来ました。

この人物のリプには、兼ねてからやや逸脱した不躾さがあると感じていて、ちょっと気になってはいたのですが、親しみの表現として快く受け取り、今までは特に腹を立てる事もありませんでした。

しかし今回は見過ごせる物ではありませんでした。
私が件の少女と過ごしていたその時間は、本当に貴くてキラキラした、宝石みたいな時間だったのです。
眩しい様な輝きを持つこの7歳の少女は、いつも真っすぐに人の目を見て、感じた事をすっくと言葉に出来るとても勇敢な少女で、その言葉にはいつも清潔な輝きと、澄み切った鋭利な透明感があり、いつも私の胸を、清らかに深く貫きます。

その少女が私の事を、「You are beautiful.」と言ったのです。


私は、リアリストで健康的な自己批判精神に満ちている人間ですから、私がビューティホーかどうかというリアルな判定については、百も承知しています。
だけど私には、彼女が抱いた私へのその感覚が本当に貴く、まるで世界一大好きな人から差し伸べられた、一輪の花の様に感じられたのです。
私が自分の容姿をどう蔑んでいようが関係無い。
少女が美しいと感じた私の美しさを受け止めて、認めて、大切にしたい、と思ったのです。
だから文字に書き留めて、その聖なる瞬間を留めておきたいとtweetした。

そこに飛び込んで来た、否定的な顔文字。

もちろんその男性は、意地悪な嫌がらせをしようとしてそんなリプをして来たわけではありません。軽いジョークのつもりだったのでしょう。
しかしこの場合、意地悪な嫌がらせが動機にあった方が、なんぼかマシ、というシチュエーションではないでしょうか。

悪意がある、と断定出来る様な人間なら、いくら私の輝く時間を台無しにしてもしょうがない、相手にしなきゃいいんです。しかし、それが相互フォローしている知人から飛ばされたからかいとなると、問題は、より不快な物に、なりはしないでしょうか。


この辺りの私の感覚を、理解しない人がいるのは承知です。
しかし、瞬間的に深く理解してくださった方々から、慰めのメッセージをいただいたのも、事実です。
私は、ここでこの感覚を、まさに直感的にわかってくれる人とでないと、深い付き合いは出来ないな、と感じました。

この顔文字リプはまるで、大好きな人が私にくれたケーキを、関係無い誰かが突然やって来て、土足で踏みにじった様な印象を、私の心に落としました。
この行為は私にとって、絶交ーつまりブロックを決定するに充分なインパクトだったのです。


しかしながら。

これはたかが、Twitter上での出来事だ、という感覚も、同時に私の中にはありました。

Twitterで起こった出来事を、三次元の現実の人間関係に適用するつもりは、私には無いのです。

もしどこかでこの男性と偶然会ったら、なんにも無かった様に、挨拶するでしょう。
もしこの男性が、自分の行いを心から反省して謝ってくれたら、そこから新しい良好な関係性が生まれるかもしれない。
逆に、私が何で怒ったのか理解も共感もせず、ブロックした私を逆に怒っていたとしても、直接会えばそこではちゃんとした、有機的なコミュニケーションが生まれるのです。相手の出方によっては、そこで本当の絶交になるかもしれませんが笑。


メールやTwitterや様々なソーシャル・ネットワークにより文字文化が一般化して、今は本当に、書く力とリテラシーを求められる時代です。
本来さほど読解力が無く、読む事や書く事が苦手な人にも、当たり前の様に読む力、書く力が求められている時代ですが、そうそうはままならない事もあるでしょう。

だからこそ私は、Twitterやブログを通じてのコミュニケーションは、よりクリアに、しっかりとしたバウンダリー意識の元に行われるべきだと思うのです。


私は、特に私に向かって放たれた言葉で無い限りは、強い違和感や反感を感じても、相手にはしません。

しかし私に向かって行われた事に対して私自身が「失礼だ、不愉快だ」と感じた事に対しては、相手の事情〜例えば、悪気は無いのだろう、とか、うっかりしちゃったんだな、みたいな〜を汲む必要は無いと、私は思います。
だからはっきりと、態度に表すのです。


これは私が、プライベートな事を一般公開している時点で発生するリスクを承知しているからこそ、特に貫いてゆこうと思う信条です。
一般に公開しているんだから、何をされてもしょうがないだろう、という甘えた風潮への、はっきりとしたNOです。

これは私は人間を、人の良識や距離感やバウンダリーのセンスを、信頼しているからこそTwitterやブログを一般公開しているんです、という意思表示だし、上記の様な、人はどうせどうしようもないんだから、という甘ったれた感覚へのアンチテーゼでもあります。

そして誰かが求めているセンスのハードルの高さを、きちんと掌握出来る感性を磨こうよ、と、他者に求める気持ち&それが出来ないならすいませんが去らせていただくというはっきりとした線引きでもあります。


曖昧なツールだからこそ、自分の中に明確なルールを持っていないと、あまり良い事に、ならないと思うのです。

2017年2月20日月曜日

映画"SPLIT(スプリット)"を観た

この映画が日本でも上映されると知った今この瞬間、どうかどうか、日本のいつものやり方で、キワモノみたいに扱わないで欲しい、この映画だけは、と心底思った。

この映画は、本当に悲しく、そして胸を打つ美しい物語です。

幼児期の生育環境が、如何に個人の脳や心身の発達に影響を及ぼすかを、アメリカで何年も、臨床的に学んだ身としては、本当に、身の斬られる様な想いで観る、非常に真摯な物語でした。

24通りもの人格を持つ多重人格者の青年の引き起こす犯罪から始まるこの物語は、幼児期の虐待によるトラウマが、ひとりの青年の中に真の悪魔を生み出す可能性を、克明に描いています。タイトルのSPLITとは、分裂という意味です。

丁寧で控えめなやり方で描く青年の背景と、被害者である少女の持つ背景。

映画の後半で一瞬だけ現れる、青年のオリジナルの人格"ケヴィン"の美しさ。

深い領域で少女の魂に触れる悪魔の中のケヴィンが、最後に少女にもたらす大きなギフト。


映画の後半はもう、映画で語られる全ての現実に胸を打たれて泣きっぱなし。

一緒に行った連れ(屈強な男)も泣きっぱなし。

映画館を出た道路でも一緒に泣きっぱなし。

映画の後に入ったレストランでは、二人してメニューも決められないくらい胸がいっぱいで、しばらく涙が止まりませんでした。


たったひとりの、子供を虐待する母親によって、こんなにまで分裂してしまう青年の心。
それが本当に悲しくて、胸を揺さぶります。


ケヴィンの分裂する人格と、オリジナルのケヴィンの違いを、この俳優さんは素晴らしく演じてくれています。

アメリカで学んだ臨床心理学で、如何に多くの一般の人たちが、心理的防衛のための仮面をつけて生きているか、そしてその仮面が如何に、他者との本質的な関わりを遠去けるかを、この映画を観ると如実によくわかります。


分裂した人格がどんなに真に迫っていても、その人格のどれもが空虚で、他者との真の交流を全く受け付けていないのがよくわかります。
表面的にはうまくコミュニケートしているように見えますが、その顔つきと様子から、全くオーセンティックでない事が、よく伺えるのです。

優しさや正直さや誠実さや善人さを装いながら、他者を操り、騙し、印象操作し、虚勢を張り、しかし移ろいやすく壊れやすい、無機的なニセモノのアイデンティティ。

しかし映画の後半に出て来た、オリジナルのケヴィンは、その23個の人格とは全くかけ離れた物でした。
その真摯なナチュラルさと清らかな誠実さと有機的な暖かさは、一瞬の顔つきの変化で、あからさまに感じ取れるのです、ああ、この人とは、人として、ちゃんと話が出来る、本質的な交流を持てる、と。


しかし一体今の世の中、どれだけの人がオリジナルのケヴィンで、生きているのでしょうか。

他者の顔色を伺い、他者からの評価を気にして、気に入られたい人が好むと思われる言動を演じてみたり、強い憧れを感じる自分以外の他者の皮を被って、それらしい言動を真似てみたりする内に、オリジナルの自分がどんななのかを、忘れちゃってる人って、結構いるんじゃないんでしょうか。

物真似や誰かからの影響に反応して身につけた言動を、人格的成長だと勘違いしている人たちが、少なからずいるんじゃないでしょうか。

皆さん、それは、ニセモノのアイデンティティですよ。

全部、心理的防衛が創り出した人格のデコイ、生け贄にしてもいい捨てキャラ、怪物の姿を模した鎧、ニコニコ顔の着ぐるみに、過ぎないんです。


この物語には、沢山の滋養が隠されています。

そしてその滋養の恩恵を一番に受けたのは、まずは被害者の少女であり、次に私と連れ・笑。

この映画を観てどれだけの人が、自分の仮面に気付き、自分のスプリットに気付き、ケヴィンの本質的な美しさに、人間の真の姿の、素の尊さを見るかはわかりませんが、少なくとも私と連れは、本日大変深淵な時間を共有し、美味しい食事を楽しみながら、人の心の複雑さと美しさを、涙ながらに静かに語り合う機会を持てました。


素晴らしい映画をありがとう、と、心から。

2017年2月8日水曜日

666 フィフス・アヴェニュー

このブログの内容は大変不謹慎かつバカバカしい内容なので、ここだけの話にしといてください)笑。

私は陰謀説みたいな物は全然好きではないのですが、現在、毎日とっても頭脳を使う仕事をしているため、箸休めに私もちゅうにびょうみたいになってみるかと思ったのです。


というわけで本題ですが。


クリスマスの時期のマンハッタンに行って、惨然と輝く"666"の文字に仰天した事のある人はいませんか?
私はしました。

なんたって私は生粋のオーメン・ファン。
1シーズンで打ち切りになっちゃったどうしよーうもないダミアンのスピン・オフ・ドラマまで観尽くし、そして結構楽しめたくらいの大ファンです。

お若い方はご存知無いかもしれませんが、"オーメン"というのはグレゴリー・ペックという渋い俳優さんが主演したオカルト映画の名作です。

養子に迎えた息子が実は反キリスト、つまり悪魔だったというこの物語は、無垢な少年だったダミアンが、自分の頭に刻まれた獣の数字666に気付くまで、そして気付いてからの成長を追って映画では三話まで作られ、その後は色んなスピン・オフが映画やテレビ・ドラマまで作られている人気者です。


映画第三話では成長したダミアンが政治の世界に入り、世界を破滅に導くという興味深い話ではあるものの、ダミアンを演じた俳優さんの印象がどうも私のイメージとは異なる為にずっと飢餓感を抱え、色んなスピン・オフを観てしまうんですよね。

テレビ・ドラマの方のダミアンは割とイメージに合っているんですが、ダミアンそのもののキャラクターがぶれまくっていて、中々思い入れしにくいままに、結局打ち切りとなってしまいました。


そうです。
私の中には、くっきりとした青年ダミアンのイメージがあるのです。


もしも私が成長したダミアンを描くなら、痩せ形長身のハンサムで、柔和で賢そうな、見るからに育ちの良さそうな、初々しさの残る青年にするでしょう。

一見どこにも邪悪な影などなく、むしろその笑顔にほっとさせられるような、けれども抜け目の無い、深い賢さがまなざしと態度に滲み出ている様な魅力的な好青年。

勤勉で、誠実で、クリーン。
優雅で、いつも仕立ての良いスーツに身を包み、エコな姿勢で企業を牛耳る人望の熱い青年実業家です。

打ち切られたとはいえ、ドラマのダミアンの設定は素敵でした。
戦場カメラマンという仕事柄、沢山の理不尽な悲劇を目撃していて、罪も無い一般市民の犠牲に苦悩と悲しみを抱えながら正義感溢れる態度で戦地での仕事に励み、その経験から、神なんか!という強い信念が芽生えるのだけれど、実はそれは彼自身がアンチ・キリストだからだった、というものでした。

これは実に良く出来た仕立てだと私は思います。
善良な人間の青年から悪魔へと覚醒する時期の近づいたある日、それまでに様々な悲劇に見舞われている彼は、親しい人の葬式という大衆の面前で、神父に対して神への不信を爆発させるのですが、その弁舌には思わず納得させられるような迫力がありました。


そもそも悪魔という物は堕天使なので元々は天使です。
彼の弁舌を聞いていると、脳天気に神様を信頼し切っている人たちよりも、彼の方がずっと深淵な精神を持っている様に感じられて来て、思わず肩入れしたくなるくらいなのです。
この巧妙な仕掛けは、とてもうまいと思いました。


私個人は、"善と悪"などの二元論を全く否定している人間なので、ダミアンもまた摂理の一部と感じるのですが、しかしそれではエンタテインメント的に面白くないので、オーメンに接する時には意識的に善なるものVS邪悪な物、という方向に浸る様にしています。

そしてそういう意識で、悪魔を完全に邪悪な存在と位置づけると、テレビ・ドラマのダミアンには、なんらかの臨場感を感じるのです。
ひっそりと、共感出来るクオリティを使って、人々の心に、世界に、政治に、いつの間にか入り込んで来る邪悪。
始めは静かに、そしてその存在感は徐々に大きく顕著になってゆくのだけれど、そうなった時にはもう遅過ぎる。という顛末です。


こういう歴史を、人は既に何度も経験して来ました。

正義感の裏にある排他性、黒と見なした物を徹底的に排除する事で白を守ろうとする神経症的な潔癖さ。
私は、個人の人生や人間関係の中では、自分の美学に準じたきっぱりとした正義感や境界線が必要だと思っていますが、その意識を集団の指導者の様な人が持った時、その正義の剣は、崇高で思慮深い意識の集結の元、慎重に見極めた方法と選択でふるわなければならない物だと思っています。

でも世の中って大抵は、そんな風に思慮深くは行っていないよね、今のところ。


というわけでこのブログが何故不謹慎かと言いますと。


マンハッタンの街に君臨する666フィフス・アヴェニュー・ビル。
頭に獣の数字666の痣を持つダミアンを思う時、かねてから私は、この、666ビルの青年オーナーの事を第一に思い浮かべていたという事なのです。
ていうか、それって自然じゃない?
だって、クリスマスのマンハッタンに行くと、華やかなイルミネーションの中に、このビルの赤い666の文字が、かなり目立って光ってるんだからさ。


そしてその、私の中のダミアンである若き青年実業家が、今やアメリカ大統領の義理の息子であると同時に、大統領上級顧問になっちゃったんだから、オカルトファンタジー脳全開でちょっとはエキサイトしちゃってもいいんじゃないかしら。


トラの寵愛を一心に受けているという噂のこの娘婿。
これからどんな事を張り子のトラの耳に囁き続けるのかが、目の放せない状況だなと思うのであります。


ほんとバカバカしくてすいません。
まあでも、世界中に出回っているトラ絡みの様々なブラック・ジョークに比べたら、乙女チックでソフトな妄想だと思うんですよね。テヘ😝。

2017年1月29日日曜日

人には向き不向きがある

以前このブログで、トラが当選した場合、唯一彼がよい大統領になる可能性があるとすればそれは、ヒーローになる事への憧れから、民衆の動きを見極めて学び、不本意ながらもその意向に従う事から始まるのではないかと書きました。

しかし当選してからの彼の様子を見てみると、まず彼は自分の言動について、うしろめたさや罪悪感が全く無いんだねという印象で、これは、民衆が彼に反対したところで、一体何が悪いのかがわかっていないレベルで、人気取りの為に方針を変える術も無い、つまり自分の何が悪いのかそして何をどう変えれば尊敬の対象になれるのかが、まずはわからないのではという感じです。

あっという間に共和党からはかなりの人数が、トラとは一緒にやりたくないという理由で議席を去り、空いた人員をかき集めねばならないと知った時、トラはさすがに傷心な顔をしていたという噂を聞きました。


そもそも彼は自己愛性境界例ですので、心の底に潜む強い劣等意識から自分を乖離するために壮大な自己理想像を持ち、それを承認するために、崇められたり慕われたりすごいと思われたり神と思われたり褒められたり尊敬されたりかっこいいと言われたりするのが大好きなはずですから、思いがけずあまりに多くの人からの嫌悪を全身で浴びている今、平気でいられるとは思えません。

彼が当選した当時から、あまり長く持たない感じ〜、と思ったのは、暗殺されるとかそういうんじゃなくて、なんとなく上記の理由から、早い段階でトラ自身が、サイコティック・ブレイクダウン(心理的破綻)をしてしまうのではないかと思ったからです。


彼がやり手のビジネス・マンだった頃には、好きなだけ自分の理想の幻影を生きていられたのだと思います。

彼をよく知る友人によると、ビジネス・マンだった頃から自分の資産の数字をかなり大袈裟に"盛って"語っていたとは言いますが、仕事上の付き合いならば相手がいくらか自意識過剰のうぬぼれやの見栄っ張りでも、そこは見て見ぬふりをして取引を行うなんて事はよくあっただろうし、ましてや褒めそやして仕事を進めるという事だってあるでしょう。

そういう狭い世界にいれば、(いや勿論、一般的に見れば決して狭い世界ではありませんが、つまり彼の畑である世界に居続けさえすれば)、さほど大きなバッシングに遭う事も無かったでしょう。

ところが大統領になってしまった今、メディアや国民は、その攻撃の手を緩めません。
今や彼の決定や言葉が大きな力を持つ様になってしまったんですから。

そして友人によれば、自己愛性境界例故に彼は、とにかく評判が気になりますから、いくら側近に、悪口を言ってるだけのテレビなんか見るなと言われても、やめられないのだそうです。
そしてそんな批判を聞いて、学んで成長するような強さは、彼には無いだろうと友人は言いました。


彼が呼び寄せてしまった、この災難。

実業家のままでいさえすれば、美人の妻と美しい子供達に囲まれて、みんなにチヤホヤされたまま、誰にも理想の自己像を傷つけられず、「誰もあんたが思ってるような素晴らしい自己像と同じ様に、あんたを見てやしないんだよ。」という厳しい現実を突きつけられないまま生きられたかもしれません。


このままではトラは気付いてしまいます。

オレはもしや嫌われているのか?と。
ましてや、軽蔑されているのか?と。

オレが当選したのは単にカウボーイの連中が、女に政権握られてたまっかと思っただけだからなのか?と。

オレは190cmの2歳児で、大統領になんか到底なれる器ではない人間だったのか?と。



そんな時、周りの大人は優しく、こう言ってあげればいいのです。

「あなたが大統領になったおかげで、アメリカは再びグレートになりましたよ。」
と。

そうです。
今やアメリカは、今まで言葉を濁し続けていた人たちでさえ、人種差別や女性蔑視に大いなる異論を唱え、異教の隣人に言葉と行動で愛を伝え、軟禁されている難民を解放する為に空港に押し寄せ、街は"全人類ー全宗派、全人種、全性別の為の保護区になります"と掲げるサンクチュアリ・レストランだらけ。

アメリカは、再び良き、グレートなアメリカを取り戻したのです!

ありがとうトラよ。
そしてさようなら。

もう、不向きな仕事からは遠ざかり、元の実業家に戻って、壮大な自己像を信じさせてくれる人たちと共に、平和な老後を送って下さい。

2017年1月23日月曜日

3歳児激オコから学んだ



これは初めて動物園に連れて行ってもらった三歳の男の子オーリーが、(私は女の子と思ったのですがHeという記載がありまして)一目見てその現状に激怒する映像です。

大変感心したので、ここにザックリと翻訳しました。


オーリー「この人たちはいい人たちじゃない。」
お母さん「誰のこと?」
オーリー「彼らの持ち主。」
お母さん「誰が何を持っているの、オーリー?」
オーリー「動物たち。いや、いい人たちだ、ただわかってないだけなんだ。」
お父さん「ただわかってないだけ?」
オーリー「彼らは動物を見る為に閉じ込めている。それは正しくない。それは牢屋と同じだよ。」
お父さん「牢獄みたい、その通りだね、オーリー。」
オーリー「彼らは(動物達は)悪さなんかしないよ。」
お父さん「うん、彼らは悪さなんかしない、ただ動物でいるだけだよね。君は本当にもっともな事を言ってるよ。」
                           (*動物園という場所についての賛否両論はまた別の話としたいと思います。)



3歳。
自分を振り返ってみると、オーリーの考えを決して早熟だとは思いません。
私も小さい時、本当に沢山の想いを抱えていた。でもそれを、こんなにためらい無くそっちょくには言わなかったなと思います。
そこがオーリーはすごいと思うのです。

子供というものは、大人が自分に何を求めているのかを、敏感に感じ取る生き物です。
何故ならそれは、生存本能の一部だから。
無力な人間の子供は、複雑に機能している文明社会の中で、庇護してくれる大人の助け無しでは生き残れません。だからこそ子供は、自分を養い保護している大人の顔色を、敏感に感じ取るように出来ているのです。


そういう意味で、もしも親が、私を喜ばせる為に動物園に連れて来てくれたのだったら、閉じ込められている動物たちの姿をどんなに悲しく思っても、それを言葉には出せなかったかもしれない。親が期待しているであろう、無邪気に喜ぶ自分を演じるなど、親の想いを汲み取る方を選んだかもしれません。
勿論実際にはこのオーリーの親の様に私の両親も、正直に言えば言ったで感銘を受けるだけでがっかりなんかしなかったかもしれませんが、そこは子供なんですから、そこまでは頭は回りません。
ましてや、もしも過去に素直な言動を貫いて叱られたりした経験でもあれば、そんな危険な事はもう出来ないと、子供ながらに学習しているはず。


そんな風にして、素直に心に宿ったそっちょくな想いをどんどん閉じ込めていくうちに、自分が本当は何をどう感じているのかが、よくわからなくなっている部分が、誰にでもあるのではないでしょうか。


トランプの大統領就任の際に、不安や不満を語る声に混じって、抵抗を示しながらもポジティブに現状を解釈する声を耳にする事が度々ありました。

ポジティブ意見の内容は様々で、運命論的だったり、出来事には必ず意味がある的な哲学系だったり、膿出しになるとか、反面教師になるとか、破壊と再生のプロセスだ、というような深淵な物だったりと、実に様々です。
その殆どが論理的で冷静で知的な、大人の論法に見える内容です。


私はそもそも、どんなに望まない結果でも、何かが一旦起こってしまったら、起こってしまった事に敬意をはらうタイプの人間です。
だから前述の様に私も通常は、望んでいない結果だとしても起こってしまった現実には意味と役割があるのだと自動的に反応し、通常はさほど葛藤は感じません。
まずは現実を、抵抗は感じながらも受け入れて、その後に解決したり順応したり質問したり理解したり変更する為に行動します。

だから通常ならば私は、トランプの件についても大きくポジティブな視点で解釈して現実を受け入れる事を、いつもならするはずだったんですが、でもどうも今回は出来なかった。
そして今回は、直ちにそれを行っている人たちの言葉に、強い違和感を感じたのです。


どうしたもんかと思っていた時に起こったのが、トランプに半旗を翻すWOMEN'S  MARCHでした。
アメリカの友達が男女問わずこれに参加し、どんどんfacebookに写真や中継を上げてゆくので何が起こっているのかを知り、やがてたったの半日で全世界に広まっている事を知り、トランプの就任式に集った人数を大幅に超える歴史的なイベントになった事を知りました。
世界80カ国、670カ所で、480万人が参加したと、今朝の新聞にはありました。


トランプ就任で一様にどんよりとしていたアメリカの友人達が意気揚々と盛り上がり、どんどん力を取り戻してゆく様子が、SNSから伝わって来ました。

このイベントの溌剌としたうねりを見た時に感じたのは、ああ、知的に大局的に出来事を解釈して、まあトランプも時代の流れだよ、なんて優等生な事を言ってる限りは、こんなに生き生きとした動きには、踏み出せないな、という事です。


確かに、意外にも人々を争いで分断する替わりに、人種や宗教や性別を超えたユニティを呼び起こしてしまったという意味でトランプの大統領就任は、ポジティブな役割をしたかもしれません。
でもそれが現実に起こったという事と、この素晴らしいムーブメントが実際に起こる前に、ポジティブな可能性を頭で想像して自分や人に言い聞かせてしまう行為とは、全く意味が異なると私は思います。

私は、今回この一件を通して、トランプの様な人物を、なんとか平和に容認してポジティブな解釈を語ろうとする人たちにあるのは、ある種のストックホルム症候群なのではないかと思ったのです。


ストックホルム症候群とは、誘拐に遭ったり、ドメスティック・バイオレンスやドメスティック・バーバル(言葉による)・バイオレンスに日常的にさらされている人が、その環境やそれをもたらす相手に自分を適応させてゆく為に取る、心の鈍麻と防衛反応です。
極端なケースでは、自分を誘拐した犯人に恋をしたり味方についたりするアレ。


人間は、無力な幼児期に、誰もが隷属関係に似た心理体験をしています。
親と自分との関係性において、どんなに愛情深い親に育てられていても、子供時代は何かと自由が制限されるものですし、ましてや親が過保護だったり過干渉だったり、子供の尊厳を軽視するタイプだったりするならば、なおさらにその印象は強まります。

自然な親子関係の中に存在する、子供にとっては理不尽だと感じられる躾や教育や価値観の押しつけ。
しかしそれに異論を唱えたり逆らったりすれば、叱責され罰を与えられたりします。
そういう体験を繰り返すうちに子供は、自分の中にある、親の理念とは相容れない鮮烈な思想や憧憬を感じない様にする事を学び、やがて親の価値観に準じる術を身につけます。

これがある意味、ストックホルム症候群の根ではないかと思うのです。殆どの人の心に潜む、ストックホルム症候群の根「感じないぞ。」
これがポジティブ・シンキングの根底にあるとすればそれは、むしろ不健康な、感覚の鈍麻です。


トランプは、権威的な容貌と横暴さの権化です。
多くの人にとっては子供時代の自分が、親に感じていた脅威を象徴するような人物ではないでしょうか。
だとすれば人は、たとえ彼に対する抵抗を強く感じていたとしても同時に、幼児期に親との関係の中で培って来たある種の諦めを、そこに重ねます。横暴な親の元に育った子供ほど、強い諦めと感覚の麻痺によって心の平安を獲得するのですから、大人になった今やその諦めや無力感が、何かポジティブな、心の平安の様な物でもあるかの様な錯覚すら起こります。


すると自動的に、トランプはしょうもないけど抵抗してもしょうがない、としょぼんとなるやいなやポジティブになっちゃって、無意識下で頭を働かせ、実は幼児の悲しい心的反応なのにあたかも成熟した冷静な自分から出た知的見解の様なコーティングをかぶせて、ポジティブを語り始めるというわけです。


なんだか今回私は、トランプ就任についてポジティブな見解を語る多くの人の言葉の裏にこの気配を感じてしまい、どうしても同調する事が出来ませんでした。

またある記事に、日本人の反応が最もトランプに優しく肯定的、とあるのも読みました。
もしそうだとすればそれはやはりそこには文化的背景があるのかもしれません。
日本には古くから、男尊女卑や貞淑で従順な妻、という美学があります。
横暴な父親や旦那の元で生きる経験を余儀無くされた経験があるなら、ストックホルム症候群の傾向を強く持っているのは当たり前です。

また一方で、日本人には自然に禅的な心の動きを持つ人が多いと私は思っており、この要素は素晴らしい物だと私は思っていて、この禅の心によってジタバタしない部分も、何割かはあるとも思います。

この場合はより自覚的であり、物事の正しくなさとそれに伴う不快感を充分に自覚した上でジタバタしないという態度を取るでしょう。
この禅的な態度は深淵な明け渡しであって、ストックホルム症候群から来る「イヤな事やイヤな感情は見ないぞ感じないぞポジティブ・シンキング」病とは、一線を画す物です。

この禅的な人々は、動物園に激オコするオーリーと、基本的には同じです。
抵抗や怒りと真っすぐに繫がり、明確に自覚しているからこそ、不条理な現実に対して自覚的な明け渡しと同時に、その現実を覆す底力を、保っていられるのです。


私は人間はいつでも、このオーリーの様な生き生きとした怒りを手放すべきではないと思っています。
そうでないと、トランプの様な横暴な人物が、ますます世界を牛耳ってしまうからです。


WOMEN'S MARCHがたとえトランプ政権を倒せなくても、それにはたいして意味がありません。あの行動によってあんなにも沢山の人が、同じ想いを持っていた事がわかったという事が、大事なんだと私は思います。

未だに差別や偏見や暴力が横行する世の中ではあるけれど、あんなにも沢山の良識ある人々がいるという現実を知り、あのムーブメントが一切起こらなかった日本にいる私でも、心が温かくなりました。

ストックホルム症候群的ポジティブ・シンキングに陥らずに、自分の不快感にちゃんと繋がって行動した人々に、本当に感謝を感じています。



ところで余談ですが、銃規制に抵抗する勢力側のトランプ氏。
あんなに沢山の、自分に反感を持つアメリカ人たちを見て、ヤバい、銃、規制しなきゃ、とは思わなかったんでしょうかね笑。