2015年3月26日木曜日

小さな大自然


思えば5年くらい前に、友達のロレインに連れて行かれたコロラドの工房で、初めて陶芸の体験をしたのです。

ロレインは既にプロの陶芸アーティストとして活躍していて、彼女の焼き物に魅入られた私を制作の現場に連れてってくれたんですけれど、そこで、やってみたら?と言われたのが始まりでした。

陶芸の知識も興味もまるで無かった私は、陶芸と言えば轆轤を回すものだと思い込んでいて、そんなめんどくさいこと出来ない、と言ったら、彼女は自分は轆轤なんて使った事が無いと言って、手捻りの作陶を教えてくれたのでした。

それですっかり陶芸にハマってしまったアタクシ。
今では自宅に釜を持つ身の彼女の家で、その後も時々焼きましたが、日本でもやりたいなーと思って、近所の陶芸アトリエに行き始めたのです。

写真は今日作った作品です。
手捻り...つまり、轆轤を使わず、手で粘度をこねて作るやり方ですね。子供時代によくやった泥遊びみたいで、非常に楽しいのです(^^)。
非常に楽しいのですが、現時点で、成功した作品が、ひとつもありません。

ひとつも。

まあ、まだ始めてから10個くらいしか作ってないんですが、それでも、10個創って全滅って、すごくね?
今日創ったこれだって、自分ではよく出来た方だと思っているんですが、この後 釉薬をかけて焼いたら、どんな化け物に変わっちまうかわかりゃしないんですよ奥さん。

絵画と違って焼き物は、形を作り上げた後に一旦自分の手から完全に離して、炎の中、という制御不能のナチュラル・パワーに預けなければならないのです。
そこで仕上げがされてしまうんですから、もうあんた、手の施し様がありません。

恐らく、経験を積んで本当に陶芸的勘が磨かれた暁には、最後の仕上げを担う炎と、阿吽で通じる事が出来るんだと思うんです。
炎とのコラボレーションで、作品が完璧に自分の意図した通りに仕上がる様な、そういう形成が、粘度をこねる段階から出来る様になるんでしょう。

しかし勿論のことながら、私には全くそういうスキルがありませんから、まるで暗闇の中を灯りもつけずに爆走しているようなものです。
まさにそういう気分を感じながら、毎回作陶しているのです。

これは私を、とても謙虚な気持ちにしてくれます。
アトリエの中の小さな大自然ー炎が、簡単には制御出来ない、気安くコラボレーション出来ない相手の存在を教えてくれます。

陶芸は、"井の中の蛙"という状態を、許してくれない世界です。
陶芸には、手順を踏んだ忍耐と掟と、モノにするべきスキルがあって、それが身体にしっかり入らないと、意図した物が出来上がらないので、自己満足という世界に容易には入れないんです。

これはとても面白い。

文明が発達して、スキルの無さを機械やセットアップされたプログラムが補ってくれるようになり、手軽に色んな事が出来る世界になりました。
しかしそこには、本当の意味で自立して出来ている事が、どれだけ存在しているんでしょうか。

熟練した専門家がセットアップしてくれた下地、難しかったり複雑だったりする部分なんかスキップして誰にでも出来る様にと専門家が作ってくれたテンプレート無しに、わたし達はどれだけの事を、たったひとりで出来るんでしょうか。

テンプレートだらけの今の世の中では、自分の本当の身の丈を実感出来る事って、少ないように思います。
これは別に、卑屈である方がいいとかいう意味ではありません。

炎とほとんど対等のパートナーになれなければ、思い通りの物が出来ない陶芸をやっていると、自分の命も含め、世の中にある全ての物の容易では無さ、気安くなさ、到達出来なさ、高嶺の花さ、希少さ、貴さ等を実感でき、これがある種、世界への畏敬のような物に、心を回帰させてくれるんです。

時に世間には、能力の高い人がお高くとまらず、深い霊性を持つ人が気さくに振る舞い、スターや天才が、誰に対してもフレンドリー、といったような事をよいことと判断する価値観があるような気がします。

これって本当に、ナチュラルなんでしょうか。

スタップ細胞がニセモノ(かも)だった事が、あたかも屋台のカラーヒヨコは本当はみんな黄色いんだよ、とでも言う様に簡単に扱われ、相当な力量が無ければ作り上げられないような長編映画が、ほんの一言の台詞がちょっとハズレてたばっかりにシロートから気安くこき下ろされる。

地球上で最も莫大な危険ポテンシャルを秘めた発電施設が、イージーに制御出来る、隣のミヨちゃんみたいな存在だと錯覚されているのも、こういう全ての、お膳立てされた気安さやカジュアルさに慣らされた心理状態の延長線上にあるのではないでしょうか。

畏敬の念を抱くべき領域、近寄り難い、気安く触れるべきではない領域がこの世には沢山あるにも関わらず、まるで精神的社会主義の様なフラットな、格差の無さ、平等さ、という環境イリュージョンを与えられ続けて、人間はどんどん錯覚を起こし、でこぼこした有機的な心理状態を失っていってしまうのではないでしょうか。

土を炎で焼く、というシンプルな作陶作業には、土も炎も一筋縄では行かないのだ、と教えてくれるワイルドさがあります。

コントロール出来ない、畏怖を抱くべき物に、ちゃんと気付けるという事は、生物が生きる上での大切な条件なのではないでしょうか。

人間の卑屈さや自信の無さを埋めてくれるような気安く便利なツールが、人間の心のどんな領域を盲目にしてしまっているのか、知っていてもいいのではないかと思うのです。

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