2016年3月10日木曜日
NODA・MAP 逆鱗
少年王者舘との公演の際に舞台でご一緒させていただいた俳優の織田圭祐さんが出演されているので、初めて野田秀樹さんのお芝居を観てきました。
タイトルは"逆鱗"。
お芝居前半はポップなギャグの応酬が大変面白く、野田さんは無邪気だし俳優さん達も皆さんニッコニコしながらお芝居されているので、なんだこりゃみんな遊んでるだけなんじゃないのか面白いけど、みたいな感じでした。
魚座の逸話が出て来たり(オレが魚座)、人魚の鱗”逆鱗”が青白く光る鱗だったり(最近オレが書いたお話の鍵が青く光る鱗)と、個人的にもなんだかツボにはまるお芝居だなとか思いながら、しかも織田君の取ってくれた席が前から三番目の真ん中というかぶりつきだったから、にぎやかな衣装や舞台の仕掛けや愉快な言葉の応酬を思い切り堪能していました。
だけどお芝居後半になって、ようやくこのお話のコアが現れ始めて、私は本当に心が苦しかった。
上演中のお芝居の内容についてはあんまり詳しく書かない方がいいんだろうから、あんまり詳しくは書かないけれど。
たまに人と話していて、まあ例えば相手がバスの車掌さんだとか駅員さんだとか店員さんだとか上司だとか親だとか先生だとか生徒だとか近所のおじさんだとか、まあ相手は誰でもいいんだけど、話の道理や融通が、相手に全然通じないっていう体験て、無いですか?
例えば私は最近アメリカの、朝食ブッフェのあるホテルで、時間を間違えてブッフェの始まる30分も前にレストランに降りていってしまったのだけど、ホテルの人が私のいるのを見つけて、すぐに中に入れてくれて既に準備の出来ていたコーヒーを、さっと持って来てくれたんです。食べ物も急いで準備するからそれ飲んで待っててね、って言って。
こういう臨機応変な対応は、アメリカではよく経験するし自然な事だと思うのですが、ホテルによっては断固として、時間まで客を中に入れない、って態度の所もありますよね。
私は、そのホテルのポリシーや個性を尊重したいからそういう事があっても不愉快だとは勿論思わないのだけど、もしその態度が、ホテルなりのポリシーや理にかなった方針に乗っ取った物では無く、単に思考停止なだけだったら、それはダメじゃん、と思うのです。
例えばすごく美意識の高いホテルで、ブッフェ全体の美しいディスプレイをお客に楽しんで欲しいから、決まった時間が来るまでは客を中に入れないとか、そういう事ならいいんだけど、もしもお客を待たせるのが、「ルールだから」という以上の理由が無いのだとしたら、それは問題だと思うわけです。
だけど、こういう思考停止な感じの価値観から動かない人に対して私は、割に何も言わず、さくっとあきらめて過ごして来たというか、ああ、言ってもわからないよな、ってな感じではいはいわかりましたよ、と、自分が引く形でやり過ごして来たんです。
だけど私、”逆鱗”を見て、それじゃダメなのかもしれないと思いました。
私たちは、思考停止に陥っている人に対して、ちゃんとしつこく文句を言わなきゃならないし、もし自分が思考停止に陥っていたら、誰かに文句を言ってもらわなきゃならないと、思ったんです。
戦争中、厳しい軍隊の規則の中にあって、それでも心を失わないでいられた上官が、部下に特攻を免除した例があったと知りました。
だけどそれは、極めて特殊なケースだったんだと思う。
多くはルールの中で臨機応変さや叡智を見失い、思考停止状態で無駄な犠牲を部下に強いた上官により、失う必要の無かった命を失った人たちが、沢山いたんだと思う。
"逆鱗"の中で交わされた、本当の、理にかなった声と、それを殺し上辺だけで交わされる思考停止な言葉のやり取りが、そこに人の命がかかっているだけに、本当に口惜しかった。
いざという時に、誰もが心を失わないでいられるようになる為には、心を失っている時の自分や他人に、普段からちゃんと、きちんと文句を言って、その事をわからせてあげないとダメなんだと、そうしないといざという時に本当に、ルールや、世間一般の常識、なんかを重んじるあまり命を犠牲にするような、そんな愚かな行為を人や自分に強いる事になってしまうんだと、私は本当に感じたのです。
プロトコルの中で盲目になった、その盲目さによって実行された特攻で失われてしまった沢山の若者の命が、今日ほど重い現実として心に迫って来た事は、今まで無かった。
ひとりの命の重さ、完全に直視された死という現実、誰かの誤った言動や価値観への寛大さや諦めが引き起こす深刻な過ち、そういった物全てが日常的に見過ごされている事から、何万人もの善良な命が、犠牲になってしまう事があるのだ。
"逆鱗"のお芝居が終わり、カーテンコールで自分がステージに拍手を始めた瞬間、あれ?という奇妙な時空の揺らぎを感じた。
ステージにいるのは今演技を終えたばかりの俳優さん達なんだけど、私はそれを通り越して、まるで特攻で命を失った若者達に拍手を送っている様な錯覚に陥ったのだ。
その拍手は、お国の為に率先して死を迎えた事への拍手なのではない。
それは、ただただ過酷な運命に散ったその滅私の命への、称賛と敬意と謝罪の入り交じった、その命そのものへの、深い喝采だった。
お芝居が終わってから起こったその不思議な、でも圧倒的な感覚は、自分自身の心の昇華にとても役に立った。
思い出したのは、311の直後にケラリーノ・サンドロヴィッチさん脚本演出の舞台”奥様お尻をどうぞ"に、劇中&ポスターのイラストで関わらせていただいた時の事だ。
あの時も、原発などへの昇華出来ない想いの中で窒息しそうになっていた時に、痛烈なコメディで思いっきり原発をいじったあのお芝居に、救われたのだ。
芸術は、魂を助ける。
私は今夜、あの劇場で拍手を送る役割を与えてもらった事に、本当に感謝しています。
ありがとう、逆鱗。
余談だけど、劇場で偶然、ひさしぶりに萩尾望都先生にお会い出来ておしゃべりできたのも、大きな贈り物だったな♡
2016年3月9日水曜日
コロラドーカンサス空の旅
| カンサス上空からの日の入り直前風景 |
知人がパイロットなので、私がアメリカにいると私を度々空に誘ってくださいます。
始めはヘリコプター、最近ではセスナ機。
初めて彼の操縦するヘリに乗ったのは一昨年くらいの夏で、夏だから、という理由でそのヘリにはドアがついていませんでした。両サイドの。
つまり座っているシートがそのまんま外気にさらされている状態で、私の脇にガードする物は何ひとつ無く、座っているシートの細いシートベルトだけが、私をヘリに繋ぐ命綱となっている状態でした。
そのようなリスキーな現状に耐え、恐怖と共に舞い上がった空は、それでもすごく素晴らしかった。
陸から離れた途端、自分を縛っていたあらゆる陸の制限が引力と共に地面に吸い取られてしまったようで、淮も言えない「自由!!!」という、未だかつて感じた事の無い様な実感が心身にみなぎり、素晴らしい気分に圧倒されながら飛行を楽しむという意外な展開に。
あの自由の感覚は、上空から見下ろす絶景を凌駕する、すごいインパクトのある経験でした。
日本には色々法律があるのかもしれませんが、アメリカでは上空の移動は自由で、上に上がってしまえばどういうルートで飛ぼうが誰からも文句を言われません。
地上に敷かれた道を完全に無視して好きな様に移動する自由は、あたかも自分を縛っていた、人間に課せられている地上の法律や常識やジャッジなんかから完全に解き放たれて野生動物に戻っちゃったかの様な、圧倒的な自由感を私にもたらたのです。あの意外な心理的効果には未だに感動を覚えます。
まあそんなわけで空を飛ぶ事自体は私は大好きなんですが、今回の空の旅は事情が違っていました。
セスナやヘリで飛行する際、風の状態がモノを言います。
パイロットは常に気象条件に目を光らせ、安全で揺れない空の散歩を実現する為、風の無い、穏やかな日を選ばねばなりません。
知人もその日、朝からずうっとインターネットや気象アプリなんかで風模様に目を光らせていたんですが、どうやらその日は飛行オッケーな穏やかな空という事で、空中散歩を実行に移す事にしたのです。
とーーーこーーーろーーーーーーがーーーーーーーーーーー。
罠ですよ罠。
運命の罠は、こうやって人生に忍び寄るんだな、の、あの罠。
私はなんとなく、感じていました。
何故なら私は割と頻繁に、人生において宝くじに当たるみたいな稀な罠にすっぽりとはまる傾向がそもそもある為、その罠の近寄る気配に、すっかり敏感になっているのです。
「なにかある」
空港に向かう車の中で、ずうっとそんな不穏な気分が私を支配し、ウキウキしているパイロットの知人の浮かれたおしゃべりにイマイチ乗れない心の重苦しさの中にいました。
「なにかある。」
フライング・カンパニーに到着し、知人が常駐しているスタッフや飛行を終えたばかりの顔見知りの人たちに、空の状態はどうだったか、等聞いて回ります。
何故なら既に気象レーダーには、風が出て来た情報が表示され始めていたから。
結果誰もが、割と揺れるよ、的な事を彼に話していました。
耳をそば立ててそれを聞く私。
やがて知人が、飛べない程では無いけれど、期待していたようなスムーズな飛行というわけにはいかないかも、所々揺れるかもしれないけれど、それでもいい?と聞いて来ました。
私はじっと心の声に耳を傾け、空港からこのまま引き返すよりは、飛んじゃった方がいんじゃね?みたいな結論に達し、いいよ、と答えたのです。
私が乗り物にすんごく弱くて、ちょっとした揺れでも恐怖のどん底に突き落とされたり気分が悪くなったりするタイプなら良かったんですが、あいにくそうではありませんでした。
私にはかつてオーストラリアからの帰路、悪天候で、乗っている飛行機が150mも一気に降下するという経験がありました。
150mもの距離を一気に降下した為、機体にはGがかかり、身体は機体の壁に押し付けられて身動きは取れないわ、食器は棚から落ちて散乱し騒音は立てるわ、悲鳴や泣き出す人の声があちこちでするわで、機内は大騒ぎでした。
しかし私の精神状態はと言うと、空の上でどんなに飛行機がヤンチャしたって、ぶつかるモノは何も無いし、みたいな不敵な安心感にすっぽりと包まれ、全く危機感を感じなかったのです。
そんな過去の経験から、多少揺れても私は大丈夫だろうと、思い込んでいたのです。
さて、小さなセスナが目の前に現れました。
スカイ・ホーク。いい名前です。
| 今日の相棒スカイホーク号 |
今こうして写真を見てみると、既に空が相当怪しいのがわかります。
穏やかな飛行をするんなら、空は出来る限り真っ青でなければなりません。
こんなに雲があるじゃないの。
乗る前にスタッフの人が給油をしてくれたり細かい点検をしてくれて、その後知人が更に、オイルに水が混入してないかネジはちゃんとはまってるか等の細かい点検をしてゆきます。
機体は大丈夫そうだな、と私は思いました。
さてそうこうしている内にいよいよ飛び立ち、始めはかなり快適な飛行が続きました。
| 上からの景色 |
四人乗りのセスナに二人で乗っているので、私は当然前の席、操縦桿が目の前にある臨場感ある特等席ですから、景色も素晴らしいしそのエキサイト感はやはり半端じゃありません。
「なにかある」
の予感は未だに心を占め続け、以前のヘリでの飛行の時の様なうっひゃーーーーーー!!!!みたいな手放しなハイ感にはなれなかったものの、まあ、思っていたよりはいい気分でした。
そんな矢先知人が、そろそろ風のある空域に入るから、15分間くらいは揺れるよ、でもその後はまたスムーズな飛行が続くから大丈夫、と言って来たのです。
15分間?
そんなもんか。
その程度なら全然オッケーオッケー。
と、その時の私は思いました。
とーーーーーーこーーーーーーーーろーーーーーーーーがーーーーーーーーーー。
次の瞬間起こった事は、私は一生忘れまい。
機体がすいっと前に進んだと思ったら、一瞬空中でbibibibibiとか言って止まり、そのまま落とし穴に落ちたみたいに、垂直にすとん!!と下降したのです。
言葉で言っちゃうと簡単だよね。
でも考えてみて。
セスナ機は、ジャンボジェットみたいに大きくないんですよ奥さん。
その体感は、自分の身体が生身で空に放り出されている様な、とてつもない臨場感です。
目の前には山の斜面。
頼りになるような、支えてくれる物の何も無い空中で、いきなり頼りなく、すとん、と機体が落下した時のあの、得体の知れぬすさまじい恐怖。
長年に渡って深刻な恐怖感とは縁遠かったこの私が、まさに飛び上がらんばかりに驚き、そして恐怖のどん底に。
そして間髪を置かずに次の揺れが機体を襲いました。
とにかく捕まる物が何も無いので、私は思わず、操縦している知人の腕にしがみついたね。
同じ機内にいる人間の腕にすがりついたところで何の救いも無いのだが、もう、そうせざるをえないような、極限の精神状態だったんですよ奥さん。
こんな揺れ、15分も続いたらたまらない。
絶対に耐えられない。
気絶する、いや、むしろ気絶したい。
そんな、パニックに近い心の嵐を感じながら、知人に、こういう揺れは経験した事あるの?と聞くと、「この程度じゃ全然安全、もっとすごいのを何度も経験したよ。」と言うではありませんか。
この情報は、非常に助かりました。
つまり、特に危険な現状には、私たちはいない、という事なのですから、あとは恐怖で荒れる心をなんとか始末すればいいだけです。
私はふと、乗馬のレッスンを思い出しました。
ビギナーの人は大抵恐怖感から、馬の上で非常に身体を硬くし、あたかもそうすれば空中に浮いてでもいられるとでも思っているかのように、重心を身体から浮かしてしまうものです。
これはエネルギーが上半身に集っている、あるいはエクトプラズマ出ちゃってるんじゃね状態と言いますか、身体は馬の上にいるのだけど、魂が抜けちゃってて、身体を馬に預けていない状態です。
でもこういう感じで乗っている限り恐怖は消えないし、馬にも正しい信号が送れず、ろくな事にならないのです。
馬の上で硬くなり、リラックスしていないんですから、ちょっとした揺れでバランスを崩すし、落馬にも繋がります。
だから私は馬にまたがった瞬間から、常に自分の内部が、馬の身体に流れてゆく様な感覚を意識して、つまり自分と馬がエネルギー的に一体化しているかのように、深ーーーーく馬の上でリラックスし、馬と自分の境界線を、失くしてしまうような乗り方をいつも心がけているのです。
この効果は常に絶大です。
馬自身も安心するらしく、落ち着いた馬などは私がそうした瞬間に何かを感じるのか、ちらっと私を振り返ったりして、あたかも、うん、わかったよ、みたいな顔をしたりもするのです。
すると馬に伝わる私からの信号も顕著な明確さを帯びて来ますから、馬自体も完全に私の指示に自分を預けてくれて、お互いにゆったりとしたおおらかな雰囲気の中で、安全で優雅な時間を楽しめるのです。
私はそれだと思いました。
どんなに心が上に飛び上がっちゃっていても、機内から抜けて空を飛べるわけじゃないんですから、ここは馬に乗っている時と同じように、自分の存在感を、機体に沈み込ませればいいんじゃね。
というわけで私は、緊張で硬ーーくなってしまっている身体を意識的に緩め、深呼吸をして機体に自分の魂を投入してゆきました。
すると徐々にリラックス感が深まり始め、やがて、「飛行機自体がこの揺れで破壊されないんなら、どんなに揺れても全然オッケーじゃん、じゃあもう、どんなに揺れたっていいや、それに例え空中で機体が崩壊したって自分では何も出来ないんだし、そしたら抵抗するだけ無駄じゃん。てへっ!」みたいななんだか大きな気分が私を支配し始めました。
そうなったらもう、どうとでもなれです。
知人の予言通りその後15分程ひどい揺れが続いたにも関わらず、私は全くオッケーであり、始めに感じた様な恐怖も消え去りました。
そんで結局、そもそも来たデンバーの空港に戻るには、更に風の強い領域を通過せねばならずそれも楽しくないから、いっそこのまま静かな空域の続くカンザスまでの空路を行っちゃって、カンザスの空港で給油して帰ってこよう、という事になりました。
後の飛行は大変楽しく、風景は絶景だし、なんと言ってもセスナに乗っている、そのものの体感の心地よさが、馬に乗っている時の様な、なんていうんでしょうね、多分車を運転される方ならわかるのかもしれないけれど、あのなんとも独特の楽しさが加わり始め、最後には降りるのも残念という程に、楽しくなっていました。
デンバーに帰った頃にはもうすっかり夜で、夜景は美しく、しかも雪まで降り始め、なんだか大変な冒険をした後の、えも言われぬ満足感に満たされて非常にいい気分、恐らくアドレナリンかなんかの脳内物質のあれなんでしょうが、結果としてとてもよかったのです。
| 夜景 |
空港に着いた頃にはもう遅くてスタッフもみんな帰っちゃってたから、知人とふたりで飛行機を駐機場に繋ぎ、知人も大きな気分になっていたのか、その後高台にある、街で一番値段の高いレストランに行って、夕ご飯を食べました。
その際知人が、「いやーーー、きみは本当によくやったね。すごいよ。」と言いました。
私は意味がわからず、どういう事なのか訊ねたところ知人は、あの揺れの中でよく平気だったね、と言うではありませんか。
いや、だって。
なんら危険な事は無い、よくある揺れだしもっと激しいのだってある、とあんたが言ったから、怖がってるのは自分の事情に過ぎないと思って自分をコントロールしたんだよ。
というような事を私が言うと、なんと知人はこう言ったのです。
「いや。あの揺れは、自分の20年以上に渡る飛行経験の中でも、初めてに匹敵するものだったよ。ぼくも初めて怖いと思った。」
空中では私を気遣って、嘘をついていた知人。
その後しばらく彼は、いやあー今日の飛行はいい体験になった、勉強になった、スキルの向上にも繋がった、あの揺れはありえない、あんな事があるなんて、と、無礼講状態になって喋り続けました。
絶句し続けるわたくし。
危険な状態にある際に専門家の言う、「この程度は大丈夫」「直ちに被害は無い」は、やっぱり信じないに限るんですね、奥さん。
2016年3月3日木曜日
レヴェナントを観た
![]() |
| オレが感動の稲妻に打たれて動けなくなったシーン |
あまりに素晴らしい映画だったので、ゴチャゴチャ言いたくありません。
ただ、「これを観た」という事を自分に刻み込みたくて、ブログに書くのです。
これはもう、本当に素晴らしいです。
天才的。
アカデミー賞の選考に偏りがあるとかなんとかいう文句をよく聞くけれど、今年はこの映画の監督に賞が行ったんだったら、その偏り方は私の偏り方と同じなので全然文句ありません。
こんな映画、どうして創れるの、と思うのは、人間のイマジネーションを遥かに超えていると感じたから。
単なる映像美という事ではなく、ここでこのシーンをなんで持って来られたの、という奇跡だ。
でも実際に映画が出来たんだから、本当は人間はこんなにすごい領域にアクセスできちゃうという事なので、それはもう、本当にすごい。
アカデミー賞を気を付けて観ていなかったのでよくわかってはいないのだが、ディカプリオもそりゃあ貢献してたけど、敵役の役者さんの演技がまたすごい、というか、この人だから名画になったんじゃ、というくらいの深みだったので、なんか賞をあげればいいのにと思う。
悪役の彼のヒルビリー訛の英語が、非常に色んな事を感じさせる。
悪い事をいっぱいやっているんだけど、彼のヒルビリー訛が、心に深く、彼という人間の人としての限界を、ひりひり感じさせるんだよね。
こんな気持ちにさせられる悪役というのは初めてだなー。
私はある意味、ディカプリオの演じた主人公ヒュー・グラスは、とても豊かで美しい人生の領域を生きている人だと思う。
でもあの敵役フィッツジェラルドには、そういう豊かな世界の扉が開いていないんだよね。
フィッツジェラルドが実人生でそばにいたらイヤだけど、俯瞰の目線で見ると、だってフィッツジェラルドは、世界の美しさを味方につける深みを持てなかったんだから、と思ってなんだか悲しくなってしまう。
いやもちろん、最低野郎なんだけどさ。
でも彼にとっては、必然なんだよね。。
何をやってるのかわからないんだよね。。。
それが彼の限界なんだよ。。
圧倒的な映像美は、全てがヒュー・グラスに開かれているドアだ。
同じ世界に生きていながら、人によって、見える物や感じる物や、そして世界からの手の差し伸べられ方が違うという現実は、世の中によくある事だと思う。
この映画はそういう意図で創られては全然いないんだろうけど、期せずして素晴らしく奥深かった悪役の俳優さんのせいで、なんだか私にはこれが、モーツァルトとサリエリの対決みたいに見えちゃって。
鮮やかな天才ヒュー・グラスと、人としての限界の中で盲目状態のフィッツジェラルド。
右脳と左脳。
流動と停止。
直感と画策。
色んな映画を観て来たけれど、こんなに映画で感動したのは、10年振りくらいかもしれません。
今日は映画に行く前に、湖のほとりの道を2時間半くらいハイクしたのだけれど、樹々、河、滝、鳥の声と、なにもかもが映画とシンクロしていて、今日という一日が、映画の中のヒュー・グラスの生きる、なんとなく奇跡的な気配のする世界の中に、自分もずうっと包まれている感じがしました。
| これは私のもうひとつの大好きな映画(ブラザーサン・シスタームーン)の主要な一場面 |
2016年3月1日火曜日
モヤモヤしています
今、猛烈にモヤモヤしている。
でも原因がわからない。
さっき顔見知りのWさんに会った。
このWさんが、なんとなくいつも、モヤモヤした人物だと私は感じるのである。
実のところ、彼にそういう評価を下す人は、あまりいないだろう。
Wさんは行動派だ。
やりたい事をどんどん実現してゆく。
たったひとりで音楽オーガニゼーションを立ち上げて、やりたい企画をどんどん実現している。
ラジオ番組を持っていて、流暢な語り口で自分の好きな音楽をかけ、子供達を音楽に巻き込む為に色んなコンサートを実現している。
インディーズの音楽家たちを世界中から発掘して、自分の企画するコンサートに出演させてそれを自分の番組で取り上げたりしているから、きっと色んなミュージシャンから感謝もされているだろう。
コロラドでも有名なレッド・ロック・シアターで、今年も何かやるらしい。
そんな志や行動力は素晴らしいし、基本的にいい人間でもあるのはわかる。
思いやりもあって、親切な紳士だ。
でも実は。
私との相性は、絶対に悪いと思うのである。
相性というのは、性格の事では無い。
(Wさんの性格はまだよく知らないからわからないし)
なんか全体的に、住む世界っていうかさ、そういうのが、全く違うと思うんだよね。
「住む世界が違う」なんて言うと、どっちかが上流階級でどっちかがアンタッチャブルなのかよ、なんて極端な解釈をされると困るので言っておくけれど、そういう上下とかを言ってるんじゃない。
属性が違うっていうの?
そう、属性が、違うんだよね。完全に。
私は森の生物で、Wさんは浜辺の生物だから、一生会う事は無い、そういう間柄だと思うの。
私は今回、アメリカで沢山そういう体験をした。
今まで良しとしてきた関係性に間違いが見つかり、深まってゆく人たちと離れてゆく人たちが、はっきりくっきり、見えて来たのである。
好き嫌いとか、そういう事での区別ではない。
ああ、この人は遠いんだな、単にそんな風に、体感でわかるっていう、生物学的本能的な反応だ。
そしてそれはとても真摯な感覚だと私は思う。
失礼だとも冷たいとも思わない。
私は誠実に、ただそう感じるのだ。
私は本当に、真摯に人に関わっていると思う。
だけどWさんはさ。
いきなりアポを取って来て、割と強引に押し掛けて来て、勝手にツーショット撮って、勝手にその写真をSNSに投稿したんだよね、さっき。
で、投稿しながら、こう言ったの。
「Dが見るといいんだけど。」
Dというのは、私が親しくさせていただいている、ある有名シンガーだ。
Wさんは実は、今年行うレッド・ロック・シアターでのコンサートに、Dを呼びたいのである。
だから私に何度も連絡が来るのはわかるし、それがモヤモヤする理由ではない。
Wさんのコンサートへの情熱や意図は中々素晴らしい物で、アメリカでやっていた私のバンドの事も知っているから、私にも出て欲しいと言ってくれているし、そのイベントにDを呼んで欲しくて私に橋渡しを頼むのなんて、全然自然な事だ。
だからそれはいいんです。
いくらでも、橋渡しをしたいし、協力するとも言いました。
だから、Wさんが私と知り合いだという事を強調する為に私とのツーショットを撮り、それをDが見てくれたら話も早いのにと思っても全然構わない。
わざわざ、これ載せていい?とか聞かなくても、この場合は別にいい。
私のモヤモヤは、そこじゃないんですよ奥さん。
Wさんは私に今日、こう言ったのです。
「Dに出演を頼んだのだけど、なんていうか、アマチュア・バンドと共演なんか出来ないよ的な感じで断られてしまって。」
それを、非常に、非難めいた口調で、私に言ったんだよね。
Wさんは、プロやアマチュアという境界の無いコンサート世界を創りたいと思っている人物だ。
音楽を、子供、その親、プロ、アマチュアが、みんなで一緒に同じ現場で楽しめたらな、と思っている人物だ。
その為にレッド・ロック・シアターをおさえたのだ。
素敵な発想だし、確かに耳障りもいいよ。
だけどさ、「アマチュア・バンドとなんか共演出来ないよ」、と言ったプロのミュージシャンの言葉を非難するのは、ちょっと違うんじゃないのかい?
まずはっきり言って、Dはそういう事を言う様なタイプのミュージシャンではない。
生粋の芸術家肌だから、見た目や歌の雰囲気よりは、直接話すとやや気難しい印象があるかもしれないけれど、いつも人を、すごく純粋な気持ちで見ている人だ。
以前私に、感動の面持ちでこんな話をしてくれた事がある。
Dの娘がまだ小さかった時に、学校で仲良くなった親友シンディーちゃんの話ばかりするので、学校に娘を迎えに行った時に、「どの子がシンディーちゃんなの?」と聞いたそうだ。
そしたらDの娘は、「あの、ピンクのカーディガンの子。」と言って、みんなでブランコに群がっていた、ひとりの女の子を指差した。
そしたらその子は、黒人だったのだそうだ。
Dは、自分の娘が、「あの肌の黒い子」と言わずに「ピンクのカーディガンの子」と言った事で、子供には、肌の色の違いなんて、まるで目に入っていないんだ、という事に、衝撃的な感銘を受けたのである。
Dは私よりかなり年上だ。
Dの娘が小さい時代なんて、今よりもっと人種差別が激しかっただろう。
そんな中、Dは自分の娘の視点に深い感銘を受けて、その事をずうっと、何十年も心に生かし続けているのだ。
そんなDが、単なる蔑みの心で、アマチュアなんかと、なんて言ったとは、とても思えない。
そして例え言ったとしてもだね。
それは当たり前なんだよ!!!
プロとアマチュアの違いっていうのはなによりも、人目や厳しい精査の目に耐えて、それでも好きな事を貫いているのか、あるいはそういう事を全部避けて、傷つかずに済む、気楽な位置でそれをやっているのか、という所にある、と私は思う。
私は、どっちが偉くてどっちがダメで、とか言うつもりは全く無い。
だけど、自分の最も大切な創作物を、例えば心無い評論家に公の場で何度もこきおろされて、それでもそれを貫いている人々というのは、そこを通過していない人たちと、全く属性が違うっていうことを、知っていなければならないと、私は思うのだ。
Wさんが崇高な気持ちで、プロとアマの垣根を越えてさ、なんて言うならば、同じ様に音楽をやっているWさんこそがまず、プロの通過してきた道を尊ぶ気持ちを、持っていなきゃダメだと思う。
断られた事で卑屈になってDの事を悪く表現するなんて、もっての他だ。
そしてちなみに私は、何度かWさんに、おかしいな、Dはそういう事を易々と言う様な人じゃないんだけど、とさっきの会話の中で言ってみた。
するとWさんは、いや、必ずしも言葉でそう言ったわけじゃないんだよ、ニュアンスでさ、そんな感じだったんだ、と言ったのだ。
ニュアンス。
つまり、Dは断っただけでなんにも言ってないのに、Wさんがそう捉えたって事なわけ。
この、ヒガミ男がーーーーーーーーっっっ!!!!!!!!!!!!!💢💢💢
あ、これだったんだ、私が怒っていたのは。
そういう経緯があっての、勝手にSNSに写真投稿だったから、私はモヤモヤしていたんだな。
というわけで、残念ながらWさんが投稿した写真は私のTLからは削除、Dの目には触れないようにさせていただきました。
私はDみたいな強くて純粋な人を、ヒガミ根性で影で悪口言う様な人間に関わらせる片棒を担ぐのは、まっぴらゴメンってわけだからよ。
ここは勘弁してくんな。
Wさんにもそう伝えなくちゃあ。
というわけで、モヤモヤの原因がはっきりしたのでこのへんで。
でも原因がわからない。
さっき顔見知りのWさんに会った。
このWさんが、なんとなくいつも、モヤモヤした人物だと私は感じるのである。
実のところ、彼にそういう評価を下す人は、あまりいないだろう。
Wさんは行動派だ。
やりたい事をどんどん実現してゆく。
たったひとりで音楽オーガニゼーションを立ち上げて、やりたい企画をどんどん実現している。
ラジオ番組を持っていて、流暢な語り口で自分の好きな音楽をかけ、子供達を音楽に巻き込む為に色んなコンサートを実現している。
インディーズの音楽家たちを世界中から発掘して、自分の企画するコンサートに出演させてそれを自分の番組で取り上げたりしているから、きっと色んなミュージシャンから感謝もされているだろう。
コロラドでも有名なレッド・ロック・シアターで、今年も何かやるらしい。
そんな志や行動力は素晴らしいし、基本的にいい人間でもあるのはわかる。
思いやりもあって、親切な紳士だ。
でも実は。
私との相性は、絶対に悪いと思うのである。
相性というのは、性格の事では無い。
(Wさんの性格はまだよく知らないからわからないし)
なんか全体的に、住む世界っていうかさ、そういうのが、全く違うと思うんだよね。
「住む世界が違う」なんて言うと、どっちかが上流階級でどっちかがアンタッチャブルなのかよ、なんて極端な解釈をされると困るので言っておくけれど、そういう上下とかを言ってるんじゃない。
属性が違うっていうの?
そう、属性が、違うんだよね。完全に。
私は森の生物で、Wさんは浜辺の生物だから、一生会う事は無い、そういう間柄だと思うの。
私は今回、アメリカで沢山そういう体験をした。
今まで良しとしてきた関係性に間違いが見つかり、深まってゆく人たちと離れてゆく人たちが、はっきりくっきり、見えて来たのである。
好き嫌いとか、そういう事での区別ではない。
ああ、この人は遠いんだな、単にそんな風に、体感でわかるっていう、生物学的本能的な反応だ。
そしてそれはとても真摯な感覚だと私は思う。
失礼だとも冷たいとも思わない。
私は誠実に、ただそう感じるのだ。
私は本当に、真摯に人に関わっていると思う。
だけどWさんはさ。
いきなりアポを取って来て、割と強引に押し掛けて来て、勝手にツーショット撮って、勝手にその写真をSNSに投稿したんだよね、さっき。
で、投稿しながら、こう言ったの。
「Dが見るといいんだけど。」
Dというのは、私が親しくさせていただいている、ある有名シンガーだ。
Wさんは実は、今年行うレッド・ロック・シアターでのコンサートに、Dを呼びたいのである。
だから私に何度も連絡が来るのはわかるし、それがモヤモヤする理由ではない。
Wさんのコンサートへの情熱や意図は中々素晴らしい物で、アメリカでやっていた私のバンドの事も知っているから、私にも出て欲しいと言ってくれているし、そのイベントにDを呼んで欲しくて私に橋渡しを頼むのなんて、全然自然な事だ。
だからそれはいいんです。
いくらでも、橋渡しをしたいし、協力するとも言いました。
だから、Wさんが私と知り合いだという事を強調する為に私とのツーショットを撮り、それをDが見てくれたら話も早いのにと思っても全然構わない。
わざわざ、これ載せていい?とか聞かなくても、この場合は別にいい。
私のモヤモヤは、そこじゃないんですよ奥さん。
Wさんは私に今日、こう言ったのです。
「Dに出演を頼んだのだけど、なんていうか、アマチュア・バンドと共演なんか出来ないよ的な感じで断られてしまって。」
それを、非常に、非難めいた口調で、私に言ったんだよね。
Wさんは、プロやアマチュアという境界の無いコンサート世界を創りたいと思っている人物だ。
音楽を、子供、その親、プロ、アマチュアが、みんなで一緒に同じ現場で楽しめたらな、と思っている人物だ。
その為にレッド・ロック・シアターをおさえたのだ。
素敵な発想だし、確かに耳障りもいいよ。
だけどさ、「アマチュア・バンドとなんか共演出来ないよ」、と言ったプロのミュージシャンの言葉を非難するのは、ちょっと違うんじゃないのかい?
まずはっきり言って、Dはそういう事を言う様なタイプのミュージシャンではない。
生粋の芸術家肌だから、見た目や歌の雰囲気よりは、直接話すとやや気難しい印象があるかもしれないけれど、いつも人を、すごく純粋な気持ちで見ている人だ。
以前私に、感動の面持ちでこんな話をしてくれた事がある。
Dの娘がまだ小さかった時に、学校で仲良くなった親友シンディーちゃんの話ばかりするので、学校に娘を迎えに行った時に、「どの子がシンディーちゃんなの?」と聞いたそうだ。
そしたらDの娘は、「あの、ピンクのカーディガンの子。」と言って、みんなでブランコに群がっていた、ひとりの女の子を指差した。
そしたらその子は、黒人だったのだそうだ。
Dは、自分の娘が、「あの肌の黒い子」と言わずに「ピンクのカーディガンの子」と言った事で、子供には、肌の色の違いなんて、まるで目に入っていないんだ、という事に、衝撃的な感銘を受けたのである。
Dは私よりかなり年上だ。
Dの娘が小さい時代なんて、今よりもっと人種差別が激しかっただろう。
そんな中、Dは自分の娘の視点に深い感銘を受けて、その事をずうっと、何十年も心に生かし続けているのだ。
そんなDが、単なる蔑みの心で、アマチュアなんかと、なんて言ったとは、とても思えない。
そして例え言ったとしてもだね。
それは当たり前なんだよ!!!
プロとアマチュアの違いっていうのはなによりも、人目や厳しい精査の目に耐えて、それでも好きな事を貫いているのか、あるいはそういう事を全部避けて、傷つかずに済む、気楽な位置でそれをやっているのか、という所にある、と私は思う。
私は、どっちが偉くてどっちがダメで、とか言うつもりは全く無い。
だけど、自分の最も大切な創作物を、例えば心無い評論家に公の場で何度もこきおろされて、それでもそれを貫いている人々というのは、そこを通過していない人たちと、全く属性が違うっていうことを、知っていなければならないと、私は思うのだ。
Wさんが崇高な気持ちで、プロとアマの垣根を越えてさ、なんて言うならば、同じ様に音楽をやっているWさんこそがまず、プロの通過してきた道を尊ぶ気持ちを、持っていなきゃダメだと思う。
断られた事で卑屈になってDの事を悪く表現するなんて、もっての他だ。
そしてちなみに私は、何度かWさんに、おかしいな、Dはそういう事を易々と言う様な人じゃないんだけど、とさっきの会話の中で言ってみた。
するとWさんは、いや、必ずしも言葉でそう言ったわけじゃないんだよ、ニュアンスでさ、そんな感じだったんだ、と言ったのだ。
ニュアンス。
つまり、Dは断っただけでなんにも言ってないのに、Wさんがそう捉えたって事なわけ。
この、ヒガミ男がーーーーーーーーっっっ!!!!!!!!!!!!!💢💢💢
あ、これだったんだ、私が怒っていたのは。
そういう経緯があっての、勝手にSNSに写真投稿だったから、私はモヤモヤしていたんだな。
というわけで、残念ながらWさんが投稿した写真は私のTLからは削除、Dの目には触れないようにさせていただきました。
私はDみたいな強くて純粋な人を、ヒガミ根性で影で悪口言う様な人間に関わらせる片棒を担ぐのは、まっぴらゴメンってわけだからよ。
ここは勘弁してくんな。
Wさんにもそう伝えなくちゃあ。
というわけで、モヤモヤの原因がはっきりしたのでこのへんで。
2016年2月19日金曜日
イディアル・セルフ・イメージ
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| ドナルド・トランプ |
ドナルド・トランプへの投票数が共和党のトップになったというニュースを聞いて、まあ、どうせ最終的にこの人が大統領になることは無いだろうと楽観的な見地を保ちつつも、万が一大統領になった場合、彼はその仕事をきちんとやれるのかなと思って、今やっかいになっている家主の意見を聞いてみた。
家主は、アメリカの議会のデザイン上、ひとりの政治家が暴走出来ない様になっているから、トランプが当選したところで世界が破壊されるような事は無いだろう、とだけ言った。
では、トランプが意外にも、いい大統領になる可能性は?と更に質問し、ここから結構話が盛り上がったのです。
既に専門家が指摘している様に、ドナルド・トランプは典型的な、自己愛性人格障害の傾向を持っています。
自己愛性人格障害というものには双極性があり、表的出方をするとトランプの様に肥大した自己像を持ち、声高に「オレはヒーローだ。」って感じになりますが、ヒーローだ、ってのは明らかに誤った自己像なわけです。で、裏的出方をすると物静かで自信無げでありつつも、でもやっぱり誤った理想の自己像を抱えていて、その役割を演じていたりするのです。
つまりこの両者とも、自分をとてもいい人物だと勘違いしたまま生きているというわけですが、勘違いなので明確な自意識は無く、もうすっかり自分を正義の味方で優しくて弱者の味方でいい趣味でとにかくとてもいい人だと思い込んでいるわけです。
ドナルド・トランプの髪型がヘンなのは、その勘違いの産物では無いかと思います。お金持ちなので、いくらでも素敵なウィッグを作れそうな物ですが、彼は薄くなってない領域の髪の毛をうんと長くしてその髪の毛で薄い部分をカバーしている為、とっても奇妙なヘアスタイルになっているわけですが、こういう外見が人から見て奇妙だと客観視する感性が不足しているんだなと、私は思うのです。
ところで、自己愛自体が悪いわけでは無いのに、何故に自己愛性人格障害、と人格障害、という名がついているかと言えば、実はこの人たちには本当の自己愛が無いからなのです。つまり、極度の自己不信を錯覚で補っているだけで、実は本当の自分に強い嫌悪感を持っていたりします。ですので、本当の自分の上に、どこからか盗んで来た理想のイメージの皮を被っていて、それを自分だと勘違いして生きているわけなのです。
本当の自分とはかけ離れた理想の自己像を、自分だと思い込んで演じている訳ですが、やはり本能的な部分ではこれが「自分にも他者にもついている嘘だ」、という認識があるらしく、それ故にこの自己像を外部から脅かされると、こっちがびっくりするような狼狽あるいは意外な攻撃性や、自己像を守る為の必死の取り繕いを見せたりします。
つまり自己愛性人格障害の人にとって、自分の抱えている自己像とは違う印象を他者が持っている事が、死ぬ程嫌、な場合があるわけです。
私はここに、唯一の望みがあるんではないかと、家主に言ったのです。
はっきり言って、トランプが持っている理想の自己像が嘘なのかどうかなんて、こっちには関係ありません。
大切なのは、彼が自分にも他者にもついている「嘘」を、行動で全う出来るかどうかです。
もし彼が、「ヒーロー」という自己像に固執するなら、その行動が「ヒーローらしくない」と指摘されたら、一生懸命「ヒーロー」らしくするんじゃないかしら。
でも、彼の内面には全く真のヒーロー部分が無いわけです。
ここで出番なのが、自己愛性人格障害の人の特性、「真似」です。
もし彼が、必死に自己像を守ろうとして、スーパーマンやキャプテン・アメリカを真似たらどうでしょう。
そこには立派な、本当っぽいヒーローが、誕生するんではないでしょうか。
と、私は期待を持ったのです。
だけど。
もしもドナルドが本当に自己愛性人格障害だった場合、ありがちなのが、自分をヒーローと認めない周囲、つまり自分の自己像を偽りだと見破った人たちの事を「敵」と見なし、いきなり攻撃的な行動を仕掛けて来る可能性があります。
そして大抵こういう人の張りボテ感を見破れるのは、健全な心を持った、良識や教養のある人たちです。
教養というのは教育の程度ではありません。人質、という意味での教養です。
つまり今後こういう有識者達が彼の標的になってしまう可能性も、今後あるんじゃないかという気がします。
あと、ヒーローとして自分以外の人がもてはやされるのもイヤだから、真のヒーローがアメリカ政界に誕生したら、潰しにかかるかもしれません。
加えて自己愛性人格障害の人は、真似っこにも関わらず自分をオリジナルだと思いたいし思わせたいので、キャプテン・アメリカやスーパーマンの存在をも、無かった事にしようとするかもしれません。
ドナルドの今の標的はテロですが、もしも自国の中で彼の自己像を脅かす様な存在や見解が出て来た時に、簡単に標的が変る可能性は大なのです。
なんたって、自己愛性人格障害者にとって一番大切なのは、偽りの自己像を他者も認めてくれる事であり、他の事なんて実は殆どどうでもいいからです。
だからやはり、この人が大統領になっちゃダメなのかもしれません。
それにしても悲しいのは、彼の様な人が大統領の座につく可能性があるという現実です。
ドナルド・トランプなんて、自己愛性人格障害としてはまだマシな方です。
何故なら、あからさまにその奇妙さが、表に出ているから。
だから多くの人たちは彼のニセモノ臭さを見抜いていて、からかったりパロディに使ったりしています。
それでもなおかつ、彼に投票する人がいるという現実。
彼を見破らない、そういう人たちが、見破っている人と同じくらい、いるという事です。
彼の被っているヒーローの皮を、敢えてはぎ取らずに、何かを信じようとしている人たち。
家主は、彼に投票する多くの人たちは、恐怖感に動かされていると言っていました。
つまり、ニセモノでもなんでもいい、矢面に立って自分を守り代弁してくれる人物でさえあれば。
テロリストだろうが善良な市民であろうがムスリム全部をアメリカから追い出して、国連や良識者から非難という泥をひとりで被り、自分の抱えている他者へのやみくもな恐怖を自分の替わりに正当化してくれる人物なら、品性下劣なろくでなしでも全然オッケー、というわけです。
実のところ、世間一般で自己愛性人格障害の人が見破られず、むしろ好かれたりしている傾向には、こういう現実があるのかもしれないと思いました。
その人のニセモノ臭さを実はどこかで見破ってはいるのだけど、いい人というレッテルを欲しがる限りその人物は他者を傷つけたりはしないし、むしろ利益をもたらしてくれる、ーつまりナルシシズムの人は評判を気にするあまり役に立とうとする傾向も多いのでーという損得勘定で、その人を好ましいと解釈しているケースです。
もしそういう事があるんだとしたら、やはり悲しいなあと思います。
悪い行いがはびこるのを助けるのは、善人の無言さだという誰かの名言がありました。
許容する事、寛大である事、誰かの奇妙さに気付かないふりをする事が、必ずしも良い行いとは言い切れないという事が、私はあると思うのです。
2016年1月26日火曜日
シャークネードという映画
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| 私が最もすごいと思った名場面 |
この映画の噂は度々聞いて知っていた。
でも観る事は無いと思っていた絶対に。
でも観てしまった。
しかも1と2を。
先日世話になったコロラドの友人宅で、友達が今アメリカで流行っているファイヤーボールという酒のボトルとショットグラスを2個抱えて私を大画面テレビの前のソファに招き、必見の映画だと言ってシャークネードの紹介を始めた。
そして、まあ観るからにはまずこれを飲みませんとと、ファイヤーボールを私に注いでくれたわけです。
ファイヤーボールというのは、シナモンの入ったウイスキーで、なんだか今コレがアメリカで大流行りだと言うのです。

シナモンが大好きなので、♬おー♬と思って飲んでみたらすっごく甘くて、甘い酒を飲むと悪酔いする私は一気に警戒モードに。
なんでも入っているのはシナモン、唐辛子、蜂蜜なのだそう。ちなみに33度。
まあ、ワンショット飲んだくらいでは酔いもしませんでしたがね、わっはっはっは。
で、この話題のややゲテモノ的酒を飲まねば我慢出来ないような映画だという事で、いよいよシャークネードの上映を始めた友人。なんでそんな物を私に見せるの。
シャークネードというのは、シャーク(鮫)とトルネード(竜巻)をくっつけた造語です。
シャークとトルネード。
怖い物がふたつくっついちゃってて恐怖のどん底です。
つまりこの映画は、海上で巻き起こった大竜巻が、海で気持ちよく泳いでいた鮫たちを大量に巻き上げ、そのままサンフランシスコやニューヨークに上陸し、街中に大量に鮫を撒き散らして人々を恐怖のどん底に突き落とすという、パニック映画なのです。
パニック映画。
さて、ここで大きな疑問が、心の中でトルネードの様に巻き起こります。
陸地に鮫が降って来た時、果たしてそれは怖いのか。
皆様ご存知のように、鮫は海の中でなければ生きられません。
海の中にいたって、遊泳性の鮫なら動いていなければ死んでしまうのです。
そのような鮫を、陸にいる私たちが、どうやって怖がればいいのでしょう。
この疑問は、シャークネード1と続編2を観ても、解明されることはありません。
何故なら映画の中の登場人物たちも、なんとかして怖がろう、というノリで怖がっているからです。
空から落ちて来た鮫が路上でうねうねうごめく前で足を滑らせて転んでみて、腰が抜けたようになって逃げられなくなってみたり。
飛んで来た鮫をチェーンソーで切り裂こうとわざわざ向かって行って、うっかり噛み付かれて腕をもがれてみたり。
膝上くらいまで浸水した家の中に入り込んでしまった鮫に、コーナーに追い込まれて咬み殺されてみたり。
もう、それはそれは様々な工夫を凝らして、鮫に襲われる登場人物達。
襲われる側の積極的参加が無ければ、決して襲えない陸の鮫に向かって、どんどん無駄な攻撃をしかけに行ってはなんらかの傷を負ったり殺されてみたりと、その努力はまさに涙ぐましい程なのです。
そして、どう考えてもさほど深刻とは思えないこの事態を、世界の終わりかのように語り煽り戦う孤独のヒーロー(上の写真の人)。
空から鮫が降って来るなんていうマヌケな事態を、あそこまで深刻に捉えられる人物も、世界広しと言えどあの人しかいない事でしょう。
そんなわけですから、パニック映画とは言えもう笑いっ放し、突っ込み放題。
映画自体も、あからさまに有名映画のパロディを散りばめたりして楽しませてくれます。
個人的に受けたのは、道路に降って来た鮫の真ん前で腰を抜かしてしまった男が、はっきり言えばそのままにしておきゃあ鮫は自然に死ぬし、男もいずれ腰が治ってそこから立ち去れるのですが、わざわざ酸素ボンベを見つけて来たヒーローが鮫の口にそれを押し込み、銃で撃って爆発させるという、そうです、あの名作、ジョーズの名場面を、まんまパクっているシーン。
いやー、笑いました。
海で鮫と戦う正しい恐怖のジョーズと違い、シャークネードは、水も無い路上でマグロ状態になってジタバタしている鮫に、わざわざ人が喰ってかかるというどっちが加害者かわからない被害妄想恐怖です。
ぬいぐるみ相手にプロレスしてるようなもんなんですよ奥さん。
しかしこの映画、あーーーーーーまーーーーーーりーーーーのーーーーーバカバカしさに結構人気が出てしまい、無名の俳優ばかりの1と違って2では結構名前のある俳優さんを使っているし、予算がいっぱい出来たらしくてバカバカしさにも磨きがかかり、1では半信半疑だった「実は冗談なんですよ」という監督の意図が、2ではくっきりと浮かび上がっているので、結構ギャグ映画として面白く観る事が出来ました。
上の写真はその、続編2の大団円シーンです。
空から降って来た巨大鮫を、ただすっと身体をかわせば避けられる物を、わざわざチェーンソーで縦にまっぷたつに裂くという、鬼畜なヒーローの晴れ姿。
街の人々はそんなヒーローの足下に集い、すごい喝采を浴びせたりして、それはもう、やってらんない、って感じです。
でも。
なんだかんだ言っても、観てよかった。。。と思います。
結構楽しめたのはファイヤーボールのおかげかもしれないけれど。
どっかでただでやってたら、ちょっと観てみてもいいかもしれません。
心の底から脱力して、アホなのか、という言葉が自然に出て来ますよ。
そんなシャークネードは、現在3を製作中とのことです。
2016年1月2日土曜日
性善説のSF的仮説
先日、サラさんて性善説を信じているんですね、と言われた。
私はそういう事を考えた事も無かったので、その瞬間はややぽかんとした。
私には善悪という概念がそもそも無いので、性善説も性悪説も無いのである。
でも、私は確かに、性善説とも言えるかもしれないある事を信じてはいるなと考え直した。
その友人は、私との会話の中にその基準を感じ取ったのだと思う。
それは、人間という生き物の心の内部には、生命体としてのある種の良識と言えるのかもしれないバランス感覚があり、その感覚から逸脱した行為をしてしまった時に、深いレベルで自滅行為を行う存在だというものだ。
で、どういった事が生命体ヒトの良識なのか、というと、それは生まれた時に備わっている本質的な心の感覚だと言うのが、私の基準だ。
人間という物は、生育の過程で様々な、外部からの影響を刻まれる。
例えば昔の日本には、女の子には教育は必要無く、良い結婚をして良い家庭を築き夫の支えになれればいい、みたいな価値観があったが、言わばそういうモノサシ、つまりヒト生命体として普遍的とは思えないなんらかの文化的背景から来ている後天的な価値観によるモノサシの無い、生来の自然な状態のバランス感覚が、本質的な基準だと思うのだ。
まあ、この自然さ、という基準にも人によって様々な意見があると思うから、私は自分の基準が絶対的に普遍なんだと、意見を違える人を説得するつもりは毛頭無いが、私個人が何を信じているかと言えば、私個人には明確な本質的基準と感じられる物があり、それがやはり普遍だと信じているわけである。
で、ヒトはその心、というか魂のような物の持つ良識からはずれた行為を行う度に、深い無意識の領域で「ヤバい」と感じ、そういう自分を自滅させる方向に、脳がホルモンなどの質と量を調節すると思うのである。
この深いレベルにある良識は、いわゆるモラルや道徳や正義感に共通する所はあるかもしれないが、そうではない部分も多々あると思う。
例えば誰かの為に自己犠牲的な奉仕を行っていても、その動機に不純さがあれば、心はその不純さによる無意識的な緊張によって、健康によくない体内物質や、電磁的放射を発生させ、健康や人間関係や社会生活に、なんらかの不和を実現させるのではないかと思うのだ。
近年サイコパスという、良心の無い脳を持つ人格障害の事を耳にするが、私はそういうタイプのヒトにもこの無意識下のアラートは存在すると思っている、というか思いたい部分があるように思う。一般的なヒトより鈍いかも、とも思いつつ。。
つまり私は天罰というものは、常に自分が自分に下し続けているのが、ヒト生命体だと思っているわけである。
無意識の領域での指揮系統を通じて。
これは恐らく、性善説と言ってもいい感覚かもしれない。
ただ、ここで善とされている物が、必ずしも既存のモラルや良識とイコールではないかもしれない、という可能性があるので、平易に性善説とも言えないわけである。
ところで先日、アメリカのERでドクターをしている友人と長話をした。
彼女は、既に優秀な医師でありながら、私の学んだコロラドの学校で同じ先鋭セラピーを学び、それを病院で実践している経験の中から、興味深い葛藤を話してくれた。
ERに来たある患者が、中々改善しなかった。
あまりにも良くならないので、彼女は件のセラピーを使って、何らかの心理的抑圧が無いかどうかを、探ってみたそうだ。
するとその患者には、本人の記憶には明確に意識されていない、ある深い罪悪感があった。
それは会社で、同僚から打ち明けられた企画アイディアを自分流に改変し、同僚よりも先に企画会議に出してまんまとその企画を通して成功を勝ち得た、という行為による物だった。
この行為はしかし、アイディアを盗まれた同僚を含め他の誰からも非難はされなかった。
巧妙なアレンジだった為に同僚も責める決め手を感じられなかったそうで、積極的に形にした君の力さ、的寛大さで受け止めてくれたのだそうだ。
だからその患者は、その事に全く罪悪感は持っていなかった。
その患者の勤める会社ではよくある事でもあったから。
ところが、治らない疾患の根を探るセラピーを行った結果、その根にこの罪悪感がこびりついていたのよ、と友達は言った。
それで彼女は葛藤を感じた。
医師という物は、どんな極悪非道な犯罪者にも、平等に治療を行う誓いを立てているそうだ。
だからもしもこれが治療ならば、迷わず患者を治さねばならないだろう、と思ったそうだ。
けれどセラピーは、自分の、病院での役割の領分だとは言い切れない。
自分には、それについては自由意志がある、と彼女は感じたそうだ。
で、彼女は、人の企画を盗む様な人間は許せない、と感じた。
もしも罪悪感から疾患をそのままに、その患者自身がしておきたいなら、何もその根をセラピーして、解放してあげなくてもいいんじゃね?
その葛藤中に打ち明けられた話だったので、結局彼女がどうしたのかはまだわからないのだけれど、あくまでもSF的仮説として、もしもこの世界で今後深い領域の心理的な抑圧を解放出来る様なセラピーの効果がはっきりと認識されて一般的になった時、もしかしたらそれは遺伝子操作のように、神の選択の領域に踏み入る様な部分が出てくるんじゃないのだろうか。
もしもヒト生命体が私が思う様に、深い領域で自分の行為の善悪を判断し、自分に罰を下す様な行為を常に繰り返しているのだとしたら、その根本の心の領域にメスを入れる心理療法は、中々どうして、施す側に様々な葛藤を生むのではないのか。
医師の場合は、治療は誰に対しても行わなければならない、何故なら医師は裁く立場ではないからだ、という誓いに私は賛成だ。
どんな犯罪にもなんらかの背景があり、またそれを不快に感じる者にも、個人的な背景がある可能性がいつでもあるのだから、犯罪者の命の明暗を医師が左右してはならないのは当然の事。
だけど、もしも犯罪者が、自分自身の高潔な領域で自分を罰していたとしたら?
それを他者が左右する事は(もし左右できたらの仮定だが)、果たしてどうなのだろうか。
私は個人的には。
もしも私にそんな事が出来るのだとしたら、私は個人的には、迷わず主観で判断するだろう。
何故なら、もしも私自身が自分の深い良識のモノサシに合わない行為を行えば、今度は私自身が自分を罰してしまうと思うからだ。
だから私は、誰かの中に自分を罰する"高潔な天罰行為"を認めたら、そのまんまにしておこうと思う。
それが私の基準から見て、やり過ぎだ、と感じられない限りは。
そしてそのやり過ぎかどうかも私は、自分の感覚を基準に計ると思う。
私が自分自身を無意識下で罰しない為に。
一見利己的に見えるこういう自分の感性を基準にした選択が、実は最も普遍的にフェアなものなのだとも、私はなんとなく感じるのである。
人間という物は、個々が個別の個性を持つ神の様に、高潔な領域でのオリジナルの選択を、責任を伴う形で常にしているべきだと、私は思うのである。
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