2016年12月17日土曜日

ニーガンが教えてくれる事

もしもAさんという人に突出した能力があって。

その突出した能力が例えば未来を知る力や、この一手を打てばこういう返事が世界から来るとか、この場所へ行けばこういう物が手に入るとか言う事が手に取る様にわかる力だったり、誰かの偽善的な言動の影に隠れる本音や本当の動機が、レントゲンの様に見透かせる力だったりしたら、そのAさんは、周りの人達と対等な関係を保つ事が出来るだろうか。

そういう能力の無い人たちの愚かな言動や決定によって、自分の命やミッションや人生が危険や、不利な状況に晒される様な事があったとしたら、その人は周囲から自分を隔離して自分を守り抜くか、あるいはもし誰かと共に生きるとしたら、自分の作ったルールに絶対服従を強いる、独裁者となるしかないのではないのか。

ウォーキング・デッドのニーガンが、単なるアホなナルシストが、称賛と敬意と権力を欲しがって軽薄に威張ってるだけじゃない事が透けて見えるだけに、非常に複雑な気持ちになる。
ドラマの中では徐々にニーガンへの刺客が迫っている気配なので今の内に書いちゃうけどさ、私、結構ニーガン、好きかも。


ニーガンが先に書いた様な、天才的な洞察力の持ち主かどうかはわからないけれど、さっきニーガンが、自分の元に酒を抱えてやって来て、友好的な絆を結ぼうとしたスペンサーをバッサリ殺っちゃった時に私のハートがとても喜ぶのを感じて、私も随分、怒ってるんだなあ、と思ったのだ。

人間界は、あのスペンサーみたいな人を肯定する事が、いや肯定とまでは行かなくても、なんとなく違和感を感じながらも受け入れている、と言った方が近いのかもしれないけれど、アヤフヤな違和感だから事を荒立てるよりは、放置して仲良くやっておこうじゃないか、みたいな事が、多いように思うのだ。

ドラマ全体を通してみると、スペンサーの想いは理解に足る。
私はあのドラマの主人公でありヒーローである好戦的なリックがそもそも嫌いで、彼の決断によって平和に暮らしていた街の人々がニーガン率いる"救世主"軍団に宣戦布告し、結果負けて植民地みたいにされてしまったわけだから、その平和に暮らしていた街の指導者の息子だったスペンサーが、リックに反感を抱くのは当然だ。

だけど今回スペンサーは、自分がその恨みを背負う替わりに、ニーガンに擦り寄って、ニーガンに自分の怒りを、肩代わりしてもらおうとしちゃいました。

ニーガンと酒を酌み交わし、仲良くビリヤードをやりながらスペンサーは、自分が如何にリックを憎んでいるかを告げ、リックの所行を告げ如何にリーダーにふさわしくないかを告げ、自分がリーダーなら如何にすみやかに、街と"救世主"が共生関係になれるかを、ニーガンに訴える。

結局私に何をして欲しいのだ、とニーガンは問い、スペンサーはそれにははっきりとは答えず、だからニーガンはスペンサーの、言葉にははっきりとは出さなかった本音を、ズバリ言い当てる。
要するに、ニーガンの力で、自分をリーダーにしてくれって事ですよ。

こういう事って、たまにではあるが、実生活でも目にする。

自分の中にある、誰かへの理不尽かもしれない不満や怒りを、自分の持っている感情的な問題として語らず、何かに転嫁して正当化あるいは美化しつつ、語ったり、誰かを納得させようとする。
スペンサーのケースでは、リックへの恨みは妥当だと思うので理不尽な怒りではないんだけど、それでも彼は、それを自分で解決しようとせず、ニーガンを使おうとしたのが、人として美しくないんだよね。

で、世の中にはスペンサーみたいな事情は無く、単にジェラシーや我が身可愛さから、誰かに否定的な感情を持って、で、誰かに否定的な感情を持つまでは仕方無いと思うんだけど、その、理不尽かもしれない自分の誰かへの不満を、自分自身に対して正当化あるいは美化する為に、別の誰かを説得して味方にするっていう事を、する人っているよね。

そして私がそういう時に怒りを感じるのは、それを行う人、つまりスペンサー的人物に対してではなくて、そういう人に、巻き込まれる側の人に対してなんです。
スペンサー的な人に対しては私はそもそも友達として認識しないから怒ったりはしないんです。そういう人たちは、言わばキリストの言う、「彼らは何をやっているのかわからないのです。」な人々ですので、早急に正しい行いを求めても無駄だと私は思うので、怒りも感じません。ただお友達にならないだけ。

だから問題は、巻き込まれたり黙認したりする方だと、私は思うんですよ。

見て見ぬふりをしたり、その行為をなんとなく汚いかもとは思っても、汚いと指摘する人間を積量だとか言い過ぎだとか、言っちゃったりする方。
そんな小さな事に目くじら立てなくても、とか言って、寛大な、我慢強い人のふりをしちゃう方。
大人しい悪人を庇い、毅然とした善人の方を、糾弾しちゃう方。


ウォーキング・デッドの優れた所は、敵味方のいずれにも、主人公サイド脇役サイドの両方に必ず、良い点と悪い点が混在し、白黒の判定がつきにくい事だと私は思います。
これによって人は、上記の様なあやふやな悪、もっと言えば巧妙で狡猾な、隠れた悪の姿を、心の中であぶり出す訓練が出来ると、私は思うのです。


さっき悪役のニーガンがスペンサーを殺っちゃった時に正しかったのは、あの悪名高いニーガンの方だったと、私は思いました。

スペンサーがリックの事を語った時にニーガンは、リックは自分の尊厳を抹消して今、ニーガンの命令に従っている、でも、スペンサーは自分が泥を被らずに、ニーガンに自分の代役をやらそうとした、みたいな事を言ってスペンサーを殺っちゃいました。
(だからと言って殺しちゃいかんのですが)
これはニーガンが、リックのがむしゃらな犠牲に、ちゃんと敬意を払ってるって事です。
ズルい人や卑怯な人じゃなくて、ちゃんと自分で背負う体当たりな人を、尊敬しますよって事ですよね。

ニーガンは登場当時から、リックのナルシシズムを始め、その場にいる人たちの深い心理を見抜くような事を、しばしば発言します。

自分は徹底した悪でいながら、周囲の人間の詰めの甘い偽善をすぐに見抜き、絶対に許さないのです。
そしてあり得ない程の統率力と組織力で、あのゾンビだらけの絶望的な世界で、最も強大なグループを率い、文明を復興させようとしています。

あの恐怖政治的なやり方には共感は出来ないと思いつつも、先に書いたように、もしも周囲の人間が全員自分よりも激しくぼんくらで、さっきのスペンサーがやったみたいな無自覚で清潔ではない言動ばかりが横行していたとしたら、ルールによって強制するしかないのではないかと、今回(シーズン7・8話)は思ってしまいまいした。

現リアル世界での独裁者は我が身可愛さの愚か者ばかりかもしれませんが、ニーガンの動機にはなんとなく、これらとは違う興味深い心理がある様に感じます。

ドラマの中ではまだ全く触れられない彼の過去や背景が、今後描かれる事もあるのでしょうから、とても楽しみだなと感じます。

ゾンビだらけになる前の、まだ世界が社会という形を呈していた中で、彼は一体どんな職業で、どんな人物として、どんな人生を生きていたのか。

ドラマ初期に出て来ていた、わかりやすい心傷を負った独裁者ガバナーとは厚みも深みも悪さも格の違うニーガンの物語が、楽しみでなりません。

2016年12月10日土曜日

ジョバンニかサイモンか


いつの間にか定例化している、パスカルズのチェロ奏者三木黄太が主催する、オペラ・チームによるMETライブビューイング観劇&感想会。

昨日はモーツァルトの有名過ぎる一作、"ドンジョバンニ"を観て来ました。この作品についてはもう、昨日の感想会で思いっきり、言いたい放題、掘り下げるだけ掘り下げ切って大満足していますので、このブログでは書きません。私が書きたいのは、ジョバンニを演じたサイモン・キンリーサイドの事です。

とにかく、メトロポリタン歌劇場の舞台に乗れるんですから、このオペラ歌手たちは一流中の一流です。こういう人たちの芸に触れると、「歌は下手でも心が籠っていればいい」とか、「音痴でもいい、魂からの声ならば。」等という、よくちまたで耳にする定番の暖かい言葉たちの事が、ちゃんちゃらおかしくなります笑。

そういう事は一流になってから、体感を通じて発見する崇高な真実なのであって、素人のうちからそんな事に甘んじていちゃいけないのです。
まずは心や個性を失うくらい研鑽を積んだ後に、その研鑽と共にいつの間にか背後で発達していた澄んだ成熟した魂と、研磨されて輝く深いところに眠っていた真の個性が、ようやく歌と深く繋がる、それが、一流、という事なんだと、私は思います。
あ、もちろん一流を目指してないならば、上記のような心理的クッションも、ある意味では真実なので、それでいいと思いますよ。私も、心しか籠ってないバイオリン弾いてるし。MET目指してないから。


で、このジョバンニを演じたサイモンなんですが、とにかくこの舞台、幕が開いた瞬間から、すっごい引力で舞台から目が離せない。熱狂的な集中力で観切った末に、あっという間に一幕目が終わります。
そして恒例の、舞台裏でのインタビュー。

このドンジョバンニは、希代のプレイボーイを描いた舞台です。今まで私は、このアンチヒーローを正当化する人を見た事が無いし、そういう評価を聞いた事もありません。
実に2000人もの女を口説き落とし、彼女らの名前をノートに連ね、寝る為ならどんな嘘もいとわず、彼に思いを寄せる女たちを裏切り、とにかく情交した女の数を増やす事だけに一生を費やす、言わばろくでなし貴族男の話なんですから。
だから、インタビューでの出演者たちの言葉も様々ですが、納得のできる行儀の良い物が続きました。


しかーーーーーーーーし!!!!!
インタビューの相手がこの主人公、ドンジョバンニを演じているサイモンに及んだときに、私が今まで持っていたこの物語への漠然とした解釈が、音を立ててガーーラガラと崩れ去って行ったのですよ。


サイモンは、高揚した様子でインタビュアーの前に現れ、今さっきまで演じていたジョバンニの衣装の乱れを気にする事も無く、爆発的に語り始めました。

1幕最後の歌を歌った時にはもう、感動でからだが震えたよ! ジョバンニは素晴らしい、自由だ、この物語は、自由を描いているんだよ!!!!

彼が言うには、この時代、フランス革命以前のこの時代は、身分制度は厳しく、モラルも厳しく、非常に鬱屈した時代だった。けれどジョバンニは、貴族でありながら平民を家に招き(村娘をモノにする為ですが)カトリック的規律をことごとく侵してゆく、モーツアルトはこの舞台に、ひとりの人間が、神をも恐れずに追求し選び取ってゆく自由という物を、描き切っているんだ。というのです。

なーーーーーるーーーーーーほーーーーーーーどーーーーーーーーー。


というわけで、サイモンのインタビューでは一切、女性への礼儀的配慮的な発言は発せられず、インタビュアーの女性は早いうちからムッとしており、しかし熱狂的に語り続けるサイモンは止められず、あー、そういう発言によってあなたはみんなから愛されているのね、なんていう、わけのわからない錯乱した間の手を唐突に打ってなんとかインタビューを終わらせるという、なんだかとっても見応えのあるモノとなっていました。


冷静に見れば、ジョバンニのやっていた事は自由というよりは病であり、恐らくセックス依存症か、あるいは下僕の男への愛を封じ込めているがためのリビドーの異常な爆発あたりなんじゃね?くらいに私は思うのですが、あり得ない程人間の自由や尊厳が無視され制約されている時代ならば、これだけ極端で破天荒な方法で自由を描くくらいが、ちょうどいいんじゃないのかな、とも思いました。
根深い慣習を打ち破る為には荒療治みたいな物が必要なのと、同じです。

そう思うと、なんだかジョバンニの味方をしたくなります。
責められても悪びれないジョバンニが言う様に、ロマンスの最中は女性は幸福なのですから、執着さえ捨てれば、その関係が終わったとしても素晴らしい経験をした、というだけの事なんです。
貞操、なんていうものに重きを置く時代の掟に縛られていなければ、恐らくとっても床上手であろうジョバンニと、素敵なセックスを楽しんだわよ、ってだけの話です。

最後にジョバンニが地獄に堕ちるのは、上演当時の世評への配慮だろうと私は思いますが、それを考えるとジョバンニの姿が、どこから発生したのかわからない横暴な規律なんていう物に縛られてがんじがらめにされている、人間の自由と尊厳の解放への警鐘であり、同じ様に魂の解放を叫んで最後は磔刑に処せられた、キリストにすら重なって感じられます。


この舞台を観て私は、このサイモンに強くインスパイアされ、生きる、という事への非常に強いコミットが、あっという間に生まれてしまいました。

私がさっき、一流という事の素晴らしさを書いたのは、それが理由です。
サイモンは、自分自身がジョバンニ同様に、地上で出来る事は全てやる、ってな勢いで、オペラの研鑽を積んで来たんじゃないでしょうか。
そしてそういう人物だからこそ、技術不足や力不足やらに足を引っ張られずに、自由に、最高に、全身全霊でジョバンニを演じる事が出来た、そしてだからこそ彼はジョバンニの魂に、深く触れたんだと思います。

こういう一流の人物の芸は、圧倒的に人に、生きる力をもたらしてくれます。
眠っていた自分の尊厳という存在に、燃える様に立ち戻らせてくれるのです。

感想会の後、冷たいシェイクを飲みながらみんなとの話に昇ったのは、何故ケア施設や子供やお年寄りを相手にする人たちが、彼らへの慰労に、安く雇えるアマチュアの芸人やミュージシャンを呼んでしまうのか、という事でした。

ケア施設で最近、上手なジョークの言えない無名の芸人のショーに呼ばれ、うんざりしているお年寄り達を目撃したばかりの友人からの言葉は、やり切れない程その現実のもたらす害を、伝えてくれました。

もしもケア施設に入っている皆さんが、過去に一流のオペラを観ていた人だったら、ケア施設の中でそういう研鑽されていない芸を見せられる事がもしかしたら、自分がどんなに落ちぶれてしまったかという実感に繋がってしまうという可能性は、無いでしょうか。
私はそれは、拷問だと思います。

あとどのくらい生きられるかわからない人こそ、最高の物を観るべきだ、ともうひとりの友人が言いましたが、私もそう思います。
また私はそばに、何もわからない未熟な時にこそ最高の体験をするべきだ、最高の材料で絵を描き、最高の料理を食べるのは、大人ではなく子供の仕事だ、と言ってくれる人が居た事に、心から感謝しています。
何故なら、早いうちに頂点を知る事で、自分の許容量の上限が、広がるからです。
その広がった領域から、様々な多様性を見て行けます。選択肢が広がるのです。
だから、お年寄りだけでなく子供達だって、最高の経験をするべきだと私は思います。

まだそんなに実力の伴っていないアーティストや芸人さんは、どちらかというとケアされる側であって、誰かをケアする為に芸を提供出来る側では無いと私は思います。
私は施設で希望を失ったり元気を失ったりしている人は、サイモンみたいな人の歌を聞くといいと思うのです。

世界最高峰の、真に自信を持って芸を披露出来る人たち、本当に自分の才能と人生を生き切っている人たちのもたらす一流の技は、それだけで、今まで発揮出来ていなかった自分のスタミナを呼び覚ます様な力が、本当にありますよ。

2016年12月2日金曜日

本当の薔薇のお菓子

サウスアベニューさんのtweetから勝手に拝借
2016年も年末となり、街がクリスマスの飾りに彩られる、私の最も大好きな季節が到来しています。そしてそんな時期にふさわしいお菓子を、本日手にする事が出来ました。

それは、西荻窪にあるサウスアベニューさんというお店が販売を始めた、白バラ、黒バラ、というお菓子の事。

このお菓子をTwitterで見た瞬間から、私はこれは本物だ、と感じて、販売初日の今日、いても立ってもいられずに、買いに行ってしまったのです。写真がそれ。



私にとって本物というのは、真にオリジナルでしかも生まれるべくして生まれた物、という感覚で、つまりそのまま歴史に刻まれ、何世紀にも渡って残ってゆき、やがて伝統、と呼ばれる物に育ってゆく様な、底力を持つ物の事です。

今の時代に伝統菓子とか呼ばれている物だって、始まりがあったわけですからね。
生まれた当時は新しいお菓子だったり習慣だったり文学だったり宗教だったりパフォーマンスだったり音楽だったり絵画だったりした物の中から、真に強い力を放つ物〜つまり花や樹木や湖の様に、根源的創造物、と言える様な物が、その輝きが絶えないままに、何世紀にも渡って残ってゆくわけです。

宇宙の創造物である自然界の持つ普遍性を持つ物を、人間もまた生み出す事が出来る。
そしてそういった物が何百年も、自然な形で残ってゆくのだと、私は感じているのです。

私は実は、100円ショップの様な文化の蔓延する日本が苦手でした。でも最近、それこそ今年になってから少しずつ、そこから抜け出した、これは本物だな、と感じられる様な物が生まれ始めている様に思えるのです。多分ちょっと前までの大量生産的で手の届きやすい物に人気の集る時代は、カンブリア爆発みたいな物で、淘汰と洗練の起こる前の、大量放出の時代だったのかもしれません。

私の本物志向は、絵画や音楽以外では、今現在既に伝統と認められているような物にはあまり食指は動かず、新しく生まれた物で今後伝統になりそうな本物でオリジナルな物、と私が感じる物へと限定して集中している為に、近年しばらく好きな物に出会えずお寒い時代を過ごしていたのですが、今年に入ってから特別な出会いの様な形でしばしば、いいな、と思える物を得る事が出来始めていました。

そんな密かな居心地の良さを感じ始めていた今年、この2016年の終わりに、このお菓子に出会えたのは、私にとってとても象徴的な出来事です。

このお菓子、黒バラ白バラは、苦水バラと砂糖を半年間熟成させて作る苦水地方の珍しい特産品、苦水バラ醤という物を使って作られた、黒バラは焼き菓子、白バラはチョコレート菓子です。
口に入れた瞬間に、驚くほど鮮烈なバラの香りが広がります。
このバラの香りの確かさに、今後伝統になってゆく強さを、私は特に感じたのです。

私が素晴らしいと感じる作品やお菓子には、確信、と言える様な、根拠のある強さが備わっているといつも感じます。


強さというのは、例えば絵画なんかでは線が太くて強いとか、色がはっきりしてるとか、そういう事を言うわけではありませんよね。
淡い色彩や繊細な線がそこに描かれていても、そこに地に足の付いた、確信的な何かがある事は可能です。

これは作り手が、常に多大なる自信を持って作っている、というのともまた違います。
人はいつでもいくらでも、どうしようもない物に、自信を持つ事が出来ます。
今の世では商業的な成功や、感覚の鈍さや、社交辞令や、観客からの感動バイアスのかかった感想なんかが、自信を裏付けてくれる事がいくらでもあるからです。
だからそういう、自信を持って、というのともまた違う。
もっと深いレベルでの、充足、とでも言う様な確信を、それを作る人は持っていると、私は信じているのです。
人からの評価や認識を全く必要としないような、自己の内に宿る、充足です。

白バラ黒バラを作った方がそれを感じていたかどうかはわからないけれど、これを販売する事にされたサウスアベニューさんはTwitterで、どこにも無いとびきりのおやつ、と言っています。これは本当に自然に出て来た、喜びからの言葉って感じがするんです。

私は予言しますぜ。

このお菓子は、伝統になると。

600年先にはこのお菓子が、年忘れに欠かせないハレのお菓子として、人々の間にすっかり浸透している事を。

シュトーレンやガレットデロワや月餅みたいに。


そして大切なのは、これが本当に伝統になるかどうかじゃあ、ないんです。
伝統になる、と確信出来るほどの本物の、真にオリジナルの、新しい強い光を放つお菓子を、今、食べる事が出来るという、喜び。
そんな贅沢で豊かな体験って、あるでしょうか。

年末に、思いもかけない贈り物を貰った気分です。

ありがとう!サウスアベニューさん!!


2016年11月27日日曜日

クッキー売りを巡る誤解

先ほど、さほど親しくも無い老若男女の多数同席する席で、まあはっきり言ってしまえば陶芸のクラスで、同じ駅を利用しているらしい世代の異なる男女が、クッキー売りの話をし始めた。

それはふたりの最寄り駅の駅前で、クッキーを売る女性がいる、という話で、二人ともその席で初めてお互いがそのクッキー売りに、随分前から多大なる関心を寄せているという事を確認し合ったらしく、大いに盛り上がっていた。

つまり二人の利用する駅の脇の道で、ひとりで手作りクッキーを売っている割と若い女性がいるそうなのだ。

私はその話を聞いた時すぐに、ひとりでジャムを作って売っている私の友達であるエバジャムのエバを筆頭に、自分の工房で質のいいこだわりの菓子やパンや色んな美味しい物を作っては自分の足で売り歩いている頼もしい知人たちの事を思い出して、わあ、いいなあ、私も買いに行きたい♬と思った。

しかしふたりの話し振りはそういうハッピーなノリとは全く異なっていた。

あんな所でたったひとりでクッキーを売っているなんて、大丈夫なのか。
子供を抱えたシングルマザーかなんかで、余程の事情があるんじゃないのか。
売り場に許可が必要なんじゃないのか、無断でやっていて大丈夫なのか。
偶然出くわしたけど、どこどこの路地からとぼとぼ出て来て、なんだかミジメで悲しかった。
包装なんかも素人っぽいから、クッキーも自分のみすぼらしい台所で作ってるんじゃない?

という具合に非常にペシミスティックで、という事はそのクッキー売りは私の思い描いているような、エバジャムのエバみたいな、明るくて馬鹿っぽいけど作る物には徹底的にこだわるアーティスト系行商人とはちょっと違うタイプなのかもしれない、と思い始めた。

その後もふたりの悲観的な噂話を聞く内に、私の中には明確な、そのクッキー売りのイメージが出来上がった。

みすぼらしい服装と容姿ー何故か水色の薄汚れたカーディガンに痩せた肩と腕。
化粧っ気の無い、くすんだ不健康そうな顔色。
生活に困窮している感満載の暗い不幸オーラ。
もしかしたら頭が少しおかしくて、クッキーって言ったって自分がそう思っているだけで、何を材料にしているのかわかったものではない何か恐ろしい物を売っている。
うわごとみたいな物を呟きながら髪を振り乱してあちこち徘徊し、気の向いた場所でクッキーの形をしたそうでない物を売る怪女。
そのクッキーは多分危険だ。

まあざっとこんな感じで、平成の口避け女みたいな妖女の売る恐ろしいクッキー、というイメージが、あっという間に出来上がってしまったのである。

というわけで好奇心を押さえ切れなくなった私は、已然として不気味で悲しくみじめなクッキー売りの話で盛り上がる二人を尻目に、I Phone で検索してみた。

最寄り駅の名前、駅前、クッキー売り、

このみっつだけで、すぐにその女性は検索に上がって来た。
写真があったから、この人ですか?と二人に聞いてみたら、「あっ!!!!そうそうこの人!!!」どうやって見つけたの!?すごーーーーい!!!!!!」
と、更にものすごく興奮する二人。
私はその二人に、そこに書かれているクッキー売りの正体について、読み上げてあげた。

その人は菓子職人。
自宅を改造した工房で、こだわりの材料でお菓子を作っている30代女性。
始めは夫の作る手作りパンをふたりで売っていたが、夫のやっているパン屋が忙しくなったから、今はひとりで、時間と曜日を決めて自作の菓子を売っている。

かいつまめば以上の様な情報が、可愛らしい明るい色の縞縞パラソルの元、ワゴンに広げた様々な種類の菓子を売る、白いコックさん帽とコックさん服に身をつつんだ、可憐な若い女性のほのぼのとした写真と一緒に載っていた。

つまりそのクッキー売りは、最初に私が思い描いたエバジャムみたいなアーティスト系菓子職人に他ならず、頭がおかしいわけでもウワゴトを言いながら徘徊しているわけでも、無いって事です。
この現実を知って二人は大変驚いていましたが、二人の驚きは、彼らが何ヶ月も心に持ち続けていた謎を、私が目の前であっという間に解いてしまった事への感動へとすぐに移行してしまい、如何に自分らが無責任なイメージを、可愛いクッキー屋さんに貼付けていたかなんて事を反省するつもりは、毛頭無い様子でした。

それにしても何が恐ろしいって、噂していた二人の中にクッキー売りにまつわる共通の悲しいストーリーがあったせいで、それを聞いた私が、現実とはかけ離れたイメージを持ってしまったと言う事だ。

こういう、自分の中にある確固たるストーリーのフィルターを通して現実を認識して解釈する事を、心理学では"転移と投影"と呼ぶ。


投影というのは主にこの話の様に、自分の中にある、ある種の信念や概念を、現実の出来事や人物に投影してしまう事によってありのままが全然見えてないケース。
転移は主に、自分の中にある、ある種の感情や思い込みを、あたかも他者が持っているかの様に感じる錯覚の事なんかを言う。

転移で良くあるのが、自分がAさんとの間で起こった特定の出来事に関して何らかの後ろめたさや罪悪感を持っている時に、Aさんが"その一件で"自分を怒っている、と思い込んでいたりする事。
もっと巧妙なレベルでは例えば自分がBさんの事を敬遠しているのにそれには気付かず、Bさんの方が自分を敬遠している、と思い込んでいたりするケースだ。

いずれにしてもこの転移と投影は、人間関係における殆ど全ての悪循環の源だと私は思っているので、普段からなるべく意識的でいたいと個人的には思っているだけに、今回の様なクッキー屋の件は非常に心に引っかかる出来事であった。

私とて二人の話を聞いた当初の時点で、すぐに友達のバカ明るいエバの顔を思い出したのなんかは、典型的な投影の始まりの瞬間で、その後、もしどんなに二人の悲しく淋しい話を聞いてもそのバカ明るい印象を頑固に変えない場合などは、自分に要注意である。

そういう態度は、自己の投影(ストーリー)との一体化と呼ばれ、そういう態度をする人は、現実を、自分の許容する概念のレベルでしか捕らえようとしない自動制御システムが脳に付いているので、どんなに何かを説明しても、絶対に正しく解釈してくれなかったりする。そしてその歪んだ情報を他者に伝授したりして、おかしな出来事に発展したりするのだ。


今回は私の印象の方が現実のクッキー売りに近かったのだけれど、でも実はその影に、この二人が感じていたような陰惨な現実が、あるかもしれない。
だとしたらしょっぱなにエバの脳天気な顔をそのクッキー売りに投影した私が、間違っていたという事になるんだから、自分の印象にすがりつき続けるのは、非常に無駄な事だ。

もしも噂話を聞くんなら、その話がどんな場合でも話し手のストーリーのフィルターを通過している、という事を心のアンカーとして持っているべきだし、噂話をするんなら、自分がどの程度ストーリーのフィルターを通して出来事を認識し話しているかを、出来る限り自覚しているべきだと私は思う。

そうでないとこの可愛いクッキー売りについて、いつの日か駅前の気のフれた妖怪女としての噂が轟き、誰も彼女からクッキーを買わなくなってしまう、なんて事にも、なりかねないのですから。

2016年11月18日金曜日

発達心理学によるプロファイルonニーガン

最近、ハーバード大学児童発達研究所から、幼児期の体験と脳のニューロン結合の密接な関係に関するレポートが発表されました。

既にこれをコロラドの学校でずうっと学び、また臨床的な解消実績も数え切れない程体験している私にとっては耳新しい情報ではなかったのですが、ハーバード大学のような権威がそれを言い出せば信頼性が高まり、今後様々な一般的な心理療法にも応用出来るようになるかもしれず、ようやくの一歩前進だなと感じました。

この、脳の80%の成長が完成される生後三歳までの幼児脳の発達をベースにした心理学と心理療法は、非常に実用性が高く正確だと私は思います。
ニューロンの結合、という実質的な結果によって生じる学習認識という物は、つまりほぼバイオロジカルな現実であり、外見が太っているか痩せているか、等に等しい正確さで、その人の心の癖を、情報として与えてくれるのです。

何度かブログにも書きましたが、このニューロンの結合による深いレベルでの学習認識は、体形や姿勢にもあからさまに反映されているため、プロファイリングにも有益です。

アメリカの犯罪ドラマなどを観ていると、俳優さんなり作り手の方が実によく心理学を学んでいるのがわかります。
ニューロン結合のような進んだ分野かどうかは別にしても、犯人の表情や犯行の手口に心理プロファイル的なズレが無く、リアリティを感じさせるなと感じる物が多いのです。
表面的な言動等の辻褄合わせにとどまらず、よりディープなレベルで、例えば眼差しやふとした仕草なども合わせてそれを演じられている俳優さんを見る事も多く、そういう時には鳥肌物の感動を感じます。

例え心理学の知識の無い人でも、人間という物は現実の人間関係の中で様々な情報をキャッチしているのですから、そういったディープで詳細な演技を見れば、視聴している誰もが心の底にある、"真に迫る"、をキャッチする事が出来ると思うのです。


というわけで。
テレビ・ドラマの話になりますが笑。

沢山の方が夢中になっていらっしゃる"ウォーキング・デッド"を最近私も見始め、そしてあのドラマの中には危機状態の中でおかしくなっちゃってる人間が沢山出て来ますよね。

今まで大抵のドラマ内悪人は、上記のプロファイル的見解からいろんな分析が可能だったのですが、あのドラマに出て来るニーガンだけは、どうしても理解出来ないのです。
故に私は、初めて犯罪者に、純然たる憎しみを感じる事が出来ているという、希有な体験を今現在しています。

発達心理学やニューロン結合の様な物を臨床的に知っていると、自分に直接迷惑がかからない限りは、悪人が全部幼児の姿や顔に見えてしまって中々怒りや憎しみに埋没出来ない物なんですが、あのニーガンだけにはまったくもって、幼児期のトラウマが原因であんなに憎たらしくなっている、という系譜が見えないのです。

行動そのものを見る限りにおいて、私の知るレベルでの現実世界の有名人でニーガンに最も近いのは、北のパタリロ将軍だと思うのですが、北のパタリロ将軍とニーガンには根本的な違いがあります。

北のパタリロ将軍には明確に、"自閉期の傷"と私たちが呼んでいるトラウマを現す外観があります。
自閉期というのは生後三ヶ月までの、まだ生まれたての非常に繊細な時期で、この期間にうまく保育者の保護を得られないと、他者や環境への不信と恐怖から、非常に閉鎖的で冷酷な心を持つ可能性があるのです。

お腹が空いているのにすぐにミルクが来ないとか、抱いてほしくて泣いているのに放置された程度の体験が繰り返されるだけでも、他者への共感性の欠如した人間不信人生不信的学習認識を獲得してしまう可能性があります。

現在のパタリロ将軍の持つ痛ましい、また他者への冷たい眼差しや赤ん坊の様な体形に、その育ち切っていない生後三ヶ月の心が非常によく反映されているのです。
恐らく彼は、充分な愛情と安心感を乳幼児期に体験出来ないまま成長したのでしょう。


しかーーーし!!!!

ニーガンはどうでしょう。
ニーガンの容姿は、非常によく育っていますよね。

もちろんこれには、ニーガンを演じている俳優さんの要素が多分に影響はしてしまいます。あの俳優さんは恐らく、おおらかで愛情深い保育者の元、ニューロンの結合が健康的に成される程度に十分な安全性の中で、育った方なのでしょう。

年齢に相応しい成熟した容姿と貫禄、萎縮や緊張を感じさせないおおらかな四肢、実際のところ、別のドラマなどで彼を拝見すると、愛情深い表情を無理無く演じられていて、バランスのとれた心の健全さを、とても感じさせてくれます。

その彼があのニーガンを演じているわけですから、実際のプロファイリングに合わないのも当然と言えば当然なのですが、私の臨床経験上、現実にああいう、見た目は立派で発達心理学的にも問題無さそうに見えるのに、なんだかおかしい、という人が、いない事も無いのです。

そういう前提の元で私は、一生懸命ニーガンを観察しているのですが、今のところまったくもって、"トラウマによるニューロンの結合不備が原因で悪くなっている"という印象を、持てないでいます。
ガバナーは簡単でした。だからガバナーを憎む気持ちには、私はなれませんでした。
でもニーガンは。


ニーガンには、人に暴力を振るう時、眼差しの中に、冷酷な喜びや微かな恐怖や静かな興奮や怒りなどが、無いのです。
非常に静かな、穏やかな眼差しで、人を酷い目に合わせています。

これには、無意識下のニューロン結合不備つまりトラウマが全然活性化されていない、つまり、トラウマを原動力にはしていないな、という印象があります。

ニーガン役の俳優さんが大根なのでしょうか。
そうは思いません。
何故なら、ニーガンには安っぽい表面的な悪魔的表現も、無いからです。

少なくとも言えるのは、ニーガンは確信をもって、安定した心からあの悪事を働いているという事。

子供時代に得られなかった何かの代償を求めてとか、何かへの憎しみや復讐とかの、代替行為ではないということ。
それを非常にうまく、彼は演じていると思うのです。

もちろん今後、ドラマの中でニーガンの背景が描かれる事もあるかもしれません。
もしもその中で、過酷な幼少期を経て、のような話があった場合、彼の場合はそのトラウマがあまりに深く、脳自体に損傷あるいは変質を負っているレベルの、重傷なケースだという事は確かです。


ところでウォーキング・デッドには、リックというリーダーがいますが、ニーガンはリックのナルシシズムを、執拗に攻撃していますよね。
あれを見ていると、ニーガン本人にも自己愛性のトラウマがあり、同族嫌悪みたいなもんがあるんじゃないか、とも思わせるのですが、しかしここにも私は、ニーガンがトラウマから、リックをやっつけているわけではない、という印象があるのです。

単に、まるで神の鉄拳のように、リックの肥大したナルシシズムに対して、自覚しろ、反省しろ、屈しろ、とやっているように見えてなりません。

一体ニーガンて、なんなんでしょ。


原作の印象は、テレビのニーガンとはまるで違うし、色々な理由から辻褄の合わない事もあるのかもしれませんが、例えそれがフィクションであっても、創作物には時に、何かおおいなるものの意図が、降りている場合があります。

だからそれがドラマの中で暴走するフィクションな存在だからと言って、作り事では済ませない事もあると私は思うのです。

特にドラマ版ウォーキング・デッドのニーガンの様に、心理学的な面から見ても謎めいた存在の場合、何か注目に値する存在の意味が、あるように感じてならないのです。

ですので今のところものすっごく憎たらしいニーガンですが、まあ興味深く見てゆきたいなと、思うのであります。


2016年11月10日木曜日

大統領選後

アメリカ大統領選が終わってからずっと、うっすらと泣きたい様な感覚が続いている。

結果に失望しているわけではなく、いやもしかしたら気付かない様な深いレベルで失望しているのかもしれないけれど、ずっと感じているのは失望や怒りではなく、どちらかと言えば厳粛な、深い静けさを伴う胸の痛み、とでも言う様な物だ。

どういう人たちが何を思ってトランプに投票したのかは、実際のところよくわからないのだけど、昨日からずっとある知人の事が、頭から離れない。


趣味でヘリコプターやセスナを操縦するアメリカの知人のおかげで、私は最近よくアメリカで自由な空の旅を楽しんでいるのだけど、ある時その知人が紹介してくれた若いパイロットの青年と、ランチを食べに行った事がある。

Kというその青年は、青い瞳が静かで優しそうな白人の眼鏡男子で、空を飛ぶのが大好きでがんばってヘリの免許を取り、人に操縦を教えて生計を立てていると言った。

その時にその彼が、自分はヒルビリーなんだ、と笑いながら言ったのだ。
幸い森が近かったから、子供の頃から兄とふたりで森に入って、色んな動物を狩って食べた、と楽しそうに話し始めた。
狩った動物は蛇や鳥や蛙や魚など、普通に食用に出来る物から、オポッサムなどの変わった動物まで食べたと言った。オポッサムは死んだふりが上手で、始めの頃はそれに騙されて僕たちはよく失望したり笑い転げたりもしたもんだ、と。

私は大好きな北米の森を思い浮かべ、オポッサムの話を心から楽しみ、他にどんな動物を食べたのかと、大喜びで話をねだった。
彼はその時本当に楽しそうに自慢気に話していたから、私はそれが楽しい話だと、思い込んでいたのだ。


その事が唐突に、胸に突き上げる様に、昇って来た。
トランプが大統領になった時に。
小さな兄弟がふたりで森に入って、毎日の様に動物を狩って食べ、飢えをしのいでいたのだという、新しい現実として。


ヒラリーの、敗者演説は胸を打つ美しい物だった。
彼女が大統領になっていたら、どんなに素晴らしかったかしらと思わせるような、爽やかで、真剣で、静かな情熱を湛えた、力強いメッセージの込められた、品格を感じる素敵な物だった。

だけど毎日の生活にあえぐ人たちは、堂々と差別発言や痴漢行為を自慢する下衆野郎が見せてくれた、明日の食べ物を買える希望を、選んだのだ。
実際にトランプが役に立ってくれるかどうかは別として、とにかく彼を選んだ。
彼の言葉の方が、胸に響いたから。


森にオポッサムを獲りに行かなくてもいい、そんなに貧乏じゃない人たちもトランプを選んだ。なんでかっていうと、トランプの言ってる事が飾らない本音で、自分たちの気持ちを代弁していると感じたからだ。


私は、外側に敵を作る人たちというのは、結局は深く疲弊しているだけなのだと思っている。
人種差別はつまるところ八つ当たりであって、なんらかの強いフラストレーションや不満や怒りや恐怖や痛みを誰かにぶつけたいだけなのだ。
まあ、私怨から特定の人種なんかを憎む人もいるかもしれないけれど、それだって結局は心の痛みから発生している。

だからと言って同情出来るものでもないんだけれど、とにかく今回のトランプ勝利の現実は、如何に多くのアメリカ人が、実のところ非常に不幸なのだという事を現していると感じて、私は非常に、ガーーンとなってそしてその現実が、厳粛な悲しみとして心に広がりまくっているのだ。

アメリカには、自分のオポッサムを誰かが奪いに来ない様に、高い塀を作りたい人たちが、沢山いる。

そういう人たちにとっては、世界平和や差別の無い社会や自然界との調和や、エコやオーガニックやGMOやスピリチュアルや、高い精神性やウィットのあるユーモアや芸術や、多様性や平等や品格やそんな物なんかより、攻撃的で閉鎖的で、差別や憤怒に溢れ、恐怖と不信に満ちた心を代弁し、堂々と市民権を与えてくれる下衆なオヤジの方が、遥かに現実味があったのだ。

貧乏であれ金持ちであれ、トランプの言葉に説得力を感じる、不安で不幸で脅かされている人たちが、アメリカには沢山いるのだ。


その現実に、改めて光が当たった。

人類が進化して、中世の時代よりはずっとフェアで人道的な法律や価値観が行き渡っている文明社会において、より高潔な高い意識をもって生きてゆく理想的な流れがある一方で、様々な理由によって社会的に虐げられたり働けなかったり思う様に生きられなかったり稼げなかったりして、傷ついた痛ましい心を抱え、怒りと憎しみに燃え、怖れと不安で身動きがとれず、毎日が生き延びる事だけで精一杯な人たちが、この世にはいるのだということ。

もちろんKの様に、過酷な生活から自分の力でいっぱしの生活を勝ち取れる人もいるけれど、病気とは認定されない程度の精神疾患や、身体や心の弱さを抱えた人たちは、どんなにひとりでがんばっても、立ち上がれない事もある。


それがなんだと言うわけではない。
単に私は、Kの話してくれたオポッサムの話を、おもしろ可笑しく楽しんで、それ以上何も、気付こうともしなかった自分の目を、トランプの勝利が覚ましてくれたなと、思っているだけだ。

そしてそれがとても悲しくて、ただごめんなさいと、天に向かって謝りたいだけなのである。

2016年10月30日日曜日

色々考えさせられるTWD

あまりにも評判を聞く機会が続いたので、ものすごく遅ればせながら観始めたドラマ"ウォーキング・デッド"。

人気の秘密が徐々にわかり始めた最近、実に色々と考えさせられる、という構造も、人気のひとつなのだろうと思ってアメリカの友人に聞いたら、もちろんそうだという返事。
みんな、ドラマに出てる人たちのやり方や価値観の分析や批判や肯定で楽しんでると言っていた。そういう意味では、そういった誘いに満ち満ちている、大変成功しているドラマだと思います。

視聴者をうまく"釣れてる"、ってやつですね。
そして私は、ドラマや映画については、積極的に釣られたり騙されたりする様にしています。
その方が楽しいからです。


登場人物についても、好みやなにやらが別れると思います。
私個人は、主人公グループを率いているリーダーであるリックを胡散臭いとずっと思っていて(笑)、片腕のダリルを、素晴らしいと思っています。


ダリルは、私が昔アメリカで学んだナチュラリストの技を実際の戦闘に活用しています。
地面の足跡を見てその人物の体重を測ったり、枝の折れ具合や木肌のコンディションから、そこで起こった事を推測したりと、中々かっこいいのです。

まあそれはそれとして。


ドラマの中では度々、ゾンビに変化しちゃった家族の誰かを、自分らに危害を加えない程度の管理でかくまっている人が出て来て、それを主人公サイドの人間が暴いて、ゾンビな家族を殺しちゃうエピソードが、度々出て来ます。

それを見る度に私は、これってどうなのよ、って思ってしまうんですよね。


確かに今のところ、一度ゾンビになっちゃったらもう戻れない事はわかっています。
完全脳死状態になった後、なんらかの作用で脳幹だけ機能し始め、しかしその時にはもう、凶暴な何かに変ってしまっているわけです。

家族をかくまっている人は、いつか治療法が発明されて、元のその人に戻るはずだと淡い期待をもって、彼らをかくまっているわけですね。


でもなんでだか、それを知ると殺しちゃう方向に、あのドラマは行くんだよね。


まだ見始めたばかりなので、何を示唆したい番組なのか私にはわからないんだけど、FOXテレビの番組だと言う事から、ちょっとばかりの疑いを、持ち始めているのです。


もしもあのドラマが、鷹派の価値観を基準に動いているんだとしたら、どうなんだろうと。


確かに、咬まれたり引っ掻かれたりすると感染してゾンビになっちゃうんだから、ゾンビはいなくなるのが最も良い。
しかし誰かが、まだ家族がゾンビになっちゃった事を受け入れられず、いつか戻ると期待していたいのだとしたら、それはそれでいいんじゃないんですか?
他人に迷惑をかけない様に隔離しているんだし、万が一そいつが逃げ出しても、真っ先に被害に遭うのはかくまっているその人であり、更に表に逃げ出しちゃっても、後は何万匹もいるゾンビに混ざってウロウロしているだけに過ぎません。
もうああなると、野生のゾンビがひとり増えようなふたり増えようが、関係無いような世界なんですから。


ドラマの中では、ゾンビVSニンゲンより、むしろ生き残った人の間で描かれる戦いと葛藤に焦点が当たっており、そして正義と正義じゃない側の価値観がとても曖昧です。
だからこのドラマは意識的に、絶対的な正義、という概念のはかなさを描いているのかもしれない。

けれどもしも、ゾンビになっちゃった家族をさっさと殺す方が正しいんですよ、先に進む為に、という意識がベースにあるんだとしたら、私は途端にこのドラマが、FOX系列TVで放映されている事が、気になり始めてしまうんですよね。

それって、鷹派の考え方じゃない?

Aという人物が、Bという人物の大切にしている物を、「おまえそれ、おかしいよ。」って言って、その人のドアをこじ開けて、その大切にしている物を破壊してしまう。それによって平和が築かれる。という錯覚。

それは単に、Aという人物が欲しい現実を、Bという人物の価値観が邪魔をするからと言って、Bの価値観を根こそぎ否定して"改心"させる、それによって欲しい現実が得られる、という自己満足に過ぎません。

Aは単に、Bに賛成出来ないから、自分の居心地悪さを正しさや常識に置き換えて正当化して、自分にとって居心地の悪い場を、居心地良く変えようとしているだけですよね。



アメリカにはまだ根強い保守派の人たちがいて、未だに同性愛者を異常視したり、正当派とその人たちが見なす価値観や宗教観から逸脱した人たちへの理解を、拒絶したりしています。

私は、どんな偏見でも古い考えでも、個人のレベルで持っているだけならそれはそれで自由だと思っている人間ですが、もしも誰かが自分の価値観を、誰もが持つべき正しい物だ、と勘違いして、それを他者に強制し始め、その行為が公民権を得たら、それは自由世界の終わりだと思います。
それだけは許してはいけないと思うのです。


ゾンビの存在は、害毒です。

醜悪で、生きる価値も無い。

しかし、誰がそう言いきれるのか。

一人娘がゾンビになってしまった。
その姿は、肉親以外の人から見れば、醜悪な悪魔かもしれない。
でも父親はその顔に、過去の可愛らしい娘の面影を見ているのです。


あのドラマが、どういう価値観で進んで行き終わってゆくのか、今は全くの未知だけど、もしも二元論で正悪を捉える価値観がゾンビを殺すのだとしたら、私はそれは間違っていると思います。

あのドラマの中で、ゾンビになっちゃった肉親をかくまう人々を、どうやって描いてゆくのかは、とても大切だと思うのです。

先へ進むとか、健全であるとか、ポジティブであるとか、正直であるとか、困難から立ち直るとか、社交的であるとか、ちゃんと働いているとか、家族がいるだとか、ヘテロであるとか、強いとか、病んでないとか、正義感があるとか、そういう事だけがノーマルであるとする意識が暴走している一部の人間を抱えている土壌が、もしもその思想を土台に、そうした方が結局はみんなの為だとかいう思いを土台に、家族がかくまっているゾンビを殺すのであれば、それは間違っていると、私は思うのです。


あのドラマがどんな方向に行くのか、だからとても興味があるのです。

TWDは、闇、と位置づけた存在や行動を、果たして今後、受け入れるのでしょうか。

2016年10月20日木曜日

ディランとノーベル賞

ディランがノーベル賞を獲ったおかげかどうか知らないけれど、huluに" I'm Not There"が配信されて来てたので観る事が出来た。

“I'm Not There"はボブ・ディランの半生をユニークな手法で描いた映画で、女優のケイト・ブランシェットがディラン役をそっくりに演じた事でも話題になっていた映画だ。

観たいと思いつつ機会を逃し続け、ようやくさっき観終えた。

そんで思ったんだけど、ディランてやっぱり、"禅"、だね笑。

ノーベル賞貰ったのに、ずっとスルーしている事で、様々な憶測が飛び交っているのを、ネットなんかで見る。

大方は、ノーベル賞が武器を作って発展した賞だから、平和主義者のディランは拒否しているし無視しているのだ的な、彼の、プロテスト・ソング・シンガーという側面を捉えた人の意見が多い感じがする。

私は評論家みたいな詳細な視点でディランを掘り下げた事が無いから、もしかしたらそれが正しいのかもしれないけれど、私の中にいるディランと照らし合わせると、その感じにはなんとなく違和感がある。

私の中にいるディランに照らし合わせると、ノーベル賞受賞、という経験に、単に今現在、彼のアンテナが響かないだけなんじゃないかという気がしてならないのだ。

何か他の事に気をとられているとか、そういう事だけなのであって、思想的にどうこうっていうんじゃないんじゃないのかな。
まあこれは本当に、単なる私の思い込みですから、世間で彼をもっと観察している人が”思想だ。”と言うんなら、そうなのかもしれません。まあどっちでもいいんです。
ディラン本人はまた、全然違う思惑の中にいるかもしれませんしね。


私が映画を観て思ったのは、天才って大変だなって事なんです。

ディランがデビューして有名になった時代って言うのは、まだ人類がそんなに進化してないって言うか笑、まだすっごく保守的だったり頭が異様に固かったりしたのでしょう。映画の中のディランは、非常に生きるの大変そうです。


ディランは単に、今の事にしか興味ありません、って言ってるんですよ。

それを、昔はアコースティックだったのにロックに転向したのは何故かとか、裏切りだとか、魂売ったとか、政治なのか詩なのかとか、どっちの味方なんだとかかんだとか、もう、うるさいっつうの!!笑。

様々な人が”ディラン”というイメージを持ち、またそれを持つ事に必死で、そしてなんらかの既存の型に、彼を当てはめて考えようとする。
そして、自分がはめていたイメージから彼の言動が逸脱する度に恐れおののき笑、非難し、憎み、ののしり、今度は次の新しいイメージを作る事で、彼の本性を暴こうとしたり、暴けたような気になる。

そんな事やってたら、いつまでたっても、ディランの本当の存在感なんて、見えて来ないじゃないですか。
彼の様な宝と同じ時代に生きる事が出来ている尊い体験を、全く無駄にしてしまっています。

私が最もバカバカしいと思ったのは、ディランが煙に巻いてる彼の生い立ちや素性を暴いたテレビ番組が、意気揚々と、それを報告していたシーンです。


私はディランが、正しい生年月日や出生地や生い立ちを、公にしないどころか、ニセモノを作って誤摩化す気持ちが、実はよくわかります。
そんな情報、彼の仕事や本質に全く関係無いし、ニセモノでも与えておかないと、知りたくて知りたくてうるさい人ってのが、必ずいるんですから!
それをわざわざ暴いて、公にして、得意になっているテレビの人のアホさ加減には、本当に腹が立ちました。

自分が気にしてないなら、教えたって同じじゃないか、なんて小学生みたいな事を言う人までいる始末です。
人には、自分のプライバシーを、守る権利があるんです。
その生い立ちが更なるイメージを人の心に作って、ディランの作品や存在の本質の、余計なフィルターになってしまう弊害だってあります。
創作者は、創作物だけが正直なら、それでいいんです。

私の近所にも、人のプライバシーを平気で漏らしがちな人がいますが、私にそれをやったら、訴訟を起こして100万円くらいは貰う気持ちも自信も、本気であります。


何故に人は、目の前のありのままの現実では無く、イメージや情報で、人や物を判断しようとするのでしょう。
イメージという物は、イメージである事でもう既に既存の、限界のある物なのです。
でもありのままの現実には、常にフレッシュで一期一会の、無限の知覚体験が、広がっています。

もしもディランに出会った時に、頭の中に、この人は反体制でプロテスト・シンガーで気難しくて不遜でプライドが高い、なんていうイメージがあったら、自分はそのイメージに対応してしまい、目の前の本当のディランを、フルに体験出来ません。
個人のイメージの中に、ボブ・ディラン本人は、存在していないのです。

ボブ・ディランという人は、常にそういう、人の持つ固定観念に挑戦し続けていた人だと記憶しています。だから今でも彼のコンサートは、新鮮な驚きに満ちています。



私は映画の中のディランが最後に言った、詩は無意味でこそ神聖だ、という言葉に、全てが集約されていると思いました。


本当の抽象は、全ての固定観念から自由で、そこに何も提示しない、純然たる、抽象だからです。
そこにあるのは、ただ流れて移ろい流転する、純然たる現実だけです。
イメージなどという、粘っこくて潔くない、臆病で腰の引けた、思いがけなさを恐れる心の安全ネットみたいな、古ぼけた座布団みたいな現実認識の介入する隙間はありません。

優れた芸術家は皆、風景画でさえ抽象の目で描き上げています。
もしも人がイメージにすがろうとするなら、もうその具象的な表現方法さえ諦めて、抽象的な言葉の羅列をするしかない。

本物のディランがどうなのかはわからないけれど、あの映画では、ディランの抽象的な歌詞の由来を、そんな風に描いていたように思います。


詩は無意味でこそ神聖だ。


なんて禅なのでしょう。


あの映画は、型破りなディランの姿を、型破りなやり方で、とてもよく描いていたと思います。

2016年10月4日火曜日

湖の泥沼

これから誰かと湖一周の散策をしようと思っている方にお伝えします。

その湖は恐らく、今見えているより遥かに複雑な形を持ち、今感じられている湖の周辺距離の、少なくとも10倍はあるかもしれません。

9月のコロラドでそれを思い知った私と、その体験を聞いた私の友人が富士五湖で同じ思いをしたという証言からも、誰も気軽に湖一周など、するべきではないという事は、おわかりかと思います。

コロラドで散策好きの相方から、湖一周の散歩に誘われた時には、運動不足だからちょうどいいか、くらいの気軽さで応じました。

時々訪れていた湖で、そんなに大きく感じられない上に、周りの風景が大変美しいので、楽しみですらありました。

秋だというのにかんかん照りなのに帽子も日焼け止めも無く、軽装だったから持っていたのは500mlペットボトルの水だけでしたが、こんな湖、1〜2時間で回れるだろうと信じていたので、そのまま気軽に散策を始めてしまったのです。


しかし実際には、その湖はいくつもの小さな湖〜と言ってもボートが無ければ渡れないくらいの周囲の〜小型湖がメインの湖の周りに数え切れない程枝分かれして存在しており、実際にその湖を一周するには、膨大な距離を歩く羽目になってしまったのです。


場所はコロラドですから大自然です。
湖の周りは鷲鷹の保護エリアだったりして、脇道から道路に抜けるとかそういう逃げ道は全くありませんでした。

いや、何度かそういうチャンスもあったのですが、一緒にいた楽観的な知人が、何度かそのチャンスが訪れる度にその方法を選ばなかった為、二人共もう限界、を感じる頃には、もはやどこにも逃げ道の無い修羅場に、突入してしまっていました。


戻るにも距離があり過ぎ、ただ進むしか無い無限地獄です。


幸いだったのは、あくまでもメインの湖が歴然と見える中での散策だった為、道に迷う怖れは無かった事。
単に、目に見えているあそこの岸辺、という物に到達する為に、信じられない様な辛惨を経験しなければならなかったという事です。

最悪夜になってもしまっても、まあその場で野宿すれば、明るくなってからまた歩き始めればいいわけで、そういった意味での恐怖はありませんでした。


それでも。


あの森を抜ければようやく目指す岸辺だ、と言った際に、希望と共にその森を抜けた途端、今までで最も大きいのではないかと思われる枝別れ湖が現れ、その時にはさすがに、恐怖と絶望感に襲われたのは事実です。
心の強い同行者も、さすがにその時には、奇妙な動物の様な雄叫びを上げていました。
気の触れる一歩手前、という感じでしょうか。


ドライブウェイに抜けるチャンスがまだ稀に数回現れた頃に、私は何度か、今ここを抜けた方がいいんじゃないか、と提案をしましたが、同行者はそれに耳を貸しませんでした。
ですので私は、もう自分があれこれ考えるのはやめて、この人のやりたいようにさせよう、その方が心が楽だ、と諦め切りました。

思考が最も人間のスタミナを奪うという事を私は体験から知っていたので、考えるのを完全に、やめさせていただいたわけです。
繰り返される小型湖の出現や、歩きにくい湿地や沼地や、一体どこを歩けばいいのかわからないくらい丈高の、しかも刺だらけの草に覆われた場所、しかもガラガラヘビの生息地、などに出くわす度に、絶望や失望や心の迷いや苛立や恐怖や怒りを感じるのは全て相方にまかせ、私は一切、考える事を放棄しました。

するとスタミナは温存され、どんなに歩いても一向に疲れなくなりました。


そういった中で自分を観察している時、面白い事に気付いたのです。


私が疲労を感じるのは、自分の心が、「こっちじゃない。」と感じる方向に歩かねばならない時だけだったのです。


人と一緒だったし、体力を温存する為に私はリードする事を放棄しましたから、文句も言わずに相方の選ぶ道をついて行っていたわけですが、自分の心が、「こっち」と強く感じる時に相方が逆の道を選び、そちらに自分が行かねばならないその瞬間の分かれ道に出くわす度に、私は強い疲労を感じ、それがしばらく、まあ、3分程度でしたが、続くのです。


もしも私が自分の感覚に執着し続ければ、更に疲労は続いたでしょうが、抵抗を感じる度にそれを意識的に忘れる事で、疲労感は短時間で治まりました。


これは普段の生活でも感じられていた感覚ですが、普段は単なるそわそわするような落ち着かなさという形で出るだけだったので、こんなにあからさまに、堪え難い疲労、として体現されるのは、初めての事でした。


5月に友達と中欧ヨーロッパに行った時に、ロシアの空港で友人がカフェを見つけてそこで朝ご飯をゲットしようとした時にも、私のこの落ち着かなさが発動し、列に並ぶ友人に許しを貰って、一人で乗り換えゲート近くまで歩き、そのゲート内にあったカフェでひとりで食事をしました。
友人の見つけたカフェには、私が食べたかった物が無く、ゲートのカフェにはそれがありましたから、やはりこの感覚は、役に立つのです。


湖を歩いていた時にも、もしかしたら私がリードをとり、この感覚に従って歩いていれば、あんなに凄まじい事にはならなかったかも知れません。
でも私は、冒険の顛末を見てみたかったので、敢えてその提案もしませんでした。


結果、朝10時に歩き始めた私たちは、なんとか夕方5時には、全身泥だらけだったから湖に服ごと入って洗ったりしなければならなかったものの、怪我も無く脱出、5時を過ぎると駐車場が閉まっちゃって、車も出せないしどうすればいいの、という地獄にまでは発展せずに冒険は終わりました。


非常にチャンレンジな体験でしたが、やって良かったとも感じています。
まあ、やっちゃってから後悔しても仕方無いので、良き面を見るしかないんですけれど。



今回コロラドでは後にもう一度同じ様な事があったんですが、そこでもやはり例の疲労を感じたので、その時には相方に言ってみました。

するとやはり、私がこっち、という道に行くのが、正しかったのです。
そうではない道を選んでから、その事が後でわかったんだけどね。


冒険好きな友人がいると大変ですが、自分の限界点の目安では選ばない真新しい体験が出来るので、まあいいと思うのでした。


でももう二度と、湖を歩いて一周してみようとは思わないことでしょう。

2016年8月23日火曜日

深読み感想ーヒトラー最後の20000年

ケラさんの舞台"ヒトラー最後の20000年〜ほとんど、何もない"を、幸運な事にもう一度観る事が出来ました。千秋楽。

で、作った人が"ほとんど何もない"って言ってんだから、何もないでいいじゃんとも思うんだけど、実は色んな物があるように観えてしまった部分もあるので今日はそれを書こうと思います。


このお芝居は、主にヒトラーという、歴史的にマクロなモンスターに焦点が当たっているんだけれど、その同じ時代に生きたふたつの家族の事も、描いているんです。

ひとつはアンネ・フランクの一家。
そしてもうひとつは、歴史に名前など残らないであろう一介の民間人〜亡くなった娘の夫とひっそり二人暮らしをしている、「おとうさん」の家族ーつまり、娘婿(アフリカ系青年)とその義父(日本人57歳)、です。


アンネ・フランクの家族のエピソードを通しても色んな物を感じちゃったのですが、より強烈に心を捉えたのは、「おとうさん」の方でした。

この「おとうさん」、始めは普通に良い人物、という佇まいを持って出て来ます。新聞で報じられるナチスの、ユダヤ人への残虐な迫害ぶりに胸を痛めたりして。
だけど徐々にことあるごとに、彼の内にある無自覚な、というか、彼にとってはもうなんていうか当たり前過ぎて疑問にすら思えないのであろう、定着した無頓着な、無邪気な人種差別意識が、あからさまに言動に、随所に現れるのです。

これは、普段は良識的な発言をしている政治家が、スピーチ中に人をギョッとさせるような非人道的な(本音)発言をしてしまって、後で叩かれるみたいな出来事として、日常でもよく目にする光景ですが、この「おとうさん」は政治家でもなんでも無い、パブリックな人物では無いので、その無頓着で無邪気な残酷さは、日常を共にしている家族の現実という、非常にミクロな領域で体験され続けます。


大舞台で900万人ものユダヤ人を殺害したヒトラーというマクロ・モンスター。
その惨状に胸を痛める「おとうさん」の内にある、本人どころか周りの誰からも疑問視されない、日常的な残酷さ(&実はもっとホラーな本音も潜んでいるのですが。)というミクロ・モンスター。


殺した数が違うだけで、他にはまったくもってなんの違いも無い、ふたりのモンスターなわけです。
この「おとうさん」が日本人なのって、日本軍がナチス側だったからかなとか思ったけれどまあそれはどうでもいいんです。とにかくあの「おとうさん」の、随所に現れる他者への魂の無い残酷さが、背筋を凍らせる程不気味なんですよ。


こういった、日常の中で取り立てて責められる事も無く見過ごされている他者への無神経さ〜心を込めて作ってくれた料理を無視したり、誰かが大切にしている物や事や作品を尊重しなかったり、ちゃんと話を聞かなかったり、マルゴット・フランクを当たり前の様に「アンネの姉」と呼び続けたり〜そういう無神経な残酷さが随所に散りばめられているこのお芝居を観ていると、誰が、どの口下げてヒトラーを責められるのか、という気分にもなってくるのです。

わかりやすい悪い事をした人間は、標的になりやすい。
でも、その悪い事をした人と同じ心の質が、自分の中には全く無いのか。

たったひとりの人間が、900万人を殺せたわけではないのです。
900万人を超える人々の心の中に、ヒトラーの欠片があったから殺せたわけです。


もしも良識派を自負する誰かが、このヤンチャなお芝居が思いっきりやっちゃっている、ありとあらゆるタブーに対して、それはやり過ぎなんじゃない?と言ったとしたら、私はその人に問いたいなと思います。
「このお芝居の無法さは、あなたが日常的にやっちまっているかもしれない、他者への無自覚な残酷さという無法行為を超えていますか?」と。

このお芝居は勿論、決してヒトラーを弁護しているような物ではありません。
でも同時に、ヒトラーだけが特殊な悪人だったわけでは無い事を、思い出させてくれました。


大舞台に立つマクロなモンスターの背後には、盲目な心を持つミクロなモンスターが何百何千万人もいて、友達や、恋人や、子供や、孫や、教師や、作家や、親や、隣人や、上司や、部下や、有名人や、無名人や、兄弟や、気に入らない事を書いたブロガーや、気の利かない店員や、羨望の対象や、社会の弱者や負け組の人や、社会の強者や勝ち組と判断される人など、とにかくあらゆる他者に対して、無自覚に、必要以上に、残酷な言動を日常的に繰り返しているのかもしれないのです。


ヒトラーと私たちの違いは、一体どこにあるのか。

違いがあるなんて思うのは、思い上がりなんじゃないのか。

もし自分をこんな風に思えないとしたら、あなたもマクロなモンスターの素質を持つ、ミクロなモンスターの、一員かもしれませぬよ(^^)



2016年8月9日火曜日

ヒトラー最後の20000年〜ほとんど、何もない〜

ケラリーノ・サンドロヴィッチさん脚本演出で、俳優の古田新太さん...てっきり主演だと思っていたんだけど主演は入江雅人さんだそうで(^^;;、じゃ、古田さんは参謀みたいな感じですかね、で、その、古ケラ・シリーズ第三弾"ヒトラー最後の20000年〜ほとんど、何もない〜"を観て来ました。

文字通り、ほとんどなにもありませんでした!!!!! 爆笑!!!!!

もう、本当に、気持ちの良いくらい、何もありませんでした!!!!!
何もないって、素晴らしいっすよ奥さん!!!!


テーマはヒトラー。

上演中のお芝居について書く時、やっぱネタバレしちゃダメだと思うから、お芝居からの引用はなるべく避けたいんですけれどね。

でもね私、しょっぱなに天国のヒトラーが、天国のユダヤ人たちにせっつかれて謝罪のお手紙を読むシーンでね、(すいませんこんなに書いちゃって😓)休職中ではあるけれども仮にも漫画家の私はね、本当に、本当に、こーーーーこーーーーろーーーーーかーーーーらーーーーーー、うらやましいーーーーーーーって思ったんですよ!!!
これ、描きてえーーーーーーーーーーーーーーーーーっってっっっっ!!!!!

こんなにおいしいネタ、無いっすよダンナ!!!!って思って、心が震えたね。
そしてやっぱりケラさんヒトラーが読み上げた手紙は、実に心震える、全然心のこもってない内容でね、もう、このしょっぱなのシーンから、私や、私の周りに座っていたお客さん達が、ほぼ、悲鳴みたいな絶叫で笑っていましたから。

こういう類いの笑いを思い切り楽しめるなんて、なんて贅沢な事でしょう!!
本当の贅沢って、こういう事なんじゃないでしょうか!!


三年くらい前でしたか、友達のパーカッショニスト リッチー・ガルシアが、80年代に一世を風靡したオサレ系アダルト・コンテンポラリーのシンガー クリストファー・クロスのバッキングでアメリカから来日した時に、日本に来てすぐビデオ・カメラがぶっ壊れちゃったから買いに行きたいと言って来て、秋葉原を案内した事があったんですよ。

その時に右翼さんの街宣車が街角に停まっていて、でっかい声で何かを一生懸命がなっておられたんですね。
こういう光景は都市ではしょっちゅう目にするせいで私は無意識的に意識からはずすって言うんですか、あたかも何も無いかの様に通り過ぎようとしたらリッチーがですね、あれは何かと私に尋ねたわけです。私は、ボリュームが大き過ぎて何を話しているのかよくわからなかったんですが、まあ、ある種政治的な強い主張を持っている人たちで、よくこんな風に街角でがなっているんだよ、と、やや揶揄する様な調子で答えたんです。

そしたらリッチーが、はあーーーーーっと溜め息を吐いて、そんな事を街角で堂々と出来るなんて、日本は素晴らしい国だね。。。。。と、深ーーーーいまなざしで街宣車を見ながら言ったのですよ。

リッチーは、オサレアダルトコンテンポラリーのコンサート・ツアーの前に、中東の女性シンガーのバンドでアラブ諸国を回っていたとかで、その時の経験と日本での経験が、すごいコントラストで心に刺さったらしいのです。

私はそういう目で日本という国を見た事が無かった、むしろ様々に窮屈さを感じていたため、リッチーの言葉がやけに印象深く胸に響いて、このエピソードをブログやTwitterに書くのも、何度目かになるかと思います。

その後日本にも奇妙な流れがあからさまになって来て、今の私はあの時リッチーが言った言葉をそのまんま日本に感じる事は出来なくなってはいるのですが。


しかし、本日。

ケラさんのこのお芝居を観てですね。

これが果たして、どの程度の国で上演出来るのか、とつくづく考えてしまってですね。

そういう意味では日本にはまだお江戸的なバカバカしい自由さがあって。
こういうお芝居で笑えるおおらかな気質っていうのがちゃんと生きていて。
そしてしかし、もしかしたらアウトなのかもしれない境界線超えにちゃんと挑戦してくれる作家さんが生きていて。
相当質の高い言葉遊びで、2時間強も楽しませてくれる。


贅沢だな、とつくづく感じた、どの部分がこのお芝居の贅沢さなんだろうと、明確に言葉に出来ないまま帰路の電車に乗ったのですけれど。

今、それがやっぱり、このお芝居のテーマにあると、感じるんです。

ヒトラーの事は、様々な人が様々な形で、作品にしています。
そこには重苦しい、深刻に受け止めるべき背景があるから、多くの作家さんが、もちろん本当に優れた映画やお芝居やドラマやパロディーだったりするけれども、そこにはどうしてもどこかにマナーが、問題提示が、メッセージが、行儀の良さが、真摯さが、あるわけなんですよね、そしてそれは素晴らしい事ですよ、確かにね。

だけれども。

けれども私は。

そういうマナーがどっこにも見当たらない、このケラさんのヒトラーに、心からの贅沢さを感じました。


だってさ。
もう、良識のある人たちは、わかってるんだよ。
あのチョビ髭が、何をやらかしたかを。

ドイツは何年もかけて、自国の罪を償おうと地球環境改善や色んな事で貢献しようと頑張っているし。

繰り返しちゃいけない事も、愚かさも、痛ましさも、実体験をしたわけじゃないけれども後世の人たちがそれなりに一生懸命、向き合おうとしている、そういう人たちがちゃんと沢山いると、私は思っています。

そういう前提が、私の中にはいつでもあるから、なんでかって言うと、私の仲良くしている人たちはみんなそんな風に、ちゃんと考えている人たちだからですが、そういう前提の元に、みながきちんと歴史の重みに向き合い、それに対して深いシンパシーを持っている、という前提を元になら、深刻に捉えるべき出来事を、全然深刻に捉えなくてもいい、そういう事ってあると思うんです。

歯に衣着せずに思い切りNGワードを言える世界が、成熟した良識ある社会にこそあると、私は思うのです。

世の中にはまだまだ、偏見や虐殺による心の生傷が癒えていない繊細な人たちが沢山いると思う。
けれども一方にはそうした不条理に強い心で立ち向かえる人たちがいて、酷い事を繰り返さないという意図で真っすぐに出来事を見据えて立ち向かえる強さを持つ人たちがいて、その強さを持っているからこそ、偏見や虐殺をテーマに笑える、という事も、あると思うんです。

それは決して、下卑た、偏見や虐殺を楽しむような笑いではない。
むしろその愚かさに、愚かさ以上の何の価値も見い出さない、心の高潔さから来る笑いだと、私は思います。


このお芝居が高潔なんですとかそういう事を言ってるんじゃないんですけれど、私が今夜このお芝居を観て、えも言われぬ贅沢さを感じたのは、あの出来事を、ヒトラーを、完全に踏みにじっちゃってさ、もう深刻でもなんでもなくしちゃってさ、アンネ・フランクを聖女から不思議ちゃんにしちゃってさ、それをみんなでゲラゲラ笑って観ていられる事に、この世の平安と成熟を見たからなんだと思います。

少なくとも今夜、あのお芝居を上演した日本には、それがあったんですよ、これから変って行くのかもしれないけれど。

そういう意味で私は今夜、あのまったくなんにも無いヒトラーのお芝居を観る事によって、お芝居の上演中ずうっと、人の世の最高の平和と成熟の頂点に座ってるみたいな気分になれて、だからとっても贅沢な気持ちになれたんだと思います。


ケラさん、今回も最高でした。
本当に、どうもありがとうございます。



そしてうふふ。余談ですが会場にて、私が描かせていただいたカバーを持つ古ケラ・シリーズ第2弾"奥様お尻をどうぞ"のDVDを売っている所にまた出会えました♥️
これは本当に光栄な勲章でございます。

私は実は第1弾の存在を知らずに、第2弾の劇中イラストなどをさせていただいたのですが、もしかするとこの三部作には、共通のスタイルがあるのかもしれません。

今回のお芝居にもイラストによる語りの場面があり、そしてわたくし、ちょっと申し訳無いと思っちゃったのが、グラフ画ですね。

前回の作品での夢子ちゃんも不思議ちゃんだったもので、夢子ちゃんが描いたはずの円グラフを私はわざと、子供が描いたみたいなへったくそな感じに仕上げたのですが、今回のグラフはなんかすっげーちゃんとしていて、も、もしやグラフ場面は皆さん、きちんと仕上げる物だったのではないかと、かなり冷や汗を感じてしまいました。。。。

そんな感じだったらごめんなさいすいません。
今度はちゃんとやりますから。
あ、今度は無いか泣笑。

いやー、でもほんと、申し訳なさでいっぱいです。とふぉふぉ。。

2016年7月16日土曜日

心に闇の無い女の子の出てくるドラマ
















"心の闇"と一言に言っても、言われる状況によって様々なコンテンツを持つと思う。

犯罪を伝えるニュース番組などで言われれば、それは殺人を犯してしまう程に鬱屈したストレスや痛みや怒りなどを示す深刻な心の病理だし、乙女な人が言えば退廃やアンニュイに繋がるような、ナルシシズムや文学な響きを持つものかもしれない。

後者は多分に"心の闇"の解釈に薔薇の花びらを散りばめて深刻さを還元している印象があるので、現実離れした美化である事は明らかなんだけど、いずれにしても私は、前者であれ後者であれ、誰かが"心の闇"と何かを表現する時そこに、その闇自体と真っ向から対峙し切り込む勇敢さの欠如を、いつも感じるのです。

"心の闇"という十把一絡げ的で抽象的な表現は、具体的にそこに切り込んで真っ当に解釈する事への怖れをうまく誤摩化してくれる役割を持っているなと感じるのです。
言わば、臭い物に蓋、を、ちょっとばかり文学的な、深みのありそうな言葉を選んで使ってみました、みたいな感じです。

これは、欧米ほど心理学や分析学に日常的な親和性を持たない日本という国の、独特なやり方だなと私は思います。
これは、多くの日本人がフラジルな幼い繊細さを抱えて生きている証だと私は思います。そのことの善し悪しを語る気はありませんが、ただそう感じるわけです。


で、そういう幼い繊細さと真っ向から対決するドラマがアメリカにあって、それが、"GIRLS"だと私は思うのです。

"GIRLS"は、ニューヨークに生きる若い四人の女の子の日常や生き様を追っているドラマです。でも出て来る4人の女の子は、SEX AND THE CITYみたいに洗練されていません。
社会的に全然成功していないし、いつもお金に困っていて、狭くてあんまりかっこ良く無いアパートにルームシェアして住んでいて、性格も容姿も生々しく未完成で、迷っていて傷ついていて間違っていてかなり哀れな状態で、普通に生きている子達です。


最初あまりの生々しさに観るのに抵抗を感じたのだけど、やがてすぐに虜に。
何故なら、主人公のハンナと、その恋人アダムを、とても大好きになってしまったからです。



ハンナは作家を志す22歳の女の子。
肥満気味でいつもノーメイク、いざという時にはちゃんと可愛くオシャレに、時に実にハイセンスに装える独自のセンスや美的感覚があるんだけど、そこに気負いが無いせいか、普段はあまり発揮されません。安いスーパーにいるおばちゃんみたいな格好でいつも暮らしています。

始め私は彼女の事がよくわかりませんでした。
でもドラマを観ているうちに、友達を知って行くみたいに、ハンナの事がわかるようになって来て、ある日決定的に私を魅了する行動を、彼女はとったのです。


その頃の彼女は、作家を志しているとは言え誇大な自信があるだけで具体的な行動は何も起さず、出版社で無給のインターンとして働きながら、出版社にいるんだからいつか作家として扱ってもらえるはず、という類いの楽観的な勘違いをしている状態でした
夢見る夢子さん状態です。
だから当然稼ぎも無く、大学を卒業後しばらくは親からの仕送りに頼って生きていたんだけど、大学教授である両親が彼女への教育的目的として、いきなりその仕送りを全額ストップしてしまうんですね。

あわてたハンナはインターンとして働いていた出版社で、そろそろ給料を貰えないか、自分は重要な人材なのだから、と上司に訴えるのですが、上司は、無給だから重要なのであり、金を払うならもっと才能のある人を雇うよ、と言ってにべもなく彼女を首にしてしまいます。

これは良くある価値観ですね。
素晴らしい才能ですね、という言葉の裏に、その才能にお金を払えるか払えないかがある。
これは非常に正直で大事なポイントです。
払われない場合、それはそこまでの価値しか見いだされていないという事です。
お金をくれるのかくれないのか。こんなに正直に人の心を現す定規が他にあるでしょうか。現金をくれないのは、金を払う価値無しと思われている事必至です。
雇う側にそこまでの自覚は無いかもしれませんが、実は行動に、全てが現れるのです💣。

で、それを充分にわかった上で、お金をもらわなくても、あるいはすっごく安くても、その仕事をやりたいかどうかを、自分の価値観で決めるのです。
それが大人という物です。
もう一度言いますが、お金を払われない場合、その人はあなたの才能を、お金を払うほどではない程度に、買っているのです。
どんなに褒められても錯覚してはいけません。
ここ大事よ笑。

私はつい最近ある企業からスカウトを受けたのですが、話を聞けば私には、私が自分の時間を費やして得た収入の何パーセントしか来ず、会社自体からは私に何も支払われない、という事でした。
この企業は社会貢献としてとても優れた条件を揃えており、システムも一見フェアでよく出来ているように見えますが、会社側は全く懐を痛めずに人材だけ集めるという発想は、経営者側としてはよく出来たシステムなのかもしれませんが、どこかその人材への敬意と良心が不足しているように感じられます。
経営側やサービスを受ける側にとって素晴らしくても、働く者への敬意と良心が不足している場合、結局はプロジェクト全体に敬意と良心が不足しているという事です。他者への敬意と良心が不足しているプロジェクトは、いずれ先細りになると私は信じているんです。
だから、長い面接の末に数日じっくり考えて、お断りしました。

賃金と労力のバランスという物は、そこに雇う側の良心が明確に現れるので、注意深く観察する価値のあるものだと思います。
これはがめついというのとは違います。
小さな割合でも、こちらは損せずに外から搾取する、という心根が雇う側にあると、雇われている側は意外な程疲弊するし、無意識下のストレスで心身がおかしくなったりするもんですよ。

ですので安い現場で働く事を決めた場合は、自分で選んだ、という意識が大切なのです。
そしてすぐに見切りをつける事の出来る強さも。


で、ハンナに戻りますとですね。

そんなわけで彼女は、しばらくあんまりお金の無い日々を送りました。
そんなある日、飛行機に乗って故郷に戻らねばならない出来事が起こるのですが、長期旅行の経験のあんまり無い彼女はスーツケースを持っていなくて、買うお金も無いので、それでなななんと、家庭用4L入りゴミ袋に、衣類なんかを詰めてガムテープで封印し、それを抱えてJFK空港に向かったのですよ!!!

着いた先の空港のカルーセルでそのゴミ袋を引き取り、そのままバスに乗って目的地へ。
いやーーーーー、ホレボレしました!!
これでいいんだな、と思って。
人生、こんなんでいいんだなって!!!!!


ハンナは、実に無防備で、あっけらかんとした女の子です。
ボーイフレンドのアダムが、ちょっと危険で変態っぽいセックスを要求して来ても、すぐに偏見による嫌悪感からリアクションを取らず、ふーん、と考えて場合によってはカジュアルに受け入れたりします。

私は最初、その部分がよくわからなかったのですが、ゴミ袋をスーツケース替わりにしたあたりから、ハンナの事が見えて来ました。

ハンナは、自分や世界を、心底信頼しているのです。

私が遠出をする場合、しっかりしたスーツケースや様々な場合に応じた衣類や持ち物等つまりそういう、ある意味充分で完璧で周到な準備をしようと努める心の裏には、防衛心があります。
見知らぬ旅先を何パーセントか信頼していない不安が原動力になって、余分な物まで持参するという事が割とあるんです。

それは当たり前だし持ってて悪く無い習慣だというのもわかるのですが、私はハンナみたいな人に、すごくホレボレするんですね。

ハンナがアダムみたいな、一見変人で危なそうな彼氏に、非常に無防備に自分をさらけ出せるのも、ゴミ袋に荷物詰めて旅行に行けるのも、無給だから雇ってくれてたあからさまな上司に給料を払えと堂々と言えるのも、全て彼女が、自分の対峙している世界が安全な場であると、信頼しているから出来る事なんですね。

これは鈍感さとは違います。
彼女は本当に、健全なのです。

GIRLSでは、出て来る様々な人たちの会話の中に、この健全さがすごく強く流れています。

"心の闇"を、絵の中の餅みたいに扱わず、掴んで観察して分析して味わい尽くす健全さが、そこにはあるんです。

特に、一見危なそうなキャラとして独特な存在感を見せるハンナの恋人アダム。
この人は、非常に素敵です。

言動にアウトローで反社会的な印象があるので、一見破壊的で危険なタイプに見えるのですが、徐々に彼が、社会のルールではなく、彼自身の良心に準じて生きているのだと言う事がわかって来ます。
その良心は、社会のルールなんて遥かに超えた良識と愛とシンパシーに満ちていて、そのピュアさにまたホレボレするんですよ。


ハンナが、自分を認めてくれた編集者と発展的な仕事を始めた矢先に、その編集者が河で水死体で見つかるというエピがあるんですが、自分のキャリアの先行きを正直に不安がるハンナに、思いっきり引いて、たまげて、ダメージ受けて驚愕してたのがアダムだったってのも、すっごく面白かったです。

それでもアダムは、そんなハンナのヒトデナシぶりに思いっきり引きつつも、ハンナの事情を思いやりある想像力で理解しようと勤め、優しく寄り添うんですね。

あー、ハンナはほんと、あんな彼氏に愛されて幸せ者だよ。

色んなドラマや映画でカップルを観ていて、私が心底羨ましいと思った、テレビ版"大草原の小さな家"のチャールズ以来の逸材アダム。

まさか半世紀後にまたこんな思いになれるなんて、非常に意外です。笑。

人の心の闇を手づかみで取り出してあっけらかんと解きほぐし、太陽の下で日干ししてしまうようなドラマGIRLSを観ていると、"心の闇"への、腰の引けた臆病さや腫れ物を扱うみたいな慎重さや深刻さ、しいては畏怖、などという態度が、実に古くさくバカバカしく思えます。

こんな人たちとのこんな日常が自分にもあったら、本当に生きやすいなと感じるんです。


アダム

2016年7月6日水曜日

2016年上半期を終えて

2016年も上半期が終了して、もう7月だ。

今年は、新年早々大切な友達の訃報が、同時期に続けて2件もあって、前半はそれで持って行かれた感じだ。

私にはアメリカに、二重の色濃い人間関係がある。

ひとつは、古くから続くポーの一族みたいなやつで)爆、もうひとつは、学校関連で培ったクラスメイトを中心とした友達の輪である。

両方共中心地がコロラドなので、この二重螺旋が交わらないのが不思議な感じなのだが、そこにはくっきりとした境界線があり、何故か絶対に交わらないのである。
奇妙なもんだね。

今年早々に亡くなったのは、二人共いにしえからあるポーの一族の方の友人で、それはやはり私とはポーなので、非常に悲しく無念であった。

ひとりひとりとの関係も深く大切であるが、集い、という形で与えられる滋養がある。
全員が同じ空間を分かち合う事で生まれる、暖かい空気感。
ひとりも欠けていない、その部屋の中にいる、という事だけで生まれる、なんとも言えない充足された気持ち。

実のところ誰かが死んだところでーこれは決して、喪失感を紛らわす為の幻想では無いのだがー死によってむしろ近しく感じられる人の存在というものがあることを何回か経験しているから、そんなに深刻な喪失感を覚えているわけではないのだけれど、更新されない情報というもの、例えばその人との会話で交わされる新しいジョークだとか、そんな物が無い事で、いやおうもなく不在を感じる事が、あるものだなあと思う。


今年亡くなった友人のひとりは、何度か私のエッセイ漫画にも登場していただいた、アリゾナのお爺さん、である。

86歳でまだピンピンしていたのだけれど、突然倒れ、回復と危機を繰り返した後、遂に天国に行ってしまった。


爺さんとは、ポーのパーティーで知り合った。
本当に、本当にもう大昔の事である。

ハンサムで背が高く、非常に仕立ての良い服を着ていて、一目でセレブリティだとわかる感じだった。(今思えばあの頃爺さんはまだ、60代だったのだな。)

友達とガヤガヤ喋っている時に視線を感じたから振り返ったら、暖炉の前に座ってくつろいでいた爺さんがこちらを見ていたのだった。

爺さんは、微笑んだ眼差しで私を見ながら、おいでおいでをした。

初対面の私に対して自分から寄って来ず、私を招いた時点で、爺さんの印象は決して良くはなかった。つうかはっきり言って悪かった。

でもその時私と喋っていた、私がポーの中でも最も大切に思っている夫妻が爺さんに手を振ったから、そ、そうか、その夫妻と友達なのか、じゃ、じゃあ、まあ、行ってやるか、と思って私は爺さんの前まで行って、促されるままに隣のソファに座ったのだ。

しかし偶然にも私はその時 現役の漫画家で、爺さんは漫画家デビューしたい出版界の大物だった。出版界の大物ならさっさとデビューすればいいのだが、厳しいまなざしで人の著作物を扱っている手前、自分の才能不満足を甘やかすわけに行かないと言うジレンマに、爺さんは悩んでいたのである。

爺さんは私が現役漫画家だと知って手招きしたわけではないのだが、私が漫画家だと知ると目がキラキラしちゃって、その場で私にイラストを描かせ、自分が持っているアイディアを得々と語り始めた。

そして私ははっきり言って憂鬱だった。
だってそのアイディアは、決して「クール!」って思えるような物じゃなかったから。
自分が出版界の大物で、自分でも本を何冊も出していて、その内のひとつがディスカバリー・チャンネルで映像化される等の実績もあるのに、漫画家のひとりも動かせないその事情は、そのアイディアを見れば明らかってものだったのである。

色々あって私たちは仲良くなったけれど、その漫画のアイディアはいつの間にか消えた。
私にはそれを形に出来る創造力は無かった。
爺さんが亡くなった時、その事が、とても私を悲しませた。
なんとか形にして、なんとか商品にしようとしてふたりでコケたりした方が、何もしないよりずっと良かったし楽しかった。

だけど私はほんの昨年始めまで、実際のところ蚕の中にいる幼虫期みたいな時代にいて、創作するモードにはいなかったんだよ。これは本当にそうなのだ。自分にはそれがわかっているから、だから後悔は無い。
それ以前に何かをやったとしても、たいした物は作れなかったと思う。

もちろん人生という物は、特に人間を取り巻く人生の形は、そういった個別の生物学的な成長の時期を無視した形で全て営まれる。営まないとお金が入って来なくてご飯が食べられなくなったりするから、無理矢理にでも何か生み出して生きてゆくのだ。そんな中で漫画の〆切に追われる私に、爺さんの漫画を具現化する筋力は無かった。

幸いな事に、爺さんは偉大な経歴の持ち主だから、私が爺さん原作の漫画を描かなかった事は、爺さんにとってそんなに大きな悲しみではない。

ケネディ大統領のスピーチ・ライターだった爺さんは、ケネディの死後もホワイトハウスで研鑽を重ね、色んな大物のスピーチに携わったり、PRの仕事で無名の人を歴史に残る大物に仕立て上げたり、その内の何人かは黒歴史だと悪態をついてみたり、小説を書いてドラマ化したり、シンガーソングライターになってちょっと恥をかいてみたりと、まさに輝かしくて楽しい人生を送った人なのだ。
だから爺さんにとって、私が漫画を描かなかったことくらいなんてことは無い。


だけどね。
今年の私には、筋力がある。
爺さんや、爺さんの友達や、あとその他、私と色々創作話をして沢山色んな約束をした、色んなある事を、具現化する筋力が。

15年間ばかり入っていたコクーンから出て、ようやく羽根が乾いて来た今の私なら、爺さんの元ネタが面白くなくたってなんだって、それを面白く仕立てる底力がある。

そして今年は、豊富に時間もあるのだ。


私はこの夏から、そういう約束を全て具現化する事に時間を使おうと思う。

もう悲しい思いをしないように、手遅れにならないように、全てを具現化するのだ。

爺さん、ビル、マルコム、○○さん、○○さん、そして○○さん、遂に私は、具現化するよ。

長い間待っていてくれて、ありがとう!!

今の私なら、ろくでもなくない物を、仕上げられるよ。
今の私じゃない時に仕上げても、ろくでもなかったと思うから、待たせたのは許してね。

じゃあそういう事で。

爺さんへの追悼ブログは、いつか改めて、写真満載で書こう。

今日は私の、決意表明でした。

2016年4月22日金曜日

立ち止まらない男

ボブ・ディランは本当に立ち止まらない男だよ。

初来日から何回か、年数を開けてだけど何回もコンサートに行っているけれど、毎回毎回新鮮で、過去という物を全く引きずってない。

そして今回はなんというか致命的に、と言うとネガティブな印象になっちゃうかもしれないけれど、とにかく今までのレベルを遥かに超えた別人ぶりだったんだよね。

まあ私の主観だけどね。


ボブ・ディランは私の親くらいの年なので、もちろん私はデビュー当時から彼を知っているわけではない。私が彼に夢中になったのは、"Hard Rain"というアルバムを出した頃で、その頃の彼は、もうフォークソングのディランて感じじゃなかった。
その頃の彼はサイケで先鋭的なアーティストで、"レナルドとクララ"なんていう実験的な映画を創ったりしていた。

ディランは常に変り続ける男なので、その時代のその表現をもすぐに脱皮した。だから私ももう彼を追わなくなった。というか、CDを買わなくなった。

でも日本に来るとちゃんと気にしていたし、時々コンサートにも行って、毎回のそのあまりの素晴らしさに、ボブ・ディランていうのは唯一無二の怪物で、唄ってる歌が好きなタイプだとか嫌いなタイプだとかそういうんじゃなくて、火山みたいにそこにいて、火を噴いてると誰もが圧倒されて眺めてしまうような、そんな存在なんだなといつも感嘆していた。

そしてどんなに彼が変っても、私の中にはいつも同じ、普遍的な彼の印象があった。

それは、抽象的だ、ということだ。

私がディランを好きになった頃、私はシュールレアリズムにハマっていた。
前にブログに書いた幼なじみのアーティスト友達のルナがダリを中二病っぽいと言うんだけど、まさに中学生になった頃に私はダリのファンになった)笑。

それもあって記憶の中のボブ・ディランとシュールレアリズムが結びついてしまう部分もあるのだが、ボブ・ディランはシュールというよりいつも私にとっては抽象絵画だったのだ。

まるでただの粒子の光る粒の様に、そこにいるディラン。

彼のコンサートに行くと、声がまるで光のシャワーの様に感じられて、とにかくあんまりヒトの温度を感じないのである。唄う表現が変っても、ディランはいつも抽象的にそこにいて、Hard Rainの頃は派手なサイケな色彩を放つ粒子だったのが、年を得る毎にどんどん白とか銀とか透明になって行って、とにかくそんな感じがすっごく好きだった。

目の前にいても会話が通じない感じ。

言葉が通じないから点描で会話するみたいな(なんだそりゃ)。

ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、私はボブ・ディランに会った事があるんです。
直接会ったその時も、やっぱり抽象的な、点描な感じだった。

白い肌に澄んだ大きな水色の目が印象的で、ものすごく優しく微笑んで暖かく接してくれるのだけれど、情的暑苦しさの全く無い、存在そのものが涼やかな、ミロの絵みたいな人だった。


しかし。

今夜観て来た、文化村オーチャード・ホールでのディランは〜。。。。

私は初めて、具象絵画のボブ・ディランを観た、と感じたのです。

今夜のようなボブ・ディランとなら、なんだか居酒屋で酒とか飲みながら話し込めそうです。

なんというか、何年もずうっと霞を食べて生きてきた人が、急に人界の物を食べに降りて来た様な。


それは彼が"枯れ葉"やフランク・シナトラのラブソングを、素晴らしい表現力で歌い上げたせいかもしれないし、何度と無くステージの上でおどけた仕草をしたり、アンプの影でストレッチしたり、日本語で挨拶したりしたせいかもしれません。

とにかく今夜の彼は、もう完全に、私の知ってるボブ・ディランじゃありませんでした。

だけどやっぱり、素晴らしかった。

どういうわけか、私が彼のファンになった当時から、ボブ・ディランは歌が下手だ、みたいな評価がありました。
でも私はそれに、一度も同意した事はありません。

ディランの声は素晴らしく安定した深さと美しさと表現力があると、ずっと思っていた。

そして今夜それが、本当に際立って証明された感じです。

今夜のディランはギターを持たず、唄う事に徹していました。

時々素敵なピアノ演奏で弾き語りを聴かせてくれたけれど、殆どの時間は立って、そしてただ唄っていました。

その声はハスキーだけど澄み切っていて、伸びやかで力強くて、深くて表現力の豊かさに満ち満ちていて、"枯れ葉"なんて、歌詞のひとつひとつが、心に深ーーーーーーーく突き刺さって来て、まるで映画を観ているようでした。

今夜のボブ・ディランは吟遊詩人ではなく、歌手でした。

抽象絵画ではなく、瑞々しい風景画でした。

今までのボブ・ディランは徹底的に消えてしまったけれど、私には第二期ボブ・ディラン・ファン時代が始まったような気がする。

彼の歌い上げる、抽象的でも反抗的でもシュールレアリズムでもダダイズムでもない、普通のラブ・ソングやバラードをもっと聴きたい。

彼のあの、仙人みたいな響きの深い声で歌い上げられる普通の歌の、なんと素晴らしい事よ。

歌詞のすごさや楽曲アレンジの複雑さに気を取られ、というか、とにかく今までのディランの音楽はね、あの素晴らしい歌声に中々集中できないくらい沢山の聞き逃せない情報を抱え込んでいたんですよ。

だけどディランが"枯れ葉"を唄うとなれば、こっちは完全に歌声に酔いしれる事が出来るというわけ。

今後しばらく私はディランの作った、アメリカン・クラシック・カバー集CDを買って、あの、世界の宝の様な歌声に酔いしれるとしよう。

なんと贅沢な楽しみ!! を、今更くれてありがとう。

ああ、あと今夜もうひとつ素晴らしかったのは、ピアノの弾き語りでの、"風に吹かれて"でした。

ボブ・ディラン本人の唄う"風に吹かれて"を今更また生で聴けるなんて、カザルスの演奏する"鳥の歌"を生で聴いた時以来の感無量。

とにかく私は、またディランを追っかけるよ。
だから今夜は、終わりで始まりの夜でした。

ボブ・ディラン。
恐ろしい人。

2016年3月10日木曜日

NODA・MAP 逆鱗


少年王者舘との公演の際に舞台でご一緒させていただいた俳優の織田圭祐さんが出演されているので、初めて野田秀樹さんのお芝居を観てきました。

タイトルは"逆鱗"。

お芝居前半はポップなギャグの応酬が大変面白く、野田さんは無邪気だし俳優さん達も皆さんニッコニコしながらお芝居されているので、なんだこりゃみんな遊んでるだけなんじゃないのか面白いけど、みたいな感じでした。


魚座の逸話が出て来たり(オレが魚座)、人魚の鱗”逆鱗”が青白く光る鱗だったり(最近オレが書いたお話の鍵が青く光る鱗)と、個人的にもなんだかツボにはまるお芝居だなとか思いながら、しかも織田君の取ってくれた席が前から三番目の真ん中というかぶりつきだったから、にぎやかな衣装や舞台の仕掛けや愉快な言葉の応酬を思い切り堪能していました。


だけどお芝居後半になって、ようやくこのお話のコアが現れ始めて、私は本当に心が苦しかった。



上演中のお芝居の内容についてはあんまり詳しく書かない方がいいんだろうから、あんまり詳しくは書かないけれど。


たまに人と話していて、まあ例えば相手がバスの車掌さんだとか駅員さんだとか店員さんだとか上司だとか親だとか先生だとか生徒だとか近所のおじさんだとか、まあ相手は誰でもいいんだけど、話の道理や融通が、相手に全然通じないっていう体験て、無いですか?

例えば私は最近アメリカの、朝食ブッフェのあるホテルで、時間を間違えてブッフェの始まる30分も前にレストランに降りていってしまったのだけど、ホテルの人が私のいるのを見つけて、すぐに中に入れてくれて既に準備の出来ていたコーヒーを、さっと持って来てくれたんです。食べ物も急いで準備するからそれ飲んで待っててね、って言って。

こういう臨機応変な対応は、アメリカではよく経験するし自然な事だと思うのですが、ホテルによっては断固として、時間まで客を中に入れない、って態度の所もありますよね。

私は、そのホテルのポリシーや個性を尊重したいからそういう事があっても不愉快だとは勿論思わないのだけど、もしその態度が、ホテルなりのポリシーや理にかなった方針に乗っ取った物では無く、単に思考停止なだけだったら、それはダメじゃん、と思うのです。

例えばすごく美意識の高いホテルで、ブッフェ全体の美しいディスプレイをお客に楽しんで欲しいから、決まった時間が来るまでは客を中に入れないとか、そういう事ならいいんだけど、もしもお客を待たせるのが、「ルールだから」という以上の理由が無いのだとしたら、それは問題だと思うわけです。

だけど、こういう思考停止な感じの価値観から動かない人に対して私は、割に何も言わず、さくっとあきらめて過ごして来たというか、ああ、言ってもわからないよな、ってな感じではいはいわかりましたよ、と、自分が引く形でやり過ごして来たんです。


だけど私、”逆鱗”を見て、それじゃダメなのかもしれないと思いました。

私たちは、思考停止に陥っている人に対して、ちゃんとしつこく文句を言わなきゃならないし、もし自分が思考停止に陥っていたら、誰かに文句を言ってもらわなきゃならないと、思ったんです。


戦争中、厳しい軍隊の規則の中にあって、それでも心を失わないでいられた上官が、部下に特攻を免除した例があったと知りました。

だけどそれは、極めて特殊なケースだったんだと思う。

多くはルールの中で臨機応変さや叡智を見失い、思考停止状態で無駄な犠牲を部下に強いた上官により、失う必要の無かった命を失った人たちが、沢山いたんだと思う。

"逆鱗"の中で交わされた、本当の、理にかなった声と、それを殺し上辺だけで交わされる思考停止な言葉のやり取りが、そこに人の命がかかっているだけに、本当に口惜しかった。

いざという時に、誰もが心を失わないでいられるようになる為には、心を失っている時の自分や他人に、普段からちゃんと、きちんと文句を言って、その事をわからせてあげないとダメなんだと、そうしないといざという時に本当に、ルールや、世間一般の常識、なんかを重んじるあまり命を犠牲にするような、そんな愚かな行為を人や自分に強いる事になってしまうんだと、私は本当に感じたのです。


プロトコルの中で盲目になった、その盲目さによって実行された特攻で失われてしまった沢山の若者の命が、今日ほど重い現実として心に迫って来た事は、今まで無かった。

ひとりの命の重さ、完全に直視された死という現実、誰かの誤った言動や価値観への寛大さや諦めが引き起こす深刻な過ち、そういった物全てが日常的に見過ごされている事から、何万人もの善良な命が、犠牲になってしまう事があるのだ。


"逆鱗"のお芝居が終わり、カーテンコールで自分がステージに拍手を始めた瞬間、あれ?という奇妙な時空の揺らぎを感じた。

ステージにいるのは今演技を終えたばかりの俳優さん達なんだけど、私はそれを通り越して、まるで特攻で命を失った若者達に拍手を送っている様な錯覚に陥ったのだ。

その拍手は、お国の為に率先して死を迎えた事への拍手なのではない。

それは、ただただ過酷な運命に散ったその滅私の命への、称賛と敬意と謝罪の入り交じった、その命そのものへの、深い喝采だった。

お芝居が終わってから起こったその不思議な、でも圧倒的な感覚は、自分自身の心の昇華にとても役に立った。


思い出したのは、311の直後にケラリーノ・サンドロヴィッチさん脚本演出の舞台”奥様お尻をどうぞ"に、劇中&ポスターのイラストで関わらせていただいた時の事だ。

あの時も、原発などへの昇華出来ない想いの中で窒息しそうになっていた時に、痛烈なコメディで思いっきり原発をいじったあのお芝居に、救われたのだ。


芸術は、魂を助ける。


私は今夜、あの劇場で拍手を送る役割を与えてもらった事に、本当に感謝しています。

ありがとう、逆鱗。


余談だけど、劇場で偶然、ひさしぶりに萩尾望都先生にお会い出来ておしゃべりできたのも、大きな贈り物だったな♡

2016年3月9日水曜日

コロラドーカンサス空の旅

カンサス上空からの日の入り直前風景


知人がパイロットなので、私がアメリカにいると私を度々空に誘ってくださいます。

始めはヘリコプター、最近ではセスナ機。

初めて彼の操縦するヘリに乗ったのは一昨年くらいの夏で、夏だから、という理由でそのヘリにはドアがついていませんでした。両サイドの。

つまり座っているシートがそのまんま外気にさらされている状態で、私の脇にガードする物は何ひとつ無く、座っているシートの細いシートベルトだけが、私をヘリに繋ぐ命綱となっている状態でした。

そのようなリスキーな現状に耐え、恐怖と共に舞い上がった空は、それでもすごく素晴らしかった。
陸から離れた途端、自分を縛っていたあらゆる陸の制限が引力と共に地面に吸い取られてしまったようで、淮も言えない「自由!!!」という、未だかつて感じた事の無い様な実感が心身にみなぎり、素晴らしい気分に圧倒されながら飛行を楽しむという意外な展開に。

あの自由の感覚は、上空から見下ろす絶景を凌駕する、すごいインパクトのある経験でした。

日本には色々法律があるのかもしれませんが、アメリカでは上空の移動は自由で、上に上がってしまえばどういうルートで飛ぼうが誰からも文句を言われません。

地上に敷かれた道を完全に無視して好きな様に移動する自由は、あたかも自分を縛っていた、人間に課せられている地上の法律や常識やジャッジなんかから完全に解き放たれて野生動物に戻っちゃったかの様な、圧倒的な自由感を私にもたらたのです。あの意外な心理的効果には未だに感動を覚えます。


まあそんなわけで空を飛ぶ事自体は私は大好きなんですが、今回の空の旅は事情が違っていました。

セスナやヘリで飛行する際、風の状態がモノを言います。
パイロットは常に気象条件に目を光らせ、安全で揺れない空の散歩を実現する為、風の無い、穏やかな日を選ばねばなりません。

知人もその日、朝からずうっとインターネットや気象アプリなんかで風模様に目を光らせていたんですが、どうやらその日は飛行オッケーな穏やかな空という事で、空中散歩を実行に移す事にしたのです。


とーーーこーーーろーーーーーーがーーーーーーーーーーー。



罠ですよ罠。

運命の罠は、こうやって人生に忍び寄るんだな、の、あの罠。


私はなんとなく、感じていました。
何故なら私は割と頻繁に、人生において宝くじに当たるみたいな稀な罠にすっぽりとはまる傾向がそもそもある為、その罠の近寄る気配に、すっかり敏感になっているのです。

「なにかある」

空港に向かう車の中で、ずうっとそんな不穏な気分が私を支配し、ウキウキしているパイロットの知人の浮かれたおしゃべりにイマイチ乗れない心の重苦しさの中にいました。

「なにかある。」


フライング・カンパニーに到着し、知人が常駐しているスタッフや飛行を終えたばかりの顔見知りの人たちに、空の状態はどうだったか、等聞いて回ります。
何故なら既に気象レーダーには、風が出て来た情報が表示され始めていたから。

結果誰もが、割と揺れるよ、的な事を彼に話していました。

耳をそば立ててそれを聞く私。

やがて知人が、飛べない程では無いけれど、期待していたようなスムーズな飛行というわけにはいかないかも、所々揺れるかもしれないけれど、それでもいい?と聞いて来ました。

私はじっと心の声に耳を傾け、空港からこのまま引き返すよりは、飛んじゃった方がいんじゃね?みたいな結論に達し、いいよ、と答えたのです。

私が乗り物にすんごく弱くて、ちょっとした揺れでも恐怖のどん底に突き落とされたり気分が悪くなったりするタイプなら良かったんですが、あいにくそうではありませんでした。

私にはかつてオーストラリアからの帰路、悪天候で、乗っている飛行機が150mも一気に降下するという経験がありました。

150mもの距離を一気に降下した為、機体にはGがかかり、身体は機体の壁に押し付けられて身動きは取れないわ、食器は棚から落ちて散乱し騒音は立てるわ、悲鳴や泣き出す人の声があちこちでするわで、機内は大騒ぎでした。

しかし私の精神状態はと言うと、空の上でどんなに飛行機がヤンチャしたって、ぶつかるモノは何も無いし、みたいな不敵な安心感にすっぽりと包まれ、全く危機感を感じなかったのです。

そんな過去の経験から、多少揺れても私は大丈夫だろうと、思い込んでいたのです。


さて、小さなセスナが目の前に現れました。
スカイ・ホーク。いい名前です。

今日の相棒スカイホーク号


今こうして写真を見てみると、既に空が相当怪しいのがわかります。

穏やかな飛行をするんなら、空は出来る限り真っ青でなければなりません。
こんなに雲があるじゃないの。

乗る前にスタッフの人が給油をしてくれたり細かい点検をしてくれて、その後知人が更に、オイルに水が混入してないかネジはちゃんとはまってるか等の細かい点検をしてゆきます。

機体は大丈夫そうだな、と私は思いました。


さてそうこうしている内にいよいよ飛び立ち、始めはかなり快適な飛行が続きました。

上からの景色



四人乗りのセスナに二人で乗っているので、私は当然前の席、操縦桿が目の前にある臨場感ある特等席ですから、景色も素晴らしいしそのエキサイト感はやはり半端じゃありません。


「なにかある」


の予感は未だに心を占め続け、以前のヘリでの飛行の時の様なうっひゃーーーーーー!!!!みたいな手放しなハイ感にはなれなかったものの、まあ、思っていたよりはいい気分でした。

そんな矢先知人が、そろそろ風のある空域に入るから、15分間くらいは揺れるよ、でもその後はまたスムーズな飛行が続くから大丈夫、と言って来たのです。


15分間?
そんなもんか。
その程度なら全然オッケーオッケー。


と、その時の私は思いました。


とーーーーーーこーーーーーーーーろーーーーーーーーがーーーーーーーーーー。



次の瞬間起こった事は、私は一生忘れまい。

機体がすいっと前に進んだと思ったら、一瞬空中でbibibibibiとか言って止まり、そのまま落とし穴に落ちたみたいに、垂直にすとん!!と下降したのです。


言葉で言っちゃうと簡単だよね。
でも考えてみて。

セスナ機は、ジャンボジェットみたいに大きくないんですよ奥さん。
その体感は、自分の身体が生身で空に放り出されている様な、とてつもない臨場感です。
目の前には山の斜面。
頼りになるような、支えてくれる物の何も無い空中で、いきなり頼りなく、すとん、と機体が落下した時のあの、得体の知れぬすさまじい恐怖。


長年に渡って深刻な恐怖感とは縁遠かったこの私が、まさに飛び上がらんばかりに驚き、そして恐怖のどん底に。

そして間髪を置かずに次の揺れが機体を襲いました。

とにかく捕まる物が何も無いので、私は思わず、操縦している知人の腕にしがみついたね。

同じ機内にいる人間の腕にすがりついたところで何の救いも無いのだが、もう、そうせざるをえないような、極限の精神状態だったんですよ奥さん。

こんな揺れ、15分も続いたらたまらない。
絶対に耐えられない。
気絶する、いや、むしろ気絶したい。

そんな、パニックに近い心の嵐を感じながら、知人に、こういう揺れは経験した事あるの?と聞くと、「この程度じゃ全然安全、もっとすごいのを何度も経験したよ。」と言うではありませんか。

この情報は、非常に助かりました。
つまり、特に危険な現状には、私たちはいない、という事なのですから、あとは恐怖で荒れる心をなんとか始末すればいいだけです。


私はふと、乗馬のレッスンを思い出しました。

ビギナーの人は大抵恐怖感から、馬の上で非常に身体を硬くし、あたかもそうすれば空中に浮いてでもいられるとでも思っているかのように、重心を身体から浮かしてしまうものです。
これはエネルギーが上半身に集っている、あるいはエクトプラズマ出ちゃってるんじゃね状態と言いますか、身体は馬の上にいるのだけど、魂が抜けちゃってて、身体を馬に預けていない状態です。

でもこういう感じで乗っている限り恐怖は消えないし、馬にも正しい信号が送れず、ろくな事にならないのです。
馬の上で硬くなり、リラックスしていないんですから、ちょっとした揺れでバランスを崩すし、落馬にも繋がります。

だから私は馬にまたがった瞬間から、常に自分の内部が、馬の身体に流れてゆく様な感覚を意識して、つまり自分と馬がエネルギー的に一体化しているかのように、深ーーーーく馬の上でリラックスし、馬と自分の境界線を、失くしてしまうような乗り方をいつも心がけているのです。

この効果は常に絶大です。

馬自身も安心するらしく、落ち着いた馬などは私がそうした瞬間に何かを感じるのか、ちらっと私を振り返ったりして、あたかも、うん、わかったよ、みたいな顔をしたりもするのです。

すると馬に伝わる私からの信号も顕著な明確さを帯びて来ますから、馬自体も完全に私の指示に自分を預けてくれて、お互いにゆったりとしたおおらかな雰囲気の中で、安全で優雅な時間を楽しめるのです。


私はそれだと思いました。

どんなに心が上に飛び上がっちゃっていても、機内から抜けて空を飛べるわけじゃないんですから、ここは馬に乗っている時と同じように、自分の存在感を、機体に沈み込ませればいいんじゃね。

というわけで私は、緊張で硬ーーくなってしまっている身体を意識的に緩め、深呼吸をして機体に自分の魂を投入してゆきました。

すると徐々にリラックス感が深まり始め、やがて、「飛行機自体がこの揺れで破壊されないんなら、どんなに揺れても全然オッケーじゃん、じゃあもう、どんなに揺れたっていいや、それに例え空中で機体が崩壊したって自分では何も出来ないんだし、そしたら抵抗するだけ無駄じゃん。てへっ!」みたいななんだか大きな気分が私を支配し始めました。

そうなったらもう、どうとでもなれです。

知人の予言通りその後15分程ひどい揺れが続いたにも関わらず、私は全くオッケーであり、始めに感じた様な恐怖も消え去りました。


そんで結局、そもそも来たデンバーの空港に戻るには、更に風の強い領域を通過せねばならずそれも楽しくないから、いっそこのまま静かな空域の続くカンザスまでの空路を行っちゃって、カンザスの空港で給油して帰ってこよう、という事になりました。


後の飛行は大変楽しく、風景は絶景だし、なんと言ってもセスナに乗っている、そのものの体感の心地よさが、馬に乗っている時の様な、なんていうんでしょうね、多分車を運転される方ならわかるのかもしれないけれど、あのなんとも独特の楽しさが加わり始め、最後には降りるのも残念という程に、楽しくなっていました。


デンバーに帰った頃にはもうすっかり夜で、夜景は美しく、しかも雪まで降り始め、なんだか大変な冒険をした後の、えも言われぬ満足感に満たされて非常にいい気分、恐らくアドレナリンかなんかの脳内物質のあれなんでしょうが、結果としてとてもよかったのです。

夜景


空港に着いた頃にはもう遅くてスタッフもみんな帰っちゃってたから、知人とふたりで飛行機を駐機場に繋ぎ、知人も大きな気分になっていたのか、その後高台にある、街で一番値段の高いレストランに行って、夕ご飯を食べました。


その際知人が、「いやーーー、きみは本当によくやったね。すごいよ。」と言いました。

私は意味がわからず、どういう事なのか訊ねたところ知人は、あの揺れの中でよく平気だったね、と言うではありませんか。

いや、だって。

なんら危険な事は無い、よくある揺れだしもっと激しいのだってある、とあんたが言ったから、怖がってるのは自分の事情に過ぎないと思って自分をコントロールしたんだよ。

というような事を私が言うと、なんと知人はこう言ったのです。


「いや。あの揺れは、自分の20年以上に渡る飛行経験の中でも、初めてに匹敵するものだったよ。ぼくも初めて怖いと思った。」



空中では私を気遣って、嘘をついていた知人。

その後しばらく彼は、いやあー今日の飛行はいい体験になった、勉強になった、スキルの向上にも繋がった、あの揺れはありえない、あんな事があるなんて、と、無礼講状態になって喋り続けました。

絶句し続けるわたくし。



危険な状態にある際に専門家の言う、「この程度は大丈夫」「直ちに被害は無い」は、やっぱり信じないに限るんですね、奥さん。

2016年3月3日木曜日

レヴェナントを観た

オレが感動の稲妻に打たれて動けなくなったシーン

あまりに素晴らしい映画だったので、ゴチャゴチャ言いたくありません。

ただ、「これを観た」という事を自分に刻み込みたくて、ブログに書くのです。

これはもう、本当に素晴らしいです。

天才的。



アカデミー賞の選考に偏りがあるとかなんとかいう文句をよく聞くけれど、今年はこの映画の監督に賞が行ったんだったら、その偏り方は私の偏り方と同じなので全然文句ありません。

こんな映画、どうして創れるの、と思うのは、人間のイマジネーションを遥かに超えていると感じたから。
単なる映像美という事ではなく、ここでこのシーンをなんで持って来られたの、という奇跡だ。

でも実際に映画が出来たんだから、本当は人間はこんなにすごい領域にアクセスできちゃうという事なので、それはもう、本当にすごい。


アカデミー賞を気を付けて観ていなかったのでよくわかってはいないのだが、ディカプリオもそりゃあ貢献してたけど、敵役の役者さんの演技がまたすごい、というか、この人だから名画になったんじゃ、というくらいの深みだったので、なんか賞をあげればいいのにと思う。


悪役の彼のヒルビリー訛の英語が、非常に色んな事を感じさせる。

悪い事をいっぱいやっているんだけど、彼のヒルビリー訛が、心に深く、彼という人間の人としての限界を、ひりひり感じさせるんだよね。
こんな気持ちにさせられる悪役というのは初めてだなー。


私はある意味、ディカプリオの演じた主人公ヒュー・グラスは、とても豊かで美しい人生の領域を生きている人だと思う。

でもあの敵役フィッツジェラルドには、そういう豊かな世界の扉が開いていないんだよね。


フィッツジェラルドが実人生でそばにいたらイヤだけど、俯瞰の目線で見ると、だってフィッツジェラルドは、世界の美しさを味方につける深みを持てなかったんだから、と思ってなんだか悲しくなってしまう。


いやもちろん、最低野郎なんだけどさ。
でも彼にとっては、必然なんだよね。。
何をやってるのかわからないんだよね。。。
それが彼の限界なんだよ。。


圧倒的な映像美は、全てがヒュー・グラスに開かれているドアだ。

同じ世界に生きていながら、人によって、見える物や感じる物や、そして世界からの手の差し伸べられ方が違うという現実は、世の中によくある事だと思う。


この映画はそういう意図で創られては全然いないんだろうけど、期せずして素晴らしく奥深かった悪役の俳優さんのせいで、なんだか私にはこれが、モーツァルトとサリエリの対決みたいに見えちゃって。


鮮やかな天才ヒュー・グラスと、人としての限界の中で盲目状態のフィッツジェラルド。

右脳と左脳。

流動と停止。

直感と画策。


色んな映画を観て来たけれど、こんなに映画で感動したのは、10年振りくらいかもしれません。

今日は映画に行く前に、湖のほとりの道を2時間半くらいハイクしたのだけれど、樹々、河、滝、鳥の声と、なにもかもが映画とシンクロしていて、今日という一日が、映画の中のヒュー・グラスの生きる、なんとなく奇跡的な気配のする世界の中に、自分もずうっと包まれている感じがしました。



これは私のもうひとつの大好きな映画(ブラザーサン・シスタームーン)の主要な一場面

2016年3月1日火曜日

モヤモヤしています

今、猛烈にモヤモヤしている。

でも原因がわからない。

さっき顔見知りのWさんに会った。

このWさんが、なんとなくいつも、モヤモヤした人物だと私は感じるのである。


実のところ、彼にそういう評価を下す人は、あまりいないだろう。

Wさんは行動派だ。

やりたい事をどんどん実現してゆく。

たったひとりで音楽オーガニゼーションを立ち上げて、やりたい企画をどんどん実現している。

ラジオ番組を持っていて、流暢な語り口で自分の好きな音楽をかけ、子供達を音楽に巻き込む為に色んなコンサートを実現している。

インディーズの音楽家たちを世界中から発掘して、自分の企画するコンサートに出演させてそれを自分の番組で取り上げたりしているから、きっと色んなミュージシャンから感謝もされているだろう。

コロラドでも有名なレッド・ロック・シアターで、今年も何かやるらしい。

そんな志や行動力は素晴らしいし、基本的にいい人間でもあるのはわかる。

思いやりもあって、親切な紳士だ。


でも実は。


私との相性は、絶対に悪いと思うのである。

相性というのは、性格の事では無い。
(Wさんの性格はまだよく知らないからわからないし)

なんか全体的に、住む世界っていうかさ、そういうのが、全く違うと思うんだよね。

「住む世界が違う」なんて言うと、どっちかが上流階級でどっちかがアンタッチャブルなのかよ、なんて極端な解釈をされると困るので言っておくけれど、そういう上下とかを言ってるんじゃない。

属性が違うっていうの?
そう、属性が、違うんだよね。完全に。
私は森の生物で、Wさんは浜辺の生物だから、一生会う事は無い、そういう間柄だと思うの。

私は今回、アメリカで沢山そういう体験をした。
今まで良しとしてきた関係性に間違いが見つかり、深まってゆく人たちと離れてゆく人たちが、はっきりくっきり、見えて来たのである。

好き嫌いとか、そういう事での区別ではない。
ああ、この人は遠いんだな、単にそんな風に、体感でわかるっていう、生物学的本能的な反応だ。

そしてそれはとても真摯な感覚だと私は思う。

失礼だとも冷たいとも思わない。

私は誠実に、ただそう感じるのだ。

私は本当に、真摯に人に関わっていると思う。


だけどWさんはさ。

いきなりアポを取って来て、割と強引に押し掛けて来て、勝手にツーショット撮って、勝手にその写真をSNSに投稿したんだよね、さっき。

で、投稿しながら、こう言ったの。
「Dが見るといいんだけど。」


Dというのは、私が親しくさせていただいている、ある有名シンガーだ。

Wさんは実は、今年行うレッド・ロック・シアターでのコンサートに、Dを呼びたいのである。
だから私に何度も連絡が来るのはわかるし、それがモヤモヤする理由ではない。

Wさんのコンサートへの情熱や意図は中々素晴らしい物で、アメリカでやっていた私のバンドの事も知っているから、私にも出て欲しいと言ってくれているし、そのイベントにDを呼んで欲しくて私に橋渡しを頼むのなんて、全然自然な事だ。

だからそれはいいんです。

いくらでも、橋渡しをしたいし、協力するとも言いました。

だから、Wさんが私と知り合いだという事を強調する為に私とのツーショットを撮り、それをDが見てくれたら話も早いのにと思っても全然構わない。

わざわざ、これ載せていい?とか聞かなくても、この場合は別にいい。

私のモヤモヤは、そこじゃないんですよ奥さん。


Wさんは私に今日、こう言ったのです。

「Dに出演を頼んだのだけど、なんていうか、アマチュア・バンドと共演なんか出来ないよ的な感じで断られてしまって。」

それを、非常に、非難めいた口調で、私に言ったんだよね。

Wさんは、プロやアマチュアという境界の無いコンサート世界を創りたいと思っている人物だ。

音楽を、子供、その親、プロ、アマチュアが、みんなで一緒に同じ現場で楽しめたらな、と思っている人物だ。

その為にレッド・ロック・シアターをおさえたのだ。

素敵な発想だし、確かに耳障りもいいよ。


だけどさ、「アマチュア・バンドとなんか共演出来ないよ」、と言ったプロのミュージシャンの言葉を非難するのは、ちょっと違うんじゃないのかい?


まずはっきり言って、Dはそういう事を言う様なタイプのミュージシャンではない。

生粋の芸術家肌だから、見た目や歌の雰囲気よりは、直接話すとやや気難しい印象があるかもしれないけれど、いつも人を、すごく純粋な気持ちで見ている人だ。

以前私に、感動の面持ちでこんな話をしてくれた事がある。

Dの娘がまだ小さかった時に、学校で仲良くなった親友シンディーちゃんの話ばかりするので、学校に娘を迎えに行った時に、「どの子がシンディーちゃんなの?」と聞いたそうだ。

そしたらDの娘は、「あの、ピンクのカーディガンの子。」と言って、みんなでブランコに群がっていた、ひとりの女の子を指差した。
そしたらその子は、黒人だったのだそうだ。

Dは、自分の娘が、「あの肌の黒い子」と言わずに「ピンクのカーディガンの子」と言った事で、子供には、肌の色の違いなんて、まるで目に入っていないんだ、という事に、衝撃的な感銘を受けたのである。

Dは私よりかなり年上だ。
Dの娘が小さい時代なんて、今よりもっと人種差別が激しかっただろう。
そんな中、Dは自分の娘の視点に深い感銘を受けて、その事をずうっと、何十年も心に生かし続けているのだ。

そんなDが、単なる蔑みの心で、アマチュアなんかと、なんて言ったとは、とても思えない。

そして例え言ったとしてもだね。

それは当たり前なんだよ!!!

プロとアマチュアの違いっていうのはなによりも、人目や厳しい精査の目に耐えて、それでも好きな事を貫いているのか、あるいはそういう事を全部避けて、傷つかずに済む、気楽な位置でそれをやっているのか、という所にある、と私は思う。

私は、どっちが偉くてどっちがダメで、とか言うつもりは全く無い。

だけど、自分の最も大切な創作物を、例えば心無い評論家に公の場で何度もこきおろされて、それでもそれを貫いている人々というのは、そこを通過していない人たちと、全く属性が違うっていうことを、知っていなければならないと、私は思うのだ。


Wさんが崇高な気持ちで、プロとアマの垣根を越えてさ、なんて言うならば、同じ様に音楽をやっているWさんこそがまず、プロの通過してきた道を尊ぶ気持ちを、持っていなきゃダメだと思う。

断られた事で卑屈になってDの事を悪く表現するなんて、もっての他だ。

そしてちなみに私は、何度かWさんに、おかしいな、Dはそういう事を易々と言う様な人じゃないんだけど、とさっきの会話の中で言ってみた。

するとWさんは、いや、必ずしも言葉でそう言ったわけじゃないんだよ、ニュアンスでさ、そんな感じだったんだ、と言ったのだ。

ニュアンス。

つまり、Dは断っただけでなんにも言ってないのに、Wさんがそう捉えたって事なわけ。


この、ヒガミ男がーーーーーーーーっっっ!!!!!!!!!!!!!💢💢💢




あ、これだったんだ、私が怒っていたのは。


そういう経緯があっての、勝手にSNSに写真投稿だったから、私はモヤモヤしていたんだな。

というわけで、残念ながらWさんが投稿した写真は私のTLからは削除、Dの目には触れないようにさせていただきました。

私はDみたいな強くて純粋な人を、ヒガミ根性で影で悪口言う様な人間に関わらせる片棒を担ぐのは、まっぴらゴメンってわけだからよ。
ここは勘弁してくんな。

Wさんにもそう伝えなくちゃあ。

というわけで、モヤモヤの原因がはっきりしたのでこのへんで。


2016年2月19日金曜日

イディアル・セルフ・イメージ

ドナルド・トランプ

ドナルド・トランプへの投票数が共和党のトップになったというニュースを聞いて、まあ、どうせ最終的にこの人が大統領になることは無いだろうと楽観的な見地を保ちつつも、万が一大統領になった場合、彼はその仕事をきちんとやれるのかなと思って、今やっかいになっている家主の意見を聞いてみた。


家主は、アメリカの議会のデザイン上、ひとりの政治家が暴走出来ない様になっているから、トランプが当選したところで世界が破壊されるような事は無いだろう、とだけ言った。

では、トランプが意外にも、いい大統領になる可能性は?と更に質問し、ここから結構話が盛り上がったのです。

既に専門家が指摘している様に、ドナルド・トランプは典型的な、自己愛性人格障害の傾向を持っています。
自己愛性人格障害というものには双極性があり、表的出方をするとトランプの様に肥大した自己像を持ち、声高に「オレはヒーローだ。」って感じになりますが、ヒーローだ、ってのは明らかに誤った自己像なわけです。で、裏的出方をすると物静かで自信無げでありつつも、でもやっぱり誤った理想の自己像を抱えていて、その役割を演じていたりするのです。

つまりこの両者とも、自分をとてもいい人物だと勘違いしたまま生きているというわけですが、勘違いなので明確な自意識は無く、もうすっかり自分を正義の味方で優しくて弱者の味方でいい趣味でとにかくとてもいい人だと思い込んでいるわけです。

ドナルド・トランプの髪型がヘンなのは、その勘違いの産物では無いかと思います。お金持ちなので、いくらでも素敵なウィッグを作れそうな物ですが、彼は薄くなってない領域の髪の毛をうんと長くしてその髪の毛で薄い部分をカバーしている為、とっても奇妙なヘアスタイルになっているわけですが、こういう外見が人から見て奇妙だと客観視する感性が不足しているんだなと、私は思うのです。


ところで、自己愛自体が悪いわけでは無いのに、何故に自己愛性人格障害、と人格障害、という名がついているかと言えば、実はこの人たちには本当の自己愛が無いからなのです。つまり、極度の自己不信を錯覚で補っているだけで、実は本当の自分に強い嫌悪感を持っていたりします。ですので、本当の自分の上に、どこからか盗んで来た理想のイメージの皮を被っていて、それを自分だと勘違いして生きているわけなのです。

本当の自分とはかけ離れた理想の自己像を、自分だと思い込んで演じている訳ですが、やはり本能的な部分ではこれが「自分にも他者にもついている嘘だ」、という認識があるらしく、それ故にこの自己像を外部から脅かされると、こっちがびっくりするような狼狽あるいは意外な攻撃性や、自己像を守る為の必死の取り繕いを見せたりします。

つまり自己愛性人格障害の人にとって、自分の抱えている自己像とは違う印象を他者が持っている事が、死ぬ程嫌、な場合があるわけです。


私はここに、唯一の望みがあるんではないかと、家主に言ったのです。


はっきり言って、トランプが持っている理想の自己像が嘘なのかどうかなんて、こっちには関係ありません。
大切なのは、彼が自分にも他者にもついている「嘘」を、行動で全う出来るかどうかです。

もし彼が、「ヒーロー」という自己像に固執するなら、その行動が「ヒーローらしくない」と指摘されたら、一生懸命「ヒーロー」らしくするんじゃないかしら。
でも、彼の内面には全く真のヒーロー部分が無いわけです。

ここで出番なのが、自己愛性人格障害の人の特性、「真似」です。

もし彼が、必死に自己像を守ろうとして、スーパーマンやキャプテン・アメリカを真似たらどうでしょう。
そこには立派な、本当っぽいヒーローが、誕生するんではないでしょうか。

と、私は期待を持ったのです。


だけど。

もしもドナルドが本当に自己愛性人格障害だった場合、ありがちなのが、自分をヒーローと認めない周囲、つまり自分の自己像を偽りだと見破った人たちの事を「敵」と見なし、いきなり攻撃的な行動を仕掛けて来る可能性があります。

そして大抵こういう人の張りボテ感を見破れるのは、健全な心を持った、良識や教養のある人たちです。

教養というのは教育の程度ではありません。人質、という意味での教養です。
つまり今後こういう有識者達が彼の標的になってしまう可能性も、今後あるんじゃないかという気がします。

あと、ヒーローとして自分以外の人がもてはやされるのもイヤだから、真のヒーローがアメリカ政界に誕生したら、潰しにかかるかもしれません。
加えて自己愛性人格障害の人は、真似っこにも関わらず自分をオリジナルだと思いたいし思わせたいので、キャプテン・アメリカやスーパーマンの存在をも、無かった事にしようとするかもしれません。

ドナルドの今の標的はテロですが、もしも自国の中で彼の自己像を脅かす様な存在や見解が出て来た時に、簡単に標的が変る可能性は大なのです。

なんたって、自己愛性人格障害者にとって一番大切なのは、偽りの自己像を他者も認めてくれる事であり、他の事なんて実は殆どどうでもいいからです。

だからやはり、この人が大統領になっちゃダメなのかもしれません。


それにしても悲しいのは、彼の様な人が大統領の座につく可能性があるという現実です。

ドナルド・トランプなんて、自己愛性人格障害としてはまだマシな方です。
何故なら、あからさまにその奇妙さが、表に出ているから。
だから多くの人たちは彼のニセモノ臭さを見抜いていて、からかったりパロディに使ったりしています。

それでもなおかつ、彼に投票する人がいるという現実。
彼を見破らない、そういう人たちが、見破っている人と同じくらい、いるという事です。


彼の被っているヒーローの皮を、敢えてはぎ取らずに、何かを信じようとしている人たち。

家主は、彼に投票する多くの人たちは、恐怖感に動かされていると言っていました。

つまり、ニセモノでもなんでもいい、矢面に立って自分を守り代弁してくれる人物でさえあれば。
テロリストだろうが善良な市民であろうがムスリム全部をアメリカから追い出して、国連や良識者から非難という泥をひとりで被り、自分の抱えている他者へのやみくもな恐怖を自分の替わりに正当化してくれる人物なら、品性下劣なろくでなしでも全然オッケー、というわけです。


実のところ、世間一般で自己愛性人格障害の人が見破られず、むしろ好かれたりしている傾向には、こういう現実があるのかもしれないと思いました。

その人のニセモノ臭さを実はどこかで見破ってはいるのだけど、いい人というレッテルを欲しがる限りその人物は他者を傷つけたりはしないし、むしろ利益をもたらしてくれる、ーつまりナルシシズムの人は評判を気にするあまり役に立とうとする傾向も多いのでーという損得勘定で、その人を好ましいと解釈しているケースです。


もしそういう事があるんだとしたら、やはり悲しいなあと思います。

悪い行いがはびこるのを助けるのは、善人の無言さだという誰かの名言がありました。

許容する事、寛大である事、誰かの奇妙さに気付かないふりをする事が、必ずしも良い行いとは言い切れないという事が、私はあると思うのです。

2016年1月26日火曜日

シャークネードという映画

私が最もすごいと思った名場面



この映画の噂は度々聞いて知っていた。
でも観る事は無いと思っていた絶対に。


でも観てしまった。
しかも1と2を。







先日世話になったコロラドの友人宅で、友達が今アメリカで流行っているファイヤーボールという酒のボトルとショットグラスを2個抱えて私を大画面テレビの前のソファに招き、必見の映画だと言ってシャークネードの紹介を始めた。

そして、まあ観るからにはまずこれを飲みませんとと、ファイヤーボールを私に注いでくれたわけです。

ファイヤーボールというのは、シナモンの入ったウイスキーで、なんだか今コレがアメリカで大流行りだと言うのです。



シナモンが大好きなので、♬おー♬と思って飲んでみたらすっごく甘くて、甘い酒を飲むと悪酔いする私は一気に警戒モードに。
なんでも入っているのはシナモン、唐辛子、蜂蜜なのだそう。ちなみに33度。

まあ、ワンショット飲んだくらいでは酔いもしませんでしたがね、わっはっはっは。




で、この話題のややゲテモノ的酒を飲まねば我慢出来ないような映画だという事で、いよいよシャークネードの上映を始めた友人。なんでそんな物を私に見せるの。


シャークネードというのは、シャーク(鮫)とトルネード(竜巻)をくっつけた造語です。

シャークとトルネード。
怖い物がふたつくっついちゃってて恐怖のどん底です。

つまりこの映画は、海上で巻き起こった大竜巻が、海で気持ちよく泳いでいた鮫たちを大量に巻き上げ、そのままサンフランシスコやニューヨークに上陸し、街中に大量に鮫を撒き散らして人々を恐怖のどん底に突き落とすという、パニック映画なのです。

パニック映画。

さて、ここで大きな疑問が、心の中でトルネードの様に巻き起こります。

陸地に鮫が降って来た時、果たしてそれは怖いのか。


皆様ご存知のように、鮫は海の中でなければ生きられません。
海の中にいたって、遊泳性の鮫なら動いていなければ死んでしまうのです。
そのような鮫を、陸にいる私たちが、どうやって怖がればいいのでしょう。

この疑問は、シャークネード1と続編2を観ても、解明されることはありません。
何故なら映画の中の登場人物たちも、なんとかして怖がろう、というノリで怖がっているからです。

空から落ちて来た鮫が路上でうねうねうごめく前で足を滑らせて転んでみて、腰が抜けたようになって逃げられなくなってみたり。

飛んで来た鮫をチェーンソーで切り裂こうとわざわざ向かって行って、うっかり噛み付かれて腕をもがれてみたり。

膝上くらいまで浸水した家の中に入り込んでしまった鮫に、コーナーに追い込まれて咬み殺されてみたり。

もう、それはそれは様々な工夫を凝らして、鮫に襲われる登場人物達。

襲われる側の積極的参加が無ければ、決して襲えない陸の鮫に向かって、どんどん無駄な攻撃をしかけに行ってはなんらかの傷を負ったり殺されてみたりと、その努力はまさに涙ぐましい程なのです。

そして、どう考えてもさほど深刻とは思えないこの事態を、世界の終わりかのように語り煽り戦う孤独のヒーロー(上の写真の人)。
空から鮫が降って来るなんていうマヌケな事態を、あそこまで深刻に捉えられる人物も、世界広しと言えどあの人しかいない事でしょう。

そんなわけですから、パニック映画とは言えもう笑いっ放し、突っ込み放題。

映画自体も、あからさまに有名映画のパロディを散りばめたりして楽しませてくれます。
個人的に受けたのは、道路に降って来た鮫の真ん前で腰を抜かしてしまった男が、はっきり言えばそのままにしておきゃあ鮫は自然に死ぬし、男もいずれ腰が治ってそこから立ち去れるのですが、わざわざ酸素ボンベを見つけて来たヒーローが鮫の口にそれを押し込み、銃で撃って爆発させるという、そうです、あの名作、ジョーズの名場面を、まんまパクっているシーン。
いやー、笑いました。

海で鮫と戦う正しい恐怖のジョーズと違い、シャークネードは、水も無い路上でマグロ状態になってジタバタしている鮫に、わざわざ人が喰ってかかるというどっちが加害者かわからない被害妄想恐怖です。
ぬいぐるみ相手にプロレスしてるようなもんなんですよ奥さん。

しかしこの映画、あーーーーーーまーーーーーーりーーーーのーーーーーバカバカしさに結構人気が出てしまい、無名の俳優ばかりの1と違って2では結構名前のある俳優さんを使っているし、予算がいっぱい出来たらしくてバカバカしさにも磨きがかかり、1では半信半疑だった「実は冗談なんですよ」という監督の意図が、2ではくっきりと浮かび上がっているので、結構ギャグ映画として面白く観る事が出来ました。

上の写真はその、続編2の大団円シーンです。
空から降って来た巨大鮫を、ただすっと身体をかわせば避けられる物を、わざわざチェーンソーで縦にまっぷたつに裂くという、鬼畜なヒーローの晴れ姿。

街の人々はそんなヒーローの足下に集い、すごい喝采を浴びせたりして、それはもう、やってらんない、って感じです。

でも。
なんだかんだ言っても、観てよかった。。。と思います。
結構楽しめたのはファイヤーボールのおかげかもしれないけれど。
どっかでただでやってたら、ちょっと観てみてもいいかもしれません。
心の底から脱力して、アホなのか、という言葉が自然に出て来ますよ。


そんなシャークネードは、現在3を製作中とのことです。

2016年1月2日土曜日

性善説のSF的仮説


先日、サラさんて性善説を信じているんですね、と言われた。

私はそういう事を考えた事も無かったので、その瞬間はややぽかんとした。

私には善悪という概念がそもそも無いので、性善説も性悪説も無いのである。

でも、私は確かに、性善説とも言えるかもしれないある事を信じてはいるなと考え直した。
その友人は、私との会話の中にその基準を感じ取ったのだと思う。

それは、人間という生き物の心の内部には、生命体としてのある種の良識と言えるのかもしれないバランス感覚があり、その感覚から逸脱した行為をしてしまった時に、深いレベルで自滅行為を行う存在だというものだ。


で、どういった事が生命体ヒトの良識なのか、というと、それは生まれた時に備わっている本質的な心の感覚だと言うのが、私の基準だ。

人間という物は、生育の過程で様々な、外部からの影響を刻まれる。
例えば昔の日本には、女の子には教育は必要無く、良い結婚をして良い家庭を築き夫の支えになれればいい、みたいな価値観があったが、言わばそういうモノサシ、つまりヒト生命体として普遍的とは思えないなんらかの文化的背景から来ている後天的な価値観によるモノサシの無い、生来の自然な状態のバランス感覚が、本質的な基準だと思うのだ。

まあ、この自然さ、という基準にも人によって様々な意見があると思うから、私は自分の基準が絶対的に普遍なんだと、意見を違える人を説得するつもりは毛頭無いが、私個人が何を信じているかと言えば、私個人には明確な本質的基準と感じられる物があり、それがやはり普遍だと信じているわけである。

で、ヒトはその心、というか魂のような物の持つ良識からはずれた行為を行う度に、深い無意識の領域で「ヤバい」と感じ、そういう自分を自滅させる方向に、脳がホルモンなどの質と量を調節すると思うのである。

この深いレベルにある良識は、いわゆるモラルや道徳や正義感に共通する所はあるかもしれないが、そうではない部分も多々あると思う。
例えば誰かの為に自己犠牲的な奉仕を行っていても、その動機に不純さがあれば、心はその不純さによる無意識的な緊張によって、健康によくない体内物質や、電磁的放射を発生させ、健康や人間関係や社会生活に、なんらかの不和を実現させるのではないかと思うのだ。

近年サイコパスという、良心の無い脳を持つ人格障害の事を耳にするが、私はそういうタイプのヒトにもこの無意識下のアラートは存在すると思っている、というか思いたい部分があるように思う。一般的なヒトより鈍いかも、とも思いつつ。。

つまり私は天罰というものは、常に自分が自分に下し続けているのが、ヒト生命体だと思っているわけである。
無意識の領域での指揮系統を通じて。
これは恐らく、性善説と言ってもいい感覚かもしれない。
ただ、ここで善とされている物が、必ずしも既存のモラルや良識とイコールではないかもしれない、という可能性があるので、平易に性善説とも言えないわけである。


ところで先日、アメリカのERでドクターをしている友人と長話をした。
彼女は、既に優秀な医師でありながら、私の学んだコロラドの学校で同じ先鋭セラピーを学び、それを病院で実践している経験の中から、興味深い葛藤を話してくれた。

ERに来たある患者が、中々改善しなかった。
あまりにも良くならないので、彼女は件のセラピーを使って、何らかの心理的抑圧が無いかどうかを、探ってみたそうだ。

するとその患者には、本人の記憶には明確に意識されていない、ある深い罪悪感があった。
それは会社で、同僚から打ち明けられた企画アイディアを自分流に改変し、同僚よりも先に企画会議に出してまんまとその企画を通して成功を勝ち得た、という行為による物だった。

この行為はしかし、アイディアを盗まれた同僚を含め他の誰からも非難はされなかった。
巧妙なアレンジだった為に同僚も責める決め手を感じられなかったそうで、積極的に形にした君の力さ、的寛大さで受け止めてくれたのだそうだ。

だからその患者は、その事に全く罪悪感は持っていなかった。
その患者の勤める会社ではよくある事でもあったから。

ところが、治らない疾患の根を探るセラピーを行った結果、その根にこの罪悪感がこびりついていたのよ、と友達は言った。

それで彼女は葛藤を感じた。

医師という物は、どんな極悪非道な犯罪者にも、平等に治療を行う誓いを立てているそうだ。
だからもしもこれが治療ならば、迷わず患者を治さねばならないだろう、と思ったそうだ。

けれどセラピーは、自分の、病院での役割の領分だとは言い切れない。
自分には、それについては自由意志がある、と彼女は感じたそうだ。
で、彼女は、人の企画を盗む様な人間は許せない、と感じた。
もしも罪悪感から疾患をそのままに、その患者自身がしておきたいなら、何もその根をセラピーして、解放してあげなくてもいいんじゃね?

その葛藤中に打ち明けられた話だったので、結局彼女がどうしたのかはまだわからないのだけれど、あくまでもSF的仮説として、もしもこの世界で今後深い領域の心理的な抑圧を解放出来る様なセラピーの効果がはっきりと認識されて一般的になった時、もしかしたらそれは遺伝子操作のように、神の選択の領域に踏み入る様な部分が出てくるんじゃないのだろうか。

もしもヒト生命体が私が思う様に、深い領域で自分の行為の善悪を判断し、自分に罰を下す様な行為を常に繰り返しているのだとしたら、その根本の心の領域にメスを入れる心理療法は、中々どうして、施す側に様々な葛藤を生むのではないのか。

医師の場合は、治療は誰に対しても行わなければならない、何故なら医師は裁く立場ではないからだ、という誓いに私は賛成だ。
どんな犯罪にもなんらかの背景があり、またそれを不快に感じる者にも、個人的な背景がある可能性がいつでもあるのだから、犯罪者の命の明暗を医師が左右してはならないのは当然の事。

だけど、もしも犯罪者が、自分自身の高潔な領域で自分を罰していたとしたら?

それを他者が左右する事は(もし左右できたらの仮定だが)、果たしてどうなのだろうか。

私は個人的には。
もしも私にそんな事が出来るのだとしたら、私は個人的には、迷わず主観で判断するだろう。

何故なら、もしも私自身が自分の深い良識のモノサシに合わない行為を行えば、今度は私自身が自分を罰してしまうと思うからだ。

だから私は、誰かの中に自分を罰する"高潔な天罰行為"を認めたら、そのまんまにしておこうと思う。
それが私の基準から見て、やり過ぎだ、と感じられない限りは。

そしてそのやり過ぎかどうかも私は、自分の感覚を基準に計ると思う。
私が自分自身を無意識下で罰しない為に。

一見利己的に見えるこういう自分の感性を基準にした選択が、実は最も普遍的にフェアなものなのだとも、私はなんとなく感じるのである。

人間という物は、個々が個別の個性を持つ神の様に、高潔な領域でのオリジナルの選択を、責任を伴う形で常にしているべきだと、私は思うのである。